まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

ラダ・ビノード・パル

2007-07-04 11:46:41 | Weblog




極東軍事裁判(東京裁判)の連合国インド選出判事。
独自の意見書として「パル判決文」を起草したパル氏の遺影である。

ベンガル在住の御長男からの資料提供である。

関係する平凡社の下中弥三郎氏と子息邦彦氏、「パル博士の日本無罪論」を著した田中正明氏、懐かしくも想起する人たちである。

ことさら戦争の罪科を互いに問うものではなく、異なる文明と宗教にある考察の座標を超越した人の情がある。

「人情、国法より重し」

茫洋にも観えるアジアに意志の喚起を遺してくれた、独りの法律家の節操でもある。
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未だ木鶏に至らず

2007-07-03 17:16:17 | Weblog



当時、69連勝していた横綱双葉山は敗れたとき、外遊中だった安岡正篤氏に電報を打電している。

「いまだ、木鶏に至らず」

それは、負けたことに執着せず、逆に、騒がず、うろたえず、無闇に競わず、勝った負けた、あるいは言い負かしたと言っても、すべて自分の至らなさだと双葉山は悟ったのです。それは勝った相手に対する譲る心が無くてはできないことです。

「木鶏」とは中国の逸話ですが、左甚五郎が彫った日光陽明門の猫の逸話と同様、木で造った鳥のように落ち着いて、それでいて人が尊敬し、時には畏れられる人物にならなければならないということです。

おろかな人を責めるより、そうされないような人格と落ち着きを養う、その修養が足りなかったと、自分自身の至らなさを自覚すれば「未だ、木鶏に至らず」と応用できます。(至らない・・・成り得ない・たりえない)

名横綱として相撲界に名を残した双葉山の精神修養は、もう一歩、高いところにおいていました。

あわてず、騒がず、誇らず、金銭に執着せず、つねに落ち着いた行動を心がけたいものです
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