どのような人の命名なのか“ひったくり”とは、まことに俗っぽい言葉ではあるが、これほど当意を得ている犯名も珍しい。
おっちょこちょいは、この単純明快な言葉にその犯罪の安易さを感じ「チョットやってみようか」などと考える不心得者がいるやもしれません。
犯罪用語では窃盗の部類ではあろうが、内容はいとも軽薄で、総じて婦女子の手荷物を当人が身につけているにもかかわらず強引に“ひったくる”行為であり、一目散に逃げる事で犯罪成立である。
江戸の岡っ引きが「逃げ足の速い野郎だ」などと捨てセリフが似合いそうでもあり、盗っ人稼業からすれば少々「格」が落ちる手合いのするさしずめ稼業見習いの類いのようだ。 しかし抵抗され暴力が伴うと強盗に変化する。 庶民からすれば“強盗未遂”と命名した方が“ひったくり”の意味する安易さより防止策になるのではないかと考えたくもなる。
時代劇では盗られるほうも金目の物は“懐中もの”といって必ず肌身離さず持っていたものです。 当時は着物のせいか袖、懐、帯のなかに財布をいれ風呂敷や手荷物にはあまり金目の物はいれなかったため“ひったくり”より“巾着切り”といったスリが多かったようだ。 今も昔も逃げ足の速さが成功の要因であることは言うまでもない。特に盗っ人の場合、仕置き(罪)は金額によって変わってきます。
十両以上は死罪、十両以下は入れ墨である。 ひったくられるほうも価値の少ない品物ですと岡っ引きに金を与えて「引き合い抜けと」称して、繁雑で一日手間のかかる被害者調べを避けようとするものが出てきます。
“ 岡っ引き”という 地位のない無頼の輩からの“ゆすり”“たかり”の場面を想定した今で言うところの“告訴下げ”が それである。
動機も「不図」(ふと)という出来心や「子心にて弁えず」といった社会規範や道徳を弁えない場合と、金に困ったり欲求を満たすためにおこなうものもありますが、被害者も「不注意だった」「もっと違った所に所持していれば」などど、金品所持の曖昧な責任を恥じることでもありました。
【今と似た時代】
時代背景もあるようです。 犯罪ではないが徒人(ずにん)といって今でいう虞犯に類したものが多く横行し、あの鬼平犯科帳で有名な火盗改メが活躍した頃と同様な風紀が今もあるようです。
武士の子弟が集えば刀の鍔(つば)や装飾を自慢しあい、女子は今でいうブランド指向のようにかんざしや着物の購入先が話題になるような爛熟から怠惰、衰退に移る時代であり、昼間からブラブラと徘徊する様子は現在の遊戯店の盛況、レジャー の多様化と様相はどこか似ている民情でもあるようだ。
時代認識として“ひったくり”の理由や行為も簡単なら、動機も軽薄なものが多く総じて民心、風紀の歪みや怠惰という社会情勢や時節の遊情に多発の要因がみうけられます。
いつの時代でも、まさか大根、にんじん入りの買い物カゴが目当てでは割に合わないだろうが、 やはり暗いところで逃げ場を見通せる場所であり相手は婦女子でショルダーバックかハンドバックが獲物になる。
犯罪構成要因が加害者や被害者にも金品に関して安易な欲望と所持責任の状況があることも否めない事でもあります。
それは自転車ドロボー、万引き、痴漢などと同様に法の遵守以前の大前提である道徳の欠如というよりか、道徳そのものの有ることすら解らない無知からくるものであり、微罪といえど社会安寧を考えるうえでのあらゆる問題解決の端緒であり、現代流の人間資質に対する警鐘でもあるようです。 あらゆる場面で、高い地位、名誉、学歴、財力という人格すら代表するものでないものに属性価値を求めているうちは法の繁雑さを含め、微罪と称せられる道徳犯はますます増加の一途をたどるのが時世の常でしょう。
落ちこぼれ、疎外、社会組織の硬直化からくる閉塞状態、現在の不満と将来への不安 これらを分析すればするほど解らなくなる自分の存在は、犯罪となれば強いものより弱いものに向かいます。 また、関わりが繁雑になるほど自己管理が難しくなり、ついつい解決を他に依存したりします
そのことは、常に触法の環境にいることで自制心や道徳すら法に委ねることになりかねなくなってしまうからです。
自立自制のない怨嗟や不信の心は、より良い対策の展望を曇らせ本来あるべき社会安寧の姿の意味すら解らないまま繁栄のなかで埋没させてしまいます。
反面的な云い方ですが、ひったくりの成功を増長させ重大犯罪なる懸念があるとするならば、被害者の管理責任についても考えなくてはならないはずです。
動機の希薄な犯罪の多くは誘引、誘発という心の片隅に持つ邪まな部分に触れることによって起こります。
痴漢、青少年の喫煙、万引き、などは社会規範の逸脱の行為ではあるが、そこには全てではなくても媚態、快楽、時流を宣伝し購入を煽るといったことで、性、食、財の欲望を誘引し、ひいては犯罪を誘発する場合もあります。
防犯は対価と許容年代を考慮しても“行為”と“誘引”は紙一重の構造ではないでしょうか。 それは結果としての犯罪行為と無意識な誘引行為の問題でもあります。
泥棒は死罪といった厳罰主義の江戸時代でも不用心、不始末として行為を受けたほうも恥ずかしいこととして自己管理や相互扶助を促しています。
「御上に手を煩わせるな」もこの頃のことです。
“ひったくり”から様々な事がおもい浮かびます。
歴史を積み重ねた先人の知恵、 “ひったくり”の命名者に賛意を呈するとともに「一利を興こすは、一害を除くに如かず」といった施政の哲人の言を活用して“解りやすい法の運用”と繁雑な法の再整理をおこなうことと同時に、硬直した土壌の再生も犯罪防止の思わぬ効果を期待できるのではないでしょうか。
警視庁「家庭と防犯」依頼稿