まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

小学に観る 習慣学習と、その活学 随聴記     7 12,24再

2015-01-30 14:25:09 | Weblog





寶田教学随聴記
          ≪その志、嗣ぐものあらんことを≫

国策研究会元評議委員  村岡聡史




亜細亜大学における寶田時雄氏の特別講義の内容それ自体について、私が独言(論評)を展開することは極めて難しい。何となれば「屋上屋を架す」の恐れがあるからです。
それゆえ本稿では「何故に寶田時雄という日本人離れした大型の人物が形成され、皆さんの教壇の前に立つに至ったか?」という視点から寶田教学の本質と学問の方法論に就いて随聴記を編んでみました。

実相観入して神髄を極めるところ、寶田教学の本質と学問の方法論は、佐藤一斎(註�)の次の言葉に尽きる。
 「学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以って有字の書を読む。故に字に曲し、通透することを得ず。当に心を以って無字の書を読むべし。乃ち洞して自得するところ有いん」


【言志四録】

問題はそこに至った寶田氏自身の学問上、教育上の形成過程にある。要諦は寶田氏が二人の歴史的人物と青年期に邂逅し、その薫陶を享け、これを自家薬籠中のものとして自らの人間形成に活かして現在に至っているということである。
一人は安岡正篤氏であり、その同友たちである。深沈重厚、精義入神たる昭和の碩学であり、戦前戦後にわたって要路にある人々に多くの影響を与えた教育者である。
また終戦の詔勅に朱筆を入れたことは、知る人ぞ知るエピソードでもあり、その学識の深奥は計り知れないものがある。寶田氏の説く、無名有力の奨めと郷学の作興は、官制学にはない人間学として安岡氏から直接、訓導され、その後の活動に顕示されている。

もう一人は、佐藤慎一郎氏である。明朗闊達、正言躬行たる昭和の国士であり、「拓大最後の教官」と評されていた。佐藤氏は辛亥革命を指導した孫文に終始帯同した山田良政、純三郎兄弟の甥に当たる方である。

満州某重大事件で開幕した昭和動乱の渦中、二十数年にわたる大陸生活の中で、山田兄弟同様に日中提携によるアジアの安寧を願い、これに全霊を傾け、献身した人物である。遺憾ながら、風雲に大是を定むることができなかったが、その驚嘆に値する行動の軌跡は、明治が生んだ「日本の快男児」の一人として歴史に刻印されている。
この佐藤氏の精神とその行動学は、永年にわたって行動をともにした寶田氏に継承され、脈々として生き続けている。

斯様にして、寶田氏には二十代の青年期から両巨星【註�】と接し、人物的にも学問的にも多大な影響を受け乍、自己陶冶に努めてきた。つまり、寶田氏にとって両巨星が高等教育の場であったわけです。それは音声と触覚によって自身を供にした修学であった。

無論、寶田氏の学問や人物形成の背景の一つに膨大な読書【註�】による研鑽があっただろうことは想像に難くないが、根本的には両巨星との邂逅を契機にした素行自得にあったと思われる。

そのような来歴によるのか、寶田氏の教学や文章は難解であると感ずる人々が財界から言論界に至る各界に少なからず存在する。このたびの特別講義を通して、皆さんの中にもそう感じる人が居るかもしれない。
然らば、同情を禁じえません。実は私自身もそう感じている一人であるからです。

またそのように映ることは、氏の思考環境を支える座標にある、「無名有力」という浮俗の一般人からすれば頑なな自制心として映る名利に対する恬淡な行動があります。

それは公私を問わず、市井の観察や透徹した歴史観、あるいは異民族との間に横たわる現実の難問においても縦横無尽な応答を可能にしていることです。
それは官制学にない人と自然が活かしあうことによって生ずる直感力が、学術的な論から出される無機質な内容を有機的に転化させる柔軟な発想の基になっています。
氏は有名という現示的欲望は人間そのものを無力にさせると言います。
また「異なること」を恐れてはいけない、とも説いています。







台北小学校の朝礼  生徒が運営する




然しながら、「ものは考え様」です。頭の表層で直ぐ理解できるようなコンビニ知識や、インフォメーション(情報誌)の類は、すぐ役立たなくなる、すぐ飽きてくる、応用が利かない、普遍性に乏しいという致命的欠陥を内包している、これは真理であります。
例えば、電車の時刻表、受験の参考書はスグ役立つという点では大変便利だが、これらが百年後に役立つとはどうしても思えない。

翻って寶田市の説く「小学」(註�)と「大学」(註�)は、その起源を遡及すれば中国春秋時代に至り、朱熹の大成した「朱子学」(註�)も、その基礎に「大学」が鎮座しているわけであります。人間の本性が根本的に変革されない限り、おそらく此の学問は百年後の二十二世紀社会においても十分通用するであろうと予見できます。

此処まで読まれて、賢明な皆さんは既にお気づきのことと思います。
要するに、学問とは時代を超え、民族を超え、一般的、普遍的に通用する原理原則や、真理を追究する学為であって、学歴と称する官制学校歴とは似て非なるものである、ということです。
そして、教育にもっとも大切なことは、教育に関わる人自身が知りえた学問成果(原理原則、真理)を、現実に可能な範囲で率先垂範することであります。確かに、他者(生徒、聴衆)への訓導や説教は、必要不可欠な課題ではあるが、第二義的な意味しかも持ち得ない。

言うは易く、行なうは難し。率先垂範は困難な課題ではあるが、教育者足らんと欲するものは、これに努めなければならない。「大学」が人を説く所以は、教育が聖職であるという所以でも在る訳です。

次にごく簡単でありますが、特別講義に出席された皆さんの感想文と、ゲスト二人のスピーチに対する印象を徒然なるままに筆にします。
寶田教学に関する皆さんの感想文【註�】は総て精読いたしました。
素朴ではあるが、生き生きとした率直かつ真摯な意思と心情が私の心胆に津々として伝わり、久しぶりに感激を覚えました。そして、皆さんの感想文を読みながら、私自身も学ぶことが多く、「教えることは学ぶこと」(教学一如)というテーゼ(定立)を改めて実感した次第です。
皆さんありがとう、心より感謝申し上げます。

また、ミスター・サキール・カーンと金沢明造氏のスピーチ、謹聴いたしました。即興とはいえ、短時間でテーマ(学問と教育)に適したトピックスを自己の体験(日本体験と法曹界の堕落)と結びつけ語られ、見事に要諦をスピーチに纏め上げました。私には百年河清を以ってしてもできない技量であり、お二人の手腕には本当に感心しました。

最後に、私の願望を一言述べて結びに代えたいとおもいます。
私は、寶田時雄氏と亜細亜大学の皆さんとの「対話と交流」が、近い将来、再び訪れんことを期待しています。何となれば、私の予感では是が日本人および日本の教育の現状に対して一石を投じることになる、と考えるからです。
確かに寶田氏と皆さんのコミュニケーションは、深刻な問題を抱えた日本の教育という巨大な社会現象に比肩すれば、微小な一石に過ぎないものかもしれない。然しながら、我々は次の佐藤一斎の言葉に鼓舞されて、前進できるのではないでしょうか。
   『一灯を提げて暗夜を行く 暗夜を憂う勿れ 只、一灯を頼め』
                        【言志四録】

寶田氏と皆さんとのコミュニケーションが日本の教育における一灯たらん事を、延いては21世紀のアジア世界の万燈たらんことを希求します。
教える人、学ぶ人、その志、大学において嗣ぐものあらんことを。





1989 5 北京戒厳令時の小学校




【註�】
佐藤一斎 
江戸後期の儒学者 美濃岩村藩の家老の子
中山竹山に学び、朱子学を主としたが、後に陽明学に傾く。林家の塾長、昌平坂学問所教官。門下に渡辺崋山、佐久間象山など多数の人材を輩出。主著「言志四録」
        文献 井上正光全訳注 講談社学術文庫

【註�】
安岡正篤氏と佐藤慎一郎氏の人物や思想について、さらに精細を知りたい人は、寶田氏に問い合わせ願いたし。 ホームページ「郷学研修所」参照
文献 「運命を拓く」安岡正篤著 プレジデント社
   「佐藤慎一郎選集」佐藤慎一郎著 国際善隣協会
   ブログ「請孫文再来」寶田時雄著
   「荻窪酔譚」佐藤氏と寶田氏の師弟酔譚  郷学研修会編
   なお両氏は近しい交流関係がる。

【註�】
寶田氏の読書について想像を巡らしていたところ、南宋の黎靖徳が編纂した「朱子語録」の次の言葉を憶い出した。
『人が読書するのは、酒を飲むのに似ている。もしも、酒の好きな人であるなら、一杯飲み干せば、また一杯飲みたくなる。もしも嫌いであるなら、無理して一杯飲むと、もうそれでお終いだ』
多分、寶田氏は高級な美酒(古典の名著、現代の良書)を毎晩飲んでいるのでありましょう。老婆心ではありますが安い酒は身体や精神に悪い。

参考【朱子語類について】
1270年南宋の黎靖徳が朱熹とその門人との問答を部門別に集大成し、朱熹の思想、学問を体系化してた書。全140巻 鎌倉末期に日本に伝来した。
参照「朱子の自然学」 山田慶児著 岩波書店

【註�】小学について
12世紀末に成立。南宋の劉子澄が朱熹の指示で編纂。酒掃、応対、進退などの作法、嘉言、善行を古今の書から抜粋、収録し、中国小学(修身、道徳)の課目を示した書。内外二編 全六巻


【註�】大学について
春秋時代(紀元前五世紀)に成立。四書(大学、中庸、論語、孟子)の一つで、元々は五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)の一つの礼記の一編であったが、朱子学が重視されて以来、盛行した。最高の学問の理念について、三綱領(明徳、臣民、止至善)と八条目(格物、致知、誠意、誠心、修身、斉家、治国、平天下)を立てて説く。 後代、南宋の朱子学に多くの思想的影響を与えた。

【註�】「朱子学について」
南宋の朱熹が春秋以来の「大学」の人間哲学(修己治人)と、北宋以来の理気世界観とに基づいて大成した宇宙論から人間学に至る儒学の壮大な体系。
明代、清代を通じて体系強化のパラダイム(ある時代を特徴付ける思考や認識方法の基礎的枠組み)としての役割を果たし、李氏朝鮮や江戸時代の日本にも多くの影響を及ぼした。

参考
小学、大学および朱子学の歴史的沿革は、大雑把に言えば南宋時代に成立した「小学」の源流は、春秋時代に成立した「大学」の徳目の一つである修身に遡ることができる。また、南宋の朱熹によって大成した「朱子学」も、その骨格となった源流は「大学」である。但し、朱子学の宇宙論は北宋の世界理念と朱熹の創意工夫によるところが大であった。
大学には説かれていないことに要注意。要するに「小学」も「朱子学」も「大学」に遡るのである。「大学」が四書の一つに位置づけられている所以はそこにある。
朱熹と朱子学に関心のある方は次の基本文献を推薦する
  「人間の知的財産19 朱子」三浦国雄著 講談社

【註�】鳩首作業
学生たちの感想文の整理と検討があった。難解ではあったが真摯なコメントの中にも、抱腹絶倒する場面などに遭遇して疲れを癒す場面もあった。気がつくと終電間際、千葉から来訪した学友高野華門氏は慌てて出立、小生も学ばして頂いた次第。



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小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅵ 7 12,20 再

2015-01-29 14:31:41 | Weblog
【聴講ゲスト 金沢明造氏スピーチ】

本日はご招待頂きありがとうございます。
私は金沢と申します。最後に3分くらい時間を頂き、お話しさせて頂きます。

皆さんは先生の先ほどからの講義で、学ぶとは如何いうこと、学問とは如何いうことなのか?そして、小学という学問があり、大学という学問があるのだということを学びながら、なぜそのような学問が必要なのかという事を学んできました。

小学においては尋常である事を学び、人間としての基本が習慣になるように身に付け、大学に於いては明々徳、自分は如何人であるのかを明らかにすることを問い学びます。
学問とは問うことを学ぶということで、そのようなことから己を明らかにすることでございます。

大変な学歴を過て、難しい試験に受かり、官僚や弁護士、裁判官が生まれます。しかし、「其の学歴と社会的地位が人格形成につながるのか」と言えば決してそうではありません。

法曹界を例にとってお話いたします。東京には三つの弁護士会があります。
東京弁護士会・東京第一弁護士会・東京第二弁護士会です。

私の馴染みの先生がたくさん居られるのが東京第二弁護士会なのですが、みなさん、この第二弁護士会に懲戒処分の対象となっている弁護士先生が何人居るとお思いでしょうか?

実は第二弁護士会だけで200人近くいます。

悪いことをして懲戒処分にかかる弁護士が結構多いのです。もちろん、圧倒的多数の先生方はそうではありません。

また、私が関わった集団訴訟の折、高等裁判所での審理の論戦が山場を向かえた頃、何故だか突如として、高裁の主席裁判官が居なくなり交代したことがありました。

何がなんだか解らず、理由を訊いてみると、裁判官交代の理由は、公証人に就任するために判事を辞職したと言うのです。

公証人の定員の枠は決まっているので、空席が出た時にすぐ就任しないと公証人に就職できないらしいのです。公証人の収入は裁判官より多いらしいのです。
当然、私たちはこの判事の行為に激怒しました。

このような人々は、何のために弁護士になるために勉強してきたのか?何のために判事たる地位にあるのか?と問わざるを得ません。

先ほどの先生の講義の中で紹介された先生の師といわれる佐藤慎一郎先生の言葉が紹介されました。
 佐藤慎一郎先生は、
  本当の学門というものは、書物以外の所により多くある ことを体験させられましたと語り、「吾、汝らほど書を読まず、然るが故に吾汝らほど愚かならず。」
 「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」
 いかに素晴らしい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。


私は、今日皆さんと一緒に講義を聴きながら、学ぶと言うことは如何いうことなのか?学問とは如何いうことなのか、と振り返りながら自問し、講義を聴かせていただきました。
みなさん、今日は本当にありがとうございました。

 
金沢さん、仕事は印刷屋さん ボランティアで困っている人を助けています





突然、仙人(村岡聡史氏)の質問アリ
「小学と大学を小学校、大学校と混同してしまうが・・」



【世代の調和と礼】

小学は元々持っている汚れない心、無垢な心を維持するために必要なことです 大学校は官制の学校制度 面白い話があって、あるお婆ちゃんが電車で席を譲ってくれた若者がいたと喜んでいたんです そこでお婆ちゃんに、ありがとう、とお礼を言いましたか?と聞いたら、言わなかった  お礼を言われたくって学生は席を空けたんではないが、ありがとうという礼の交感が大切なんだよって伝えました  悪気はないですが、年寄りが座って若者が立つ、綺麗なことですが若者が体が具合が悪いときもあるでしょう、あるいは照れくさい場合もあるでしょう お年を召しているからって当たり前ではないですょ こんどは、ありがとうと声をかけてくださいね ハイハイということでした  

若い子はお年寄りに何を求めているのか、単に小遣いをねだるだけではないですね  とくに若い者が好きで、何かを伝えようとする気持がたくさんあります 口の渇くのも忘れて真剣に語ってくれる方もおります 心はどうであれ席を立つ姿が儒教で、体が具合悪くてどうしても立てない、でも立ってやりたいが、これで仏教は許されるそうです  中には、元気なお婆ちゃんにどうぞと言って、私は年寄りじゃない、と叱られる場合もあります


ここでは、柔軟な応答、対応が必要となってきます 多面的に観察し柔らかく対応することが必要です つまり学生が社会にリンクする、参加する勉強ですね  もしかしたらお婆ちゃんは、明治のお母さんの話をうるさい小言として聴いていなかったのかもしれませんね 君たちの子供たちも同じような繰り返しかもしれませんよ

日本にはプラスマイナスを含んだ習慣があります これを難しいものとして切り捨てるか、それともトヨタのように人間の力で活かすか、折角ある習慣という美しい資産です 躾という身体と精神の動き、活用しない手はないとおもいますよ 


トヨタの合理と歴史の科学

トヨタは世界でもっとも合理的な会社ですよ その根本はナンですか 歴史が作り上げた智慧ですね それを人間がどのように活かすか、人のために役立てるか、喜びが見えるか その意味では先端技術と情報が溢れているようで、コアのない会社や、あるいは国家がありますが、総て一過性の現象です トヨタは源泉を守っているシンボルがあるようです それをみんなが守っています 政治も国家も産業も同じなんです システムや組織論は枝葉なんです コアを維持するのは君たちと同じ人間なんですね

どうかすばらしい人生を立派に卒業してください
皆さんの清純な頭に難しい、面倒なお話をしました、きょうは本当にありがとうございました またお会いしましょう


以下次号



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小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅴ 7 12,20

2015-01-28 10:19:59 | Weblog
【鬼平犯科帳の頃】

歴史でいえば、このような時代がありました  じつは私は18歳からボランティアでBBSという少年のためのケースワークを行ってきました 問題になっている保護観察の子供たちです  そのとき過去にもこんな歴史がなかったかな、と考え江戸時代を調べました 鬼平犯科帳というテレビがありましたか゛あの頃です  考え方では平和な時代でしたが、政治も驕り、それにつれて人々の生活も乱れていました いわゆる贅沢な時代でした 今みたいに、「いいんじゃなぃ」、という時代でした  
若者が集えば持ち物のや流行の話題で、当時はグッチだとかシャネルとかないけど、かんざしは何処どこの店、刀のつばは誰々の作、江戸は滅ぶべきして滅んだ、その兆候があったのです  犯罪は犯さないが昼間から遊びまわり、仕事に就かない人が増え、風紀も乱れました いまの新宿、渋谷のようでした 

 もちろん政治家や役所の汚職も甚だしいものがありました  警察官はどうしたか、岡引ですよね 今でもあるようですが貰い下げ、願い下げ フトといって小遣い稼ぎが横行していました  ボランティアですが、私が担当した子供たちには人間の真理がそこにありました 当時は本当に不幸にして犯罪を犯してしまった子供たちがいました  いまは幸せでつまらない人が犯罪を犯します  

当時、武士は権力がありましたから 片っ端から徒人、生徒の徒に人と書きますが、この人たちを石川島、いまヤンキースに行った松井選手のマンションのそばですが、そこに集めて殖産事業といって仕事を教えました フリーターに技術を教えたんです  パラサイトではなく自分の職業を与えました  そのご小泉さんの構造改革ではありませんが贅沢取締りや役人の綱紀粛正がおこなわれました  当時は武士の絶対権力です ですが贅沢に浮かれていた中での改革は大変難しいものでした  


【亡国の後、その亡国の意味を知る】

人間は怠惰に流れ、一度味を知ってしまうと社会の統制は取れず、段々と徳川幕府の力は衰えたのは皆さんも知っていますね  これが国だったらローマ、ギリシャの衰亡です

ある学者が、七つの海を支配したあの大英帝国の衰退したときの人々の生活は、温泉、グルメ、旅行 ファッションに向かっていたといいます  社会や国の衰退は軍事脅威や経済力ではなく、その国の人々の心の問題、いわゆる驕りから来るということです
余談ですが、政治に命を懸けるという候補者のポスターは、みんな笑っていますね、大変な時代なのに、なにかおかしくなっていますね
 
インドのサキールさんは亜細亜のキャンパスに一歩踏み入れたとき感じました  私たちの国ではお金がなく学校にいけない人がいる みんな勉強したいと願っている
みんなは勉強したくて試験を受けて亜細亜大学にきたのだが、授業中寝ていたり、歩きながらタバコを吸っている女の人がいる  これが僕らの考えていた日本だったのかと感想を述べていました 

政治ですが民主と自由でみんな言いたいことを言い合います 社会の連帯がつくれません アメリカでも大統領選挙は共和党と民主党が僅差ですね 台湾もそうです、ウクライナもそうでした、日本も強い政権はつくれなくなっています 言いたいことより言うべきことが大切ですね  この教室でも30人がまとまることは難しいとおもいます でも皆さんが一人の責任者、リーダーを作ろうと思えばできますね  この教室にいる目的を話し合えばいいんです  そもそも私たちはこの教室に何でいるのか、考えればいいんです  ですから自分は全体の一部分ですよ、30分の1なんですよ、と考えて譲りあったり、助け合ったり、補い合えば、すばらしいグループができます

日本人は調和の中に生きていました だから飛びぬけることができなかった  でもグループが危機的状況になったら、あるいは学校の授業の目的がなくなったら発言し、行動すべきです  あの明治維新がなかったら植民地になっていたかもしれません
日露戦争に負けていたら私も青い目だ  問題意識を持ったらみんなで考えて行動することが大切です、それが若者の力です  私の父親の時代は、人と変わったことや、行動をしてはいけないと教えられたようです せっかくの自由です 30分の1の言うべきことを言ってください


【異なることを恐れない学問】

いまでもこのような話を皆さんは聴いてくれますが、小さな地域に戻ると、あいつは変っている、難しい、と異端扱いされますよ でも私はうれしい激励と聴いています
その変わりもんが、シンクタンクを考えています  アジアの意思という名称です
各界で活躍している変わり者が集まって日本とアジアの問題、世界の中のアジア、いろいろ視点がありますが、その一つに明治の頃の人々がアジアに残した業績、その中の一つに数百年間、西欧の植民地によって抑圧されたアジアの国々がどのように復興したのか  例えば中国の近代化のさきがけとなった辛亥革命の孫文や、その意志に賛同した多くの日本人青年の意思などは、これからのアジアに必要な普遍的な精神だとおもいます そのためにはその青年たちがどのような学問をしたのか、いろいろ役立つことがあります 

前回の授業はアジアの留学生でしたが、真剣な授業態度に感動しました  
そのときマレーシアの学生が感想を述べました キャンパスの通路を追いかけてきました あの「無財の力」の意味がよく分かりました  アジアには財がなくても微笑みや優しさがある 財がないからこそ残る心ですね

今日は多くの変わり者が聴講に来ています
一番後ろは通称 仙人です その前は金沢さん そして先ほどのサキール・カーンさんです それでは金沢さんに何かお話をしていただきます

以下次号
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ペットボトルで毎年1兆円を捨ててきた日本人

2015-01-25 11:39:45 | Weblog



1998年05月04日(月)萬晩報主宰 伴 武澄




 日米の二国間協議の取材で、ワシントンのホテルに10日間、滞在したことがある。ダイニングルーム付きの大きなスイートルームを格安で借りた。冷蔵庫もあったのでさっそく近くのスーパーに買い出しに行った。

 モノは日本の半分の価格だった。一番驚いたのが、フレッシュなオレンジジュースの販売方法だった。生のオレンジの山からジューサーに果物が落ち込み、下 の蛇口から容器に搾りたてのジュースを受け止める仕組みになっていた。プラスチック容器は持参したものでもよかったし、店内でも販売していた。

 プラスチック容器は何回でも使うものなのだということをあらためて知らされた。頭をよぎったのは子どものころのお手伝いの思い出である。

 「そうだ。子どものころ、酒屋では醤油を買うのにビンを持っていき、大きな樽から量り売りをしていた」

 中年の人ならば、みんな思い出があるだろう。

 そういえば、味噌もみりんも量り売り。とうふもナベを持参して入れてもらった。たまごは店頭で稲わらに詰まっていて、包み紙は古新聞だった。そんな時代 に戻せ、と言おうとしているのではない。アメリカで体験した容器の再利用は日本では逆方向に進んでいるのではないかと考えた。

 一部かもしれないがアメリカでは、容器持ち込みでジュースが買えるのに、日本ではペットボトルを収集して、コストをかけてワイシャツに仕立て直している。その彼我の違いが気になった。

 帰国後、しばらくして取材を通じてキッコーマンの人と親しくなった。醤油の量り売りの話をした。

 「むかし、醤油は酒屋で量り売りをしていましたよね。あれは復活できないのですか」
 「そうなんです。うちとしても検討したことがありました。でもだめだったんです」
 「だめになった理由はなんなんですか」
 「食品衛生法というの知っていますか。厚生省の管轄のやつです。生産現場での直売では量り売りが許されているのですが、キッコーマンのように工場で生産する場合、流通を何段階も経て商品が消費者に渡るでしょう。生産や出荷段階で食品衛生法の検査をパスしないと売れない」

 つまり、出荷後してから消費者の手に渡るまでの間にばい菌が入らないようにパックが必要だと言うことらしかった。厚生省という"潔癖"な官庁がつくった法律が量り売りの障害になっているというのだ。

 ●日本人が年間捨てているペットボトル代は1兆円を超える
 日本人のだれもまだ気付いていないと思うことを萬晩報が教えましょう。ペットボトルの値段だ。空の1.5リットル瓶はふた付きでなんと65-75円もするのだ。工場への卸売価格である。あんなもの10円かそこらだと考えていた人が多いにではないかと思う。

 これはキリン・ビバレッジとサントリーの人に聞いたからうそではない。われわれは年間、何本のペットボトルを捨てているのだろうか。そう考えるとペット ボトルは環境問題ではなく、コストの問題になる。毎日1本ずつ捨てているとすると、年間で365×60円としても約2万円を捨てている勘定だ。世帯数 4000万として、なんと8000億円にもなる。70円で計算すればゆうに1兆円を超える。

 いま盛んに議論している景気対策の減税額は2兆円である。たかが水やジュースの入れ物に日本人はこれだけのコストを支払っていることを実感しているだろうか。スーパーの安売りに殺到する主婦が一方で、こんな商品を平気で買い物かごに放り込んでいるのだ。

 話を戻す。国が国民の衛生まですべてを管理しようとするから食品衛生法などという法律が生まれた。そう考えるのはたやすい。でも国民もマスコミもいった ん事故があると「国の監督責任」を問うてきた。いま規制緩和が大流行だが、国に「管理せよ」「監督せよ」と迫ってきたのもわれわれなのである。そもそも官 僚は管理監督が大好きな人種だ。その官僚に管理監督をお願いしていたのがわれわれだったのだとしたら、国民もあまり偉そうなことはいえない。


 いま一番大切なことは、自己責任でしょう。戦争や天変地異のような異常状態にあっては国の出番があるのだが、日常の生活ぐらい、誰に責任を押しつけることもなく自らの手でやって行きましょうや。

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いつから「中国」が国名となったのか?

2015-01-13 11:32:49 | Weblog
            孫文と側近山田純三郎



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伴 武澄 (2011年7月26日 19:56)

 古い話だが、一九六〇年代、筆者は南アフリカのプレトリアに住んでいた。すれ違いざまに「ヘイ・チャ イナ」と呼ばれ、やるせない思いになった。「ヘイ・チャイナ」はアジア人に対する蔑称である。日本人が「支那人」と蔑んだように、西洋人は日本人を「チャ イナ」と侮蔑していたのである。語源はよく分からないが、黒人のことは「キャファー」と蔑称していた。


 そのチャイナが二〇一〇年のGDPで日本を抜いて世界二位になった。もはや南アでもどこでもアジア人のことを「チャイナ」と蔑むことないだろう。

 問題は中国と同じ漢字を使用する日本だ。最近とみに「支那」を使う人が増えてきた。中国が嫌いな日本人たちが中国人が嫌がる「支那」という表現をあえて使うことで鬱憤を晴らしているような気さえ感じられる。
 古来、日本人は中国を王朝名で呼んできた。不思議なことに王朝名はあっても国名はなかった。代表的なのは 「唐」である。日本への文化的影響が一番大きかったからであろうが、江戸時代になっても「唐(から)」「唐人」という呼称が残っていた。明治になってから は西洋諸国にならって中国と正式に国交を結び、もっぱら「清国」となった。「中国」という国名はまだない。

 日本にはもう一つ「支那」という呼称もあった。いつから始まったかは分からない。空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられたとされるが、一般的だっ たとは思えない。たぶん明治になって王朝名とともにその国名を特定するために「支那」が多用されるようになったのだと思っている。

 日本に亡命した革命家や留学生たちも日本での著作にで「支那」と書いていることなどから、内外ともに「支那」という表現に差別の意識はなかったはずだ。

その「支那」が差別語になったのは、日清、日露戦争以降、日本と中国の国際的地位が逆転してからのことである。一九一一年の辛亥革命で清朝が倒れ、大きな 後ろ盾を失った。翌年、中華民国の成立を宣言したが、不幸なことに中国自身は分裂状態に陥った。日本としてもあの広大な大陸をなんと呼んでいいかとまどっ たに違いない。日本国政府は一九一三年六月の閣議で「条約や国書を除いて『支那』と呼称する」と決定したほどだった。

支那という表現が日本で定着する背景にはそんな事情もあった。中国全土が一つの政権下に治まるのは蔣介石による"統一"を待たなければならなかった。

 つまり「支那」という呼称が差別的だったのではなく、日本人の意識が差別的になったのである。そのころ日本人が「中国」と呼んでいたら、「中国」という表現も「ヘイ・チャイナ」と同様に差別語になっていたかもしれない。

 そんな問題意識が長いことあって、この一〇年、中国人に出会う度に「あなたたちは自分の国をいつから中国と呼ぶようになったのか」ということを聞いてきた。多くは「何をいまさら」というような表情をする。私はこう言って畳み掛けた。

「明治時代、日本は清国と呼んだ。清国大使館があり、多くの清国留学生が日本にやってきた。会社名にも日清という文字がよく使われ、今もいくつか残っている。明治の人たちは中国という表現すら知らなかったはずです」


 そう言うと「なるほど」という顔をするのだが、肝心の「いつから」という疑問に答えてくれた人はまだ現れてこない。中国人自身、「支那」を嫌がるわりに「中国」の出現についてはあまり関心がないらしい。
 さて「中国」である。一八四二年、阿片戦争後の南京条約で漢文の「中国」が使われた事例が最初であるとの説もあるが、一般的に使われたふしはない。筆者は、「中国」の使用は日本から多くの新語彙を導入したとされる梁啓超に始まるのではないかと勝手に想像している。

 梁啓超は康有為とともに清朝の変法運動を起こしたが、改革に失敗して日本に亡命した。その梁啓超が東亜同文会の機関誌「東亜時論」第一号(一八九八年一 二月)に寄せた「論支那政変後之関係」と題したエッセー(漢文)では自国を「支那」と呼んでいたのに、その第二号では「日中国十八省」など「中国」という 表現が使われている。第三号でも、第四号でも「中国」が登場する。

 しかし一九〇五年、東京で革命期成同盟を結成した孫文や黄興らは、その機関誌「民報」に中国のことを「支那」と書いたとされるぐらいだから、梁啓超の「中国」が多く人口に膾炙されていたとはいえなさそうだ。

 辛亥革命後に成立した中華民国以降は「民国」という略称が多用された。国民党には「中国」がついていなかったから、革命後に直ちに「中国」と呼ばれたのか不明である。

「中国」が公式に使われ始めたのは、孫文が一九一八年に再起を期して結成した「中国国民党」ではないかと想像している。初期の国民党とは違う組織であるこ とを意識して「中国」が頭につけられた。次は一九二一年の「中国共産党」である。日本では「日本共産党」が誕生したように、モスクワからの指令で各国に設 立されたそれぞれの共産党に「国名」が付記されたものである。


 この時期になると中国人で「支那」を使用する人はほとんどいなくなり、急速に「中国」という表現に置き換わっていく。新文化運動・白話文運動など知識人の中に起きた啓蒙運動を通じて民族としての「中国」が自覚されていったのではないかと考えざるを得ない。

 ちなみに日本政府が正式に「中華民国」の呼称を用いるようになったのは一九三〇年一〇月の閣議決定以降のこととなる。日本が関税協定の条文中に「支那」 を使用したことに対して同年五月、中華民国政府が「無礼ノ 字句ヲ使用」「国家ヲ辱シメ」などと批判したためである。それでも「支那」がなくなったわけではない。漢字という共通文化を持つがゆえの軋轢はまだ続いて いるのである。

(共同通信社 伴 武澄)
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或る日 憲法前文小案を撰す  12 6/12再

2015-01-04 11:34:30 | Weblog




 四方蒼海の鎮まりに在る我国の美風は、国家創立の礎として顕示されている古

代律令にある矩を範として、人間の尊厳を祈護する心を継承したものである。

 その意思は万物隣邦の共存と安寧を謳う皇道の祈念を国維として、国民におい

て等しくその目標のために勤めるべく、志操の涵養と互いに慈みあう姿を願う

ものである。

 それは人々の連帯と調和を司るために古人が宗とした我国の徳目である、勤勉、

正直、礼儀、忍耐を基礎とした人格による徳威の修練を求め、歴史の栄枯盛衰

に標された内省を鑑として、地球史に普遍な恒心の自得に他ならない

 この憲法は人間の尊厳と、それを扶ける綱目を表し、我国の清新な国民意思を

次代に継承祈念すべく公布するものであるとともに、諸外国との善隣厚誼にお

いて有効な日本国民の意思として掲げるものである


平成17年2月9日

                       日本国 処士 撰













からの伝承

撰文は頭を寄せ合い目的の字句を投入するだけではいけない。

また高位のある方が認証せられるのなら、その方の人格品位を以て読まれるものでなくてはならない。

また、一時の世俗の錬度に迎合していたのでは本質を失う

「文は経国の大義にして、不朽の盛事なり」と古人は成文の重要さを説いた。

とくに、国家の矩に関するものは、始条から末条を貫く民族の座標であるべきだ。

そして、何よりも肝要なことは大意を集束して簡潔に表わさなければならない。

それには時と衆を要することなく、瞬時に謹撰する万象の俯瞰力が要求される。




ブログ内参考関連稿

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/7d5c8934b60bfe2317fc3dcfbcd5d35b

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/9070f52b586587bfb2ed6023129020d3
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