中央集権化の流れに沿った官制(文部省)の教育制度(フランスより仮借)以前の、江戸期の藩校、郷学、塾などにあった、
男女の分別はあったが、年齢混在の長幼から学ぶ倣いは、知見修得の前提として他の存在を知り、己を量り、自己の特性を知る環境があった。
その結果、幼少では「小学」、その冠として「尋常」を記し、長じて特徴を発揮する(徳を明らかにする)「大学」を学制とした。まさに和魂洋才という棲み分けられた民族が培った情緒性や規範を基にした、文明という代物に沿い、似せた国柄が構成された。
時の進行と環境の変化は個性化を謳いつつも、マクロ管理と個の集中収斂によって教育制度もその変化に対応できなくなった。要は普遍性を旗印に社会は自由と平等を謳歌しつつも、一方では人的情報の集中管理という中で、国家はどのような人間を組成するかが大きな課題となった。
簡便に思いつくのは、文明開化以来の外来の模倣だが、イギリスの寄宿舎(ボーディングスクール)、バウチャー制度など、受益者の選択に任せる、つまり官制教育の枠からの選択というより、開放より官の「規制解放」に近い提言がなされるようになった。
そもそも、誕生から死への道筋である人生なるものを耳で聴き、口で伝える、頭で考える、ことは独立した自己の学び(独学)である。その独学からすれば官制の教育制度は学校歴と称すものだが、あくまで補助機関である。
補助機関の制度や教え方、はたまた予算付けなどは官制の部分問題でしかない。
半知半解で模倣したフランスの啓蒙思想を基とした市民教育(革命後)にある、自由、平等、民主、人権、などは誰もが否定できない文字として、ときに旗印となって他人を糾弾する用として、人々の連帯を融解させ、逆に孤立化を誘引させるようになってきた。
駐在さんからの学び
それは、人の問題として分かるのだが、その「人」をどのようにして官制教育は考えているのか、いや戸惑い、困惑しているようにもみえる。彼らができるのは、制度(仕組み)と、教員の再教育、社会に問題を喚起する官制ムーブメント、そして予算くらいで手をこまねいている。
この問題とて、「いつの間にか・・」「どうにか、誰かが」、あるいは、家族に就学生がいなくなれば、人ごとになってしまう一過性の出来事なのだ。
その環境にあって、「国家百年の計・・」と、大言壮語する為政者もいるが、困れば外国の教育制度の模倣なり寸借では、官吏も忖度すらできない。
以下は、イエナプランという方策だが、これも試作、模索ゆえ、問題意識から辿りついたヒントがある。
要は、人生の考え方と、自身の活かし方を他の存在する環境で自得する、その場面づくりなのだろう。
洋の東西、悩みごとは変わりない。だだ、官域から離れて試行錯誤する柔軟さはある。そしてたとえ官が取り入れても、蟻塚になってしまったのではもとの木阿弥だ。
それより、いつから国家が教育を管理するようになったのか、童心の不思議感を導き出せなければ、独立した自己は養えない。巧く、上手に生きることは自己愛の裏面にある狡知の作用でもあると、これもフランスのロシュフーコだが、論語の国にも大人気の「厚黒学」がある。顔の面は厚く、腹黒く生きなければ財は貯まらないと。
金にかけては引けをとらない民族にはタルムードがあり、我が国にも「諺(ことわざ)」がある。
みな生きている間は,良いおもいをしたい。
要は「色(性)、食、財」の三欲が基となるが、これさえ満足すれば勉強などしなくても、いや学校など行かなくなるし、議論にもならない。つまり、この三欲のコントロール(自制)が学びの「本(もと)」となるものであり、この本を前提として知識や技術の修得がなされるものだ。
これは官制の教育では教えない。いや教員が年長として伝えられない状況がある。苛めもそうだ。苛めは悪い、しかし、考えようによっては死ぬまで苛めにさらされる。
これを試練だとか、内心の罪に対する当然の報い、あるいは、失言として辞任した政治家が「怠惰、遊惰に放埓した人間に対する天罰」だと災害を語ったことがある。これも天の苛めか。道理に合わない屁理屈は数多ある。可愛いブタや犬を、丹精した草花を、人間は好んで食べる。そちらの側にあれば悲惨なことだ。
1989 北京
隣の大国では、苛めはあるとの前提で、苛めに負けないような子供を育てるのが教育だと考えている。将来、金持ちになって見返してやる、そんな苛め返しも学びの励みとなる。
なんで官吏になる。官僚になれば、地位が昇るたびに金が入る、「昇官発財」だ。
地球の表皮には色々な種族があり、縁あって産まれた生存環境にそれぞれが棲み分けられて、国なるものを構成している。教育も環境に適したものと、為政者の恣意的目的のために刷り込み場面を作っている。
馴染まない、イヤになれば国境を越えて強靭かつ柔軟に環境に応じている。イヤでもぬるま湯につかって文句を言っている、いや聴いてもらって留飲を下げている人もいる。
「イエナプラン」単なる教育例ではない。民族の衰亡を食い止める大命題と、真摯に考えてみたい。
弛緩した官のピントの外れた施策からは、まず生まれることのない発想でもある。情緒の継続のもととなる社会(人々)の連帯と調和が根底にある、人間の生存する意義を見据え、かつ将来を憂慮した一つの施策として賢察すべき内容でもある。
それは、何を教えるか、ではなく、伝習の体験と習慣化のように思えるが、日本の近世にあった藩校、郷学、塾に似て、学び舎そのものを社会として、高低年齢を問わず、かつ既存の評価である規格化された能力さえ問わず、関係性のなかで自得を促す、まさに自己の特徴にあった実学(数値選別ではない)であった。
ここに例とする異文化のイエナプランも参考とはなるが、範とするには簡便すぎる手法だ。ドイツで始まりオランダで定着しているようですが、彼の地域では適していても、アジアでの受容はまずその結果と、似て非なる人格目標を観照してからでも遅くはない。
イエナプラン教育は、彼の地域にとっては辿りついた手法ではあるが、振り返ればその手法と成果として、明治期の近代化に活躍した世界的人物の数多輩出も、一顧の人物養成例として考えるべきものがある。
バングラデッシュ 新聞授業 良き習慣性
イエナプラン教育の特徴[編集] ウィキペディアより転載、一部抜粋
イエナプラン教育の特徴として、以下のものがあげられる。
- 学級は異年齢の子どもたちによって構成される。通常、3学年にわたる子どもたち、例外的に2学年にわたる子どもたちの場合もある。学級は『根幹グループ(ファミリー・グループ)』と呼ばれ、学級担任の教員は「グループ・リーダー」と呼ばれる。毎年新学年になるごとに、年長の子どもたちが次のグループに進学し、新しく年少の子どもたちがグループに参加する。原則として、グループ・リーダーは交替しない。
- 学校での活動は、会話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本活動を循環的に行う。会話はサークルを作ってグループリーダーも生徒と共に参加して行われる。遊びは企画されたもの、自由遊びなど様々な形態が用いられる。仕事(学習)は、自立学習と共同学習の2種類がある。催しは、週のはじめの会、週の終りの会、特別の年中行事、教員や生徒の誕生日などで、喜怒哀楽の感情を共有して学校における共同体意識を育てることに目的が置かれている。また、この4つの活動を循環的に行うために、時間割は教科別で作られず、4つの活動のリズミックな交替をもとにして作られる。
- 生と仕事の場としての学校。学校は、子どもと教員と保護者とからなる共同体とみなし、子どもが大半の時間を過ごす場として、リビングルームとしての環境づくりを強調する。
- 学校教育の中核としてのワールドオリエンテーション。教科別の学習をつなぎ、それに基づいて『学ぶことを学ぶ』ために設けられた総合的な学習の時間が尊重される。
- インクルーシブな教育を目指し、生徒集団を、可能な限り生の社会の反映としてとらえ構成しようとする。そのために、早い時期から、特別のニーズを持つ障害児らの入学を積極的に認めてきた。
また、【教育関係者が独自の個別の状況に合わせて、自分自身で応用的に実践することを勧めるものである】とも記されている。
社会の伝習学 台湾
民主やや自由を歓迎し、浸透してはみたが、裏側には放埓と孤独、くわえて纏まりのない(論は踊るが決められない)社会が、その果実として出現した。享受した人間も次代が心配になった。それゆえか自由と民主という金言の謳いを毀損せず、探し出したのが、固陋な教育界に風穴を開けることだった。ドイツは政治の動向で国家収斂に活かし、民族資質はそれによく合った。
それは為政種の意図としての収斂団結として、為政者の活かし方で民衆は他との関係に親和性を持ち、社会の調和や連帯が甦るはずだった。
しかし、含まれた意図に謳いあげられたものが、゛いつの間にか゛是非への不思議感を持ったとしても、固有の情緒性にある民族的矜持を高めることに集中し、コントロールを失ったため、たとえ良質な教育指針であっても、自省、自制の自律的意識の覚醒を起こすことはなかった。
歴史は勃興、繁栄、衰亡、破壊、、回帰、再生になるようだが、どの部分でも不思議感を持ち、是非を考える人物が出現している。つまり、「将来に起きることを想定して、いま手を打つ(逆賭)」賢人だが、ときに教育界はその賢人の出現を抑えたり、排除することがある。つまり平準値に合わない、浮俗に沿わない、など人物を輩出できない教育制度になっている。
前期重複するが、真に頭の良いということは直感力、と碩学は説くが、合理や証明を旨とする学び舎では、その能力さえ育たない。人生は独学自得だが、学歴いや学校歴は、その独学自得の単なる補助機関でしかない。
その上に立って、異文化の教育法ではあるがイエナプランを例に、我国が行う施策を考える縁(よすが)として考えてみたい。
くわえて、そもそも、いつから、なぜ国家が教育を行うようになったのかも知るべきだろう。
以下は友人の「萬晩報)の旧稿だか参考として添付します。
豊かな北海道に義務教育は似合わない1998年03月01日(日) 共同通信社経済部 伴武澄 |
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日本国憲法は、国民に「その能力に応じて等しく教育を受ける権利」と「子女に普通教育を受けさせる義務」を有することを規定している。さらに「義務教育は無償とする」考えを示している。 登校拒否は、厳密には「親による違憲行為」となる。だから悪いといおうとしているのではない。教育を受けたくても受けられないほど貧しかった時代の憲法を無理矢理続ける方が人間社会をねじまげるから、憲法の方を直したい。 ●公立教育の質低下の根元は「義務」と「無償」 いまの公立学校を無料だと考えている人がいたら、その人は相当におめでたい。教員の給与は税金でまかなわれている。国と自治体が負担を折半している。学校の施設の建設費や維持費もかかる。その費用は年間6兆円におよぶ。国民一人当たりで5万円程度だが、対象となっているのは7歳から15歳の学童である。学童一人当たり年間50万円を超える負担となっている。 本格的塾に子供をやっている家庭の年間負担とほぼ見合っていると思う。そう考えると日本という国は壮大な無駄をやっているとしかいいようがない。子供たちがいやいやながら学校へ行き、塾で真面目に勉強しているのは学校が「ただ」だと考えているからだ。私立の小中学校で凶悪犯罪が起きたという話は聞いたことがない。きっと「ただ」でないからだ。 公立学校の質低下をもたらしている根元は「義務」と「無償」という憲法の規定にあるのではないかと考え始めている。 ●塾は学校法人として認可して私学となる 日本で、大正時代に多くの中学校が設立された。筆者の郷土の「土佐中」は高知県の財閥オーナー3者が「有為の人材輩出」を目的に出資した。生徒数が1学年30人の少数精鋭だったが、授業料は公立中学よりも安かった。神戸市の「灘中」もまた同様に酒造会社の有志がお金を出し合った。京都の私学のほとんどは宗教団体が経営している。江戸時代の学問の支援者は大名だった。村では庄屋がお金を出し、町では商人が塾を経営した。教育が義務でも権利でもなかった時代は有能な人材が必要な人々が自ら費用を負担した。 中央集権的国家が成立すると、その負担が国家のものになった。国家全体が貧しかった。社会主義思想の影響もあってどこの国でも「教育の権利」という考え方が導入された。コンピューターが、ホストコンピューターの時代からパソコン時代へと大きく質的変化を遂げたように国家の在り方もいま、世界的に分権の方向にある。教育もまた国家が規定する時代ではない。 ●私立の学資負担は所得税・法人税の控除対象 また、高等教育ではサッチャー元英首相が導入した「学籍補助制度」を導入する。私立学校に国が一定の学籍を確保し、優秀だが経済的余裕にない家庭の子弟を進学させる制度である。サッチャー氏が1979年首相に就任して最初に打ち出した改革の柱の一つである。貧しい家庭の子供にも私立学校へ行けるチャンスを設けたのである。 それから公立学校では、民間企業や定年退職した人材を積極投入する。教育界は世間知らずの教育者があまりにも多い。実学の比率を高めるためにも社会で貢献してきた人材の登用は不可欠である。定年退職者の採用は、年金負担を減らすだけでなく高齢者の社会参加に大きな効果をもたらすはずだ。 |