まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

銀座酔侠伝   優しい漢たちは逝った

2012-02-28 18:54:08 | Weblog


[登場人物敬称略]


銀座七丁目にライオンビヤホールがある
銀ブラがてらに喉を潤すとき、暑さ寒さは何のその人は行列を作って入店を待っている。

かれこれ40年になるが当時は七丁目常連会といって、誰彼ともなくカウンターの前に席を陣取る一群があった。当時の会長は日本バラ会の小林さんだ。易者、地元の鳶、会社員、総会屋、水商売、河岸の仕事人、近在の住人、物書きなど多士済々が毎日のように集まっていた。
以前、このコラムに登場した平凡社の下中邦さんや卜部亮吾侍従も少し間をおいた呑み仲間だった。

そのうちには気の置けない仲間が厚い情を交わすようになるのは自然だった。
これからは私事だが、伊能勝之進という鳶職人がいた。鳶といっても街鳶ではなく、もともとは土木の飯場を仕切っていた剛の者である。その稼業の義兄弟に銀座一区も組の組頭竹本がいた。その竹本と一番気があった「も組」には長谷川一郎という、今どき稀有な人物もいた。


伊能は筆者の母の葬儀に雪降る中、赤すじ袢纏(役付き)をはおって仁王立ちで焼香の終わるまで待機してくれた。後で聞くに「お前んところの葬儀にどんな奴が来るかわからないので・・」ということだった。ともかく暴れん坊だったが筆者にだけは向かうことがなかった。

むかし洲崎の遊郭で出入りがあったという。喧嘩だ。そのとき竹本と二人で乗り込んで新聞をにぎわす事件になった。戦後のどさくさの頃、飯場に侵入する荒くれを追い払うためにいつもは夜中起きて、昼に寝ていたという。熱海に旅行に行った時のことだ。伊能と株屋が女連れだ。こちらは一人かと思ったら、伊能が女の友達を連れてきた。歳は一回り上のおばさんだった。伊能らしい気遣いだったが、どう見てもおかしいので、伊能と二人部屋になった。飯場の癖なのか一晩中ガサガサと騒がしい。夜中に茶うけの菓子をむしゃむしゃ食べるわ、深夜に内風呂に入るわで、騒がしくて寝られない。







伊能勝之進氏


女房は北九州から盗んできたと伊能は言う。女房は笑っていた。その女房も伊能の出入り(喧嘩)があると、オ―スチン(英国車)で乗り付けて「あんた、こっちだ!」。と、逃走を手助けしている。なりは白いスーツにハイヒールだった。ともあれ惚れていた。

その女房も、晩年は伊能のトモダチ・?通いに、小さなボストンバックに下着三日分をもたせて送り出している。誰も伊能が怖くて女房からやんごとなき事を聞かれないかと訪ねることさえ避けていたが、筆者はある一点を除いて話し相手になっていた。あるとき陽を眩しげに午前様で帰ってきたとき、丁度出くわした。
「伊能さん、陽が高くなって帰ってくるなら、しかめっ面はいけないよ」と、老若弁えずに話したが、黙って二階に上がってしまった。後日、「あんときは、お前にいわれて格好悪かったなぁ」とビールを差し出されたことがあった。

ただ、そんな荒くれでも,気は繊細だった。伊能の義兄弟となる竹本と席を共にしていると、こちらの席には寄ることもなかった。帰りには「すし屋にいるから来いよ」と、ぶっきらぼうに伝えるが、ことのほか竹本のことも好きたが、小生が席を共にしていると気にかかっていた。

そんな男だが、卜部侍従を紹介してくれたのもその縁だった。
あの、天皇即位のとき使用するタカミクラの設営関係の御役を頼まれたが「俺は前科がある」と、仲間の鳶に委ねている。ともかく筋目はうるさいが、人生は足を踏み外すほどに奔放だった。

その竹本だが、「人は好かれなくてはいけねェ」と、大言を吐くこともなく、「俺たちは旦那あってのものだ。頼まれれば溝(どぶ)さらいでもする。仕事師は旦那気分になってはいけない」と、常連会の会長も最後まで固辞していたが、やはり人柄がそれを押した。
ときおり、おなごを連れて「友達ですよ」といえば、「型つけてちゃいけねェ、一緒にいるときが一番の女だ。可哀そうじゃねぇか」と、渋い顔をみせた。

間をおくと、「近ごろ来ねぇじゃねえか・・」と電話が来る。そんなときは、選りすぐりのトモダチを二人連れて近所の飲み屋でカラオケを歌ったが、必ず女房には七寸(寿司箱の寸法)を土産に頼んでいた。ともかく女房に惚れて優しかった。恒例は毎年正月の三日にライオンの二階で二人っきりで杯を傾けた。
「なにごともホドが大事だ」「若い頃は型つけて付き合いを広げ、男を売っていたが、この歳になると付き合いを狭めるようにしている。物ぐさといわれようが、丁度いい生き方はそんなもんだ」

あるとき本人は決して語ることもない、まして自慢することもない背中の入れ墨を見たことがある。その後の付き合いで東京温泉ではいつも拝ませてもらったが、その類にも位(くらい)があるらしい。サウナ室に入ると、混んでいれば人は隙間を空ける。それが何人もの刺青者が居ても、みな席を寄せて空ける。あるときトモダチが「かしらの見たいわ」と言われて返す言葉がふるっていた。「二人っきりでお前の背中も見せてくれたらなぁ」

相続?のことも面白かった。むかし若いころ芸者だが、ときおりホールに来る。好い仲だったらしいが、金もなく計らって出かけようとしたら「旦那(スポンサー)」が突然店に来てさらわれて、つまらない思いをしたという。
いつものように呑んでるときに、突然、「あれ、おまえに相続するよ」と。
小づくりで可愛い人だが、干支を繰り返すような年の差だ。
だが、断るわけもいかず、「兄弟かね・・」と呟いたのを思い出す。
ことは、たとえ冗談でも少しよけて返すのは此の手の倣いだ。それにしてもホンノリとした関係のオナゴを相続とは恐れ入った。

亡きあと酔客のなかで面白おかしく相続の話をしたら、文句を言うわけでもなくグラスを当てられた。
たしかに粋なしぐさだった。








左 竹本氏 長谷川氏


その生き方を「竹本のように生きるのが本当だ・・」と逢うたびに懐かしんでいたのが長谷川一郎だ。いっとき煩いごとでホールに足が遠のいたとき、「行ってんのか?、いゃ俺も近ごろ行っていない。騒がしくてなぁ」後の理由は付け足しのようだったが、それくらい人の付き合いの善し悪しを知っていた。
伊能もそうだった。ある高名な人を紹介して伊能なりにつき合っていたが、心底が割れてその人間と付き合いを絶ったが、あくまで伊能との付き合いに掉さしてはいけないと思って黙っていた。どこからか伝わったのか、「俺はやめるよ、あんたの方が見る目はある」と、その人間との付き合いを一切、絶っている。

ふつうは、高名であわよくば良い気分になれる人間にでも、そんなことに価値を置いていない。「偉かろうが、金になろうが、そんなこと」といわれると、緊張感も湧き、教えられもする。長谷川もそんな人物だった。
長谷川も竹本と同じ好かれる人だった。大手新聞の大物からもよく誘われていた。後楽園の巨人のボックスシートも「遺言形見」だと、券を回してくれた。その席はバックネット裏の丁度テレビ画面に足が映る七段目くらいだ。
「だれ連れて行っても分からない位置だね」『良く分っているよ』

膝も不自由で二丁目の自宅から五丁目のビヤホールまでタクシーだった。帰りはオイル(アルコール)が入るので、そろり徒歩の帰路だった。七丁目のホールをよけてから八丁目の小料理屋、月島のすし屋、あるいは江の島神社の参拝、そして八景野島のしま寿しと、いろいろ連れ立った。ときおり新浦安の順天堂へ行ったが、「伊能もここで亡くなったなぁ」と、感慨深げに建物を見上げていた。

長谷川は「どうしてんだよ」
『来いよ』とは言わない。
そんなときは好きな銘柄のワインを補充すると、また「どうしてんだよ」と連絡をよこす。
伊能は「たまには来いよ」
竹本は「話したいことがあるんだ」
三者三様だが、みな最後まで送るようになった。
「伊能さんの夢見たよ」と竹本にいえば、『今、誰と飲んでいるのか心配でおまえにやきもちを焼いているんだよ』あの貌を思い出して保土ヶ谷に墓参に行った。
仕事人の気風なのか、伊能と竹本には色よい逸話が良くあった。なぜか巻き込まれ?もした。





江の島奥の院の鳥居



松屋の脇に福富太郎のキャバレーがあった。伊能が来てくれという。
竹本とうまくいっていた女が、情が深くて、あっさりした竹本が避けているが、女がいうことを利かない。なかをもってみたものの、なにしろ伊能の面姿は人が怖がる。そこで助っ人のような頼みだった。
伊能はそんなときは独りでは行けない。伊能もトモダチを添えもので連れてきた。
言うことは一点張り「竹本は悪い人じゃない」。女はそんなこと解かっているから惚れたのだ。

「なぁ、そうだよなぁ」
そのたび相槌をこちらに要求する。
もともと身持ちの固いといわれる竹本はビヤホールで呑んでいる。連れていくわけもいかず、伊能はいつものように仕切っている。兄弟と言いあっているが、そんな強引な仕切りに竹本もへキへキしているが、今回に限っては伊能が義狭心?で受けて立っている。でも相手は罪もない情の厚い、しかも年若の利口そうな女性だ。しかもなかなかの美齢だ。
伊能は泣きださんばかりに竹本をかばっている。いや、本当に泣いていた。
キャバレーはホステスもいる。場所感覚も伊能らしい可笑しさがある。

「色々あるが、ここはよくないょ。後でゆっくり話しましょう」と、話を切った。
伊能を残してタクシー乗り場まで送った。話すことはなかったが、何気に呑み込めたようだった。
伊能は竹本に「タ―さん、うまく言っといたよ」
後で聞くと、ことさら頼んだわけでもない、と。
もてる男は、人の勝手な思いにも流れに任せるようだ。

土方の荒くれと粋な鳶が兄弟分になったのは訳がある
竹本の義父で鳶頭の神様と言われた金太郎翁がひと悶着あったとき、伊能は配下の荒くれに道具(喧嘩道具)を持たせてトラックに分乗して用意した。映画の世界のようだが戦後間もなくのことだ。伊能も金太郎翁の前では小さくなっていた。その促しで竹本と稼業兄弟になった。近所の神社で盃ごとをしたというが、絵になる二人だ。

ビヤホールは、好いた、好かれた、いろいろな話が飛び交うが、みな、屈託がない。なにしろ名刺交換もなければ、金の話は御法度。なにしろ、十年たって何しているか、年は幾つなのか分かることもある。下中(平凡社会長)などは、話題の中で御尊父の弥三郎さんを讃えて資料の探索を語ったら、「私の父です」と口を開いた。それまでは世間話で何年も呑んでいたのにである。はじめて行ったとき「ここで知り合った女性は外に連れ出してはいけないよ」これが小林会長からの伝えだったが、どうも云われたのは筆者だけだったようだ。誰と仲良くなった、連れだって行った、男同士の関係だが、これも始末に悪い。
゛俺を誘わなかった゛、そのうち、゛あいつは誘うな゛とんだ話になる。






竹本が好きな写真 





竹本は顧みて語る。

「俺たち仕事人は懐の按配が難しい。昔のことだが、銭がさびしいときでも呑みたくなると、ホールの脇の小窓からのぞいて知った顔をさがしたときがある。居れば入るとビールが出てくる。次の客が来るとまた一杯。そんなこともあった。だからこの席に毎日来て、ここに座った客には一杯だすんだ。それがつないだものだ。ゆっくり飲みたければ我が侭言える店で温カンがいい。だか、なかなか誘える奴は来ない。俺がここでゴチ(おごってもらう)になっては洒落にならない。鳶は芸人じゃないょ」


「鳶はハシゴと入れ墨と木遣りが華だが、どれもホドだ。近ごろでは口が巧くなくてはならないが、見えるものより気分が大事だ。なかには、どっちが旦那か分からない派手な野郎もふえているが、しまいに身の程を締めるようになって消えていくのがオチだ」>

『竹本のような生き方が本当だ。居なくなったなぁ』長谷川の懐かしみだった。


平成24年2月長谷川は逝った。

一区のも組は江の島神社参拝が恒例になっていたが、このところ足が遠のいたという。

あの身体を抱えた江の島から眺めた富士は良かった
『もう 歩けねェなぁ』
参道の土産物屋に残して、ながい階段を昇ったあの汗は懐かしい。

床からやっと開いた言葉は『わるいなぁ』
日をおかず袢纏を借りて江の島神社に二度目の代参をした。
御札は病室に鎮座した。
半目をひらいて写真を見て微笑んだ。

縁者から「あの写真を御棺に入れておきました」と葬儀の後の伝えだった。
あの優しい漢たちが手招きするかと思うと、気が気でない心地がする。

枝頭に春がきた。そろそろ桜も咲く。
広尾の桜、保土ヶ谷の桜、そして長谷川も桜に包まれて何を語るのだろうか。









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