知ったら、想像して、体感してみよう。
学問は行動と化して、はじめて学問の成果という (佐藤慎一郎」
よく戦略とあるが、この場合の略は「戦」をどうするか、こうするかの問題だ。
この「戦」がつくと情報戦、経済戦があるが子供たちの受験戦争もある。
これらは相手より、より多く、より早く、より高度な戦を仕掛け勝利することだが、なかには正対する堂々とした戦いではなく、騙し、欺き、隠す、といった狡知が「術」としてマニュアル化されているものもある。現代はそれは常態化していると云ってもいい。
たとえば、「代議士は人を騙して雄弁家という」が、先ずは錯覚させることが巧い話し方だと、妙に唸らせることが代議士の資質だと覚らせる術がある。立派な内容などは昨今の聴衆にとっては、難しくもうっとうしいことがその理由だ。
その錯覚だが、暴力的武力を「勇」、詐欺的能力を「智」、贅沢を「幸」とする世情なり、成功価値を醸成する「略」が前提となるが、強者への羨望や依頼心が政策的迎合になることを民の習性として熟知した為政者の術策でもある。
よく、国民は困窮しているが独裁的為政者はヒーローとして歓迎されている国家や、とてつもない財力を蓄えた新興成金が歓迎され、ときに目標とされる状況は、閉鎖的情報、画一的思考、宿命的怠惰などに錯覚した未来観があると先導する術策だ。しかも土地環境に習慣化された宗教、固陋な掟や諦観なり民癖を読み取った巧妙な人略、地略でもある。
往々にして独裁的強権に表れるが、あの他民族地域を束ねた中国も専制への批判はともかく、歴代王朝の封建を倒した辛亥革命の孫文、袁世凱はもとより、新生国家毛沢東でさえ、主義主張はともかく専制でなければ砂のような民はまとまらないことを熟知していた。
たとえ、借用思想の共産主義でさえ、最初の唱えは自前の「大同思想」の似たもの転用であり美唱だったが、一方では北方の隣接国ソ連と同じ顔を装う理由があった。元も清もソ連もあるいはその防御としての万里の長城も、すべて北方侵入からの恐れだった。
地政学は今の日本人の発想には乏しいが、孫文は東京駅の喫煙室での桂太郎との会談で、日本の人口増大を解決するために満州の共同経営を語った。
その満洲の考え方としてロシア革命の先導者ゲルショニが孫文に
「シナの革命が成就したらロシアの革命に協力してほしい」と云うと、
「万里の長城以北はわれ関せず」と応えている。
その孫文が桂に云った。
「日本の人口解決は満洲だ。満州を日本の手でパラダイスを築いてほしい。しかしシャッポ(名目的でも頭)は中国人だ。そしてロシアの南下を防いでほしい。もし事情が許せば日中の国境を撤廃してでも協力してアジアを興したい」
「いまは総理を退いているが、その任に付けば実行しよう」
桂と孫文は黙って立ち上がって固い握手をしている
その後、三井の満州買収計画などがあったが、孫文は桂との約束通り蒋介石(石岡という日本名)と丁人傑、陳基美、側近山田純三郎を満州に派遣している。(三回)
その現地工作で協力されると思われた頭目に騙されて帰ってきた蒋介石は顔を真っ赤にして「騙されました」と、真摯にわび、その姿を見た秋山真之、犬塚満鉄理事は蒋介石に好感を持ち「今度何があったら援けよう」と云っている。
寳田時雄著 佐藤慎一郎先生監修 「請孫文再来」ブログ版 抜粋
「天下為公」 キンドル版 公開中
つまり、満州はロシアとの緩衝地帯であり、当時のシナの管轄地でもないことを孫文は語っている。だだ、清朝が倒れてときの革命宣言文では満州も管轄地と明記されたが、その時孫文はハワイに滞在していて関知していなかったという(山田純三郎談)
その後、満州を売る話があったが、当時の幣原外相は「日本人の貴い血を流した満州を買うなら、現地人を総て海に投げ込んでからなら・・・・」と、横柄な態度で追い返している。
思い通りになる相手とは交渉し、ことごとく孫文を排除してきた日本の態度に、孫文が、共産主義は大同思想と同じではないか、と忸怩たる気持ちでソビエトと関係を持つようになったが、ボロジンや欧米工作員の促しがあった。それも日本の偏狭なる対応と現地派遣軍への追認せざるを得なくなった議会人の堕落や軍の増長が結果を誘引したと云ってよい。
この力(覇道)を、日本の繁栄や威力と錯覚した人たちが、まさに群れとなって歴史を導いた。
その陸軍だが、明治の拙速的吸収は戦術論、つまり対外環境の切迫さもあったが、どのよ
うに破壊し、人的損害を与えることが主となり、そのための組織論となった。
後世の売文の徒は「孫文は裏切り者」と切り捨てるが、人の話を真剣に聴き、真剣に応答したことがあるのか、聴いてみたい。
夜郎自大となった軍部、追従した議会人には孫文が嘆いた「真の日本人」を追求したのだろうか。
たとえ忌まわしいと思っても、痛い歴史を探られようとも、日本人、いや普遍なる人情を交わす隣人に対する大人の態度ではない。>
ならば、他国へ進出する軍人そのものはどのようにあるべきか、参謀本部や将官は占領地をどう運営するか、それはマッカーサーの軍政を比較してみることだ。
ことに、司令官の人格識見が優れているうちは良いが、妾帯同や利権確保などに夢中になられたら兵士も占領地も堪らない。単なる善い人に当たったらよいが、ごろつき無頼の司令官に当たったら惨禍は戦闘より長期的収奪のほうがより悲惨さを生んでしまう。
「術」はナルホドだが、「略」が落第では、高学歴無教養のテンプラ知学で選別された学生が、社会では使いものならないことに、ことのほか類似している。
与える財があるうちは良いが、これが進駐指令官や外交官では国家の行く末は容易に見えてくる。
日中問題の一例だが、これとて様々な切り口と認識があろう、また読み取り情報の虚偽や錯誤もあろう。だだ、当事者からみれば適切であっても相手のあること、術策を超えた普遍的な人の関係「人略」、己の位置なり環境を多面的に観察する「地略」、歴史観と時の流れを(機会)を考察する「機略」が、いくら緻密でも補えないことがある。
それは「我が身をツネって人の痛みを知る」情感であり、一方は欲望のコントロールは地域、一国にかかわらず地球を俯瞰視する略、つまり一族、一家、一国にとらわれない良質な情感や想像力を基にした「大経綸」が必要となってくる。
後藤新平
鶴見俊介氏の母の父は後藤新平、父はエリート外交官鶴見祐輔、その父を評して「父は、俳句は作れない。俳句は情緒性を培うものだが、父はエリート選別に勝つために多くの友人を無くし、そのために情感さえ衰えさせた」という。
俊介氏の姉は鶴見和子氏、あの神社合祀による産土神の破壊を危惧し、自然と精霊と人間の作り出す日本人の情緒性を守った南方熊楠氏の研究では第一人者だ。しかも陛下は熊楠の情感に同感し和歌山県田辺にお召艦で行幸され、親しく懇談している。また熊楠は大英博物館では熊楠の椅子と称するものまであり、留学中の孫文との親交も多くの逸話をのこしている。
稿は「請孫文再来」(天下為公)に譲るが、その孫文と鶴見祐輔の会談、孫文と台湾民政長官だった後藤新平の逸話も併せると、機略、人略の要がよくみえてくる。これも縁を頼った孫文との会談だが、児戯に等しいくらい応答が噛みあわない滑稽さが優秀外交官の姿なのだろう。
為政者は、人々からせっつかれるような金銭欲や食欲などの恣意的(ほしいままにする)我欲のコントロールを、これも恣意的な宣伝によって毀損され、国民も自らの行く末をいたずらに恐れ、気ぜわしく競争し,相戦うことを亡羊な気持ちで憂慮している。
彼らにとっては、地政学ですら欲望の充足にともなう大小の恐れと、それに対する策略だろう。誰が敵になり味方になるか、あるいはどの様に変化(気変わり)して逆転するか、狡猾な気分を増長させる学びにもみえる。
欲望の一つに「威を張る」ことがあるが、威張ることだ。
多くは異なるものに向けられるが、子供のいじめも大人の威張りも変わりはない。
威張られては堪らないし、いつ殴られるかわからん、だから逃げるか、生活圏を変えるか、相手より強くなるか、強い友達と仲良くなる。
つまり、その感覚しかないから、外交もそれを前提に邁進する。
旅の恥はかき捨てというが、人を観られることでもある。
お構いなしもいれば、そもそも恥と思わない人もいる。
独裁者が困窮にあえぐ国民をよそに贅沢をすることもそうだろう。
斎藤隆夫
ことさら縁や運に任せるものではないが、いたずらに術策を弄し、言い訳説明に終始しても前には進めない。国民と称する者も、国家との間(ま)が取りにくくなった。それは人と組織との問題だけではなく、随う基となる「信」が乏しくなったからだろう。だから「従う」と感じた人心は離反するのだろう。
だからと云って強権国にみる面従腹背にもみえる民族的性癖はない。だだ、迎合、好奇、が他と同じくする形式礼と連帯の調和力が少なからずある。
欲望の交差点である政治や経済はともかく、生活には術も略も少ない。今は乏しくなったが与えられた国家事情を踏まえた、ささやかな生活計画を描いているだけだ。
何が便利で、何が損得かには敏感だが、だからと云って社会を企図したり、国家に反抗する人も僅かだ。国柄はともかく、人柄は従順だが、異なることへの許容量は乏しい。
それは人の環境免疫力というべき異物排除の為せることでもあろう。ならば、人たちが一過性の災難や他国との軋轢惨禍を反復して己の人生を計るだけでなく、術や略がときに猜疑心を生み人々が離反することではなく、「大謀は計らず」ことを旨とすることだろう。
ある意味では「無為にして為す」ことでもある。
それでこそ「人略」「地略」「機略」を、感知し得る人智だと思えるのだが・・・