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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅵ 7 12,20 再

2015-01-29 14:31:41 | Weblog
【聴講ゲスト 金沢明造氏スピーチ】

本日はご招待頂きありがとうございます。
私は金沢と申します。最後に3分くらい時間を頂き、お話しさせて頂きます。

皆さんは先生の先ほどからの講義で、学ぶとは如何いうこと、学問とは如何いうことなのか?そして、小学という学問があり、大学という学問があるのだということを学びながら、なぜそのような学問が必要なのかという事を学んできました。

小学においては尋常である事を学び、人間としての基本が習慣になるように身に付け、大学に於いては明々徳、自分は如何人であるのかを明らかにすることを問い学びます。
学問とは問うことを学ぶということで、そのようなことから己を明らかにすることでございます。

大変な学歴を過て、難しい試験に受かり、官僚や弁護士、裁判官が生まれます。しかし、「其の学歴と社会的地位が人格形成につながるのか」と言えば決してそうではありません。

法曹界を例にとってお話いたします。東京には三つの弁護士会があります。
東京弁護士会・東京第一弁護士会・東京第二弁護士会です。

私の馴染みの先生がたくさん居られるのが東京第二弁護士会なのですが、みなさん、この第二弁護士会に懲戒処分の対象となっている弁護士先生が何人居るとお思いでしょうか?

実は第二弁護士会だけで200人近くいます。

悪いことをして懲戒処分にかかる弁護士が結構多いのです。もちろん、圧倒的多数の先生方はそうではありません。

また、私が関わった集団訴訟の折、高等裁判所での審理の論戦が山場を向かえた頃、何故だか突如として、高裁の主席裁判官が居なくなり交代したことがありました。

何がなんだか解らず、理由を訊いてみると、裁判官交代の理由は、公証人に就任するために判事を辞職したと言うのです。

公証人の定員の枠は決まっているので、空席が出た時にすぐ就任しないと公証人に就職できないらしいのです。公証人の収入は裁判官より多いらしいのです。
当然、私たちはこの判事の行為に激怒しました。

このような人々は、何のために弁護士になるために勉強してきたのか?何のために判事たる地位にあるのか?と問わざるを得ません。

先ほどの先生の講義の中で紹介された先生の師といわれる佐藤慎一郎先生の言葉が紹介されました。
 佐藤慎一郎先生は、
  本当の学門というものは、書物以外の所により多くある ことを体験させられましたと語り、「吾、汝らほど書を読まず、然るが故に吾汝らほど愚かならず。」
 「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」
 いかに素晴らしい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。


私は、今日皆さんと一緒に講義を聴きながら、学ぶと言うことは如何いうことなのか?学問とは如何いうことなのか、と振り返りながら自問し、講義を聴かせていただきました。
みなさん、今日は本当にありがとうございました。

 
金沢さん、仕事は印刷屋さん ボランティアで困っている人を助けています





突然、仙人(村岡聡史氏)の質問アリ
「小学と大学を小学校、大学校と混同してしまうが・・」



【世代の調和と礼】

小学は元々持っている汚れない心、無垢な心を維持するために必要なことです 大学校は官制の学校制度 面白い話があって、あるお婆ちゃんが電車で席を譲ってくれた若者がいたと喜んでいたんです そこでお婆ちゃんに、ありがとう、とお礼を言いましたか?と聞いたら、言わなかった  お礼を言われたくって学生は席を空けたんではないが、ありがとうという礼の交感が大切なんだよって伝えました  悪気はないですが、年寄りが座って若者が立つ、綺麗なことですが若者が体が具合が悪いときもあるでしょう、あるいは照れくさい場合もあるでしょう お年を召しているからって当たり前ではないですょ こんどは、ありがとうと声をかけてくださいね ハイハイということでした  

若い子はお年寄りに何を求めているのか、単に小遣いをねだるだけではないですね  とくに若い者が好きで、何かを伝えようとする気持がたくさんあります 口の渇くのも忘れて真剣に語ってくれる方もおります 心はどうであれ席を立つ姿が儒教で、体が具合悪くてどうしても立てない、でも立ってやりたいが、これで仏教は許されるそうです  中には、元気なお婆ちゃんにどうぞと言って、私は年寄りじゃない、と叱られる場合もあります


ここでは、柔軟な応答、対応が必要となってきます 多面的に観察し柔らかく対応することが必要です つまり学生が社会にリンクする、参加する勉強ですね  もしかしたらお婆ちゃんは、明治のお母さんの話をうるさい小言として聴いていなかったのかもしれませんね 君たちの子供たちも同じような繰り返しかもしれませんよ

日本にはプラスマイナスを含んだ習慣があります これを難しいものとして切り捨てるか、それともトヨタのように人間の力で活かすか、折角ある習慣という美しい資産です 躾という身体と精神の動き、活用しない手はないとおもいますよ 


トヨタの合理と歴史の科学

トヨタは世界でもっとも合理的な会社ですよ その根本はナンですか 歴史が作り上げた智慧ですね それを人間がどのように活かすか、人のために役立てるか、喜びが見えるか その意味では先端技術と情報が溢れているようで、コアのない会社や、あるいは国家がありますが、総て一過性の現象です トヨタは源泉を守っているシンボルがあるようです それをみんなが守っています 政治も国家も産業も同じなんです システムや組織論は枝葉なんです コアを維持するのは君たちと同じ人間なんですね

どうかすばらしい人生を立派に卒業してください
皆さんの清純な頭に難しい、面倒なお話をしました、きょうは本当にありがとうございました またお会いしましょう


以下次号



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ペットボトルで毎年1兆円を捨ててきた日本人

2015-01-25 11:39:45 | Weblog



1998年05月04日(月)萬晩報主宰 伴 武澄




 日米の二国間協議の取材で、ワシントンのホテルに10日間、滞在したことがある。ダイニングルーム付きの大きなスイートルームを格安で借りた。冷蔵庫もあったのでさっそく近くのスーパーに買い出しに行った。

 モノは日本の半分の価格だった。一番驚いたのが、フレッシュなオレンジジュースの販売方法だった。生のオレンジの山からジューサーに果物が落ち込み、下 の蛇口から容器に搾りたてのジュースを受け止める仕組みになっていた。プラスチック容器は持参したものでもよかったし、店内でも販売していた。

 プラスチック容器は何回でも使うものなのだということをあらためて知らされた。頭をよぎったのは子どものころのお手伝いの思い出である。

 「そうだ。子どものころ、酒屋では醤油を買うのにビンを持っていき、大きな樽から量り売りをしていた」

 中年の人ならば、みんな思い出があるだろう。

 そういえば、味噌もみりんも量り売り。とうふもナベを持参して入れてもらった。たまごは店頭で稲わらに詰まっていて、包み紙は古新聞だった。そんな時代 に戻せ、と言おうとしているのではない。アメリカで体験した容器の再利用は日本では逆方向に進んでいるのではないかと考えた。

 一部かもしれないがアメリカでは、容器持ち込みでジュースが買えるのに、日本ではペットボトルを収集して、コストをかけてワイシャツに仕立て直している。その彼我の違いが気になった。

 帰国後、しばらくして取材を通じてキッコーマンの人と親しくなった。醤油の量り売りの話をした。

 「むかし、醤油は酒屋で量り売りをしていましたよね。あれは復活できないのですか」
 「そうなんです。うちとしても検討したことがありました。でもだめだったんです」
 「だめになった理由はなんなんですか」
 「食品衛生法というの知っていますか。厚生省の管轄のやつです。生産現場での直売では量り売りが許されているのですが、キッコーマンのように工場で生産する場合、流通を何段階も経て商品が消費者に渡るでしょう。生産や出荷段階で食品衛生法の検査をパスしないと売れない」

 つまり、出荷後してから消費者の手に渡るまでの間にばい菌が入らないようにパックが必要だと言うことらしかった。厚生省という"潔癖"な官庁がつくった法律が量り売りの障害になっているというのだ。

 ●日本人が年間捨てているペットボトル代は1兆円を超える
 日本人のだれもまだ気付いていないと思うことを萬晩報が教えましょう。ペットボトルの値段だ。空の1.5リットル瓶はふた付きでなんと65-75円もするのだ。工場への卸売価格である。あんなもの10円かそこらだと考えていた人が多いにではないかと思う。

 これはキリン・ビバレッジとサントリーの人に聞いたからうそではない。われわれは年間、何本のペットボトルを捨てているのだろうか。そう考えるとペット ボトルは環境問題ではなく、コストの問題になる。毎日1本ずつ捨てているとすると、年間で365×60円としても約2万円を捨てている勘定だ。世帯数 4000万として、なんと8000億円にもなる。70円で計算すればゆうに1兆円を超える。

 いま盛んに議論している景気対策の減税額は2兆円である。たかが水やジュースの入れ物に日本人はこれだけのコストを支払っていることを実感しているだろうか。スーパーの安売りに殺到する主婦が一方で、こんな商品を平気で買い物かごに放り込んでいるのだ。

 話を戻す。国が国民の衛生まですべてを管理しようとするから食品衛生法などという法律が生まれた。そう考えるのはたやすい。でも国民もマスコミもいった ん事故があると「国の監督責任」を問うてきた。いま規制緩和が大流行だが、国に「管理せよ」「監督せよ」と迫ってきたのもわれわれなのである。そもそも官 僚は管理監督が大好きな人種だ。その官僚に管理監督をお願いしていたのがわれわれだったのだとしたら、国民もあまり偉そうなことはいえない。


 いま一番大切なことは、自己責任でしょう。戦争や天変地異のような異常状態にあっては国の出番があるのだが、日常の生活ぐらい、誰に責任を押しつけることもなく自らの手でやって行きましょうや。

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いつから「中国」が国名となったのか?

2015-01-13 11:32:49 | Weblog
            孫文と側近山田純三郎



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伴 武澄 (2011年7月26日 19:56)

 古い話だが、一九六〇年代、筆者は南アフリカのプレトリアに住んでいた。すれ違いざまに「ヘイ・チャ イナ」と呼ばれ、やるせない思いになった。「ヘイ・チャイナ」はアジア人に対する蔑称である。日本人が「支那人」と蔑んだように、西洋人は日本人を「チャ イナ」と侮蔑していたのである。語源はよく分からないが、黒人のことは「キャファー」と蔑称していた。


 そのチャイナが二〇一〇年のGDPで日本を抜いて世界二位になった。もはや南アでもどこでもアジア人のことを「チャイナ」と蔑むことないだろう。

 問題は中国と同じ漢字を使用する日本だ。最近とみに「支那」を使う人が増えてきた。中国が嫌いな日本人たちが中国人が嫌がる「支那」という表現をあえて使うことで鬱憤を晴らしているような気さえ感じられる。
 古来、日本人は中国を王朝名で呼んできた。不思議なことに王朝名はあっても国名はなかった。代表的なのは 「唐」である。日本への文化的影響が一番大きかったからであろうが、江戸時代になっても「唐(から)」「唐人」という呼称が残っていた。明治になってから は西洋諸国にならって中国と正式に国交を結び、もっぱら「清国」となった。「中国」という国名はまだない。

 日本にはもう一つ「支那」という呼称もあった。いつから始まったかは分からない。空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられたとされるが、一般的だっ たとは思えない。たぶん明治になって王朝名とともにその国名を特定するために「支那」が多用されるようになったのだと思っている。

 日本に亡命した革命家や留学生たちも日本での著作にで「支那」と書いていることなどから、内外ともに「支那」という表現に差別の意識はなかったはずだ。

その「支那」が差別語になったのは、日清、日露戦争以降、日本と中国の国際的地位が逆転してからのことである。一九一一年の辛亥革命で清朝が倒れ、大きな 後ろ盾を失った。翌年、中華民国の成立を宣言したが、不幸なことに中国自身は分裂状態に陥った。日本としてもあの広大な大陸をなんと呼んでいいかとまどっ たに違いない。日本国政府は一九一三年六月の閣議で「条約や国書を除いて『支那』と呼称する」と決定したほどだった。

支那という表現が日本で定着する背景にはそんな事情もあった。中国全土が一つの政権下に治まるのは蔣介石による"統一"を待たなければならなかった。

 つまり「支那」という呼称が差別的だったのではなく、日本人の意識が差別的になったのである。そのころ日本人が「中国」と呼んでいたら、「中国」という表現も「ヘイ・チャイナ」と同様に差別語になっていたかもしれない。

 そんな問題意識が長いことあって、この一〇年、中国人に出会う度に「あなたたちは自分の国をいつから中国と呼ぶようになったのか」ということを聞いてきた。多くは「何をいまさら」というような表情をする。私はこう言って畳み掛けた。

「明治時代、日本は清国と呼んだ。清国大使館があり、多くの清国留学生が日本にやってきた。会社名にも日清という文字がよく使われ、今もいくつか残っている。明治の人たちは中国という表現すら知らなかったはずです」


 そう言うと「なるほど」という顔をするのだが、肝心の「いつから」という疑問に答えてくれた人はまだ現れてこない。中国人自身、「支那」を嫌がるわりに「中国」の出現についてはあまり関心がないらしい。
 さて「中国」である。一八四二年、阿片戦争後の南京条約で漢文の「中国」が使われた事例が最初であるとの説もあるが、一般的に使われたふしはない。筆者は、「中国」の使用は日本から多くの新語彙を導入したとされる梁啓超に始まるのではないかと勝手に想像している。

 梁啓超は康有為とともに清朝の変法運動を起こしたが、改革に失敗して日本に亡命した。その梁啓超が東亜同文会の機関誌「東亜時論」第一号(一八九八年一 二月)に寄せた「論支那政変後之関係」と題したエッセー(漢文)では自国を「支那」と呼んでいたのに、その第二号では「日中国十八省」など「中国」という 表現が使われている。第三号でも、第四号でも「中国」が登場する。

 しかし一九〇五年、東京で革命期成同盟を結成した孫文や黄興らは、その機関誌「民報」に中国のことを「支那」と書いたとされるぐらいだから、梁啓超の「中国」が多く人口に膾炙されていたとはいえなさそうだ。

 辛亥革命後に成立した中華民国以降は「民国」という略称が多用された。国民党には「中国」がついていなかったから、革命後に直ちに「中国」と呼ばれたのか不明である。

「中国」が公式に使われ始めたのは、孫文が一九一八年に再起を期して結成した「中国国民党」ではないかと想像している。初期の国民党とは違う組織であるこ とを意識して「中国」が頭につけられた。次は一九二一年の「中国共産党」である。日本では「日本共産党」が誕生したように、モスクワからの指令で各国に設 立されたそれぞれの共産党に「国名」が付記されたものである。


 この時期になると中国人で「支那」を使用する人はほとんどいなくなり、急速に「中国」という表現に置き換わっていく。新文化運動・白話文運動など知識人の中に起きた啓蒙運動を通じて民族としての「中国」が自覚されていったのではないかと考えざるを得ない。

 ちなみに日本政府が正式に「中華民国」の呼称を用いるようになったのは一九三〇年一〇月の閣議決定以降のこととなる。日本が関税協定の条文中に「支那」 を使用したことに対して同年五月、中華民国政府が「無礼ノ 字句ヲ使用」「国家ヲ辱シメ」などと批判したためである。それでも「支那」がなくなったわけではない。漢字という共通文化を持つがゆえの軋轢はまだ続いて いるのである。

(共同通信社 伴 武澄)
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或る日 憲法前文小案を撰す  12 6/12再

2015-01-04 11:34:30 | Weblog




 四方蒼海の鎮まりに在る我国の美風は、国家創立の礎として顕示されている古

代律令にある矩を範として、人間の尊厳を祈護する心を継承したものである。

 その意思は万物隣邦の共存と安寧を謳う皇道の祈念を国維として、国民におい

て等しくその目標のために勤めるべく、志操の涵養と互いに慈みあう姿を願う

ものである。

 それは人々の連帯と調和を司るために古人が宗とした我国の徳目である、勤勉、

正直、礼儀、忍耐を基礎とした人格による徳威の修練を求め、歴史の栄枯盛衰

に標された内省を鑑として、地球史に普遍な恒心の自得に他ならない

 この憲法は人間の尊厳と、それを扶ける綱目を表し、我国の清新な国民意思を

次代に継承祈念すべく公布するものであるとともに、諸外国との善隣厚誼にお

いて有効な日本国民の意思として掲げるものである


平成17年2月9日

                       日本国 処士 撰













からの伝承

撰文は頭を寄せ合い目的の字句を投入するだけではいけない。

また高位のある方が認証せられるのなら、その方の人格品位を以て読まれるものでなくてはならない。

また、一時の世俗の錬度に迎合していたのでは本質を失う

「文は経国の大義にして、不朽の盛事なり」と古人は成文の重要さを説いた。

とくに、国家の矩に関するものは、始条から末条を貫く民族の座標であるべきだ。

そして、何よりも肝要なことは大意を集束して簡潔に表わさなければならない。

それには時と衆を要することなく、瞬時に謹撰する万象の俯瞰力が要求される。




ブログ内参考関連稿

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/7d5c8934b60bfe2317fc3dcfbcd5d35b

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/9070f52b586587bfb2ed6023129020d3
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