受ける縁もなく鎮する兵士
氏の著書、続「人間維新 明治新百年の変遷」で自らの実体験をつうじて慙愧と無念をこの様に述べている。
「ともかく太平洋戦争で日本は国際謀略というものに引っかかって敗北した。決して物量に敗れたとか、なんかというような簡単なものではない。ということを諸君は知っておいてよろしい」
大東亜を開放する大義を「大東亜戦争」と称していたが、「太平洋」は戦闘の場所であるとみる日本では「大東亜戦争」というのが本意であろうが、ここでは問わない。
どうして、誰に、「引っかかった」のか。
その「国際謀略」とはどのようなものなのか。
謀略に引っかからなければ負けなかった。物量は論外だ、ということか。
それは単に「してやられた」の類ではない。
今から考えても、数値的にも世界の状況を俯瞰しても負ける戦争に陥ったこことの理由にその心情を綴ったものではない。安岡氏とて意志ある戦争であったことは、終戦の詔勅に「義命の存するところ」を挿入したことでも解る。
その「義命云々・・」は「時運」に換えられて発表されたが、安岡氏は事あるごとに「慙愧に耐えない」と語っている。「時運の赴くところ・・」は風の吹き回し、つまり流れに乗って何となく、という意味であり、これでは天皇の言葉ではなく、いわんや戦禍に倒れた兵士が浮かばれないとの考えだった。
安岡氏がその謀略を知ったのは戦後しばらく経った頃である。それまでは信じていた行動であり、「どうしてなんだろう」と泥沼に誘引されるような戦況に戸惑った近衛文麿と同様な浅慮であった。孔子の国の人物の風格に利用され操られたのである。近衛はその人物と親密な関係のあった尾崎ホツミの献策を鵜呑みに信じた。
その安易に「信」をおく行動は、大人(たいじん)と尾崎が意図した日本陸軍の力を削ぐ企てと、安岡、近衛両氏のほか、西園寺、牧野に連なる国維護持に危機をいだく共通の患いが見て取れるのである。だから安易に乗ったともいえるのである。
昔は陸軍、いまは官僚といわれるほど官域の増殖と伏魔殿のような既得権の闇は、くもの巣のように国家を覆っている。
たとえば、その巨大な官僚組織を改新しようとしても政治家や第四権力では相手にならない。ならば外国の強引な規制緩和の要求や領土問題での問題処理への圧力を利用するしかないと、外国と意を通じた場合、かえって国柄まで変更を要求されたり、国民生活は銃無き収奪を受けたりするようになる。
また、政敵を倒す為に教科書問題や靖国問題を中国にご注進したり、規制開放を米国の要求として政府に突きつけるような売国の徒も出てくる。
阿諛迎合が民癖といわれる日本人ではあるが、それこそ党利党略の組織的間諜である。
あの明治維新でも幕府にはフランス、薩長にはイギリスが援助を添えて利権を窺ったが、あの頃の日本人は断固拒否している。それ以来、軍および軍官吏の増長は国家の暗雲として生活の隅々まで漂った。その大部分は義も忠恕もない立身出世に躍ったエリートの人物劣化であるといっていいだろう。
白足袋風と人物を評することがある。
つまり地下足袋も履いたことも無く、地に這うこともない一種の貴族的な位置を誉れとする人物である。机上の漢籍を駆使する説家と処世を睥睨する宮家の御曹司の企ては、肉体的衝撃を業とする職業軍人には正面切っては通じない。ならば陸軍の増長に対抗する海軍がそのよき理解者となるのは当然こと、米内、山本の親交も逸話にあり安岡氏は大東亜省の顧問に推挙されている。
先に書いた大人(たいじん)の謀略機関は、真珠湾攻撃の三週間前から決行日、司令官まで知っていた。それはその組織の資金を担っていた英国武官パイル氏を通じてチャーチル首相に伝わっていたと考えるのは自然なことだ。もちろんルーズベルト大統領にも伝わり、その最初に戦端を開かせる謀略は成功し、米国の世論を開戦に誘導した。
その事情は数多の研究者に任せるが、問題は大人にその情報を誰が伝えたのか、あるいは、゛何とはなしに゛呟いたのか、それが問題だ。
戦端の経緯ではなく、そこまで連なった人間関係が知らせた内容は、勝敗云々より、「日本がはじめに平和を破壊した」という、消すことの出来ない歴史の記述が、日本および日本人の培った本意を毀損したこと、それが真の慙愧であり無念なのだ。
つまり軽薄で好戦的な民族との印象の浸透が、後顧の憂いを将来に残すことになることへの危惧が、現実の外交の煩いとして降りかかっているのだ。
それは国維の毀損を憂慮した安岡、近衛両氏や宮中重臣の醇なる謀としてみることもできるが、明治以降の大陸伸張を主導した陸軍の既得権益が増大し、それを制御すべき議会の形骸化は外地の現状追認に陥り、ついには連綿と続く国家の方向性を歪め「維」を毀損する行動が横暴に映った。一方、それを別の切り口で見ていた勢力は力や流れに正面から対抗するすべも無く、秘めて潜行した「策」を秘めて遂行するに当たり、利用するつもりで騙された結果に、脇の甘さを自省の念をこめて吐露しているのである。
重複するが、仔細は筆者の以前記したブログから転載したい
それは肉体的衝撃の届かない位置での企てであったがために、大が小を倒すには他力による謀略しかないと認めた末のことではあった。
また、大謀であるからこそ、見えないものであり、まさに大謀は図らずでもあった。
しかし、彼らもそれを上回る大謀に利用され翻弄された。それは近衛の死によって覆い隠された。いや、床の間の石のように操った側近の大謀隠蔽であっても近衛は石の役割として受容しただろう。
近衛の意図を具現しようと奔走したのは尾崎秀実である。近衛の父によってつくられた上海の東亜同文書院の関係者や、松本、樺山との連携は、尾崎をして理想国家建設の夢を米英ではなく、大同思想に似た共産思想の本家ソビエトへの期待とともに通牒は至極容易なことでもあった。
尾崎は本願を懐にして満鉄調査部に席をおき、蒋介石国民党軍事委員会国際問題研究所との接触、北進を南進に転換させ英米と衝突させて早期和平に結ぶ意図と、逆にゾルゲの意図にあった日本軍ソ満国境から南転、ソ連精鋭部隊は陥落直前であったモスクワ戦線に転進、謀略によって描いた歴史の事実はそのとおりになった。
しかし、これとて20世紀における大謀の一端としては至極当然の帰結として描けるものだということは、戦後の版図の書き換えと思想勢力の勃興と衰退を考えると理解できることでもある。
国際問題研究所の資金は王立国際問題研究所 英国諜報機関M16のパイル中佐を通じて拠出されている。もちろん北進から南進に転ずることも、あるいは真珠湾攻撃の3週間前から配置、司令官名まで筒抜けだった。
尾崎のあまりに純粋な精神は、意図する結果ではあるが、総て利用される結果となった。尾崎の真の意図は安岡の漢詩にある国内の「塵」の排除にあった。近衛もそうだったろう。
ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するにある。トップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。
盧溝橋、通州、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のための蒋介石打倒の国内闘争に利用されたのである。
国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は、形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。
そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そして巧妙な時間差を経てルーズベルトには伝わっている。
満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。
尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉綿綿亭に投宿して懇談している。(陪席は新潟県令)
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか、この実直すぎる行動もソ連に対する思い込みと先手を打った米英の大きな謀略構図により、戦後は悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。
そして自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を一足飛びに異なる方向に着地させた。これを民主、自由という薬剤を使った治癒の好転反応のように見るむきもあろうが、唯々諾々、阿諛迎合という悲哀を含んだ従前の指導勢力の残滓でもあろう。つまりここでも断ち切れない錯覚した人物像の残影がみてとれる。
マッカーサーが伝統を・・ 日教組が教育を・・ 共産勢力が・・・とその因を求めるが、毅然として拒否できなかった日本人がいたことも忘れてはならない。
時を経て浮上した結果を論ずる前に、受け入れない見識と歴史に対する責任を先見する「相」の存在が枯渇していたこともあるが、疲弊から富への欲求が総てを既成事実として看過した敗戦国の人間の姿でもあろう。
尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。
渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。
登場人物、関わりのあった人々は愛国者であった。それが結果として稚拙な謀だとしても恥ずべきことはない。被害者はアジアの民であった。総てその渦のなかにある。
ただ考えられることは、戦後安岡が心血を注いだ国維に基づく真のエリートの育成は、結果として辿り着いた安岡の運動だった。俗世の浮情を憂い、地位、名誉、財力を忌諱して郷学作興に賭けた熱情は歴史の栄枯盛衰を教訓とした実学でもある。
しかも、無名でなければ有力に成りえず、と導く考えは、地球史、世界史を俯瞰する多面的、根源的歴史観であり、かつ、そのことを理解するには人間の尊厳と営みに対して自らを下座に置く沈潜の勇気が何よりも重要な学問だと促している。
空襲下、あの市井に潜む無名な岡本に応対する安岡の真摯な姿勢を歓迎したい。
あの企ては間違っていなかった。謀と言うには余りにも実直な行為だった。まさに、「邦おもえば国賊」の境地であった。そして彼らは鳴らした警鐘は未だ途切れることなく聴こえてくるようだ。