まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

再読を請う  宰相に観る「四患」と「任怨分謗」

2017-07-24 12:22:29 | Weblog

         満州新京での家族 提供 佐藤慎一郎氏


[以下、落ち着きのない画像展開ですが意味あるものとして]



《国家に四患あり》偽、私、放、奢 (荀悦)

「偽」他人や自ずからの良心を偽る  
   逆は「正」

「私」公(パブリック)が無く、私(プライベート)心のみになる
   逆は「公(おおやけ)」 例 「天下為公」孫文

「放」心が放たれて混乱する。自身を制御できない。
   逆は「自省、自制」 放埓の「埓」は柵の意

「奢」生活が贅沢になり奢る。堕落する
   逆は倹約『一利を興すは一害を除くに如かず』元の宰相耶律楚材
 


国家の役人、政治家に、この四つ患いが生じたら、いくら素晴らしい政治でも国民に届かない。まして税が彼らの既得権益に滞留し国民を潤おさない、それゆえ荀悦は幾らシステムや制度があっても腐敗堕落した人間が統治機構に存在する以上、政治は成り立たないといっている。





小泉さんのあの頃    通称 横須賀どぶ板通り


その意味で、前記のブログにあるバングラディシュのリーダーの行為はいたずらな争論を起すまでもなく、国民に政治の在り様を具現している姿でもある。

この四つの人間の陥る精神的病弊は欲望のコントロールを喚起する宣伝(プロパガンダ)もあるが、人に規範を示す、政治家、官吏、宗教家、教師という権力を構成する人たちの堕落がその要因であることが多い。

しかも彼らは人間の尊厳を護るという政治の大命題を担う者たちである。
それが、徒に人権、平和、生命と財産などと唱えても、人の信と連帯の織り成す中での尊厳を認め合う姿には程遠い姿であり、かえって欲望の交差点における争論の種になっているのが実態である。

かつ、この「四患」が表れたらどんな立派な政策でも浸透しなくなる。
つまり、混乱と亡国である。また錯覚した民主、自由がそれを進捗させる。




               

           昔は米軍の払い下げといわれたが・・・




以下本文、

国や社会がその連帯や復元力を衰えさせると権力行使に大きな支障を生ずることがある。
とくに徴税や軍役といった国家成立の基礎的要件まで崩れると、他国の侵入や異なる思想勢力の影響を受けやすくなることは、歴史の栄枯盛衰を説くまでもない。
賢者は「税と警察の運用と執行姿勢で民情が変ると」述べているほど、民は身近な公権力の姿を唯一の政治観察として見ている。

その多くは公平、正義、民主といった求心的なアピールと、為政者やそれを取り巻く人間の発する問題とが多くの齟齬を起こしたときに、その政策全般の無謬性に疑問をみるからだ。

その無謬性の崩れる最たるものとして、衰亡末期の表層に現れる責任回避や、新規政権に擦り寄るための情報漏洩、あるいは最後の一仕事とばかり蓄財に励む汚職や便宜供与など、風向きを察知した人間の行為は古今東西それほど変りはない。




                




あの正義と民主を掲げて世界の軍事経済を牛耳っているかにみえる米国も例外ではない。
よく「アメリカの正義は健在」と、事あるごとにその威信の回復力と、慈愛に満ちたメッセージが大国の魅力として、またシステムとして多くの国々の羨望を集めている。

その動きは近年、世界の軍事警察を謳い、自由と民主を掲げ消費資本管理主義の領域拡大に勤しんでいる。しかし余りにも強大な軍事力は、処刑方法を楽しむ権力者のごとく、圧倒的な力によって、゛負ける喧嘩はなし゛の様相と、それを安逸として繁栄を貪る社会の弛緩は、まず権力とその周辺に現れてくる。
これは弛(ゆるみ)の一端である。

≪2004/10に米国下院倫理委員会は共和党のトム・ディレイト院内総務を7日譴責処分にしている。疑惑はエネルギー関連会社から2万5000ドルの献金を受け、直後にゴルフなどの接待を受け、審議中の関連法案に便宜を与えたという。選挙区割りについても政府機関に不当な圧力をかけた疑惑もある≫



              





≪ブッシュ大統領が太平洋司令官に指名し、直後撤回したマーチン空軍大将も空中給油機リース契約に絡んで、女性職員を総額320億ドルの契約先であるボーイング社の副社長に就任させ、家族もその恩恵に与っているという≫

≪国防総省政策担当のライス次官の中東担当直属部下は、機密扱いだった対イラン政策の文章をワシントンの親イスラエル団体に渡していた疑惑。アジア問題では国務省元次官補代理が国交のない台湾を無断で訪問して女性工作員と接触して関係文書の提供をしている≫

浜の真砂ではないが、先進国、世界の警察といわれる米国をしてこの有様だが、我が国のテクノクラートと称される人間にとっては語るも意味のない内政問題でもあろう。 とくに官吏はこの手の話を嫌うものだ。栄枯盛衰から人間を観察するという学問に不慣れなために、官制学校歴マニュアルの思考を、ごく平準で科学的ロジックとして吾身を覆うようになっているからだ。そこには民情と公権力を自己制御や修正の有無を観察する座標もない。






           京都 東福寺


政治家福田赳夫はその孤高の決断における自らの範として、漢学者安岡正篤氏を挙げ、自らを弟子と称して指導を仰いでいる。福田が総理として心したものは安岡氏から伝えられた任怨分謗(ニンエン ブンボウ)という文字である。

任怨とは人の恨みを素直に受け入れる、分謗は人からの謗りを他に転嫁しない。その揮毫は家宝のように大切にしているという。権力闘争の真っ只中で風雅を漂わせているような福田の清涼さに、我国の輔弼たる宰相にふさわしい矜持をみることがあった。

翻ってみるに前記の米国の内政における人物の放埓や、我が国の政治に観られる径行は、両国の指導者に類似するスィンク・アクションの間に必要な礼としての調和が、直情性格によって混迷しているようだ。

直にして礼なくば、即ち絞なり」とは隣国の故事例にある章だが、正しいという思い込みは反論を退け、まるで遮眼帯をつけた馬のごとく猛進する。その成否はともかく自らの選択肢や政治政策を締め付けてしまう恐れがあると説く。
怠惰な民情と新鮮さを亡くした公権力は等しく国民の認めるところだが、一方ではその根本に立ち向かう有能な遂行者を自滅させてしまう危険性がある。
(わが国にはそれに符合する総理、政治家もいた)

よく「六錯」といって、錯覚に囚われる弊害を説いているが、「暴を以って勇となす」「詐をもって智となす」「怯をもって守となす」「奢をもって福となす」「怒りをもって威ありとなす」「争をもって気ありとなす」、まさに錯覚だが、政治指導者の根本教養として、また観人則として必須の修学ではある




               

               安岡邸にて



宰相におきかえて、この暴、詐、怯、奢、怒、争、が大義の美名に置き換えられたとしたら、勇、智、守、福、威、気、の備わった名宰相になってしまう。この間には戦禍復興の迷走や走狗に入る知識人の登用など既成事実の後追いもあるが、これは座標の迷走を変化に対応する「決断」として評価する錯覚した見方でもある。

もし、鎮まりの精神に「任怨分謗」という陰の覚悟があるのなら、表層の騒がしさはない。しかもマスコミの到着を待って参拝するパフォーマンスは鎮護の国の輔弼とは到底思えない。不特定多数の浮俗の欲望に追従するかのような現世利益に基づく政策争論もその任の範疇だが、六錯のいう観人則の錯覚による人間力の劣化は、総ての前提を意味のないものにしてしまう危険性があるだろう。

【以上は宰相の観人則と心構えではある】

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再 大御宝と呼ばれていること 09 12/21 再

2017-07-18 13:42:18 | Weblog

 

律令の頃より統治機構は幾たびか変りそこに棲む人々の呼称もその都度変化している。民草、民百姓、国民、近頃では連帯の解き放たれた市民ともいうが、大御宝(おおみたから)と呼ばれていることを人々は知らないだろう。

原住民であろうが、渡来人であろうが、私たち日本人は大御宝と呼ばれている。
それは一時の気分で詐欺師、泥棒、になったものや、此の地で家系を繋ぐ渡来人、はたまた腐敗官吏や汚職政治家など、罪穢れを背負い贖罪に生きるものでも「大御宝」(オオミダカラ)には変らない。

西洋学的には亡羊で掴みどころの無い意味だが、これほど無形の連帯を含んだものは無い。他国に侵入し奪略の後に「赦し」を乞う、いやそれを以てオー・マイ・ゴッドと連呼する騒ぎとは異質の感覚である。


                


その「大御宝」と呼ぶお方は「様々な問題に直面したとき、その存在を思い出してくれればいい・・」と多くを語らずにいる。


そのお方は夏の暑い頃から常人では苦痛になった正座(静座)の鍛錬を怠らず、深夜寒中に執り行われるその家系の一番大切な儀式のために準備している。

お茶の稽古や武道の鍛錬である文武の芸や技ではなく、その儀式は前章にあげたこそ泥のような官吏や政治家をも抱合した大御宝のために自らの御身を祷りの中に献じている。

その祈りは国民の生命と財産の守りではない。人間の尊厳の護持である。
かといって初詣のような、゛お願い゛では無い。
大自然の恵みをうける人間界からの感謝であり、調和の前提となる「礼」、つまり「辞譲」という、゛ゆずる゛姿である。

一昔前は軍服を着せて御輿に乗せたものがいたが、その錯覚した有り様は終に人々に塗炭の戦禍を招いてしまった。ただその一過性の群行の及ぼしたものは近代化の負として劫火のなかに消滅したが、その始末には余人をもっても代えられない其の方の巳を挺した行動が穢れを排している。

そのありようは「所有」という私欲の及ぼす姿はなく、迎合と卑屈が入り混じった一部の人たちの性癖にある嫉妬、覗き見的観察に晒されても微動もすることの無い徳威を護持している。


             



かといって、浪費税金を払え、票をくれ、感謝しろ、とは発しない。

もちろん、家内(いえうち)の事など語らず無私を貫いている。

そんな人から「大御宝」と呼ばれている人々は、時折その絆のあるを忘れる。

でも『その絆さえ見えなくてよいものだ・・』

いつも、そう応えが返ってくる。

確かに「一人を以て国は興る」というが、大御宝にとっては倣うべきお方だ。

とくに高位高官にあるものは大御宝と呼ばれて恥ずかしいことは出来ないはずだが・・・

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石原慎太郎さんへ ゛日本人とは゛  09 9(再)

2017-07-14 07:01:27 | Weblog




                東京市長 後藤新平

2009年に石原慎太郎氏のことを書いた。

都政に無関心でも人は慎太郎さんに期待していた。

その後を見れば、あの浮かれ調子が猪瀬.舛添を生んだ。

あの時、筆者は天邪鬼とか変わり者と嗤われた。

公人としての見方を再度、振り返ることを提言したい。

 

 

 

 

゛日本よ゛とは

産業経済新聞、略して産経新聞の月曜日の一面は著述業を生業として、一方東京都知事として衆目を集めている石原慎太郎氏のコラム、「日本よ」今回は「現憲法の歴史的正当性」と題して健筆を振るっている。
゛日本よ゛は日本及び日本人に対する問いであり、氏の謂うところ意の披瀝である。

一昔前は、タレント、モノ書き、僧侶、女優、大学教授、とくに映像や誌面に登場する有名人を口説き落とし、今は無き選挙制度である参議院全国区の候補者として各政党はその確保にしのぎを削っていたことがあった。ナルホド彼ら政党にとっては愚かな民、されど権利を有する厄介な人たちであろう。

石原氏も時の総理佐藤栄作氏や妻寛子さんのおぼえめでたく自民党候補として出馬し、最高点で当選している。もちろん弟裕次郎氏やベストラー作家としての印象が有権者を突き動かした最大の要件であったことはいうまでも無い。

表立つたエピソードとしては日中友好交渉に疑義を唱え自民党若手が集った青嵐会が有名だが、その後は弟の病気のために視察先から自衛隊の水上哨戒機をプライベートに使用したとか、テニス事件もあったが、゛慎太郎さん゛のやることだからと生真面目に構える側が、まるで四角四面の分からずやのように自問自答する妙な許容を働かせる人物でもあった。

その青嵐会も浜コウこと浜田幸一、収賄で逮捕された中尾栄一、不明自殺した中川一郎、あるいは新宗教の取りまとめ役など一匹狼的議員の集いだった。
会議では机をひっくり返すは、血判状を作るなど、勇ましげな人たちだったが、政治資金源については公明正大とは思えない議員たちだった。

慎太郎さんも最近では親子揃って焼酎のみには垂涎の的「モリ・イゾウ」を土産に貰ったとマサカの疑惑を掛けられている。政界ではレンガやブロックといわれる現金一千万がスッポリ入る寸法らしい。

しかし、それでも「慎太郎さん」だ。
それも是も霞ヶ関のドブネズミと揶揄された官僚や、既得利権の族議員に成り果てた連中からすれば、掃き溜めの鶴のような爽やかさが有ったためだろう。
趣味はヨット、著作の題材は青年の破天荒生活を格好良さに、しかも理解しなければ遅れモノのように錯覚させる浮俗カルチャーの創造力があった。




              






口舌は敢えて左右を問えば右風だが、孤高の貴族的趣味が見上げるような雰囲気として庶民が勝手に増幅するせいか、カジノやオリンピックといった下座観の希薄な打ち上げも、はたまた、゛慎ちゃん゛のすることだからと看過してしまうようだ。

ことのほか、゛慎ちゃんファン゛は多いようだが、その慎ちゃんが、果たして庶民のささやかな希望、つまり真の爽やかさを政治という舞台で演じてくれているだろうか。
その姿とは、勤勉、正直、礼儀、忍耐にある「教養」の「教」の部分であり、四角四面の人格、品格論ではなく、辞譲の端である「礼」の在り様である。

欲望の交差点である議員である頃はまだしも、いまは大統領にも擬せられる自治体の首長である。いつまでも選挙支持者に与する選民意識ではなく、民情を俯瞰できる登覧の位置に立たなくてはならないだろう。





              






今どきの野党、与党と色分けしても貰い扶持根性に心底染まった議員、官吏の戯言に対しての威勢のよい語り口調は、いずれ阿諛迎合を従順と錯覚した封建領主の末路を見るまでもないだろう。またその危険性はあるし、当の慎ちゃんも栄枯盛衰の歴史観を鏡として観ていると思うのだが、ことは観人則の座標に在り様だろう。

どうも、皇居から離れれば離れるほど、その「節」は緩慢になってくるようだが、都政も内藤新宿に移って豪奢な居を構えてからは、その傾向があると感ずる。
組織や人の劣化は「奢」と「倹」によく表れる。また灯台下暗しもあるが、あくまでローカル都政の扱いしか受けず、マスコミの視点から外れた悲哀を打ち払う威勢の発露を感じざるを得ない。

その趣は、首長の慎太郎さんからすれば税収の思惑だろうが、泥臭い競馬、競輪、競艇よりカジノのほうが彼の質感からして合っているようだ。一時最上階でその筋のイベントがあったようだが、鎮まりの沈考など似合わないのも慎ちゃんらしい姿だ。
オリンピックや絵画芸術も彼からすれば元気付けと民度の向上になると考えるだろうが、江戸風情からすれば、゛時節柄も弁えず、ホドのない野暮な馬鹿騒ぎ゛もしくは一時の大尽遊びと思っているのか、かといって天下の慎太郎さんのこと、小声で、゛どうなんだか゛と高をくくって観ている昔のタニマチ気分が大勢であろう。

「その金はどうするんだい」との問いには一例をもって考えてみたい。
慎太郎さんになって変ったこと、つまり面前に感ずる権力の風向きと強弱の関係である。

先ずは税だが徴収がことのほか厳しくなった。税吏は「他の人との問題もあり、当然徴収するべきものだ」と。庶民はまさにグーの根も出ない応答だ。
ところが官吏も慎太郎さんが知事になった途端、「軍は竜眼の袖に隠れて・・」といわれたとき同様、妙に高飛車にかつ自身を漲らせている。

恐る恐る退職まじかの職員に聴くと、「ノルマが厳しくて毎日予定行動を詰問され、皆さんも大変ですが、私たちも凄い重圧ですょ。上の人間同士の面子ですよ」




              





そういえば銀行員が金貸しセールスに来たことがある。

「何故、ウチなんかに・・」

「いゃ、有りそうな地主の土地持ちさんは差し押さえが多くて」

「税金、払えないから?」

「それもあるが、分納していても額が多いと、一応、担保として抑えている」

「銀行担保でアパートを建てた人は、期限の利益喪失で全額返済を迫られるが・・」

「それで、担保としての差し押さえを避け、税金を払うためにローン会社や、一時の高金利に手を出すんですよ」

「そういえば・・総量規制で貸し所がなくなった銀行は保険会社と組んで変額保険を売り歩き、破綻承知で相続税対策を謳って60万人12兆の焦げ付きで親戚保証人が皆、悲惨な目にあっている」

「確かに税の取り立ては異常だ。固定資産税の負担は地域の長(おさ)の余裕を亡くすこともあり、地域の自助や落ち着きも失くしている。しかも土地は売るか、ローンでアパートでは行き着くところは分かるね。政治の先見とはそこを見るべきだ。闇雲に公平だとか、義務を徴収の切り口上にしても、納税者側の事情はすべて言い訳になってしまう」











           

        初代総監 川路大警視





「そういえば、警察も自治体の予算だが、石原さんは副知事に警察官僚を選んでいる。また外形税で争った銀行の向こうを張って新銀行を作ったが、責任者はトヨタ自動車出身、今期の副知事も小説家仲間の猪瀬氏が選ばれている。どうも、観人則(適材の人物観)があるように観えないね

期待の熱狂とほとぼりが過ぎた後、また都民がその突破力の方向性に戸惑いを抱いたとき、どうも切り口は物珍しいが、人の上に立って世を治めるための座標の作り方に実直さが窺えない、あるいは狡猾な部下に翼賛的議員、縁者をも配下に従えて、゛どこが悪いんだ゛と言い切られても誰一人諫言するものが無いくらいの雰囲気がいつの間にか醸し出されている。

つまるところ、ことの良し悪しを理屈こねることではなく、慎太郎さんに期待するものは小泉ワンフレーズのようなものではなく、また新銀行の出向都幹部の言い訳会見を云々するものでもなく、貴方の姿に童のような素直さと純粋さを見たいと願っている。
格好悪くてもいい、都民いや、゛日本よ゛と敢えて問いかけた問題について、慎太郎さんなりの解決意思を下座に向き合って語って欲しい

つねに鏡に映す己の姿は、ヨットを繰る颯爽とした慎ちゃんが、その爽やかさと清々しさという言葉をなくした世界に対して何を具現するかの期待だ。オリンピックやマラソンはたまたカジノではない。貪官や素餐議員のように真新しい防災服を着せられて大名視察する姿と同様になった、慎ちゃんの黄昏を都民は見たくないだろう。
慌てずとも湘南の海は待っている。

゛日本よ゛確かに言い得て妙な表題でもある。

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安倍君に比す、面妖と音声と眸

2017-07-01 09:29:49 | Weblog

             
              山田良政




いかがわしい人相学とかいう「詐学」の類ではない。

実利として人物を「瞬観」することは、通常行なわれる様々な人を察する作業を省くことにもなり、はたまた煩雑な要らぬ情報や、人格とは相容れない附属性価値に翻弄されて、矢鱈に他を整理箱のごとく割り振りする愚から放たれると考えるからである。

「実利」それは浮俗観念にある財利や名位ではなく、利他の増進に役立つ人物として、あるいは「利は裁制」にいう、己を高度に自制する「賢」昇じて「聖」をそこに観る「観人」の「則」でもある。

お節介な心配事のようにみえるかも知れないが、どうも天邪鬼なのか、ワンフレーズを大声で唱える人をみると気になることがある。

昔、アジテーターといわれた学生運動のスピーカーや政治家の街頭演説だが、笛吹きの如く、人を惑わすように聴こえたのは己の思索の浅薄さでもあったのだが、アジテーターの声と人相と昂揚した姿にどこか違和感が感じられた。

つまり「聴く」だけではなく、「観る」ことでの違和感だった。

一昔前は明治のオッペケぺーで一斉を風靡した川上音二郎をはじめとして流れるような演説は演説家そのものが人々の娯楽であり、怨嗟の代弁者であった。

オッペケぺーは囃し言葉であるが、自由民権を謳い当時の官や政治家をストリート演奏のように歌っている。小泉さんやオバマさんのようなワンフレーズではないが、それは明治人は思索と観照力があったからだろう。ただ残念ながらお上への信頼が阿諛迎合となる姿は、いまの国際金融資本を操る背後にトラウマとなった歴史に明言できない人々に似ている。「強欲な金融資本家・・・」そこまでである。

JPモルガンのときから政治は資本家の僕(しもべ)になった彼の国の歴史は、政治の理想は言葉に踊るしか表せない状態になっている。






翻って米国大統領の就任式はワールドカップに比すくらい世界中の視聴を集めた。
印象に残ったのは「アメリカ国民」でなく「市民」と唱えたことだ。
確かに民族の長(おさ)である国王、皇帝などが、゛民主゛゛解放゛に先導された市民が封建、専制は悪だとのシュプレヒコールによって打倒され国民から市民になった。二十世紀は多くの長が吊るし首や断首、放逐された。

ちなみにフランスの革命政府はカトリック色が強い暦を変えている。時間と記された歴史の書き換えを試みている。いつの間にかわが国も西洋暦に馴染んだが、先ずは暦を変えることから情緒と歴史の転化を試みるのは今も同様である

そして市民から選ばれた政治家が奇怪な選挙手法で議席を占め、多くは献金など選挙資金の多少で当落が決まるような市民主権システムが数多の国に出現し、それこそ民主主義だと選挙イベントが繰り広げられるようになった。

国の伝統に括られてはいるが、国家の大綱、綱維などは有るも知らず、夫々特異ながら民族の情緒性などは野暮とばかり、豊かさ、幸せ感の平準化により、まるで「一生一世」という切り刻まれ断絶した家族、国家が進捗した。





   ケネディー                ウィキぺディアより

ケネディが「国家に何が出来るか・・」などの名言はその前段にある「国家がなにをしてくれるか・・」戻ってしまうような心地よい「市民」ではある。
長を倒し、国家を融解し平準化し、複雑怪奇な社会の群れとなった長のいない市民には調和と連帯を必須なものと考える言葉はあるが譲り合う行動は多くを望めない。


ケネディー録参照 ウディベキアより
『・・アメリカは多くの国家および背景の人、そして人は皆平等に作られたという原理によって設立されたことを訴え、ケネディはアメリカ人がみな彼らの皮膚の色にかかわらず、アメリカで幸福な生活を楽しむべきであることを明らかにした。この演説の中でケネディは人種差別を単なる憲法や法律上の問題ではなく、「道徳的危機」である』と断じた



わが国も「個性の発揮」という美名の中、自由と民主と平等という添加物をうけて人々の連帯と調和が乏しくなった。家族も地域も架空な幸せ感を追い求め、その材となる官制学歴、名利、狭い範囲の成功価値を獲得する為に、止め処ころの無い欲望によって茫洋な姿を映している。

数多の国家を融解させ、思索観照の元となる情緒を無味乾燥にして「個の市民」が出現した。心に精霊も無く上滑りした宗教運営者の言は、現世利益を唱え群盲のような市民の依頼心を利用し、集約管理に似た一種奴隷化の進捗を促している。

何のことは無い、国家を融解させ異なる手法で市民を管理しているだけだ。
その手段は、金融ローン、エネルギー、軍事力、巨大化した宗教などだが、長のいない市民には抗する力も亡くなっている。また唯一心に秘匿できる精霊のありようも、科学、合理に世界によって駆逐された。

新たな「長(おさ)」とはこの様な者だ。
新しい面妖と音声、そして眸、市民は今までの刷り込み印象を新たな姿として勝手に描き出す。
あくまで空想、夢想の中で・・・







洋の東には「壷中、天あり」「暗闇に一途の光」そして諦観というべき独りの鎮まりがある。また「無財の力」を信ずる心もあり、だからこそ智恵と工夫がある。

指導者の面妖、音声、眸、そのバランスの如何で表層の世の中は変動するが、とくに救世主のように登場したなら尚更のこと、錯覚しかねない表層だ。此の期では今こそ深層の国力を観る機会だろう。

ただ、「人が人でなく、なんで国家が国家として成りえようか」と喝破した清末の読書人(知識人、賢人)梁巨川の意味を前提としてだが・・・

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