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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あの時の日本人 笠木良明と石原莞爾  2009 再

2024-05-27 09:01:34 | Weblog

ある時期、筆者は年一回催される「笠木会」に毎年招かれていた。
参会者は元関東軍高級参謀片倉衷、古海忠之総務次長、五十嵐八郎吉林興亜塾長、佐藤慎一郎大同学院教授、ほか満州関係の関東軍、施政関係、満鉄調査部、政界では三原朝雄、岸信介あるいは児玉誉士夫、毛呂清テル、岩田幸夫氏等、関係者など毎回30名ほどが参加していた。


              

            佐藤慎一郎氏   五十嵐八郎氏


満州で成功した統制経済は勤勉な民族的特質と性癖を読み解いた岸氏を始めとする統制経済官吏の成果であり、社会主義とも模せられる経営でもあった。それは興銀による集中投資や国鉄の十河総裁などにみる高度成長経済の前段である経済の基礎的(ファンダメンタル)部分の構成指針にもなった。

また豊富な人材に加味する目的意識と集中力、緊張感の醸成については、オバマ大統領の選挙戦で謳ったような、民族の調和と連帯を掲げる人間力のある先導者が必要だった。その意味で呉越同船の参会者が語る「満州建国の精神的支柱」という笠木への敬称は、彼がその紐帯(結びめ)でもあった証でもあった。

満州の「五族協和」と「王道」はまさに内なる統治を経済とともに強固にするためには日本人に向く良策だった。なぜなら勤勉でお節介だった。そして、゛旅の恥は掻き捨て゛に反して、内地の柵(しがらみ)ない新天地でのフロンティア精神がその気質に加え、使命感、義務感のともなった行動として躍動した。


               
 
        満州の日本人  佐藤慎一郎氏とご家族


                


  大同学院佐藤教授の生徒  梁粛成立法院長 筆者 丘氏(実業家) 



国内における閉塞感、軍官吏の増長、議会の権能の欠如はある種の泥足紐付きではあったが、異民族との交流は明治以降、衰えたから見えた良質な利他意識への大らか甦りのようでもあった。笠木の人物を表すに面白いエピソードがある。

あるとき大川周明にの講演があった。多くの参会者は高名な大川の講演というだけで集まったものもいる。その情況をみた笠木は、「ポチじゃあるまいし」と席を立った。滝行したと語る来訪者には「滝行で会得できるなら、滝つぼの鯉は人間以上だなぁ」と。

四角四面な日本人には最適な戯言だが、笠木会はそれを髣髴とさせるに充分な雰囲気だった。満州国副総理張景恵、日本人を喩えて「もう二、三度戦争に負ければ丸くなるのだが・・」と。

 

      


一方、後年になって石原莞爾の唱えた東亜連盟を継承する会に招かれ毎年物故祭に参加してた。当時の縁者は少ないが歴史を継承する意味では貴重な会の姿である。

実は、笠木会でもあったことだが、関東軍と満鉄の調査部、自治指導部とは幾ばくかの軋轢があり妙に思っていたが、石原の内地召還後の関東軍の、゛軍官吏らしい゛横暴がそれを意味していたようだったが、それは極論かもしれないが王道と覇道という姿の軋轢だったようだ。

関東軍の石原,自治指導に挺身した青年の精神的支柱であった笠木の真意について肝胆照らす二人の姿を映すコラムを以下に掲載し、かつ協和を妨げるものは何か・・、有史以来はじめて異国の地に伏して日本及び日本人が異民族との協和を試行し挫折したのか、その経過を考えてみたい。


            

 石原から国民党可応欽将軍への書簡   弘前市 鈴木忠雄氏蔵





なお、「一草莽」さまの所在も分からず無断掲載することを所期の意を忖度していただき、勝手ながら御礼としたい。

「一草莽」さんの投稿より

投稿日時: 2006-6-23 10:53
No.39208:「アジア主義」と「日本主義」


『昭和六年十月の、とある一日、満洲奉天は妙心寺に、笠木良明をはじめとした三十五、六人の青年たちが集まっていた。勃発したばかりの満州事変に対する大雄峯会の態度を協議するためである。そこへ招かれて、事変の立役者、石原莞爾関東軍参謀がやってきた。板垣高級参謀も一緒だった。石原莞爾は、山形弁をまるだしに、むしろとつとつと語った。

ーわれわれが満州事変に決起したのは、民衆を搾取して悪政かぎりない張学良政府を打倒するためである。軍閥官僚どもを追い払ったあと、この地には日本の影響下に新しい独立国を創らなければならない。日本、支那、朝鮮、蒙古などの各民族はこの国に相集まり、それぞれの特性を発揮して「自由」「平等」に競争しあい、満蒙の豊かな資源の「合理的開発」につとめる。そうすれば、日本の景気行き詰まりも打開され、満蒙住民も潤うだろう。こうして、満蒙の地は「在満蒙各種民族」が融和し、生かしあい、たがいに栄える「楽土」となるのである。また、そうなるように、けんめいに努力を傾けたい、と。

大雄峯会の若い面々は、こういった説明を聞いて、しだいに興奮していった。だがいったい「どういう具合に民衆を組織し、如何なる理念をもって新社会を築きあげる」べきか、「甲論乙駁で誠に烈しい議論」がつづいた。

とうとう笠木良明が口をきった。-ここ満蒙こそは「大乗相応の地」だ、アジア復興(解放)というわれわれの念願を実現することのできるところだ。まず第一に、「過去一切の苛政、誤解、迷想、紛糾等」を洗い流し追放して、この地に「極楽土」を創ろう。石原さんの意見にはまったく賛成だ。住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない。

第二に、満蒙「極楽土」を砦とし、この根拠地から「興亜の大濤」をまきおこそう。インドやエジプトにまでも、この波を広げていこう。われわれは「東亜の光」となって「全世界を光被」するのだ。そうすれば、ついには「全人類間に真誠の大調和」を創り出すこともできるのだ、と。

こうして、陸大出のエリート軍人・石原莞爾と、東京帝大法科卒業の満鉄マン、古くからの「愛国運動者」、笠木良明は、満州事変→建国の過程で一種意気投合したのであった。
(甲斐政治「自治指導部、鉄嶺政府について」)』



この会合での石原莞爾と笠木良明の発言は、(満洲の)アジア主義を象徴するような発言であろうと思います。この中で笠木が「住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない」という発言をしていますが、私は「戦前のアジア主義にとって、アジアという地縁はさして大きな意味を持っていなかった」と考えています。
私は、「アジア主義のアジア」というのは、「アジア共同体のアジア」よりも、「アジア的王道政治(外交)のアジア」という側面の方が強かったのではないかと思います。それ故に、「住民が何処の国か」にこだわる地縁重視の姿勢が否定されたのだろうと思います。

笠木良明も、大川周明門下の『日本主義者』であったそうですが、『日本主義者』として日本の理想とする世界像(外交)を追い求め、辿り着いたのがアジア主義だったのでしょう。アジアという地縁にこだわっていた側面も確かにあったのでしょうが、たまたま「アジア」と呼ばれる地域の人々が欧米の植民地として抑圧され、日本人が理想とする世界像から容認できない状況にあったから、アジアの人々と大同団結して戦おうとしたのであり、もし逆に欧米の国々がアジアの植民地として抑圧されていたならば、「欧米主義」になって欧米の国々を救うためにアジアと戦ったのではないかと思います。

たまたま読んだ終戦直後に書かれた古本では、大川や笠木を「アジア主義者」ではなく「日本主義者」と表現していましたが、「アジア主義」を考える上では「日本主義」がキーになるような気がしています

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鈴木宗雄氏も綴る、佐藤慎一郎先生  お別れの言葉

2024-05-26 01:14:53 | Weblog

心より感謝し、理屈のない感涙を招いた師の言葉をお伝えいたします

好きでたまらないという生徒達に伝え、生徒も感応した。なかには戦慄(わなな)き落涙するものもいた。あの人情豊かな鈴木宗雄議員も先生への思いを随時に綴っている。

筆者も多くの碩学といわれる人物に遭遇するが、背筋に冷たいものが走ったのは佐藤先生をおいてはいない。

ただ、下座において、吾が身を以って伝えることは、俗事小事にまみえる小生にとって終生解けぬ難問でもある。時おり学徒に無学を晒しつつも師の追従模倣でしかない。

春、秋と津軽の墓前に参するも、照れくさくも恥ずかしい雄の児があるだけだ。

最後は病室を退く背に『後は頼みますよ・・』といわれたが、なぜか振り向けなかった。
同行の王荊山の遺子が覚ったように身を震わせた

悲しい、淋しいより、悔しかった。

それは、゛まだ早い゛、゛いつでもいる゛という甘えだったのか・・・




                





【心の講義】

最終講義の二、三十分間を借りて、思いつくままのお別れの言葉を云わしてもらいます。
私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、おさき真暗な時代でした。五・一五事件、二・ニ六事件、満洲事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。

私は、満洲国で、初めて人間の素晴しい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面をも見せつけられ慄然(りつぜん)としました。

 私も敗戦後、共産軍に捕らえられ、死刑の判決を受けること二回、二回とも中国人に助けられました.三回目は国民党に逮捕され、九分通りは死刑であるとの内示を受けていたのが、判決直前釈放されました。私は留置場の中で、または死刑執行場で、自分で自分の入るべき墓穴を掘りながら、本当の学問というものは、書物以外の所により多くあることを体験させられました。

「吾れ汝らほど書を読まず、然るが故に吾れ汝らほど愚かならず。」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」

という言葉の意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした。いかに素晴しい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。






               

       孫文側近 山田純三郎  先生の叔父




 では教育とは何だ。祖先から承け継いだ民族の生命をはぐくみ育てながら、次の代に伝えていくことだと信じます。教育とは、民族の生命の承継である。生命、それは魂と魂の暖い触れあいの中でしか育たない。愛情のないところに生命は育たぬ。誠意と献身のないところに生命の成長はない。

 男女の結合によって、子供が生まれる。生命の誕生である。親と子供は、同時に生まれるものです。親の無い子はなく、子のない親はない。親子関係は、西欧思想のように、「自」と「他」という二元的なものではない。親子の関係には、自他の区別がない。




                




無条件だ。あるものは愛情だけだ。

しかも打算のない愛情だ。真の愛情には終りがない。

これこそが人間存在の原点だ。

人間と人間関係の出発点だ。

私はとくに母親というものの姿から、純粋な人間愛に生きる、人間の本当の生き方を教えられた。

これこそが隣人愛につながり、社会愛・民族愛、そして人類愛にまでつながる根源である。

自分と他人とは別物ではない。自分と学生とは別物ではない。

学生の悦びを己の悦びとして悦ぶ。学生の苦悩を自らの苦悩として、共に苦しむ。自他の一体視だ。そうした暖いものこそが、人間の本質である。しかもこれこそが現代の社会に、最も欠けているものの一つである。

学生という生命体を育てるには、魂と魂の触れあいしかない。道元禅師は「自をして他に同ぜしめて、初めて他をして自に同ぜしむる道あり」と教えておられる。

また夏目漱石の「三四郎」とかいう本に、三四郎が東大の図書館から本を借りて来たら、落書がしてあった。
「ベルリンにおけるヘーゲルの講義は、舌の講義にあらず、心の講義なりき。哲学の講義は、ここに至って始めて聞くべし」とあった。





            
              新京





そうだ。 これだ。私にできることは、舌の講義ではない。心の講義だ。体ぜんたいで学生に、ぶっつかることだ。私は拓大に来て一六、七年間、実によく学生と遊んだ。飲んだ。歌った。語った。そして叱った。怒鳴った。励ました。

そのようにして私は私自身を語った。私は「口耳(こうじ)四寸の学」は教えなかった。耳から聞いて、四寸離れた口から出すような浅薄な学問は、教えなかったつもりである。「口耳(こうじ)の間は即ち四寸のみ。なんぞ以て七尺の躯を美とするに足らんや」(荀子)である。私は体ぜんたいで「吾れ」を語ったのです。

【食・色は人の性なり】

 私は初めて社会に出て、小学生の先生をした。三ヵ月目で首になった。若い女の先生と海岸へ遊びに行って首になったのです。駆け落ちしたのではありません。自動車で行ったまでのことです。二回目の就職先でもまた半年たらずで首になった。

 誰かの本に、こんな話があった。ある家に青年僧が下宿していた。実によく修業に励んでいた。宿の小母さんは、末頼もしく思っていた。小母さんには娘さんがあった。ある日娘が青年僧の食事を運ぼうとした時、母親は娘に、青年僧の気を引いてごらんと、けしかけた。娘は悦んで青年僧に抱きついてみた。青年僧は姿勢を正して

 「枯木(こぼく)寒厳(かんがん)によりて、三冬(冬の一番寒い時)暖気なし」と答えて、娘を冷たく突っ放した。

それを聞いた母親は、「この糞坊主が」と怒って、青年僧を追い出してしまったというのです。若い女性に抱きつかれても、冬の一番寒い時に、一木の枯木が寒ざむとした岩肌に生えてでもいるように、私には一向に感応はありませんよ、とでも云って入るのでしょう。こんな男は、人間じゃない。「停電」しているのだ。




             

      整理、整頓 倹約、津軽の教育




ところで、この佐藤先生なら、こうしたばあい、どういう反応を示したと思いますか。
佐藤先生は、待っていましたとばかり、「漏電」してしまったのです。

後始末は大変でした。とにかく私は、女には間違う。始末におえない先生だったのです。

「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒(いま)しむること色にあり」(論語)です。

 しかし私には一つの救いがあった。それは最初から最後まで、学生が好きだった。好きで好きでたまらんのだ。この拓大にも一人ぐらいは、徹底して学生と遊び通す先生がいてもよかろう。

 ところが、自分の未熟さ、能力、学問を考えると、それは恐ろしいことでもあった。そのため私は自分自身に厳しくした。

私は諸君に対して「私の講義を本当に学ぶ気持ちがあるなら、先生より先に教室に入って、心静かに待っておれ」と要求した。

この諸君に対する要求は、実は私自身に対する要求であった。与えられた貴重な時間だ。一秒たりとも、おろそかにはできないぞと、私自身にたいする誓いでもあった。そのため私は朝の始業時間よりは、三十分か四十分前には、必ず学校に到着しているように心がけた。

そして十七年間、この小さい小さい事をやり通した。

「初めあらざることなし、よく終りあること鮮(すくな)し」(詩経)。

何事でも初めのうちは、ともかくやるものだ。それを終りまで全うすることは、むずかしいものです。





           

        在学中の想い出に師を綴る
   


【私心を去れ】

 王陽明は「則天去(そくてんきょ)私(し)」天理にのっとり私を去る、と自戒しています。毛沢東は「則毛去(そくもうきょ)私(し)」を要求しています。つまり俺を模範として、お前らは私心を去って、俺のために尽くせと要求している。中国大陸の今日の混乱・闘争の根源は、毛沢東の私心にある。

 中国は何十回となく、革命をくり返してきた。しかし中国の独裁体制そのものを打倒することはできなかった。

つまり革命のない革命を、くり返して来ていたのです。

ところが中国近代革命の目標は、そのような独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上りの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとするところにある。毛沢東の独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上がりの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとする革命の力が育っているのです。

毛沢東という人は、かつて三国志の英雄曹操が「俺が天下の人に背(そむ)いたとしても、天下の人々が俺に背くようなことは許さぬ」とうそぶいたように、今では毛沢東一人を以て天下を治め、天下をもって毛沢東一人に奉仕させているのです。要するに毛沢東は、中国近代革命の本質を知らない男です。中国の真の革命はこれから始まるのです。


 とにかく王陽明も「山中の賊を破ることは易く、心中の賊を破ることは難し」と云っているように、私心を去ることはむずかしい。しかし私心を断たぬ限り、世の中は明るくならぬ。私心を去るということは、自己との永遠の闘いでしょう

 殷の湯王が自分の洗面器に「まことに日に新(あらた)に、日に日に新(あらた)に、また日に新なり」(大学)と彫(ほ)りつけておいて、毎朝洗顔する度に、自分の心の汚れ―私心をも洗い流して、毎日が生まれ変った新しい人間として、政治を執るように自戒し努力し續けたと云われています。


 私も自分を反省し、私心を棄てようと、私なりの努力と自戒を續けてきたのでしたが、人間ができずして、非常にかたくなな人間に変わった。しかし「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり」(孟子)です。私にはやろうとする気があった。愛情と誠意と献身のあるところ、万物は育つというのが、私の信念であり行動の基準でもありました。それが多少なりとも、自分の欠陥を補ってくれていると思います。



【国家衰亡の徴(しるし)】

そうした気持ち現在の拓大を見るばあい淋しい気持ちがしないでもない。拓大は長い間数多くの業績を残してきた。しかしながら現在の学生の中には、はつらつとした自己の生命力を自覚し、国際人としての教養を身につけ、使命感に生きようとする気魄に欠けている学生が多いように見受けられる。


現代の学生は感性的な欲望を追求することはいても知って、学問を以て自己の本質を見極めつつ、生きがいのある使命感に生き通そうとする気概が薄いようである。


人間の幸福を、人間の欲望を追求することに求めた近代文明が、その欲望をコントロールすることができずして、ついにその欲望に支配されている。不幸の根源は、そこにある。しかも現代の教育は、このような病理現象に対しては、あまりにも無力である。


日本の現状を正視してごらんなさい。
「天下は攘攘(じょうじょう)(集まるさま)として皆利の為に往き、天下は熙熙(きき)(喜び勇むさま)として皆利の為来たる」(六韜)

世の中は挙げて、利益・利益・利益。勢利のあるところに蟻の如くに群がっている日本人の姿を見なさい。

「上下交交(こもごも)利を征(と)れば、国危し」(孟子)

上の人も下の人も、正義を忘れて利益だけを追求するようになれば、その国は危うくなると教えています。今から二千三百年も前に死んだ荀子(じゅんし)が、「乱世の徴(しるし)」として、次のような「徴(しるし)」が現われてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。

「その服は組」-人々の服装がはですぎて、不調和となってくる。

「その容(かたち)は婦(ふ)」-男は女性のまねをしはじめ、その容貌態度は婦人のように、なまめかしく軟弱になってくる。拓大にもそんな亡国の民がおる。ところが国が亡ぶ時には、女までも堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男を好きになる。そして女はついに「両親を棄てて、その男の所へ走る」と荀子は書いている。

次は「その俗は淫」―その風俗は淫乱となってくる。

「その志は利」―人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。まさしく「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)です。利のためなら死んでも悔いがないのです。

身を以て天下に殉ずる日本人は、少なくなりました。

その次は「その行(おこない)は雑」―その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞きコーヒーを飲みながら、勉強している。一つのことに専念できなくなっている。

「その声楽(せいがく)は険」―音楽が下鄙てみだらとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態が分るのです。

荀子の言葉はまだ続くのですが、結局、「亡国に至りて而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」、これが本当の亡国だと警告しています。

現在の日本の国情と比べてごらん。まさしく「驕(おご)り亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)です。漁夫が屈原に「なぜあなたは世の中から遠ざけられたのか」と問われて、屈原は

「世を挙げてみな濁(こご)る、我れ独り清(す)む」

と答えて、ベキラの淵に身を投じて死んでいます。日本の現状も諸君が歌っているように、ベキラの淵に波騒ぐ状態です。しかし私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。



【魂の承継】

 私には父から貰った素晴しい財産がある。父は不自由な手で一幅の書を遺してくれました。
 「富貴も淫するあたわず、貧賤も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これこれを大丈夫と謂う。」
 孟子の言葉です。私はこれを父の遺言であると信じています。富貴は我れにおいて浮雲の如しです。

また母の実家の真向いは、陸羯南(くがかつなん)先生の家でした。陸先生は、とくに日本新聞を通じて、一世を指導した大思想家でした。先生は「挙世滔滔(とうとう)、勢い百川の東するが如きに当り、独り毅然(きぜん)として之れに逆(さから)うものは、千百人中すなわち一人のみ。甚しい哉。才の多くして而して気の寡(すくな)きことを」と、信じた道に命をかける人間が少なくなったことを叱咤(しった)しておられます。

 日本は国を挙げて、挙世滔滔として中国へ中国へと流れていった。私は日本を愛し、中国をも愛する。なぜ日本人は中国人を、かくまでも軽侮し殺さなければならないのか。

私は滔滔とした日本の巨大な流れを、阻止するすべを知らなかった。

私は北京大学の学生たちが、排日・侮日・抗日に起ち上る姿に感激した。私はなんらの躊躇することなく、彼らの抗日の波に飛びこみ、「打倒日本帝国主義」を叫んだ。

私の力は大海の水の一滴に過ぎなかった。完全に無力であった。しかし私には無力を知りつつも、そうせずにはおれないものがあった。

 弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦のときには満洲国熱河省次長(日計官吏の最高職)でした。八月十九日ソ連軍が承徳になだれこんで来た。岸谷さんは日本人居留民を集めて、

「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くして下さい」と別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウィスキーを飲みかわしながら、動こうともしない。人々は再三に亘って、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と促した。岸谷さんは「そんなに云ってくれるなら・・・」と起ち上って、奥の部屋のふすまを開けた。部屋ではお子さんと奥さんが死に赴く姿で端座していた。

・・・・・
 

さあ、私も諸君から「おれたちの清純な頭に、くだらん講義を詰めこむのは、やめてくれ」、そして「そこを退いてくれ」と云われんうちに、この辺で自ら去るのが賢明のようです。
 
そこで最後にもう一度言う。皆さん、大志を抱いて下さい。諸君は民族の生命を継承するのです。新しい歴史を創るのです。それに起ち向かうだけの気魄をもって下さい。生きがいのある使命感に生き通して下さい。がん張って下さい。

 私は拓大を去っても、私の心は諸君の上から離れることはないでしょう。
 皆さん、さようーなら。

               (昭和五十一年一月二十四日)

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あるインタビュー  08 1/27再

2024-05-21 23:07:04 | Weblog

 

 

 

━このお店を始められたのはどういうきっかけですか。


 僕はもともと建築が専門で、防音のショウルームでもつくろうと思ったんです。そこにピアノを置いて音楽を楽しめる場所にしたのが始まりです。店に来たお客さんを注意して見ているといろんなことに気が付きます。どんな人も世界の人口70億分の1の、人と異なるいいところをもっている。つまり個性と皆さんが言っているものです。

そういうことが分からないで、データ主義、あるいは官製学校歴(簡単に言うと中身のない学歴主義)の前提にある受験などで、思春期に当然、経験しなければならないことを順序良く体験していないと、手鏡を使って駅でいかがわしいことをしたり、お金をゲームのように扱ったりするようになってしまう。
そこで、今日はエスノペタゴジー、つまり土着的な教育についてお話したいと思います。

                 

            オスニー・ロル氏 ブラジルより

 

 

━エスノペタゴジー?

そう。勉強は何のためにするかというと、色・食・財を満足させ人生を謳歌するためという人が多いんじゃないかと思います。いい学校に入っていい会社に入れば、いい家を建てられて、きれいな奥さんがもらえるっていうことです。でも知識や技術や情報を取り入れた理屈で表現した情緒は薄いと感じる人はよくおりますね。
僕の言う学問は、守るべきものを護る、あるいは知識の積み重ねだけではなく、省くことも考えられる「活学」といわれるものです。  たとえば、今はなくしてしまった大切なもの、純粋なものを見て、それとわかるようになること。活学という学問は官製学校に対する、アンチアカデミックな教育学です。これがない人間教育というのは何の意味もありません。

国の作った制度と税を原資とした補助金、与えられた課題に疑問も抱かず、せっせと数値を獲得するために模範解答を記し、他人による無機質な選別によって人生さえ委ねてしまう官製の学歴ならぬ学校歴獲得に邁進する姿にこそ、問題意識を抱くことが必要ではないでしょうか。世の中のさまざまな煩いごとは人間の問題から発しています。ですから先の附属性価値獲得のような狭い目的意識を持つことなく、その現象を眺めるようなもう一つの境地、つまり無名に求めるのも必要な観点ではないでしょうか。

たとえば、江戸時代には、幼稚園の年頃の子どもから四書五経(中国の古典:論語や詩経など)の素読という勉強の仕方をずっとやってきたんです。いわゆる刷り込みのようですが、知識や技術の修得の前提となる本(もと)となる佳き習慣性を浸透させる学びのようなものです。四書五経というのは、音(オン)のよい文章だから、お経のように唱えることで、自然と身になってくる。刷り込まれたものは後になって、自分のなかによみがえってくるんです。 ことわざもそうですね。学校で教えない、年寄りからしか教わることができない知恵です。数値選別や利得に偏重するような学びの習慣性を基とした人間関係は社会そのものを劣化させますね。

煙突に2人の人が入って掃除をしました。出てきたとき、1人は真っ黒。1人は汚れていなかった。さて、顔を洗ったのはどっちでしょう?。真っ黒な人を見て、自分も真っ黒だと思った汚れてない方が洗ったんですよ。これはユダヤ民族の頓知(とんち)にあります。
テレビはこの方法で宣伝しています。今の人は宣伝に流されやすい。人の顔ばかり見て、自分の顔と勘違いしている。戦後の教育に欠けてしまったのは、よくよくこういうことをかみしめて理解するということですね。

明治維新をやった人達が学んだのは大学校ではありません。塾・藩校ですよ。
まげ結ってわらじを履いていた人たちが、維新から30数年後にはバルチック艦隊をやっつけるんだから、この国はなんだと思いますね。でもそこには海軍に秋山真之、陸軍には児玉源太郎という優れた参謀がいた。この2人はトリッキーなんです。直観力と頓知がすばらしい。これは文部省の作った官製学校歴の中では身につけることはできません。それこそ自己の内と外の体験や自然から感受して身に修めるものです。

世代を超え、それを活かして人から習うということですが、15年位前、東京都青少年問題協議会から依頼された原稿に、いずれ少子化の問題は起きてくるわけですから、廃校する学校の半分は老人が遊べる場所にして、子どもとの接点となる場所をつくりなさいと提言しました。子どもが一番バランスがいいのは年寄りと歩いている時なんです。速度も情緒もです。今だいぶ学校が開放されてきたようですが、役所は情緒を排除し、制度や時間、あるいは縦割りで人を管理しようとするから、現在でも実効性がいうのが薄いですね。これも人の問題です。

                          

  ハーピーハンコック氏とオスニー・メロ

 

━学校がお年寄りや障害のある人たちと日常的に交われる場所になると本当にいいですね。

自然の中で働いている漁師やお百姓さんは、時計の時間ではなくて自然の時に沿って働いていますよね。
僕は「漁師のつぶやき」という例え話をするのですが、いまどきのエリートが完璧な装備で海釣りに行った。案内する漁師は小学校しか出てないけれど、どこに魚が集まるかということを良く知っている。しかし、この日漁師は嵐の気配を感じて、沖に出ずに引き返そうという。漁師よりも天気予報を信頼している勉強家は、『そんなはずはない、金は払ったんだから船を沖へ向けろ』と携帯電話を片手に権利要求する。そこへドーンと嵐がやってくるという筋です。これは釣りの話だからいいようなものの、国家経営となったらどうですか。

本当に頭がいいというのは直観力があるということです。人間を観るときの直感力は観相学という学問にも通じていますが、「相」という字は、もとは木偏の上に目を置くというものです。高いところに登って見わたすと、360度見ることができるし、たどってきた過去の道を見ることもできるし、将来をも見通す「先見の明」です。首相・宰相というのは、本来そういう人のことをいうんですよ。

 

                       

                        「相」とは・・・・

                 

 

 

━直観力には、何か秘訣があるんですか。

 やっぱりムメイですよ。

━ムメイ?

 直接教えをいただいた中に、安岡正篤(まさひろ)という漢学者がいました。耳慣れないかもしれませんが頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)といって亡くなった人の徳をたたえる文章を添削していただいたときでした、

 先生の教えは『文章はうまい下手が問題ではない。君の真の気持ちが百年、二百年残ると思って書きなさい。もし百年たって、一人の人がそれを読んで、感銘を受けたらそのおかげで国が興きるかもしれない。国というのは一人によって興きるし、一人によって滅ぶ』ということです。

たとえば福祉を志している貴方の文章を見て、総理になる人が感銘をうけたら福祉政策はスムーズに行くじゃないですか。時代というのは変わるものだから、今に迎合した文章を書いて、大勢から褒めてもらうことは考えない方がいい。むしろ「無名」で人に添うことが大事なんだということです。

 地位、名誉、財力、学歴というのは大部分が人格とはなんら関係の無い附属性の価値です。附属性価値というのは、欲望に作用します。そういうものに支配されず、すなおに現象を感じ取れることが大事なんです。そういう人たちの存在こそが、まさに無名で社会に有力な深層の国力だとおもいます。

だから一度、経歴につながる苗字を抜いて名前だけで一人旅をしてごらん。社会の中の属性からはなれた自分として生きるというのは実にさわやかですよ。

 

                      

         秩父

 

 

━想像しただけで解放感があります。

コンゴ(ザイール)から来た青年が、来日まもなく私の店でコンボを叩いてくれたことがあります。コンゴは、ベルギー人の虐政はあり、内政も不安定という大変な国でした。そういう国から来た青年の叩き出すコンボの音を聞いていると、ライオンとかキリンが出てきそうな気配になった。つまり自然で素朴なんです。ニューヨークジャズにはドラッグの感じがあるよね。音楽も文章も、単に憧れで書くものと、身に沁みたものではぜんぜん違う。だから、いい文章や音に触れる、いい人間に触れるということが大切ですね。 

 

写真の一部は関係サイトより転載

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血が導くタルムードと厚黒学 09 3/13 あの頃

2024-05-10 02:31:24 | Weblog

一つは中東に棲むユダヤ民族に伝承されている処世の知恵として、他方は永い歴史を刻むなかで百家が説いた「論」を集積しつつも、「論」を噺の類にして、無尽なる欲望へのエネルギーをあからさまに人間関係の術としてリアルに「学」としたものである。

棲み別けられた自然や、政治環境の異なりはあるが、人と人が相対する接点における独特の術は歴史の時を違えて応答行動の姿として醸し出されている。わが国の「ことわざ」も対比させると面白い。

堅物の合間に手にとるロシュフーコや各種小話にも似たようなものがあるが、こと世界観、人間観ともなると、いま時を考察するのには面白い内容だ。




             




インターネットは世界を駆け巡るが、新旧取り混ぜた情報と称す真実、虚偽は時として民族性癖と交じり合って人々を群行群止させる。とくに覗き、脅しの類は、いたずらな恐怖心を添えてシャワーのように降りそそいでいる。

金融不安、疫病など、あたかも面前の恐怖のように映像と音声によって襲ってくる。商業マスコミに乗じた際限の無い欲望への喚起は生活最小限の利便性を多岐に重層して、夫々の資質にあった選別を難しくさせ、かつ情報資本の獲得比較の優劣を競う余りに無用な怨嗟や嫉妬を起こしている。

つまり人を信用の置けないものと仮定し、かつ複雑な要因で構成される国家というものさえ個々の利便性のなかに置くという、独特な民族性を持つものが動きやすい世界に入り込んできた。

たしかに切り口を変えれば国家に縛られない自由、人類平等と謳えばその意識もわからない訳ではないが、残念ながら曲がりなりにも国域(カテゴリー)に養った制度、慣習に庇護された多くの人々にとっては、まだまだ理解の淵には遠く、また彼等のしたたかにも見える世界観を認知すら出来ない戸惑いが昨今広がっている。

「平和だが何かおかしい」「幸せへの不安」と、吾が身を覆った一定の成功価値に問題意識をもつのは序の口で、抗する術(すべ)を見失いかけた国家の為政者に向かう人々の群は、羊飼いの犬に追われたように右往左往している。





                    






タルムード厚黒学を同質にとらえるものではないが、従前の国家が重積した歴史の残像にある共通的情緒と連帯意識では解くことが難しい点では共通した深層意識でもある。表層では交じり合い、財利の欲望もことさら異質性は認められないが、深層の企てなり謀はその発生と歴史的経過を客観的解明しようとしても、なかなか解りづらいものである。

民俗学、比較文化、地理学、歴史学など多岐に分派した学び方があるが、今は無き人間学、統合観察(プロデュース的)など、面前の応答辞令なり、オーラルヒストリーなどから感受する直感性や死生観などから読み解くことがなければ理解できないことであり、しかも実利に直結する緊張感と集中力がその実感を顕にする唯一の方法となる。

はたして組織の一員として、学域の範疇として、あるいはカルチャー知識など、多くのステータスを冠した情報によって、果たして彼等の言う智恵、はたまた利に向かって狡知にも転ずる美句、虚像に抗することができるのか、あるいは良知にも応用可能なのか疑問とするところである。

人が向かうところ、人の弱さと強さ、陥りやすい状況、表裏の柔軟な活用と正邪の転用などを熟知、いや刻み付けた彼等にとって、今どきの流行ブランドに志向したり、面前の利や動向に一喜一憂する意思亡き民は、最も好都合な群れでもあるだろう。

また彼等は自然界の循環に対する諦観と精霊の思想を秘奥に認めている。
単なる現世宗教やエコロジーではない。現世宗教は争いの具として、自然界は架空恐怖の具として利用されるべく茫洋且つ遠大な理想を対極に対峙させ、つねに調和と連帯なきカオスを温存しつつ、自らの座標の軸を中心に群れを回転せしめている。

ならば表層に現れた彼等の力である情報力 財利、あるいは財利に傀儡となった国家のフォーマルな軍事力と外交力に汲々としている地球の国群の民にとって「どうしたら・・」という同類に抗すべき問題を比較して考えるより、失くしてしまった直観力を甦えさせることが必要だ。






             






では「何が亡くなったか」「どうして衰えたか
彼等に問わずとも彼等はそれを示している。

・ ・・自然界の循環に対する諦観と精霊の思想を秘奥に認めている・・・

彼等の智の発生と活用の妙は民族性や巧みな口舌や謀だけではない。
地表に蠢く数多の生物のなかでの微小な人間を認め、しかも群れの一粒としての魂を養い、血を継続するために自然界の循環への諦観と精霊の存在を認めている。

同じ群れでも似て非なる群れなのだ。選民思想とはいうが含まれる意味は重く深い。
「そうあるべきだ」と学ぶことが必要だと問いかける。

血は知を集めることを経て智に転じ、血が継承される。
グローバルな世界国家は仕組みや方法の争論はあっても帰結する先は血の保守であることを思考するかのように導かせる。

血は「医学的に・・」「遺伝子が・・」と雑論は別にしてだが・・・

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