まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

日本型 官僚社会主義の呪縛  そのⅠ 2018・4

2022-06-27 01:31:39 | Weblog

 

                

 

 

日本型官僚社会主義の呪縛

 

犬も歩けば棒に当たるというが街中を歩けば懐かしい顔に出会う。そのたび数多の縁を想いだし、会釈されても顔すら忘れていて通り過ぎ、心中で詫びることもある。

ときには視線を察することもある。しかも首の可動範囲の左右斜め後ろまでの察知範囲だが、そのときは左右に振った視線の左端にその男はいた。

父親はノンキャリアの厚生官僚、それゆえ悲哀をかこっている母親は息子に東大を望んだ。だが数値選別に届かなかった息子は慶応に進んだ。それでも母親は忸怩な気分だった。母方は家族は国立大学卒の教員など地方ではキラ星の家系、母も高等女学校卒、ゆえに亭主のノンキャリ、息子の私大に対する母の心中は偏執そのものだった。

 

それゆえか、息子は都立高校在学中に学生運動の先頭を切っていた。当時の学生運動は権威らしきものに反発し教員を吊し上げしたり、他校のもめごとにも首を出す執拗さがあった。先頭といってもそそのかしのアジテーター、行動となると隠れたり逃げたりする汚れた気概が豊か?だった。

 

人間の成長期には自身の特徴の発見と伸ばすことと、応用(活学)することで己を明らかにする(明徳)学びだが、゛知った、覚えた゛の類の暗誦学も部分の特技だ。それが奇問のような試験などの数値評価で選別され、方向の選択肢によって職分を得るのだが、その人生の一過性のような選択の機会に、耳にタコのトラウマのように親のそそのかしがある。多くは「公務員に!」が浮俗の母親の促しだ。ときに厳命ともなる。

 

生涯賃金企図と担保、地位の安定保全、すべては庶民といわれる国民の支えにあるものだが、女性ならではの計算高い幸福感は、子息の幸福感として刷り込まれ、職分に厳然として存在するキャリア・ノンキャリといったスタートラインの確保に、まるで国家の別枠のような絶対世界として人生を賭けている。懸けるのではなく、゛賭けて゛いるといってもいい。

 

それが問題となり、弊害となるのは、聖徳太子の十七条をみても余程、慎重に抑制しなければ必然となることを示している。゛浜の真砂のように゛といわれるように世界中の政体を持つ国なるもの、あるいは国連などの数多の国際組織にも多くの弊害が積層され、増殖し、解決もままならない問題として、バチルスのように浸食している。

 

外務省の機密費を背任横領した松尾氏だが、かかわる罪人が広がることを恐れたキャリアは官邸の機密費がらみで影響があるとそそのかして、詐欺罪という本人のみの罪として立件しているが、捜査二課の捜査官は、これも忸怩たる気持ちで罪名を確定している。警察とて行政機構の一部、しかも海外公館には警察庁キャリアも赴任している。もちろん、その手のお手盛りや余禄も知りすぎるほど熟知している。これに掉さしたらタックスイーターの世界では生きてはいけない掟や習慣性(陋規)なのだ。

この種の内容について彼らからすればネガティブに表現することは同胞として記す方も寝覚めが悪い。それゆえ、なぜ分かりつつも是正できないのか、もし食い扶持目的ではなく、よく言われるように、若いころは公務意識も高く、問題意識が豊かだった彼らだが、またそれゆえのキャリアエリートとして待遇を与えているものが、数年経つと公務が「狡務」となり、学んだ智を用いて、大偽によって国民を欺くようになるのか、隣国の歴史にある官吏の心理と実態を写し絵として考えてみたい。

 

        

 

解説

《昇官発財》とは

 学問の目的は「財」にあり。

 学問するところ地位があり。

 地位あるところ権力と財を発す

 

 これほど明け透けに、しかも人の本能的にもみえる欲望を記したものはない。なぜなら知識の集積が勉強だと錯誤しているものにとっては可否を論ずるまでもなく、事実が臨場感を添え、かつ至極当然のごとく白日に語られる実態があるからだ。

 

権力には自ずと財が生じ、色(女)、食(奢)財(金)は思いのままになる。即ち、色、食、財という欲望のためなら男根(生殖器)までを切断して 官に昇る若者と、それを促す家族と容認する社会がある。

 

果たして我々が押し戴いていた古典及び、数多の碩学と冠される学者の金言は、多くはその引例を隣国に置くが、その賢人、哲人の説の発生基盤まで語るものは少ない。

なぜなら彼の国の知識人同様に、肉体的衝撃や地に伏すことの回避に有用な智学として、あるいは戦陣における説家の如く、三百代言的話術、高邁な術書によって禄を食むものが人間学的実学の発生を阻むのではないだろうか。

 

手段、方法は異なるが、学問の目的に曖昧な意志をもつ我が国学徒にとって、似たような現象が起きている。 知識、技術(学問?)を得て、有名校にて学歴をつけ、その目的は地位であり名誉であり財である。売文の輩、言論貴族が走狗に入り、政財官の狡猾な群れのマスコットとなって煽ぎたてる一過性の流行迎言もそれを助長させている。

 

          

 

少欲の競争によって生産があり発展もある。 

そこには「食」もあり、程よい「財」も有る。  両性扶助の調和による「色」ある。 また、それぞれの国に与えられた環境と、誇るべき伝統がある。 

 

“似て非なる”国の文化的恩恵に感謝しつつも、宦官、科挙、纏足を否定した 我が国が学問の目的とするものに“曖昧な意志”をもち続ける限り、“似て非なる”国との「同化」は避けられない。

 

 この貴稿は佐藤慎一郎先生との清談の後刻、それをもとに作成され、恵贈されたものである。それは四半世紀に亘って異民族との交流に導かれた証として、国内の机上学ではその理解の淵にさえ届くことのない人間の欲望を透徹した内容で満たされていた。

 人間の尊厳を侵す権力執行者への普遍なる問題意識は、我国を覆う暗雲の行く末を逆賭するようである。

 

        

         満州 新京にて

 

佐藤先生は常日頃、「本(もと)立って道生ず」と学問の前提を説く。また「人情は国法より重い」と、何気なくも普遍な循環基点を加える。かといって、人の織り成す歴史の事象に傍観することなく、「生きるもの、善悪無駄なものなし」と、その許容は茫洋なアジア観と登覧する威厳さえ見せる。しかし「枯木寒岩は寂しい、私は漏電して失敗したよ」と自(おのず)から賢愚を愉しむ風もある

指摘される因とその歴史は、禽獣と異なる人間の為すべき行為を教えてくれる

そして歴史から問われる、吾は何を成すべきだろうか・・と。

 

H5 5/4                       郷学研修会代表世話人    寶 田 時 雄

 

          

      

 

歴史に記されて中国官吏の実態「昇官発財

 

佐藤先生「本文」

1.沈徳元(西太后の籠担ぎをしたことのある宦官)は、何のために勉強させられたか

 

 彼は、撞州(直隷省天津府の州の一つ)県城の人。県城の自分の家の本家沈萬春の塾で、7才から11才まで、五年間勉強している。

 読まされた本は

三字経》(童農書、一巻、南宋の王応麟撰)、

例えば「養いて教えざるは父の過ちなり。教えて厳ならざるは、師の惰りなり」など。

百家姓

 

大学》(古聖賢が述作した儒教の書、四書、つまり大学、論語、孟子、中庸の一つ。

 

礼記》(“礼に関する理論と実際を記録した書”の一篇で、学問の根本義を示す)

 

中庸》(経書、四書の一、礼記から中庸篇を独立させたもの、孔子の孫子思の撰とも伝えられている。天人合一の真理、中庸を説く前半と、その具体的運用である誠を説く後半とに分れている)

 

詩経》(中国最古の詩集、経書の一、撰者不詳)

 

論語

 

        

          岡本義男(哲山)

 

?「塾の先生は、“学問の目的”をどのように教えたか」

“書中、自(おのず)から黄金あリ”と教えた

 

?「学問をするのは、徳を磨くためでは、なかったのか」

いや、徳を磨くためだ。“徳”は 得”なり。何か自分に得るものが無くては、それは本当の徳ではない、“書中自ら黄金あり”とは、本当であった。

でも、それほどではなかった。ただ、真心などというものは、実に幼稚なもので、利口な知慧には、かなわんという事が分った

 

?「でも、うまい知慧とか、・言葉巧みに人をだましたりするより、へたくそでも誠を守り通した方が、よかったんじやないか」

「じょうだんじやない。利巧にたちまわらなかったら、死んでしまっただろう」

 

?「では、折角読んだ本は、投にたたなかったんだね」

いや、本を読んだからこそ、その時々の巧い知慧も言葉もわいてきたのだ」と答えている。

 

彼の学問の目的は金銭にあり、一切の行動の目的は、金銭を目標にしたことから離れ

ていないことだけは、はっきりしている。

 

中国では、もともと

徳は本なり、財は末なり」(大学)

で、学ぶ者にとって、他の修得は根本の問題であり、お金は末節のことであるというのが、儒教思想であったはず。ところが、この沈徳元のばあいは、それとは全く反対のようである。

そんなことでは

鳥は食のために亡び、入は財のために死す」(中国の俗諺)

という俗諺と、それほど違いは、ないようである。

 

 

           

 

2.  学問の目的-食、色、財を得るため(真宗皇帝の勧学文)

 

中国では、学問の目的に就いては、古来いろいろな教えがあったようである。まず儒教の教えに聞いてみることにしよう。

 

儒教とは、修身高家治国平天下を招来するための学問であろう。

孔子(前552~前479年)は

 「汝は君子の儒となれ、小人の儒となることなかれ」(論劃、雍也)

 と教えている。

 “小人の儒となることなかれ”とは、大局を忘れて、自分一個人のことしか考えないような学者には、なるなと云うことであろう

 

君子とは、他の高い、天下を以て己れが任とする指導者のことであり、“君子の儒となれ“とは、そのような天下に忠をもった社会の指導者になるような学者になれ、ということであろう。要するに儒教における学問の目的は

 「修己安人一一己れを修め人を安んずる」(論語、憲間)

 ということであろう。朱子(1 1 3 0~1200年)は

 「修己治入一己れを修め人を治める」(大学章句序)

 と言っている

 とくに前漢の第七代武帝(前14 1~前87年)が、儒教を国教としてからは、儒教の重みは一段と増し、その影響力は大きくなっている。

 日本人は、現在の中国人を理解するばあい、どうしても、このような儒教思想を通して、理解しようとしているようである。

私自身の理解によれば、現在の絶対大多数の中国人の心の底を黙々として、しかも強烈に流れているものは、儒教思想ではなくして、むしろ極めて現実的な道教思想のようである。

 道教とは、中国古有の神仙思想を根本とし、黄帝、老子を祖とし、陰陽五行説を取り入れたりして、不老不死を求め、錬金術(仙薬としての金を錬る)ト笙(占い)、祈祷などまでも取り容れている多神教である。

 このように道教は、中国古有の民族思想に基きながらも、専ら功利的な現世的御利益を目標とした宗教であり、しかも今日の中国民族にも、はっきりと濃厚に生き続けている極めて現実的な宗教である

 

とくに、唐の第一代高祖(6.L8~626年)は、自分の姓は李”であり、道教の始祖老子の姓もまだ李”であることから、道教を格別信仰している。

 そのため、道教は道教の範囲を越えて、儒教の聖人や、仏教の菩薩までも、その管轄下において、国家宗教的な色彩を濃厚にもつようになっている。

 

           

 

北宋の第一代太祖(960~976年)は、

 「宰相とする者は、必らず読書入を用いるべきである」(宋史、太祖紀)

 と言ったため、その後は非常に儒者を重んずるようになったと記るされている。

 

ところが、北宋第三代の真宗皇帝(997~1o22年)は、非常に熱心な道教の信者であった。泰山に対称の儀(封は、天を祭ること。禅は山川を祭ること。これは天子自らが、国威を中外に誇示するために行う祭りである)を行ったり、玉清昭応宮を創建して、道祖神を祭ったりしている。

 

 このような道教の熱烈な信者、真宗皇帝に、学問を勧める文、「勧学文」がある。これには、学問の目的が、はっきりと示されている。

真宗皇帝の学問を勧める第一の教えは

 「家を富ますに良田を買うを用いず、書中自ら千鐘(一越は、六石四斗)の栗あり」である。 

 

家を富ますために、良い田を買って、一生懸命耕すようなことは、必要のないことだ。それよりも一心に本を読みさえすれば、高位高官となって、厖大な俸給を手にすることができる。そうすれば、莫大な量にのぼる粟、つまり食糧が、ひとりでに、どっさり入ってくるのだ、だから、学問に励めというのである

 

 

        

 

論語には、孔子の言葉として

 「君子は道を謀って食を謀らず。耕すやタイ(飢餓)その中に在り。学ぶや禄その中に在り」(衛霊公)とある。

 指導者たる者は、道の修得につとめ、人格を完成させた上で、それを、他人に及ぼしていこうとすることを、まず第一に考えるべきで、食べていくこと、生活のことなどは考えない

 田、畑を耕すと、自然災害などで、飢餓に襲われることがある。学問は生活のための手段ではないが、徳を完成しさえすれば、ひとりでに俸禄がついてくる。だから、食うことなぞ心配せんで、一心に学問をせよ、というのである。

真宗皇帝の勧学文では、学問は完全に生活のための手段となっているようである。

 

真宗皇帝の第二の教えは

’「妻を娶るに良媒なきを恨むこと莫れ。書中女あり、銀玉の如し」

 妻を娶るのに良い仲人がないなどと恨みがましいことを言う必要はない。真剣に本を読んでおりさえしたら、高位高官となり、金もたまる。そうすれば玉のような美しい銀をした女たちが、幾らでも押しかけてくる。だから学問に励めと教えている。ここでも自らの徳性を修得するためとは、一言も言っていない。

 

 「婚娶して財を論ずるは、夷虜(野蛮人)の道なり」(隋、文中子)

 結婚しようとする時には、たがいにその相手の徳性人柄を最大の問題とするのが本当だ。地位だとか、財産だとか、そんなものを問題として決めるのは、それは野蛮な種族たちのやることであると、文中子も、はっきりと言っていたはず。

 

 

       

 

 真宗皇帝の第三の教えは

  「安居高堂を架するを用いず、書中自ら黄金の屋あり」

 安らかな生活ができるようにと、大厦高楼を建てる必要はない。本気で学問に打ちこんでおりさえすれば、立身出世して、黄金の一杯つまった部屋が、ひとりでに生まれてくる。だからこそ学問に専心打ちこめと教えている。つまり、学問即黄金だよと教えているようである。

 

 私は中学時代

  『財に臨みては、いやしくも得んとすること勿れ』(礼、曲礼)

 お前らはお金を見ても、欲しいなどとは思うな。専心学問に打ちこめと学んだ。頭の悪い私ではあったが、この教えを、身体で覚えてしまった。私たちの先生は偉かった。先生自体、言葉で教えず、身体そのもので教えてくれた。だからこそ学生自身も、身体そのもので覚えたのだ。

 

経師は遇い易く、人師は遭い難し」(宋・司馬光撰・資治通鑑)

 というが全くその通りだ。経書を解釈してくれる先生は、いくらでもおる。しかし、身体そのもので教えてくれる、すばらしい先生は全く少ない。

 

・要するに真宗皇帝は、学問こそは人間の「食、色、財」の三つに直結していて、しかもそれを最高に解決しうる根本であると教えているようである。

 しかもその結果、万世にその芳名を留めるほどの大学者たちが続々と現われたのである。

 欧陽修(1007~1072年)、司馬光(1019~1086年)、朱喜(南宗等二代孝宗の侍講)(1 1 3 0~1200年)、程明道(1 1 3 2~1085年)、程伊川(1033~1 1 0 7年)、陸象山(1 1 3 9 ~ 1 1 9 2年)……いずれも北宋第三代真宗皇帝(997~1022年)直後から現われた大学者たちである

 こうした宋代の学者たちが学問にその生涯を賭けたことと、真宗皇帝の勧学文の教えとの、因果関係については、私は知らない。しかし何となく、なるほどと思われる節が全く無いわけでもない。

 

 

      

 

 

(2)宦官になる目的一金儲けのため(昇官発財)

 

質問は私、返答は、宦官沈徳元(1943年2月10日、於北京)

 

「宦官になる目的は、何ですか」

金です。金儲けができるからです

 

「その外の目的は、ありませんか」

「金以外に、何があるものですか」

 

「名誉欲とか、権勢欲……はないのですか」

それもみな、お金が欲しいからのことです

「相当の金があって、宦官を希望する者はありますか」

あるにはありますが、少ないです

 

「あなたの両親は、なぜあなたを宦官にしたのですか」

昇官発財、宮廷に昇って金を儲けるためです

 

 なるほど、宦官と、は、たしかに官吏の仲間である。「昇官」とは、官に昇る。官等が昇格することであり、「発財」とは財を発する、金を儲けることである。

 

「仁者は財を以て身を発し、不仁者は身を以て財を発す」(礼、大学)

 心のやさしい人は、金が有れば、それを施して、わが身の徳性を磨きあげ、心のきたない人は、道にはずれたことをして、わが身を亡くしてまでも、金儲けしようとするものだという

 

         

 

 

去勢した宦官

 宦官を志して、去勢手術をしたばあいには、まずその割取した陰茎、陰嚢は、油で揚げられる。これを「宝」(BAO)と称している。

次に柳の枝で編んだ一升マスに、半分ほど石灰を詰め、その上に、その油で揚げた宝を置く。そのうえで更にその「宝」の上に石灰を一升マス一杯に詰める。一升ますの入口の外側の木には、その宦官の姓名、年令、手術した年月などが記入される。

最後に、その外の入口を赤い布切れで包み、梁の上とか、できるだけ高い所に架けておく。(嫌ってしまって置く人もある由)

 

・その意味は、一升マスの「升(マス)」は、昇とか同じ発音、同じ意味の字である。できるだけ高い官に昇って、『できるだけ多くの金を儲けられるようにと云う願いをこめて、自分の「宝」を「升」の中に入れて、高い所に掛けておくのだ』と、披は説明していた。

 なおこの「宝」は、その宦官が死んだばあい、その棺桶の中の屍体の股間に必らず戻される。それは、彼が今後完全な入間として「再生」するために、絶対必要な処置であるという。さもなければ、来世には、馬なって生まれてくるとか、色々云われている。まさしく、本人にとっては、かけがいのない「宝」である。

 

またこのように貴重な「宝」については、それを質草とした話もある。またある男が質屋へ行って、自分の着物を抵当に金を借りようとしたが、思うような金を貸してくれなかった。憤慨した彼は、突然その場で自分の男根を切り取って、「三角」(三十銭)借せと叫んで倒れたという記録など、色々残されている。

 

要するに、男根を切り取ってまでも官吏となって金儲けしたいのだという。

 中国では、官吏の実態は、その最初のうちは、君主の利益を守るための道具にすぎなかった。しかも官吏を任命するにしても、代々同じ家柄の人々の世襲で・あった。

 ところが隋代(581~6 1 8年)になると、科挙試験(官吏登用試験)制度が定着し、官吏の地位、俸給は、世襲によらず、本人個人の能力によって決定されるようになった。

しかも、官吏の地位と俸給は密着しているため、官位が昇れば昇るほど俸給も高額となる。それで「昇官発財」は、官吏の魅力ある目標の一つとなったのである。

しかも、そのためにこそ、学問が非常に盛んになってきている。

 

 

       

 

 

(3)宮中、官界 官吏の実態一賄賂公行

 

1.清廉潔白な官吏もいる 

中国では、天子は必ず「南面して立つ」。つまり南向きに位置して、天下の政を聴くことになっている。南は陽であり、陽は人君の位置だからである。 そのため天子の政を代行する官庁は、必ず南面して門が開かれていた。

 

 清代の例に見ると、府県のお役所の長官の居る部屋のまん前の庭には、役人たちを訓戒するための言葉を彫った「戒石」と称する石碑が建てられていた。

 

 その石の南面には『公生明』(公は明を生ず

という三字が彫られている。これは「公は明を生じ、偏は闇を生ず」(闇とは、くらい、明らかでない、おろか)(荀子、不荀)という発子の言葉からとったものだろう。つまり、公正無私の心をもって、人に接すれば、明知が生じて世の中が明るくなり、偏頗(へんぱ)な私心にとらわれると、万事暗くなるといった意味であろう。

 

石碑の北面には

  「爾俸爾禄、民脂民膏、下民易虐、上天難欺」

(北宋、第二代太宗976~997年の戒石銘)の十六文字が彫られていた。意味は

爾の俸、爾の禄は、民の脂、民の膏。下民は虐げ易く、上天は欺き難し。

お前たちの俸禄は、人民の膏血を絞った税金の一部分だよ。下々の人民は虐げ易いが、天の神様は、ごまかすことはできないよと戒しめている。  

 

 そして更に官吏の具体的な心得としては「清、慎、勤」の三つが要求されていた。

  「清。|とは「請宿財を愛さず」で、清廉な官吏は、心から潔白で、金や物には淡々として見向きもしないものだ。清浄は天下を正す根本だと云うこと、「慎」とは、法令に従い、失敗のないようにするためには、まずその身を慎め。「勤」とは、精勤は、価の知れないほどの宝だ。骨を借しまず、勤めよ、励めと云うことであろう。

 

こうした戒石の心得の前では、官吏たちも悪事を働こうにも、手が出ないようである。

 

ところが、そのように厳粛公平なお役所のことを、民衆はどのように評価しているか、中国社会公認の俗諺に聞いてみよう

「ハ宇児衛門、朝南開、有理無理銭来」(俗諺)

お役所の門は南向きに大きく開かれている。理屈があろうと無かろうと、金を持って来い。あるいはまた

「八字児衛門朝南開、有理投銭莫進来(俗諺)

お役所の門は、南向きにハ文字に大きく聞かれている。理屈が有っても銭の無い奴は、入って来てはいかん。と云うのである。

 

これが一般民衆が下した、お役所に対する定義である

 

 

        

 

では、そのような官庁に働く、官吏たちはどうだろう。

中国では、政を正しく実施するには、民に直接接する官吏たちを清浄なものにするのが、最もよい方法であるとされていた

 

敢を為すは、その吏を清くするより善きは莫し」(群書治要)と云っている。

 

官吏とは、一般には「君に仕える者」(説文)とされているが、「天子の吏」(礼、曲礼)とは、天子から直接指示を受ける臣、大臣たちのことである。したがって、官吏とは、皇帝の政治を代行する、すべての人のことである。

 

中国には清廉潔白な官吏もおる。歴史の記録から拾ってみることにしよう。

 

 

つづく

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「人間考学」 選挙、その笛を吹く人たち   9 1/11 あの頃も

2022-06-25 06:47:25 | Weblog

            林檎の花

笛吹き」といえばハーメルンの鼠捕りが思いつく。
色とりどりの服装で鼠捕りを請け負う笛吹きの物語だ。
笛に浮かれ誘き寄せられた鼠が川で溺れ死ぬが、市民は笛吹きに報酬を支払うことをためらったために、子供達(130人)を笛で誘い洞窟におびき出され二度と帰ってくることはなかったという悲劇が記されている。

今どきのマスコミ表題では、゛鼠捕りの報酬を払わなかったために笛吹きは怒り、130人の子供達を拉致した゛と事件は踊るだろうが、その末尾に助かったのは足の不自由な二人と盲目とろうあ者の四人であると記事が結ばれたら趣は変る。

ハーメルンの笛吹きについては多くの隠された歴史がある。
ペスト患者の隔離、十字軍の徴兵、あるいは開拓者として植民地に向かった、など様々な説が「鼠捕りの笛吹き」によって追い立てられ、誘われ、連れ去られた、と後世の諸説に登場する。

そして笛吹き男は悪魔だと・・

 

           

 


今もそうだが子供達は思索や観照に薄い。いや大人に成るにつけ失くしてしまった素朴さと純情さゆえに疑うという問題視がない。それゆえ「笛吹き」の奏で方一つで誘われてしまう安易さもある。

昨今では大人とて「笛吹き」には容易に誘引されるのが倣いだが、とくに耳障りのよいスローガン、あるいは商業的キャッチフレーズに思索も観照も効かなくなる。

騒がれている派遣労働者の解雇だが、景気のいいときは仲介業者に登録し゛やりたいこと゛を選択肢として職業の自由を享受し、気ままな渡り派遣が流行っていた。
若者は先輩を範として、゛職業はフリーター゛と好きな趣味に没頭できる、そんな社会がしばらく続いた。規則や時間に縛られる社員を避けている人もいた。

それは規制の緩和や職業の自由選択を謳う「笛吹き」が歓迎された頃でもあった。

紹介業と仲介業との違いだが、高度成長期には山谷や釜崎では労働仲介業者がトラックに労働者を満載して現場に送り出していた。もちろん体が丈夫で能率が上がりそうな人間が優先だが、繁忙期には道具を入れる腰袋を提げていれば誰でも集めるといった大工事が多くあった。つまりニンク(労働者の頭数)数稼ぎである。巨大なドームや宗教施設が建てられたころである。

彼等には選択肢は多くないが、世の中を見る目が有った。
これが続くわけは無いということを・・・

「笛吹き」だが、ハーメルンの門に記されている碑文には、マグス(ラテン語で悪魔)と刻まれている。
「笛吹き」は語ることなく、身体を揺すりながら派手な衣装で懸命に笛を吹き、人を誘い込んでいる。「笛吹き」にとっては鼠も人間も同じである。

困ったことに現代は笛吹きに誘引されるだけではなく、「笛吹き」待望する風が吹いている。ハーメルン市民と同様に報酬を払うつもりも無く笛の音を待っている

ちなみに筆者もキーボードを奏でているが、利もなく甘美さも無く、鼠すら寄っては来ない。ハーメルンの物語には足の不自由な二人の子、と盲目とろう者の二人が残されたというが、世情に疎く不器用で変わり者ゆえ未だに誘いは無い。

外のチェンジ、内の改革、巷にある道路鼠捕りも、必ず痛みと報酬が付きまとう。
踊らされるか、躍らせるか、年頭の獅子舞も笛に踊り、些少の金子(銭)でおとなしくなる。

 

          

 


ちかごろ笛吹きが多くなったことが気がつく。
数多講演会の人集め、選挙の票集め、阿諛迎合的性癖といわれる日本人だが、群れの安心感は独立意思の涵養とは異質の似非知的教養の姿である。

だが、それさえも労務なり、時間なり、報酬を払わなければ悪魔になることは今でも同じようだ。

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問題は、゛欲張り゛と、゛無礼゛という民癖 2010/5再

2022-06-21 19:29:56 | Weblog




友人の園田さんが自らのブログで「権藤成卿『農村自救論』公同の概念」を転載して八百万の神の合議こそ和製民主主義だと持論を述べている

聖徳太子のころの十七条の憲法も簡潔だったが、当時はいちいち説明責任や近頃の法匪や走狗に入る弁護士や知識人の類の食い扶持詭弁となる、゛法の解釈゛とかいう解釈論なる「奇合理」はなかった。それら比べ当時は、立法する側も、応ずる側も素朴で自然的な共通した情緒があった。

「そもそも」という言葉があまり聴くことのなくなった世情に、そもそも「法」とは、あるいは「矩」や「則」で表わされていた自己と他人かが厳存する世の中における欲望の範囲と制御を簡潔に考えてみることも一考かとおもう。

ちなみに十七条の憲法は、官吏の怠惰、堕落、腐敗こそ、人間の尊厳を毀損するものとしてそれを戒めている。
まずは、「遅刻、口利き、便宜、賄賂はいけない」と、まるで唱和するように記されている。それが十七も箇条書きされている。

民を制御するものはない。もちろん自由もだ。

要は法をつかさどる官吏、税を徴収する官吏がしっかりすれば民衆はそれに倣い安定するということだ。いま時は面前権力である警察、検察官と税務署並びに社保庁の役人が勤勉,清廉で、警察の正義と税の公平を厳密に心掛ければ世の中は良質に変化する。
また、改革もなくほころびは更新することによって自然に治るということでもある。

宰相は「官吏の管理」その一点を集中して権力を行使すれば治まるのだ。もちろん有能で条理に基づいた官吏の登用が前提なことは言うまでもない。


以下は天皇の祭祀のなかでも重要な「新嘗の祷り」と人心の応えとして熟読願いたい。
そして煩雑な考察と数多の争いを誘引するかのような現行法体系の「そもそも」として御考察願えれば幸甚です。














 日本人は農業の民で有つた、故に太古に於て最も罪悪視せられたるものは、農業を妨害することであつた、左記八種(やくさ)の天罪(あまつみ)といふものは、古事記にも日本書紀にも、延喜式の「大祓の詞」にも、古語拾遺にも、すべて古書といふ古書には必ず記して伝へられて居るのである。

 
第一 毀畔(あなはち)(阿那波知)とは、

【耕田の畔(くろ)を毀つこと】


 第二 溝埋(みぞうめ)(美曾宇女)とは、

【灌漑の溝を埋むること】


 第三 放樋(ひはなち)(斐波那知)とは、

【溝洫(こうきょく)の樋を放開して、耕田に溢れしむること】

 
第四 重播(しきまき)(志伎麻伎)とは、

【他人の耕種せる田に、重ねて種を播くこと】

 
 第五 串刺(くしさし)(久志作志)とは、

【他人の耕田を冒認して、自己の耕田の如くに標識すること】

 
 第六 生剥(いきはぎ)とは、

【耕田に用ひる牛馬の類を虐待すること】

 
 第七 逆剥(さかはぎ)[六に同じ]

 
 第八 屎戸(くそへ)とは、

【新穀の祝典たる新嘗の祭日を汚すこと】


 此八種の天つ罪が、日本人の最も初めに罪として認めたもので、後に仏教の感化に依りて高唱せられたる殺生、愉盗、妄語、邪淫、飲酒の五戒よりも、深く厳しく戒飭せられた所のものであつた。

 古神話に驚天の大変として伝へられたる、天照大神の「岩戸隠れ」は、素盞嗚尊が此の八種の天つ罪を、悉くその一身に犯したることが原因で有つたといふことである。而して当時日本の政体は、八百萬神の合議を用ひたので有つた。謂ゆる「八百萬神、天安之河原(あめやすのかわら)に神集(かんずまりましま)して」といふは、是れである。

 是れは誠に自然である。人の生命、自由、財産、名誉に対する福利は、奴隷の境遇にあるものゝ外、其人の得心なくして、他より侵さるべき者でない。人は固より群居するものであるから、共存の必要上、個人と個人との関係、並に集団と集団との関係に依り、規律ある行動に出るのであるが、是れは各人の福利を犠牲にするのでなく、その福利を保護するのである。

 各人の発言権を停止するのでなく、その発言権を障碍なからしめるのである。日本国民の総員、即ち八百萬の神には、貧の神も福の神も、凡べて、平等の発言権を以て「天安の河原」に集まつたといふ神話は、純朴なる日本の古俗を想像せば、如何にも斯くありしならんと首肯せらるるのである。











 農業的の国民(八百萬神)が、農業侵害者(素盞嗚尊)に対する処置を決するために集会を開いた。是れは恰も自治の運用である、自治を推し広めた協和制、一層適切にいへば国民投票であつた。

 我が神世の洪謨(こうも)は、全く此の如き自然の民性に忓(さから)はざる方針であつた神武天皇東征の詔に「蒙以て正を養ふ」とあるのはそれである。此の詔の語は、周易蒙卦(しゅうえきもうけい)の衆伝を引いて、日本書紀の作者たる舎人親王(とねりしんのう)の文飾せられたものではあるが、其意味は正しき神武天皇の詔旨で有つたに相違ないのである。

 蒙以て正を養ふとは、蒙は童蒙である、民性自然の発達を以て、童蒙の次第に智恵づくに譬へ、其の啓発すべき時機には之を啓発し、其時機に至らざれば其儘に差し置き、たゞ成るべく邪悪に陥らぬ様に、成るべく正しき心を養ふやうに、之を指導して行くといふことを云ふのである。此詔を以て、我が太古の皇謨を察すれば、決して或国の王者の如く、国民を以て私有財産と同視し、生殺与奪たゞ王者の意欲に任ずるといふのではない。

 国民自体の機能をして、成るべく智恵と徳義の方面に進ましむべく、無干渉の間に静かに摂理せられたのである。

 註 けれども人民は、智巧の進むに従つて、太古の純撲をいつまでも維持しては居らなかつた。既にして強者が弱者を併呑して、其福利を榹(うば)ひ去つたのである。是れ其詔の末文に「邑に君あり、村に長あり、各自ら彊を分ち用て相凌轢す」とある所以である

天皇には深く之を歎息せられて、竟に東征の御決行となつた。

(出典:権藤成卿『農村自救論』公同の概念)

 

註 現代風に書けば、「人々は知識が増すことによって純朴な情感が衰え、知の多少によって選別された強者が人々を支配し、福利を奪い去ったのだ。地方の郷村(現代の自治体)では民を侮り強制的に税を徴収して生活を踏みにじった。ゆえに天皇が平定のために東征を行ったのである」

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日中の縒(より)をほぐすために、各々の民は・・・2010再

2022-06-05 01:00:24 | Weblog


                       以下、イメージは桂林近郊





あるべき姿の関係に解(ほぐ)すことである。
わら縄をよるには両手で二本の藁を掌でこすりながら一本に縒りあわせるが、はじめの二本の藁も数本を束ねたものを掌を拝むように縒り、さらに二本にするのだが、それぞれ一本の藁が縄になるには数十本必要になる。その縒られた縄は神前の注連縄(しめなわ)にもなり、罪人を捕縛することもある。

人間関係を縄の縒りにたとえれば、あるときは同盟や友好の絆となり、縒り方が悪ければささくれた関係になり、時には戦争になったりもする。注連縄のように毎年新規更新する条約ならまだしも、手入れもなく古くなれば朽ちて融解することもある。それは民情のように潤った風、乾いた風によって更新の方法や条件も変わることでもある。
縄つくりも多少湿り気のある藁のほうが縒りもシッカリしているという。

国交においても、もう一度新規に縒り直そうとしても、切り口の違う発生の要因を其々が言い放つばかりでは解(ほぐ)せない。あるいは政府の公式見解は自国の法律的見解や勢力図によって異なることや、あるいは外交当局との国内政局に触れる問題もあり、先送り、玉虫、面子を立てるなど、いつまでもスッキリしない煩いとして沈殿してしまうようだ。
とくに国富という現世利益を追求すると、どうしても「力」の優劣を背景にしてしまう。
現在はそれが優位性として交誼の具になっている。

一方、地球を「圏」として考えると、アジア、ヨーロッパ、アラブ、アフリカなどに大別され、そこに経済圏、思想圏、宗教圏が混在すると、其々の相関する関係で「力」が構成されることもある。付帯するのは軍事力、経済の技術生産力、いまは資源埋蔵量だろう。

アジア圏においては欧米社会との歴史的関係から、今でも多くの難問を抱えている。日中間においても問題の種や質を変え、また背景となる「力」の存在を効用として交誼を繕っている。経済発展と米国の衰徴は外交の優位性さえ置くところを変えている。





              






しかし、いつまでも続くものではない。経済も盛衰を繰り返し、国内が紛糾したり、功利的な欧米諸国の風も変化することもあろう。また時運の風向きを背景とする商社会となった日本も付随するだろう。

ならば、外交や数値にある軍事力を恐れたり、経済力を歓迎したりする一過性の問題をひとまずおいて、問題を解すことである。その多くは内なる憂いに似た思惑に起因していると考えるからだ。
拙くも意を尽くせない忸怩のおもいもあり、加えて強いこじつけのようだが、此処では歴史の一隅を鏡として尋ねてみたい。

それは自身を知るために内観することに似て、絞り出す苦渋の念、爽やかな童の心、相互扶助の感謝、煩いとなった遠因、色々みえてくる。

いまは尖閣、環境汚染、軍拡、資源があり、我国も対米追従、政治の朝令暮改、などあげつらい争論となりその種は尽きないようだが、一旦、現世利益を擱いて日中問題を内観したらどうだろうかと考えてみたい。

よく、家族関係の中に舅、小姑、姑などあるが家庭なら所帯主と嫁の関係である。国家の内政や外に向かう力には為政者の思い通りにはすすまない「人」の問題がある。
援けてもらったり、煩わしい関係になったり、厄介な問題を発生させることだ。

国家であれば、思想圏、経済圏 色別圏などに分けられた囲いで優劣を競っていたが、いまは色別に棲み分けられた場所で必然的に発生した宗教が、いちばん鮮明な分別となっているようだ。思想圏であれば一時は社会主義、資本主義と大別していたが、近頃では優越性を確保したりという、喰う為には思想は二の次になり、志操さえなくしてしまった。

一昔前は日本には米国、中国にはソ連の後ろ盾はあった。もちろん単純ではない関係でもあったが、東西冷戦の波に翻弄されながら互いに利する立場にあった。日本国内では左翼といわれる共産党、社会党が独自の政策の下、米国協調の自民党に反するように北朝鮮、中国、ソ連などと路線の異なりも指摘しつつも協働していた。

昨今、それらの国からの資金援助なり協働の関与があからさまになると、異民族が思想主義に協働し政権を奪取することを意図していた各々の座標や目標が変質し衰退している。
それは冷戦に勝利して強国となった米国の矢継ぎ早に掲げる自由、民主、人権と、金融経済の平準化に追従しなければ経国そのものが成り立たなくなったことでもある。もちろん後ろ盾は圧倒的な軍事力ではあるが、ベトナム、中東のつまずきによってその米国も内政は弛緩しつつある。

その結果、政策は停滞し、為政者は信頼をなくし、海外から侮られるようになって世界は百家争鳴の状態になっている。
良し悪しはともかく長(おさ)が侮られると群れは群雄割拠するのは必然である。



               



それは経済圏でもいえることで計画統制経済、自由主義経済と選別されているが、日本も満州では商工省の若手官僚と軍官吏によって計画統制経済を試みて大きな成果を得ている。
戦後の成長経済もその試行をもととして大きな成果を挙げている。そこに付随するのが思想統制だが、食い扶持と繁栄国家の看板がそれさえも吸収して大きな成果を挙げ、別物の煩いや憂いを発生させた。それは社会の陰陽のようなもので陰の堆積は成功価値では覆いつくせないところまで来ている。

これも老子やエントロピーの法則をなぞれば高峰の成長の谷には、環境汚染、犯罪、虞犯などが堆積して、海浜埋め立て地のように地盤は軟弱になっている。
よく経済の基礎的条件が云々されるが、社会の基礎的条件である情緒性の枯渇、人情薄弱、連帯の分離など、成長そのものが蜃気楼のようにみえるようになる。つまり虚ろになる。

人は安逸に流れる、というが、文化の模倣もその一つだろう。
とくに経済繁栄において眩しいくらいに輝いていたアメリカの影響は異文化に多くの影響を与えた。それは負けたことのない、敵わない国への追従の倣いのようなものだった。
それは力のある国の文化模倣として至極当然なことだった。

ただ、倣ううちはよかったが、習わせる意図が圧倒的パワーを用いて積極さを増したとき、哀しくも、淋しくも、あるいは習うことの疑問が湧き出してきた。
アメリカについては自由主義経済圏の一群への影響だが、それが虚構な情報の発信と管理という自由への疑義として憂いに似た関係に陥っているのが現在だろう。

さて、中国だが、あの田中総理が周恩来総理に「これほど色々な民族が大勢集まっている社会をまとめるには大変なことだ。便宜共産主義も理解できる・・・」
まさに民情、民癖と歴史俯瞰を含んだ正鵠をえた応答である。

筆者は時おり人前で駄弁を弄すことがある。ある大学でのこと・・

漢民族の地政学的に侵入の恐れは北方である。元、清もそうだった。戦後間もなくはソ連だった。その看板は共産主義、中国の歴史にはない主義という代物だった。中国民衆に合うかどうかは分らないが、まず北方の強国に擦り寄った。敵の敵は味方だった。

蒋介石の子息、後の中華民国総統になった経国氏や敵方共産党の周恩来もモスクワに留学している。そして学んだが異質で合わないことも知っていた。
ただ、砂の民と称されまとまりのない人々を集約するには都合のいい主義だった。
掲げる理想は中華の「大同思想」に似ていた。それも孔孟と同じ実利のないハナシの類だということも分っていた。ただ曲がりなりにも民衆という群れを統制するには共産のスローガンは夢を与えることができた。そして解放という言葉を添えた。

佐藤慎一郎氏も香港で毛沢東の先生に会っているが、マルクスやレーニンの論文は知ってはいたが、熟知してはいなかった。歴代皇帝や袁世凱、孫文でさえ特有な民癖をまとめ国家として成さしめるために、選択として専制を思い描いている。安寧や太平にある人々の営みを理想として、自然な自由を認知はしても人が群れになったときの混沌は国家として成さしめないと考える憂慮の苦汁があった。

もともと権力を奪い民衆を搾取して栄華を意図するものではないが、民衆にある「力」に対する考え方と、その「力」をもつ長(おさ)を天上(神)として具象化し、推戴する機能の形式を慣習として、社会生活の陋規にある掟、習慣、人情を人の繋ぎとしている国柄を認めた上で共産という主義を色付けしたのだ。




            




ことさら、毛沢東をはじめとする政治家や外に現れた現象を共産党に包むと理解不能になるのは、それを理解しない人たちの知得習性でもあろう。

彼等は日本人の民癖も熟知している。その中の良なるものがあっても棲み分けられた大地では、到底生きていけないことも知っている。
米国の力に依存したり、経済では中国の労働力やその量に食指を動かす阿諛迎合性は、似合わない文化を入れて消化不良を起こしている人々の心の問題として、あの光明と憧れた明治の日本人を観照して嘆かわしく感じている。

砂の民は共産党という囲いなり、自制をうっとうしいと思っているが、その必要性も理解している。また、自由を超えて色、食、財という本性が放埓になると「力」が異なった結果を導くことも分っている。ただ流れが止まらないのである。その無尽な欲望が猛威を振るったら他民族との軋轢を起こすことも分っているが、政治もそれを制御するすべを失いつつある。その砂の嵐は異民族の襞(ひだ)にも入り込み、人間の欲望を喚起して同化の誘いを起こしている。

゛あんたの言うことは聞く、税金も払う、でも俺達の自由を邪魔しないでくれ゛
それが砂の民の心根でもあり、すべてが実利の世界なのだ。

あの清朝が衰え外国の草刈場となり、同じアジアの日本もあの頃の日本人と異質の顔をして同調してきた。国は利権によって分断し香港、マカオがもどってきたのはつい最近のことだ。皆、奴隷のような生活だった。貴族は白人だった。紫禁城の財物は盗まれオークションに懸けられたり異国の博物館に収められた。白人が持ち去った財物は彼らの戦果として博物館に納まっている

しかし、砂の民はそのことに怒ることはない。せいぜい「ひどいもんだ」だが、そもそも、俺の物ではない。怒るのは政治看板という面子を持っている人たちだけだ。旗を掲げて実利を得ている人たちのことだ。




               



佐藤慎一郎氏の体験だが
満州の新京で日本が負けた日に城内に入ったら青天白日旗がひるがえっていた。朝の朝礼は満州国旗だった。どうしたんだ、と聴くと、「いや、張学良のときは、少しは続くかと思って良い生地で作った。旗は五つある。日章旗、満州国旗、青天白日旗、中国共産党、ロシアの国旗だ。どこが来てもいいように準備している。もちろん隠してあるが、騒ぎが収まれば旗が変わるだけで俺達の生活は変わらない」、易旗の知恵である。
いつも、面従腹背でないと生きられないのも砂の民だ。

そこの官僚も低頭しているが、ともあれ金をもってこいだという。
交通切符も税官吏の徴税も似たようなものだが、冥土の銭を棺に入れ終生実利に生き、その銭も「人情を贈る」という砂の民の拠り所は、狭い範囲の人情と財貨なのだ。
また、人の生き死にでも諦観がある。

満州の昔話だが・・・
売春宿やアヘン窟でのこと、死も近づいて息も絶え絶えになると道の真ん中に運び、人々は遠巻きに眺めている。息絶えた途端に我先にと近づき衣服を剥ぎ取る。生きている内はしない。これも倣いだ。なぜ道路の真ん中なのか、朝方自分の家の前にあると片付けなくてはならない。だから早く起きて他人の家の前や道路の真ん中に置く。

あの「万人坑」が問題になったことがある、それは日本人軍の仕業だということになったが、昔から街中で人が死ぬと放り込んだ坑だ。当時は立派な生業である物乞い、売春婦さまざまだ。

人情を贈るという賄賂だが、日本の接待と同じでわざと負けて官吏や親方にあげる。宮中では、あの浅野と吉良の忠臣蔵の発端となった儀礼規則の教授には賄賂が必要だ。
「禁ずるところ利を生ず」
道路の標識が多くなったり、法が無闇に作られると日本では罰金増収、自分達は賄賂だ。

法を作って金を巻き上げる、同じことだ。多くの罰の種別は覚えきれない。だいたいが小学校で教える道徳だが、いまは教えない。自由放埓を煽りたてながら為政者は歓心を買い、一方では新法を周知せず、知らないお前が悪いとする。俺達は弁護士に頼む金が無いから人情を贈るのだ。あくまで民衆は法に無知なのだ。

法は人を守るためと謳うが、多くは役人がやっても良いこと、やらなくても良い言い訳が多い。

我が国の立法の条文は、その役人が編み出し、真の目的も知らず説明したり言い訳するのは待遇を与えた議員の下請け、つまりアウトソーシング。仕事は間違えずに言う、いや役人が都合よく役人言葉で書いたものを読み上げ、役人の不祥事には野党の攻撃の盾になり、頭を下げて謝れれば大物議員となる。

隣国は皇帝以外は多くは宦官と役人。そこに利権があり、だから宦官の募集では母が陰茎切りを奨励してまで応募している。

皇帝は国のすべてのものが自分の所有だから賄賂は取らない。諸国からの貢物は皇帝の前に並べられるが、一番目立つところに置くには宦官に賄賂が必要となる。便宜供与だ。
官公物や事業の入札で官吏に最低価格を聞き出す日本も同じだが、現物ではなく時を変えての天下りや親族の便宜は日本のほうが狡猾だ。勲章待ちの卑しさもそれを助長させるようだ。

わかりやすくは、宦官は任官し昇進すれば多くの財を得る。それは一族郎党が潤うことになる。「一官は九族に繁栄する」、つまり科挙に合格して官吏になれば取り巻きは潤うのである。これは「公」の精神ではなく、あくまで「私」である。

日本の場合は「公」の用人である公僕が法にもとづいて普遍性を謳い、罰は金を代償に公金として国庫にいれ、民間では考えられない便宜と高給と生涯安定を得る。

あの朱容毅は「殺せ!」と汚職官吏を死刑にしているが、まず日本は死刑にならない。
そして皆でかばい逃げ切って生涯賃金を担保する。かれらの秤は議員の権能ではない、落ちればただの人であり、生涯賃金は官僚より少ないと嘲る。

有名大学にいって安定職である公務員を目指す母親に似て、オトコのシンボルをなくしても財貨と安定に邁進するのだ。国が滅ぶのは明らかだ。今の日本は対応力のなくなった清朝のようなものだ。



               



以上が佐藤氏の体験を酔談したものだが、最近ではオリンピックと万博についてネガティブな論調をみることがある。
砂の民の行儀の悪さがよく取り上げられるが、その通りだが、そう非難することだろうか。
あえて部分を取り上げることに片腹が痛い気分もするのは筆者だけだろうか。

遅れている、共産だからと侮っていたアジアの一国が、「力」において同等に近づいたとき批判や恐怖を分けもわからずに、゛あげつらう゛だけで理解の淵に届くのだろうか。

いや、曲がりなりにも西欧の植民地から野蛮で未開と蔑まされた砂の民が複雑な要因で構成する国家の歴史経過と将来を俯瞰したとき、はたして日本人の矜持に照らしてあげつらうことなのか・・・、自身を内観すると、゛にがいおもい゛が湧いてくる。

あえてオリンピック開催にオメデトウといいたい。
国家の面子や経緯はどうであれ、よく頑張った、あの時は大変だった、と伝えることが砂の民に贈る言葉ではないか。

現世利益である国益や民の懐具合を、単に ゛ひとまず ゛措くつもりはない。あるいは問題となっているさまざまな軋轢やそこから生ずる現象に背を向けるものではない、だだ、歴史を回顧して人が織り成した集積からそり切り口を探るべきだろう。

あの日露戦争も、数百年にわたって欧米の圧力を受けていた人々は、なぜアジア解放戦争といわなかったのか、と提起される。本当に先の大戦をアジアの開放に立ち上がったならそうすべきだと。

普段は政治にまつわることは語らない中国の青年が真剣に唱えることに鎮考せざるをえない。

勝ったのは己の手柄、負ければ他人のせい、との風潮だが、満州の古老も日本の官吏の癖、つまり「官癖」について伝えている。
満州は「偽満州」といわれるが、あの頃はよかったと。台湾の古老は「日本のお巡りさんは厳しかったが、窓を開けていても泥棒がいなかった。いまは皆、鉄格子が付いている。人を信用しなくなった」




             



ただ日本の官癖については厳しい。
まだソ連が満州に入ってきていないとき、国境に集結したと軍ははじめに知った。翌日目の前の官吏の官舎は家族ともども逃走して一人もいなくなった。賄賂も取らず厳しかったが最後は逃げた。電話線を三箇所も切って。残ったのは楽土として呼び集められた日本人だ。可哀想だった。はじめてあのような日本人をみた。そうでないと思っていたが・・

人の所作を観る民族と、肩書きや地位を人の量りの基準とする民族の問題意識の違いだ。
役人や官警はあくどいことをする、との前提で賄賂を用意する人たちと、お巡りさんと、医者と先生は尊敬されると思っていた、あの時代の交誼はメリハリがあった。そして違いを認め合い補い合った。いまは金の欲望に同化し、食は飽食となり、性は淫靡になった。
しかし、異質といわれようとその本性には「理(ことわり)」がある砂の民である。その欲が行き着くところも知っている。

一方、建前は彼の国の孔孟に習って形式はあるが、「理」を知らないで欲望に同化している民族、どちらのほうが行き着く先を逆賭しているのだろうか。

「日本人は早く負けて日本に帰ったほうがいい、それでなくては日本そのものが無くなってしまう
彼の地の民族と異なる日本及び日本人を知り尽くしている。

そのため「日本と戦争をしたら、どちらも不幸になる。日本が無くなっても中国が駄目になる」との蒋介石の不抵抗命令は孫文の意志に沿ったものだった。その孫文の信頼した国は日本であり、日本人なのだ。

あくまで当時のことだ。そして側近の山田に「真の日本人がいなくなった」と歎いている。
あの頃は複雑な縒りはまだなかった。

どうだろうか、真の日本人とはどういう人物なのか、鎮護の国といわれるその郷で考えてみたいとおもうが・・・。 

どうも、こちら側にも妙な縒り方をした人々がいたことに気が付くのではないだろうか。

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いずれ日本は負けると・・ 1989 年北京 あの頃

2022-06-04 13:00:36 | Weblog

無関心な民と関心意識の豊かな民の問題でもある。

以下は権力との関わり方である・・


1989年5月15日 ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が訪中した。国内の特権階級の腐敗、米国との軍拡争いによる経済の停滞、国民の怨嗟に敢然と取り組み、その改革の端緒が開けつつあるときの訪中である。

そもそも両国は共産党とは名乗っているが政治体制はともかく民癖が大きく異なる。また実験国家の如く一連の共産主義的政治仕様の試みが一応のデーター結果を集積し、かつコミンテルンという不可思議な字句を掲げ様々な民族、地域に浸透させた。

一方は資本主義、自由、民主、人権、一方は解放、平等を謳ってつばぜり合いを行なってきたが、お陰で双方のお題目を食い扶持とする似非知識人を大量生産した。

それは学派となり兵隊ごっこ宜しく、覇を唱えつつ国家の連帯と調和を崩してきた。彼等も錯覚学説の実験材料でもあった。それは白人植民地の先兵であった宣教師の愛と許しを謳う美句を同様に添えていたのと似ている。

差別は階級闘争として人々をカテゴリーに囲い込み、詰まる所知識人に後押しされた運動家は食い扶持既得権に堕して、近頃では教師、公務員の世襲もまかり通っている。

自由と民主を謳う連中は都合のよい商基準や政治集約システムを最良なものとして影響圏に押し付け、それまで程よい掟、習慣で成り立っていた生業なり生活を煩雑な法規に囲い込み、これこそ法治だと隣国の人治を嘲った。

それは、どちらが繁栄し、もしくは衰退しているかをあげつらい、かつどちらの主義が人の幸せを獲得するのに佳いシステムなのかを問うものでもなく、たとえ貧しくとも、抑圧されていても人の人格の表す自尊なり、民族の矜持、正直で勤勉で忍耐強い人間を育てるグランドの有無如何かを冷静に見なければならないことではある。

群れとなって一方に押しやられた感のある思索と観照を失くした人々は「武」と「富」を駆使した双方のシステムによって第三局の選択肢を模索しつつある歴史の節でもあった。

それは、民を育てる、あるいは矜持を涵養するという主義にいう、根本的な正しいこと(義)を主(柱)とする精神を享受できる環境を観るべきとの促しでもあった。

反面という説があるが、宦官、纏足、人食、作戯、圧政、は中国の歴史に赤裸々に記されている。そこに孔子、老子、孟子を始めとする儒家、道家が仁を説き、道を説く陰陽、表裏に戯れる柔軟性もある。

一方は戦火に明け暮れ、哺乳血を啜り、奴隷を使役し、植民地をつくる人々は救世主に「愛」と「許し」を請う掟と習性によって生きてきた。

俯瞰すれば我国も阿諛迎合性のある民に狡猾な官吏、放たれれば自尊心を亡くし人倫さえ自らの欲心で融解させてしまうところには、独り天皇は祷り、名利財物に恬淡として所有を拒んでいる。

いずれも必然性がある、孔孟、キリスト、天皇、言い換えれば懺悔のカウンターの様でもある。

駄考の拙論だが、いかなる言も彼等の精神の淵にも届かないだろう。
今を以てもあの頃の若者の表情を思い浮かべる。



             
      鉢巻きの「下台」は地位から降りろという意である


1989年、若者はその諦観を断ち切るように、また小欲を捨て、大欲に生命を懸けていた。

掲げるプラカードには「官倒」と大書されていた。自らを民主化の救世主として行動を起した。北京大学、清華大学、我国の首校より難門である。一人っ子政策で九族(家族、親戚)の期待の星達が「生命」の使い方を知り、修学の試行として機会を逃さなかった。

長安街の横断は儘ならず、隊列は数時間に及んだ。ちなみに日本のデモのように待遇改善、賃上げなどはデモと呼ぶべきものではなくまさに闘うデモ・クラシーそのものであるが、我国のそれは意を変えてデモ・クレイジーと呼んだ師の言葉を実感させる。チラシが散乱し、薄い日当を懐に元気の無いスローガンを叫んでいるが、同じ呼称の主義にも色々あるようだ。



               
戒厳令下 5/24



北京駅には地方からの若者が列をなし、革命記念堂の石段には多くの若者が広場の様子を見守っている。

しかし、6月3日の未明、人民の尊敬を集めていた解放軍が水平発射をして鎮圧が始まった。多くの若者が広場に倒れた。事件後、指導者の一人紫玲は香港でそのときの様子を嗚咽しながら搾り出した。


【 9時ちょうど、全天安門広場にいた学生たちは、起ち上って
 「 私は宣誓する。祖国の民主化への行程を推進するために、祖国が本当に盛大に繁栄するために、偉大な祖国が、一つまみの陰謀家によって顛覆されないようにするために、11億の人民が、白色テロの恐怖の中で命を失うことが無いように するために、私は若い生命を賭け、死を誓って、天安門を守り、共和国を守るこ とを、宣誓する。首が斬り落されてもよい。血は流れてもよい。人民広場は棄てられない。私たちは若い生命を賭けて最後の一人となるまで戦う!」
と、右手を挙げて宣誓しました。

 10時ちょうど、広場の民主大学が正式に授業を開始しました。副総指揮の張徳利が、民主大学の校長になりました。
 各界の人々は、民主大学の成立に対して、熱烈な祝賀を表わしました
 当時の情況として指揮部の此処では、続々と各方面からの緊急の知らせを受取っていました。情況は非常に緊張していました。
 しかしながら、広場の北部に於ては、私たちの民主大学の成立を祝う拍手の音が鳴り響いていました。民主大学は、自由の女神の像の附近に設立したのです。

 そして、その周囲の長安街では、すでに血が河のように、なっていたのでした。人殺したちーあの27軍の兵士たちは、戦車、機関銃、銃剣(催涙ガスは、その時には、すでに遅すぎた)が、勇敢に一句のスローガンを叫んだだけの人に、勇敢に一つの煉瓦を投げつけただけの人に対して、彼らは機関銃で、追い撃ちをかけてきたのです。 長安街のどの屍体にも、いずれも、その胸には、一片の血が流れていました。

 学生が指揮部に飛んで来ました。
 彼らの手に、胸に、そして彼らのももは、みな血で染まっていました。これ
らは同胞たちの命の最後の一滴の血だったのです。
 彼らは自分たちの胸に、これらの同胞を抱きしめて、やって来たのでした。
 10時すぎ、指揮部では、みんなに要求しました。

 一番大事なこととして、みんなに要求したことは、私たちが、この4月から学生を主体とした愛国民主運動を始めてから、5月に入って以来、全人民運動へと発展変化してきました。私たちの原則は、最初から最後まで平和的な請願をすることでした。 私たちの闘争の最高原則は、平和です。
 非常に多くの学生たちや、労働者、市民たちが、私たちの指揮部へやって来て、こんな事では、いけないのではないか、武器を取るべきではないのか、と言いました。 男子の学生たちも、やはり非常に憤激していました。

 しかし私たち指揮部の学生たちは、みんなに
 「私たちは平和的な請願をしているのです。平和の最高原則は犠牲です」】
・・・・・





・・・・・
【 一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
 私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
 「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
   ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
   彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
   その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
 彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
 共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)

 おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
 私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
 学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
 「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
 私たちの後ろの学生たちも
 「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か  ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。


 




私はみんなに少しばかりの話をしました。
 「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
 ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
 その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
 しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。

   学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
   私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
   私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。

 学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
 最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、 
 「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
 しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
 彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
 「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
 その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
 そして全学生を撤退させることを決定したのです。
 しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。


 指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
 「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
 大多数の学生たちは、撤退しました。
 私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
 「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
 「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)

 しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
 彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
 彼らは、あまりにも疲れていたのです。
 まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
 ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
 またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
 具体的な数字は、今もって私には解りません。
 しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
 彼らは最小限2~30人はいました。

 聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです】
・・・・

テープ文章化 佐藤慎一郎氏より寄託 

 



上海の子供たち


指導部も苦悩した。いずれ若者の唱える世界が訪れるだろう。

しかし歴史に観る大陸人民の民癖が拙速に自由に似た放埓、民主に似たエゴが「利」に向かったら法も整備されていない現在、未曾有の混乱を超えて混沌(カオス)に陥ってしまう。

「衣食足りて・・」に倣えば、法を司る官吏の技量は民度に順じる。

「もう少し待て・・」固陋な既得権を保持する高官さえ煩いとなっている状況を解決するまで私も雌伏している。

そんな声が中南海の旧居から聴こえてくるようだった。

学生指導者の多くも歴史の栄枯盛衰に起こる人々の盲動と、その結末は学んでいる。

民主や自由が人権や平等を含ませて人々の欲望を喚起したら、一人一人は人口と同じくらいな様々な欲望を描くだろう。

何処かで、誰かを推戴して欲望の交差点に立たせ、そのコントロールを願うだろう。

小さな集団は少ない力(コントロールエネルギー)で整うが、国家という大きな集団では為政者は大きな力が必要になってくる。

ときに人民の集団エネルギーを用いて一方の集団を制御することもある。

ただ若者は分断や破壊することを企図したものではない。付和雷同や半知半解の同調者には困惑していた。

今回は人民にとって信頼されるべき為政者の一部の者の権力が「利」に向かったことも要因にあった。

鄧小平氏の開放政策はまさに経済の自由を標榜した。そして人民は歓迎した。

その意味では後年、習近平氏の政官界の整風運動となる高官の摘発は人民から歓迎されている。

世俗の享楽、巷間の腐敗、それは中国の栄枯盛衰を範とした衰亡の端緒を感じ取った良策でもあろう。

つまり、人民は高位にある人の姿を習うのだ。しかも安易に風潮となる恐れがある。

上下こもごも利をとれば国危うし。 外の賊は破るに易し、内の賊は破るに難し。

これはデモクラシーがデモクレージーのように怠惰した世界では容易に修正できない。いやそのためのエネルギーは途方もないはずだ。

自由の風は男女とわず学生すら怠惰にさせ、風紀は乱れた。それは自由の謳歌という美名のもと放埓になり、個々が連帯の糸口すら失くし孤独になる前兆でもあった。

抑制しつつ要求(希望と期待)を唱えていた学生もいたが、彼らも地方から押し寄せる人々を制御できなくなった。

そして、収拾がつかなくなった。それが自由ではなく放埓をもともなう群衆となった。

指導者の多くは国外に逃避したが、そこで見る自由や民主、人権、平等のスローガンが彼らの郷土にそのまま馴染むものなのか、内心を訊いたみたい気持ちもある。

ゆえに、歴史を背負った若者たちの行為の体感は無駄ではなかったとおもう。

 

 

 

 


当時の北京の六月は抜けるような青空が名物だった。騒乱のさなか小学校では普通どおりの授業があった。

たしか東大紛争でも居酒屋やマージャンが学生で溢れかえっていた。新宿ではナンパ学生が屯していた。そして社会に出て一日千円亭主となり食い扶持に汲々として女房に追い立てられる男子の姿があった。

現在十万人余の中国留学生が滞在している。その多くはあの事件のことを知らない。いや知らされていない。あの若者の尊い血はその後の東欧の共産主義を崩壊させる原動力となった。ルーマニアの大統領宮殿前の広場での青年の一言「人殺し! 」はチャウシスクを驚愕させ人々は群動し政権は脆くも倒れた。

あの騒乱のさなか気高き精神の行く末を憂慮しつつも、「いずれ日本は負ける・・」

そんな直感が沸き起こったことを鮮明に記憶している。

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