まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

学用児童とモンスターペアレント 10 10/8再

2020-05-14 11:56:45 | Weblog





公立学校の土曜休日が施行される以前、御茶ノ水女子大学附属小学校では試験的に土曜休校が行なわれた。
通称、お受験校として受験ママの事件すら起きたペアレント羨望の学校だが、その受験はくじ引きと内申書、そしてウサギと遊ぶ児童の観察などだが、その観察で選別された児童の親の職業は受験環境のせいか医者、弁護士、教師、公務員が不思議と多い。

施設は、廊下側の仕切りが無いオープン教室、それはブランドゆえにペアレントがモンスターにすらなれず、そのブランド権威に随うことで様々な施策試行が行ないやすい環境がある。
また、ここで行なう教科の進め方も、それぞれの担任が文部省の教科書作成者として、カリキュラムに合った教え方(教授案)まで色々な角度で児童に対応している。

「春さがし」というテーマを与えて広い大学敷地内を児童が春にちなんだものを探してくる。春の花、池の様子、木々の色つき、など様々な「春」を探してくる。そこで偶然おなじ探索や発見があった児童同士が仲良くなったり、なかには高校、大学の校舎、教室の様子を覗くものも当然あり、児童の発想力と行動観察には最も適した促しが行なわれる。

国語は文字探しといって新聞から与えられた複数の文字を探し切抜きをする。しかも自宅で父兄とそれを行なわせる。当然、文化社会面しか見ない母親も一面の政治、外交に目を通して関係する接続なり全体の意味を否応無しに覚えてしまう。もちろんスポーツ紙や芸能面からの選択もある。これもブランド権威なのか自由がなくなるなどと文句を言うペアレントはいない。

 



                          

 



当時の公立小学校の先生に伺うと、一週間に何文字教え、偏やつくり、画数や書き順で精一杯でそのような教授案は考えられないという。とくに教師同士の並列意識やモンスターとして頭を持ち上げてきたペアレントに数値結果としての能力をせっつかれると、児童の能力はともかく規定数を流し込まなくてはならなくなる。

併せて教師の能力と権威の失墜で児童は教室で騒ぎ、叱れば親が出てくる。なかには教頭は、゛まーまー゛、校長は隠れる。同僚は相談にも積極性と緊迫感はなく居場所すらなくなる状態もある。





           








余談だが、筆者のところによく教師が相談に来る。同僚や上司の問題もさることながら、自身のサラ金や父兄との裁判の問題まで色々出てくる。

千葉の小学校の例だが、新興住宅地のためかお決まりのモンスターペアレントの増殖に苦渋していた。あるとき耳元で叱ったら聴覚に障害が出たと裁判になった。そしてあろうことか敗訴した。そして賠償金(治療費他)の裁定がでた。
すると傍聴していたモンスターの仲間から、「これならウチも貰える」と囁きがでた。
゛叱ったら登校拒否になった゛、色々だが、裁判は二件抱えているという。

なかには夫に内緒で教師に裁判をちらつかせて詫び金をせしめようとして、これまた食い扶持昇進に支障が出ては困ると校長にも相談もできず、私的示談金として金を持参した。玄関先で手渡しているとき夫が帰ってきて事情を聞いた。
「バカヤロウ、ヤクザの恐喝のような真似して・・」と、教師の見ている前で女房は殴られている。

サラ金だが、ことのほか教師、地方公務員の問題と被害が多い。当時、公務員なら幾らでも貸すのである。相談があったのは女房も教師、新築、車二台、ソーラーパネル、子供二人は私立学校、共済から借りても間に合わず、同僚にも相談できず、女房の給料は親に仕送りと貯金、手を出したサラ金8社で七百万円である。家に帰っても整理整頓できず散らかった部屋で居場所が無い、つい帰路郊外のパチンコに入る生活だという。それにモンスターの追撃である。






                        







ある中学校は教師に暴力、教室でラジカセを鳴らす、喫煙、などで授業にならず、生徒が暴れると手が付けられないので来校救援の懇請があった。週に二回程度の連絡があるが担任からで校長からはない。学校祭、体育祭、卒業式など父兄来賓などお構い無しで粗暴な行動をとる。

あるとき、「暴力が烈しいので体罰もいいですか・・」と緊急連絡があった。もちろん防衛処置は当然な処置と応え、急遽向かった。
「どうしました」
「いや、校長から体罰になるので我慢してくださいと」
なぜか、それでも連絡は来る。

案の定つぎの策が考えられていた。教師らしい、いや狡猾な行動だった。
是非は問うまいが、国旗国歌を否定する反権力の教組が警察という公権力を利用したのだ。その使い方に問題があった。

修学旅行に連れて行きたくない、そんな教師の策だった。
いつもはある教師の悲鳴のような懇請もなかった。また、その生徒と仲間を拙宅に招いていろいろと融和から諭しに入っていたさなか、その母親から連絡が入った。

いつも無視している教師が些細なことで強い口調で叱責した。その生徒は先生の肩口を押した。すると警察官が待っていたかのように来て補導した。外にはパトカーが二台待機していた。修学旅行の直前のことだった。
これで所轄の警察で拘置、少年審判、鑑別所と数週間は出て来ることはできない。

すぐに所轄の少年係、調査官、東京保護観察所の管轄地域担当に連絡をとり、経過事情を伝え、筆者がその生徒の保護観察を担当することの適切である旨伝えた。
偶然、日頃の活動で連絡を取り合っている関係諸機関との人間関係が生きた。
国籍問題、家庭環境、学校での人間環境、本人の無邪気にも思える悪戯心、すべてを勘案して観察案を提示して理解を得た。

校長は退職直前、教師は上級試験、その事件は他の生徒や父兄に対しては生徒の非行として喧伝していた。もっとも生徒たちも理解のある父兄も心底はその生徒を理解していた。
短期であったが保護観察も良好解除された。















春さがし」の環境だが、ペアレントを交えた集まりがあった。ことは週休二日に関するものだった。予測がつく問題では土曜日をどう過ごすかということだった。
塾へ行く、学校を開放、好きなことをさせる、色々あったが6歳で地域の友達も出来ず土曜日は遊び相手もなく、親も仕事で留守。

ゆとり教育とは言うが、当時何処でも取り入れていた教師の研究日と称する休日と受け持ち授業時間の減少、なかには国立大学で週数時間で莫大な俸給を自慢していた教授がいたが、教育界だけでなく日本全体の公機関の就労時間が減少し、それに倣って民間も随わざるを得なくなり総てが勤労の継続と緊張から放たれて、「ゆとり」ならず、「弛緩」「緩慢」とした社会になった。

ある私学高校では校訓に質実剛健を謳っていたが、私学助成のお陰か給料は都内随一となった。すると駅から近い校舎でもマイカー通勤が増え、名を誇った各種部活も担当教師が少なくなると同時に、教師の会話もスキー、ゴルフ、旅行となり、単なる大型塾の様相を呈してきた。起きるのは旅行業者、教科書業者、運動具メーカーからの便宜供与や、下校路での居酒屋やマージャン屋の出没である。

今は少なくなったが、旅行会社からからは修学旅行準備の下見と称する旅行供与、教科書業者は教科書掲載の有名書家の色紙供与など、購入に関する業者からの酒席供応などは、至極当然のこととして教員のおねだりも頻繁にあった。

ペアレントとの会合も二次会から三次会、家庭問題にもなることもあった。子育て女性の社会参加は公園デビューからPTA、町内会、地域ボランティアとすすみ、女性なりの視点での貢献は大きくなった。しかし、それゆえの負も徐々に招来することにもなった。


ある講義を依頼された女子大学だったが、もとより謝金を断っているゆえ真剣な授業を期しているため厳しい雰囲気も作り出すようにしていた。すると「余り厳しくしないでください」と慇懃な依頼が出てくる。なぜなら「生徒はお客さんだから」という応えである。

近頃は手当てや年金と、さもしいくらいに貰い物に話題が集まっているが、ことは社会構成上の劣化である ゛さもしい゛゛卑しい゛を正す人間形成の一翼たる教育界の堕落が教師自身によって限界まで導かれているということである。
一線を引いた議員や官吏が独法となった公立大学の食い扶持飾り教授になることが多い。

これでは問題意識があっても、あるいは生徒を食い扶持として素餐を貪り、単なる年金加算の類として教職肩書きを弄んでいるしかない
教育界というモンスターに棹刺す教養も乏しくなったようだ。

教育において「威」の在るところモンスターは増殖しない。







台北中山記念小学校  生徒自治会






聖徳太子は人間の尊厳を毀損する「権力」を制御することが「威」の姿として、十七条の憲法をつくった。内容は民の生活をジャマするな、模範になれと権力者を制御している。
その権力とは、為政者、官吏、宗教家、そして教育者である知識人だ。
これらはいつの間にか権力を構成し恣意的にその富(貰い扶持、既得権)を増殖する。
知識人の堕落は国家の衰亡を招くことは数多歴史の姿にもある。

私事だが幼かった子女にこう伝えた。それは広い構内を毎日リヤカーを曳いて、落ち葉を収集小がている校務のおじさんから学ぶということだ。その作業小屋は校門の裏手にあり学舎の入り口にある。老齢のおじさんは子供たちに率先して挨拶をする。作業の手を休めず声を掛ける。子女には毎日叔父さんと一言でも自分から声を掛けなさいと促した。
くわえて、それが学校での一番の勉強になると。

ラッシュアワーに押しつぶされ、ときには悪戯されても欠かさず校門を目指した。何もできなかったが、そのおじさんに声を掛けていることを想像するだけで通う意味はあった。

「学用」も用を学として、無用と思われることに有を発見するものでなくては、人は育たない。いわんや人物には成らない。

教師との成績面談で「皆さんのお役に立っておりますか」つい口から出てしまったが、親子とはそんなものだろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理想と現実 「勝った負けたは、未だ負け」 2008 4 再

2020-05-12 11:25:20 | Weblog
(写真説明)
社会党ながら『今回は自民党案のほうが正しい・・』と、独り反旗をひるがえし自民党案に起立した渋谷修君。彼によって50年体制(与野党談合)に綻びが露呈し、終には社会党が崩壊した記念すべき画像である(時事通信)

《平成6年の稿ですが、ながらく小会に参加していた若手議員の姿を備忘として残したものである。その後、官房副長官となり、その頃から色紙揮毫に「意志あるところ・・」と書すようになった。青雲の志とその志操を護ろうと欲すれば辿るべき道は恩人の墓碑にあったようだ。その頃は後の松下政経塾々長や反骨の衆議院議員も参加していた》




秩父

【備忘録本文】

 国家の信頼と政治の要諦は、その根本に政治家個人の崇高な目的に対する「志」いかんにかかっている。
もちろん目的も粗雑で手段が狡猾なものもいるが、どんな目標を描いたところで必ず失墜するのが常である。 いわゆる、そのような思考、感性の持ち主では何れ“声なき庶民”の嘲笑を浴びるのは当然の結果とも言える。

それを予測し、その場主義で「利用」するものもいれば、「敬遠」するものもいる。中には本来の政治が果たす役割を考えもせずファンクラブや取り巻きを気取るものも出てくる。 庶民からすれば政治の不信であり公の代表者に対する怨嗟の始まりでもある。

  それでは「志」とは何か。
 理想を唱えていては政治にならないとの声がある。
さも政治に参加しているようで、実際には選挙という応援の中での自分の存在感の確認のため行動し、自身の汲々としている姿の自己満足に政治があると錯覚している場合がある。 応援者は 本来の任務である議会の言論行動も理解せず、後援者、票数、資金のみを現実政治として考えているフシがある。

議員自身の資質の問題でもあるが、選挙運動において唱える(訴える?)ことは“現実の問題”の対策と“理想政治”の具現という考え方においては矛盾する論法を、“対策”を実力と錯覚し、“理想”を高潔な人物と錯覚する応援者もいれば、員数を揃えれば“乗り遅れ”を危機として煽り、支持を集める見え透いた手法を取ったりするものもいる。
 最悪な状況はそのこと事体を政治と理解しているフシがあることです。
定例的な旧来の手法ではあるが、現実選挙では一番有効と思われ、しかも、抜け出したくても抜けられない貧弱な政治民度でもある。

孔子も「巧言令色、仁少なし」と述べているように、バラ色の理想を雄弁に訴えることは民衆に対する契約でもあり自身への誓いでもある。
こんなことを述べると理想と現実は違うという答えが返ってくる。

しかし大事な点を見落としてはいないだろうか。
政治は目標を多面的に見つめ、根本的に考え、将来を明らかにすることである。
多面的とは総花的ではなく大局的に観察することであり、根本的とは全ての面で公私の分別に立脚することであり、将来的とは現世の浮利、浮情に流されることではなく、自身の勇気と見識がなせるところの教育的言論をもって民情を覚醒し将来的展望を説くことである。

庶民の要求するままに官吏に媚び、自身の立身出世を願うような議員をヒーロー扱いするような一部の取り巻き応援者は政治趣味の社会悪でもある。
悪意ではないにしろ、本来の政治家の目的や政治のあるべき姿をを知らずに盲目的に群行群止する事は避け、一人々のすがすがしい意志に立ち戻るべきである。
☆ 「小人利に集い、利薄ければ散ず」

善 意
誰にでも生まれながら善意はある。しかし現代では善悪の区別(混乱)もつかないくらい価値観が入り乱れている。
“大義を掲げて利を貪る”とはあるが“大義”が理想で“利”が現実と解釈する方が行動しやすい事も一理は有るが、“利”を貪るために“大義”を語る手合いが多いことも事実である。

同じ大義を唱えていても目的なのか、それとも“利”のための手段なのかは応援する者が“不特定多数の人々”のための政治を考えた善意が有るかどうかによって決定すると言っても過言ではない。
勝った負けたが政治の勝負なら、勝者を称え、敗者を思いやる態度が政治に志す大前提の“善意”つまり惻隠の情であろう。

☆ 「 小 富 在 勤  大 富 在 天

小さな富(少欲 名利、プライベート)は働くことでも生ずるが、大きな富(大欲大義 パブリック)は天意(無形の畏怖 感謝 靖献)によって有効となり存在する。 

「意志あるところ必ずそこに道あり」
中野区の青梅街道に面した宝仙寺の墓地内にこう刻まれている碑がある。
ここで言う意志は立身出世、地位保全という個人の立場の“利”のための意志ではない。又、時流にうごめき右顧左眄する者の軽薄な意志でもない。
不特定多数の人々のために自らを殉じた崇高な意志がある。
この家族には連綿と続いた意志なのだろう。 意志をつなげようとする思いが碑に感じ取れる。

志には初志(しょし)が大切だ。あいまいな意志と現実の欲望との狭間に敗北する者もあれば、ささやかだが隠れた部分で貫徹する意志もある。
欲望の意志には道はない。正しい意志をもった人のみ歩く道がある。
故人は遺訓によって道を遺している、継なぐことができるのは俗利になじまない強固な意志と勇気があるものだけだ。

“現実と理想は違う”という浅薄な言葉を述べる者には問題解決も終生おぼつかない。理想とは夢物語では無い。理想こそ現実の諸問題に潜む根本的な解決の答えであるべきだ。
頭を巡らせば問題にならないことを問題にする姿勢こそ現実の大問題である。

理想とは自然や人間のあるべき姿を純真な心で思い起こす自分自身の問題である。人に恃んだり、自然に与えられるものではない。

振り返れば自分自身の心の中の手の届くところにあるものだ。
故人は絞るような思いで跡を継ぐものに託したのだろう。
碑は見るものに反省と政治の何たるかを教えている。深く刻まれた碑文のように初志を忘却せぬように超然と語っている。

故人の遠大なる理想であり、現実でもあった日本と中国に連なった人間のつながり。革命に挺身した 孫文と日本の青年有志 に対する想い。それは異民族に普遍な人間の理想を見た戸叶家の崇高な意志がある。
理想を現実に埋没する者をみるにつけ、碑文は痛烈な猛省と覚醒を促しているかのようである。




 衆愚政治

おかしなことに選挙好きな人ですら“衆愚”という言葉を頻繁に使用する。 “衆愚”とは多数の愚か者であり、その愚か者の多数が多数決によっておこなう政治を衆愚政治(民主主義の蔑称)といっている。
ある議員の選挙対策では有権者を衆愚と定め運動を展開している。
学識経験者、マスコミ受けする政治家、著名人、芸能人という何ら本質の政治とは無関係な“錯覚した人格”を招致したりして庶民を惑わしたり、他候補に負けじと町の有力ボスに擦り寄ったりする事もある。

さりとて政治家の資質を主体的に観察しようとしても多数からの疎外感が先に立ち、どうしても流れに任せた選挙しかできなくなる。
将来の展望もなければ国家観もなく、しかも気が付いていても改革する勇気もない閉塞した状態を作り出してしまう。
強いと思われる方向についたり、安易なヌルマ湯の仲良しクラブに怠惰し、面従腹背の政治家の雄弁に拍手をおくり“たにまち”気分にひたる後援者を大量生産してしまう。 これこそ衆愚の始まりである。

 一人々が冷静に考えれば当然判ることだが、 このような作為こそ息潜む民意からの離脱行為であり、野望により自らの意志を曲げ、当初の期待に背く政治家の輩出に盲目的に助力する罪深き後援者の姿である。

そのためには集団の中で自らの主体的意志を常に確認し、対象とする政治家の変化(変節)を自分以外の不特定多数の眼で観察することが肝要となる。
いまこそ、何の目的で政治にかかわるのか熟慮すべきです。
“本”(もと)がなければ何も生じません。政治の本は“畏れ”(オソ)と“忠恕”(チュウジョ)です。 俗世の価値に惑わされず幼子の気持ちで政治を考えたいものです。

勇気と熱情、そして私心のない提言(官民に隔たりのない諌言 政策)を添えて。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貪らざるを以て寶と為す 2014 7 再

2020-05-09 08:50:29 | Weblog
パル判事と東条家の人たち



銀座七丁目のビヤホールは一時、占領軍の接収で庶民は立ち入れない時期があった。いまでも都内にはそんな日本の管轄外の施設が多くある。基地や駐屯地も東京の外周に点在するが、一等地にも大使館の職員施設、ヘリポート、ホテルなど、いわゆる治外法権の場所が多数存在する。しかも施設設営費、人件費などは思いやり予算で維持され、しかもノータックスということで驚くべき安価で食品、衣料などのブランド品が提供されている。

話題は逸れたが、そのビヤホールも返還後はビール好きの客で賑わいを取り戻した。客筋は銀座老舗の旦那衆,易者、築地の仲買、稼業衆と云われた鳶や博徒、文士、大内山の奥の侍従など、それぞれが問わず語らず丸テーブルを囲んでグラス交歓をしていた。

不文律はホールで知り合った女性は連れ出さない、銭のハナシはしない、ほかは話を突き詰めない、つまり一夜の完結だ。今時の客には真似がでない応答だが、なかには嘘やはったりで威を張るものもいるが客の意中では別物扱いだ。とくに、何処の誰かも知らずに歓談しているが何年も経って背景が分かることもある。
慣れてくると顔つき、話し具合で大よその見当はつくが、それでも敢えて尋ね聴くこともしない。それは何も金の多寡や地位や出自で呑んでいるのではないという至極当然な気持ちの同感からだった。





判事席


記念館

或るときパル判事の話題になった。パル判事とは極東軍事裁判(東京裁判)のインド選出の判事ラダ・ビノード・パル博士のことだ。数日前にその関係著作の案内に興味を持ち箱根のパル・下中記念館を訪れ、あまりの荒廃に驚いたことを話題にした。たしか同席は、も組の鳶頭と品のよい老紳士と連れの女性、筆者と連れだった。

「パル判事と義兄弟の下中弥三郎さんの記念館に行きましたが、訪れるものもなく荒れ果てていました。一度下中さんの縁者に会ってみて話してみようかと・・」
「今どきの日本人は忘れっぽいのか、知らないのか」と頭はいう。
黙って聞いていた紳士は笑いながら口を切った。
「私が下中です」
「あの弥三郎さんの・・」

ビヤホールでは名前や職業などは聞かない。見た目や気分、飲みっぷり、応答などで馴染みになる。
気は合うが、まさか数年前から同席する様になっていた人が、その下中氏とはつゆ知らなかった。



若かりし頃の邦さん







縁は奇なもの、弥三郎氏の長男の邦彦氏だった。当時は平凡社の相談役でパル・下中記念財団の責任者。後刻届けられた資料はヤベンと云われて親しまれた平凡社百科事典の基となった「やぁべんり」から採ったヤべンだった。
その後は、箱根の記念館に同行したり、津軽弘前の桜まつりにも行った。

いつ頃からか長幼を超えて邦さんと呼んでいた。その邦さんの家は大田区の雪谷に在った。桜の季節になると広大な庭の観桜に多くの客を招いている。その幹事を任されることもあった。だだ、いつもビヤホールに連れてくる女性の姿はなかった。

その女性は筆者の戯れ言葉で「看取り屋」と云っていた。
もとは新派の有望な女優さんだったが大御所女優の身辺の世話焼きとして末期を看取った。以後、歌舞伎の大御所と子息、そして邦さんの世話をしている。銀座の文士の集う老舗バーのピカイチだったころ、ある大物文士と競って・・・との逸話もあるが、そんな計算もない看取り屋さんは邦さんとは気が合った。

何しろ看取られた方は「あなたでなければ・・」といえば家族でさえ否応もない。
もちろん近親者、とくに妻からすれば同性の若き美女、心穏やかでは済まないが、法外な対価を要求することもなく、健気に不自由な身体の下の世話までする彼女の姿に沈黙せざるを得ない。

気晴らしに食事に誘って看取り屋の人生を聴いたことがある。
「女優は諦めた・・?」

「・・・なんか,縁なのか、星なのか・・」

「結婚もしなきゃ・・・」

「相手と云おうか・・・、自分の意志のほうが強いようで・・」

「看取り屋さん・・・、本になりそうだね」
「・・・・・」

周囲が言うには、踊りも上手で華がある。大御所連の看取りなどしなければ、いっぱしの女優になっていた。なにしろあの老舗バーでは高根の花だったくらいだから、同性からの嫉妬もあった。邦さんの病は喉頭癌、彼女の頭髪も歳に似合わず白くなった。邦さんも我儘だったが彼女無しにはいられなかった。

邦さんが亡くなってから暫くビヤホールにからは遠のいたが、いつ頃からか城北の筆者の店に来るようになった。何度か蒲田まで送ったり、足を延ばして横浜にも行ったが話題は邦さんのことが多かった。

邦さんには教えられることが多かった。興が乗るとコースターに戯れ言葉を書いた。
折り紙協会の会長だと云っていたが、あの調子だと床の間の石のような充て職も多かっただろう。

晩年、会社の事情も変化したが、箱根の記念館の仏塔に舎利仏を安置することを望念として筆者に運動の継続を依頼してきた。仏舎利は神楽坂の出版記念会館に保存しているというが発起する者もいないという。さびれた箱根の研修道場の活用も伝えてきた。
何度か同行したが、ひょうひょうとした白足袋風の邦さんらしく筆者に強いることはなかった。






左より下中 安岡 筆者 卜部 



機を見て皇太后御用係の卜部侍従と安岡正篤氏の長男で長野銀行の社長だった正明氏をご紹介した。すぐに肝胆相照らす仲になったが、邦さんは箱根の話しはしなかった。

もう少し積極的に・・というと、「貪らざることを寶と為す」と、コースターに書いた。
私事ではないですよ、というと「師父の教えを寶と為す」と付け加えた。
たしかに心当たりがある。

その師父だが、邦さんは筆者の師のことをことを知っていた。
それは正明氏の父安岡正篤氏のことだが、いっとき嵐山の郷学研修所が停滞した時「三千万あれば・・・」と呟いた時があった。あえて聴きただすこともなかったが、筆者の心中では、安岡氏に纏わりつく財界の大物や政界の傑物もいるのに、ひと声掛ければ易いことと思ったが、易いからしないという心中があることが分かった。
ときおり、気が利かないのと酔っ払いがいる、と老書生を揶揄していたが、持ち場を守り利他に活かすことの難しさは碩学とて難儀したようだ。
確かに貪ることは江戸っ子でも分る、まさに野暮だ。

浮俗では、形式、格好つけ、見栄っ張りと云われそうだが、実利だけではなく、それを以て維持される世界があることも理解すべきことだろう。
邦さんらしいが、近ごろはどこか納得する邦さん風の生き方のようだ。



イメージは一部関係サイトより転載
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

性とタバコと薬はホドが大事     14 8/1 再

2020-05-05 09:44:51 | Weblog

福島の夏



行きつ戻りつ屁理屈の長文ですが・・・・

以下は慣れない字句で難解とか面倒だとかおもいますが、筆者が講話にすると聴者は興味津々となり耳が鋭敏になる

人生はこれが基となるが、話題としてはオカズにしかならない可笑しさもある。


近ごろは嗜好の部類になったが、病院から大量の薬を処方されることに慣れると、逆に少ないと不安になる。なかには大量に飲めば効くとばかり口に放り込む患者もいるが、漢方なら余計なものは排出するが、ケミカル(化学合成品)は蓄積され、かえって病気の原因になる。あくまで薬局の売薬も病院の処方は薬品とよぶが、呼び名がヤクとなると厄ないし疫ともなる。

元覚せい剤常習者に聴くと、どうしても性と絡むとなかなか止められない。余程の忍耐がなければその誘惑は断ち切れないという。処罰も他に窃盗や暴行がからまなければはじめは執行猶予、再犯は二年、が相場らしく、彼らも承知している。

よく、犯罪の裏にオンナというが、女性が覚せい剤に溺れると、なかなかやめれない。何度も刑務所に入っても辞められない。あの田代さんが来訪したとき。「太ったね」と印象を告げたら、「やめると太る。ダルク(薬物更生施設)に始めて行ったとき、先生が食事に連れて行ってくれた。出たのがシャブシャブ、(覚せい剤の別名はシャブ)まいったね。」と洒脱に語っていたが、その後、再犯。

出所しても「冷たいものがある」と云われれば落ち着きがなくなるらしい。混ぜ物がない上質な覚せい剤は打つとヒンヤリする。目の前に見せれば目が点になるほど欲しがるものだという。

昔のことだが、巷ではヒロポンが流行った。街の薬局でも売っていた。

似たもので錠剤があった。軽いものだったが箱には「覚醒効果」とうたっていた。
普段は教室で寝ていた筆者も試験になると母親がどこから聴いたのか買ってきた。
大量に飲めば大変だったが、当時は鎮痛剤のナロンやバッファリン,睡眠薬ハイミナールはどこでも手に入り、たばこ同様不良高校生が気軽に手に入るものだった。
交番夜勤のお巡りさんに温かいおでんを差し入れすると、受験勉強で使った覚醒効果のある錠剤を愛用していた。聞くところによると米軍のコカインとコカ・コーラ、日本軍のヒロポン、仁丹、正露丸は前線なり占領地には欠かせないものだったという。





金沢八景 野島


タバコもそうだ。たしかに戦争の記録フィルムをみるとさすがに薬物はないが、戦闘の後に陛下より拝領した恩賜の煙草を美味しそうに吸っている映像がある。米軍とてタバコを吸いながら銃を肩に背負って哨戒したり、雨降りのテントの中でタバコの廻しのみしている映像がある。突撃前は訣別の思いにふけ、煙を空に向け今生の世を確認する。戦闘が終わると友との別離と生の安堵をかみしめる。敵も味方も恨みっこなしだ。

当時は西部劇スターがカーボーイブーツにローマッチをこすり、両手を添えて咥え煙草に火をつける格好よさにあこがれて、元町や本牧までローマッチを探しに行った。好きなタバコはピース、あの頃は美味くもない洋モクもパッケージに誘われて買ったが部屋の棚飾りだった。遊び相手はよく替わったがタバコには浮気はない。

欧米の有名な女優も長いキセルに煙草をくゆらせるとロングドレスが妙に格好良く栄えたことを想いだす。裕次郎さんの咥えタバコも格好良かったが、どこかアウトローの雰囲気がした。当時は間(ま)が持てないわけではないが、タバコがないと映像が絵にならなかったためだろう。

その昔、馬方さんや鳶職もキザミ煙草にキセルが様になっていた。ガムではしまらない。東京から横浜戸塚まで大八車に足場を運んだ。なかには木遣りの稽古とばかり声を張り上げるものもいたが、腰の煙草入れからキザミ煙草を器用に玉つくりして、今まで吸っていたタバコは手のひらに落として火傷しないように転がして種火とした。それが東京から幾所もある休憩場所まで続けている。

あのサトウハチロウ氏もくわえタバコで火を絶やさなかったという。かといって彼らが肺の病で亡くなったとは聞かない。





上海



男社会に女性が進出すると西部劇のようにレディファーストが叫ばれるようになった。
職場も二日酔いの酒臭さは少なくなったが、へんてこな悪臭に似た香水がまき散らされるようになった。煙草も肩身が狭くなったが、女性が数人そろった騒音談義は香港の廣東料理屋の昼景色のようで、話はあっても、語りはない。滞在当時は甲高く騒がしい社員には上海料理屋の渡り蟹に誘った。黙々と細い足からカニ肉をすくい、吸い取るさまは、お喋りより食欲が勝ると感じたものだ。この世代からホドが崩れファミレスや行楽地が声音で騒がしくなった。

以前、JRの大人の休日倶楽部のキャンペーンで大宮から新青森行新幹線を利用したことがある。大宮のホームは嬌声けたたましく妙な予感がした。案の定90%は中年女性、終点まで2時間40分、煎餅ボリボリ、隣近所や亡くなった、もしくは留守番の旦那のことで話が止まらない。男の三大話の年金、病気、趣味などなく終始、吾のない喋りっぱなしで新青森についた。青森からの在来線で弘前までその調子だった。観光地でも宿屋でもそうだろうが、今どきのホドのない旅の恥はかき捨ては男から女に奪われたようだ。

アカデミックな西洋医学が主流だ。検査数値と投与基準が騒がれているが、医者と薬やと官吏にとってはその方が都合がよいし、食い扶持になると昨今騒がれている。煙草もヤクも場面とホドがなければ無頼だが、皆目なくなるとこれも困ることがある。税官吏は及ばずタバコ屋さんもコンビニも困る。無くて困るのは数値ノルマの反則切符に似ている。

ヤクも今だから話せることだが、世の中には多くのタブーが身近に存在していた頃のこと、農家はいまでこそ普通な生活が営めるようになったが、昔は忙しく、医者にもかかる金もなく、今どきの待合室のたまり場など夢物語だった。
年寄りが病にかかると、働き手である若い者に面倒を掛けられないと、里山や家の裏手に薬草(大麻やケシ)を植えて、噛んだり、ときに薬缶に焚いて使っていた。それは鎮痛、消炎、強壮もあったが、今では違法薬物に指定される植物の根や葉もあった。

トリカブトや日本の儀式衣装に欠くことのできない麻、ケシ科の植物もあった。
歳をとって新陳代謝がなくなると老廃物が滞留し毒素となり体温を低下させる。
体温を上げるには根菜類を食べていたが、体内老廃物を強制的に排出させるには少量の毒素が用いられた。それが前記の植物であり、毒(異物)を排出し好転させるものだった。その間は、好転反応ゆえの熱や苦痛もあるが、古老の知恵は好転反応としてみていた。

湯治といわれるものもそうだ。始めの一日は昔の古傷や、自分でも認知しないところが痛くなる。それを我慢して湯に入っていると四、五日身体が軽くる。ぬる湯も同じで、体温以下の湯に長時間入ると骨まで暖かくなり組成も正常になる。
血流は改善しリュウマチでも改善する温泉もある。



いまほど医者もいない、金もない、認知症も鬱なく、なにより精神疾患が少なかった。
だだ、コンビニやデパートや居酒屋、美容院、フィトネスがないのが玉にキズだろうが、何よりの養生はホドと、数多、人の世の善き諦めと分別があった。ヤクは精神の遊興昂揚には用いなかった。あのイギリスにそそのかされアヘン中毒患者が蔓延した中国とは違うようだ。煙草は柄のたしなみがあったし、当時の公社も景品付きでタバコを薦めるような下品な商いはなかった。



北京の友人の作品


タバコとお茶は程よい便意を誘うという。
嘘かまことか性の営みも長寿健康を維持するという。
また、男女は和するという。
これもホドのコントロールだが、宮内庁の書陵蔵に「医心房」という書物がある。
房とは部屋のこと、ここでは室内で行う性の営みの効能を記している。いまどきの技巧や健康のハウツウではなく、なぜ相対する天地、東西、南北、プラス・マイナス、そして陰と陽で表す男女の関係が大切なことなのかを事細かに記してある。

たとえば、男に無いものが女にあり、女に無いものが男にあるという、だから求め、睦み合うことが大切だと説く。あるいは気と精の関係と、そのやり取りの意味を健康長寿におく独特な観点で説明している。この中にもホドを過ぎると腎虚といって、身体が虚脱するという。

あの覚せい剤を用いた不眠のセックスのあと、ぐったりして寝つづけることと同じだ。男女で覚せい剤を打ちながら三日三晩寝ずに交接していたら、いや止められない快楽が押し寄せたら、まさに中毒状態だ。
一種の快楽への戒めのようだが、度をわきまえた交接は大いに推奨する内容でもある。

世にいろいろデーターがあるが、フランスの公式データーは興味深い。年間の回数は日本人の三倍、かける時間も数時間に及ぶが、前立腺疾患は少ないという。だからといって出生率は多くない。医師は相手がいなければ自慰を勧めることがあるという。つまり愛の確認行為なのか、たんなる欲望なのか、自家療養なのかは判らないが、つねに目の前には機会がある。ときおり堕落表現の芸術をみるが、神は赦す!!ことなのだろう。

返還前、しばらく香港にいたが薬局は漢方の強壮剤が多かった。日本の「救心」もあった。
その前の北京では大きな漢方薬やで調合してもらったが、木箱の棚から木の根、乾燥葉、木の枝や実などを砕き粉末状にして分包して袋に入れてくれた。なかにはシカの角や虎の骨が人気だったが、みな強壮剤、つまり心臓の働きを良くして血管を広げ、養分を運ぶ作用があるという。あの流行りものの様だったコエンザイムQテンのようなもので、ビタミンEと少し心臓の働きを援けるノイキノン錠を飲めばそれで済む。ただ化学が問題なのだ。

 

陰陽の調和は、交接は男女の補い行為であるという考えだが、身体を温め、気持ちを柔軟にして、循環を促し、老廃物を輩出する。つまりそれらがなくなれば毒素は貯まり、体温は低下し、免疫は衰え、疾患にかかりやすくなる。それゆえか、「夫婦相和し、拒まざるを以て旨とする」と房中(寝室)の則として記している。我が国の十七条の憲法には、「和を以て貴しとなす」と記しているが、ある古老は、あれは房中術だと説く。つまり健康維持のために交接することだとフランス同様に推奨さえしている。











房のことだが、夫婦の寝室(房)での行為について精の交換、あるいは己に還る環精の方法が解説されている。体位技巧は尾籠な内容なので他に譲るが、宦官は陰茎を切って仕官し、代替えは舌で行っていた。それは舌耕といって、男女は舌と分泌する唾液の交換で精を補っていた。
まさに舌で耕すことである。男は若い女子の淫水をすすり、唾液を呑む。唾液は消化、殺菌に効くという行為である。

多くの皇帝は陰棗(いんざお)といって、処女なりそれに近い娘の陰部に、傷つけた棗を挿入し、宦官が身体を舌耕した。昂揚した娘の淫水にしばらく浸した棗を毎朝皇帝が食べる習慣があった。また産後の胎盤も滋養となった。
つまり、鉄分は豚のレバーでなく同種の生き物の方が体に合うし、滋養も多いという考えだ。カルシュウムも同様だ。

中には風呂に入らず、若い女性数人を房に入れ舌耕によって若い娘の唾液で全身を洗浄した皇帝がいたが、近代の権力者のなかにも風呂に入らなかったエピソードがある人物もいたようだ。たしかに肌は艶があり元気だった。戦後間もなくの日本の首相も房には数人の若い女性をいれ、ときに同衾した。 同衾(どうきん)・・・同じ夜具で寝る

たしかに理屈は整っているが、宦官や纏足の風習を入れなかった日本では、江戸時代に貝原先生が「養生訓」を書いているためか、みな「接して漏らさず」くらいは知っている。
だだ、唾液の効能や淫水の用い方は、宦官ゆえの舌技ゆえ、その慣習がなかった日本ではあまり知られていない。
その舌技だが、陰茎を切って宮廷に仕官する宦官もさすが袖の下の巧みな所ゆえ、賄賂を渡すと先の方しか切断しない。つまり敏感な所を切るために何時間でも行為は可能だった。勃起をつかさどる中枢は背骨にあるためだ。しかし真面目な?な志願者は元から切断する。

そうなると相手が回ってこない女性を慰めるには舌と手しかない。舌も手も陰茎と違って自在筋なので思うようになる。それなら舌を長く丈夫にしようと知恵を働かせる。
竹筒のなかに蜂蜜を入れ舌でなめとる。慣れてくると徐々に竹を長くする。あのアフリカの一部の風習で、首にリングを幾層にも重ねて通常の倍くらいの長さになっているものがある。下唇に円盤状の木を入れているのもある。あれと同じで舌も伸びて、しかも平らにも丸くも、細長くもなる。これが巧みになって宮廷の女性を歓ばすことができたら発財は思いのままだ。日本の大奥はせいぜい自慰か城下の役者と遊ぶくらいで、あの民衆と共に二十年の佐藤慎一郎氏いわく、「日本の女性の歓びは中国女性の半分にも届かない」と。

だだ、儒の説く習慣性が則となっている女性の貞操観念や男女のわきまえとは別の、同時代に興った神仙思想や道教は、性を実利として、かつ房中の秘儀快楽を長寿に結び付けた男女の明け透けな欲望と相まって、より進化していった。

四角四面な日本、融通無碍な漢民族が。人間種として自ずから(自然に)起きる男女の欲望にバリアーを掛けるように、多くがそもそもの前提となって絡みついている。
彼らはそれら他からの制御を「たんなるハナシ」として、もう一方の世界を愉しんでいる。
よく、「愛が無くては・・」とその理由にしているが、現代の愛の表現は自由,財貨、であり、それが無くなれば愛は消滅する。愛は無くなるものなのだ。しかも都合によって愛は形式結婚となり、勝手気ままな自由に飽きればそれさえも消滅する。単なる欲望の補いが愛ということを屏風にして遂げられるなら、「性」とて飽きれば他を探し求めるのは自然な事だろう。





十三湖



神仙思想は男だけの都合では何もできないことを示している。陰と陽が交わってこそ活力(生きる力)が起き、繁殖(出産)さえ容易になる。
「独陰生ぜず、独陽生ぜず、独天生ぜず、三合にして成る
結婚式の三々九度は、陰(妻),陽(夫) 天(精霊)の三様にそれぞれ誓うことである。
つまり、各々が独りでは何も生まれないということだ。男と女が交接しても子供は生じない.神(精霊)とともに子供は生まれると考えられている。だから神道用語では「結び」を「産霊」と書いている。

もう一つは快楽である。しかも長寿(生きる)ことと強壮(活かす)ことだ。
そのために医薬は食と同じ源(医食同源)というとで、燕の巣や熊の掌、動物の内臓、薬効ある根野菜、そして人食まで行った。性とて「夫婦相和し」は、和さなければ子供も生まれないし交接による精を高めることができない。もちろん夫婦なら都度の対価は必要ない。
つまり、すべて実利なのだ。だだ、同じものばかり食べると飽きるし、身体に悪いと。


代表的な儒者孔子の一説に「友 遠方より来る、またたのしからずや」がある。
日本では無条件に懐かしく迎えるようだが、彼らの理解は、遠いところから来るから何かいいも、利になる話を持ってくるだろう、との理解だ。我が国もその理解に近くなったようにも見受けるが、今まではその理解だった。
「和して同ぜず」も男女の別を理解し弁えてこそのことだが、和して特徴まで交錯している夫婦はいずれ離別すると読める。

つまり、彼の国の生活は看板となっている儒ではなく、街中いたる所にある道教寺院での実利の獲得願望だ。薬の神様、招財の神様、みな真剣だ。孔子廟に行くのは観光客、とくに中国は孔子の国、論語の故郷とする日本人観光客が多い。

しかし、彼らの快楽はホドがなく、己の欲望に随って国さえ滅ぼした。政治が届かないこともあるが、彼らは己の本性に随って生きている。食は量も種類も際限がない、女色もあらゆる知恵を働かせ、肉体すら改造して快楽を求める。アヘンの蔓延は国力を衰えさせ欧米の進出を難なく許した。それらを求めるもとは財である。これにも江戸っ子のように宵越しの金どころではない、なかには年間予算の何年分も懐に入れた歴史がある。
しかも皇帝から任命された宰相である。先ごろも2000億以上溜め込んだ首相も暴露されたが、初代の毛主席も歴代の皇帝も賄賂は必要なかった。それは国家の総てが己の所有物ゆえのことだ。もらうのは献上品(地方からの土産物)として並べられたものだ。







葉巻が似合う キャロル・スタンバーグ氏




ただ、これらの欲望は気を付けないと誘引同化する恐れがある。
どうも形態はともかく、色、食、財の指向性と高揚感が似てきたようだ。しかも人情は微かになり、人心もカオスのようになってきた。ある大学で「好きな異性と、グルメとお金が自由になったら勉強しないだろ」、と聴くと、大部分が頷いた。学び舎は思索も乏しくなり、精霊の存在すら想うこともなく、目の前の現物にために学校歴を得ようとする若者が多くなった。教員は高々、知った、覚えた類の学習しか提供できず、ひたすら数値選別に走ってstrong>いる

ホドを教えてくれるものはいない。そんなカリキュラムもない。痛い思い、恥ずかしい思い、そんなことから浸透される倣いだろうが、欲張った挙句が現代に突き付けられた諸問題だとしたら、そろそろ急ぎ、追うのを控えてみたらどうだろうか。
行くも、止まるにもホドがある。無理せずに除ける途もろう。そのためには己の分量を知ることだ。

生きとし生けるものには無駄なものはない。大石ばかりで小石が混じらなければ石垣も崩れる。あくまで生きるために要することの範囲だが、人と比較したり競ったりすると自らを無理強いするようになる.負荷は努力の範囲だが、虚偽虚飾、錯覚になると身体のみならず心の病になる。己の分量を超させようとイノベーションとかスキルアップが流行り文句になっているが、慌てて踊る、いやそうでなければと強迫観念に覆われた現代人が多くなった。


標題の「性とタバコと薬」はその緩衝材のようなものだった。
だだ。それさえも逃避するようにホドを超えている。国家や企業のシステムもそのようになった。国民は、゛指示待ちの文句つけ ゛、これはホドでなく脆弱な依頼心だ。ゆえに行き着くところを明確に知ることなく、漂流している。

また、莫大な汚職と賄賂、明け透けな性の享楽、それによって政体滅亡の歴史はあったが、民族は滅ぶことはない。侵入した元も清も間もなく同化した。日本は敗けて帰ってきたから同化しないで済んだ。その融和力と強靭さを知るには、どこか自然の循環に似た、またそれを諦観としているホドが存在している。

かつ、色と食と財の明け透けな欲望は、規律、規範を持った異民族でさえ徐々に順化し同化誘引する普遍な欲望がある。とくに好奇心と阿諛迎合の民癖があると云われる日本人が、あのまま大陸に滞留したら間違いなく民族特質は変化し同化していただろう。
強大な元や清は国土を支配したが、その性癖に基づく陋習に誘われ同化した。彼ら固有の民族風習は北京の紫禁城のなかに閉じ込まれた。歴史はその中の出来事でしかなかった。

それに比べて日本は国が亡んだら国民は途方に暮れ、飛散もするだろう。
ゆえに、ホドのもつ許容量と強靭さを考えたいと思うのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 精 二  10. 5/5再

2020-05-03 05:04:39 | Weblog



 


 毎週土曜日に改造バイク(リヤカー付き)に楽器を積んで遊びに来ていた頃


平岡精二を知っているだろうか。
戦後ジャズの草分けで、平岡精二とジャズクインテットというジャズバンドで一世を風靡したジャズプレーヤーである。
私生活は、その特異な性格とあいまってオブラートに包まれている。
映像用語で言えば実像に紗が掛かっているような人物で、業界でも『変っているヤツ』と陰口をいわれるようなところがあった。
もっとも、男のジェラシー、とくに世間の狭いプレーヤーにとっては積極的に私生活を語ろうとしない平岡のシャイで独り夢想するような童心は、なかなか理解されなかった。

そんな彼の心情を、世間は独特の創作メロディによって嗅ぎ分けた。
代表作である学生時代、つめ、あいつ、など、残像を心に焼き付けるかのような作詞を、あるときは弾むように、また苦しくも絶望を自身に言い聞かせるようなメロディーが包み込む。
それは、男が苦手とする情緒ではあるが、母を背景にした子供の強がりが、ことさら男の性を訴え、哀願に近い呻きによって表現する、そんな楽曲が素直なハーモニーとなって迫ってくる。
平岡精二はそんな残像を映した男だった。

余談だが、残像といえば、俳人鶴見俊介もそんな香りがする。
後藤新平の娘を母に持ち、父は俊英の外交官鶴見祐輔、姉は南方熊楠の研究家であり上智大学教授、鶴見和子という家族に育った俊介はあるテレビインタビューでこう述べている。
俗にいうところの秀才であった父祐輔は、成績優秀なるがゆえに常に残像を切り捨ててきた。それゆえ高級官僚になれたのだが、残像に負うところの多い情緒に潤いがない。

母はいつも後藤新平の誇りと、その為に負荷される身の処し方を、口うるさいくらい俊介に言い聞かせたという。そのため俊介はアメリカ留学と称して、母から逃避している。
それは母ならどう思うだろう、どのように行動するだろう、といった負荷のトラウマからの脱却行動であったという。
しかし、日本に帰ってくればモトの木阿弥。それほど繊細な優しさを持つ俊介の心を残像が支配していた。だが、俳句を嗜んで分かったことは、その残像がなければ作れないことがわかったという。

平岡のメロディーやその哀調ある詩には、つねに背景を感じさせるものがある。
それは、当時不良や小才の利いた若者が集っていた占領軍ベースの雰囲気や、勝者の文化に何の衒いも感じない残像を培った過去の経過を、振り切るか、感応しないのか、のどちらかを持った人々とは異なる、それは育ちの良さからくる純粋な感応や異なるものへの自然な適応力だろう。

そうだから、相手のウラ読みという狡(コス)い手法ではなく、思い量る、忖度する、そして譲る、そんな鎮まりのある沈潜思考と真の優しさを備えていたのだろう。
これでは、なかなか異性との熱交は表現できないが、彼の詩や曲に、聴くものに恥じらいに近い情緒を感じるのは、子供の頃に見た眩しかったものへの想いが、近づいてくる。

それは、幼稚園の先生や友人の母、近親の異性や学生時代の後輩の女子にも寄せる男子の春にある素直な純情であった。
それを印象付ける、静けさ、おとなしさ、内に秘めた情感、そんな表現が平岡を印象づけている。



毎週土曜日の夕刻、オートバイ好きの彼が特製の三輪オートバイの荷台に、オモチャと称するサックス、トランペット、音声多重プレーヤーを積んでやってくる。
昼ごろ六本木を出発して、東上線沿線の我が家の周辺で目ぼしい物件を探すのが土曜日の日課である。音楽教室とライブハウスを作るのが目的である。
どうしても、我が家の近所が欲しいという。
資金は、千葉にあったプライベートでつくったオフロードモトクロス用のサーキットを売却資金だという。すでに売却して「CIAエージェントに預けてある」という。
そして、その年の9月に予定しているペギー葉山との青山劇場のコンサートが終わったら取り掛かる、と。

日が落ちてから駅前のイタリアンレストランで一杯引っ掛けて、近所のスナックやアップライトのピアノが置いてある店にオモチャをもって遊びに行く。
スイングジャズからオリジナルの学生時代、つめ、などのヒット曲を面白がって演奏するが、誰一人本人だと分かる客はいない。
「作曲は平岡?とかいう人だが、もう死んでるだろう」
彼は、それが愉しくて仕方がなかった。店が休みのときは、娘のアップライトピアノで何時までも弾いている。聴き手は独りである。いま考えれば贅沢な時間だか、そのときはそれほどでもなかった。
あの『慕情』が、独りの酒飲みのために奏でられる。













「泊まっていったら」
「僕、変態性欲者なんだ」鳩のような丸いい目を笑顔に包んで冗談ともつかない言葉がついて出る。
それでは、と近所の「あたみ」というラブホテルにいくが、男一人では泊めない、という。仕方がないので、「みどり」という木造旅館に行くが、
「11時までは休憩時間貸しなのでそれ以降なら」という。
雨の中、うろうろ男が二人で宿探し。
それも「みどり」が定宿となってオートバイは我が家に預かる。

翌日は8時になると、「おはよう」と可愛いかすれ声で訪ねてくる。
駅前の喫茶店でモーニングである。
それが、あの日まで続いた。

六本木の自宅でペギーとのコンサートに備え音作りに入った。
2月の寒い頃、いつものように長電話だった。
「音楽のことで母子が相談に来て大変なんだ」
長電話はいつものように30分は喋る。

前年の正月3日
「お母さんが亡くなった」
「今すぐ行くよ。葬式の準備もある」
「いゃ もう終わったよ」

母と暮らした六本木の自宅は、いまのベルファーレの裏にある。
具合が悪くなったとき、渋谷のセントラル病院に入院した母の看病は大変だった。
男手には大変だった。兄もいたが自由が丘の彼名義の家に住んでいたが、あまり母の介護の話題には乗らない。
お手伝いと、彼の話し相手として、品川の美術商のお手伝いさんだった50代の女性を紹介した。別にその種の潤いを必要としなかった彼だったが、看護の助けになった。

その母の死は彼の人生の新たな出発だった。青山劇場でのペギーとのステージにかける彼の思いは数え切れない電話に表われていた。そして我が家の近所で音楽教室とライブハウスの夢がその後押しだった。














学びの残像

3月は肌寒かった。
増上寺の桜はまだ散るのには、まだ数日を要するだろう。
朝刊に突然掲載された平岡の死に、想起する刻は少なすぎた。
白棺の先頭を支えた。偶然となりに手を添えていたのはペギーだった。
それは、悲しむというより戸惑っていたように映った。
若かりし残像が瞬時に訪れたことの整理は、まだ時を要した

増上寺の地下にある納骨棚は整然と並んでいる。
機能的なその仏壇は、扉を開けると自動的に灯明が点灯し、香炉には電熱器には電源が入る。手のひらに入るような焼香帳は訪れる人が記帳するようになっている。
命日の前後、ペギー葉山は必ず訪れている。律儀な人である。驚くべきあのステージの追力や場面を飾るきびきびした身のこなしは、歌手というより、信頼する人間の表現として観られるのもそのためだろう。すばらしい人格である。
それは、彼が憧れ、またときとして素直には映らないような、眩しい女神に抱く童心を安心させる姿でもあったに違いない。

翌年、青森県黒石市でコンサートがあると地元の友人から知らせが入った。
ペギーは私の存在も彼とどのような関係であったかも知らない。
ステージに、贈 平岡精二より、と花束を届けた。
ペギーは冥土からの花束を、平岡とは縁もない北国のステージで贈られた。
数日して、丁寧な封書が送られてきた。
「・・・なかなか理解されることがない平岡さんを理解してくれた方がいらっしゃったこと、嬉しい・・」と。
趣味の書道に培われた麗文ではあるが、女学生の香りがするピュアな運びがあった。

次号につづく

08.7

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平岡精二とみた夢  2010 5 再

2020-05-02 04:17:54 | Weblog

        
         精二さんと夢に見たライブハウス「green door」










                     【資料写真はGreenDoorスタッフ】




あの頃

いまは店代わりしているが、六本木の交差点を防衛庁側に向かって一本目の右側の地下に,グッタイムクラブというピアノバーがあつた。
経営者は元東映時代劇ニューフェイスといわれた林由紀夫。
楽譜は読めない、といっているがスローバラードを弾かせたら界隈では一番、と僕は思っている。

 林サンとは銀座7丁目ライオンビヤホールの常連仲間で気学占いを生業にしている高井さんの、いわば上客であった縁である。
 その銀座の帰り道に、一寸いいところが・・ 場所は六本木交差点、渋谷に向かって左側の一本裏の道で、20段くらいの細い石の階段を登りきったところにザボンという名のラーメン屋がある。 その入り口右側に渡り廊下から入り口に入る小さなバーに入った。 5坪くらいの店で椅子の間を横にしてすり抜けるような配置だが、隅に薄茶色したアップライトピアノが置いてある。
当時の六本木の主流はホステスクラブ、外人バー、ミニスナック、多国籍な料理と、今と違ってどことなく落ち着いた部分を残した遊び場だった。













ピアノを背にしたカウンターで、近ごろ飲みはじめたスコッチウイスキーのシングルモルト、マッカランを傾けた。 これはチェリー酒の樽で歳月をくぐらせたためか香りがよい。 その香りを染み込ませた吐息は、女性に心地よいと勧められたせいもあるが、
なによりも喉にヒリヒリこないのが好い。 
オールドパーはまろやかで美味しいと思っていたが、このマッカランの比ではない。

妙な薀蓄をめぐらせながら心地よいBGMを聴いてると、どこへ行ったのか林さんの姿がない。カウンター越しに同伴の行方を小声で聞くと、手が塞がっているせいかなのかアゴをしゃくりあげている。 指の先、いゃアゴの先は僕の背後にあった。
振り向くと、背中合わせに林さんがピアノを弾いているではないか。
あの心地よいBGMと思っていたあの音を・・・

なにか訳の分からない部分を残しながら、かといって自然な物腰が育ちの良さを醸し出してはいたが、僕にとってはかくし芸にも似た印象であり、その芳醇な男のもてなしに弛緩した全身にマッカランが染みわたったことは云うまでもない。
この店が、彼の経営だということが分かったのは、店を出るときの店員の些細な報告にうなずく姿を見たときだった。
その後、林さんとは幾度となく六本木界隈のピアノバーをまわった。また、銀座ライオンビヤホール経由のコースになったようだった。















何ヶ月か経ったある日、六本木2号店というべきグッタイムクラブ開店の知らせに誘われて店に入った。
今度はヤマハのG2とかいう小さめのグランドピアノが小さな店を占拠するように置かれ、その周りにカウンターを設え10席ほどの店づくりである。
ジャズミュージッシャンが毎日入れ替わりで演奏しているが、普段はウッドベース、ピアノドラムのトリオだが、スペースがないためドラムはスネア、シンバルといった、ごくシンプルなスタイルだ。

ときおり、ソロピアノがゆったりとしたメロディーを奏でるときもある。
それは雰囲気に馴染むのか、それとも過去の残像のなかに無意識に存在するメロディーなのか、はっきりと判らないが、そんなピアノを弾いてくれる。

むかしはならしていたのだろう、と感じられる雰囲気のあるピアニストだった。
よくピアノプレーヤーとピアニストの違いが譬えに出るが、このずんぐりとして首が肩に埋もれたようにがっちりした体型、しかも指が太い。なによりも目が丸くて透き通っているこの演奏家は通い始めたころから僕の好みが分かっていたようだ。













彼はあのペギー葉山が歌ってヒットした「学生時代」や「つめ」、旗輝夫の「あいつ」を柔らかなジャズアレンジにして聴かせてくれた。 いや語ってくれたといっても良いほどグラスの動きに合わせて弾いていた。
客がまばらなときは、「ゆうべ、あいつに、きいたのさ・・・」とかすれた小声で口ずさんだりしている。

ウエイターは、僕がピアノカウンターに座ったときだけ、彼はその曲を弾いているという。 
互いに言葉を掛け合うでもなく、ことさら詮索する必要もないほど心地よい雰囲気に包まれたひと時がおわると、僕は「ありがとう」とだけ伝えるだけ。
そんなとき、彼はきまって目を大きく開けて小首を揺らしている。
いつも帰り際の送り曲は、テンポの速いスイングの効いたジャズが定番だ。
なにか、不思議と入ってきたときから出るまで、彼の掌のなかで気持ち好くなっている自分があった。














だが、林さんがグッタイムをたたみ、次のところに移転するまで彼の名を聞くことはあったが、別の世界のこととしてさしたる興味がなかった。
移転先はホテル六本木に近いビルの地下にあった。 周りは住宅街で左に折れると、青山墓地からガーデンプレイスに抜ける大通りに突き当たった。
当時は朝日放送があり、その店の近辺は裏通りの奥の地下という印象がつよかったが、隠れ屋といった使いみちがあった。しかも路上駐車が容易で、高速高木町ランプに入れば警察の取り締まりもなく、30分足らずで我が家に着けた。













にくいヤツ

店はスチームボートという。高級感溢れるキャビン風の造りに、お決まりのグランドピアノが入り口に向かって置いてある。 階段はガラスに囲まれ、地下構造のため2坪くらいの吹き抜けドライエリアにライトがデザインされ、地下とは思えない雰囲気があった。 客が入ってくると階段の中ほどからピアニストが見えるようになっている。

彼と僕はいつもどおりの仕草と刻の費やし方だったが、しばらく通う内に不思議なことに気がついた。
階段を下りてドアを開けると、必ずあのスクリーン音楽「慕情」が流れている。
レコードやカセットテープをスタートさせたわけでもなく、彼が「慕情」を奏でている。先客のカップルがあっけに取られているのが分かった。
「いま、ミスティを弾いていたんですがね・・・」
彼は下を向いて弾いている。しかもゆっくりと。

たしか前の店で一度だけリクエストしたことがあった。
「いまの日本は、ウイリアム・ホールデンもいなければ、ジェニファー・ジョーンズもいない」と、曲を聴きながら友人と話したことがあった。
戦場に往く男と待つ女、香港を舞台に繰り広げるラブロマンスだが、あのビクトリアピークを背景にジェニファーの惜別の涙と、あのメロディーはたとえロマンチストといわれようと残影から消えない場面だ。
日本人にもよく分かる情景であり、メロディーが場面を想起させる。













憂国の呻き

そんな曲だが、彼は殊のほか情緒がある。それは互いに言葉を発する機会だったのかもしれない。
「好いですね。当時はよかったですね」
休憩時間に声を掛けた。彼は応えた。
「おかしな世の中ですね。日本はなくなりますよ」
心中の琴線に触れた言葉だった。
彼は言葉を続けた。
「三島さんも亡くなった。慎太郎さんもがんばっているが、相手は大きい」
あえて言葉というものを発したのは、つい何分前のことだ。


浮世での色濃いかかわりがなければ零れる言葉ではないが、文士と音楽家の情緒は似てなくもない。 それぞれが趣味の濃い関係でもある。
ミュージッシャンは余り世の中の状況に反応しないものだと思っていたが、これほど直線的に意見を発してくるとは考えもつかなかった。だが、音楽家のメッセージはつねに下座からの観察に優れている、いやそうでなくてはならないと思っていたためか、驚きはなかったが、感激したといってもよい彼の姿だった。

















「ヒットラーってすごいよね」
敗戦国のトラウマか、言葉に詰まる
「すごいって・・・」
戦火の中のホロコーストや鍵十字を思い浮かべつつも言葉を繋いだ
「きっと、その評価が分かってくるが、独裁だからできた徳政ですよ。当時、金貸しが貴族や農民に金を貸していた。高利貸だよ。みんな困っていた。第一次世界大戦後にヨーロッパに侵食した国際金融支配が大きな問題となっていた。農民にとって農地は命だ。貴族は名誉が命だ。それを金利という魔物によって支配されていたんだ。フランスもドイツも農民国家だ。それを金利という魔物で支配していたんだ。それをヒットラーは3週間でチャラにしたんだ。いずれ日本もそんな風になるが、やれる根性のある政治家は出てこないよ。慎太郎さんなら理解できるし問題も分かる、心配はちょっと貴族趣味なところがある。姑息な役人舞台の役者にならなければの話した゛が・・・」

「慎太郎さんがヒットラー?」
「否、そのぐらいな意思がなければ世界史に名を残せないよ」
ヒットラーについての印象は、独裁者、ホロコースト、エバ・ブラウン、だが死の直前に、何で戦争を起こしたのかとの問いに「国際金融資本との戦いだった」と述べていることを考えれば、目の前のミュージッシャンの言葉の意味が分かってくる。
また、いずれ日本もそうなる。そのとき慎太郎さんは期待できるかと考えている。
とてつもない大きな力に立ち向かえるだろうか。かれは頭がいいし格好いいことだと思っているが、心魂のおぼろげに不安があると・・・

三島由紀夫、石原慎太郎、平岡精二、妙な取り合わせだが、香りが似ている。
実は、もう一人の登場人物がよりその香りを強くさせた。














オトコの薫り

人の縁で世田谷の伊藤文学さんという家に行ったことがある。
手持ちの職人のアドバイスだったが、丁度伊藤さんが在宅だった。午後の休憩時に伊藤さんから趣味の部屋に招かれた。二階の小ぶりの部屋だったが、調度品は西洋骨董に囲まれた部屋で、あの丸山明宏、三島由紀夫の調度趣味に似ていた。
書棚には、あのサブや薔薇族といった男色雑誌が並んでいた。ページをめくると、当時問題となりつつあったエイズ問題を語っている伊藤さんのコラムがあった。
もちろん、グラビアは柔道着をきた筋肉質の若者が己の一物を握っている写真や、男同士の擬似交接があり、薔薇族には三島由紀夫氏の褌姿や革ジャンが雄雄しく掲載されている。
伊藤さんは
「あなたは、老けホモにもてますよ」
「エヘ― フケホモ?」
「うちの店にきたら人気者ですよ」
「いや・・・想像するだけで」
たまには、遊びに来てみたらとのお誘いだったが、二の句が出ない。
「でも、男っぽい人が多いですね、その趣味は」
「女の愛し方が分からない裏返しみたいなもので、趣味というか男の体質ですね」

取り留めない縁だったが、印象的な二人だけの時間だった。優しい人だった。
最近、『薔薇族』か『サブ』が復刊するらしい。
新聞では丸山明宏氏と伊藤文学氏が復刊のいきさつを語っていた。

体育会系の青年が下半身を露出して、猛々しい一物を握っている写真が当時は多かったようだが、そういえば新宿二丁目界隈には美少年や、マッチョな男、品のよさそうな紳士が縁を求めていたような残像が筆者にはあった。
そのなかには軍団と呼ばれていたアクション俳優たちや、文壇の大御所もいた。

 休憩)

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする