goo blog サービス終了のお知らせ 

まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あの頃・・・・瓦版への木鐸 「愛おしき産経よ」

2011-03-24 11:20:24 | Weblog
           
          台湾の礎を築いた後藤新平


筆者は数十年、産経の宅配を購読している
真面目な販売店の親爺と配達の若者に一種の情を感ずるのである。
それは記者、編集、印刷、配送、配達に単なるモノ作りではない使命感があると感じているからである。

その意味で、特価新鮮を札に掲げて呼び込みをする八百屋にたとえれば、一面のコラムは紙面の後に続く、政治、経済、文化、社会のセンターラインを貫く座標のようなものだろう。そこで署名のないコラムだが、各紙でも腕利きの書き手、つまり熟練した政治部あがりや、元老院を構成している一種の言論貴族、売文の徒に譬えられるような人物に委ねられるようだ。

ややもすると下座観が喪失して、ただ政局潮流に漂い灰汁拾いのようなモノ書きが出てきたり、終には木鐸意識が無くなり、存在そのものが権力を構成するようになる。

これを防ぐのは新聞砦の給料取りや、食い扶持記者の任では重過ぎる、いや吾が身を抓らずに人の痛みを書き連ねる彼等には、到底諫言できない類のものだ。
かれらは、それを「馴染まない」という。

そこで筆者も吾が身を抓らずに、記者をはじめとする産経の善男善女の痛みを勝手に察し、言論の秤の均衡を拙意を以って呈上することとしたい。




                 

          孫文葬儀に参列する頭山満 犬養毅


ことのほか中華民国、近頃では台湾に傾倒している産経が公開された外交文書についてコメントを載せている。
 筆者は今では産経の顔として、社内では「敬して近寄らず」存在の感がある石井英夫氏である。
 ことは、日台断交のウラ話として椎名悦三郎氏の訪台逸話についての筆者の考えと観方を、俗語を交えて寸描している部分である。
 椎名氏については、
「省くことを人生観として、ものぐさといっていいほど小事にこだわらず・・・オトボケを身上とした。 ・・・デモに囲まれ、タマゴやトマトを投げられた。それくらいはカエルの面に水(通常は゛小便゛)だろうが、交渉相手は、名にしおう蒋経国行政委員長・・・・いうなれば。タヌキとキツネの化かし合いだったのではないか。」 それは、
「ともかく顔を立てることに腐心した椎名に向かって」と、続くが

蒋氏は言う
「鉄砲が支配した日本は、内政不干渉の原則を守らなかったが、今の日本はペンが政治を掌握している。今回の結果が、鉄砲の支配よりさらに悪化することのないように願いたい」



                

            台北にある日本人教育殉難六士の遺影




「敵もさるものひっかくもの・・・」と、蒋氏の言葉を勝手に忖度するような雰囲気で、
産経以外の中国にオベンチャラを書く他紙を批判している。
 
「こうして、北京の空は青かった、ハエやカは一匹もいなかった、式の偏向報道が溢れたのである」

 ことさら章をピックアップして揶揄しているわけではない。
 いまだ正式名を「中華民国」としている国に、その正当なる国家意思と矜持を義を以って交渉に臨む国家特別使節(特使)を単に、説家の如く茶化している筆者の姿を理解できない。 真摯な矜持が観得ない。
 
 此処では日台断交ではない。 日本による中華民国の切捨てである。

 椎名氏はともかく、蒋経国氏は決して狸と狐の化かしあいの百戦錬磨ではない。
筆者は、゛双方、分かっているが、それぞれの国内事情もあり、体面を取り繕う場であり、「顔を立てる」ことに腐心している゛と、不真面目にしかも軽薄に観察している。

日本軍の南京爆撃で母を亡くし、一時はモスクワ留学、反蒋運動を唱えた蒋氏である。
また、台湾に逃避しなければならなかった国民党の真の要因は、政権の堕落であったと多くの道徳運動を提唱している。

父親、蒋介石も「国家の維」の重要さを憂慮して「新生活運動」を提唱している。
安岡正篤氏が「蒋氏が納得できる撰文」と、呈上した章中にも記載されているはず。



                

            側近の山田純三郎  孫文


一方、椎名氏は満州国の植民地官僚。たしかに今時の政治家、官僚とは異なる鎮まりのある人物ではあるが、そうそう「あうん」が通用するとは、彼の歴史体験からはないだろう。
一方の理屈から棄てることに、どんな麗句ももいらない。
文章記述を生業にするものは、得てして情緒の欠落を生む。 とくに国家交渉を配信する場合は特定地域に育む心からの観点が必要だろう。

たとえば、
「椎名氏は万感のおもいで蒋氏に詫びた。蒋氏は、問わず語らず、その意を認め、永劫の華日民族の友誼と、相協力した亜細亜平和の希求を誓い合った」これは小生の作文である。

だが、「汚職議員に検察が動く模様」とか、「危ない金融体制」と国民の思考を、ことさら覗き見や、脅し、予想に誘引する筆技があるなら、これくらいのことは朝飯前だろう。 
かりにも貪官政治体制ではなく、国家の意思に矜持を添えた国家特別特使と国家代表の談である。

一方で台湾派と化粧しても、゛おごり゛は沈殿している。
産経も柴田記者が追放された頃、あるいは現地情報源が閉ざされた頃、中国報道は正鵠を得ていた。
ことは、現地にいて伴食を食んでいることではない。たとえば、政治部や販売部は
プロであっても、新聞の存立する「本」とは異なる゛臭い゛がすることを読者は分かっている。
現在、産経は北京支局があるはずだが、特派員がいなかった頃と、どう紙面が変わったのだろうか。

 読者の願いはトップ屋のスクープより、わが国の心で事象を観察する紙面だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

拝啓 石原慎太郎東京都知事 殿   07 5/29稿 再掲載

2011-03-10 11:06:23 | Weblog
≪耳目を集める派手さはないが、施政の前提にはまことに地味なものだ。知事には建策を添えて呈上したものである≫


■「小学」の再考と活用


拝啓 東京都知事 
   石原慎太郎 殿

 またぞろ少年非行にスポットがあたっている。「都、10月にも緊急提言 夜間コンビニ入店規制 父親の地域行事参加 酒やタバコ自販機撤廃」ばかばかしくも有識者といわれる充て職委員の一過性対策だが、世情と歴史の残像を俯瞰していると認識していた貴殿の施策かと驚いている。 

 分別是非は公私や、性別、年齢にも当てはまる。その是非判断の分別は強制的にでも習わなければならない。問題となっている因は、地域、国家固有の習慣学習である躾や自己の存在認識を習得する「小学」の消滅にある。たかだか官制学歴に埋没し、国家が最低限おこなうべき知識、技術の習得以前である「小学」の存在を理解も乏しく破棄したために起きている為政者の罪科でもある。

 公私格差是正という見当違いな施策によって起きる錯覚した助成は、建学、創建の精神といったが意志が、商業的、マス的といった食い扶持経営に劣化すると共に、屁理屈というべき官側の普遍意識を掲げた峻別責任の逃避が人間の成長順化に沿った矯正を妨げたとも言っていい。
 
 明治天皇が侍従元田永芋に諭した聖諭記を喩えにするまでも無く、人の成長過程に沿った習得は「人物から学ぶ」ことだと教えている。 そして「相」となるべき人材育成のない帝大カリキュラムに苦言を述べている。
 官制教育システムの無力化は、幼児教育を経て明徳を旨とする「大学」を修める大学校まで、官の庇護を対価とした管理マニュアルに惰眠を貪っている教職員の問題意識の欠如と、識者の謂う戦後婦女子の教育の錯行が主因であり、「本立って道生ず」にある知識習得の前提である「小学」の忘却にあるようだ。

 戦後婦女子の子育ては公園デビュー、PTAデビューと揶揄されるように、人間教育の意もなく、かといって教師にも入学時の集団矯正学習の認知もない。北京、台北の小学校では考えられないような「小学」欠如の実態である。もし社会のムーブメントとして真摯に考えるのなら蒋介石総統の提唱した「新生活運動」もその鑑となろう。

 経済界でも5Sというトヨタの看板方式が企業再生の妙として持て囃されているが、そこに謳われている整理、整頓、清潔、等は、すべて「小学」にある習慣学習であり、人の倣いである。

 あるいは国家衰亡の兆しの徴である、「政外、内外、謀弛、敬重、女 」という隣国の警醒の言である「五寒」は世情を憂慮するものを震撼させる。


 これも解決は小学に観る

 明治初頭に小学は尋常という冠を敢えてつけて尋常小学校とした見識があった。「常を尋ねる」あわてず、さわがず、平常心を涵養する。死地に臨んで『尋常に勝負せよ』もその意であろう。下中弥三郎は文部大臣懇請の際の条件に、「人生で酸いも甘いも噛み分けた人格者を小学校の校長として、教員の最高の給与を支払う。もう一つは国立大学全廃」もちろん官制学歴マニュアルしか判別基準のない貪官には理解のすべもない。

 大学があって高校、中学、小学校があるのではない。「小学」は厳存している。あの西郷ですら読書の感想を求められた際、「それは本の解説でしかない。おまえはどう理解したのか」と、諭され再度「小学」に没頭し自己探求に勤しんでいる。

走狗に入った言論貴族や売文の輩は、こと少年の問題に際してことさら無責任な言動が際立つ。曰く犯罪の低年齢化、曰く個性の尊重、これらは我が国知識人の幼児性をみる。世界中の子供たちは6歳になると種々既存の施設教育に入るが、男女7歳にして席を同じくせずの譬えがあるとおり、性交可能な年齢を慮ったことである。

 これも消費資本主義の掃き溜めなのか、あのヒラリー・クリントンはダボス会議で、「我が国が民主主義とともに奨めている消費資本主義はさまざまな影響を与えているが、とくにその影響を受けている女性、子供に多くの問題を抱えていることを注意しなければならない」と述べている。

 インドの司法家、ラダ・ビノード・パルも敗戦に打ちひしがれた日本の男子、女子に対し、敢えて欲望のコントロールについて西洋的な自己の存在表現を謳う「宣伝」について注意を促している。デモ・クラシーがデモ・クレージーに化したような、色、食、財の欲望の表現と質が隣国に同化しつつある状況ではあるが、社会という名に矮小化された国家の衰亡に際し、あの孫文が「真の日本人がいなくなった」と嘆じた同憂がある。

 あえて官制学歴の一端にもない「小学」の再考と、施策方針の前提として呈上したい。あの民族には知恵を養うタルムードがあり、隣国は儒を装った遭場作戯という独特の技を磨いている。いずれ訪れるであろう民族の存在意義の模索は、行動表現の普遍価値である、勤勉、正直、礼儀、忍耐の矩を歴史の残像にもつ日本人の復元と小学の再考活用なくして確立するものではなく、畢竟、邦家は興る筈はない。                                                  頓首
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安岡正篤氏の慙愧と無念

2011-03-06 17:44:00 | Weblog
            受ける縁もなく鎮する兵士




氏の著書、続「人間維新 明治新百年の変遷」で自らの実体験をつうじて慙愧と無念をこの様に述べている。

「ともかく太平洋戦争で日本は国際謀略というものに引っかかって敗北した。決して物量に敗れたとか、なんかというような簡単なものではない。ということを諸君は知っておいてよろしい」

大東亜を開放する大義を「大東亜戦争」と称していたが、「太平洋」は戦闘の場所であるとみる日本では「大東亜戦争」というのが本意であろうが、ここでは問わない。

どうして、誰に、「引っかかった」のか。
その「国際謀略」とはどのようなものなのか。
謀略に引っかからなければ負けなかった。物量は論外だ、ということか。
それは単に「してやられた」の類ではない。

今から考えても、数値的にも世界の状況を俯瞰しても負ける戦争に陥ったこことの理由にその心情を綴ったものではない。安岡氏とて意志ある戦争であったことは、終戦の詔勅に「義命の存するところ」を挿入したことでも解る。
その「義命云々・・」は「時運」に換えられて発表されたが、安岡氏は事あるごとに「慙愧に耐えない」と語っている。「時運の赴くところ・・」は風の吹き回し、つまり流れに乗って何となく、という意味であり、これでは天皇の言葉ではなく、いわんや戦禍に倒れた兵士が浮かばれないとの考えだった。

安岡氏がその謀略を知ったのは戦後しばらく経った頃である。それまでは信じていた行動であり、「どうしてなんだろう」と泥沼に誘引されるような戦況に戸惑った近衛文麿と同様な浅慮であった。孔子の国の人物の風格に利用され操られたのである。近衛はその人物と親密な関係のあった尾崎ホツミの献策を鵜呑みに信じた。

その安易に「信」をおく行動は、大人(たいじん)と尾崎が意図した日本陸軍の力を削ぐ企てと、安岡、近衛両氏のほか、西園寺、牧野に連なる国維護持に危機をいだく共通の患いが見て取れるのである。だから安易に乗ったともいえるのである。
昔は陸軍、いまは官僚といわれるほど官域の増殖と伏魔殿のような既得権の闇は、くもの巣のように国家を覆っている。

たとえば、その巨大な官僚組織を改新しようとしても政治家や第四権力では相手にならない。ならば外国の強引な規制緩和の要求や領土問題での問題処理への圧力を利用するしかないと、外国と意を通じた場合、かえって国柄まで変更を要求されたり、国民生活は銃無き収奪を受けたりするようになる。
また、政敵を倒す為に教科書問題や靖国問題を中国にご注進したり、規制開放を米国の要求として政府に突きつけるような売国の徒も出てくる。

阿諛迎合が民癖といわれる日本人ではあるが、それこそ党利党略の組織的間諜である。
あの明治維新でも幕府にはフランス、薩長にはイギリスが援助を添えて利権を窺ったが、あの頃の日本人は断固拒否している。それ以来、軍および軍官吏の増長は国家の暗雲として生活の隅々まで漂った。その大部分は義も忠恕もない立身出世に躍ったエリートの人物劣化であるといっていいだろう。

白足袋風と人物を評することがある。
つまり地下足袋も履いたことも無く、地に這うこともない一種の貴族的な位置を誉れとする人物である。机上の漢籍を駆使する説家と処世を睥睨する宮家の御曹司の企ては、肉体的衝撃を業とする職業軍人には正面切っては通じない。ならば陸軍の増長に対抗する海軍がそのよき理解者となるのは当然こと、米内、山本の親交も逸話にあり安岡氏は大東亜省の顧問に推挙されている。

先に書いた大人(たいじん)の謀略機関は、真珠湾攻撃の三週間前から決行日、司令官まで知っていた。それはその組織の資金を担っていた英国武官パイル氏を通じてチャーチル首相に伝わっていたと考えるのは自然なことだ。もちろんルーズベルト大統領にも伝わり、その最初に戦端を開かせる謀略は成功し、米国の世論を開戦に誘導した。
その事情は数多の研究者に任せるが、問題は大人にその情報を誰が伝えたのか、あるいは、゛何とはなしに゛呟いたのか、それが問題だ。

戦端の経緯ではなく、そこまで連なった人間関係が知らせた内容は、勝敗云々より、「日本がはじめに平和を破壊した」という、消すことの出来ない歴史の記述が、日本および日本人の培った本意を毀損したこと、それが真の慙愧であり無念なのだ。
つまり軽薄で好戦的な民族との印象の浸透が、後顧の憂いを将来に残すことになることへの危惧が、現実の外交の煩いとして降りかかっているのだ。

それは国維の毀損を憂慮した安岡、近衛両氏や宮中重臣の醇なる謀としてみることもできるが、明治以降の大陸伸張を主導した陸軍の既得権益が増大し、それを制御すべき議会の形骸化は外地の現状追認に陥り、ついには連綿と続く国家の方向性を歪め「維」を毀損する行動が横暴に映った。一方、それを別の切り口で見ていた勢力は力や流れに正面から対抗するすべも無く、秘めて潜行した「策」を秘めて遂行するに当たり、利用するつもりで騙された結果に、脇の甘さを自省の念をこめて吐露しているのである。




                    







重複するが、仔細は筆者の以前記したブログから転載したい


それは肉体的衝撃の届かない位置での企てであったがために、大が小を倒すには他力による謀略しかないと認めた末のことではあった。
また、大謀であるからこそ、見えないものであり、まさに大謀は図らずでもあった。

しかし、彼らもそれを上回る大謀に利用され翻弄された。それは近衛の死によって覆い隠された。いや、床の間の石のように操った側近の大謀隠蔽であっても近衛は石の役割として受容しただろう。

近衛の意図を具現しようと奔走したのは尾崎秀実である。近衛の父によってつくられた上海の東亜同文書院の関係者や、松本、樺山との連携は、尾崎をして理想国家建設の夢を米英ではなく、大同思想に似た共産思想の本家ソビエトへの期待とともに通牒は至極容易なことでもあった。

尾崎は本願を懐にして満鉄調査部に席をおき、蒋介石国民党軍事委員会国際問題研究所との接触、北進を南進に転換させ英米と衝突させて早期和平に結ぶ意図と、逆にゾルゲの意図にあった日本軍ソ満国境から南転、ソ連精鋭部隊は陥落直前であったモスクワ戦線に転進、謀略によって描いた歴史の事実はそのとおりになった。

しかし、これとて20世紀における大謀の一端としては至極当然の帰結として描けるものだということは、戦後の版図の書き換えと思想勢力の勃興と衰退を考えると理解できることでもある。

国際問題研究所の資金は王立国際問題研究所 英国諜報機関M16のパイル中佐を通じて拠出されている。もちろん北進から南進に転ずることも、あるいは真珠湾攻撃の3週間前から配置、司令官名まで筒抜けだった。
尾崎のあまりに純粋な精神は、意図する結果ではあるが、総て利用される結果となった。尾崎の真の意図は安岡の漢詩にある国内の「塵」の排除にあった。近衛もそうだったろう。

ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するにある。トップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。
盧溝橋、通州、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のための蒋介石打倒の国内闘争に利用されたのである。
国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は、形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。

そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そして巧妙な時間差を経てルーズベルトには伝わっている。

満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。

尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉綿綿亭に投宿して懇談している。(陪席は新潟県令)
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか、この実直すぎる行動もソ連に対する思い込みと先手を打った米英の大きな謀略構図により、戦後は悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。

そして自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を一足飛びに異なる方向に着地させた。これを民主、自由という薬剤を使った治癒の好転反応のように見るむきもあろうが、唯々諾々、阿諛迎合という悲哀を含んだ従前の指導勢力の残滓でもあろう。つまりここでも断ち切れない錯覚した人物像の残影がみてとれる。

マッカーサーが伝統を・・ 日教組が教育を・・ 共産勢力が・・・とその因を求めるが、毅然として拒否できなかった日本人がいたことも忘れてはならない。

時を経て浮上した結果を論ずる前に、受け入れない見識と歴史に対する責任を先見する「相」の存在が枯渇していたこともあるが、疲弊から富への欲求が総てを既成事実として看過した敗戦国の人間の姿でもあろう。

尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。

渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。

登場人物、関わりのあった人々は愛国者であった。それが結果として稚拙な謀だとしても恥ずべきことはない。被害者はアジアの民であった。総てその渦のなかにある。

ただ考えられることは、戦後安岡が心血を注いだ国維に基づく真のエリートの育成は、結果として辿り着いた安岡の運動だった。俗世の浮情を憂い、地位、名誉、財力を忌諱して郷学作興に賭けた熱情は歴史の栄枯盛衰を教訓とした実学でもある。

しかも、無名でなければ有力に成りえず、と導く考えは、地球史、世界史を俯瞰する多面的、根源的歴史観であり、かつ、そのことを理解するには人間の尊厳と営みに対して自らを下座に置く沈潜の勇気が何よりも重要な学問だと促している。
空襲下、あの市井に潜む無名な岡本に応対する安岡の真摯な姿勢を歓迎したい。

あの企ては間違っていなかった。謀と言うには余りにも実直な行為だった。まさに、「邦おもえば国賊」の境地であった。そして彼らは鳴らした警鐘は未だ途切れることなく聴こえてくるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする