まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

ある教育の試策について考えたこと

2019-12-31 14:39:55 | Weblog

 

中央集権化の流れに沿った官制(文部省)の教育制度(フランスより仮借)以前の、江戸期の藩校、郷学、塾などにあった、

男女の分別はあったが、年齢混在の長幼から学ぶ倣いは、知見修得の前提として他の存在を知り、己を量り、自己の特性を知る環境があった。

その結果、幼少では「小学」、その冠として「尋常」を記し、長じて特徴を発揮する(徳を明らかにする)「大学」を学制とした。まさに和魂洋才という棲み分けられた民族が培った情緒性や規範を基にした、文明という代物に沿い、似せた国柄が構成された。

時の進行と環境の変化は個性化を謳いつつも、マクロ管理と個の集中収斂によって教育制度もその変化に対応できなくなった。要は普遍性を旗印に社会は自由と平等を謳歌しつつも、一方では人的情報の集中管理という中で、国家はどのような人間を組成するかが大きな課題となった。

簡便に思いつくのは、文明開化以来の外来の模倣だが、イギリスの寄宿舎(ボーディングスクール)、バウチャー制度など、受益者の選択に任せる、つまり官制教育の枠からの選択というより、開放より官の「規制解放」に近い提言がなされるようになった。

そもそも、誕生から死への道筋である人生なるものを耳で聴き、口で伝える、頭で考える、ことは独立した自己の学び(独学)である。その独学からすれば官制の教育制度は学校歴と称すものだが、あくまで補助機関である。

補助機関の制度や教え方、はたまた予算付けなどは官制の部分問題でしかない。

 半知半解で模倣したフランスの啓蒙思想を基とした市民教育(革命後)にある、自由、平等、民主、人権、などは誰もが否定できない文字として、ときに旗印となって他人を糾弾する用として、人々の連帯を融解させ、逆に孤立化を誘引させるようになってきた。

     

      駐在さんからの学び

      

それは、人の問題として分かるのだが、その「人」をどのようにして官制教育は考えているのか、いや戸惑い、困惑しているようにもみえる。彼らができるのは、制度(仕組み)と、教員の再教育、社会に問題を喚起する官制ムーブメント、そして予算くらいで手をこまねいている。

この問題とて、「いつの間にか・・」「どうにか、誰かが」、あるいは、家族に就学生がいなくなれば、人ごとになってしまう一過性の出来事なのだ。

その環境にあって、「国家百年の計・・」と、大言壮語する為政者もいるが、困れば外国の教育制度の模倣なり寸借では、官吏も忖度すらできない。

以下は、イエナプランという方策だが、これも試作、模索ゆえ、問題意識から辿りついたヒントがある。

要は、人生の考え方と、自身の活かし方を他の存在する環境で自得する、その場面づくりなのだろう。

洋の東西、悩みごとは変わりない。だだ、官域から離れて試行錯誤する柔軟さはある。そしてたとえ官が取り入れても、蟻塚になってしまったのではもとの木阿弥だ。

それより、いつから国家が教育を管理するようになったのか、童心の不思議感を導き出せなければ、独立した自己は養えない。巧く、上手に生きることは自己愛の裏面にある狡知の作用でもあると、これもフランスのロシュフーコだが、論語の国にも大人気の「厚黒学」がある。顔の面は厚く、腹黒く生きなければ財は貯まらないと。

金にかけては引けをとらない民族にはタルムードがあり、我が国にも「諺(ことわざ)」がある。

みな生きている間は,良いおもいをしたい。

要は「色(性)、食、財」の三欲が基となるが、これさえ満足すれば勉強などしなくても、いや学校など行かなくなるし、議論にもならない。つまり、この三欲のコントロール(自制)が学びの「本(もと)」となるものであり、この本を前提として知識や技術の修得がなされるものだ。

これは官制の教育では教えない。いや教員が年長として伝えられない状況がある。苛めもそうだ。苛めは悪い、しかし、考えようによっては死ぬまで苛めにさらされる。

これを試練だとか、内心の罪に対する当然の報い、あるいは、失言として辞任した政治家が「怠惰、遊惰に放埓した人間に対する天罰」だと災害を語ったことがある。これも天の苛めか。道理に合わない屁理屈は数多ある。可愛いブタや犬を、丹精した草花を、人間は好んで食べる。そちらの側にあれば悲惨なことだ。

 

      

     1989  北京

 

隣の大国では、苛めはあるとの前提で、苛めに負けないような子供を育てるのが教育だと考えている。将来、金持ちになって見返してやる、そんな苛め返しも学びの励みとなる。

なんで官吏になる。官僚になれば、地位が昇るたびに金が入る、「昇官発財」だ。

地球の表皮には色々な種族があり、縁あって産まれた生存環境にそれぞれが棲み分けられて、国なるものを構成している。教育も環境に適したものと、為政者の恣意的目的のために刷り込み場面を作っている。

馴染まない、イヤになれば国境を越えて強靭かつ柔軟に環境に応じている。イヤでもぬるま湯につかって文句を言っている、いや聴いてもらって留飲を下げている人もいる。

「イエナプラン」単なる教育例ではない。民族の衰亡を食い止める大命題と、真摯に考えてみたい。

弛緩した官のピントの外れた施策からは、まず生まれることのない発想でもある。情緒の継続のもととなる社会(人々)の連帯と調和が根底にある、人間の生存する意義を見据え、かつ将来を憂慮した一つの施策として賢察すべき内容でもある。

 

それは、何を教えるか、ではなく、伝習の体験と習慣化のように思えるが、日本の近世にあった藩校、郷学、塾に似て、学び舎そのものを社会として、高低年齢を問わず、かつ既存の評価である規格化された能力さえ問わず、関係性のなかで自得を促す、まさに自己の特徴にあった実学(数値選別ではない)であった。

ここに例とする異文化のイエナプランも参考とはなるが、範とするには簡便すぎる手法だ。ドイツで始まりオランダで定着しているようですが、彼の地域では適していても、アジアでの受容はまずその結果と、似て非なる人格目標を観照してからでも遅くはない。

イエナプラン教育は、彼の地域にとっては辿りついた手法ではあるが、振り返ればその手法と成果として、明治期の近代化に活躍した世界的人物の数多輩出も、一顧の人物養成例として考えるべきものがある。

 

        

     バングラデッシュ 新聞授業      良き習慣性

 

イエナプラン教育の特徴[編集]  ウィキペディアより転載、一部抜粋

イエナプラン教育の特徴として、以下のものがあげられる。

  1. 学級は異年齢の子どもたちによって構成される。通常、3学年にわたる子どもたち、例外的に2学年にわたる子どもたちの場合もある。学級は『根幹グループ(ファミリー・グループ)』と呼ばれ、学級担任の教員は「グループ・リーダー」と呼ばれる。毎年新学年になるごとに、年長の子どもたちが次のグループに進学し、新しく年少の子どもたちがグループに参加する。原則として、グループ・リーダーは交替しない。
  2. 学校での活動は、会話・遊び・仕事(学習)・催しという4つの基本活動を循環的に行う。会話はサークルを作ってグループリーダーも生徒と共に参加して行われる。遊びは企画されたもの、自由遊びなど様々な形態が用いられる。仕事(学習)は、自立学習と共同学習の2種類がある。催しは、週のはじめの会、週の終りの会、特別の年中行事、教員や生徒の誕生日などで、喜怒哀楽の感情を共有して学校における共同体意識を育てることに目的が置かれている。また、この4つの活動を循環的に行うために、時間割は教科別で作られず、4つの活動のリズミックな交替をもとにして作られる。
  3. 生と仕事の場としての学校。学校は、子どもと教員と保護者とからなる共同体とみなし、子どもが大半の時間を過ごす場として、リビングルームとしての環境づくりを強調する。
  4. 学校教育の中核としてのワールドオリエンテーション。教科別の学習をつなぎ、それに基づいて『学ぶことを学ぶ』ために設けられた総合的な学習の時間が尊重される。
  5. インクルーシブな教育を目指し、生徒集団を、可能な限り生の社会の反映としてとらえ構成しようとする。そのために、早い時期から、特別のニーズを持つ障害児らの入学を積極的に認めてきた。

また、【教育関係者が独自の個別の状況に合わせて、自分自身で応用的に実践することを勧めるものである】とも記されている。

 

         

           社会の伝習学  台湾

 

民主やや自由を歓迎し、浸透してはみたが、裏側には放埓と孤独、くわえて纏まりのない(論は踊るが決められない)社会が、その果実として出現した。享受した人間も次代が心配になった。それゆえか自由と民主という金言の謳いを毀損せず、探し出したのが、固陋な教育界に風穴を開けることだった。ドイツは政治の動向で国家収斂に活かし、民族資質はそれによく合った。

それは為政種の意図としての収斂団結として、為政者の活かし方で民衆は他との関係に親和性を持ち、社会の調和や連帯が甦るはずだった。

しかし、含まれた意図に謳いあげられたものが、゛いつの間にか゛是非への不思議感を持ったとしても、固有の情緒性にある民族的矜持を高めることに集中し、コントロールを失ったため、たとえ良質な教育指針であっても、自省、自制の自律的意識の覚醒を起こすことはなかった。

歴史は勃興、繁栄、衰亡、破壊、、回帰、再生になるようだが、どの部分でも不思議感を持ち、是非を考える人物が出現している。つまり、「将来に起きることを想定して、いま手を打つ(逆賭)」賢人だが、ときに教育界はその賢人の出現を抑えたり、排除することがある。つまり平準値に合わない、浮俗に沿わない、など人物を輩出できない教育制度になっている。

前期重複するが、真に頭の良いということは直感力、と碩学は説くが、合理や証明を旨とする学び舎では、その能力さえ育たない。人生は独学自得だが、学歴いや学校歴は、その独学自得の単なる補助機関でしかない。

その上に立って、異文化の教育法ではあるがイエナプランを例に、我国が行う施策を考える縁(よすが)として考えてみたい。

くわえて、そもそも、いつから、なぜ国家が教育を行うようになったのかも知るべきだろう。

 

以下は友人の「萬晩報)の旧稿だか参考として添付します。

豊かな北海道に義務教育は似合わない

 

1998年03月01日(日)
共同通信社経済部 伴武澄

 日本国憲法は、国民に「その能力に応じて等しく教育を受ける権利」と「子女に普通教育を受けさせる義務」を有することを規定している。さらに「義務教育は無償とする」考えを示している。

 登校拒否は、厳密には「親による違憲行為」となる。だから悪いといおうとしているのではない。教育を受けたくても受けられないほど貧しかった時代の憲法を無理矢理続ける方が人間社会をねじまげるから、憲法の方を直したい。

 ●公立教育の質低下の根元は「義務」と「無償」
 教育を考えるにあたってに原点は、塾にある。昼間に学校へいって夕方や夜間に塾に通う児童はもはや日本の普通の風景である。同じようなことを二度も勉強しているのではない。学校には義務でいって、塾でまじめに勉強しているのである。塾を学校法人として認可すれば、ことは簡単である。半数以上の小中学校は存廃の危機に立たされる。

 いまの公立学校を無料だと考えている人がいたら、その人は相当におめでたい。教員の給与は税金でまかなわれている。国と自治体が負担を折半している。学校の施設の建設費や維持費もかかる。その費用は年間6兆円におよぶ。国民一人当たりで5万円程度だが、対象となっているのは7歳から15歳の学童である。学童一人当たり年間50万円を超える負担となっている。

 本格的塾に子供をやっている家庭の年間負担とほぼ見合っていると思う。そう考えると日本という国は壮大な無駄をやっているとしかいいようがない。子供たちがいやいやながら学校へ行き、塾で真面目に勉強しているのは学校が「ただ」だと考えているからだ。私立の小中学校で凶悪犯罪が起きたという話は聞いたことがない。きっと「ただ」でないからだ。

 公立学校の質低下をもたらしている根元は「義務」と「無償」という憲法の規定にあるのではないかと考え始めている。

 ●塾は学校法人として認可して私学となる
 独立北海道では、教育を受ける権利はあっても「受ける義務」までは規定しない。公立の学校までは否定しないが、無料にする必要はない。私立と公立が競争できる環境が必要だ。塾は学校法人として認可するからその日から私立学校となる。公立学校は自治体経営とし、国立は廃止だ。たしかアメリカには州立はあっても国立大学はなかったと思う。

 日本で、大正時代に多くの中学校が設立された。筆者の郷土の「土佐中」は高知県の財閥オーナー3者が「有為の人材輩出」を目的に出資した。生徒数が1学年30人の少数精鋭だったが、授業料は公立中学よりも安かった。神戸市の「灘中」もまた同様に酒造会社の有志がお金を出し合った。京都の私学のほとんどは宗教団体が経営している。江戸時代の学問の支援者は大名だった。村では庄屋がお金を出し、町では商人が塾を経営した。教育が義務でも権利でもなかった時代は有能な人材が必要な人々が自ら費用を負担した。

 中央集権的国家が成立すると、その負担が国家のものになった。国家全体が貧しかった。社会主義思想の影響もあってどこの国でも「教育の権利」という考え方が導入された。コンピューターが、ホストコンピューターの時代からパソコン時代へと大きく質的変化を遂げたように国家の在り方もいま、世界的に分権の方向にある。教育もまた国家が規定する時代ではない。

 ●私立の学資負担は所得税・法人税の控除対象
 独立北海道では、このほかいくつかの独自性がある。いまの日本では私学に対する補助金があるが、これは廃止する。子弟を私学に通わせている世帯に対して、年間の学資を所得税の控除対象とするか、公立分の一部を返還する。また、企業など法人が人材育成のため学校経営をする場合も、法人税を税額控除する。昔の律令制時代の租庸調にならい、現物納税制も一部導入するからである。国の代わりに学校経営をしてくれるのだから当然である。

 また、高等教育ではサッチャー元英首相が導入した「学籍補助制度」を導入する。私立学校に国が一定の学籍を確保し、優秀だが経済的余裕にない家庭の子弟を進学させる制度である。サッチャー氏が1979年首相に就任して最初に打ち出した改革の柱の一つである。貧しい家庭の子供にも私立学校へ行けるチャンスを設けたのである。

 それから公立学校では、民間企業や定年退職した人材を積極投入する。教育界は世間知らずの教育者があまりにも多い。実学の比率を高めるためにも社会で貢献してきた人材の登用は不可欠である。定年退職者の採用は、年金負担を減らすだけでなく高齢者の社会参加に大きな効果をもたらすはずだ。

 

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安岡正篤の「六然」と「官吏十戒」 08. 6/14. 再

2019-12-25 08:19:08 | Weblog


安岡正篤氏は数々の金言、人生マニュアルを遺している。
漢学古典を氏の曰く「活学」したものだが、「臨機応変」(機会のタイミング)
に、人を観察して言葉を発している。とくに歴史の位置づけへの考察力は、その時々の社会情勢を読み込んで大向うを唸らせる。

それは活躍の機会を発した頃に、時の内大臣牧野伸顕氏への大量の提言書簡にも観ることができる。

その論は「天子論及官吏論 」である。

戦後は数多の増幅されたエピソードによって、また一般庶民に不得意な漢籍のもつ簡潔性、かつ漢字一字のもつ膨大な情報量と多岐な意味を縦横に活用して各界要路に特異な発言をしている。

その中で「六然」がある。
隣国では養生訓の「五医」、国家の病弊を記した「四患」、共産党の四つの近代化「四化」など、数字を以って解りやすく取りまとめ周知する方法が伝統的にある。

「何々三原則」など外交上スローガンに使われるものもあるが、よく商店に「言,弐価なし」と看板が吊るされるが、゛掛け値い゛という意味だと思って買うと、次の人には値段をまける事がある。『なぜだ、弐価なしと書いてあるではないか』と文句を言うと、『弐価はないが、三価、四価はある』と、どこ吹く風。

数はその時々に変わる、なぜならそこには「人間」が介在するからだ。
西洋学、アカデミックに数字を捉えても、ゼロが「無し」でなく「無限大」として考える生き方から「六然」は考えるものだろう。

そこで碩学の「六然」から考えてみたい。

「然」は、゛そのようにしたら゛、゛考えたら゛、いいですよ、と安岡先生は考えています。確かに的を得ている漢字の組み立てです。和綴じの「孝経」を戴きましたが、「身体髪膚・・・毀傷せず」と有名な一章が在ります。これを「起床せず」と大書して寝転び、見る者を茶化したことがあります。確か、結婚前の奥さんを連れて帝大の学校祭に連れて行ったとき教室に生徒が全員寝転んでいたのでビックリした逸話があります。

これは職人の駄洒落のようなものですが、帝大の漢籍に長けた人物がやると、゛なるほど゛というエピソードになります。

例えば

【自ら処すること自然】
みずから(自発)おのずから(自然)を両在する「自(おのれ)」に問いかける
つまり、バランスである。 
 
【人に処すること同然】
観人則は地位、財などの属性を観ず、人格本性、つまり己を内観すると同様に他と処する 。変わらないこと。

【有事歴然】 
有るべくして、来るべくした縁の作用を振り返る 。 ハッキリしていること。

【無事祐然】
無事は他からの「祐(人助けの意」のお陰とみる。ゆったりしている。 

【得意鎮然】
得意があればその因を鎮まりを以って考える 。得意には、漫然することなく、自身を客観視する。

【失意悠然】
将来に希望を持って、柔軟に考える

以上は小生の「六然(りくぜん)」である

 

     

       岡本義雄(哲山)  

・・・政見(政治の方向は)金権 分限をわきまえず。巧言令色 舌禍甚だしく。 国会空転,罪、奈辺(何処)にあるのか

 

 

それぞれが己の欲の作用を制する、或いはそれを効あるように考える、「六然」は金言やマニュアルではなく、また「教わる」ことから、自己の特徴を発見して
自分なりの「学問」をすることを薦めている。  
先生は、人生の答えは自分で出すものだ、という。
ただ、その方向性と、そもそもあるべき姿を倣わせてくれた先輩でもある。その意味で「人に処すること同然」と記したものである。

然るに書斎で煙草も酒も同然だった。その方が悦しい縁が訪れるようだ。

皆さんも六然、七然、或いは「欲」や「戒」、「制」も考案して銘とし独悦すると愉しいかと。例えば「官吏十戒」などは時流に合うはずだ。
銘とするなり、律とするなり、それぞれ特徴に合わせて明記すると面白い。

    

   

 

 

ちなみに安岡氏が記す「六然」は以下の通りです

自ら処すること超然
 (物にとらわれない)
   
人に処すること藹然(あいぜん)
 (和やかに)
  
有事斬然(ざんぜん)
 (有る時は速やかに)
  
無事澄然(ちょうぜん)
 (心安らかに澄みきる)
  
得意澹然(たんぜん)
 (爽やかに、謙虚さをもって)
  
失意泰然(たいぜん)
 (堂々としている)

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中国語になった日本語

2019-12-08 15:07:17 | Weblog

中国語になった日本語

 2018年4月25日(水)
 萬晩報主宰 伴武澄

 いつのことか忘れたが、人民日報から日本で生まれた単語を外したら文章にならないということを聞いたことがある。2009年8月、東京で開催された第6回東京-北京フォーラムで全国政治協商会議外事委員会主任の趙啓正さんから聞いた日本語に関する興味深い話を開陳した。要約すると次のような話である。

 中国で生まれた漢字は日中韓で共有している文化だが、明治時代に日本で急速に発展した。日本人は次々とヨーロッパの知識や概念を漢字で表現するようになった。現在の中国語の単語の多くは明治の日本から導入されたものなのである。

 明治期の日本について「西洋に追いつけ」精神で富国強兵にのみ走ったと勘違いしている人が多い。明治初期の実は日本での学問はすべて外国語によってなされていた。お雇い外国人が英語やフランス語の教科書で日本人に西洋の新しい学問を教えていた。日本人の弟子たちが教壇に立つことになってもそもそも教科書が外国語だったから大学での授業はほとんどが外国語だった。

 初代の帝国大学法学部長になった穂積陳重が後に『法窓夜話』に書いているエピソードは面白い。「帝大法学部で日本語で授業ができるようになったのは明治18年のことである」と紹介している。英語のConstitutionに当憲法という日本語は、明治6年に蓑作麟祥が「憲法」と訳したものだが、当初は「国法」「国制」「国体」「朝綱」などさまざまな訳語が使われていたというのだ。明治という国家は西洋の新しい概念を次々と漢字に表現するという血のにじむ知的努力の集大成の上に成り立っていたことを忘れてはならない。

 「共産主義」も日本生まれ

その成果を一気に取り入れたのが明治後半に中国から日本にやってきた中国人だったのである。趙氏の話に戻る。1910年に中国語に導入された日本生まれの単語を数えた中国の学者がいた。なんと980にも及ぶということだった。「懇談会」「雰囲気」「営業中」などという概念は当時の中国語にはなかった。

社会主義、共産党、物理学、幹部、改革、革命、経済などももともとは日本語」。趙氏は「共産主義を日本人は嫌わない方がいい。そもそも日本人がつくった言葉なのだから」と会場を笑わした。

さらに新鮮だったのは「明治期の日本語の漢語の作り方も重要である」との指摘だった。「広範性」「安定性」の「」は英語の用法を漢語化したものだった。「緑化」「都市化」「自動化」などの「」もまた日本人が発明したというのだ。当時、「こんな言葉を中国人が使えるのか」という不安もあったが、「近代化のために使わざるを得なかった」。中国の知識人たちは日本で生まれた「漢語」を通じて貪欲に西洋の知識を吸収していったのだ。江戸時代まで漢字は中国の文明を理解するツールだったのが、明治以降には日本で独自の発展をし、その知識が本家に逆流したというのだから面白い。

 先駆けとなった梁啓超の『清議報』

ネットを検索中に探し当てたのが、2006年、新潟大学大学院に留学中の盧守助氏が執筆した「梁啓超の日本観-新語彙と新文体を中心に」(現代社会文化研究No.35(2006年3月))という論文である。盧氏の博士論文のエッセンスともされるもので、その中で梁啓超こそが日本で生まれた「漢語」を多く中国に紹介した先駆けだと指摘している。

 梁啓超は康有為のもとで戊戌変法に参画し、西太后一派に敗れて日本に亡命する。日本滞在中に日本の知識人と交流を深める一方、日本語訳された西洋の政治・経済、哲学に接した。これらを中国に紹介するため横浜で「清議報」を創刊し、日中が協力したアジア主義を打ち立てる必要性を強調した。

 梁啓超はもともとは漢末や魏、晋の文章を学んで技巧を好んだとされるが、「日本語」との出会いによって文体が180度変わり、平易を旨とするようになった。「清議報」に次々と日本人がつくった新たな西洋の概念が登場するのである。

和文漢読法』は中国でも多くの読者を得た一般に梁啓超の著作とされる日本語マスター本である。日本語を習得するにはそう難しいことではない。日本人が返り点を補って漢文を読んだ逆の手法で日本語を読めば数ヶ月で日本語を理解できる。明治期の日本語は漢字が多かったため、テニオハをある程度理解すれば用意に日本語が読めると紹介している。

『和文漢読法』を手にしたわけではないが、蘆氏によると、この本はたった105ページで文法に関しては22ページしかなく、日本語と中国語の相違点と日本語の特徴を簡単に説明しているだけで、そう簡単に日本語が読めたはずはないとしている。

明治期における文化について、梁啓超は「日本は維新から30年来、広く世界に知識を求めており、訳された有用な書籍は少なくとも数千種類になる。とりわけ政治学、哲学、社会学などに関する書籍が豊富で、いずれも大衆を啓蒙し、国の基礎を強化する当面の急務に関するものである」「将来我が国の学界は、必ず日本の学界と密接な関係を持つ。それゆえに、むしろできるだけ日本の語彙を多く取り入れ、将来日中両国の訳本にすれが生じることを避ける」と述べているそうだ。

中国の知識人は近代化のために西洋の知識を必要と感じていて、西洋の書籍ら新しい言葉を取り入れていったが、多くは日本語の訳語を借りたものであった。日本語から取り入れた新しい漢語を用法は、旧来の中国語の構造を一変させた。文語文から口語体へ、つまり白話文の普及である。梁啓超が「清議報」などに書いた文章は白話文の前触れになるものだとされ、後に胡適は「20年来の読書人でほとんど彼の文章の影響を受けなかなかったものはない」と梁啓超の役割を高く評価している。

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手も足も出ない危機という代物   2011あの頃

2019-12-05 13:33:16 | Weblog

  津軽は雪



数年前ハリウッドの「ファイナル・カウント・ダウン」という映画が上映された
太陽からの磁場嵐が地球を襲い、金属質のものが電気を帯びるという映画だ。
階段の手摺、電線など、まるで電子レンジに入れた金属のようにアークを放つ恐怖だが、ハリウッドはいつもこのようなパニック映画を提供するが、「デイ・アフター・ツゥモロウ」も同様に地球を襲うパニック映画だった。

共通することは数年前から騒がれていることだが、それは太陽表層の動きが活発になると膨大なエネルギーが銀河系に向かって電磁波を発散し大きな影響を与える危機だ。
「フォトンベルト」の危機ともいっている。

それは太陽の運動では常に起こっていることだが、なぜこの時期に騒がれているのか、それは人間の身体にたとえれば、地球の免疫性(防御)が衰えることだという。切り口を変えれば転化再生の節々に表れる力の引き合い、つまり一瞬の真空状態でもあろう。

簡略すれば理由は、地球の回転軸である座標の変化だという。
座標を表すには経緯がある。縦軸と横軸である。横は東西南北だが、北極、南極は交互の天地である。磁石も北極を指すとおり、そこには大きな磁力が在り南北で大きな網のような磁力ガードを構成している。これが免疫だ。

プラスとマイナスは引き合うが、ブラスとブラスは反発し合う。つまり太陽の電磁波は地球を覆っている磁力のガードによって衝突しない、避けてきたといってもいいだろう。
あの極点の周囲に表れるオーロラもその電磁波の影響だ。

問題なのはこの極点の天地が交互に移動するということが解ってきた

知っている人間は知らない人間に公表するとパニックになる、いや説明しても解からないだろうと考えているのか、あまり「科学」を伝えないし、また知らない人は、知ろうともしない思索の劣化が人の姿となっている。だからだろう、映画で知らせいている(予告)という識者もいる。

たしかに温暖化に置き換えられているが、東京湾に熱帯魚、鮭の漁は北へ移動し。昆布が取れなくなってきた。なにか北極点がカナダに移動したかのような環境変化だ。極点の移動は風の移動を変え、海流も変化する。台風、寒波、あるいは熱波となるに随い、人間が順応できなくなり、それを保全快適とするビジネスが一過性の宴を愉しむようになった。

昨年からマヤの暦が騒がれた。2012..12.23に暦が終わっているという。その日時は旧約でも似た記述があるという。東洋の暦では22は冬至である。たしか聖徳太子もこの日から数百年前を紀元としたという。余談だが天皇誕生日も23日である


お分かりだろうが、次の日はキリストの誕生日であり、冬至は暦では「始まり」である。

そして干支は「辰」であり、それは架空の動物「龍」である。
その辰の年は不思議な事が起きると干支ではいう。







    千葉  九十九里海岸の波紋



一つのハナシだが、数年前からこの日にフォトンベルトが襲い、地球の免疫が一番弱いときだと聴いたことがある。つまり電子レンジ状態である。電子レンジ状態も数時間だという。放射能は遮鉛板で防げるが電磁波はどうなんだろう。こんなことを心配する友人もいる。チリの落盤で長期間数百メーターに閉じ込められた作業員も無事に救出された。
だから深い地下がイイというが、電子レンジは中から影響する。マグマが激動したら地震や大噴火も起きるのは当然だ。

大部分は解明されていない宇宙の、地球と太陽の数千年に一度の軋轢のようなものだが、人の世界と同様に調和と連帯が歪めばさまざまな問題が発生することは人の世の倣いとしても、仕組みは理解できる。
でも、何かおかしいと皆感じている。EUの金にまつわるハナシ、温暖化と環境問題の提起、人の落ち着きの無さ、地震の頻発、いくら情報混交といわれる時代でも、これほど地球や生き物に不透明な煩いがあったことは、近代の地球史、人間史にはなかった。

数多の大戦があったが、大概は人の欲望の為すことだ。
その結果を検証し、是正も補いも行なって現在の国や社会の構造も定着してきた。
政治思想や経済の栄枯盛衰もあっても、人は歴史の流れや事象を倣いとして、どうにかすごしてきた。

あの2000年問題もその数年前から騒がれた。是正ソフトも売り出された。そしてパソコンを用いる人々は国境を越えて西暦標記に変わった。日本では元号である平成も知らぬ若者が増えた。つまり標準は西洋暦となりきりストの誕生日であるクリスマスも世界的な生活行事となった。PCのOSという起動システムも一元化された。アップルが先、ウインドウズが倣ったとか、それよりそれを使わなければPCは動かないことの方が重要だ。
そして、何事もなく2000年は過ぎたが、標準化は達成された

細分化された分野でも集約管理のための標準化がすすんでいる。
馴染めなくても、慣れなくても、その枠の中に入らなければ世界的なビジネスはおろか、近頃では役所でも申込書はネットでプリンアウトして提出を促がしている。
税の徴収も電子申告である。




 津軽新報より


ともあれ、便利さと優位性を謳って徐々に囲われ、囲いに入らなければ生活すらできない状態に入ってきている。そして時間のスピードは速まり、人は追いたてられ騒がしくなった。
じわじわと浸透する地球の危機という風評なり、隠された科学の真実は、止まることの許されない歴史の時間を意味の無いものとして亡羊の淵に追いやっている。
たしかに未来は、見ることも、観たことのない世界だ。

わき目も振らず働く蟻でも、ときおり空を見上げている。動物は皆、空を見上げる
狼は月に吠える。

昔の日本人はよく月や星の話をした。恋人もそうだ。太陽は、゛おてんとう様゛と呼んで親しみ祷った。放射能も電磁波も今は風評だが、空を見上げ鎮まりのなかで、独りで考える。

つまり、人が生きることの意味を宇宙に投影することに親しみ、倣いとしていた先人の思索力や観照力を吾が身に甦生させる良機ではないだろうか。

何ごとも盲動、騒乱は禁物だ。


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