陸羯南はなんというか・・・
産経新聞一面のコラム「産経抄」は署名がない
週刊新潮の人気コラムだった、ヤンデンマン氏と称する人気コラムは江国滋と聞くが、ときに、副編集長の門脇護(門田隆将)も筆を添えていた
以前、産経抄は石井英夫氏の筆と聞いたことがある
後を託すとき、何人かの候補者がある期間執筆していた。いや、そうみえた。
なぜなら、そのつど違うのだ。毎日のことと追いかけられているわけでもないが、感覚が異なった印象があった。
下手な備忘書きをしている筆者の埒外な印象だが、なにしろ何十年も産経オンリーゆえ、かつ一面の産経抄は終面までセンターを貫く門前のように見ていたために、とくに気になる変化と察したのだ。
まえに「産経元老院」とあえて揶揄したことがあった。
石井氏ほどになると全ての記者が後塵を拝すようになる。
流れを変えないように・・・
少し変えてみよう・・・
ときに時局から離れて風雅を・・・
うまく前任の観点に合わせよう・・・
それらの競争者が励んでいた、と観えたのである。
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新聞は識字率を上げる教材となる ベンガル子供新聞 「キシロチェットロ」
よく物書きと言論人は違うという。
週刊誌のように取材して、書いて、編集するという完結主義は、時として地を這う取材が要求される。あるとき門脇氏が大手社会部の部長を伴って訪ねてきた。
「うちらは十数人の完結主義だが、あんたのところは何倍の数十人の大所帯で俺たちに敵わないではないか・・」と毒づいた。
つまり、分業と体裁の監督は真実から遠くなるということだ。
「組織だから致し方ない・・・」
部長は言葉を濁した。
ただ部分を掘り下げ、それを紙面として束にしたところで総体の意志は出てこないという事だ。
「部分の算術的総和は全体を表さない」と物理学者ハイゼンベルグは唱えるが、まさにその通りである。つまり、繋げるもの、貫くものが共通した意志で束ねられなければ用を成さないということだ。
ましてや業界のタブーとなっている強圧的押し紙(販売店の講売数より多く納品する)を蓋で隠して倫理道徳を声高に唱える仕草は、まず以ってセンターが歪んでいる。
他言を借りるわけできないが、言論人陸猲南はなんと言うだろうか。
当時も教員と女給の色ごとなどがあったが、教員とて人の子、色に迷うこともあろう。それを教育の荒廃云々と大上段に振り上げる新聞のありさまを羯南は嘆いている。
つまり、江戸の瓦版や号外騒ぎのように世の騒然をあおり、己にもあるような失態をあげつらい人物を失う愚を諌めたのであるが、当の瓦版は蛙の面に小便である。
何れも細事に囚われ部分に沈殿する姿だが、第四権力が人間の情緒や尊厳まで毀損するありさまは、読者までが、証拠は?、説明責任は?、と人情薄弱な世の中をつくりだしている。しかも、思索や観照も衰え、大を以て小の言論を包み込む大手と云われる新聞社は、その行く末を憂慮しないのだろうか。
部数を争い、球団を経営したり、社名を冠としたイベントを作り上げ、正義、健康、などの美辞麗句を謳いあげることが業界を総じた姿になっている。しかも人々は騒然として、かつ分化し、一過性の現実価値と虚構なる政治に口先介入するような周知方法は、より社会の混迷を深めている。切り口を換えれば個の成果であり多面的価値感の育成と煽る。
その球団とて税制の絡みなのか親会社経費の付け替えをおこなうと聞く。赤字などと紙面で敢えて騒ぐほどもない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/63/29de5744ef80f61037794150e1c52aa7.jpg)
落ち着きが無くなり騒然とする社会の薫風であり、一面の座標とみていた産経抄のダッチロールは始まったようだ。執筆者も慣れたのか、安心したのか、ときに前任者を取り上げて褒めそやしている。
筆者も元老院と揶揄もするが、用と成す意義や矜持も以前はあった。どこの世界でも、貰い扶持、食い扶持の思案と安定願望はあるだろうが、老域まで引きずっている一部の元老もいるようだ。
願わくば、あるべき姿を取り戻してもらいたい。
「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」
知らぬはずはないと信じる。