まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

銀座酔侠伝  やさしい漢たちは逝った  そのⅤ (加筆未完)

2018-07-11 08:43:43 | Weblog

 銀座金春通り   金春湯 にて  (竹本提供)

松坂屋裏の東京温泉と金春湯で一汗流してビヤホールへ…

 

ビヤホールは、好いた、好かれた、いろいろな話が飛び交うが、みな、屈託がない。なにしろ名刺交換もなければ、金の話は御法度。なにしろ、十年たって何しているか、年は幾つなのか分かることもある。誰と仲良くなった、連れだって行った、男同士の関係だが、これも始末に悪い。
 ゛俺を誘わなかった゛、そのうち、゛あいつは誘うな゛とんだ話になる。

        

     神田多町  ショウジさん    名刺には「火事と喧嘩は江戸の華」

竹本は顧みて語る。
「俺たち仕事人は懐の按配が難しい。昔のことだが、銭がさびしいときでも呑みたくなると、ホールの脇の小窓からのぞいて知った顔をさがしたときがある。居れば入るとビールが出てくる。次の客が来るとまた一杯。そんなこともあった。だからこの席に毎日来て、ここに座った客には一杯だすんだ。それがつないだものだ。ゆっくり飲みたければ我が侭いえる店で温カンがいい。だか、なかなか誘える奴は来ない。俺がここでゴチ(おごってもらう)になっては洒落にならない。鳶は芸人じゃないょ」

「鳶はハシゴと入れ墨と木遣りが華だが、どれもホドだ。近ごろでは口が巧くなくてはならないが、見えるものより気分が大事だ。なかには、どっちが旦那か分からない派手な野郎もふえているが、しまいに身の程を締めるようになって消えていくのがオチだ」

 

竹本は川崎の病院だった。

病室に入った一声は「チーちゃんは一緒でないのか」女友達のことだ。

つづけて姉さん(かみさん)も、「てっきり一緒かと」

よりによって川崎くんだりの病院見舞いに女友達の名前を言われると

「悪かったねぇ、こんど連れてくるよ」と妙な歓迎に応えた。

もちろん病人の希望?もあり、冥途の土産に顔見せに行った。

 

『竹本のような生き方が本当だ。居なくなったなぁ』長谷川の懐かしみだった。
平成24年2月長谷川は逝った。長谷川は銀座通りの松屋あたり四丁目を仕切っていた。

歳末のお飾りは銀座通りに面して松屋の軒下で出店していた。大店(たな)が多かったので一対何十万単位のしめ飾りが覇を競って並べられる。

どうしたわけか、松屋の出店は伊能と宝塚が威勢良く売っていた。銀座には不釣り合いの鬼瓦の様相だが、宝塚がいると不思議に能の翁の笑顔となり、いっぱしの銀座の品が漂ってくる。ただ、こんなデレ顔をカミさん(本妻)に見られはしないかとヒヤヒヤしたが、本人はいたって生真面目に口をとんがらして「ありがとう」とぶっきら棒に応えていた。

この漢(おとこ)、頭を下げたことはないようだ。めっぽう恥ずかしがり屋なのだ。

 

昔からお飾りは鳶の歳末手当として、それだけで一年分暮らせるくらいの身入りがあるという。それが日本橋、京橋あたりから新橋まで飾られるのだ。それが終われば旦那衆への挨拶だが、組の染め抜き手拭いと小物をつけて配る。六日は出初式の梯子と木遣り、唄を先導するのは竹本の美声だ。

 

伊能は口癖でいう。「まともなのは竹本と俺くらいだ」何かというと、仲間内ではいかなる理由なのか女房なしの一人暮らしが多い。だが浮いた話はたくさんある。見せびらかすのかビヤホールには連れてくる。それが年季の入った番手を背負った鳶頭までが、女の話をする。

たまに、これも年季の入った仲間の連れ合い(正妻)が来ると、冷やかされたり、武勇伝の裏話を暴露されたり、女の来歴をとうとうと喋られ、カッコつけの頭も形無しになる。

 

長谷川は忙しい時期が過ぎると新幹線に乗って箱根湯本温泉に入湯する。長谷川は彫り物がないが、このホテルだけは鳶の彫り物だけは大浴場でも入れてくれる。鳶と河岸とヤクザの彫り物の違いは素人には判別つかないが、通人には判るという。

彼らはしょっちゅう出役がある。各地の慰霊祭、成田の新勝寺や川崎大師などの神社仏閣の奉納も恒例だ。関係する議員の年始や祝賀パーティもあるが、田中角栄邸への団体年始は有名だ。ときには海老を贈って鯛を貰うようだが、そこそこの任侠にも挨拶に行く。地域の飾り店の持ち合いもあるのか、互いに義理の渡世に生きているが、境(さかい)もあるので、分(ぶん)を超えないホドもって付き合っている。

そのたびに赤筋の半纏を装って木遣りを唄う。祝儀もあるが、返しもある。丸一日出役でつぶれると釜の蓋も開かない鳶も出てくる。付き合いきれなくて辞めるものもいる。

そのほかに若い者は梯子や木遣りの稽古がある。

竹本は「男を売るのは六十まで、あとは狭くしなくてはならない、渡し銭をしてものぐさに出なくなるのも、その生き方だよ」と、人生の無事をホドで補っている。

 

     

長谷川さんの代理参拝参拝  タクヤさん

 

一区のも組は江の島神社参拝が恒例になっていたが、このところ足が遠のいたという。

長谷川が「乗っけてってくれるか」というので、随伴した。
あの不自由になった身体を抱えた江の島から眺めた富士は良かった

朝の陽ざしをうけた相模湾をわたって遠望する山並みに、あの頃は一緒だった伊能と竹本のことを想いだすのには長谷川にとって十分すぎる憧憬でもあった
『もう 歩けねェなぁ』
 参道の土産物屋に残して、ながい階段を昇って代参したあの汗は懐かしい。

宮司に長谷川が石段下にいると伝えると、宮司も残念そうに、懇ろに祝詞を奉げた。

翌年は本物の代理参拝だ。札を預かって病室にとって返した。
床からやっと開いた言葉は『わるいなぁ』
 あまり日を措かず袢纏を借りて江の島神社に二度目の代参をした。

半纏の襟には稼業の親分の名前があったが、あの世界のスポンサーとしてよくあることだ。

神札は病室に鎮座した。
半目をひらいた。口をモグモグさせ写真を見て微笑んだ。

縁者から「あの写真を御棺に入れておきました」と葬儀の後の伝えだった。
あの優しい漢たちが手招きするかと思うと、気が気でない心地がする。

 枝頭に春がきた。そろそろ桜も咲く。
 広尾の桜、保土ヶ谷の桜、そして長谷川も桜に包まれて何を語るのだろうか。

 

未完   とりあえず終章


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銀座酔侠伝  やさしい漢たちは逝った  そのⅣ (加筆未完)

2018-07-08 10:09:05 | Weblog

    竹本と左後 伊能

 

鳶のむかし話もある。

横浜の戸塚に基礎足場の仕事がいきつけの旦那の注文が入った。旦那は温情のつもりだが、足場をもっていくにはトラックを用意しなくてはならない。あいにく手配できなかった。

断ることも報いることにはならない。親父の金太郎の「いくぞ!」と一声で職方は腰を上げた

昔ながらの大八車に足場と荒縄を積んで銀座から戸塚までの道中が始まった。

品川から蒲田、多摩川の六郷橋を渡って川崎だ。姉さんの握り飯を土手でほうばりながらの一日掛かりだ。押すもの、曳くもの、交代しながら歩く。煙草はキセルタバコが重宝だ。キザミを火口に丸めて吸うが、終わると手のひらに落としてコロコロと転がすと火傷はしないし火種は残る。その間、タバコ入れからねじり出したキザミを丸め、火口に入れて手のひらの火種でとぼすと、器用な奴は銀座から戸塚までキセルを吸いづづける者もいた。

良かったのは誰からともなく木遣りがあがってくる。基礎杭の地ならしに使う曲もあるが、歩きながら景色を見ながら唄うのも格別だ。大八を転がす調子もとれるし、順番にはじまると木遣りの稽古にもなる。

とくに親父がいると甲高い声でフシの好い木遣りが始まる。調子の連呼も合わさって気分が上がる。あの頃は録音機もなく聞き耳だけだったが、今は唄われない好い曲がある。想い出しているんだが、つながらなくて惜しい。気風(きっぷ)も啖呵も切れるし、義理と人情とやせ我慢、木遣りも聞き惚れる、あんな赤筋(鳶頭)はもう出てこない。みんなで高尾山に親父の顕彰碑を建ててくれたと竹本は懐かしむ。

 

「近ごろは、どっちが旦那なのかわからなくなった。役職は背広来て挨拶もしなくてはならない。木遣りはCDで習い、彫り物は電気彫り、車はベンツ、ホテルで梯子乗りじゃ軽業芸人だ。世の習いは逆らっちゃいけないが、気風も人情もスカスカじゃ吉宗(制度を作った徳川吉宗)まえのゴロツキか遊び人だよ。任侠と江戸鳶は似ているようで分別が違う。鳶仕事は旦那に頼まれればドブさらいもするが、博打打ちはしない。どっちが楽なのではなし、格好いいとも思わないし、比べる下衆な了見はない。それが土方衆とは違うところだし、土方衆も稼業やくざとは違うところだ。それが金と女と酒は同じ欲だと境がわからなくなっているが、女の付き合い方も、金の遣い方も遊びの仕方も、それぞれ違うのだ。まともな稼業やくざも土方も鳶もそのことは分って辛抱しているんだ。粋筋は道なりの道理がなくては単なる、゛まねごと゛の悪戯だよ」

「お前がやればなぁ」しまいには、イケメンの気風にいつもの言葉が・・・

 

     



イケメンは伊能にはよく苦言を言った

「伊能さん、陽が高くなって帰ってくるなら、しかめっ面はいけないよ」と、老若弁えずに話したが、黙って二階に上がってしまった。後日、「あんときは、お前にいわれて格好悪かったなぁ」とビールを差し出されたことがあった。
 ただ、そんな荒くれでも,気は繊細だった。伊能の義兄弟となる竹本と席を共にしていると、こちらの席には寄ることもなかった。帰りには「すし屋にいるから来いよ」と、ぶっきらぼうに伝えるが、ことのほか竹本のことも好きたが、こちらが席を共にしていると気にかかっていた。

 そんな男だが、卜部侍従を紹介してくれたのもその縁だった。

よく入江侍従も来ていたが健啖家といわれるように豪快な飲みっぷり。世間は、あの世界は堅ぐるしいと思っているが、話は洒脱で飽きさせない。なかには弁当を差し入れして、ちゃっかり宮内省御用達と宣伝していた宴席料理屋もいたが、その後は相手にされなくなった。

「入江さんが亡くなって陛下はお嘆きに・・・」と聞くと、陛下は「入江は食べ過ぎで亡くなったのか」と、冗談か本気なのかわからない御下問があったという。

その卜部氏も泡友が開いたライブハウスの開店日には横浜からわざわざやってきて、「こんな裏芸があったとは・・」と挨拶をしていた。

 

      

    右 卜部氏  中央  安岡正明氏

 

そのイケメンが安岡正篤氏の縁で勉強会を開くと悦んで講師を受任して、度々激励の書簡を送っている。葉山の御用邸に皇太后のお付きで行くことになったときは差し入れにサッポロビールの提供を伝えると、「ビールは揺らせたら落ち着かないと美味しくないですね」と、運搬方法まで依頼するビール好きだった。


伊能は天皇即位のとき使用する高御座(たかみくら)の設営関係の御役を頼まれたが「俺は前科がある」と、仲の良い新川の山口政五郎に委ねている。ともかく筋目はうるさいが、人生は足を踏み外すほどに奔放だった。

政五郎も人情に細やかな頭だ。伊能は「あいつは本物だ」と強引に連れて行ってくれた。

伊能の祖父の五十回忌もなじみの芝プリンスホテルで世話したのが政五郎だ。自分の授章祝賀会でも、わざわざ寄ってきて「兄弟は大変だったね」と、伊能が勝手に義兄弟にした男の病のことを覚えていて、労ってくれる気配りがある。

 

      

     山口政五郎 氏

 

深川八幡の祭りでは伊能を先頭に立てて練り歩くような人を立てる情もある。どうゆう訳だか伊能と仲良かった仲間は鳶の世界では名を上げている。竹本は銀座も組の組頭として名跡を守り、靖ちゃんこと鹿島靖之は江戸消防記念会の会長として江戸時代から続く鳶の歴史を守っていた。政五郎は鳶のことは政五郎に聞けといわれるくらい全国にファンがいる。また江戸情緒の語り部として多くの文化的事物の収集家でも有名である。

゛うるさい兄ちゃん゛といわれながら、伊能は気が付けばお節介を焼いていた。


その竹本だが、「人は好かれなくてはいけねェ」と、大言を吐くこともなく、「俺たちは旦那あってのものだ。頼まれれば溝(どぶ)さらいでもする。仕事師は旦那気分になってはいけない」と、常連会の会長も最後まで固辞していたが、やはり人柄がそれを押した。
 ときおり、おなごを連れて「友達ですよ」といえば、「格好つけてちゃいけねェ、一緒にいるときが一番の女だ。可哀そうじゃねぇか」と、渋い顔をみせた。

 間をおくと、「近ごろ来ねぇじゃねえか・・」と電話が来る。そんなときは、選りすぐりのトモダチを二人連れて近所の飲み屋でカラオケを歌ったが、必ず女房には七寸(寿司箱の寸法)を土産に頼んでいた。ともかく女房に惚れて優しかった。恒例は毎年正月の三日にライオンの二階で二人っきりで杯を傾けた。
「なにごともホドが大事だ」「若い頃は型つけて付き合いを広げ、男を売っていたが、この歳になると付き合いを狭めるようにしている。物ぐさといわれようが、丁度いい生き方はそんなもんだ」

 あるとき本人は決して語ることもない、まして自慢することもない背中の彫りものを見たことがある。その後の付き合いで東京温泉ではいつも拝ませてもらったが、その類にも位(くらい)があるらしい。サウナ室に入ると、混んでいれば人は隙間を空ける。それが何人もの刺青者が居ても、みな席を寄せて空ける。あるときオンナトモダチが「頭(かしら)の見たいわ」と言われて返す言葉がふるっていた。「二人っきりでお前の背中も見せてくれたらなぁ」

相続?のことも面白かった。

いつものように呑んでるときに、突然、「あれ、おまえに相続するよ」と。
小づくりで可愛い人だが、干支を繰り返すような年の差だ。
 だが、断るわけもいかず、「兄弟かね・・」と呟いたのを想いだす。
 ことは、たとえ冗談でも少しよけて返すのは此の手の倣いだ。それにしてもホンノリとした関係のオナゴを相続とは恐れ入った。

気分のいい女性なので新富では何度か軽いお付き合いをしていただいた。
亡きあと酔客のなかで面白おかしく相続の話をしたら、文句を言うわけでもなくグラスを当てられた。
たしかに粋なしぐさだった。


その生き方を「竹本のように生きるのが本当だ・・」と逢うたびに懐かしんでいたのが長谷川一郎だ。いっとき煩いごとでホールに足が遠のいたとき、「行ってんのか?、いゃ俺も近ごろ行っていない。騒がしくてなぁ」後の理由は付け足しのようだったが、それくらい人の付き合いの善し悪しを知っていた。
 伊能もそうだった。ある高名な人を紹介して伊能なりにつき合っていたが、心底が割れてその人間と付き合いを絶ったが、あくまで伊能との付き合いに掉さしてはいけないと思って黙っていた。どこからか伝わったのか、「俺はやめるよ、あんたの方が見る目はある」と、その人間との付き合いを一切、絶っている。

 ふつうは、高名であわよくば良い気分になれる人間にでも、そんなことに価値を置いていない。「偉かろうが、金になろうが、そんなこと」といわれると、緊張感も湧き、教えられもする。長谷川もそんな人物だった。
 長谷川も竹本と同じ好かれる人だった。大手新聞の大物からもよく誘われていた。後楽園の巨人のボックスシートもあの人の「遺言形見」だと、券を回してくれた。その席はバックネット裏の丁度テレビ画面に足が映る七段目くらいだ。
「だれ連れて行っても分からない位置だね」

「良く分っているよ」

膝も不自由で二丁目の自宅から五丁目のビヤホールまでタクシーだった。帰りはオイル(アルコール)が入るので、そろり徒歩の帰路だった。七丁目のホールをよけてから八丁目の小料理屋、月島のすし屋、あるいは江の島神社の参拝、そして八景野島のしま寿しと、いろいろ連れ立った。

ときおり新浦安の順天堂へ行ったが、「伊能もここで亡くなったなぁ」と、感慨深げに建物を見上げていた。
長谷川は「どうしてんだよ」
『来いよ』とは言わない。
 そんなときは好きな銘柄のワインを補充すると、また「どうしてんだよ」と連絡をよこす。
伊能は「たまには来いよ」
竹本は「話したいことがあるんだ」
 三者三様だが、あの雰囲気でわかる奴と飲みたいだけ、それも逝った。
「伊能さんの夢見たよ」と竹本にいえば、『今、誰と飲んでいるのか心配でおまえにやきもちを焼いているんだよ』あの貌を思い出して保土ヶ谷に墓参に行った。
 仕事人の気風なのか、伊能と竹本には色よい逸話が良くあった。なぜか巻き込まれ?もした。

 

                 

 

前後する逸話だが、松屋の脇に福富太郎のキャバレーがあったときのこと、伊能が来てくれという。黙って傍に座っていてくれとのことだろうが、一人ではおぼつか無いらしい。なにしろ場面まで設定して色々思案するのが伊能の癖だ。屏風代わりだが、大のオトナが頼むことならそれなりの理由がありそうなものだ。伊能も取りまとめて体裁よくは言えない。こっちも聴かずにその場の雰囲気で察しなくてはならない。いまどきの説明責任などの手間のかかる無粋な仲ではない。
 要は、竹本とうまくいっていた女が、情が深くて、あっさりした竹本が避けているが、女がいうことを利かない。仲をもってみたものの、なにしろ伊能の面姿は人が怖がる。そこで助っ人のような頼みだった。
 伊能はそんなときは独りでは行けない。伊能も宝塚を添えもので連れてきた。
 言うことは一点張り「竹本は悪い人じゃない」と涙を流して説得する。女はそんなこと解かっているから惚れたのだ。
「なぁ、そうだよなぁ」
 そのたび相槌をこちらに要求する。
 もともと身持ちの固いといわれる竹本はビヤホールで呑んでいる。連れていくわけもいかず、伊能はいつものように仕切っている。兄弟と言いあっているが、そんな強引な仕切りに竹本も鬱陶しく感じているが、今回に限って伊能が義狭心?で受けて立っている。でも相手は罪もない情の厚い、しかも年若の利口そうな女性だ。しかもなかなかの美麗だ。
 伊能は泣きださんばかりに竹本をかばっている。いや、鬼が本当に泣いていた。

普通はそんなことくらいで好いたものが「そうですか」と、引き下がるわけではないが、こんな時には口を開くアトとサキが問題なってくる。別れ上手は女に先に口を切らせるものだが、今回は伊能のおせっかいで、しかもボキャブラリー(会話単語)の乏しい伊能が「竹本は悪い人じゃない」と連呼されては、女も、゛分かっているよ、そんなに言何度もわないで゛と、話もうっとうしくなり、何が悶着の原因なのか聞くまでもなく、黙って引き下がるのがオトナだと、勝手に納得してしまいかねない。

伊能は喧嘩でも相手より興奮度を上げて、理屈そっちのけで口から泡を飛ばし、それは熊のヨダレ状態になり、人間離れした形相で戦闘状態の啖呵を切るものだから、相手は大人の人間ではなく、赤子の泣き止まないなき声にヘキヘキするように冷静になって、しまいには呆れてしまう。伊能が苦手なのは低姿勢で冷静に理を詰める人間だ。くわえて伊能を褒め上げることだ。下手すると瞬間湯沸かし器にもなるが、巧く行くと般若が好々爺の翁(おきな)のような形相に変わる。


キャバレーハリウッドはホステスもいる。場所感覚も伊能らしい可笑しさがある。
「色々あるが、ここはよくないょ。後でゆっくり話しましょう」と、話を切った。

伊能はあんなこと言うから、てっきりアンタと二人っきりで話すのかと思ったが、そんな慰めをしたら二人がデキてしまうのかと心配になった、と妙な絵を描いていた。

「ありがたいオコボレだが、頭と兄弟の弟より、こればっかりは兄貴になりたいね」
伊能を残してタクシー乗り場まで送った。話すことはなかったが、女性は何気にのみ込めたようだった。

 

              

                                   竹本金太郎 氏

 伊能はビヤホールにとって返して竹本に「タ―さん、うまく言っといたよ」
後で竹本に聞くと、ことさら頼んだわけでもない、と。

何のことはない。伊能が竹本に呑み仲間の女の話を振って

「最近会ってないのか」竹本の女と思い込んでいる

「飲むと悪酔いしてなぁ」

「それはよくねぇ」ここから思い込みとカン違いが始まった。

「銀座の鳶頭が女にてこずっていてはサマにならねぇ」

「近ごろは連絡していないが、俺がいなとき来ていたみたいだ」

なんの変哲もない会話だが、伊能は竹本が嫌がっていて、それでも女はやってくる、そのうち困ったことになる、と思い込みの先走りをした。

竹本も説明するのもかったるいし、まして伊能のこと、お門違いでやり込められてトバッチリが来たら面倒になるので、ここは伊能の独り芝居に水を差さずにおこうと思っていた。

新聞タネになった洲崎遊郭での伊能の出入り悶着も、まるで鬼の形相で「ターさん行くぞ」と、まるで映画のように行ったはいいが、相手の方も常人ではない伊能の形相に警察を呼ばれて二人はブタ箱入り。これとて伊能の武勇伝には必ず語られる一説だ。

もてる男は、人の勝手な思いにも流れに任せるようだ。

竹本がなぜ好い女を避けたのか聞いたことがある。

「アレはイイ女だよ、躾けはいいし男を立てる。玉にキズは呑むと限度を知らない。タクシーで送ったときゲロを吐いた。運ちゃんに謝って俺もその掃除を手伝った。何度かあったが、そんなことでうっとうしくなった。車のシートと床掃除じゃかっこう悪いやなぁ」

竹本も女性の呑み癖を自覚させようとしてつれなくしていたが、伊能の先走りには諦めもあり、いつものホドで眺めて悠然としていた。「縁があれば戻ってくるよ」と。

 

米  イメージは増田氏(竹本)提供 

以下 次号につづく

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銀座酔侠伝  やさしい漢たちは逝った  そのⅢ (加筆未完)

2018-07-08 01:30:31 | Weblog

 一区も組が毎年参拝した江ノ島神社     掲額は江ノ島  児玉神社

 

        

奉納の鳥居  台座に「も」

 

伊能勝之進は表向きの稼業上鳶職人だ。鳶といっても町鳶ではなく、もともとは土工の飯場を仕切っていた剛の者である。その稼業の義兄弟に銀座一区も組の組頭竹本がいた。その竹本と一番気があった「も組」には長谷川一郎という、今どき稀有な人物もいた。
 伊能で忘れられないのは、筆者の母の葬儀に雪降る中、赤すじ袢纏(役付き)をはおって仁王立ちで焼香の終わるまで戸外の寒い中で立っていてくれた。後で聞くに「お前んところの葬儀にどんな奴が来るかわからないので・・」ということだった。ともかく暴れん坊だったが不思議とイケメンにだけは向かうことがなかった。

 むかし洲崎の遊郭で出入りがあったという。喧嘩だ。そのとき竹本と二人で乗り込んで新聞をにぎわす事件になった。戦後のどさくさの頃、飯場に侵入する荒くれを追い払うためにいつもは夜中起きて、昼に寝ていたという。

熱海に泊りに行った時のことだ。伊能と株屋が女連れだ。こちらは一人かと思ったら、伊能が女の友達を連れてきた。歳は一回り上のおばさんだった。伊能らしい気遣いだったが、どう見てもおかしいので文句を言うと伊能と二人部屋になった。飯場の癖なのか一晩中ガサガサと騒がしい。夜中に茶うけの菓子をむしゃむしゃ食べるわ、深夜に内風呂に入るわで、騒がしくて寝られない。

            

伊能勝之進氏

 

 女房は北九州から盗んできたと伊能は言と女房は笑っていた。その女房も伊能の出入り(喧嘩)があると、オ―スチン(英国車)で乗り付けて「あんた、こっちだ!」と、逃走を手助けしている。なりは白いスーツにハイヒールだった。ともあれ惚れていた。
 前記だが、晩年は伊能のトモダチ・?通いに、小さなボストンバックに下着三日分をもたせて送り出していることを書いた。誰も伊能が怖くて女房からやんごとなき事を聞かれないかと訪ねることさえ避けていたが、筆者はある一点を除いて姉さんと話し相手になっていた。あるとき陽を眩しげに午前様で帰ってきたとき、丁度出くわした。

女房はできた女で生まれは九州筑前。稲能はさらってきたというが、騙してカドワカシた訳ではないらしい。だだ、既婚かどうかわからないがもとの持ち主?はいたらしいが、伊能のこと強引さはあっただろう。昔から筑前の女、とくに北九州あたりの女性は、気は荒いが男に尽くすという。

筑豊炭鉱から遠賀川の流れに乗って石炭を運ぶ船頭は、川筋ものといって独特の気風を持っていた。たしかに伊能の無鉄砲さではあるが容姿に不釣り合いな繊細な気遣いは異郷のオンナの興味をいだかれる。いつでもアンバランスは突っ先の出会いには不思議感が付きまとうものだ。

江戸鳶の役職である赤筋半纏を誇らしく着込んでいる伊能だが、出は土方だ。荒くれの土方を連れて全国を流す親方だが、突っ張っていればどこでも悶着を起こす。砦ではないが飯場の真ん中に足場を組んでその上に寝ていた。しかも夜は危なくて寝ていられない。

前記した熱海参りでの夜の飯場癖は死ぬまで治らなかった。

 一宿の色遊びも滑稽だ。伊能は土方だから金回りいい。夕方になると伊能はオートバイに乗って銀座にやってくる。歩道で待っているのは一区五番の竹本(増田忠彰)と新川とも霊岸島とも呼ばれるマーちゃん(山口政五郎)、もう一人は柳屋の靖ちゃん(鹿島靖之)の面々だ。

なかには白い背広に白い革靴にシャレた漢(おとこ)もいた。

銀座通りは京橋から銀座八丁目までそれぞれが稼業シマを持っている。鹿島の靖さんは日本橋、松屋あたりはシブヤの名称がある長谷川一郎、小物屋の「くのや」や銀座ライオンあたりの七丁目は竹本だが義父は鳶頭の神様といわれ高尾山に顕彰碑がある竹本金太郎。

この金太郎が何を思ったのか伊能と養子の忠彰を義兄弟にした。八丁目の神社の境内で兄弟の杯ごとをした。常連の築地のクリーニング屋はそれを見ていた生き証人。しきたり通り格好良かったという。

 

伊能と靖ちゃんが用足しに東京を離れて伊豆に宿をとったときお決まりの色あそびをしたときのエピソードが伊能らしい。

互いに別部屋で同衾するのだが、しばらくすると「靖ちゃんおきてるかい」と夜中に騒いでいる。もうコトが始まっているのに落ち着かない。すると襖をあけて伊能が首を出した。

笑いをこらえつつも、目が点になった。びっくりした。

パンツ一丁で風呂敷に財布を包んで余布をひねりあごの下に結んだ恰好で「靖ちゃん、こうしてないとアブねえぞ」と、事が終わって枕探しにあうから気を付けろ、とのお節介だ。

経験上なのか、まさか、伊能と同じ恰好をするのも憚れるが、伊能はその格好で廊下を胸張って女のところに戻っていった。

伊能なりの房中の算段だろうが、滑稽な格好を見せにくる仲間の姿を呆れたような顔で眺める。

傍らのオンナに気恥ずかしい気分だった。こうなるとコトは始まらない。伊能のように、それは猿股一つで逃げ出すコソ泥か、大井川を渡る渡河人足の姿にバカバカしくて、女と腹を抱えて笑うと、なおさらコトは始まらない。なによりも、その姿で今ごろ励んでいる姿と、その女の困り果て、かといって笑うこともできず、しかもアエギ漏れることもあるだろう。それを想像すると一晩中クスクスと笑いが止まらない。うとうとすると女のクスクスが漏れる。

もう、何をイタしてのか覚えてなかったが、まだ女は寝間着をはだけてイビキをかいている。

ドタドタと足音が寄ってくる。朝風呂ですっきりしたのか、朝が早い伊能は勢いよく襖を開けた。

「靖ちゃん、どうだった」

「・・・・・」アホくさくて言葉もない。そばではハダケタ寝間着にイビキの女。

「いゃー、そうとう励んだな」

風呂上がりに手拭いを引っかけて、手には風呂敷がしっかり握られている。

エンコしたオースチンは手押しで難儀して夜は伊能に騒がれて、こりごりの馬鹿話は尽きることはない。

 

リンゴの花

 

その伊能がとんでもない土産を残していった。

惚れたのか、相手にされた嬉しさなのか四国出身のバーのオンナに入れあげた。景気が悪いまで店を変えるので一端荷物を預かってくれという。格好つけたのかイケメンに頼んだ。イケメンは断るわけもいかず、トラックと職人を出して自分の倉庫に預かった。

ところが伊能が亡くなってもウンともスンとも連絡がない。十年くらいしてその女から返してくれと連絡が入った。車と人手と倉庫料も出費は三桁になった。処分しても良かったが亡くなった伊能のこともあったのと、義理は守るといっても世間ではお人好しなのだ。

とうとう手元にも入らず、そのまま返してしまったが、「厄を落したと思えば」と平気だった。

 

しばらくして、高円寺の宝塚から「伊能さんに言われてバーのオンナに八百万貸して借用書もある」とのこと。オンナに連絡すると預かり証はないが伊能に返したと。伊能は格好つけて自分の金のようにして貸したらしいが宝塚には一銭も入っていない。死人に口なし、何とも言い訳はあるが、預かり荷物の件もあり、一杯食わされたと思うが、ろくな死に方をしないと宝塚を慰めるだけだった。そういえばそのオンナ、狸のような貌だった。

 

足かけ三十年にもなる津軽も切っかけは伊能だ。

ライオンの並びの地下に「銀パリ」というシャンソンライブがあった。そこの歌手の工藤ベンがステージの合間にビールを飲みに来る。朴訥な語りは津軽弁だ。

「ベンさん、津軽のどこ」

「わかるかい」

「先生が弘前なので」

「ワ(我)も弘前だが、先生の名前は」

「佐藤慎一郎」

「本当か、ワが満州でお世話になった人だ。青森の人はみな世話になっている」

「杉並にいるので今度会ったらいい」

「今度、弘前で秋田漣という津軽弁のシャンソンを唄う人とコンサートをやる。よかったに来ないか」

「伊能さんにも聞いてみる」

 

伊能と宝塚、彼女の友人と四人の弘前行きが決まった。

伊能が悪たくみをしているといけないので部屋は三部屋、事前に予約した。悪だくみとは、連れの女性をあてがうからだ。70越した呼吸が荒い人だが、いい人だが罪作りだ。

コンサート会場は弘前市民会館。案内された席は前から三列を空席にして四列目の一番前の中心に席は用意してあった。銀パリの責任者もいたらしい。伊能は誇らしげに胸を張っている。ベンさんも漣さんも地元では有名人だ。津軽弁はフランス語、北京語とイントネーションが似ているというが、津軽弁のシャンソンは符にのって心地よい。

打ち上げは漣さんの店だ。ときに外者に厳しい津軽衆は東京モンに挨拶をしてほしいという。

伊能は鼻を膨らましてすぐこちらに向けた。

「津軽ははじめてですが、歌もいいし酒もうまい、でも歴史を大切にしていない。都会のモノマネをしても若者はみな東京に行ったまま帰ってこない。先輩が郷土の歴史に誇りをもって語れるようでなければ、いずれ津軽の心は無くなってしまう・・・」

挨拶が説教のようになった。伊能も心配していたが、弘前にも人物がいた。ベンさんも頷いていた。みな最後は真剣に聴いていた。そのうち伊能も胸を張ってきた。

イケメンはそれから足かけ三十年、毎年縁ある人の墓参に通っている。伊能も縁を運ぶが尻拭きはお人好しがやっているが、これも使い方次第では人に役立つ縁となり運となるものだ。

そのたびあの鬼瓦のような貌と翁のような笑い顔を思い浮かべるのだろう。

 

      

      一区五番組    長谷川    右端 竹本     (竹本寄託誌依り転載)

 

竹本は気風がいい、鳶職人の三拍子といわれる梯子乗り、木遣り、彫り物、まさに江戸鳶の鑑のような男だった。忠彰も政五郎もほれぼれする絵柄の彫り物が引き締まった身体を染めている。なかなか三拍子はない。竹本忠彰の親譲りの木遣りは大手出版社のCDにもなっている。彫り物は銀座東京温泉では、いかつい稼業人でも竹本には場を譲るくらいの逸品だ。   柄は品の良い水滸伝、白肌で始終長袖ゆえ陽を当てない。藍が浮き上がって金春湯のタイル絵の鯉とことのほかよく合う。
 

忠彰の義父金太郎と伊能にはいきさつがあった。

金太郎は話の行き違いがあって仲間といっとき仲たがいしたときがあった。義理と人情とやせ我慢とはいうが、金太郎の気性は稼業仲間にはキツイ。金太郎なりの意気地だが、どうしても引けないことも出てくる。伊能とは仕事先で知り合ったわけだが、鳶と土方は生き方が違う。互いに木遣り唄いの男芸者とか宿無し土方と嘲っていたが、金太郎と伊能はなぜかうまが合った。それでも歳の違いもあり伊能は親のように一目おいていた。

 

伊能の口癖に「馬鹿にされちゃいけねぇ」がある。またオッチョコチョイなところがある。

金太郎の窮地と察した伊能はトラック二台に道具を持たせた土方を乗せて「やるぜ」と乗り込んできた。道具といっても、ツルハシ、スコップ、ハシゴ、どこから調達したのか鎌もある。

幸い抗争にならなかったが、伊能の荒くれだが人情の義侠心ある気風(きっぷ)は金太郎を唸らせ、まるで命令のように忠彰、勝之進の縁組に進んだ。戸惑ったのは忠彰だ。よりによって木遣りもできない音痴、ハシゴも乗れないそそっかしさ、彫り物など痛がってできないような土方の伊能と兄弟など、それは伊能がなくなるまで首をひねっていた。

伊能は忠彰の下になる小頭の赤筋を着て常会に出ていたが、まるで金太郎の狙った忠彰の用心棒のように身近についていた。

竹本は松の内の六日、出初式が終わるとビヤホールの三階座敷で呑むのがイケメンと恒例になっていた。

 

余人を交えないためか、カミさんに内緒の話もある。

ホールに来ていた姉妹の妹を誘って出役(つきあい事)に行った。行先は京都で仲間の鳶も大勢いる。

「ターさん、レコ(小指を立ててコレの逆読み)連れかい」

「調子が悪いもんで看護婦の見習いだよ」

そこまではよかった・・・。運が悪いことに年寄りに病人が出た。

「ターさん、たしか連れは看護婦だよな」

訳も分からない竹本は、「まだ見習いだが」

「いま、病人が出た、血圧なのかぶっ倒れているんだが、診てもらってくれないか」

困ったのは竹本より連れの女性だ。なにも飲み友達とか知り合いの娘だといっておけばいいものを、よりによって看護婦見習いとは、運も悪く具合が悪いものがでた。

「なにも持っていなくて・・・、診断は慣れてないので・・」

「いゃ、来て様子を診て、手に負えなければ病院を探さなくてはならない」

見ることはできても「診る」ことはできない。傍まで行ってオデコに手のひらをあてるが風邪でもあるまいし熱もない。脈をとってもどうやって数えていいのか解らない。

「一応、大事をとって医者に見せたらいいですね」

ガキの頃にお医者さんゴッコをしたことくらいしかなかった女性だが、竹本と自身の危機には対処できた。その意味ではメイ(迷)医である。

一緒に行ったことは内緒だが、ことの珍事の顛末は後日、ホールのヒソヒソ話にはなる。

 

以下 次号につづく

 

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銀座酔侠伝  やさしい漢たちは逝った  そのⅡ (加筆未完)

2018-07-06 08:15:41 | Weblog

 

 

人の縁はいどのようにも広がる。

平凡社の下中の邦さんと青森の弘前に桜を見に行った時もその女性は同行している。

いろいろあったようだが、人の口では艶のある想像もするが、それだけでは続かない。竹本の云う「ホド」がイケメンにはあったのだろう。

 

常連にはけっこう艶っぽい、いや男女の欲っぽい話もあるが、大きくもめた話は聞かない。不倫だとか浮気などという野暮な言葉も聞くことはない。ときに独り者から、ひかれ者の愚痴も出るが、野暮な男は余計に持てないといわれると、天を恨んで観念している。

そんな風だから二人は野暮な小心者の陰口にさらされることもあったようだ。

 

いつごろからか近所に住むシャレ男だが老境に入ってもオトコということは忘れていない。

そんなオトコだから常連の力加減、つまり顔が利くかどうかを量って迎合する。スキャンダルや博打ものと風俗を掲載している新聞のブンヤだが、めぼしいネタを仕込むとご注進してまとわりつく手合いが多い世界のオトコだ。

はじめは竹本にまとわりついていたが、竹本は相手にしない。もろちん長谷川など人を見る眼があるものは相手にしない。はじめは紺ブレザーを着込んで、小林老のモノマネで女性客にビールを出すが、しばらくするとノコノコと席まで押し掛ける。いつもは入口に向かってキョロキョロと落ち着きのない呑み方をするが、同じような仲間が集まるが、今までの常連にはない下衆な風情がある。

女性席に押しかけても老境のスケベイ面で話題も少ない。普段はネガティブなことばかり口を突くものだから、洒落たネタもない。銀座のホールにビールを飲みに来るような女性は場末の居酒屋談義はしない。普段はゴミ出ししている女性でも目いっぱいシャレているが、男より同性の目を気にするのが女性だ。幾らビールが飛んでこようが、スケベイ男が同席に珍入されては格好もつかない。

だいたいがグラスを贈っても、礼は欲しがらないもの。まして,有り難くないものを勝手に贈ってノコノコ押し掛ける厚顔廉恥は老境の重みとは思えない。

だだ、手に負えないものだから、゛無理だね゛と眺めていたイケメンに手招きで助っ人をたのむ軽さのお陰で、別の縁が運ばれてきたことを思うと、まんざら無駄ではない。

 

ただ、「俺がビールを出して知り合ったのに・・」と、ひかれ者の小唄を唸られては、竹本ですらも失笑することしきり。

そのスタイルが通用しないと判ると、こんどは着物姿で来るようになった。幾らかマシだが話す内容はイケメンの陰口やホラ話が多かったが、その類は友を呼ぶたとえで、その種の客が増えてきた。なかには地上げ屋まがいの不動産屋の手代がいるが、これも仕事柄ホラ吹きで嘘話をする。みな勝手に金持ちだとか、大物だとか勘違いする。欲張って近づく者もいたが、単なる手代だと判ると潮が引くように離れていった。

それは小林老や竹本、長谷川が気風として守り続けた常連の倣いが失くなることでもあった。一期一会の縁を愉しみ、地位や名誉や学歴、家柄など、なんら人格を代表しない附属価値に人を選別もせず、まして分かったとしてもベタベタ寄り添う男芸者など、一番嫌う連中だった。だからこそ稼業任侠や職人など数多の老若男女にかかわらず、まして出自や職業貴賤など関知しない意識が器量として培われたものにとって、ブンヤは異質な人間だった。

竹本もそんな男の醜態をいやな顔もせず、間(マ)を置いた関係で歓談していたが、話は上っ面の軽い話しかしなかった。

そんな男のヨイショに気分良くなる客もいたが、下心が透かして見えると離れていくようになる。懐が乏しくなった男や、和装形(なり)に重さを錯覚して興味を持った女もいたが、そのうち一時は日に多いときは五席二十人来た常連席も、一、ニ席で四、五人になってしまった。

野暮で助平なオスはいても、漢(おとこ)がいなくなると、オンナも寄ってこない。

竹本は「オトコは好かれなくては」と・・・・、その通りになった。

 

        

              下中

 

奇縁もある・・・

イケメンがいつもの独りドライブに箱根に向かったときのこと。湖畔から大観山に向かうつづらに朽ちそうな小さな案内板があった。「パル・下中記念館」とある。

うっそうとした敷地に仏教施設のようなものがある。研修場とかかれた建物もある。記念館は入口が雑木に覆われジメジメした周囲には覆い被さるように苔もむしていた。気になったがパルはラダ・ビノード・パル、極東軍事裁判(東京裁判)のインド選出の判事だということは知っていた。もう一人の「下中」は解らなかった。

いつもの常連席にときおり女性連れでくる初老の男性とグラスを傾けた。顔見知りだが、ここのシキタリで名前はあえて聞かず、もちろん職業も、まして懐銭の話などはご法度の世界だ。何気なく、「箱根にパル博士と下中という人の記念館があるのですが、その下中という人物が何者なのかわからないのです・・」と話したら、「私が下中です。それは父の弥三郎ですよ」と。

心理学者のユングが同時性とか必然の偶然とか説いているが、まさにいつものビヤホールで、しかも幾らか顔見知りの目の前の人物が、あの考えていた下中の息子さんだったとは、何のめぐり合わせだろうと唖然とした。ライオンビヤホールはその様なことがしばしばある。

それ以来、箱根の記念館に同伴したり、お陰で記念館を覆う雑木が伐採され内部の貴重な資料を検索することができた。出版社の友人たちと下中氏とともに津軽にも足を延ばし、桜を堪能すると、「こんど我が家の庭にある桜の観桜会をしたいので幹事をしていただけますか・・」と企画を依頼された。

雪ヶ谷の一段高い石垣に囲まれた広い庭で観桜の会が毎年催され、多くの客が招かれた、その人選は幹事の独断で決めた。

 

        

    邦さんと弘前

 

下中氏は邦さんといっていたが、よくモテた。銀座の老舗バーに集まる文壇、出版会の連中は手伝いできていた新劇の女優が狙いだった。みなそうだった。それを邦さんがゲットした。

女優は患った邦さんに添って黒髪が白くなるのもかまわないくらいに、かいがいしく動いた。

いろいろな事情を聴いて「看取りやさん」と名づけたが、邦さんも誰もそれは知るところではない。伸びさかりの気鋭の女優だったが、水谷八重子のたっての望みで私生活の世話をして最期まで看取った。次は尾上松緑、つぎは辰之助、そして邦さんだ。

慰労がてら横浜のバラ夜景に誘った。

「星(運命)なんだよね」

「そうかしら、でも苦労ではないのよ。縁がそうさせているようで・・・」

目の前においてはシャレた言葉も出ないので歩きながらの独り言のようだったが、それがまるで自分に言い聞かせるようで、ときおりバラに触れながら無口になる。

「花食って、知ってる?」

白いバラの一片を口に含むと、深紅のバラに駆け寄ってそれを口にふくんで、

「へぇー、キザなようだけど夜だからね」

「もっとキザはワイングラスをもって気に入った色をつまむ人もいるょ」

それは邦さんが亡くなってからしばらくした頃だった。

取りなしの好い女だが看取り屋にならなかったら、いっぱしの女優になっていただろう。

ときおり誘われたが「(あの人とは)続いているの・・」と聴かれると、「面白い縁さ・・」と応えるが、そこからの会話は途切れてしまう。さすがに場面の間(ま)は心得ているが、観客ならやきもきしながら息をのむ場面だ。

時が来れば多くの泡友も逝った。

通夜ではいろいろなことが伝わってくる。

「家では話もしなかった」「いつもどこに行っていたのか」生前の感謝を告げても横を向いてしまうご遺族もいた。逆に始めてビヤホールまで来てハマってしまう連れ合いもいた。

 

ともあれ、常連の丸テーブルは家族内のことなど話題には乗らない。なかには女房が酒豪で旦那がきまり悪くなって来なくなったこともある。なかには入り口が気になるのか人の会話もそぞろになる人もいる。大体が異性目当ての助平おやじだが、注意するのも野暮なことだ。とくに男の嫉妬はありもしない陰口が先行して、大のオトナが気色わるい態度をはじめるが、だいたいはモテないしビールも集まらないし、相席にも気を遣わない。

 

ホールからの流れは、並びの「天国」でかき揚げか金春通りの「よし田」の鴨せいろだ。

燗のつまみは卵焼きと鴨、仕上げはソバに酒をかけて出汁つゆですする。それでも話が「語り」となって気分がいいから一刻はもつ。混みあってくると腰は軽く次にまわる。

よく葬式の清めで勝手な飲み食いをして座が重い奴もいるが、タダなら尚更のこと腰が軽くなければならない。なかには酩酊する焼香客もいるがみっともないし野暮だ。

天婦羅の天国は新橋へ行く道すがら厠を借りるが、気が引けるのでコノワタとかき揚で酒をつきあうこともあるが、話し相手は天国の倅の家庭教師だった店長だ。ことのほか腰が低い。

気が向くと月島の「花ちゃん」ここでは始めでマグロの脳天やホホをもらった。女房はがらっばちだが板前の亭主に惚れて店を切り盛りしている。亭主は男前なので監視付きということだ。ここのカミさんのように器量が広ければいいが、寿司屋によっては連れの女にサービスでもしようものなら仕込み場の暖簾から怖い眼をして旦那をにらんでいるカミさんもいるが、旦那は鬼瓦でもじれったくなると女は怖い。

 

新富町の「新古亭」にも寄る。新富芸者の姉妹だが、妹は竹本の佳き友人だ。あとで竹本から相続だと奇妙な話があった小づくりの可愛い女性だ。

竹本の侘しい昔の話だが、休みに一杯やろうと誘って出かけようとしたところ、おみっちゃんのスポンサーが来た。仕方ねぇーと諦めざるを得なかった竹本の侘ししさは、昔のことだが聴かされている方も言葉がない。後年、おみっちゃんとビールを飲みながらのことだが・・・・

 

             

            文化人との付き合いも多かった稲能

 

人形町の「松葉寿司」に連れていかれた。

結婚しない姉妹が八十になる母を手伝っている。はな板は白い割烹着を羽織って髪をまとめた昔はそうとうな美人だ。伊能は必ず武勇伝と金の話をする。すると黙ってネタを整えていたカミさんが、

「伊能さん。金持ちはねぇ、つかってなんぼのことよ。持っていたって金持ちとはいわないよ」

きまりが悪いのか、伊能は黙ってこちらに銚子を向ける

閉店近くに銀座から電話を入れたことがある。

「間に合うならちょっと小腹が空いているのでいいかな」

「どれくらいで」

「二十分くらいだが」

着いてみると客は終いまぎわなのでいなかったが、ネタは並んでいる。すぐヌル燗と水が並べられた。酒の出し方で、゛ほどほどに゛゛これくらいで゛゛もう酔っているから゛と酒の温度も気を遣うが、水は寿司ネタを味わうための口すすぎのようなものだ。はじめからガリ生姜はいただけない。

板(調理台)の脇から地下の仕込み場をのぞくと、パタパタとうちわを叩いている。

なにー・・・・。

シャリがなくなれば断ればいいものを、銀座から二十分で来るといってカミさんに並べられたネタをつまんで四十分、電話を入れてから飯炊きをしていた・・・。

娘二人が文句も言わずオカミの指示でシャリを炊いていた。

そういえば、昔あの辺一帯はヤクザが多く、どこの飲食店もタダ呑みかツケで困り果てていた。

中にはたたむ店もあった。いつか女将はボソボソと問わず語りをした。

「アタシは女でよかった。男手もなくそれはヤクザも来て払わなかったりしたが、娘二人で困るもんだから、親分のところにいって話した。掛け合いなんて言う勇ましいものではなかったが、女だから手を出すわけにもいかず、話は了解してくれた。だれも怖がって行かれなかったが、この町で寿司が握れなくなったら困るのは皆さんですよ、と話したらわかってくれた。それいらい苛めも脅かしもなかった」

 

毎年三越本店で寿司職人が集まった催しがあるが、その中心に白い割烹着を着たカミさんがさっそうと寿司を握っている。聞くところによると二の腕に毛はないし年寄りの掌は温度も高くない。強くもなく柔らかすぎず、大きさもほどよい。まずはお目にかかれない稀な職人だ。

いまだかつてその気風と、人に気遣いを起こさせない細やかな気配りは、男まさりの威勢はないが抱え込む母心がある。たしかに面前に並べられると粗末にはできない代物となる。

水天宮のゆかりは腹帯とニッキ味の黄金饅頭かと思っていたが、とんでもない女将、いや人物が居たものだ。母にしても、女房にしても、色にしても、惚れ惚れする、そんな夢想の女性でもある。

伊能もたまには好い処を案内する。

 

そういえば、伊能の仲のよい女性は宝塚出身だ。芸能評論家アンツルこと安藤鶴雄の親戚で、下中の邦さんとも遠い親戚だ。女房とは違いさらった訳ではないが、景気のいい時に品川ああたりの店で知り合ったらしい。あの性格だから毎日のように通って口どいたという。   荒くれの土方と宝塚の女優、取り合わせも異様だ。

「手籠めらされたのでは・・・」

女性は黙っているが伊能は女自慢で格好つけている。

「すみれの花・・咲くころ・・・」

伊能は天下とったように誇らしげに聴いている。

その後女性は高円寺に移り住んだが、焼きもちやきの伊能は度々訪れて連泊している。ああ見えて女房には気を使うのか直前に仕事だといって出かけるが、できた女房は意地を隠して三日分の下着をバックに詰めて送り出している。それを抱えて行くほうも行くほうだが、高円寺の女性も判って受け入れている。あるとき聞いたことがある。

「伊能さんのことだから余程でかい話をしたり、武勇伝を言っていたのでは・・」

「私の用心棒のつもりみたいなもので居なくては困ると思っているみたいね」

「あの乱暴者だから脅かされたり叩かれたりして、仕方なくと想像したものですよ」

「そう見えるけど、あれで人が気になって細やかだから、優しくもなり、修羅にもなるのよね」

「そういえば自分の気に入った同士を勝手に兄弟分にするけど、面倒見がいいですね。戸惑ったことに八王子のテキヤの親分や右翼の会長が今日からお前の兄弟分だ、と勝手に決めるけど皆イイ人達ですね。そういえば八王子も北九州から人妻をとってきたけど、伊能さんもそうだ。しかも夫婦はできた女性で仲いいね。」

「不思議な人よね。あなたみたいな静かな人も好きで、いつも気にかけていますよ」

 

気のおけない仲間が厚い情を交わすようになるのは自然だった。

 

以下 次号につづく

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銀座酔侠伝  やさしい漢たちは逝った  (加筆未完)

2018-07-05 15:21:17 | Weblog

銀座酔侠伝 

やさしい漢たちは逝った  (未完)


 銀座七丁目にライオンビヤホールがある
 銀ブラがてらに喉を潤すとき、暑さ寒さは何のその人は行列をつくって入店を待っている。
 かれこれ40年になるが当時は七丁目常連会といって、誰彼ともなくカウンターの前に席を陣取る一群があった。当時の会長は日本バラ会の小林さんだ。易者、地元の鳶、会社員、総会屋、水商売、河岸の仕事人、近在の住人、物書きな、それと流行りの知識人など多士済々が毎日のように集まっていた。
 以前、小筆のコラムに登場した平凡社の下中邦さんや卜部亮吾皇太后御用掛も少し間をおいた呑み仲間だった

一昔前には銀座のビヤホールといえば七丁目のライオンビヤホールといわれて買い物客や歌舞伎座や演舞場帰りの銀ブラ(界隈をブラブラ)する人たちが一息入れる、それはギンザのたまりのようなところだった。

天井が高く、壁にはモザイクタイル、正面のカウンターの背景には裸婦が麦を刈り取るモザイクとなって異国の雰囲気を醸し出している。戦時中も営業していたが裸婦の乳房には不謹慎だと目隠しがされていた。開店90年ごろ建て替えの計画があったが銀座の景観遺産として、あえて声を高めて反対もしなかったが、ついぞ立ち消えになった。

進駐軍がいたころは彼ら施設として日本人の客は出入り禁止、無粋な彼らは店内でバーベキューをした。天井が黒ずんでいるのはそのせいだ。

常連客は松坂屋側の小窓から中の様変わりした占領軍の遊興の様子を嘲りつつ、うかがって悔しがっていたが、それもホールの永い歴史からすれば束の間のことだった。

戦後、懐のさびしかった竹本たちは小窓からのぞいて知った客がいないかと覗いた。見知ったカウンター前の常連席につくと相席の客からすぐ一杯、出てくる。常連は誰か来ると競って一杯出す。懐の乏しいときは、それで、゛ご馳走さま゛だ。

みんなから推されて仕事師の鳶が会長になった。かといって旦那ヅラなどはしなかった。あの頃を思い出して毎日決まった席に来るものにはビールを配った。ただ、ケチな野郎には知らん顔もした。

「漢(おとこ)は好かれなくてはならねぇ」と、いらぬ口論は好まなかった。うるさくなると、そっと抜け出して「よし田」か「天国」で盃を傾けていた。

ホールでは丸テーブルの相席のグラスが空くと三人なら「小、三杯」と、カウンターでビールを注いでいる注ぎ手に声掛けをする。キビキビしたウエーターが「常連さん三杯」と復唱すると少々泡が多い目の小グラスが置かれる。常連は覚えているので次にグラスが空くと、ほかの相伴客から声がかかる。

五杯おごっても、五杯ゴチになる。常連のテーブルは四席か五席だが、週末は混んでいても空けている。一隻に五人くらいだが、あっちこっちの席から目を配っている気の利いた客からゴチになると十杯飲んで支払いは五杯分ということもあるが、次は逆もある。

そんなことを知っている昔からの常連は、いまでも仲間や新顔の連れが来たときは人数分を注文する。入り口から常連席まで二十メートル、その間に注文するから席についた途端にビールが運ばれる。理屈はともかくそれが此処のしきたりのようなものだ。だから一期一会にケチは禁物なのだ。

いまどきは男女でも割り勘流行りで、混みあって見知らぬものが相席しても割り込みに挨拶も話もしない。ビヤホールの相席はよくあることだがライオンの七丁目は、ボーイが常連に「よろしいですか」と聴きにくるが、まず分かった常連は断らない。ときおり「野郎(男)ばかりで華がないね」というと、気を利かして席待ちの女性を案内してくれる。

 

゛待ってました゛とビールが出されるし、粋な話題が多いせいか、タダ酒と話芸が楽しくて度々来るようになるが、いくら美麗でもこっちはホストクラブではないので、それはそれで野暮な客として相手にされなくなる。酒好き、異性好きはともかく、人間がヤボで辛気臭い客は阿吽でわかる雰囲気もある。ことさら決まりきったシキタリではないが、つかず離れず探らない、知り合いになっても銭の話は人を測られるし、グラスのやり取りは忘れずに遠くない次には返しをする。話題を独占しない、色々あるが、要は頭で考えることではなく浸透された習慣のようなものだろう。

新米の野暮は口に出して知ったかぶりをするが、しばらくして底が割れる。

年が明ければ口開けに客も少ないのを計らってビールの注ぎ手やホールの女の子に些少でも心付けを配る。それも大勢の前では渡すほうも受け取るほうも気が引ける、そんな江戸っ子の気質も、ホールの雰囲気と年の始末を大事にする粋な仕草なのだ。その好い格好でも粋な姿でも目立たないようにするのは小道具もある。 

銭は裸で渡さないし財布を人前で開かない、だから掌に入る年玉袋より小さなポチ袋なり女性用の懐紙を常備している。それを用意するかトイレに立ったところで子袋に包み込む、そこまで気を配って手のひらに隠した包みを、ビールを注文して戻る間際に相手の掌に包み込む、それは敢えて「ありがとう」ともいわれる照れくささと、押したり引いたりのやり取りを避ける工夫なのだ。

気の利くボーイは「気持ちです」と、年の口開けビールを置いてゆく。二杯目は空きそうになると注ぎ手から、これも、゛気持ち゛が回ってくる。年の初めを気分よく始めたい気持ちは店も客も同じことなのだ。子袋もビールもモノの行きかいだが、気分の交歓はそれにも増した人なりの生き方の愉しみなのだ。まさに独りを悦ぶところでもあろう。

 

    

 

 

混みあうホールも楽しみもある。

トイレに立つふりして店内を見回すと女性客がいる。するとボーイに「あの席に持っていって・・」と伝えると人数分の小グラスが届けられる。「常連さんからです」と口を添える。

会釈する人もいれば、グラスを挙げて乾杯のポーズをとったり、席まで来て礼をする女性もいる。こっちの席が空いていれば招くこともあるが、常連という言うことでの安心感と興味が湧くらしい。

 

会長の小林さんは馴染みになった若い男性に「ここで知り合った女性は表に連れ出してはならないょ。問題が起きると永年の雰囲気がダメになる・・・」と、諭す。が・・・歳かさの多い客には言わない。小林さんは毎日通っていたが、その若手を使ってめぼしい女性にビールを配りつづけ、必ず黒い手帳にサインをしてもらう。イケメンの遣いと常連会の品良さそうな紳士だと、より安心するのか住所や会社名、なかには連絡先まで記載する。

小林さんは気が合うと資生堂パーラーに誘っていたが、そんな時には「連れ出しては・・・」は反故になる。禁則やらを言われたのはイケメンだけらしい。

日本バラ会の会長として毎年高島屋で行われる展示会では美智子皇后をご案内している。黒皮の手帳にはビールを提供した女性の名前が細字で書きこまれ、それが十数冊になる。常連会も小林さんあってのことと、みな分かっている。なにしろ毎日狛江から通ってくる。頑固だが器の大きい人物だった。

 

感動モノの色話もある。

新橋の航空協会の泡友だが、当時、いきな老齢な女性がよく着物を着て来ていた。夏は浴衣が似合う品の良い魅力的な人だった。あるとき客が少なかったせいか泡友と普段は同席しない女性とまるで見合いのように話が始まった。いつも騒がしい泡友だが借りてきた猫のように紳士ヅラして畏まった。どこでどうなったか、帰りに送ることになった。礼をわきまえている粋な女性ゆえ「お茶でも・・」となったらしい。それからどんな情景が起きたかは想像だが、ことが終わった後に「ありがとうございます」と礼を言われたという。

それを聴いたイケメンは、「よりによって何考えているんだ」と低い声で言葉を投げた。

男と女、銀座で名が知れた稀な女性だが、選んだわけもない騒がしい泡友なぞと・・・・・。

呆れと、いくらか分別があるとみていた悔しさが混じってしばらく口もきかなかった。

焼きもちも野暮だが、何が悲しくて、この男には、゛もったいない゛と、思ったまでだ。

しばらくして葬式があったと、その帰途に「清めだ」と速いピッチでグラスを空けていた。

「めずらしいね、イヤなことでも」イケメンの言葉に、「線香をあげてきた」その一言で黙っている。

ピンときた。「そうだったのかい。いいことしたんだね」

泡友は二、三度うなづいてイケメンのグラスに割れんばかりの強さで満杯のビールをあてた。そうなれば過去は問わない。「どうだった」いやらしいが、その場面の雰囲気を聴きほじくった。

人の秘めごとなど知る必要もないことだが、久しぶり泡友をいじくりたくなった。

そのときは一生懸命だったのだろう。双方は一夜にして春になった。独りおかしくてクスクス笑う女性が目に浮かんだ。秘めた独悦は墓前の香縁で再会した。

反省と戸惑いに己のオノコに問いかけ、我が家の門口をそっと開けてコッソリ布団に潜り込み、今夜の出来事をなぞる泡友を想像した。

目の前には相変わらず騒がしく元気を取り戻した泡友がいた。

 

        

 

 

もう一つはイケメンの話だ。

この男は何をしているのかわからない。だだ、クセがないので伊能ですら別の顔で付き合っている。みんなにいい顔しているわけでもなく、いつも冷静だが洒脱な話もする。一言の酔っ払いの相手もするが、侍従職やブンヤ、はたまたそれと分る稼業とも楽しく時を過ごしている。時には三越やカネマツに寄って若い売り子に声かけして連れてくるが、売り子も不思議と難なく付いて来る。テーブルでは飛んで火に入る様相で、人の持参したみやげに安いビールで喰いついて来る。それゆえかイケメンも羨ましがられることはない。

話は軽妙でも人間は軽くはない。ときおり重い話も交えるので、浮俗の了見の狭い客には、何者かと不思議がられていた。易者に連れられてきたが、初対面から打ち解ける不思議なところがある。東映のニューフェースで、六本木でジャズの店をしている客とも仲良くなり、そこで演奏していた平岡精二とも兄弟のように付き合っていた。変わり者だった平岡も自分を理解する者のために、週末には楽器持参で彼の家に遊びに行く律義さもあった。平岡は彼のために喜ぶことを探していた。

平岡が亡くなったときペギー葉山と棺を支えた。毎年、命日の増上寺の墓の墓参メッセージにはペギーと彼の署名が並んで記されている。

平岡もそうだが、亡くなっても継続した、゛つきあい゛をするものは少なくなった。伊能や竹本も長谷川の墓参には欠かさず行っているという。彼も頑なに意識しているわけではなく、人に言うわけでもなく、何かがそうさせているようだと、本人も呟いたことがある。

それが格好なのかポーズの類なのかは分らないが、こけないで続いているのは本物なのだろう。

 

彼にも艶話があった。

二人連れの女のセーターを褒めて何気なしに袖を通していたら、その彼女も彼のセーターを着てしばらく呑んでいた。

いつもは二人連れの好い女をもて余している常連に呼ばれれば、割り込まないように相手をしてやる。決まったオンナがいないのか、いたって真面目なところがある。老成したモノ書きのように艶話も巧みだが、世にいう口説くことは誰も見たことはないので安心して連れの女を相手させている。「口どかれる女性もねぇ」と小声でつぶやくが、「どうやって口どくの?」と、面白いことをいう。不思議と女の気持ちを察するのか、猥談も彼に語らせたらいやらしくなくなる。竹本からは「人に合わせて似合わねぇことをするのは野暮天だょ」と、意を合わせる。

焦れた女は「ずるい」「意気地なし」というが、平然と微笑んでいるので余計に焦れる。

そんなことを考えている下衆な常連も女も内心は「格好つけて」と思っているだろうが、また、竹本が「オトコは格好が一番で」と援軍を送る。

何といわれようと動ずることはないが、次に会えば席は離れていてもビールを出す。悔しがる女もいれは、分かる女は懇ろになる。゛嬉しがらせて~、泣かせて消えた゛と歌の詩にあったが、゛悔しがらせて、仲良くなる゛ほうが、面倒ごとは起きない。

「三十年も来ている常連なら客を楽しませなくては・・・」と竹本もいうが、ホールでの一期一会を眺めるのも、ここの気風(きっぷ)なのだ。

 

               

 

そのときは魔が差したのか、運が良かったのか、それぞれがセーターを交換したまま別れてしまった。しかも初対面で連絡先も分らないままだ。

どんな女かも鮮明には覚えていなかった。次に会っても判らないくらいだ。

数週間後、トイレに立ったら狭いところで外国の老人とその二人がいた。居たといっても薄ら覚えで会釈をした。

「あの時は・・・」

「やっぱりあんたか・・」

連れはもう一人の女の英会話の先生だった。

「アナタも習っているの」

英語の教師はグラスを挙げて乾杯の仕草をした。

ボーイにビールをたのんで乾杯をした。

「あのセーターを返さなくては」
「いつでもいいですよ」

それなりの仲なのか、連れの女性は教師にしなだれかかっていた。

「酔い覚ましに涼しい空気を吸いに行こうか・・・」

ハナシは早い。即席カップルの四人で月島の花ちゃん寿司に寄ってから晴海埠頭にいった。揺られたせいか助手席で自分の帽子の中に嘔吐した。少しスカートも汚れていた。

帽子はそのまま捨てるという。トイレで衣類の汚れを落としてくるといって入ったがなかなか出てこない。待っているのも妙なので海を眺めて煙草を吸っていると、いつの間にか、あの二人はいなくなっていた。

ライオンに来るようになってこんなことはなかったが、もともと夜の海が好きなので他人の行動は気にかからなかった。こんな雰囲気で色よい話もなく、辺りは、いましがた手を繋ぎ、肩を組んで歩いていたと思ったカップルの影が一つになっていた。

彼女も年の様子では人の持ち物のようだ。

そういえば、はじめから隣同士で座っていたので正面からの顔は見ていない。小顔で帽子の似合いそうだが、それ以上はビヤホールの、゛しきたり゛に気が回って無粋なセリフしか出なかった。

気を利かせたのか、シケコミなのか、ほかの二人は上気した顔で戻ってきた。

帰りは二人とも国道二号線の城南だった。

運なのか、あのユングのいった必然の偶然なのか、イヤリングが車のフロアーに落ちていた。二つ一緒は意識的に外したものだろう。落していったものなのか・・・・。ビヤホールや暗がりばかりの縁だが、ポケットに入れてくれた連れの女性の連絡先があったのも妙だ。

 

              

       

ときどき食事をしたり横浜のバラを見に行ったりするようになったが、オシャレな女性で会うたびに衣装を工夫してきた。不思議なことに偶然にして二人ともよく似通った色選びをした。

普段から連れの容姿にはあまり頓着しなかったが、銀座通りでは振り向く人も多かった。

暇があるというのでビヤホールの五合庵で催している俳句の会を紹介した。師匠は一竜齋貞ホウと評論家の塩田丸男。女性は塩田を案内して城北くんだりまで来るが、八十にして健啖家で女性好き。

 

次号につづく

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