まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

潜在するものを観る

2008-04-27 00:18:08 | Weblog


    来日のインド高僧と観桜 その後ペマ・ギャルボ氏と懇談


4/20
   木鶏クラブ(到知読者会)講義の説明文

講題  《潜在するものを観る

観人則 ・・自身の座標のあり方を探る

バーバリズム(野蛮性)には良質の素心がある。錯覚した文明観は知を集積しつつも素朴と純情さを亡くしてしまった。

そして問題解決をまたしても知(情報)に求め、しかも外来の唐学、洋学をその証の拠り所とする愚は亡羊とした念を抱かされずにはいられない。

現代も過去の歴史の事象も、あるいは未来の推考も人の織り成す作用を見逃すことはできない。

しかし、錯覚した知(情報)に依存した観人の座標は偏った考察を発生させ、よりその弛緩した軸はコントロールを失った欲望に抗しきれず、人間の及ぼす制御域を超えて地球の森羅万象に悪影響を及ぼすようになった。

人間の問題は人間に解決の責は在る。また人間には自身にも気が点かない潜在がある。それは意識であり能力でもあり力でもある。

また潜在を認知するには他からの知の吸収や、はたまたマニュアル、組織の各論ではなく、自身の観人則を研磨する軸の作興が重要な課題と認知することが必要とみる。

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津軽弘前の一声は天下に鳴り響く

2008-04-24 12:53:03 | Weblog

 津軽弘前は桜花舞う季節です。
冠雪の岩木山を望みながら近在に点在する温泉での潤いは格別なものがあります。

弘前は辛亥革命の聖地ともいわれ、巨木になった孫文桜も凛として歴史を見つめています。

 なぜ弘前と辛亥革命・・?
 それは明治維新を魁とし、辛亥革命を後果として、西洋植民地に虐げられていたアジアの国々を独立復興しようとして立ち上がった明治の日本人の姿を津軽弘前に見ることができるからです。

 この度、その精神を涵養した当時の弘前の教育や歴史を想起し、再びアジアに向けて発信しようと地元の有志が立ち上がりました。

 その中心となる方は、市内で歯科医院を営む広瀬さんという人望厚い熱血漢です。その一声は「孫文の側近として唯一臨終に立ちあった山田純三郎の没50年があります。これを機会に利他に役立てたい催しを行ないたい・・」というものでした。

十数年来熱望していた地元からの声です。
これから様々な作業が待ち受けています。また多くの篤志賛同者が集うと思いますが、津軽弘前の意志として、かつアジアの意志として発信できれば歴史の登場人物も、さぞ欣快なおもいで後押して戴けると思います。


以下参考ブログ「請孫文再来」より抜粋

 青森県弘前市は山田良政、純三郎兄弟の生地である。明治の言論人、陸羯南が喝破した「名山のもとに名士あり」と謳われた追木山(岩木山)が四季折々に姿を変え、仰ぎ見るものに愛着と、言うに言われぬ心の鎮まりを与えてくれる。

 戊辰の戦火を避け、いまも残る津軽藩の居城であった弘前城は、城郭を中心に公園として整えられ日本有数の桜の名所として季節の時をにぎわしている。桜枝の隙間から仰ぐ岩木の頂は陽光に輝き、雪と桜がまるで人目を競い奪い合うかのように津軽平野に共生している。

 菊地九郎がその礎を遺し、羯南や良政や純三郎を育んだ弘前の地ではその遺志を継承する人々が多く暮らしてしている。儒学者、伊東梅軒の子で医師の伊東重、孫の郷学者、伊東六十次郎、教育界の重鎮、鈴木忠雄などは郷土文化の伝承、人材輩出の養土のように、まさに郷学にして有力といった弘前教育の独特の養成法があるかのようにもみえる。
 それに加えて東奥義塾の外国語教育、山背の風に立ち向かう“じょっぱり”精神が独特の人物像を描き出している。
 

新寺町 貞昌寺

 大手門から西に歩いてほどなく行くと新寺町という各宗派の寺院が混在している一角がある。その中でいちばん奥まったところに貞昌寺がある。ここは津軽藩代々の家老の菩提として霊を鎮めている寺である。入り口付近にはだれが名付けたか、孫文桜の古木が参拝するものを桜のベールで抱き包むように根を張っている。

 左手には住職の赤平法導が大切に護持している良政、純三郎兄弟の頌徳碑が二碑、建立されている。一方は孫文撰書による良政の碑、片方は蒋介石撰書「永懐風義」(永く風儀を懐かしむ)、蒋介石撰文、何応欽謹書による頌徳碑が清掃された碑台に安置されている。
 観光名所ではなく、またそれを知る市民も少ないが、毎年、桜の季節になると中日関係者の友好拝礼祈願がおこなわれ、東京の東洋思想研究団体の郷学研修会を中心に年々振るあいを増している。

 「なぜ、弘前と孫文が」という疑問が市民にはある。
 郷土から輩出した英明なる人間の歴史をたどるということが少なくなった教育ではあるが、歴史が将来のための鏡として効果ならしめるかは、それも人間の問題である。

 清麗かつ豪気な気風を醸し出す弘前に生まれ、幼少に菊地九郎の薫陶をうけ、長じては向かい家に住む陸羯南に影響され、日本および日本人に対する問題意識を支那の列強からの解放と自立に求めた先見と遠大なる志操は、孫文の唱える「支那と日本との連携によるアジアの安定は、世界の平和に貢献するものだ」という考えに賛同したものではあるが、それのみではない。

「明治維新は支那革命の前因であり成功は後果である」といった孫文の唱えは、良政の寡黙な義侠心を喚起させ、自らの自得した普遍な精神を異民族のなかで問いかけようとする熱情であっただろう。しかも支那民族に我が身を靖んじて献ずるという、殉難を厭わない自己の発揮は、孫文をはじめとした全支那民族の心を喚起し、孫文の意志をより強固に擁護するバックボーンとして厳存している。
 兄に追随した純三郎に対する孫文の慈父に似たさまざまな問いかけは、兄に習うということから兄を継ぐといった壮絶な使命感を呼び起こしたことだろう。

 つねに孫文に帯同し、革命の隅々を体験した純三郎の姿は、列強に追従して支那を侵食し始めた日本軍部に国賊扱いされたことでも、その心底は複雑であり、敗戦を慚愧の念で迎えたことは容易に想像できることである。
 山田はこの頃、書き残した文章の表題にこう記している。

『国を愛せんとすれば国賊』と。

 昭和16年4月、当時、山田は上海日本語専修学校を経営し、自ら校長として活躍していた。その紹介文には「日華親善の遠大な理想の下に、多数の中国人に慈父の如く親しまれている中国通であり、老上海である」とある。

 山田は国賊といわれ身の危険を感じながらも語っている。

「自分はあくまで"戦争はやめよ"と主張する。然して全面和平を主張する。それは終始一貫した国家的信念である。然らば、現在の日華関係の上に立って、その信念を貫徹する希望ありやと問う人があれば“見込みなし”と言わざるを得ないのを痛恨事とする」


「…中国にも和平ブローカーが存在する。日本にもまた存在する。これらがさまざまな禍をつくって暗躍、跳梁している。かくのごときブローカー輩が蒋介石を動かすことができるものでないことは自分は再三、要路者に忠言を呈したが、これに耳を貸さなかった」

「このブローカーたちが入り乱れて、あらゆる手段を講じ蒋介石を引き出そうとした運動は全部失敗を繰り返しているではないか。笑い事では済まされない問題である」

>「…汪(汪精衛)にも元気づけた。"日本では君のことを知っておらんから何かやれ"、"何がある"というから犬養先生の墓参りをしなさい、宮崎滔天の墓を建てたらどうか。革命当時、国事に奔走した同志で、既に黄泉の客となっている人々の碑を建てて盛大な慰霊祭をやって遺族を慰めたらどうか」

「…然らば如何にして全面平和に導くか。その道程においては、国策に反する行動をとらなければ現状より推してその望みは遂げ難い」

「…されど国策に反したことを言えば、それが果たして日本の生きる唯一の道であるとしても、烈々たる愛国心の発露であるとしても、直ちに国賊の汚名を冠せられる。ここに事変処理途上におけるはなはだしき矛盾があり、また我々としても最も苦しい立場がある」

「…全面和平に導びかんとすれば国策に相反し、全面和平の言説を吐露すれば直ちに国賊となるとすれば、全面和平は現場において絶対不可能という結論に到達せざるを得ないのである」
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あの時の商業映画としての「ゾルゲ」

2008-04-16 12:19:59 | Weblog


 一時、映画会社松竹ではヌーベルバーグと称して斬新な企画のもと映画監督のオーディションをおこなったことがある。
 名監督小津安二郎を擁した松竹もテレビ、各種イベント施設の出現と、よりリアリティーを求める大衆の欲望、いや浮世流行の構成企画会社としての社内構造改革のアピールとしてオーディションが企画されたと考えたほうが分りやすいだろう。

 それまでの歌舞伎役者や劇場劇団のヒーローを画像に登場させてきた映画会社も自前の、しかもより流行の先取りとおもわれる表現をするための新しい役者像や映像を既製化するためにも、制作スキームそのものの衣替えが自然の流れでもあった。

 とくにテレビの機動力を発揮した現場中継のリアリティーは、ストーリーに視聴者を巻き込んだ一大イベントの構成でもあり、それはメディアによって発生する国家観さえ変質させるような矮小化された社会観の登場と、国家観無き社会という意識のなかに己の存在を見る大衆の出現でもあった。

 それは政治や戦争までもがイベント娯楽の対象となり、より早く知ることに偏重をきたし、意図された情報までがテクニカルな伝達手法により、真実味を帯びたような錯覚した現状追認の状況が顕著になってきた。

 歴史の史実といわれていることを描き出す映像表現も、商業映画の投資効果や監督の歴史残像観によって変質した歴史認識は、矮小化されたイメージを観客の意識に刷り込んでしまう危険性がある。

 観客の見方に歴史認識がいくらか存在するならまだしも、出演者のスキャンダルを事前演出したり、他の映像媒体による宣伝、あるいは限定作品として煽られると、覗き興味が先行して、脚本や暴力、セックス表現、あるいはCGテクニカルにあるバーチャルリアリティの残像しか印象にない映画鑑賞、否、劇場参加になってしまう。

 先の大戦において外地謀略によって仕込まれた情報を対象国の政策決定システムに挿入し、早く決断を引き出すという構図を、単純にも決定事項や意図を探り自国に打電するといった情報児戯に等しい観察や、戦前の日本は自由が無かったと怨嗟の意識を抱き、硬直した既成権力や、ブン屋を映像化して商業娯楽に化粧直しすることも、ある意味で浮世の時宜を得た昂進剤のようなものであろう。

 戦後の疲弊の潤いとさやかな希望の演出から自然転化の必然と観るか、あるいは世界の潮流ともなった消費資本管理主義のプロパガンダとしてのメディア傭兵の一端を類しているかは枝論としても、その後、顕著になる覗き、脅し、恐怖のリアルな映像は、より錯覚した行動価値を湧出させている。

 ハリウッド、アカデミー賞のある選考委員によると、その前提基準はまず暴力とセックスが映像挿入されていなければならないと語っている。
 それは、たとえのノンフィクションドキュメンタリーを題材にしているものでも商業映画である以上、人気役者のキャラクターや嫉妬、怨嗟、悲哀を織り交ぜなければならないだろう。

 歴史上偶像化された英雄でさえリアリティとディスクロージといった美名のもと引き摺り下ろされたりもするが、そこは地域特性や伝統もお構いなしにスタンダードと言われる座標による批評に晒し、己の欲望もそっちのけで野蛮、異質の評価を与えてしまう。

 松竹ヌーベルバーグの選考はそこまでの深慮は無かったにしても、包装紙の解き方が昔ながら包装手順の逆にきれいに解き包装紙を破らないものが不合格で、ところかまわず破いて解包したものが合格したと、おもしろ、おかしく伝えられているが真意はさることながらナルホドと思わせるものがある。

 氏の監督映画で「少年時代」という映画がある。 後の瀬戸内少年野球団のように終戦間際の疎開先富山の小学校を描いているが、映像もさることながら脚本の素晴らしさに心地よい日本の残像を見るおもいがした。
 脚本は山田太一氏による秀逸したものだが、その残聴はロケーション映像をより爽やかな心地に導いてくれる。

 氏は監督最後の作品として「スパイ・ゾルゲ」を撮りたいと、たしか5年前のテレビインタビューで答えていた。そのころNHKスペシャルや民放テレビのドキュメンタリーでゾルゲを題材にした番組が相次いで放映された。
 監督はその中の解説で朝日新聞の尾崎秀実の心情を、「抑圧された時代の言論弾圧に対しての行動・・・」と、共感を表している。

 筆者の切り口は異なる真相の説明に、「ドキュメンタリーではないので・・」と、あくまで商業娯楽映像として「ゾルゲ」があるという。本当は尾崎ホツミが主人公だったと推測するが、売り物としての「ゾルゲ」だったのだろう。
 前宣伝の仰々しさや出演者のスキャンダラスが騒がれた割には売り上げ実入りは乏しかったという。

その頃、中国政府の協力でNHKの紀行番組が作成され、現地同行のコメンテーターとして出演、感動を表す監督の姿が印象的だったと記憶する。


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交誼録  加藤三之輔翁

2008-04-13 18:45:00 | Weblog
 縁あって北九州に行くことになった時のこと。
 白山の安岡邸の書斎で「今度、北九州の加藤さんを尋ねます」と伝えたところ、「あちらには豪傑がいます。愉しんできてください」妙に低音の応えが返ってきた。

 以前、東京での集会で「小倉にいらっしゃった時は是非・・」との誘いがあった。その御仁はカネミ倉庫の加藤三之輔氏である。道縁ゆえか阿吽の応答であったが、まずは縁を起こした安岡先生に伝えなければとの白山訪問だった。
 豪傑?今どき聞きなれない人物評だが皆目言われた意味が解らない。

小倉駅からタクシーで小倉東港という場所にその会社はあった。
木造の事務所棟の一階の受付で御仁の所在を尋ねると、2階事務所に通された。
「いゃ・・ようこそ」
そこは気風を滲ませる質素な社長室だった。
「豪傑がいるから愉しんできなさいと・・」
「先生はお元気ですか」
「元気ではありますが・・」
当時、体調の都合で講義を休んでいるときだった。
「東京は騒がしく煩いごとも多いので九州の同志が先生をお連れして此方で生活していただこうという計画があった」
「拉致ですか?・」
「いゃ、本気だった」

確かに豪傑だった。
「先生は薫譲された学問だ。人間が薫るように人を惹きつける」
人物の見方と表現が自然体だ
「お疲れでしょう、一献差し上げます」
敷地内にある社宅の一室で奥様と談話する。
「ウチのは頑張っていますよ」
゛ウチの゛?
伺うと浅草出身で江戸のオナゴ言葉のようだが、豪傑加藤さん顔負けの貫禄である。

一献の場所は社員食堂だった。
テーブルには小倉の地酒と壱岐の雲丹、器は普段社員が使う茶飲み茶碗だった。
「いま倉光さんと八幡(製鉄)の所長に連絡しました」
倉光さんとは九州の安岡門下の重鎮、所長は北九州経済界のリーダー格である。
「昔は田中六助君ともよくやったものです」(自民党幹事長地元選出)
話題は天下国家と教育である。加藤さんは筑前玄洋社の頭山満翁を師と仰ぎ、九州の思想言論に一家言をもつ長老である。

 興が乗り一升瓶も八分方空くと自作の吟詠を大声で謡う。
一升瓶と小鉢の雲丹と一献歌、なによりの歓待である。
余談だが中国では一等の客は満漢席の宴ではなく、先ずは奥さんを紹介しその家の日常の飲食を共にすることを上客とすることだった。
 しかも、自作の一献歌を謡い「まず一献」と杯を干す、誠に豪傑である。

筆者も自作の歌詞集を見ながら、「先ず、一献」と大声で合唱する。
料理もオナゴも要らぬ、と思いながら夕刻から夜半まで、とうに一升瓶は横になっている。酔っているが、酔っ払っていない。

「そろそろ」
「いゃ、痛快だ。久しぶりだ。ところで宿は?」
「下関の吉見というところに親戚がありまして」
「泊まってきなさい。宿は予約してあります」
いつから待機していたのか門前にはタクシーが止まっていた。
「東京に戻ったら先生に宜しくお伝えください」
人気の無い工場地帯は街灯だけが頼りだが、深夜門前まで見送られ丁寧に腰を折る姿は、あの一献歌の威勢とは異なる明治人の辞譲の礼にある高貴な香りがする。

 その後、上京する度に連絡を戴き東京駅の食堂で一献を傾けるのが常だったが、時折筆者より歳カサのある人物を連れてきて「宜しくお願いします」と紹介され筆者の催す郷学の徒となるのである。

 また西鉄ライオンズの稲尾和久氏との縁戚ということで、黒い霧事件に連座した池永投手の名誉回復の意を受け、道縁の当時コミッショナーだった川島広守氏に案内したこともあった。その意を受け博多中州で池永氏を訪ね、帰路報告に上がった事もあった。

12月の青山葬儀場は雨だった。
師の焼香台の脇に身じろぎもせず直立して会葬者に礼を贈る豪傑がいた。

豪傑は繊細で人情家だった。
そして何よりも国士だった。
http://ryutukenkyukai.hp.infoseek.co.jp/chaina1.html

《一献歌》

男の酒の うれしさは
たちまちかよう 意気と熱
人生山河 険しくも
君 盃を挙げ給え
いざ 我が友よ まず一献


秋月影を踏むもよし
春散る花に酔うもよし
あはれを知るは 英雄ぞ
君 盃を挙げ給え
いざ 我が友よ まず一献


美人の酌に 酔えばとて
今宵は今宵 何か言う
男は明日に 生きるもの
君 盃を挙げ給え
いざ 我が友よ まず一献


《或る日の一言》

日本軍は弾薬の無い中で、なぜあれだけ立派な戦いをやれたのか、それは結局トインビーが言うとおり、日本人は、アジアの解放、有色人種の解放という大義名分があったからやれたんだと。私自身もその気持ちで働いたわけです。ですから中国の人にも解かっていただき死刑にもならなかった。

とにかく初めてシナに行った時には、びっくりした。嘘だと思っていたら、天津の英租界のビクトリアパークなどの入り口に、「犬とシナ人は入るべからず」と、英語と漢文で書いてある。それを見て腹が立ったね。人の家に土足で入り込んで来て、てめえらは朝からゴルフに行って、シナ人や朝鮮人や日本人を朝からこき使って傲然としている。ことつらーと、思ってカチン!と頭に来ましたね。
コメント (2)
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