まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あの時の日本人 笠木良明と石原莞爾  2009 再

2024-05-27 09:01:34 | Weblog

ある時期、筆者は年一回催される「笠木会」に毎年招かれていた。
参会者は元関東軍高級参謀片倉衷、古海忠之総務次長、五十嵐八郎吉林興亜塾長、佐藤慎一郎大同学院教授、ほか満州関係の関東軍、施政関係、満鉄調査部、政界では三原朝雄、岸信介あるいは児玉誉士夫、毛呂清テル、岩田幸夫氏等、関係者など毎回30名ほどが参加していた。


              

            佐藤慎一郎氏   五十嵐八郎氏


満州で成功した統制経済は勤勉な民族的特質と性癖を読み解いた岸氏を始めとする統制経済官吏の成果であり、社会主義とも模せられる経営でもあった。それは興銀による集中投資や国鉄の十河総裁などにみる高度成長経済の前段である経済の基礎的(ファンダメンタル)部分の構成指針にもなった。

また豊富な人材に加味する目的意識と集中力、緊張感の醸成については、オバマ大統領の選挙戦で謳ったような、民族の調和と連帯を掲げる人間力のある先導者が必要だった。その意味で呉越同船の参会者が語る「満州建国の精神的支柱」という笠木への敬称は、彼がその紐帯(結びめ)でもあった証でもあった。

満州の「五族協和」と「王道」はまさに内なる統治を経済とともに強固にするためには日本人に向く良策だった。なぜなら勤勉でお節介だった。そして、゛旅の恥は掻き捨て゛に反して、内地の柵(しがらみ)ない新天地でのフロンティア精神がその気質に加え、使命感、義務感のともなった行動として躍動した。


               
 
        満州の日本人  佐藤慎一郎氏とご家族


                


  大同学院佐藤教授の生徒  梁粛成立法院長 筆者 丘氏(実業家) 



国内における閉塞感、軍官吏の増長、議会の権能の欠如はある種の泥足紐付きではあったが、異民族との交流は明治以降、衰えたから見えた良質な利他意識への大らか甦りのようでもあった。笠木の人物を表すに面白いエピソードがある。

あるとき大川周明にの講演があった。多くの参会者は高名な大川の講演というだけで集まったものもいる。その情況をみた笠木は、「ポチじゃあるまいし」と席を立った。滝行したと語る来訪者には「滝行で会得できるなら、滝つぼの鯉は人間以上だなぁ」と。

四角四面な日本人には最適な戯言だが、笠木会はそれを髣髴とさせるに充分な雰囲気だった。満州国副総理張景恵、日本人を喩えて「もう二、三度戦争に負ければ丸くなるのだが・・」と。

 

      


一方、後年になって石原莞爾の唱えた東亜連盟を継承する会に招かれ毎年物故祭に参加してた。当時の縁者は少ないが歴史を継承する意味では貴重な会の姿である。

実は、笠木会でもあったことだが、関東軍と満鉄の調査部、自治指導部とは幾ばくかの軋轢があり妙に思っていたが、石原の内地召還後の関東軍の、゛軍官吏らしい゛横暴がそれを意味していたようだったが、それは極論かもしれないが王道と覇道という姿の軋轢だったようだ。

関東軍の石原,自治指導に挺身した青年の精神的支柱であった笠木の真意について肝胆照らす二人の姿を映すコラムを以下に掲載し、かつ協和を妨げるものは何か・・、有史以来はじめて異国の地に伏して日本及び日本人が異民族との協和を試行し挫折したのか、その経過を考えてみたい。


            

 石原から国民党可応欽将軍への書簡   弘前市 鈴木忠雄氏蔵





なお、「一草莽」さまの所在も分からず無断掲載することを所期の意を忖度していただき、勝手ながら御礼としたい。

「一草莽」さんの投稿より

投稿日時: 2006-6-23 10:53
No.39208:「アジア主義」と「日本主義」


『昭和六年十月の、とある一日、満洲奉天は妙心寺に、笠木良明をはじめとした三十五、六人の青年たちが集まっていた。勃発したばかりの満州事変に対する大雄峯会の態度を協議するためである。そこへ招かれて、事変の立役者、石原莞爾関東軍参謀がやってきた。板垣高級参謀も一緒だった。石原莞爾は、山形弁をまるだしに、むしろとつとつと語った。

ーわれわれが満州事変に決起したのは、民衆を搾取して悪政かぎりない張学良政府を打倒するためである。軍閥官僚どもを追い払ったあと、この地には日本の影響下に新しい独立国を創らなければならない。日本、支那、朝鮮、蒙古などの各民族はこの国に相集まり、それぞれの特性を発揮して「自由」「平等」に競争しあい、満蒙の豊かな資源の「合理的開発」につとめる。そうすれば、日本の景気行き詰まりも打開され、満蒙住民も潤うだろう。こうして、満蒙の地は「在満蒙各種民族」が融和し、生かしあい、たがいに栄える「楽土」となるのである。また、そうなるように、けんめいに努力を傾けたい、と。

大雄峯会の若い面々は、こういった説明を聞いて、しだいに興奮していった。だがいったい「どういう具合に民衆を組織し、如何なる理念をもって新社会を築きあげる」べきか、「甲論乙駁で誠に烈しい議論」がつづいた。

とうとう笠木良明が口をきった。-ここ満蒙こそは「大乗相応の地」だ、アジア復興(解放)というわれわれの念願を実現することのできるところだ。まず第一に、「過去一切の苛政、誤解、迷想、紛糾等」を洗い流し追放して、この地に「極楽土」を創ろう。石原さんの意見にはまったく賛成だ。住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない。

第二に、満蒙「極楽土」を砦とし、この根拠地から「興亜の大濤」をまきおこそう。インドやエジプトにまでも、この波を広げていこう。われわれは「東亜の光」となって「全世界を光被」するのだ。そうすれば、ついには「全人類間に真誠の大調和」を創り出すこともできるのだ、と。

こうして、陸大出のエリート軍人・石原莞爾と、東京帝大法科卒業の満鉄マン、古くからの「愛国運動者」、笠木良明は、満州事変→建国の過程で一種意気投合したのであった。
(甲斐政治「自治指導部、鉄嶺政府について」)』



この会合での石原莞爾と笠木良明の発言は、(満洲の)アジア主義を象徴するような発言であろうと思います。この中で笠木が「住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない」という発言をしていますが、私は「戦前のアジア主義にとって、アジアという地縁はさして大きな意味を持っていなかった」と考えています。
私は、「アジア主義のアジア」というのは、「アジア共同体のアジア」よりも、「アジア的王道政治(外交)のアジア」という側面の方が強かったのではないかと思います。それ故に、「住民が何処の国か」にこだわる地縁重視の姿勢が否定されたのだろうと思います。

笠木良明も、大川周明門下の『日本主義者』であったそうですが、『日本主義者』として日本の理想とする世界像(外交)を追い求め、辿り着いたのがアジア主義だったのでしょう。アジアという地縁にこだわっていた側面も確かにあったのでしょうが、たまたま「アジア」と呼ばれる地域の人々が欧米の植民地として抑圧され、日本人が理想とする世界像から容認できない状況にあったから、アジアの人々と大同団結して戦おうとしたのであり、もし逆に欧米の国々がアジアの植民地として抑圧されていたならば、「欧米主義」になって欧米の国々を救うためにアジアと戦ったのではないかと思います。

たまたま読んだ終戦直後に書かれた古本では、大川や笠木を「アジア主義者」ではなく「日本主義者」と表現していましたが、「アジア主義」を考える上では「日本主義」がキーになるような気がしています

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鈴木宗雄氏も綴る、佐藤慎一郎先生  お別れの言葉

2024-05-26 01:14:53 | Weblog

心より感謝し、理屈のない感涙を招いた師の言葉をお伝えいたします

好きでたまらないという生徒達に伝え、生徒も感応した。なかには戦慄(わなな)き落涙するものもいた。あの人情豊かな鈴木宗雄議員も先生への思いを随時に綴っている。

筆者も多くの碩学といわれる人物に遭遇するが、背筋に冷たいものが走ったのは佐藤先生をおいてはいない。

ただ、下座において、吾が身を以って伝えることは、俗事小事にまみえる小生にとって終生解けぬ難問でもある。時おり学徒に無学を晒しつつも師の追従模倣でしかない。

春、秋と津軽の墓前に参するも、照れくさくも恥ずかしい雄の児があるだけだ。

最後は病室を退く背に『後は頼みますよ・・』といわれたが、なぜか振り向けなかった。
同行の王荊山の遺子が覚ったように身を震わせた

悲しい、淋しいより、悔しかった。

それは、゛まだ早い゛、゛いつでもいる゛という甘えだったのか・・・




                





【心の講義】

最終講義の二、三十分間を借りて、思いつくままのお別れの言葉を云わしてもらいます。
私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、おさき真暗な時代でした。五・一五事件、二・ニ六事件、満洲事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。

私は、満洲国で、初めて人間の素晴しい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面をも見せつけられ慄然(りつぜん)としました。

 私も敗戦後、共産軍に捕らえられ、死刑の判決を受けること二回、二回とも中国人に助けられました.三回目は国民党に逮捕され、九分通りは死刑であるとの内示を受けていたのが、判決直前釈放されました。私は留置場の中で、または死刑執行場で、自分で自分の入るべき墓穴を掘りながら、本当の学問というものは、書物以外の所により多くあることを体験させられました。

「吾れ汝らほど書を読まず、然るが故に吾れ汝らほど愚かならず。」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」

という言葉の意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした。いかに素晴しい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。






               

       孫文側近 山田純三郎  先生の叔父




 では教育とは何だ。祖先から承け継いだ民族の生命をはぐくみ育てながら、次の代に伝えていくことだと信じます。教育とは、民族の生命の承継である。生命、それは魂と魂の暖い触れあいの中でしか育たない。愛情のないところに生命は育たぬ。誠意と献身のないところに生命の成長はない。

 男女の結合によって、子供が生まれる。生命の誕生である。親と子供は、同時に生まれるものです。親の無い子はなく、子のない親はない。親子関係は、西欧思想のように、「自」と「他」という二元的なものではない。親子の関係には、自他の区別がない。




                




無条件だ。あるものは愛情だけだ。

しかも打算のない愛情だ。真の愛情には終りがない。

これこそが人間存在の原点だ。

人間と人間関係の出発点だ。

私はとくに母親というものの姿から、純粋な人間愛に生きる、人間の本当の生き方を教えられた。

これこそが隣人愛につながり、社会愛・民族愛、そして人類愛にまでつながる根源である。

自分と他人とは別物ではない。自分と学生とは別物ではない。

学生の悦びを己の悦びとして悦ぶ。学生の苦悩を自らの苦悩として、共に苦しむ。自他の一体視だ。そうした暖いものこそが、人間の本質である。しかもこれこそが現代の社会に、最も欠けているものの一つである。

学生という生命体を育てるには、魂と魂の触れあいしかない。道元禅師は「自をして他に同ぜしめて、初めて他をして自に同ぜしむる道あり」と教えておられる。

また夏目漱石の「三四郎」とかいう本に、三四郎が東大の図書館から本を借りて来たら、落書がしてあった。
「ベルリンにおけるヘーゲルの講義は、舌の講義にあらず、心の講義なりき。哲学の講義は、ここに至って始めて聞くべし」とあった。





            
              新京





そうだ。 これだ。私にできることは、舌の講義ではない。心の講義だ。体ぜんたいで学生に、ぶっつかることだ。私は拓大に来て一六、七年間、実によく学生と遊んだ。飲んだ。歌った。語った。そして叱った。怒鳴った。励ました。

そのようにして私は私自身を語った。私は「口耳(こうじ)四寸の学」は教えなかった。耳から聞いて、四寸離れた口から出すような浅薄な学問は、教えなかったつもりである。「口耳(こうじ)の間は即ち四寸のみ。なんぞ以て七尺の躯を美とするに足らんや」(荀子)である。私は体ぜんたいで「吾れ」を語ったのです。

【食・色は人の性なり】

 私は初めて社会に出て、小学生の先生をした。三ヵ月目で首になった。若い女の先生と海岸へ遊びに行って首になったのです。駆け落ちしたのではありません。自動車で行ったまでのことです。二回目の就職先でもまた半年たらずで首になった。

 誰かの本に、こんな話があった。ある家に青年僧が下宿していた。実によく修業に励んでいた。宿の小母さんは、末頼もしく思っていた。小母さんには娘さんがあった。ある日娘が青年僧の食事を運ぼうとした時、母親は娘に、青年僧の気を引いてごらんと、けしかけた。娘は悦んで青年僧に抱きついてみた。青年僧は姿勢を正して

 「枯木(こぼく)寒厳(かんがん)によりて、三冬(冬の一番寒い時)暖気なし」と答えて、娘を冷たく突っ放した。

それを聞いた母親は、「この糞坊主が」と怒って、青年僧を追い出してしまったというのです。若い女性に抱きつかれても、冬の一番寒い時に、一木の枯木が寒ざむとした岩肌に生えてでもいるように、私には一向に感応はありませんよ、とでも云って入るのでしょう。こんな男は、人間じゃない。「停電」しているのだ。




             

      整理、整頓 倹約、津軽の教育




ところで、この佐藤先生なら、こうしたばあい、どういう反応を示したと思いますか。
佐藤先生は、待っていましたとばかり、「漏電」してしまったのです。

後始末は大変でした。とにかく私は、女には間違う。始末におえない先生だったのです。

「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒(いま)しむること色にあり」(論語)です。

 しかし私には一つの救いがあった。それは最初から最後まで、学生が好きだった。好きで好きでたまらんのだ。この拓大にも一人ぐらいは、徹底して学生と遊び通す先生がいてもよかろう。

 ところが、自分の未熟さ、能力、学問を考えると、それは恐ろしいことでもあった。そのため私は自分自身に厳しくした。

私は諸君に対して「私の講義を本当に学ぶ気持ちがあるなら、先生より先に教室に入って、心静かに待っておれ」と要求した。

この諸君に対する要求は、実は私自身に対する要求であった。与えられた貴重な時間だ。一秒たりとも、おろそかにはできないぞと、私自身にたいする誓いでもあった。そのため私は朝の始業時間よりは、三十分か四十分前には、必ず学校に到着しているように心がけた。

そして十七年間、この小さい小さい事をやり通した。

「初めあらざることなし、よく終りあること鮮(すくな)し」(詩経)。

何事でも初めのうちは、ともかくやるものだ。それを終りまで全うすることは、むずかしいものです。





           

        在学中の想い出に師を綴る
   


【私心を去れ】

 王陽明は「則天去(そくてんきょ)私(し)」天理にのっとり私を去る、と自戒しています。毛沢東は「則毛去(そくもうきょ)私(し)」を要求しています。つまり俺を模範として、お前らは私心を去って、俺のために尽くせと要求している。中国大陸の今日の混乱・闘争の根源は、毛沢東の私心にある。

 中国は何十回となく、革命をくり返してきた。しかし中国の独裁体制そのものを打倒することはできなかった。

つまり革命のない革命を、くり返して来ていたのです。

ところが中国近代革命の目標は、そのような独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上りの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとするところにある。毛沢東の独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上がりの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとする革命の力が育っているのです。

毛沢東という人は、かつて三国志の英雄曹操が「俺が天下の人に背(そむ)いたとしても、天下の人々が俺に背くようなことは許さぬ」とうそぶいたように、今では毛沢東一人を以て天下を治め、天下をもって毛沢東一人に奉仕させているのです。要するに毛沢東は、中国近代革命の本質を知らない男です。中国の真の革命はこれから始まるのです。


 とにかく王陽明も「山中の賊を破ることは易く、心中の賊を破ることは難し」と云っているように、私心を去ることはむずかしい。しかし私心を断たぬ限り、世の中は明るくならぬ。私心を去るということは、自己との永遠の闘いでしょう

 殷の湯王が自分の洗面器に「まことに日に新(あらた)に、日に日に新(あらた)に、また日に新なり」(大学)と彫(ほ)りつけておいて、毎朝洗顔する度に、自分の心の汚れ―私心をも洗い流して、毎日が生まれ変った新しい人間として、政治を執るように自戒し努力し續けたと云われています。


 私も自分を反省し、私心を棄てようと、私なりの努力と自戒を續けてきたのでしたが、人間ができずして、非常にかたくなな人間に変わった。しかし「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり」(孟子)です。私にはやろうとする気があった。愛情と誠意と献身のあるところ、万物は育つというのが、私の信念であり行動の基準でもありました。それが多少なりとも、自分の欠陥を補ってくれていると思います。



【国家衰亡の徴(しるし)】

そうした気持ち現在の拓大を見るばあい淋しい気持ちがしないでもない。拓大は長い間数多くの業績を残してきた。しかしながら現在の学生の中には、はつらつとした自己の生命力を自覚し、国際人としての教養を身につけ、使命感に生きようとする気魄に欠けている学生が多いように見受けられる。


現代の学生は感性的な欲望を追求することはいても知って、学問を以て自己の本質を見極めつつ、生きがいのある使命感に生き通そうとする気概が薄いようである。


人間の幸福を、人間の欲望を追求することに求めた近代文明が、その欲望をコントロールすることができずして、ついにその欲望に支配されている。不幸の根源は、そこにある。しかも現代の教育は、このような病理現象に対しては、あまりにも無力である。


日本の現状を正視してごらんなさい。
「天下は攘攘(じょうじょう)(集まるさま)として皆利の為に往き、天下は熙熙(きき)(喜び勇むさま)として皆利の為来たる」(六韜)

世の中は挙げて、利益・利益・利益。勢利のあるところに蟻の如くに群がっている日本人の姿を見なさい。

「上下交交(こもごも)利を征(と)れば、国危し」(孟子)

上の人も下の人も、正義を忘れて利益だけを追求するようになれば、その国は危うくなると教えています。今から二千三百年も前に死んだ荀子(じゅんし)が、「乱世の徴(しるし)」として、次のような「徴(しるし)」が現われてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。

「その服は組」-人々の服装がはですぎて、不調和となってくる。

「その容(かたち)は婦(ふ)」-男は女性のまねをしはじめ、その容貌態度は婦人のように、なまめかしく軟弱になってくる。拓大にもそんな亡国の民がおる。ところが国が亡ぶ時には、女までも堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男を好きになる。そして女はついに「両親を棄てて、その男の所へ走る」と荀子は書いている。

次は「その俗は淫」―その風俗は淫乱となってくる。

「その志は利」―人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。まさしく「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)です。利のためなら死んでも悔いがないのです。

身を以て天下に殉ずる日本人は、少なくなりました。

その次は「その行(おこない)は雑」―その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞きコーヒーを飲みながら、勉強している。一つのことに専念できなくなっている。

「その声楽(せいがく)は険」―音楽が下鄙てみだらとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態が分るのです。

荀子の言葉はまだ続くのですが、結局、「亡国に至りて而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」、これが本当の亡国だと警告しています。

現在の日本の国情と比べてごらん。まさしく「驕(おご)り亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)です。漁夫が屈原に「なぜあなたは世の中から遠ざけられたのか」と問われて、屈原は

「世を挙げてみな濁(こご)る、我れ独り清(す)む」

と答えて、ベキラの淵に身を投じて死んでいます。日本の現状も諸君が歌っているように、ベキラの淵に波騒ぐ状態です。しかし私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。



【魂の承継】

 私には父から貰った素晴しい財産がある。父は不自由な手で一幅の書を遺してくれました。
 「富貴も淫するあたわず、貧賤も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これこれを大丈夫と謂う。」
 孟子の言葉です。私はこれを父の遺言であると信じています。富貴は我れにおいて浮雲の如しです。

また母の実家の真向いは、陸羯南(くがかつなん)先生の家でした。陸先生は、とくに日本新聞を通じて、一世を指導した大思想家でした。先生は「挙世滔滔(とうとう)、勢い百川の東するが如きに当り、独り毅然(きぜん)として之れに逆(さから)うものは、千百人中すなわち一人のみ。甚しい哉。才の多くして而して気の寡(すくな)きことを」と、信じた道に命をかける人間が少なくなったことを叱咤(しった)しておられます。

 日本は国を挙げて、挙世滔滔として中国へ中国へと流れていった。私は日本を愛し、中国をも愛する。なぜ日本人は中国人を、かくまでも軽侮し殺さなければならないのか。

私は滔滔とした日本の巨大な流れを、阻止するすべを知らなかった。

私は北京大学の学生たちが、排日・侮日・抗日に起ち上る姿に感激した。私はなんらの躊躇することなく、彼らの抗日の波に飛びこみ、「打倒日本帝国主義」を叫んだ。

私の力は大海の水の一滴に過ぎなかった。完全に無力であった。しかし私には無力を知りつつも、そうせずにはおれないものがあった。

 弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦のときには満洲国熱河省次長(日計官吏の最高職)でした。八月十九日ソ連軍が承徳になだれこんで来た。岸谷さんは日本人居留民を集めて、

「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くして下さい」と別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。岸谷さんはウィスキーを飲みかわしながら、動こうともしない。人々は再三に亘って、「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」と促した。岸谷さんは「そんなに云ってくれるなら・・・」と起ち上って、奥の部屋のふすまを開けた。部屋ではお子さんと奥さんが死に赴く姿で端座していた。

・・・・・
 

さあ、私も諸君から「おれたちの清純な頭に、くだらん講義を詰めこむのは、やめてくれ」、そして「そこを退いてくれ」と云われんうちに、この辺で自ら去るのが賢明のようです。
 
そこで最後にもう一度言う。皆さん、大志を抱いて下さい。諸君は民族の生命を継承するのです。新しい歴史を創るのです。それに起ち向かうだけの気魄をもって下さい。生きがいのある使命感に生き通して下さい。がん張って下さい。

 私は拓大を去っても、私の心は諸君の上から離れることはないでしょう。
 皆さん、さようーなら。

               (昭和五十一年一月二十四日)

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あるインタビュー  08 1/27再

2024-05-21 23:07:04 | Weblog

 

 

 

━このお店を始められたのはどういうきっかけですか。


 僕はもともと建築が専門で、防音のショウルームでもつくろうと思ったんです。そこにピアノを置いて音楽を楽しめる場所にしたのが始まりです。店に来たお客さんを注意して見ているといろんなことに気が付きます。どんな人も世界の人口70億分の1の、人と異なるいいところをもっている。つまり個性と皆さんが言っているものです。

そういうことが分からないで、データ主義、あるいは官製学校歴(簡単に言うと中身のない学歴主義)の前提にある受験などで、思春期に当然、経験しなければならないことを順序良く体験していないと、手鏡を使って駅でいかがわしいことをしたり、お金をゲームのように扱ったりするようになってしまう。
そこで、今日はエスノペタゴジー、つまり土着的な教育についてお話したいと思います。

                 

            オスニー・ロル氏 ブラジルより

 

 

━エスノペタゴジー?

そう。勉強は何のためにするかというと、色・食・財を満足させ人生を謳歌するためという人が多いんじゃないかと思います。いい学校に入っていい会社に入れば、いい家を建てられて、きれいな奥さんがもらえるっていうことです。でも知識や技術や情報を取り入れた理屈で表現した情緒は薄いと感じる人はよくおりますね。
僕の言う学問は、守るべきものを護る、あるいは知識の積み重ねだけではなく、省くことも考えられる「活学」といわれるものです。  たとえば、今はなくしてしまった大切なもの、純粋なものを見て、それとわかるようになること。活学という学問は官製学校に対する、アンチアカデミックな教育学です。これがない人間教育というのは何の意味もありません。

国の作った制度と税を原資とした補助金、与えられた課題に疑問も抱かず、せっせと数値を獲得するために模範解答を記し、他人による無機質な選別によって人生さえ委ねてしまう官製の学歴ならぬ学校歴獲得に邁進する姿にこそ、問題意識を抱くことが必要ではないでしょうか。世の中のさまざまな煩いごとは人間の問題から発しています。ですから先の附属性価値獲得のような狭い目的意識を持つことなく、その現象を眺めるようなもう一つの境地、つまり無名に求めるのも必要な観点ではないでしょうか。

たとえば、江戸時代には、幼稚園の年頃の子どもから四書五経(中国の古典:論語や詩経など)の素読という勉強の仕方をずっとやってきたんです。いわゆる刷り込みのようですが、知識や技術の修得の前提となる本(もと)となる佳き習慣性を浸透させる学びのようなものです。四書五経というのは、音(オン)のよい文章だから、お経のように唱えることで、自然と身になってくる。刷り込まれたものは後になって、自分のなかによみがえってくるんです。 ことわざもそうですね。学校で教えない、年寄りからしか教わることができない知恵です。数値選別や利得に偏重するような学びの習慣性を基とした人間関係は社会そのものを劣化させますね。

煙突に2人の人が入って掃除をしました。出てきたとき、1人は真っ黒。1人は汚れていなかった。さて、顔を洗ったのはどっちでしょう?。真っ黒な人を見て、自分も真っ黒だと思った汚れてない方が洗ったんですよ。これはユダヤ民族の頓知(とんち)にあります。
テレビはこの方法で宣伝しています。今の人は宣伝に流されやすい。人の顔ばかり見て、自分の顔と勘違いしている。戦後の教育に欠けてしまったのは、よくよくこういうことをかみしめて理解するということですね。

明治維新をやった人達が学んだのは大学校ではありません。塾・藩校ですよ。
まげ結ってわらじを履いていた人たちが、維新から30数年後にはバルチック艦隊をやっつけるんだから、この国はなんだと思いますね。でもそこには海軍に秋山真之、陸軍には児玉源太郎という優れた参謀がいた。この2人はトリッキーなんです。直観力と頓知がすばらしい。これは文部省の作った官製学校歴の中では身につけることはできません。それこそ自己の内と外の体験や自然から感受して身に修めるものです。

世代を超え、それを活かして人から習うということですが、15年位前、東京都青少年問題協議会から依頼された原稿に、いずれ少子化の問題は起きてくるわけですから、廃校する学校の半分は老人が遊べる場所にして、子どもとの接点となる場所をつくりなさいと提言しました。子どもが一番バランスがいいのは年寄りと歩いている時なんです。速度も情緒もです。今だいぶ学校が開放されてきたようですが、役所は情緒を排除し、制度や時間、あるいは縦割りで人を管理しようとするから、現在でも実効性がいうのが薄いですね。これも人の問題です。

                          

  ハーピーハンコック氏とオスニー・メロ

 

━学校がお年寄りや障害のある人たちと日常的に交われる場所になると本当にいいですね。

自然の中で働いている漁師やお百姓さんは、時計の時間ではなくて自然の時に沿って働いていますよね。
僕は「漁師のつぶやき」という例え話をするのですが、いまどきのエリートが完璧な装備で海釣りに行った。案内する漁師は小学校しか出てないけれど、どこに魚が集まるかということを良く知っている。しかし、この日漁師は嵐の気配を感じて、沖に出ずに引き返そうという。漁師よりも天気予報を信頼している勉強家は、『そんなはずはない、金は払ったんだから船を沖へ向けろ』と携帯電話を片手に権利要求する。そこへドーンと嵐がやってくるという筋です。これは釣りの話だからいいようなものの、国家経営となったらどうですか。

本当に頭がいいというのは直観力があるということです。人間を観るときの直感力は観相学という学問にも通じていますが、「相」という字は、もとは木偏の上に目を置くというものです。高いところに登って見わたすと、360度見ることができるし、たどってきた過去の道を見ることもできるし、将来をも見通す「先見の明」です。首相・宰相というのは、本来そういう人のことをいうんですよ。

 

                       

                        「相」とは・・・・

                 

 

 

━直観力には、何か秘訣があるんですか。

 やっぱりムメイですよ。

━ムメイ?

 直接教えをいただいた中に、安岡正篤(まさひろ)という漢学者がいました。耳慣れないかもしれませんが頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)といって亡くなった人の徳をたたえる文章を添削していただいたときでした、

 先生の教えは『文章はうまい下手が問題ではない。君の真の気持ちが百年、二百年残ると思って書きなさい。もし百年たって、一人の人がそれを読んで、感銘を受けたらそのおかげで国が興きるかもしれない。国というのは一人によって興きるし、一人によって滅ぶ』ということです。

たとえば福祉を志している貴方の文章を見て、総理になる人が感銘をうけたら福祉政策はスムーズに行くじゃないですか。時代というのは変わるものだから、今に迎合した文章を書いて、大勢から褒めてもらうことは考えない方がいい。むしろ「無名」で人に添うことが大事なんだということです。

 地位、名誉、財力、学歴というのは大部分が人格とはなんら関係の無い附属性の価値です。附属性価値というのは、欲望に作用します。そういうものに支配されず、すなおに現象を感じ取れることが大事なんです。そういう人たちの存在こそが、まさに無名で社会に有力な深層の国力だとおもいます。

だから一度、経歴につながる苗字を抜いて名前だけで一人旅をしてごらん。社会の中の属性からはなれた自分として生きるというのは実にさわやかですよ。

 

                      

         秩父

 

 

━想像しただけで解放感があります。

コンゴ(ザイール)から来た青年が、来日まもなく私の店でコンボを叩いてくれたことがあります。コンゴは、ベルギー人の虐政はあり、内政も不安定という大変な国でした。そういう国から来た青年の叩き出すコンボの音を聞いていると、ライオンとかキリンが出てきそうな気配になった。つまり自然で素朴なんです。ニューヨークジャズにはドラッグの感じがあるよね。音楽も文章も、単に憧れで書くものと、身に沁みたものではぜんぜん違う。だから、いい文章や音に触れる、いい人間に触れるということが大切ですね。 

 

写真の一部は関係サイトより転載

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受刑者にサン付けで戸惑う 府中刑務所 12 7/5 あの頃

2024-05-15 08:33:28 | Weblog

八嶋龍仙作    青森県弘前市在




あの大国魂神社や競馬場で有名な府中市は東洋一といわける威容を誇る?刑務所でも有名な場所だ。三億円事件の舞台となった刑務所の塀に沿う道路は東芝府中工場が隣接し、その広大な敷地を囲う施設は、さほどの興味を持たなければ内部の様子など知る由もない。

昔、八王子や府中近辺は甲州と江戸の境目にあたり、神社の祭りにはそれぞれの勢力が角突き合い、露店の売り物だった鎌や鍬などを喧嘩道具にして亡くなったものも少なくなかった。

また神社の掲額に和算が記されているほど農閑期には学問も盛んだった。ちなみに芦ノ湖からの導水建設も和算である。つまり斜面を上下から掘り進んで合致する計算である。ちなみに近鉄の生駒山トンネルは近代工法で行ったが合致点ではずれが有ったという。西洋方程式と和算は計算方法も異なるが、その慣性に馴染んだ発想も違うのは当然のこと。

「法」も「矩」とか「則」と記されるが、内包するものはまったく異なるのは古今東西の歴史でも明らかではある。いまは「法」が成文(文章)され、それををマニュアルにして、判例裁判や食い扶持としている法匪の群れに新たな社会悪を視るのは筆者だけではあるまい。受験による人間選別にあるごとく、人間を人格や長い目で見た歴史的有効性など賞罰の置く所が変わる「秤」の均衡さえ保たれなくなっている。府中は郷士も多くあの近藤勇もこの地の出身だ。体制の警護も風が変われば勤皇の志士を討った国賊である。










津軽


おもえば18歳からの司法ボランティアでは更生保護に関わる多くの行政関係者との縁があった。
たとえば中学生が不幸にして犯罪を犯すとまずは警察、次は家庭裁判所、不処分もあれば、問題があると思われると練馬の鑑別所、そして家裁での少年審判、そして法務省保護局の各都道府県にある観察所において観察官のもとで保護観察が行われる。

少年院などの施設と異なり在宅観察は社会内処遇として地域の保護司、あるいはBBS(ビックブラザー・ビックシスターである兄と姉の更生援護活動)によってグループワークが行われ、また更生保護女性会による更生を助ける啓蒙活動が行われ、代表的なものとして「社会を明るくする運動」が全国的に行われている。

私事だが、社会内処遇に伴う社会資源としてボランティアの活用が謳われた頃、よく保護局の依頼でテレビやラジオの生番組にコメンテーターとして招かれたが、聴き様によっては硬い題材のせいか、法務省としては二十代の方が周知宣伝として都合がよかったのだろう。最近の周知ポスターには若い女優を使っているが、一般社会からすれば非行少年や成人犯罪者など意識の外という観念のなかで、まさに徒労さえ感ずる活動だった。

これら更生保護関係者によっておこなわれる社会内処遇という再犯防止や更生援助から、その活動を周知する意味での保護司の秘匿的立場から積極的な周知啓蒙へと変化するにしたがって、近頃では学校、自治体、地域への活動として広がりをみせている。

一方、治安警察から送検され裁判で刑期が確定した人の自由を拘束する施設についてはその実情は明かされることはあまりないようだ。また入所者の人権もあるが、時折起こる官側の不祥事に内部の制限内公開の圧力もある。それゆえ施設内の責任についても新たな矯正教育や出所後の生活設計の指導など、きめ細やかな作業が進められてきた。

とくに応報刑のように不倫したら死刑、泥棒は手を切るような事とは違い、施設内教育刑ゆえに、肉体的労苦も少ない殖産のための勤労など社会から隔離された処遇は、人の内面の転化を促す方法としては内省を期待するほかはないようだ。

よく、網走や旭川は寒い、逆に南方は暑い、しかも週に二回の入浴ではどちらがいいか、まして犯罪別で入所先が決定するために当然なことだが自由選択もなく、遠隔地での長期刑は特殊な覚悟と諦観が必要になってくる。
なかなか裁判が結審しない未決(無罪の場合もある)は東京では小菅の東京拘置所に収監されるが、なかには二年も裁判が始まらないこともあり、判決確定しても長期の場合は全国各地の刑務所に移送されて長期収監される。最近多くなったのは老齢者の入所だ。








最近、独り暮らしの高齢者の生活保護が多い。なかには従順ならざる人物や天涯孤独でアパートを借りたくても保証人もいない老人がいる。
行政の施設は規則が厳しく歳をとっても好き勝手なこともできないと忌避しても、保証人もいないので旅館に入るが、アパートなら月割り家賃だが旅館は日割り、自由だが月に数万高い。それでも規則的なことや人に頼むことを、゛頭を下げる゛ことと考えている。筆者も少なからず頑固だと自任しているが、人に頭を下げるのが嫌なのではなく、そんな自分が情けない自責があるようだ。それが社会にリンクするとつい苦言がこぼれる。

よく「ひかれ者の小唄」とか「女房に負けるものかとバカが云い」と浮話があるが、雄の子の性は時おり刑務所の塀の上を歩くことも叶わず、塀を眺めて思案する脆弱さがあるようだ。ときおり思慮分別を忘れ無邪気な童心に望みを託すが、齢が邪魔する。なにも長寿のみを将来の糧だとは思わないが、つい解らねモノに届かない惜しい気持ちが残るのもそのせいだろう。

とくに官吏からの褒章にも縁遠く、かつシャイともおもえる反抗が見てとれる彼らの姿は、遠き童心に回帰したくとも、社会も素直には仕組まれてはいない。「好き好んで」とはその心情なのだろう。






浮俗の楽しみ



管理棟から入ってはじめに視た舎は老人病院のようだった。70歳を超えている老人がペットを並べてまさに動けない重度の様子だ。しかも長期刑だという。それも年々増えているという。以前筆者が担当した方だが、難聴で思い込みが強く隣室で悪口を言っていると妄想し、ドアを蹴って破損。その保護観察だったが病気になり福祉事務所と連絡を取り入院。毎月の面接は病院でおこなった。それから幾人か私より年かさの方を担当したが、更生援護より身体を心配することの方に重点が置かれた。

それをいくら刑期のある犯罪者だとしてもペットで排便の始末を行い、ときに便を壁にこすりつけたり、投げられたりする刑務官だが、いくら職住環境を同じくするものとして、あるいは職責だとしても、それは職分として介護専門職のさらなる助力が必要なことだ。

ました府中は多い時で約3000名弱の収容である。さまざまな障害や病気もある。だが医師も足りない。もちろん医療介護士も不足している。あの大岡越前と赤ひげ療養所のようにはうまくはいかないらしい。

洗濯物の整理、印刷、皮製品、自動車部品、などの作業工場、体育館や運動場、まさに工場と呼ぶような厨房、風呂場、隅々まで案内していただいたが、一般の人ではなかなか対応できないであろう様相である。とくに目立ったのは外国人と老人である。もちろん鮮やかな唐様の刺青を彫った稼業の世界の人もいるが、黙々とミシンを踏んだり病棟のおしめを丁寧にに畳んでいる。社会では女性の作業のようにみられるが、男だけの世界では軍隊の艦隊勤務のようで自助が養われる。

よく刑務所に行くと読書家になるという。また難しい話題も容易に話せるようになるというが、読書もそうだが緊張感と集中力を維持するには不謹慎だが格好の場所のようにも見える。炎天下に鎌をとっての雑草取りは都会育ちには苦しい。老若のコミ二ュケーションも大変だがここでは否応もない。雑居といって六人部屋もあるが荷物は所定のボストンバックが一つ。独居も同様、布団の上げ下ろしと整理整頓が決まりだ。

当然のことだがむかしの侠客は部屋住みといって挨拶応答、箸の上げ下ろしや買い物の手順、長幼の順まで厳しく教えられ、刑務所生活でも模範となるものも多かった。いくら社会で高名な親分でもここでは平等である。とくに喜ぶのは外国人だという。









永い期間、社会の状況が分からない懲役を負っている高齢者は大親分が同室になっても分からない。その親分も侠客として分別のつく人格者だと、高齢の服役者には礼儀正しく世話を焼いたり話し相手になっているという。世間に出ても一流の紳士として尊敬される人物だが、世相の「暴・・」で人くぐりするには惜しい人物もいる。

その環境は強制的矯正といっても、一方ではその矯正とは別に内面から湧き上がるような転化を援けるようなこともある。いくら法に定められたことから逸脱しても、あるいは法に随って刑期を経たとしても、もしくは寡黙な作業で交流がなくても、同時期に舎に棲み分けられ、互いに縁の微かなる中でも生まれるであろう共感は、生死の緊張と自由の拘束なればこそ残像は焼きつくように刻まれ、出所後の社会でも時折想起されるのだろう。

それを、懐かしむ時間、己を知る機会、それが己の蘇りとして時と存在の「分」を知る瞬間でもあるのだ。
「男子、三日会わねば刮目する」のである。変われる自分と、周囲の変化をみるのだ。まさに強制や拘束を伴わない人生の転生であろう。

とくに男の義理と人情とやせ我慢といっても一般人にも棲みづらくなった世の中で、いろいろな性(しょう)のやんごとなき情根を抱えて生きなければ通らない人生に、刑務所で経た刻(とき)のひとこまは、四角四面となってしまった人の行いの良否に活きることだろう。

つまり、自身を省く(はぶく)ことによって他人の受け入れの容量が増え、それは単純な許容量ではなく、節とか筋でも表現される道理という道徳の理(ことわり)への探究であり、成文法が絶体視されるような、息詰まるような世の中においても人情と情緒を心の矜持として人の縁を重ねられる、そんな自省自得、あるいは真の素行自得の機会でもあろう。

たしかに科目は殺人、強盗、詐欺、薬物、性犯罪、窃盗常習など様々のようだ。また刑期も短期から無期も刑務所にはある。だだ、切り口の異なる、あるいは甘ったるい考察かもしれないが、単純作業のなかでも知恵と工夫がみてとれる。皮細工の精密な型押し、印刷のレイアウト、自動車の塗装など独特な技量がある。また府中のコッペパンは殊のほか美味しい。豆の煮物にサラダも絶品だ。なによりも見入ってしまったのは陶芸だ。一心不乱に粘土をかたどっている。





乱れはここからはじまる


あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵も徒人を石川島に集めて殖産事業をしている。職を与えて、教え、褒める、それを当時の権力者である武士の仕事として行っている。縁あって武士となり、農民となり商人となるが、はじめは身分の責任と忠恕があった武士は汚職腐敗で堕落し、その風潮は子供たちにも感染してブランド品であるかんざしや刀の鍔を自慢しあい、罪人までにはならないが無職の遊び人(徒人)が増えて風紀も乱れた。
平蔵は強権を以て捕えたが、ときおり石川島に渡って徒人を励ました、つまり権力の励ましである。なによりも働くことの大切さを伝えたかったのだ。

今は横文字の研修や応対手法が流行だが、鬼平の人情味ある行為は今でも通用する治安役人の 姿でもある。また、今は役所の縦割り弊害なのか1人の罪人に矯正局管轄下の刑務所、少年院、保護局管轄の観察や就労支援があるが、施設教育を受けての更生準備、生活再建に向けた支援をスムーズにおこなう手立てとして、法務省内での矯正と保護の有効的協働あるいは、思いきって一つの局にまとめることも考えるべきだろう。

鬼平の頃はみな学問はなかった。勉強したければ僧職になるか、商人は寺子屋に通って読み書きソロバンを習った。今どきのように理科、算数、社会、国語などはなかったが、人がウブで素直だったし騙すものも少なかった。いまはウブで素直だけでは生きてはいけない世知辛い世上だ。

府中刑務所は約2800人、その入所者ある部分は、世間の流れに追いつけない、理解できない、あるいはウブで素直なために相手にもされない妙な世間に鬱積した純情があったのかもしれない。
そして本当の自分を探しているようにも察しられた。

ふと、そんなことを考えながらの帰途に想いだしたのは18の頃を訪問した千葉の養護施設で無邪気に遊ぶ子供たちだった。多くはコインロッカーに捨てられた子供たちだった。
施設の帰りに渡された「おかあさんへ」と書かれた手紙だった。もちろん宛所のないものだがその臨場の戸惑いは解決のないままに数十年の齢を重ねている。

どこか、己の中でそのときに戻ったような動揺が府中刑務所にはあった。

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血が導くタルムードと厚黒学 09 3/13 あの頃

2024-05-10 02:31:24 | Weblog

一つは中東に棲むユダヤ民族に伝承されている処世の知恵として、他方は永い歴史を刻むなかで百家が説いた「論」を集積しつつも、「論」を噺の類にして、無尽なる欲望へのエネルギーをあからさまに人間関係の術としてリアルに「学」としたものである。

棲み別けられた自然や、政治環境の異なりはあるが、人と人が相対する接点における独特の術は歴史の時を違えて応答行動の姿として醸し出されている。わが国の「ことわざ」も対比させると面白い。

堅物の合間に手にとるロシュフーコや各種小話にも似たようなものがあるが、こと世界観、人間観ともなると、いま時を考察するのには面白い内容だ。




             




インターネットは世界を駆け巡るが、新旧取り混ぜた情報と称す真実、虚偽は時として民族性癖と交じり合って人々を群行群止させる。とくに覗き、脅しの類は、いたずらな恐怖心を添えてシャワーのように降りそそいでいる。

金融不安、疫病など、あたかも面前の恐怖のように映像と音声によって襲ってくる。商業マスコミに乗じた際限の無い欲望への喚起は生活最小限の利便性を多岐に重層して、夫々の資質にあった選別を難しくさせ、かつ情報資本の獲得比較の優劣を競う余りに無用な怨嗟や嫉妬を起こしている。

つまり人を信用の置けないものと仮定し、かつ複雑な要因で構成される国家というものさえ個々の利便性のなかに置くという、独特な民族性を持つものが動きやすい世界に入り込んできた。

たしかに切り口を変えれば国家に縛られない自由、人類平等と謳えばその意識もわからない訳ではないが、残念ながら曲がりなりにも国域(カテゴリー)に養った制度、慣習に庇護された多くの人々にとっては、まだまだ理解の淵には遠く、また彼等のしたたかにも見える世界観を認知すら出来ない戸惑いが昨今広がっている。

「平和だが何かおかしい」「幸せへの不安」と、吾が身を覆った一定の成功価値に問題意識をもつのは序の口で、抗する術(すべ)を見失いかけた国家の為政者に向かう人々の群は、羊飼いの犬に追われたように右往左往している。





                    






タルムード厚黒学を同質にとらえるものではないが、従前の国家が重積した歴史の残像にある共通的情緒と連帯意識では解くことが難しい点では共通した深層意識でもある。表層では交じり合い、財利の欲望もことさら異質性は認められないが、深層の企てなり謀はその発生と歴史的経過を客観的解明しようとしても、なかなか解りづらいものである。

民俗学、比較文化、地理学、歴史学など多岐に分派した学び方があるが、今は無き人間学、統合観察(プロデュース的)など、面前の応答辞令なり、オーラルヒストリーなどから感受する直感性や死生観などから読み解くことがなければ理解できないことであり、しかも実利に直結する緊張感と集中力がその実感を顕にする唯一の方法となる。

はたして組織の一員として、学域の範疇として、あるいはカルチャー知識など、多くのステータスを冠した情報によって、果たして彼等の言う智恵、はたまた利に向かって狡知にも転ずる美句、虚像に抗することができるのか、あるいは良知にも応用可能なのか疑問とするところである。

人が向かうところ、人の弱さと強さ、陥りやすい状況、表裏の柔軟な活用と正邪の転用などを熟知、いや刻み付けた彼等にとって、今どきの流行ブランドに志向したり、面前の利や動向に一喜一憂する意思亡き民は、最も好都合な群れでもあるだろう。

また彼等は自然界の循環に対する諦観と精霊の思想を秘奥に認めている。
単なる現世宗教やエコロジーではない。現世宗教は争いの具として、自然界は架空恐怖の具として利用されるべく茫洋且つ遠大な理想を対極に対峙させ、つねに調和と連帯なきカオスを温存しつつ、自らの座標の軸を中心に群れを回転せしめている。

ならば表層に現れた彼等の力である情報力 財利、あるいは財利に傀儡となった国家のフォーマルな軍事力と外交力に汲々としている地球の国群の民にとって「どうしたら・・」という同類に抗すべき問題を比較して考えるより、失くしてしまった直観力を甦えさせることが必要だ。






             






では「何が亡くなったか」「どうして衰えたか
彼等に問わずとも彼等はそれを示している。

・ ・・自然界の循環に対する諦観と精霊の思想を秘奥に認めている・・・

彼等の智の発生と活用の妙は民族性や巧みな口舌や謀だけではない。
地表に蠢く数多の生物のなかでの微小な人間を認め、しかも群れの一粒としての魂を養い、血を継続するために自然界の循環への諦観と精霊の存在を認めている。

同じ群れでも似て非なる群れなのだ。選民思想とはいうが含まれる意味は重く深い。
「そうあるべきだ」と学ぶことが必要だと問いかける。

血は知を集めることを経て智に転じ、血が継承される。
グローバルな世界国家は仕組みや方法の争論はあっても帰結する先は血の保守であることを思考するかのように導かせる。

血は「医学的に・・」「遺伝子が・・」と雑論は別にしてだが・・・

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外交における応答辞令

2024-05-06 09:47:45 | Weblog

岸田さんがバイデン大統領と、麻生氏がトランプ元大統領と会った。

何を話題にしたのかわからない。毎度のことと国民も諦めているが、売文の輩や商業新聞はお決まりの覗きと予想記事で紙面を埋めている。

問題はアメリカ国民が現と元に朝貢と迎合を繰り返す日本の媚態政治家を人物としてどのようにみているのか気になるところだ。

政治的背景や経済的事情はあるとしても、国民の代表として説明や営業、加え信頼確認のために米国民のみならず、遣いに出す日本国民の軽重すら測られる姿であろうか憂慮がある。

 

 

中国共産党の党学では歴史、古典の科目もある

いま日本では受験科目にも忌避され、企業でも採用には無用の能力として顧みられることが少なくなった。

それでも挨拶のネタや微かな教養の披歴として稲盛氏や安岡氏の言葉や文字を説明している。

習近平氏はその党学校の校長を歴任している。しかも下放という辺鄙に地方での労働教化も体験している。

それは、人物によってその情勢や時の流れが見て取れることであり、相手が政治指導者ならその国の力量や行く末まで読み取れる、一種の度量や器量の類だ。まさに頭の良いということは数値秀才ではなく「直観力」や先を見通す「逆賭」の力量だろう。

  「逆賭」・・・現状観察からあらかじめ起こり得ることを推考する。事前に手を打つ。

  「観る」・・・多面的、根本的、全体的、俯瞰

 もちろん、相手によって対応を変えたり、古典百家の逸話を駆使した応答も長けている民族のこと、我が国の売文の輩や言論貴族の珍奇な説に踊る政治家や企業人にはない、厚く深い智慧や洞察によって逢場作戯(場面や相手によって応答を戯れる)を、まさに愉しんでいる。つまり見極めた余裕である。「呑んでかかる」と思えばよい。

 

              

 

以前、佐藤首相と米国大統領の応答を記したことがある。

佐藤総理とて岸田総理同様、仮にも学び舎教育を受けた学歴持ちだが、こと相手が戦争の勝者、こちらは白人から野蛮で未開と云われ、時の流れで完膚なきまで叩かれ敗戦した国の宰相だある。それゆえ、臆する心があったのか道学の師である安岡正篤氏に対応の妙を請うた。

安岡正篤氏は簡略に騎士道と武士道の共通理念を説いた。相手は利権に目ざとい陣笠代議士ではない。地位の立場に相応した教養と、歴代大統領に比した矜持の現示を他国の指導者に表わす威儀もあった。

従来は短時間の表敬後、ホワイトハウスの庭で共同会見を行うのが通例である。まさか「何の用で来たの?」「ワシントンは素敵な街ですね」はないと思うが、相手によってはそれもあるのが首脳会談だ。

共産主義国家同士でもテーブルの下は足の蹴りあいもある。衛星国の子分のようにあしらうこともある。

「こちらは核がある。言うことを効かなければ大変なことになる」

『いや~、8憶いるので、半分失っても4億は残る』

半分冗談だのようだが、応答は鷹揚だが国を背負う胆力、気概がある応答だ。

笑って握手して協力を謳ってマスコミが化粧して喧伝しても、「どうなるか分かっているよな」は応答の内実である。

なかには,はじめから卑屈、迎合して歓心を買う政経の人間もいるが、もともと仁義道徳が亡失しなければ当選も金儲けもできない世界での一過性の成功者では、なかなか出来ない芸当のようであるが、国家の衰退や亡国には現れる人間の類である。

 

                

 

 

日中国交交渉は官僚で積み上げられ、周総理、田中総理によってまとめられた。二人で毛主席に報告した際、「もう喧嘩は終わりましたが、ケンカしなくては仲良くならないようです」と、大人が子供に諭すように語った。そして田中総理は「楚辞」をもらった。楚辞は「世はみな濁る、吾、独り清む」と嘆いてベキラの淵に身を投じた人物の逸話が書かれている。つまり最後には「身を投じる」ことの暗示のようにもみえる。

周は論語の一説「言、信を必す。行、果を必す」と揮毫を贈呈した。随行は歓喜し,記者もそれを発信した。

佐藤慎一郎氏は「遊ばれたね、あれは文字遊び。一国の総理やエリート官僚がコロリやられた。いずれ日本は下座になる、それがエリートなんだ」 それは占領時の軍人が高名な書家に揮毫依頼したときのこと、エリート軍官吏は書いてある内容はわからないが、有名書家の、つまり女性のブランド好きのようなもの。

ところが文中に「恥」が欠けていた。恥を知れということだ。嬉々として床の間にかけている軍官吏が高位高官に就いたエリートなのだ。ロシア文学好きの共産主義者や論語好きの媚中のようなものだろう。

論語に戻るが、周の揮毫は論語の一節にある「弟子が一等の人間はどのような人物をいうのでしょうか」と問うた部分の抜粋だ。

「言うことが信用できて、行うえば必ず結果がでる、このような人物はどうですか」

「まだまだ小者だよ」

「一等の人間とは」

「主人(皇帝なり元首)の遣いで異郷の地に行って、主人に恥をかかせない,義のある人物が一等な人物だ」

つまり、周の揮毫に書かれていた章は論語の重要な部分が欠落したものなのだ。

続く章は「硜々然として小人なるかな」、つまり言うことが信用できて、行うことに結果がでる、それは小者で、国や民族、要は元首や国民の思考や教養を矜持として他国に遣いに出なければ真の宰相とはならないと皮肉ったのだ。

だだ、これも遊びて、一杯食った、今度は知恵を絞って、一杯食わせると考えれば、これも人物としての懐に深さだろう。総理みずから国会で流行りごとのようになった細々とした説明や言い訳では会談も締まらない。貴重な時間の浪費でもある。まして改竄、隠蔽、先延ばしでは異国では通用しない。

彼の国は人治と云われるが、所詮、法を積層しても、部分を探求する官吏が優秀と云われても、軍備が整っていても、在れば有るに越したことはないような類で、個々の力量、深層の情緒が真の国力であることは熟知している。歪めるのは汚職腐敗で民が面従腹背になり放埓になることによる国内社会の衰亡だと考えている。

いや歴史の教訓として、弱さを見せれば外敵も内敵も浸食する歴史が学びとして重要視され、先ずは「人間観察」を要点として現在から将来を推考する、つまり人物の力量を見抜き応答する、かつ信用できる人間の存在こそ国の命運あると考えている。

周さんは上手くやった、と人民大会堂は万歳が響き渡った。万歳は「万砕」(ワンソイ」同じ音でもある。

鄧小平さんは、小平は「小瓶」黙って瓶を壁に投げつけた。

四つの近代化は「四化」だが「四話」、あれは出来もしない四つのお話しだと。

でも、批判されても分り切ったことだ。角さんも一杯食わされたと鷹揚だ。

高く買わされれば、「あんな良いものを安くしてもらって」といえば、売り手も隙がでる。日本人なら今後は買わないとなるが、彼の国は関係性が継続する。看板な「言、二値ナシ」とある。価格は間違いない、これが正価です。ところが看板の二つの値段はないが、三値や四値はある。そこには断絶や訴訟もない。前記した「逢場作戯」なのだ。悔しがれば、運が悪かった、今度がある、と。

いっとき市井で流行った本に「厚黒学」がある。要は面の皮が厚く、腹黒い生き方だが、まさに腑に落ちる心底を表した内容でもある。それならと香港で「賄賂学」はないかと探したが見当たらなかった。日本人は賄賂は悪で腐敗堕落の根との印象だが、昔から賄賂は「人情を贈る」と考える慣習があった。

それは「よろしくお願いします」「邪魔しないでください」の類で大らかな人情交換だった。コソコソした日本人と異なり額も大きい。数年前に摘発では、省幹部でも数100億、党幹部になると数千億にもなった。日本では政治家や官僚も小粒で狡猾なのか、その度胸は無い。だからなのか決断は鈍く、すべて打ち抜きで曖昧を旨としている。政治資金の流用も居酒屋やガソリンの領収証、最近では家族に還流して大臣を辞めた小者もいる。それでも東大出の元エリート官僚だ。これでは国を代表した外交など任せられないし、せいぜい握手と写真、少し小狡ければODAの援助利権が関の山だろう。

今回は岸田君は彼の国の民から観て小者のように映った。もしも装って隙を見せたなら、今度は大人のように振る舞って欲しい。孫文も「真の日本人がいなくなった」と、側近の日本人に嘆息している。

先ずは、狡猾な官吏、欲張り陣笠や曲学阿世な知識人に阿諛迎合せず、宿命を立命に転化する学びが欲しい。

メンツをつぶさず、一杯喰わせるような頓智があるなら、面白い漢となる。また、亜細亜は再興するはず。

それなら「宏池」を冠とした命名者安岡正篤氏も感服するはずだが。

< 現在の中国での状況と民情は、繁栄とともに政治指標も変化し民の習性や情操も変化している。ここで取り上げた逸話は人間の本性とする「色・食・財」の欲望に向かうとき、ときおり垣間見る民の智慧と観えることがある。政治の政策には応ずる民の対策と云われるものがそれである。とくに外交交渉での隘路として異なる姿を見せることでもある。たしかに独特の感覚と応答である。それは個々のメンツとも思えるものではあるが、環境や状況で瞬時に変化する。日本では立場の形式と本音として通底されている姿でもある>

 

   

 

 

以下、Yahoo!ニュース コラムより抜粋

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

 

岸田首相が習近平と会談できたのはG20が終わった翌日11月17日にタイに移動してからだった。単純に国の順番から言うと、国連のグテーレス事務総長を含めて15番目となる。

 もっとも、11月17日にタイのバンコクで開催されたAPECに参加する国と参加しない国(オランダ、南アフリカ、セネガル、アルゼンチン、スペイン、イタリア)があるので、必ずしも日本が関係国の中で15番目にしか位置付けられていないとは言えないものの、やはり図表を作成してみると、習近平が日本を相当低くしか位置付けていないという現実が、否定しがたい形で突きつけられる。

 少なくとも、同じ大統領あるいは首相がAPECにも参加しているのはフランスやオーストラリア、インドネシアなどで、タイで会っても良かっただろうが、優先的にインドネシアで会っているし、17日にタイに移動してからも、フィリピンやシンガポールの首脳よりも、日本は後回しになっている。

 日本が少しは優位に立っているのは「ブルネイ、ニュージーランド、パプアニューギニア、チリ」に対してのみだ。タイが最後になっているのは主催国だからだ。

 一方、視点を変えると、韓国の大統領とはかなり優先的に先に会っているのは、韓国は米韓との関係上、何としても中国側に引き付けておきたいという思惑があるからだろう。韓国の場合、APECには大統領に代わって首相が出席することになっているからという理屈は成り立つだろうが、韓国側のやり方もうまければ、韓国が6番目に位置しているのは、日本人として決して愉快な気持ちにはなれない人が多いのではないだろうか。

 中国は、こういう順番を非常に重視するという伝統があるので、その視点から見ても、韓国に比べて日本など、「どうせ放っておいても尻尾を振って近づいてくる」と高を括っている何よりの証拠だとしか見えないのである。

 

◆習近平の前でオドオドと焦る岸田首相

 そのイヤな予感は、初対面の場面で早速、現実のものとなった。

 11月17日午後8時46分、習近平が宿泊するホテルに岸田首相が表れた。バイデンのときと同じように習近平が対面舞台の真ん中にいて岸田首相が速足で歩いて近づいていく設定だ。最初に会った時の会話と動作が滑稽過ぎて、実際の対談がどうであったかはほぼ関係ないほどだ。

 以下、日中両国のネットに現れている数多くの動画に基づいて、「習近平&岸田」の対話や動作を記したい。( )内は中国語の和訳や筆者の説明で、会話の文字起こしに関しては筆者自身が聞き取れたものを記録した。

 

習近平:到了(あ、来た)。

岸田:・・・(走り寄っている最中)

習近平:你好啊(やあ、こんにちは)。(非常に軽いトーン)握手。

岸田:(ペコペコしながら)ええ、習主席と直接対話できましたことを大変うれしく思います。

習近平:那我们今天呢,坐下来谈一谈(じゃあ、今日はですね、座って話しますかね)。

岸田:・・・(大急ぎで日本語通訳の方を見るが、通訳が間に合わない。)

     (習近平、握手の手を離す。)

習近平:今天过来的还是昨天过来的?(今日いらしたんですか?それとも昨日いらしたんですか?)

岸田:・・・(通訳の方を振り向いている)

習近平:从巴厘岛(バリ島からさ)(回答が遅れてるので付け足す)

岸田:(しばらく沈黙。通訳の方を振り向く岸田首相に日本語通訳の声が届くと、ようやく)そうですね・・・、あのう・・・、え――っと、そのう・・・、本日、こちらに移動してきました。

    (「今日です」という一声が出なく、「あのう・・・、そのう・・・、えーーとぉ」を続けた後に、ようやく「本日」という言葉が出た。)

習近平:今天刚刚到的、我也是(ああ、今日、着いたばかりなんですね。私もです)。

    (ここで対面場面は終わることになっていたらしく、二人は対面舞台から去ろうとするのだが、岸田首相は間違えて習近平のあとに付いていき、習近平ら中国側の方向に向かおうとしたので、習近平がそれを遮り)

習近平:你们这边(あなたたちは、こっちですよ)

    (岸田首相ら日本側が向かうべき反対側の方向を、習近平が掌を上に向ける形で指す。「あ、どうも」と言ったのか否か、声は拾えてないが、頭を軽く下げながら習近平の後ろをアタフタと「日本側」の方向に戻る岸田首相の姿が映し出されたところで、画面は切れた。)

 

 バイデンとの出会いの場面も見ものだったが、岸田首相との対面場面は、それに輪をかけて「抱腹絶倒」と言っても過言ではなく、中文メディアは大喜びだ。

 日本人としては愕然とする。会談で何を話そうと、あとは推して知るべし。

 平然とゆったり構える習近平の前に、おどおどと緊張し、日本語も普通には出てこない岸田首相の小物ぶりが際立った。

 習近平はそんなに「偉い」のか?

 なぜ、ここまでビクつかなければならないのか?

 何を恐れているのか?

 だらしない!

 みっともない!

 せっかく国際社会的には有利な立ち位置にありながら、結局は「ご機嫌伺い外交」しかできない国のツケが露わになったのを見る思いだ。「言うだけ外交」、「戦略なき日本」の姿は、こういうところで顕著になる。今後、岸田首相が中国に関して、どのような勇ましいことを「言葉だけで」言っても、何も信用できない。

 日本はなぜこんな国になってしまったのか、暗然たる思いだ。

 

以上,参照として転記させていただきます

イメージは一部関係サイトより

 

 

 

 

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