まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

産経は権に偏し頑迷となり、東京新聞は下座観から陛下を仰ぎ見る

2016-11-28 14:28:27 | Weblog

 

 

唐突だが、いま東京新聞の部数が伸びている。比する四大新聞が低迷している。

あの元産経記者の高山正之が忌み嫌い、同列に扱う朝日と中日、西日本の各紙がある。朝日はともかく、中日は名古屋では大新聞が束になっても適わない読者数を得ている。

 

売文の輩や老生学徒が嘲る掴みどころがないからいい加減で、流言飛語に誘引される下座の庶民観ではあるが、部数の多寡を競う商業マスコミの部数をひっくるめて国民の意識と勝手に思う感覚は、権力のお先棒担ぎとして銅臭紛々する忌まわしさがある。

銅臭とは新聞発行そのものの目的を、威と収益にしているような姿の意である。

 

以前、広告読者のことを書いた。大多数をひっくるめるわけではないが、部数獲得の大きい要因は折り込み広告量にあると記した。部数があるから宣伝効率がいいと、下駄を履かした部数で架空の折り込み料を得ていたが、近ごろでは広告主もそれに気が付いて地域別に料を選別しているが、それでも部数を誇る朝日と読売の広告料は多い。

 

その読者は朝の急ぎ飯をかき込む旦那ではなく、女房の教養ならぬ愛読として折り込みチラシは視られている。一過性の情報だが、これが意外と女性のコミュニケーションに役立っている。購読の選択もテレビ番組が見慣れている、景品が多い、折り込み量が多いなど、その選択権は女房が握っているようだ。販売店もそのことは熟知している。

 

弱い者いじめではないが、産経も東京も部数が乏しいためか折り込みの量は少ない。筆者のように、両紙に「折り込みは要らない」と伝えるものもいるが、それも紙面を読む側にとってはまことにシンプルな状況がある。ついでにテレビやラジオといった音の出るものなど、寂しまぎれに見るものも無いせいか、静かで落ち着いた朝になっている。

 

購読は数十年の産経と二年前からの東京、それと情報面は毎日に似た聖教新聞が好意で投函される。いっとき赤旗日曜版があったがいまは見て(読んで)いない。

固陋な気分もある町なのか、聖教と赤旗をみているというだけで声を発すると色付けされたが、意地を張ることもなく世俗の民情として楽しんでいる。

 

その世界のことだが、産経でさえ中日をローカル紙と蔑んでいる。媚びず自信を持った筆風は、不動産屋で食いつなぎ、カジノの旗振りをするようになった産業経済新聞(サンケイグループ)と比べて、時節の捉え方や切り口が、よかった頃の産経を彷彿とさせている。

 

産経の忌み嫌う反体制風、いな反権力風と左翼風は立場の体裁ではないにしても、こと朝日に対してはことのほか辛辣である。筆者も産経の変質は自社の経済事情や組織の硬直さ、あるいは元老院と揶揄される論説畑の特殊な姿に、惜しい気持ちで煩悶していた。

それゆえ、一年前から東京新聞も併読している。

 

今年の12月23日は天皇誕生日であり、極東軍事裁判での七人の処刑の日である。

毎年のこと、棘が刺さったような気分だが、国民にとって祝日ともに鎮まりを以て考えには佳き日と云ってもよい一日だ。

 

そこで両紙を開いた感想だが、天皇誕生日に関する記事については東京新聞の方が解りやすく勝っている。要はお言葉につける大文字の標題が天皇のお言葉の要旨に沿っている。

とくに今年は天皇の歴史に対する懐古と願い、そして我が身を実直に映す自然なご撰文だった。

 

拙い大意の解だが、「私も間違うことはある、それには各々の事情がある、しかし行うべき任務と、使命がある。私も振り絞って頑張る。国民とともに深く考え、歴史に積層された事柄を想い起そうではないか。それが将来の希望につながることです」と語られた。

今では古臭いとか野暮と切り捨てられることだが、想い起すはあの教育勅語の要旨であり、国民とともに協働する誓文の趣がある。

 

産経は自社の記者の裁判事を連日にわたって一面を飾っている。古い話だが、調査して事実を報道することが記事の要だが、現地のコピペで男女関係を推測させるおまけ付きの記事で関心をひこうとした下司な問題だ。それを同業他社同様に謳いあげる珍奇な「知る権利」「民主主義」を大上段に隣国を批判している。日本でも一隅の日本人が真実を露呈しても関心は薄いが、外信でくると大新聞までががぶ飲みして、どこどこは言っていると他人事のように書きなぐる。総理の海外企業との汚職事件も然り、大量破壊兵器所有のガセネタでも飛びついて外国政府の宣伝媒体として禄を食んでいる。

 

しかも、民主主義、報道の自由、人権、が他国の援軍を紹介して盾にすれば、やむなき事情以て難儀な経国をしている韓国にとって、彼の国流の民主・人権・報道の自由を、その途上すら考慮せず、表層の言葉の印象では誰も反対できない世界的大義を唱えて圧力をかけている。

読者としては、食い扶持に関わる職業的係争にもみえるが、産経が外の賊と思っている煩悶より、時に賊となる内なる権力に向かって、しかも下世話な男女関係を週刊誌からコピペ推測して書いてくれた方が、附属性価値に飾られた権力の構成員たる人間の人品骨柄がわかり、権力なるものがどのようなものか明らかになるはずだ。

いわんや、権力を構成するであろうモノは、政治家、官吏、宗教家、教育者、金融資本家、そして第四権力と称せられるマスコミである。

 

しかも他社の瑕疵を貶めるだけでなく、我が身に切り込む胆力と見識がなくては自主更生もまままならないだろう。想い出すのは明治の言論人陸羯南が苦言を漏らした当時の新聞記者の意識についてこんなことがあった。

教員が酔って女給の尻を触ったことを取り上げて、新聞は教育の荒廃と騒ぎ立てた。

羯南は、「教員とて薄給の身ゆえ、酒に酔って女給の尻を触ったことで、どうして教育の荒廃と大上段に書かなければならないのか・・」

今どきの高級優遇でも陰に陽に、年数百人も女子生徒に尻サワリならぬ犯罪行為をして解雇される状況とは違い、当時は薄給ゆえか聖職者として尊敬されていた教員ですらこの状況であった。

 

翻って教育は国家百年の計と謳われ、制度や人事待遇など弄っても面前の教員の資質には、お定まりの定期研修や待遇改善、人事運営構成の変更などで変わると思っているのか、前提としての人物鑑定すら人権や平等の壁に遮られている。じつは教員のいう子供の人権と平等は我が身の待遇に直結する問題であり、子供が盾になっている状況だ。

 

庶民とて、国や自治体の大小の審議会、協議会に町の主だった人たちが御上御用の充て職なり、床の間の石のごとく席を占めるが、総じて問題意識も自己の意見でなく、マスコミや行政のあてがい情報の堂々巡りな、議論ならぬ談話会に終始し、ときに定例サロン化している組織もある。ご褒美は褒章なり高位役人の感状であり、さもしくも日当と弁当付きだ。

それで何が改善されたか・・・。

 

まさに、「上下こもごも利をとれば、邦危うし

末、恐ろしい・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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天涯孤児の人情と許容 10・9/4再

2016-11-26 11:15:35 | Weblog

アカデミックに考えるものではないが・・・。
人間は産む本能と備わった器官、あるいは性欲にいう男女交接の歓喜は、なかなか口舌に挙がることは無いが、まつわるハナシや五感を触発する成果物(著作、映像)は数多創造されている。人生の潤いにおいても大切なことではあるが、秘めた心情はより増幅した想像を生んでいる。

斯様にもってまわった言い回しだが、あからさまに性交の誘惑や歓喜にまつわる話題を秘めた仲間以外には話すことはない。ただ、視界に思いがけずに飛び込む異性の衣服の乱れや、誘惑されるわけでもないが勝手に妄想してしまう欲望の衝動は男女を問わず覚える程好い緩みの一時であろう。

そこまでは至極よくある秘めた情感だが、同棲、結婚、生活、離婚という状況に置かれると、飽き、抵抗、排除と動物のバーバリズムというべき理性とかけ離れた自身にも説明のつかない行動がおきる。それまでの恋慕や愛、尊敬、追従といった単純かつ素朴な情感が一瞬のうちに転化することがある。昨今は産む、育むといった人間の継続や情緒にかかることまでがそれらと衝突するように、かつ乖離するかのように多くの事件なり煩いを引き起こしている。

よく誕生した幼子を゛愛の結晶゛というが、そうなれば憎しみや排除の対象、つまり当たる対象として、あるいは己の自由の担保の障害として忌諱することがある。愛玩ペットの犬や猫もそのターゲットになる。総じて弱いものであり、他に見せる幸せ感の虚ろな慈愛の演出小道具のようなもののようだ。ブランドに身を飾ることと同様な状態である。

それは往々にして異性より同性に向けられる優越表現のようなもので、しかも相手が優越性があると、より飽きや反目、排除が昂進され、その都度目新しい更新が繰り返される。
それゆえ宿命に対する反目や弱きものへの排除が巧妙かつ陰湿に行なわれ、それを覆い隠すように表層の慈愛表現もその華麗さを増すようなる。

それゆえ表裏のギャップが自己愛の演者として止め処もない切迫感を生んでいるようだ。
それは他に心を悟られない行動として陽気さを表現し、内心においては案山子のように内外のバランスに苦渋するようになり、生活に落ち着きがなくなる。

内面を覗いたり伺いみたといっても、ことさら何を生むものではない。またそのような(考察する側の)心の動きに自己嫌悪感さえ覚えることでもあるが、浮俗のありようとしてその現象の関係性を以下の章の前段として押さえてみた。







                    





国家の衰亡を説く「五寒」(当ブログ内参照)に「内外」という、内政が治まらないために外部に危機を煽ったり、足元の政治が成り立たなくなる状態がある。家庭なり人間では、内面(内心)が治まらなくなると外に気が向かい。いや他が気になって仕方が無いという状況だ。無駄が多く整理がつかなくなり乱雑になる。そして子供は騒がしく落ち着きがなくなり、考えることが疎かになり流行ごとに追従する。そして流行ごとを競争し争うようになる。

そして、その社会なり国を衰亡させる「五寒」には、女厲(じょれい)がある。
女性が「烈しくなる」という。つよき母、シッカリものの女房ではない。「烈しく」なる。

そうなると「敬重」という、敬うことがなくなる。つまり父母、師弟、為政者、精霊などの存在を功利的、数値的な損得に置くようになる、と「五寒」では警告している。

虐待、放棄、殺人、遺棄、など、良し悪しの分別もそうだが、まるで憎しみの衝動のように幼児に向けられている。邪魔なのか飽きたのか、ペットの如く母を魅せていた、いや、゛オンナをしていた゛女性の変容は、阿修羅のような母の剛というより、゛烈゛のはげしさをみせている。

よく「男とは違い女の性欲は精神が大切」と聞くが、性欲はなにも肉体交接に限ったものではない。ジャマを排除するのもその為せることだ。ここでのジャマは、邪(よこしま)の魔ではなく肉体を分けた幼児であり、一時は狂うほど恋慕を寄せた夫であり、信頼を謳った友人である。

決して女性のみの問題とすることではないが、一体化した細胞が体外に産出されたときからどのような関係になるのか、それは鈍感化したかのような男性には感じ取れないような、こと雄か雌かの区別だが、女子の優れた性、あるいは劣性ともいえる排他性が対立するかのように、葛藤にも似た苦悩は多くの患いを発生させ、その烈しさとともに社会をも混乱させている。

それはデーター数値ではなく、群れの盲流に起きる微動が激動になる振幅がおこす衝突や、あるいは檻に入れられた子犬のけたたましい叫びが解放とともに歓喜に替わるように、常にプロパガンダに触発された安易な不平と不満に囲まれていると、゛易き゛解き放ちに充足するようになる、つまり明確な処方も無いような風、ここでは社会の「気」の噴流のようなものである。

亡羊な未来、つまり分かりにくい未来を醸し出す「気」の処方はある、整流と方向、つまり女性の、゛そもそも゛゛らしさ゛に整えることと、辿り着く道順を明らかにすることである。

男にも男の教育と習慣性が大切なことだが、女性にもそれがある。ここでも障害となるのは恣意的に使われている自由、民主、平等同権、などの啓蒙的宣伝への盲従であり、それしかないという思索と観照の狭さが問題となってくる。つまり、頭の整理より肉体の習慣化と、そこから自覚する互いの性の異なりと分担の峻別を前提とした宣伝への対応である。

小難しい理屈のようだが、オンナは女でありオトコは男であるという当たり前な姿だ。それを前提とするならば何も専業は主婦でなく主夫もあり、所帯主も同様だ。家庭も国家も効果的な運用について妨げるものはない。ただ互いの性別という袖に隠れて守られながら不平や不満を垂れ流しても劣性が際立つばかりだ。

江戸の川柳にも「女房に負けるものかとバカが言い・・」とあるが、心の自由は担保するのは貧しくとも、苛められても、如何様にも在るものだ。





                  






いまから40年前のこと、当時はボランティアという呼称が周知していなかった。
筆者は司法ボランティアという枠の中で社会資源ともてはやされた多くの若者とさまざまな施設を訪問した。服装のことを例にしても時節の違いと生活規範の変化がわかるが、当時はまだ子供と大人の峻別と、悪いことは悪いと判る明快な分別はあったようだ。

いまは、悪いことにも大きなワルと小さなワルがあり、それには多岐にわたる多くの事情を勘案した多くの論を交差させ、解決不能で茫洋な状態に迷い込んでいるようでもある。

あの時は論を恃むことなく言葉が無かった。思春期を過ぎたばかりで、まだ正邪の峻別に素朴な疑問を持ち、情緒も荒削りな若者でさえ沈み込む思いがした体験だった。
とくに何歳も違わない施設の子供たちの姿は、今どきの施設訪問、視察、慰問、とよぶ、囲いの覗きや触りとは異なる衝撃あった。またそれはその後の社会観、人間観に貴重な影響を与えてくれた。

施設の名前は失念したが千葉冨里の養護施設だった。青年司法ボランティアが小父さんさん、小母さんと呼んでいた保護司と更生保護婦人会の訪問提案だった。収容されている子供たちは小学生。生活苦で扶養できない子供や、当時の筆者の感覚ではわからなかった夫婦の諸問題による扶養不能や、数年前のマスコミを賑わしたコインロッカーでの捨て子、事情を伺えば齢わずかといえ多難な宿命を負う子供たちだった。

下着も共有、つまり自分のものはない。今日のパンツは明日別の子が穿いている。味噌汁には具が少ない。バットもグローブも自前で作っている。木の枝を利用したパチンコも器用に作っている。そして屈託のない笑顔と応答にそう年代も違わない吾が身の境遇を考え直した。それは大人の事情はともかく子供をコインロッカーに棄てる母というオンナの姿だった。ついぞ男が子供を棄てることは聞かないが、事情は共有するものだろう。

帰り際に手紙を渡された。まだ見ぬ母への手紙だった。
ただ、どうしようと独り悩んだことを覚えている。







             






その後、受任した若者もそうだった。
父は不明、母は再婚、本人は教護院、そして非行、それも喧嘩だ。
クリーニングの工場に勤め、右手の指と手のひらの境はタコが山脈のように固く盛り上がっていた。母恋しさか工場主の妻の入浴をくもり硝子越しに見ていたところを咎められ、そのまま飛び出した。恥ずかしかったと言ったが気持ちは理解した。
次は印刷工場だった。根気があったのですぐ仕事は覚えた。
盆暮れは必ず小子にお土産を持って来てくれた。律儀だった。

夏の暑いさなか急死した。発見されたのは死後3日を経たときだった。
工場主が発見した。新宿コマ劇場で歌手の舞台を観るくらいの趣味しかなかったが、貯金通帳も印鑑もなかったという。連絡が来たときは荼毘に付され工場の2階に移され、間借りしていたアパートの備品は整理され、残っていたのはダンボールに入った人形だった。それはお世話になった人の子供の送るものだった。

数ヶ月して保険会社の勧誘した女性から連絡があった。彼の階下に住む女性だった。
契約書には、もしもの時には筆者に連絡するようにと連絡先が記されていた。
相当な金額である。何れのときの結婚を計画してコツコツと納めていた保険だった。
もちろん預金もあっただろうが、詮索するすべもなかった。
だだ、縁者もいない保険の受取人の欄が気になった。
担当者が妙に躊躇しながら指し示した欄に彼を棄てた母親の名前が記されていた。
たどたどしい漢字だった。

「探し出して渡してください。叶うならお母さんと一緒に入れる墓を作ってくれるよう伝えてください」

その後は追跡していないが、それが彼の男としての母への思いであり生き様に沿うことだと思った。筆者は母を捜して逢ってみたらとは言えなかった。棄てた母への恋慕は彼にとって手のひらの異様に盛り上がったタコで充分だった。決して恨みを語ることはなかった。
そして、多くの縁を得たり人情を知って彼になりの誓いを立てて、それを誇りにした。
保険受取人、 「母・・・・」

やりきれない思いで雄の子の大きな慈愛と許容力を教えてもらった。

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省くものは 08.2再

2016-11-24 15:28:28 | Weblog


有と無は、あるいは有と無の間に存在するものは何か。

無は暗黒なのか透明なのか、そんなことを想像させる宇宙の始まりと終末は人間の思考に何をもたらしたのであろうか。

視覚から伝達される色彩は真の色なのだろうか、それとも動物の目に映る色はどのようなものなのだろうか。

宇宙のなかで質的にも量的にも、あるいは他の惑星との補いある関連性、もしくは必須の存在意義が地球にあるのだろうか。

大宇宙から観れば、芥子粒にたとえられる地球の存在のなかで方位が定められたのは遠大な時間枠で構成されている地球歴史からすればつい最近のことである。

たかだか人の思考の範囲での出来事だか、さまざまな分類が異なるものを生じさせ、宇宙に浮かぶ不安定な自動を繰り返す球体の表面に張り付くさまざまな集積の時と存在の考証という理由付けが始まった。

動物と人間も仮の分別であろう。

それは磁気と温度の比較から縦軸が構成され、包括された比較から東西の文化が意義付けられた。

そして人の織り成す人類史から発生した同種と異種の分別から、生存の証としての経年循環から特異な思想が生まれ、宗教にみるような排除と受容の決まりごとである掟が必須なこととして発生し、その同種連鎖をつかさどる共同体ができた。

また、人間は自然界に倣うように、分ける、譲り合うことを学んだ。
同時に「文明」という妙な風は、そのような素朴で純粋な倣いごとを「知」の集積と反比例するように失ってきた。
加え、数値的な計算によって大自然と対峙し、反抗さえしてきた。

人は豊潤な大地に縁を持つものもいれば、極寒極暑の荒地に縁を持つものがいる。
あえて「縁」の作用としたのは、成文化された歴史の発生以前の茫洋とした大地に人間の情(こころ)をおくことを、いま歴史から要求されているように観えるからである。

地球環境とは、そもそも人の問題を質し、言い当てて、しかも試されているのであろう。

「言われなくても解る」
またもや横柄な己を鏡に映してみたくなった。

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処世、郷の賢人は時の流れを俯瞰する 12 5/13 再

2016-11-20 10:17:08 | Weblog


゛としよりの話゛とはいうが、彼らは遠い過去から現在まで多くのことを見たり体感している。ただ、それを語るかどうか、あるいはそうすることの逡巡(思いめぐらし戸惑う)は、その年代特有の格別な味として人成りをかたち作っている。

誰でもある人生の経年だが、想い返えし独り悦にひたったり、思い残すことばかりで再び繰り返すすべもなく歳の経過に任せている人もいる。ただ、去った年を眺めることが年々増えてくることは確かなようだ。ときに自然界の循環になぞらえたり、人の心の常なるを無常として納得するが、悔しがったり、惜しかったと心の奥の灰汁を牛のように反芻することもある。いくら反芻しても苦いものは甘くはならないが、気持ちは童心に回帰したようで退悦にはホドよい時の再訪でもある。

分かったような物言いだが、そんなことでも時の経過を眺められるものだ。

近ごろの居酒屋は以前と比べてもの寂しい。変わったことは女将が未亡人になり少しシワが目立ってきた。隠そうとするのか化粧が厚くなり妙にカラ元気になっている。
常連も歳を増して酒も弱くなった。上司の苦情や政治ならぬ井戸端の噂話、だが内容が難しいのか諦めているのか、年金や消費税の話題はなく、まして嬶の話などもない。

話題のすじも昔ながらだろうが、歳のせいか呑めばすぐ酔うが腰が重く、だらだら呑んでいる。だだ。難しいことは苦手のようで、「そんなもんだ」と終いに投げやりになるが、若者は近寄らない。







いつも待っていてくれる金沢野島のトンビ






その「そんなもんだ」だが、長野県の南相木村という国道も通ってない村に色平という医師がいる。学校歴は輝くものだが、どうゆうわけかそこに診療所を営んでいる。コンビニもない交通も不便な村に着任したおもしろさと、その気概に多くの医師の卵である若者が訪れて人成りを習っている。なによりもアカデミック(学術的)でないのが好い。医療技術以外はすべてが土着的なのだ。教育も官制のアカデミックなカリキュラムでは限界が来ているのは誰でも分かっているが、その成績数値の効用は食い扶持に堕した一部の医師にはホドよい環境のためか、なかなか抜け出せない。いや問題意識もないのだろう。

色平氏はその村の有りようを「もんだ主義」として多くの機会を通じて知らせている。
いいところは、その「そんなもんだ」を学術的に研究したり、分類したり、考証し証明したりしない事だ。そのフレーズが狭い範囲であるが村の共通した合言葉のように年寄りが共有して、そのせいか元気だということだ。
朝には雲が低くただよい、鳥が鳴き空気が透き通っている。樹木は鮮やかな緑と凛々しい姿を魅せている。夜は漆黒で静寂、それが変わることなく繰り返されている。村に生まれ村で終生をとげる人もいる。都会のように便利さもなければ、競争も嫉妬もない。
日中の診療所の待合は笑い声で満ちている。多くは寿命の伸びた女性の歓声だ。

変わらぬ自然にしたがう人の営み、その気の元である元気と変わりない循環が調和して、それはまるでヒマラヤ山麓の小国、幸せ度世界一のブータンのように輝き、余すところなく大自然の恩恵を享受している。だだその順なる矩にに逆らうと自身の身体と心に潜在する恩恵の貯まりの堰が崩れ、病苦が来ることもよく知っている。かといって官制の学び舎では教えてくれなかったが、大自然の教場は彼らを厳しく、時に優しく自得させてくれた。

それに添っていれば大丈夫。それに比べて人の起こす諸問題は小さく、自然から逸れてしまったことだということを良く分かっている。だから「そうゆうものだ」と考えている。







仲間外れだがいい顔した猫だ






文明化、工業化のスピードに敢えて乗らない。来るものは自然と照らして分別する。それが瞬時に判別する能力と考えの座標がしっかりしている。また最低限の応用と活用も、都会人からすれば古臭い、未開だといわれる狭い範囲の掟と習慣が「分」の理解として置き所を理解している。

この営みを美辞麗句で、゛無理解の理解゛をしても、アウトドアだとか、田舎生活、箱庭の借景、あるいは定年になったら棲んでみたいと憧景への期待を図っても、「そんだもんだ」が理解できなければ、コンビニの隣人に逆戻りだ。

上手に生きることも人生には有効だが、たかだか努力すれば数値があがる範囲だ。ところが立派に,爽やかに生きることは年金の量や肩書や趣味ではとうてい購えない。
少量の投資でパチンコの大当たり、馬券の的中、はたまた補助金の乗数効果などは、たとえ旨くいっても後はろくでもない結果がまっているとは古老の至言だ。

かしこまつた文字に充てはめるものではないが、「そんなもんだ」という鷹揚な観察と、当然帰結する生死の計、それは自然の恩恵に逆行した現代人が無意味としてしまい込んだ、大自然に順当な ゛生きざま゛への覚えではないだろうか。

それは、たとえ有効だとしても便利さとともに誘引される社会の問題の解消に、超数的効果をあげる「人の効果ある活かし方」として倣うべきだろう。

たしかに古老は「お天道様(太陽)は観ている」というが、過去も未来も人間の所業と大自然の営みはお見通しだ。

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人が人でなく、国が国として成り得ない 11 7 25 再

2016-11-15 12:04:06 | Weblog

l



日本人とは、単に明治創成期に国家、国民として呼称された日本人ではなく、棲み分けられた地域に必然として養われた情緒を抱く人たちのことである。

また国家は複雑な要因を調和連結したもので、アカデミックに論を整理したようなことでは表現できないものである。

人、物、自然環境、変化変遷、循環、争いと裁き、あるいは要素としての伝統、民族、領土という三点を論ずるものでもない。

「人が人でなく、どうして国家が国家として成りえようか」

清末の哲人、梁巨川(生地桂林)の言行を景嘉氏によって著された、「一読書人の節操」の帯表紙に書かれている章を、身の丈も知らず座右としている筆者の眼には、現在が標題のように映るのである。

若かりし頃、世間知らずは楽しかったと少年時代を懐かしんだ。何であの時行動しなかったのかと青年期を懐かしみ切なく想ったか。壮老とみられる期に差し掛かると、妙なお節介が世の中とリンクしはじめる。

今どきの若者のように口角泡を飛ばし自説を広言したり、衆を恃んで宗教や政治団体にまぎれることも無かった。ただ目の前の親から棄てられた少年や、非行少年と選別された子供たちに向き合うのが精一杯だった。今から考えるとそのステージは下座観を養う場面だったようだ。また自身もそう見えた。
だか、心は逆だった。

映る姿は、彼らを元気付け、社会にも優しい人々がいる、若輩ながら精いっぱい紗の掛かったガードを添えて立ち直りの容易さを伝えていた。でも流されていた。

世は飽食の時代といわれ、大衆は囲われた自由の中で幸せの姿を教えられ追求した。しかしその不思議さは不平不満を増長させ、また妙な察知をおこした人々が多感多面という「個」の擬似的発揮を促され、自身の戸惑いの解決の為に、人の世とは違う「似て非なる政治」へリンク(関与)しはじめた。

それは器量も度量も物差しも無い半熟の人間たちだった。







よく明治の親爺は頑固だったという。その子供たちは頭を垂れながら半知半解の警言を聞いていた。その言は、人の心の陥るところと、それらが構成するだろう社会だった。だから結び目として天皇を必然なものとして説いた。

自由が放埓となり、少々の金や力が付くと遣ってみたくなる、いや試したくなることへの自制だった。

「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」(王陽明)
つまり、欲望と邪という「賊」の発生とコントロールだった。

しかし、世間知らずは楽しい世代だと、少々身持ちのよくなった大人は突っ走った。
政治も故郷の主だったものの務めだった。ただ民主という啓蒙思想はそれを変質させた。教育も、商いも、ノーブレスオブリュージュといったその任にあたるものまで変わった。

あの時、無力感の漂う政治は外地現状看過としてその機能を軍官吏に託した。
数値で表される軍事、経済、外交理解、で負けたのではない。あるいは明治の薩長軍閥の残滓のせいでもない、日本人が衰えたのだ。
それは「真の日本人がいなくなった・・」と歎いた孫文の嘆息でもあった。
その後、敗戦の惨禍から富への欲求という当然ながらの循環に打ち消されるように、また心中の賊を討ち漏らした。


そして若者は自身の戸惑いを解消するために、またある一群は心中の賊と同衾しながら政治に、゛若さと新風゛という、風変わりな姿をもって参入してきた。
それを大人も迎合した。だが依頼心と阿諛迎合がほとんどだった。

それさえも刺激に慣れ、飽きてきた。
そのうち、生きていることにも飽きるに違いない。




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「孫文」は歴史の必然として活かされる

2016-11-12 16:03:32 | Weblog

                    

     ≪中華人民共和国習近平主席は孫文生誕150年式典で、孫文を前面に台湾を「分裂を許さない」と牽制≫

 

恩師である佐藤慎一郎先生は、小生の拙書「天下為公」(別題「請孫文再来」)の作成中に幾度となく『必然として活かされる』と激励をいただいた。

明治の日本人と中国近代革命の領袖孫文との逸話は、いずれ遠くない将来に、登場人物の逸話とともに歴史に登場するだろう。その時にはどんな事情であれ、多くの方々に民族間における厚誼の出来事を認知し、かつ過去を顧みる縁として活かしてくれればとの発起だった。

 

人間の熱狂と偏見は、悲哀を残像にもつ民族の混乱を熱狂と偏見に満ちた観点で競って読み解き広げている。商業的売文の徒のみならず、政治に携わる選良も異なる大陸の企図を忖度してアジア友諠の苦衷な試みを錯誤の淵に追いやっている。

 

また夫々が内なる賊を抱えて外に気勢を上げ、際限なる欲望をコントロールできずに内だけでなく、その伸長は外にも難問を蓄えている。

人々は食・色・財の欲求に邁進し、蓄財の果てに国を脱出するものもいる。狡猾なる内なる賊は為政者の刃に触れないように阿諛迎合の生活に慣れ、かつ親しむように歴史に培った民風に漂っている。

 

歴史記述の多くは権力種の栄枯盛衰に彩られている。

繰り返す為政者の交代はさまざまな思想を借用して民風にも似つかわしくない様態を現わすが、人々も恣意的な政策には対策が有るとばかり面従腹背が倣いとなっている。

そのなかで幾らかマシだったのが。時に思い出す孫文だった。あの事件の時、天安門上には毛沢東、広場には学生が掲げる孫文と天下為公と大書された大布があった。

学生にとっても普段は床の間の置石なのだろうが、国父孫文は為政者でも手を出せない最後のカードだと知ってのことなのだ。

 

                      

                 中華民国台北駐日経済文化代表處 馮寄台元代表

 

その頃は、どこかの港で孫文号と名の付いた艦が引き上げられた。台湾では国民党政権の時、総統の友人である馮寄台氏(駐日代表)だった頃、ちょうど中華民国百年だった。毎年東京で行われる双十国慶祝宴は10月10日(双十)の辛亥革命の記念日だが、来賓も主催者も今までは誰一人として辛亥革命の記念のいわれ(事情)を話す者はいなかった。筆者は拙書を呈上して、「明治の日本人が献身した革命の事績を表して善きことを思い出したらどうか・・」と説いたとき、「今年は記念すべき年にあたり祝宴でもその事績を顕彰します。また資料を集めて展示会を行います」と、積極的な応答があった。代表はその通り実行した。

そして2016 11/11   孫文生誕に合わせて習近平主席は孫文というキーワードを台湾に示した。間をおかず台湾は孫文が建国した「中華民国」という称号を認めるべきだ、と表明した。堂々とした中華民国と中華人民共和国の並列意志である。

 

つまり大陸は、中国共産党は孫文思想の継承者である。だから総統就任式には民進党・国民党を問わず孫文の掲額に向かって宣誓をする政体は中国と同じ源を持っている、ゆえに台湾は中国の一部として宣言するべきだ。その一点を認めるなら条件は言わないとの表明だ。間髪を入れず台湾も「孫文先生が作った中華民国の称号を認めるべきだ」と、なかなかの知恵を働かせて応答している。

 

孫文を浮上させた第一部は相打ちだった。いずれ言葉に出したメンツもあり孫文というキーワードはいずれかの姿で活かされるが、ここで大切なことは毛沢東と蒋介石の融和ではなく、かつ過去の残像にさまざまな権力示威をみせた毛と蒋ではなく、孫文という目垢のついていない、しかも両岸から国父と讃えられている人物を浮上させたことは双方、否定できない言明であり、孫文なら収斂されてゆくのではないかとい、彼らのたどり付いた現実なのだ。

 

つまり、佐藤氏と筆者が当時描いた将来の歴史の必然なのだ。また、多くの集積された歴史事実があっての現況なのだ。

我が国においては、売文の徒や言論貴族が孫文をペテン師・裏切り者とこき下ろした。問われた筆者は「ペテン師で裏切りが巧くなければ革命はできない。ついでに浪費家、大風呂敷、女好きを付け加えれば、なお良いだろう」と、偏狭で四角四面な井戸端評論を忌避した。

 

筆者は孫文そのものの愛好者(ファン)でもなければ,後世の賛同者ではない。

だだ、明治の日本人が裏切り者やペテン師と称される人物に手玉に取られて騙されるような愚か者だったとは思いたくない。四角四面な官吏や大陸伸長を謀った軍部や追従した政治家のような、あわよくば西洋列強にかぶれ大陸の混乱に乗じて利権を漁る日本人を再び輩出してはならないと思う願いがあるからだ。

 

                     

          側近 山田純三郎    孫文             山田の兄 良政の顕彰

 

南方熊楠・秋山真之・頭山満・宮崎滔天・萱野長知・犬養毅・松方幸次郎・山田良政・山田純三郎、梅谷庄吉・後藤新平など、みな命懸けで孫文を援助し、また側近として孫文を支えている。孫文は彼の国の為政者に大きく異なることがある。それは、お金に綺麗だったことだ。共産党も初期はそうだった。だが、いまは競って財貨にまみれている。

習近平氏も汚職腐敗の捕り物で忙しいが、孫文の人物像にそれを見たとしたら賢い選択だ。

 

市場経済と建前や便宜の共産党に戸惑いを見せている状況だが、孫文の三民五権を掲げ、捕り物と合わせて整風運動を先導したら、社会は覚醒する。蒋介石も台湾逃避の真の原因は国民党の腐敗堕落だったと、子息経国と新生活運動という道徳喚起の政策を行っている。

 

                           

                     新生活運動  中世記念館蔵    

 

我が国も例にもれない。恣意的な法に守られて人事は人物を要すことなく、生涯賃金や高給担保を企図する官吏が増殖し、その不作為や職掌外排他が蔓延し、それに乗じて中央・地方問わず貪り議員が増殖している。しかも政治のピントが外れているのか、そのような内なる賊を養い外に目を向ける政策が行われている。まずは聖徳太子ですら十七条に求めた綱紀を正すことなくして政策も予算も下には流れず停滞すること必然である。

 

孫文についてはその扉を開けた。第二幕、三幕と機を見て引用されるだろう。どのように活かすかは用いるものの見識だが、浮上させざるを得なかった状況とその智慧に歴史の必然性を観るようで欣快な心地さえする。

 

まさか、国父に泥を塗ることはないだろう。

明治の賢人達も固唾をのんで見守っているはずだ。

 

※ 寶田時雄著 「請孫文再来」 kindle版 「天下為公」 参考

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男が退くとき 11 6/5 再

2016-11-09 11:26:39 | Weblog

 

「散るべき時を知ることこそ人である」と古人が詠んだが、ここでは巷の世事であるが「退(ひ)く」ことによって我欲を散らせた若者の真情を残したい

ことは男女の問題だが、その先があった。
それは世間から離れた「稼業」にいる若者の語りだった。しかも問わずの語りだった。
それは彼の七年前のことだった。
その世界でいう「足を洗った」矢先だった。

妻は十代、歳がはなれた夫婦だったが夫は板前として懸命に励んだ。真面目だった。
新しい生活への意気込みが緊張感を伴って、めきめき腕を上げた。
子供も授かった。

酔客とトラブルが起きた。手に持った包丁は道具となった。
稼業戻りは塀の中では加算される。
聴かされた年期は2年、若い妻は夫の咎(とが)を責めなかった。
そして二年間通ってくれた。男のおもいも膨らんだ。新しい生活が待っていると・・・

塀の中のトラブルは否応もないものだった。そして半年、先に延びた。
面会に訪れる妻の変化があった。
だが、喜ぶべき我が子との再会、新しい生活、待ち遠しかった。

しかし、戻る場所はなくなっていた。妻は待てなかった。
年期が延びたところで、何かが変わった。
見たものは妻の新しい生活だった。男は怒ることはなかった。いや、本当は押し殺したといってもいいだろう。いつも男はそうだった。それが男の優しさと思っていた。

男は怒りの矛先を己に向けた。ただ、断ち切れないおもいが募った。
血を分けた我が子だった。

そんな気性だから、いつも愚かな邪心が許せなかった。たとえ、悪だ、罪だといわれても貪りと邪心は許せなかった。世間は野暮だ、古臭いと嘲っても、それを通せる狭い世界に営みを持った。男は曲げられない気性がいつの間にかできあがっていた。
ことさら居心地が良い訳ではなかった。ただ、わが子に会うときのことを、いつも想像していた。それまでは・・・・。
不器用だがそれが男の生き方だった。




                   

             石にかじりついても




縁も間もない頃、男は語りはじめた。今まで他人に語ることがなかったが、どうして語ったのか、「わからんですょ」と呟く。

「男が退くときは己を捨てられるときだ」と、聴くほうも呟いた。
歳のはなれた妻、乳飲み子、己の存在、怒り狂うか自暴自棄がその常なる姿だが、退くことで大きな責めを負った。

゛女は弱いもの゛というが、それは男のマザーコンプレックスとか言葉の虚飾という。格好つけのヤセ我慢だとも。逆に、男が意志を出すべきだというが、その男が退くと、当てどころのない相手は離れる。それを相手のためと考えるのも男だと・・・

退くのは男の許容の専売ではない。海のように譬えられる母の器量と、秤の均衡を測ろうとする父の度量は、大小甲乙を論ずる類のものではない。

気性を包み込み、愛しいとおもうことは何処にもある。
深くなれば歓喜も悲哀も寄り添ってくる。嫉妬もあるだろう。
逃げるのではない、歳の差があれば、そっとしておきたいと思うのも一つの情だ。

健やかに育って欲しい、いつかまた我が子を抱きしめたい。
「その願いは叶う」と、若者に酒を注ぎながら、ふと己の人生も浮かぶ可笑しさもある。

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議員の分別 15 4/04 再

2016-11-08 13:02:06 | Weblog

金沢八景 称名寺の春




分かる人には分かる、分かりたくない人には分からない

だから喋らないと辞任大臣は言う。

一方は、「だから言うべきことを言う」と命を的に大言した。

幕末の横井小楠の言葉だが、だから松陰も晋作も龍馬も共感した。

議員では翼賛政治真っただ中、泥沼化していた日中戦を政府に問うた。

軍は聖戦の美名を・・・・、これが斎藤隆夫の粛軍演説だ。

浜田国松は陸軍大臣に「腹を切れ」と迫った。

いまは賛成しているのか、怖いのか、言わないまでも寝たふりが多い。

期待の小泉進次郎君も思慮分別はあるとみえるが、漂う閉塞感や、ときに慎みのない応答をする国会に意見は見えない。

人はさまざまと老成するにはまだ早い。

あえて我が身を切る言論は「自民党をぶち壊す」と純一郎氏から始まった。

副作用は迎合追従する議員が増殖し、官吏は暴風の過ぎ去るのを待つように軒に佇んだ。

ここに問題意識をもつ議員は少ない。対策と予算付け、そして選挙という身分保障に頭を取られている。

個々を言い募る部分考証は楽だが、国なり民の風を移すことは政治環境の整備であり、

錯誤感のない深層の国力価値を国民に涵養する基となる。

名利や票にならないことは承知しているが、それで困るのは国民の側だ。

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十年前の「瞳と音声」   07 6/19の稿改

2016-11-04 10:47:56 | 郷学

先ごろ、巷では元職だが高級官僚といわれる御人の呟きで風変りな座談が行われた
切っかけは十年前と同じ銀座のライオンビヤホールだった。
以後、月に一回筆者も交えて5.6人で準備会を始めている。
何の準備かと云えば、勉強会である。
もちろん官学制度にはないカリキュラムだが、以前、安岡正篤氏からの督励作興した会のようなものだ。
当時は中央官庁の現職や高校生や自営業者など多士が参集してもその中から代議士もでた。
安岡氏は和綴じの芳名帳表紙に「布仁興義」と記し、初ページに自署して、「これはと思う人物がいたら面会を請うて、最後に署名してもらったらよい」と渡された。

面会のあとに芳名帳を差し出すと、態度豹変して迎合する者、女房に硯を用意させ堂々と記す者、色々だったが、薄学の小僧が差し出す芳名帳の威力は絶大だった。多くは安岡氏が学問の堕落と称した附属価値に装われている老生学徒だった。まさか小僧が安岡氏の名刺代わりの身元保証?を持参するとは考えてはいなかったようだ。

そのつど情景をお伝えすると、「人物観を養うには・・」と平気な顔で微笑んでいた。
それからは同縁をたどって地方に出向くときも「あそこは豪傑が多い、気を付けるように」と云われたが、要は酒豪のことだ。
大学に行くのか??」と云った手前、社会の下座観から虚飾のエリートを眺める独特な教科を促されたようだ。

そして「郷学を作興しなさい」「それには無名の観察だ、有名は無力だ」「デモクラシー変じてデモクレージーだ」など、厳命と妙意など、先ずは附属性価値にとらわれない人物観を養うことを諭された。傍らには愛煙ピースと虎屋の羊羹だった。

その「郷学」を再復する機会が今回訪れた。
招来したのではなく、某エリートの呟きに感応した変わり者が集ったのだ。
規約は、「それぞれの良識に任せる」のみだが、掲げる名称も決まってはいない。
これが伝来した高麗の種(米)のように、津々浦々の変わり者に活かされればと思っている。

なによりも参加者は眸と音声にあの頃と同様な薫りがする。


※ ちなみに、変わり者参集窓口は、当ブログコメント欄に連絡先を記入してください。







2007 6 19 掲載ブログ

6/18 銀座酔譚が行われた

老舗ライオンビヤホールの入母屋という小座敷での無名な若者との酔譚だった。
合理を求める世の中で、一見不合理と思われる座談だったが、既存の合理性と謳われている制度や生活の繰り方の問題意識を仮作して、かつ人間に非合理な部分を今までの思考外(気がつかなかった可能性の意識)を表現した。

此の手の座談は一風特殊で、言い方を変えれば雄の子の童心を披瀝するものでなくてはならない。ことさら既存の問題を批判するだけでなく、潜在している無垢な良心によって世俗を観察するところにある。

ともあれ縁ある人間が、その縁の及ぼす触れ合いを愉しむことでもあった。
また、普段の生活において、ふと想い起こす顔と言葉の実感は、復の再会と縁の拡張を呼び起こすだろう。

集いの名称なし、さしたる取り決めも無い悠々とした集まりだが、独立した気概は何れの蘇りに功あることを予感させる。

なぜかって? 瞳と音声が心地よいハーモニーを奏でているからだ。

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