日本型官僚社会主義の呪縛
犬も歩けば棒に当たるというが街中を歩けば懐かしい顔に出会う。そのたび数多の縁を想いだし、会釈されても顔すら忘れていて通り過ぎ、心中で詫びることもある。
ときには視線を察することもある。しかも首の可動範囲の左右斜め後ろまでの察知範囲だが、そのときは左右に振った視線の左端にその男はいた。
父親はノンキャリアの厚生官僚、それゆえ悲哀をかこっている母親は息子に東大を望んだ。だが数値選別に届かなかった息子は慶応に進んだ。それでも母親は忸怩な気分だった。母方は家族は国立大学卒の教員など地方ではキラ星の家系、母も高等女学校卒、ゆえに亭主のノンキャリ、息子の私大に対する母の心中は偏執そのものだった。
それゆえか、息子は都立高校在学中に学生運動の先頭を切っていた。当時の学生運動は権威らしきものに反発し教員を吊し上げしたり、他校のもめごとにも首を出す執拗さがあった。先頭といってもそそのかしのアジテーター、行動となると隠れたり逃げたりする汚れた気概が豊か?だった。
人間の成長期には自身の特徴の発見と伸ばすことと、応用(活学)することで己を明らかにする(明徳)学びだが、゛知った、覚えた゛の類の暗誦学も部分の特技だ。それが奇問のような試験などの数値評価で選別され、方向の選択肢によって職分を得るのだが、その人生の一過性のような選択の機会に、耳にタコのトラウマのように親のそそのかしがある。多くは「公務員に!」が浮俗の母親の促しだ。ときに厳命ともなる。
生涯賃金企図と担保、地位の安定保全、すべては庶民といわれる国民の支えにあるものだが、女性ならではの計算高い幸福感は、子息の幸福感として刷り込まれ、職分に厳然として存在するキャリア・ノンキャリといったスタートラインの確保に、まるで国家の別枠のような絶対世界として人生を賭けている。懸けるのではなく、゛賭けて゛いるといってもいい。
それが問題となり、弊害となるのは、聖徳太子の十七条をみても余程、慎重に抑制しなければ必然となることを示している。゛浜の真砂のように゛といわれるように世界中の政体を持つ国なるもの、あるいは国連などの数多の国際組織にも多くの弊害が積層され、増殖し、解決もままならない問題として、バチルスのように浸食している。
外務省の機密費を背任横領した松尾氏だが、かかわる罪人が広がることを恐れたキャリアは官邸の機密費がらみで影響があるとそそのかして、詐欺罪という本人のみの罪として立件しているが、捜査二課の捜査官は、これも忸怩たる気持ちで罪名を確定している。警察とて行政機構の一部、しかも海外公館には警察庁キャリアも赴任している。もちろん、その手のお手盛りや余禄も知りすぎるほど熟知している。これに掉さしたらタックスイーターの世界では生きてはいけない掟や習慣性(陋規)なのだ。
この種の内容について彼らからすればネガティブに表現することは同胞として記す方も寝覚めが悪い。それゆえ、なぜ分かりつつも是正できないのか、もし食い扶持目的ではなく、よく言われるように、若いころは公務意識も高く、問題意識が豊かだった彼らだが、またそれゆえのキャリアエリートとして待遇を与えているものが、数年経つと公務が「狡務」となり、学んだ智を用いて、大偽によって国民を欺くようになるのか、隣国の歴史にある官吏の心理と実態を写し絵として考えてみたい。
解説
《昇官発財》とは
学問の目的は「財」にあり。
学問するところ地位があり。
地位あるところ権力と財を発す。
これほど明け透けに、しかも人の本能的にもみえる欲望を記したものはない。なぜなら知識の集積が勉強だと錯誤しているものにとっては可否を論ずるまでもなく、事実が臨場感を添え、かつ至極当然のごとく白日に語られる実態があるからだ。
権力には自ずと財が生じ、色(女)、食(奢)財(金)は思いのままになる。即ち、色、食、財という欲望のためなら男根(生殖器)までを切断して 官に昇る若者と、それを促す家族と容認する社会がある。
果たして我々が押し戴いていた古典及び、数多の碩学と冠される学者の金言は、多くはその引例を隣国に置くが、その賢人、哲人の説の発生基盤まで語るものは少ない。
なぜなら彼の国の知識人同様に、肉体的衝撃や地に伏すことの回避に有用な智学として、あるいは戦陣における説家の如く、三百代言的話術、高邁な術書によって禄を食むものが人間学的実学の発生を阻むのではないだろうか。
手段、方法は異なるが、学問の目的に曖昧な意志をもつ我が国学徒にとって、似たような現象が起きている。 知識、技術(学問?)を得て、有名校にて学歴をつけ、その目的は地位であり名誉であり財である。売文の輩、言論貴族が走狗に入り、政財官の狡猾な群れのマスコットとなって煽ぎたてる一過性の流行迎言もそれを助長させている。
少欲の競争によって生産があり発展もある。
そこには「食」もあり、程よい「財」も有る。 両性扶助の調和による「色」ある。 また、それぞれの国に与えられた環境と、誇るべき伝統がある。
“似て非なる”国の文化的恩恵に感謝しつつも、宦官、科挙、纏足を否定した 我が国が学問の目的とするものに“曖昧な意志”をもち続ける限り、“似て非なる”国との「同化」は避けられない。
この貴稿は佐藤慎一郎先生との清談の後刻、それをもとに作成され、恵贈されたものである。それは四半世紀に亘って異民族との交流に導かれた証として、国内の机上学ではその理解の淵にさえ届くことのない人間の欲望を透徹した内容で満たされていた。
人間の尊厳を侵す権力執行者への普遍なる問題意識は、我国を覆う暗雲の行く末を逆賭するようである。
満州 新京にて
佐藤先生は常日頃、「本(もと)立って道生ず」と学問の前提を説く。また「人情は国法より重い」と、何気なくも普遍な循環基点を加える。かといって、人の織り成す歴史の事象に傍観することなく、「生きるもの、善悪無駄なものなし」と、その許容は茫洋なアジア観と登覧する威厳さえ見せる。しかし「枯木寒岩は寂しい、私は漏電して失敗したよ」と自(おのず)から賢愚を愉しむ風もある
指摘される因とその歴史は、禽獣と異なる人間の為すべき行為を教えてくれる。
そして歴史から問われる、吾は何を成すべきだろうか・・と。
H5 5/4 郷学研修会代表世話人 寶 田 時 雄
歴史に記されて中国官吏の実態「昇官発財」
佐藤先生「本文」
1.沈徳元(西太后の籠担ぎをしたことのある宦官)は、何のために勉強させられたか
彼は、撞州(直隷省天津府の州の一つ)県城の人。県城の自分の家の本家沈萬春の塾で、7才から11才まで、五年間勉強している。
読まされた本は
《三字経》(童農書、一巻、南宋の王応麟撰)、
例えば「養いて教えざるは父の過ちなり。教えて厳ならざるは、師の惰りなり」など。
《百家姓》
《大学》(古聖賢が述作した儒教の書、四書、つまり大学、論語、孟子、中庸の一つ。
《礼記》(“礼に関する理論と実際を記録した書”の一篇で、学問の根本義を示す)
《中庸》(経書、四書の一、礼記から中庸篇を独立させたもの、孔子の孫子思の撰とも伝えられている。天人合一の真理、中庸を説く前半と、その具体的運用である誠を説く後半とに分れている)
《詩経》(中国最古の詩集、経書の一、撰者不詳)
《論語》
岡本義男(哲山)
?「塾の先生は、“学問の目的”をどのように教えたか」
『“書中、自(おのず)から黄金あリ”と教えた』
?「学問をするのは、徳を磨くためでは、なかったのか」
「いや、徳を磨くためだ。“徳”は 得”なり。何か自分に得るものが無くては、それは本当の徳ではない、“書中自ら黄金あり”とは、本当であった。
でも、それほどではなかった。ただ、真心などというものは、実に幼稚なもので、利口な知慧には、かなわんという事が分った」
?「でも、うまい知慧とか、・言葉巧みに人をだましたりするより、へたくそでも誠を守り通した方が、よかったんじやないか」
「じょうだんじやない。利巧にたちまわらなかったら、死んでしまっただろう」
?「では、折角読んだ本は、投にたたなかったんだね」
「いや、本を読んだからこそ、その時々の巧い知慧も言葉もわいてきたのだ」と答えている。
彼の学問の目的は金銭にあり、一切の行動の目的は、金銭を目標にしたことから離れ
ていないことだけは、はっきりしている。
中国では、もともと
「徳は本なり、財は末なり」(大学)
で、学ぶ者にとって、他の修得は根本の問題であり、お金は末節のことであるというのが、儒教思想であったはず。ところが、この沈徳元のばあいは、それとは全く反対のようである。
そんなことでは
「鳥は食のために亡び、入は財のために死す」(中国の俗諺)
という俗諺と、それほど違いは、ないようである。
2. 学問の目的-食、色、財を得るため(真宗皇帝の勧学文)
中国では、学問の目的に就いては、古来いろいろな教えがあったようである。まず儒教の教えに聞いてみることにしよう。
儒教とは、修身高家治国平天下を招来するための学問であろう。
孔子(前552~前479年)は
「汝は君子の儒となれ、小人の儒となることなかれ」(論劃、雍也)
と教えている。
“小人の儒となることなかれ”とは、大局を忘れて、自分一個人のことしか考えないような学者には、なるなと云うことであろう。
君子とは、他の高い、天下を以て己れが任とする指導者のことであり、“君子の儒となれ“とは、そのような天下に忠をもった社会の指導者になるような学者になれ、ということであろう。要するに儒教における学問の目的は
「修己安人一一己れを修め人を安んずる」(論語、憲間)
ということであろう。朱子(1 1 3 0~1200年)は
「修己治入一己れを修め人を治める」(大学章句序)
と言っている
とくに前漢の第七代武帝(前14 1~前87年)が、儒教を国教としてからは、儒教の重みは一段と増し、その影響力は大きくなっている。
日本人は、現在の中国人を理解するばあい、どうしても、このような儒教思想を通して、理解しようとしているようである。
私自身の理解によれば、現在の絶対大多数の中国人の心の底を黙々として、しかも強烈に流れているものは、儒教思想ではなくして、むしろ極めて現実的な道教思想のようである。
道教とは、中国古有の神仙思想を根本とし、黄帝、老子を祖とし、陰陽五行説を取り入れたりして、不老不死を求め、錬金術(仙薬としての金を錬る)ト笙(占い)、祈祷などまでも取り容れている多神教である。
このように道教は、中国古有の民族思想に基きながらも、専ら功利的な現世的御利益を目標とした宗教であり、しかも今日の中国民族にも、はっきりと濃厚に生き続けている極めて現実的な宗教である
とくに、唐の第一代高祖(6.L8~626年)は、自分の姓は李”であり、道教の始祖老子の姓もまだ李”であることから、道教を格別信仰している。
そのため、道教は道教の範囲を越えて、儒教の聖人や、仏教の菩薩までも、その管轄下において、国家宗教的な色彩を濃厚にもつようになっている。
北宋の第一代太祖(960~976年)は、
「宰相とする者は、必らず読書入を用いるべきである」(宋史、太祖紀)
と言ったため、その後は非常に儒者を重んずるようになったと記るされている。
ところが、北宋第三代の真宗皇帝(997~1o22年)は、非常に熱心な道教の信者であった。泰山に対称の儀(封は、天を祭ること。禅は山川を祭ること。これは天子自らが、国威を中外に誇示するために行う祭りである)を行ったり、玉清昭応宮を創建して、道祖神を祭ったりしている。
このような道教の熱烈な信者、真宗皇帝に、学問を勧める文、「勧学文」がある。これには、学問の目的が、はっきりと示されている。
真宗皇帝の学問を勧める第一の教えは
「家を富ますに良田を買うを用いず、書中自ら千鐘(一越は、六石四斗)の栗あり」である。
家を富ますために、良い田を買って、一生懸命耕すようなことは、必要のないことだ。それよりも一心に本を読みさえすれば、高位高官となって、厖大な俸給を手にすることができる。そうすれば、莫大な量にのぼる粟、つまり食糧が、ひとりでに、どっさり入ってくるのだ、だから、学問に励めというのである。
論語には、孔子の言葉として
「君子は道を謀って食を謀らず。耕すやタイ(飢餓)その中に在り。学ぶや禄その中に在り」(衛霊公)とある。
指導者たる者は、道の修得につとめ、人格を完成させた上で、それを、他人に及ぼしていこうとすることを、まず第一に考えるべきで、食べていくこと、生活のことなどは考えない。
田、畑を耕すと、自然災害などで、飢餓に襲われることがある。学問は生活のための手段ではないが、徳を完成しさえすれば、ひとりでに俸禄がついてくる。だから、食うことなぞ心配せんで、一心に学問をせよ、というのである。
真宗皇帝の勧学文では、学問は完全に生活のための手段となっているようである。
真宗皇帝の第二の教えは
’「妻を娶るに良媒なきを恨むこと莫れ。書中女あり、銀玉の如し」
妻を娶るのに良い仲人がないなどと恨みがましいことを言う必要はない。真剣に本を読んでおりさえしたら、高位高官となり、金もたまる。そうすれば玉のような美しい銀をした女たちが、幾らでも押しかけてくる。だから学問に励めと教えている。ここでも自らの徳性を修得するためとは、一言も言っていない。
「婚娶して財を論ずるは、夷虜(野蛮人)の道なり」(隋、文中子)
結婚しようとする時には、たがいにその相手の徳性人柄を最大の問題とするのが本当だ。地位だとか、財産だとか、そんなものを問題として決めるのは、それは野蛮な種族たちのやることであると、文中子も、はっきりと言っていたはず。
真宗皇帝の第三の教えは
「安居高堂を架するを用いず、書中自ら黄金の屋あり」
安らかな生活ができるようにと、大厦高楼を建てる必要はない。本気で学問に打ちこんでおりさえすれば、立身出世して、黄金の一杯つまった部屋が、ひとりでに生まれてくる。だからこそ学問に専心打ちこめと教えている。つまり、学問即黄金だよと教えているようである。
私は中学時代
『財に臨みては、いやしくも得んとすること勿れ』(礼、曲礼)
お前らはお金を見ても、欲しいなどとは思うな。専心学問に打ちこめと学んだ。頭の悪い私ではあったが、この教えを、身体で覚えてしまった。私たちの先生は偉かった。先生自体、言葉で教えず、身体そのもので教えてくれた。だからこそ学生自身も、身体そのもので覚えたのだ。
「経師は遇い易く、人師は遭い難し」(宋・司馬光撰・資治通鑑)
というが全くその通りだ。経書を解釈してくれる先生は、いくらでもおる。しかし、身体そのもので教えてくれる、すばらしい先生は全く少ない。
・要するに真宗皇帝は、学問こそは人間の「食、色、財」の三つに直結していて、しかもそれを最高に解決しうる根本であると教えているようである。
しかもその結果、万世にその芳名を留めるほどの大学者たちが続々と現われたのである。
欧陽修(1007~1072年)、司馬光(1019~1086年)、朱喜(南宗等二代孝宗の侍講)(1 1 3 0~1200年)、程明道(1 1 3 2~1085年)、程伊川(1033~1 1 0 7年)、陸象山(1 1 3 9 ~ 1 1 9 2年)……いずれも北宋第三代真宗皇帝(997~1022年)直後から現われた大学者たちである
こうした宋代の学者たちが学問にその生涯を賭けたことと、真宗皇帝の勧学文の教えとの、因果関係については、私は知らない。しかし何となく、なるほどと思われる節が全く無いわけでもない。
(2)宦官になる目的一金儲けのため(昇官発財)
質問は私、返答は、宦官沈徳元(1943年2月10日、於北京)
「宦官になる目的は、何ですか」
「金です。金儲けができるからです」
「その外の目的は、ありませんか」
「金以外に、何があるものですか」
「名誉欲とか、権勢欲……はないのですか」
「それもみな、お金が欲しいからのことです」
、
「相当の金があって、宦官を希望する者はありますか」
「あるにはありますが、少ないです」
「あなたの両親は、なぜあなたを宦官にしたのですか」
「昇官発財、宮廷に昇って金を儲けるためです」
なるほど、宦官と、は、たしかに官吏の仲間である。「昇官」とは、官に昇る。官等が昇格することであり、「発財」とは財を発する、金を儲けることである。
「仁者は財を以て身を発し、不仁者は身を以て財を発す」(礼、大学)
心のやさしい人は、金が有れば、それを施して、わが身の徳性を磨きあげ、心のきたない人は、道にはずれたことをして、わが身を亡くしてまでも、金儲けしようとするものだという。
【去勢した宦官】
宦官を志して、去勢手術をしたばあいには、まずその割取した陰茎、陰嚢は、油で揚げられる。これを「宝」(BAO)と称している。
次に柳の枝で編んだ一升マスに、半分ほど石灰を詰め、その上に、その油で揚げた宝を置く。そのうえで更にその「宝」の上に石灰を一升マス一杯に詰める。一升ますの入口の外側の木には、その宦官の姓名、年令、手術した年月などが記入される。
最後に、その外の入口を赤い布切れで包み、梁の上とか、できるだけ高い所に架けておく。(嫌ってしまって置く人もある由)
・その意味は、一升マスの「升(マス)」は、昇とか同じ発音、同じ意味の字である。できるだけ高い官に昇って、『できるだけ多くの金を儲けられるようにと云う願いをこめて、自分の「宝」を「升」の中に入れて、高い所に掛けておくのだ』と、披は説明していた。
なおこの「宝」は、その宦官が死んだばあい、その棺桶の中の屍体の股間に必らず戻される。それは、彼が今後完全な入間として「再生」するために、絶対必要な処置であるという。さもなければ、来世には、馬なって生まれてくるとか、色々云われている。まさしく、本人にとっては、かけがいのない「宝」である。
またこのように貴重な「宝」については、それを質草とした話もある。またある男が質屋へ行って、自分の着物を抵当に金を借りようとしたが、思うような金を貸してくれなかった。憤慨した彼は、突然その場で自分の男根を切り取って、「三角」(三十銭)借せと叫んで倒れたという記録など、色々残されている。
要するに、男根を切り取ってまでも官吏となって金儲けしたいのだという。
中国では、官吏の実態は、その最初のうちは、君主の利益を守るための道具にすぎなかった。しかも官吏を任命するにしても、代々同じ家柄の人々の世襲で・あった。
ところが隋代(581~6 1 8年)になると、科挙試験(官吏登用試験)制度が定着し、官吏の地位、俸給は、世襲によらず、本人個人の能力によって決定されるようになった。
しかも、官吏の地位と俸給は密着しているため、官位が昇れば昇るほど俸給も高額となる。それで「昇官発財」は、官吏の魅力ある目標の一つとなったのである。
しかも、そのためにこそ、学問が非常に盛んになってきている。
(3)宮中、官界 官吏の実態一賄賂公行
1.清廉潔白な官吏もいる
中国では、天子は必ず「南面して立つ」。つまり南向きに位置して、天下の政を聴くことになっている。南は陽であり、陽は人君の位置だからである。 そのため天子の政を代行する官庁は、必ず南面して門が開かれていた。
清代の例に見ると、府県のお役所の長官の居る部屋のまん前の庭には、役人たちを訓戒するための言葉を彫った「戒石」と称する石碑が建てられていた。
その石の南面には『公生明』(公は明を生ず)
という三字が彫られている。これは「公は明を生じ、偏は闇を生ず」(闇とは、くらい、明らかでない、おろか)(荀子、不荀)という発子の言葉からとったものだろう。つまり、公正無私の心をもって、人に接すれば、明知が生じて世の中が明るくなり、偏頗(へんぱ)な私心にとらわれると、万事暗くなるといった意味であろう。
石碑の北面には
「爾俸爾禄、民脂民膏、下民易虐、上天難欺」
(北宋、第二代太宗976~997年の戒石銘)の十六文字が彫られていた。意味は
爾の俸、爾の禄は、民の脂、民の膏。下民は虐げ易く、上天は欺き難し。
お前たちの俸禄は、人民の膏血を絞った税金の一部分だよ。下々の人民は虐げ易いが、天の神様は、ごまかすことはできないよと戒しめている。
そして更に官吏の具体的な心得としては「清、慎、勤」の三つが要求されていた。
「清。|とは「請宿財を愛さず」で、清廉な官吏は、心から潔白で、金や物には淡々として見向きもしないものだ。清浄は天下を正す根本だと云うこと、「慎」とは、法令に従い、失敗のないようにするためには、まずその身を慎め。「勤」とは、精勤は、価の知れないほどの宝だ。骨を借しまず、勤めよ、励めと云うことであろう。
こうした戒石の心得の前では、官吏たちも悪事を働こうにも、手が出ないようである。
ところが、そのように厳粛公平なお役所のことを、民衆はどのように評価しているか、中国社会公認の俗諺に聞いてみよう。
「ハ宇児衛門、朝南開、有理無理銭来」(俗諺)
お役所の門は南向きに大きく開かれている。理屈があろうと無かろうと、金を持って来い。あるいはまた
「八字児衛門朝南開、有理投銭莫進来(俗諺)
お役所の門は、南向きにハ文字に大きく聞かれている。理屈が有っても銭の無い奴は、入って来てはいかん。と云うのである。
これが一般民衆が下した、お役所に対する定義である。
では、そのような官庁に働く、官吏たちはどうだろう。
中国では、政を正しく実施するには、民に直接接する官吏たちを清浄なものにするのが、最もよい方法であるとされていた
「敢を為すは、その吏を清くするより善きは莫し」(群書治要)と云っている。
官吏とは、一般には「君に仕える者」(説文)とされているが、「天子の吏」(礼、曲礼)とは、天子から直接指示を受ける臣、大臣たちのことである。したがって、官吏とは、皇帝の政治を代行する、すべての人のことである。
中国には清廉潔白な官吏もおる。歴史の記録から拾ってみることにしよう。
つづく