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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

棲家は欧州から米国、そして利によって同化する  18 再

2022-11-23 15:39:46 | Weblog

管理人の棲家は欧州から米国、そして連衡へ 国家を超え、自由を求めて

 

グローバルゼーションの喧伝が定着すると、次の手順として収れんが始り、独裁という従来の概念に似て非なる目に見えない収束が起こってくる。

しかし、為政者あるいは管理人が、人間なるものの厄介な存在を欲望喚起を用として群盲のように仕立てても、一方では異なるものへの埒外な欲望への欲求は、従前の疲弊再興、不便から便利、貧困から富裕をスパイラルのように転回させる従前の管理方法では収まらない状況が発生している。

それは思想を看板にしては経国できない状態が数多の国なるものに起きている。宗教も然り、経済も然り、大衆が偶像化した財貨への欲望は管理人によって固有の財貨発行権すら無効とし、為政者の執る政治なるものは、管理人のルールに収斂された厄介な国民なる大衆の欲望の交差点でウロウロするようになってきた。

まさにキャッシレス化の功罪ではあるが、一過性の利便性によって進化の罪は覆い隠されている。

むかしは管理人を羊飼いとも云った。群盲となった羊を追い立てる犬は、吠え、誘導した。羊は管理人を独裁とは思わない。与えられることに慣れ、行く末を想像することもなく、目先の餌を競い、押しのけ、それが羊の労働だった。そして自由に走る放埓から、埒(囲い)内での眠りについた。それが自由で安全な環境であり、犬は満腹に誘う先導者と理解していた。

 

 北京の友人作

以下、旧稿ですが・・・

自由は国家や分別された機関のカテゴリーにある自由感覚と、それから解き放たれようとする自我自由がある。とくに古代文献に記されている土地、つまり固定資産を財として持つものと、その圧政や宗教的抑圧からの逃避が、移動性を生み、つねに流動したものの蓄財法を民族の陋習まで結びつけた民族は、よりその蓄財のグランドを、゛己の自由゛に適したグランドとして、財に似て非なる価値を抱くアジアの一隅に捜し求めた。

 

とくに、国家の管理するシステムが硬直し、あるいは国家として存在するに前提となる税務執行の恣意的な国柄には、その自由と民主というプロパガンダによって大衆の欲望に順じて弛緩したシステムを要求(例 対日年次要望書)、達成しつつ、自らの自由グランドを構築している。

また大衆はより自由という結果に到来する固体分離された孤独の恐怖から、より無定見な放埓に流れ、終には弛緩した社会を構成して、逆に管理された安住を捜し求めるようになる。

砂民ともいわれるものが、曲りなりに国家の態を成す凝固の触媒となった人情と財の感性を権力維持の手法とした恐怖と監視の緩みから、独裁専制からの開放、いや民癖を知り尽くした権力によって、放逐に近い策で解き放たれた。それは無策の策といったものでもある。そこには歴史的には法治では立ち行かないしたたかな民情に加え、民生の安定制御を司った習慣、掟といった陋規の崩壊が、よりその進行を早めている。

 

しかし、その触媒となる財貨、人情には変わりなく、返ってより自由な海外逃避に保全の途を抱くことが多いようだ。とくに権力に近いものたちの子弟、親族にその傾向が強く、国家に責任を持つ、つまり愛着の前提にある国家、社会の連帯意識の欠如は、外的進入によって易織が変ることの無常観、諦観が染み付いている民族の悲哀でもあるが、昨今騒がれているグローバル経済には取ってつけたようにピッタリと呼応する民族でもある。

 

つまり、翻ってみるに、我国に観られるおんぶに抱っこの限定的自由獲得は、もらい扶持、食い扶持の政治家、官僚の公徳心欠如によって、より増長した社会を作りだし、外部から見れば民主と自由の大義を吠えられれば、牧羊犬に追われ群行群止する家畜のように見えるだろう。

実利として役に立たない官制学歴、軽薄な金銭価値、狭い範囲の兵隊遊戯のような官位褒章の執着など、人間の作為として行う経国の要諦を見失った似比独立国家のように時代に滞留している。

 

 

         弘前城公園

 

上海におけるサッスン財閥の繁栄は、大陸における財と情報の浸透性が共通価値の中で容易に行われたことを実証している。それは色、食、財の欲望に正面から向き合える民族と、タルムードに裏打ちされた財貨への欲望価値と偏在する世界観の普遍化への欲求が、あまりにも似ていることに由縁する民族の悲哀にも似た類似性でもある。

 

宗教的にも、あるいは権力の固定維持から統治仕法となった冠位を忌諱し、却って身分の棲み分けを強靭なシンジケートに変え、宗教的賎業であった金融を、貴族の資産運用や戦費調達にかかわる金融為替を生業にした人々は、地域間の国力差異、紛争時の軍費としてその使用料、つまり金利によって権力者の喉もとさえ押さえつけるようになった。

その意味で戦争は破壊ではなく、絶好の生産機会であり、促したり誘発させることによって生ずる虚利の対象として、その情報の虚実を操作して国家間の軋轢さえ企てるようになった。

 

それは、当時の国民政府、共産党の政治勢力状況や諸外国の干渉を超越した部分の民癖、あるいは欲望の志向性とも思える素直な共鳴感がみてとれる。もちろん国民党の孔財政部長による米国の援助資金確保や、中華人民共和国成立時のソ連から莫大な援助なと、双方混乱時の資金流動もあるが、それにも増して権力当事者の財貨、権力の欲望は、その看板とする思想さえ、単なる意味の薄い「話(ハナシ)」として権力奪取の具にされている。

 

表層の柔和さと表裏を成すように、その内に秘めた別の心で読み取る財と人の関係と、わが身に及ぼす禍福の影響を感じ取るための透徹した感性に裏づけされたある種独特の価値観があり、かつ両民族の似て非なる様相は民俗学、人間学、比較理財の利学としても興味のある問題でもある。

 

ともに数千年の歴史を経た民族でありながら、一方は地球上のグランドを選択し、一方は亡羊とした環境のなか選択不可欠かつ刺激的なグランドで諦めにも似た悲哀を抱えながら栄枯盛衰に身を任せている。各地域で掲げる自由、平等、博愛は人類普遍なスローガンのようにみえるが、己の意思の自由獲得、少数ゆえの平等、同胞愛に根ざした友愛であることは歴史の事実として明確に語られるところでもある。

 

一方、片手に孔孟の謂う規範像を装いながら、老荘の謂う天下思想に実利ある生き方を方便として、天と地の間に国家帰属意識もなく、砂民のごとく地球上至る所に生息して、その特異なる金銭感覚と陰陽対比と調和に基づいて滅ぶことのない復元力によって旺盛な生活を戯れのように演じている。それは「逢場作戯」という臨機に柔軟さを増し、「小富在勤、大富在天」にあるように、勤労によって生ずる富は小さく、天に沿った富は大きい、と小欲、大欲の価値感性を規範的な孔孟にも考えられ、かつ危機や厄災を達観できる老荘の柔軟性を使い分け、ことのほか楽観的(positive)に人生を活かす術も心得ている。

 

また双方は、究極の統治形態である専制独裁にその有効さを認めている民族であり、20世紀にはその試行も経験している。それは人間を管理し有効に利するには、耳障りのよい自由と民主が大衆の意思を群行群止させる一番の方法であり、意思なき分裂に導くことによって国家を融解させ、財貨の欲望と管理によって情報の指向性をコントロールすることをいち早く発見した人々でもある。

 

       

                岩木山

 

全体主義のドイツ、共産主義のソ連、中華人民共和国、民主と自由を掲げた資本主義に代表される西欧やアメリカ、日本。フランスのブルボン王朝は自由、平等、博愛の名のもとに断頭台に終焉し、社会大衆革命の名の下にロシアロマネフ王朝は滅亡した。また純化のために階級闘争のために粛清と称してヒットラー、スターリン、毛沢東、カンボジアはポルポドの政策によって短期間に合計一億人以上の民衆が抹殺されている。

 

また、驚愕するにそれらの専制独裁を間接的支えたのは、国際金融資本であり軍備費、戦禍復興いずれにも色の付いていない金が使われている。

権力維持や反対者の抹殺のために資金が使われ、その使用料としての金利によって権力そのものが管理される滑稽な状況結果がある。

 

ちなみに、日露戦争にも外国債が使われたがその担保は関税権であり、年6分である。

しかもロシアにも同様に貸付られている。幕末の薩長にはイギリス、幕府にはフランスが援助干渉しているが、その意図はアジアの状況によって察知されている。

金貸しが為替差異や金利を稼ぐことから、国家の関税権や統治システムまで収奪することが、当時の植民地政策のあらたな管理方法として定着してきた。

 

一番効果的な管理方法は人間そのものの欲望によって、自らを自動的に衰亡に導ける自由と民主による孤独と自己責任という、言うに云われぬ連帯希薄な環境に追い込んでいる。   資本主義のダイレクトな効果利潤として金融支配は、とくに使用料としての金利という虚の循環生産を駆使して、促成された欲望の収斂を図り、つまり消費管理資本主義という力の強いものの一方的な管理社会を構成するという、国家さえ超越した大衆管理を成し遂げている。

それは一国の通貨管理や生活システムの馴化につれて情緒の融解さえ巻き起こしている。

 

処世の一方は旧約聖書にある名門でありタルムードという経世訓を保持し、一方は厚黒学という、歴史の看板である老荘孔孟を包み込む利学を有している。

それが彼らの生産のための術であった人為的冷戦を経て、看板はいまだ塗り替えられない共産主義の苦衷にある政体の支配地域に、彼らの自由という安住を認めて再び舞い戻り、賞味期限が過ぎた米国という仮の住処を離れつつある状況がある。しかも用心棒の指令アジトを米国のトランスフォーメィションという構想を掲げ、順応国家である近隣に配備しての慎重な進出準備がある。

 

駐中国大使であったブッシュパパと真の権力者◇氏との関係は、クリントンの親中スタンスと共通する底流であり、その時代のクリントン宮沢合意にある、その後の「対日年次要望書」によるアメリカ化、あるいは金融権力のベースの移設環境整備として、よりその有効性を顕著にしている。本丸は大陸中国であり、太平洋の島礁に位置するフィリッピン台湾、日本はもはやその役割を終えようとしている。

 

        

 

 

 

欲望の構図に話を戻そう。

男女の性欲に関する欲、食欲という生命保持と止め処もない飽食、有れば有るに越したことのない財貨の集積欲、これら三欲は人間の同化を促す術として有効な手立てでもある。

満州国、新京の魔窟といわれた大観園の親分は一方で道徳会の会長でもあった。

親分は実直な日本人にこう話した。「日本は早く負けて日本に帰ったほうがよい、さもなければ日本そのものが亡くなってしまう。なぜなら我々は濁水の中で生きている、清水にも生きられる。しかし日本人は濁水の中では生きられない。欲望は一緒でもこの国では日本人そのものが亡くなってしまう。日本人は遺さなくてはならない・・」と。

 

また、副総理張景恵は「日本人は四角四面だ。あと二、三回戦争に負けたら柔らかくなるだろう」と、大陸での実直すぎる日本人観を述べている。

善悪の可否を超越して、力こそ正義だというだという大陸の感覚を、アジアにおいて似て非なる人間の生き方として学ぶときが訪れることを示唆している

 

脱亜入欧といわれた文明開化において、入亜をスキップして入欧したツケは未だ尾を引いているようだ。政治家、否、日本人は異民族との交流に致命的に欠陥を露呈する。とくに土壇場の状況はより鮮明な姿を表している。

 

だが、唯一のセキュリティーであり、実直さのあまり異質にもみえる日本人の陋習にある生活規範は、曲がりなりにも醸成された、勤勉、正直、礼儀、忍耐という集積された特性を備え、欲望同化の誘引に対応する唯一無二の資質として、国柄という範疇を超越して人間の尊厳を祈護した古代の賢者の祈りに沿うものでもあり、栄枯盛衰の導かれた智の結晶でもある。だが、その徳性の劣化も指摘され始めて久しい状況でもある。

またそのことは維持し、祈護することによって、いずれ訪れる民族や人間が混迷するであろう社会において、その復元力を宗教や環境を超えた人間そのものの存在意義に普遍な価値を探すとき、人と禽獣の異なりを理性と習慣によって抱合した恒常的意義が映す行為を、勤勉、正直、礼儀、忍耐の姿に光明を求めることを自明の理と考えるからである。

 

いずれ中猶連衡は必然である。それは繁栄のサイクルと地球上の移動が、時を同じくして歴史の循環と共動し始めているからである。

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日中秘話  対支二十一か条要求

2022-11-17 03:28:49 | Weblog




袁世凱政権にむけた対支二十一か条要求というものがある。

いまでも国辱として中国の歴史認識に刻まれている。
もう一つ孫文と交わした日中盟約というものがある。アメリカの公文書館で発見されたものだが、その署名は孫文と側近陳基美、日本側は満鉄理事の犬塚信太郎と山田純三郎である。また起草は外務省の小池張造と秋山真之があたっている。

 

   

秋山参謀


その模様は以前NHKのドキュメントでも紹介されているが、その内容は日本政府が袁世凱に突きつけた要求と極似している。

この署名がされた場所は頭山満が孫文の隠れ屋として用意した隣家であるカイヅマ邸の奥座敷である。そこは頭山邸を通らなければ入れない処ではあるが、当時の官警は分刻みで事細かに監視している。

その状況は、まず山田が呼ばれ、次に陳基美が入室する。盟約本文は山田が持参している。
そこで孫文、陳基美が連署、そして山田が署名し後刻別の場所で犬塚が署名している。ドキュメントにはその時系列はないが筆者はそう見る。

なるほどと思うのは、先ず山田が呼ばれ次に陳が入る。署名後、今度は陳が先に退出し、暫くして山田が退出する。通常、そのような重要事案なら先ず国籍をともにした陳が入り、そこに山田が呼ばれ署名し、その後陳が退出するのが自然だろう。

その陳基美だが上海の山田の家で袁世凱の刺客に撃たれ亡くなっている。
《その家は世界中の華僑から送られてくる援助金や武器弾薬を受け入れるようになっている。もちろん責任者は山田だ。それを都度乳母車などに革命党に運び込んでいる。そのとき山田は二階にいた。突然の発砲で階下に降りると陳は袁世凱の刺客に襲われ撃たれた。抱えていた民子を床に落としてしまった。それ以来民子は不具(身障)になってしまった。ちなみに山田の子供は民子と国子、つまり民国だ》    佐藤慎一郎  談

 

山田純三郎    孫文

 

下世話な話だが彼の国は同民族を信用していないのか、それとも「実利」については民族を問わず選択肢は、゛今、必要とする゛ものなのか。

あの満州皇帝の溥儀は工藤鉄三郎(忠)を皇帝秘書長としている。関東軍への盾なのか工藤も公私にわたって溥儀に仕えている。

工藤は津軽の板柳に生家が現存している。青年期に志を立て樺太に渡り結氷をまって徒歩でロシアに渡っている。司馬遼太郎の「北のまほろば」にある十三湖の安東水軍は、今と違い日本海側が表日本だったころ大陸と盛んに交易をしている。津軽は進取の志を持つ独特の人間をつくるようだ。

その工藤は甘粛省まで行き、しかも同様なことを再度試みている。
溥儀との端緒は食事のときに毒を盛られているかと躊躇していたとき、工藤は一番先に手を付けて平然として食した。溥儀は感心して「忠」という名をつけている。つまり工藤忠である。甘粕が迎えに来るといったら「あの、人殺しが・・」と溥儀は頑として動かなかったが工藤に促しで容易に新京に行くことを了解した。 (佐藤慎一郎氏 工藤との録音記録)

 

佐藤慎一郎



だからといって、あの忌み嫌った関東軍と同族日本人を最も重要な位置に付けるだろうか。そう思うのがもまた日本風である。
フビライも北京で見つけた色目人(異民族)の耶律楚材を宰相に就けている。

たしかに異能だろう。また幕末維新もそのような異国人がオブザーバーに就いたが、中枢の側近には付けられない独特の「陋」というものがあった。

山田の兄良政は恵洲の戦闘で亡くなっている。しかも当時は外国人だったら助命されたものを、あくまで「中国人」と言い張って斬首されている。果たしてそのような気風は日本人だけなのだろうか。

資金も武器もみな上海の山田を経由している。戦後、蒋介石は満州の国内財物の処理を全て山田に委ねている。もともと財利に鷹揚な山田のこと、財閥、軍官吏、浪人の詐欺的搾取にあいうやむやになってしまったが、革命の先輩である山田を蒋介石は問い詰めてはいない。ただ、孫文の指令で満州工作に行ったときのことを、「そろそろ話してもいいだろう」と呟くと、蒋介石は「そうしたらいい」と全幅の信頼を寄せている。


戦後、訪台した国会議員が「恨みに報いるに徳をもって行う」と、多数の船舶を用意して居留邦人を無事大陸から帰還させた礼を述べると「それは君たちの先輩に言うべきだ」と中国革命に挺身した日本人を民族の歴史に刻むように促している。

満州問題とは孫文が唯一日本政府に歓迎された鉄道全権で訪日した際、東京駅の喫煙室で桂太郎と会談した内容の遵守であった。
「・・・満州を日本の手でパラダイスにして欲しい、そしてロシアの南下を抑えて欲しい。時が許せば、シナと日本は国境を撤廃してでも協力していきたい・・・」

ロシア革命の領袖ゲルショニとの会談では
「シナの革命が成就したらロシアの革命に協力して欲しい」というゲルショニには頑なに断っている。「われ、万里の長城以北は関知せず」との信念である。それは数百年に亙った清朝満州族を万里の長城以北に駆逐して漢民族国家をつくるという革命本来の目的があったからだろう。

一次革命成功の宣言にはその勢力圏を長城以北にまで言及しているが、このとき孫文はハワイに滞在して関知していない(山田談)。これを孫文はペテンと嘲り、かつロシアと結ぶことを裏切りという日本人がいるが、ロシアに向かわせたのは孫文を相手にもしなかった当時の日本である。

孫文は日本と協力して白人の植民地に喘ぐアジアの民を救うという大経綸があった。そこに日本朝野の志士達が協力を惜しまなかったのである。
もちろん、あの秋山真之もその一人だ。山田の「国おもうこと国賊」と題する論文に秋山将軍のことが記されている。「戦争の後、秋山将軍は神かかって虚ろだったと人はいうが・・・」、戦勝の美酒に酔う国内より、まだやり残していることがある、ということだ。
東郷さんでさえ明治神宮の参道を頭を垂れて歩いていた、世間は凱旋将軍のようではないというが、児玉も間もなく亡くなっている。

戦争はまさに天運というべき辛勝であった。数多の兵も亡くなっている。浮かれる軍部と民衆の行く末を彼等は見据えていた。秋山はこの勝利をきっかけとしてアジアの諸民族に勇気を湧かせて植民地の頚木を自らが取り去る自助の心を持ってもらいたかった。
その端緒が中国革命の成就によって虎視眈々と狙っている西洋列強の盾と願っていた。
それゆえ巷の官位褒章を願う処世のものからすれば、理解しがたい人物に見えたのだろう。

 

 

前列左から 松方 山縣 児玉 大山

中国人にこう云われた事がある。
<日露戦争ではなく「亜細亜解放戦争」と呼べばよかった。皇国の興廃・・は、亜細亜の興廃は此の一戦にあり日本海軍はその目的のために・・・、そのほうが日本にとっても近隣にとっても実利になったはずだ。四角四面の軍人はともかく、そういう智者がいなかった。まことに惜しいことだ。>と。

つまり、日本は対ロシア戦争を日露戦争と呼んでいるが、秋山氏は白人の植民地政策に喘ぐ亜細亜民族のアジア解放戦争と考えていた。単なる日本防衛ではないということだ。
乃木も朝鮮の子供に「他国の軍隊がこの地で戦うことは忍びないことだ・・」との意を語っている。
今でもそうだろうが、資源や宗教や行きがかりの戦争が絶えないが、縁も微かな人々が命令によって殺し合いをした果てが勝者としての美酒を交わすだけでは平和とはいえない。

平和はpeaceというが、本来は力の強いものが弱いものを平定することを指していう言葉だ。中国ではこれを「和平」という。平和とは戦争と戦争の一時の間(あいだ)を言うのである。本来は未来永劫「安寧」「太平」だろう。これは文字解釈をいうのではない。その真意を理解する人間達の行為だからだ。

つまり彼等はVサインではなく敗者に対する哀悼と民族への忠恕だったからこそ、当時のアジアは日本を光明として倣ったのだ。
余談だが、カンボジアのPKOの隊員がバスの窓からカンボジアの人々に向かってV
サインをしていたが、乃木や秋山、児玉はなに思うだろうか。

日中盟約はその日本人の連携が帝位を窺った袁世凱政権に向けられたのである。それゆえ、あのメンバーだった。現代中国人識者でさえ「孫文を考え直さなければ」というが、何おかいわんやである。付け加えれば袁世凱も人物だった。氏の詠んだ漢詩は日本人がみても胸を打つ素晴らしいものだ。彼も愛国者だった。

解放を謳った共産党ですら専制独裁を描いたように、砂にたとえられるように纏まりのない民俗、あるいは特徴ある性癖を読み取る為政者は一極専制しかこの国をまとめられない、と考えるだろう。民族独特の力の論理は「力こそ善」であり、良し悪しはその後の問題と考え、また力や自然に対する諦観は各々独自の世界観を有している。いくら複雑要因を以って構成されている「国」といえど、連帯と帰属性がなければ意味が無い。

ただ、首領にふさわしい、゛らしさ゛はある。袁、孫、毛、もそれらしいものがある。それは後の縁や能力という人爵、でなく天運を宿命的に保持する天爵のようなものだ。
人々は、゛それらしい゛人物を推戴する。継承皇帝ではないので尚更なことである。

山田、小池、秋山、犬塚、夫々立場は異なるが中国革命の領袖孫文と一体になった行動があった。犬養、頭山、宮崎、萱野、末長もそうだ。
孫文は大法螺吹きでペテン師、浪費家で女好きという評がある。ネガティブな証憑ではないが、その通りだろう。ならば秋山も山田も頭山も騙されたオッチョコチョイだったのか・・・
それとも小説という嘘実読み物である「坂の上の雲」ではあるが、孫文にだまされた愚者のような登場人物を描いたものなのか。

 

右 陳基美



革命家や歴史上の英傑は大法螺吹きといわれている。後藤は大風呂敷だった。騙されたほうはペテン師というが一方は戦略家だ。ただ負けるが勝ちの時間軸が永いかどうかの問題だ。勝たせて、奢らせて、弛緩させて、為替を操作したり外来のルールを歓迎する国は戦わずして軍門に下る。これこそペテンを知らぬ輩ではないか。浪費家、女好き、応答するに馴染まないことだ。

ただ、あの頃の人物はアジアに普遍な目標を描くことのできた柔軟なグランドを闊達に動いていた。家計のごとく国家の財布を按配するような男子とは違い、豊かな識見を涵養し、異民族だろうがその経綸に賛同する実直さがあった。データーや情報に惑わされず意志を発信する精神と肉体的衝撃を超越する「他」への安寧の希求があった。

それはノスタルジック、センチメンタル、懐古趣味、という部類ではない。人間を知り民族を知るとき普遍な姿として孫文的(的 のような)人物の再復が実利的国家経営にも必然とされるだろう。ことさら孫文を誇張するものではない。己が異民族にも普遍な意志をもち、他の文明圏との調和を描ければ自身もその「的」にも当るだろう。

もちろん大ホラ、ペテン、女好き、浪費家の評を恐れず、浮俗と異なる世の中を俯瞰して経綸をたてるような、異なることを恐れないなら、その任は自ずと吾が身にある。

どうだろうか諸君、己の潜在する良心を再発見して懸けてみては如何か・・・

 

一部イメージは寄託

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いまどきの安岡学に集うこと 08.5 あの頃も

2022-11-16 08:22:49 | 郷学

数年前より安岡正篤という人物を取り上げた書籍が氾濫している
それも当人が亡くなられた後、弟子や有名人と称される者が金屏風を背に登場することが多く見られるようになった。

以前、御長男の正明氏と一夜投宿した早朝にこんな会話をした。

「ちかごろ安岡学という妙な学が流行っていますが・・」
『お弟子さんの中では父の説いたもの、あるいは臨機に遺した事績の背景となる学問ではなく、時の権力者との交流や人脈、はたまた増幅され偶像視する人たちがいますが、父は教育者です』

「偶像視する人は人脈を辿り利につなげたり、なかには安岡ブランドで食んでいる人もいます」
『父が存命なら出版させないものもあるし、そもそも名を遺すということに慎重であり、ある意味で遠ざける気風がありました。そういえば父が酒席で遅くなったとき『あなたのお弟子さんは名のある方が多いようですけど、下半身のほうは・・』と母から問われ、さすがの父も沈黙せざるを得なかった』

確かに脱税で収監された地方マスコミのオーナーや、人脈をつくることに勤しみ安岡ブランドのセミナーを利に繋げているマスコミ出身者、あるいは説かれたことをオウム返しに「解りました」といった途端、「そんな簡単に解るのか・・」と叱責された二世財界人もいるが、総じて安岡ブランドを吹聴して名利を貪っている。

昨今は細木女史との問題で女性の認知に端緒が開けたようだが、殿方の興味も奥方のそれに似て井戸端風の浮俗の話題が多くなっている。

ただ記憶すべきは名利に恬淡で、かつ洒脱な座談は人を区別せず義の香りをその是非の座標にしたことだ。義談、良酒に時を忘れ、ピースの両切りを好み、世俗の情勢に敏感でテレビも時代劇を好む方でした。

そして古の偉人賢人を手元に引き寄せ、人間を問う薫譲された学風がありました

ゆめゆめ挨拶代わりの借用や、金看板にするような詐学、利学の類に錯覚なきよう世の安岡学?に翻弄されないよう祈るばかりです。

それこそ存命なら『学問の堕落』と言われ、そもそも安岡学とは何ぞやと問われるはず。

まさに、
「小人の学は利に向かう」
「利は智を昏からしむ」
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
いずれ、飽きるたぐいの知学でしかない。

 

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商業新聞の弛緩と内なる憂鬱    2008.3 あの頃

2022-11-12 05:31:22 | Weblog

        尾崎ホツミも記者だった

 

2016年12月のある日の産経一面を使って商業新聞の食い倒れのような貸家広告が載った。

人の行いや事物の批評は得意だが、関連会社を装った己の副業を誇大広告として書き連ねていた。

どこのマスコミも同様だが、TBSも赤坂不動産となりフジも台場で威容を誇っている。昨今はカジノ博打をエンターテイメント施設と擬装して宣伝している。博打といえば役人の別財布といわれて久しいが、そもそも公営といえど客は社会的問題意識の乏しい大衆であり、新聞も紙面を埋めるために売り上げの多寡を煽る仲間である。

競輪は経済産業省、馬は農林省、舟艇は国土交通省、なぜかパチンコは警察庁の独断場だ。それらは官僚の既得利権となり族議員もオコボレに与っている。今度はカジノだ。ラスベガスのハマコーこと浜田代議士やトランプ氏も有名だが、博打打ちとギャンブラーはどこにでもいる。そもそもアジア地域のカジノは華僑圏に近接しているが、年に数兆円の逃避資金のロンダリングを阿吽の行為で海外に飛ばしている売国者の徒が、そうそうコントロールが利かない日本に集まってくるとは思わない。

いつだったか商社とNTT・治安官僚が始めたパチンコプリベートカードも、何度となく偽造コピー化されている。筆者が保護関係でかかわった人物は偽造名人だった。大企業や公組織がセキュリティーをかけたカードをいとも簡単に何度も偽造している。

彼は言う「相手が100キロで追って来れば110キロで追いつかない。今度は120キロを出しても130キロ出せばいいこと。私は200キロの自信がある。当時は三菱商事とNTTと最高技術で、追いかけるのは警察のメンツだったが、なかなか捕まることはなかった」

今度のカジノもメンツは同じだ。新参者はガードマン役の治安関係の関連企業とお先棒を担ぐ国会議員、そして遊戯機械メーカーだ。国民の利福のためにある国会、風紀安定のための警察、情報を管理するNTT、それらかオリンピックのドサ廻り利権とともに、歴史上社会衰亡の端緒となる奢多の類である射幸心を煽る舞台を作り、産経がお先棒を担いで大衆を煽っている。

まるで江戸の矢場での世話やき女の真似事だ。多くの国民はその様にみている。産経以外の謀ごと集団の人品骨柄はあえて問うまい。応援婦人部の突き上げに意地を見せたのは宗教政党だが、下駄の雪には変わらない。いずれ清掃部門などの雇用に口をいれるのが今までの倣いだ。

産経は司馬遼太郎を舞台看板として日本の国柄を世に問うた。司馬は最後に明治の言論人陸羯南を著すことを願ったという。その陸に届かなくても、産経は爪の垢でも戴いたらどうだろうか。

頭でっかちになった組織は、妙な一丁上がりの職掌がある。論説委員、解説委員、経営者側はより複雑だ。それを巷では産経元老院と呼ぶ。数年前にいつも宗教団体に訴えられている週刊誌の要職と産経社会部の上席が深夜来訪があった。

地に伏して取材で記事を書く完結主義の十数人と数十人の社会部の能力について争論したが、元老院と若い記者に挟まれた立場では結果は見えていた。いまは下剋上を企てた品性のない経営者だが、マスコミはこの手合いが多いのも特徴だ、下剋上するような人物は権力におもね、内部にある自身と同様な臭いを持つ部下を重用する。真面目に考えるのも愚かしいが、江戸の瓦版屋と思えば理解も早い。

それでも産経を購読しているが、近ごろは東京新聞も併読している。後者は名古屋の中日が根にあるためか新聞事業は充実している。権力ちょうちんと下座観の違いだが、書き手も編集者もこれでは魂も入らない惜しい人生だ。

 

                    

                    読者から送付



備忘本文   2011 08 04 掲載


見たこともない、聞いたこともない、大本営発表しか情報が無い頃の話では・・
書くものが無くては食えなくなるのが、ブン屋さん。
「調べたことが無い」そんなはずは無いと期待するが・・・
とはいっても大衆は、「見たことも」「聞いたことも」あまり気にしていない。
いや、直ぐ忘れる。

読者は特落ち、特(得)タネ、より、どこにでもある下座の吐息に人情なり風儀なりをを感ずるものだ。年金や議員の問題ではなく本質的な人間の問題として察知しているはず。
しかも言論、成文の整理力が乏くても察知力鋭い。

ちなみに、新聞は調べ、知ったことでも書けないことがある。
それは、押し紙、強圧勧誘、部数の虚偽にある食い扶持にかかることだ。
加えて、それを担保保全してくれる広告主や仲介者の恣意的悪行である
つまり陋規の範疇にある掟と習慣である。

其処から発する情報に真の信憑性と公器として人倫もなく、説く「教え」が泣く。
軽薄な商業カルチャーを文化とした今は亡き国家が幾多あっただろうか。

翻って選挙という群集行為について、それに纏わりつく営利のプロパガンダに嘆息する国民の多いことか。

山の手の多くの区域で新聞購読数が激減しているという。
他の媒体の影響だと、したり顔する評論人も多いが、その考察の前提にある、真の問題へ掘り下げる地道な検証へのプロセスが一過性の事実認識でしかないことが業界の末端で働く配達員の声を認知しないことでもわかる。

「一人住まいではありません。たしかに予算的問題も、他の媒体もありますが、文を読まない、あるいは読んでも理解できない人が多くなって二世帯同居でも新聞をとらなくなっている」

「べつに知らなくても食える、と断られる」

「販売所の経営者がコロコロ変わる」

「実質2000でも押し紙は大量に来るので、広告は000で料金を貰っている。まるで広告が主で新聞は二の次だ」
※ 押し紙問題(部数詐欺)は社会の周知となり2016年になって是正されたと聞く。


数多あるその世界の話だが、書壇も、論壇も政界、経済界もそんな世界に壟断されている。どうも息潜む庶世とは棲む世界が違うようだ。

一昔前は、法の傍をうろうろする人間は善くない、と云われたり、銀行員には嫁にやるな、など其処に生業を持つ人間の職業的思考と世俗の連帯を掌る人情との予測できる乖離を量ってのものだが、近頃では所得如何で人気商売にもなっている。

果たしてマスの視点でコミュニケーションを繰るその世界はどうだろうか。
色、食。財の欲望に加え、脅し、覗き、予想、を放埓した行為は、何かを麻痺させ劣化させ、自らマスコミカルチャーを以ってしても修復不可能な情緒の欠落など、それらの行き着くところ人間の尊厳を毀損するものに見えてならない。

明治の言論人、陸羯南は何というか・・・

読まない、読んでも解らない、これを商業的にかつ得意とする合理的に論を塔のごとく重ねるのか、それとも聖徳太子の憲法本義である、権力による人間の尊厳の毀損からの守護が、第四権力といわれるマスコミによる毀損危機の事前観察と観るか、小事として疎かに出来ないものである。
また、その発信元には教育者集団、宗教団体などの権力構成者たちも第四権力を利用してそのプロパガンダを発信、増長し、かつ経営にまで侵食している。

その是正こそ、真にマスコミに期待するものであり,木鐸の報道・教養記事となるものだ。

無名浅学の徒のささやかな願いでもある。

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小章 満州郷村運動に倣う地方創生の要   其の二

2022-11-11 09:20:43 | Weblog

満鉄総裁 後藤新平

人を観て、人を育て、人によって資材を活かすことで、超数的効果が生まれる

その後は官吏の乗数効果を追う政策で、人の育て方も、活かし方も数値選別評価に埋没してしまった。




其の一より・・・

国内における閉塞感、軍官吏の増長、議会の権能の欠如は、ある種の泥足紐付きではあった。しかし満洲での異民族との交流は、明治以降衰えたかのように見えた良質の公的使命観念の覚醒を促し、かつ大らかな意識の甦への喚起でもあったようだ。それを助長したのは生まれた環境に滞留した固陋な掟や習慣が、ときに鬱積し怠惰となる宿命感からの解放であり、新たな立命への道筋が描ける環境であったからでもあろう。



笠木会はそれを髣髴とさせるに充分な雰囲気だった。

後年になって石原莞爾の唱えた東亜連盟を継承する会に筆者も招かれ毎年物故祭に参加しているが、当時の縁者は少ないが歴史を継承する意味では貴重な会の姿である。

 実は、笠木会でもあったことだが、関東軍と満鉄の調査部、自治指導部とは妙な軋轢があった。石原の内地召還後の関東軍の、゛軍官吏らしい゛横暴がそれを意味していたようだった。それは短絡的な極論かもしれないが「王道と覇道」という姿の軋轢だったようだ。またスローガンはそのように謳った。あの王道楽土の掛け声に踊り、高邁になり、覇道に誘引され、堕落から衰亡する、まさに亡国道程の範のような状態だった。

現代でも繁栄した地域に諸外国の若者が集う。満州は異民族の土地に国家なるものを作り、そこに集まった。大地球からすれば小さなコロニーだが、試行の目的であるならばそれも方策だ。だか、大国の謀に乗ずる欲望は拡大、進出と、大陸国家が歴史上に繰り返された版図の書き換えまで模倣するようになった。

しかし、その「王道」は現地では偽満州の看板と揶揄することもあろうが、当時の日本人青年の清廉なる義侠は多くの異民族に愛顧として、今でも残影に残っている。
その先導者であった笠木の風儀は、地位や名誉、財力というようなものを成功価値とはしなかった。「滝に打たれて修行します」といえば、『滝に打たれて立派な人間になるなら滝つぼの鯉は一年中打たれているので立派な鯉だ』と応じる。高名な大川周明の話を聴く会に行ったが、『俺はポチ(犬)ではない』と、高名に集う聴衆に対して意志を示している。笠木につけられた冠は「満洲の精神的支柱」である。

 関東軍の石原,自治指導に挺身した青年の精神的支柱であった笠木の真意について、肝胆照らす二人の姿を映すコラムを以下に掲載し、かつ協和を妨げるものは何か・・、あるいは笠木の壮大な取り組みを将来妨げるものは何か・・、有史以来はじめて異国の地に伏して異民族との協和を試行した意義と経過を鑑としてみたい。






参考に 《一草莽》と称する著者の「アジア主義」と「日本主義」と題した関係章を抜粋として転載挿入する

≪『昭和六年十月の、とある一日、満洲奉天は妙心寺に、笠木良明をはじめとした三十五、六人の青年たちが集まっていた。勃発したばかりの満州事変に対する大雄峯会の態度を協議するためである。そこへ招かれて、事変の立役者、石原莞爾関東軍参謀がやってきた。板垣高級参謀も一緒だった。石原莞爾は、山形弁をまるだしに、むしろとつとつと語った。

 われわれが満州事変に決起したのは、民衆を搾取して悪政かぎりない張学良政府を打倒するためである。軍閥官僚どもを追い払ったあと、この地には日本の影響下に新しい独立国を創らなければならない。日本、支那、朝鮮、蒙古などの各民族はこの国に相集まり、それぞれの特性を発揮して「自由」「平等」に競争しあい、満蒙の豊かな資源の「合理的開発」につとめる。そうすれば、日本の景気行き詰まりも打開され、満蒙住民も潤うだろう。こうして、満蒙の地は「在満蒙各種民族」が融和し、生かしあい、たがいに栄える「楽土」となるのである。また、そうなるように、けんめいに努力を傾けたい、と。

大雄峯会の若い面々は、こういった説明を聞いて、しだいに興奮していった。だがいったい「どういう具合に民衆を組織し、如何なる理念をもって新社会を築きあげる」べきか、「甲論乙駁で誠に烈しい議論」がつづいた。

とうとう笠木良明が口をきった。-ここ満蒙こそは「大乗相応の地」だ、アジア復興(解放)というわれわれの念願を実現することのできるところだ。

まず第一に、「過去一切の苛政、誤解、迷想、紛糾等」を洗い流し追放して、この地に「極楽土」を創ろう。石原さんの意見にはまったく賛成だ。住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない。つぎ第二に、満蒙「極楽土」を砦とし、この根拠地から「興亜の大濤」をまきおこそう。インドやエジプトにまでも、この波を広げていこう。われわれは「東亜の光」となって「全世界を光被」するのだ。そうすれば、ついには「全人類間に真誠の大調和」を創り出すこともできるのだ、と。

 こうして、陸大出のエリート軍人・石原莞爾と、東京帝大法科卒業の満鉄マン、古くからの「愛国運動者」、笠木良明は、満州事変→建国の過程で一種意気投合したのであった。
(甲斐政治「自治指導部、鉄嶺政府について」)』

 この会合での石原莞爾と笠木良明の発言は、(満洲の)アジア主義を象徴するような発言であろうと思います。この中で笠木が「住民がどこの国のひとかなぞ問うてはいけない」という発言をしていますが、私は「戦前のアジア主義にとって、アジアという地縁はさして大きな意味を持っていなかった」と考えています。
 私は、「アジア主義のアジア」というのは、「アジア共同体のアジア」よりも、「アジア的王道政治(外交)のアジア」という側面の方が強かったのではないかと思います。それ故に、「住民が何処の国か」にこだわる地縁重視の姿勢が否定されたのだろうと思います。

 笠木良明も、大川周明門下の『日本主義者』であったそうですが、『日本主義者』として日本の理想とする世界像(外交)を追い求め、辿り着いたのがアジア主義だったのでしょう。アジアという地縁にこだわっていた側面も確かにあったのでしょうが、たまたま「アジア」と呼ばれる地域の人々が欧米の植民地として抑圧され、日本人が理想とする世界像から容認できない状況にあったから、アジアの人々と大同団結して戦おうとしたのであり、もし逆に欧米の国々がアジアの植民地として抑圧されていたならば、「欧米主義」になって欧米の国々を救うためにアジアと戦ったのではないかと思います。≫

参考転載おわり





大同学院教授 佐藤慎一郎氏


当時、満蒙開拓を企図して満鉄の笠木良明氏の提唱で自治指導部が結成され、多くの青年が郷村に入って各種の指導を行っている。指導と云っても権力を用とすることではなく、丸腰(武器携帯もなく)で縁故もない満州各地に赴任した。


⭐️
それは四角四面の官吏のような作業ではなく,見も知らぬ辺境の地において異なる習慣と陋規によって共同体を営む民族に、自己に内在する普遍なる人情を懸けた行動だった。況(いわん)や異民族が勝手に得心した文化なるもの、まして近代的生活なるものを単なる日本的お節介(押し込み)で行ったものでなければ、満州経営の先兵として走ったものでもない。青年とてそんな企図に導かれて命懸けで赴任したものではない

また、成果が上がり名利や地位を得ることを勘案する精神では、もともと些少の成果すら期すことはできなかっただろう。それは郷村の民が今までに経験した為政者の政策や応対を熟知し、かつ為政者たるものの虚装と性癖が染みついていればこそ、単独赴任の能力はひとえに梁巨川先生の説く「人格」によるものでしか通用しないものだった。表れるのは正直、勤勉、忍耐、礼儀、そして許容量ある大らかさだ。


とくに彼の地の歴史では異民族に拘りがない。元の宰相は色目人(ペルシャとも)耶律楚材、皇帝溥儀を護り信頼の厚かった工藤忠(青森県 本名工藤鉄三郎)、孫文の側近で唯一臨終に立ち会った山田純三郎など、国籍なるもの、出自、経歴、に拘らない信頼すべき人情を分かり合える人たちだ。故に多くの無名な青年の精勤は至るところで成果を挙げている。それは教育や生産の自活性を高めることになり、他郷との交易に適う能力を涵養して、まさに一灯を集め万灯として多くの郷村を照らすことが可能になった。

それは人々の忘れていた能力や可能性を自覚して甦えさせることでもあり、人々が相互に信頼し協働する成果となった。また「長(おさ)」を自然的に推戴することでもあり、人間相互の篤心を高め郷の安寧を図ることでもあった。

他方、欧米による宗教的教義に基づく郷村作興もあった。それは東洋の諦観を変化させることにもなったが、生産性や教育など数値合理性を求める彼の地には似て非なる情感を発生させた。

その意味では梁巨川先生を範とし梁漱溟氏の説く、民の在り様を変えることなく、自然律や郷独特の情緒をもとに徐々に機能化する作興は、民そのものの潜在する能力を覚醒し、自発性を起こさせる要となる「己を信じる」ことによって成果を得る、その触媒としての学舎を出でた率先行動があった。

事後の成果評価は別にして、彼の国の、人を讃え、人が掲げ導くことによる人の躍動と連帯感は、狭い範囲の人情を至上のものとする人々の営みを、集合効果として用いたことにも一理はある。また自制なき自由はときに放埓となり、集合体を離散させ他国の侵入を許す危機でもあり、時に一族の人情や郷の郷愁に浸りつつも、国なるものの連帯という一種の不自由を許容する融通性も必要だろう。

我が国も明治以降、国家なるものを創成し、国民と呼称されたときから中央政府の集権が始まった。それまでは包み込めば国家との見方があるが、個別に藩が存在し、教育や農法、矩も異なっていた。幕府からは武家を統御するために法度という掟条が発布されたが、民を裁制する法は各々藩の慣習や郷の掟によって治められ、あえて成文化されることも稀だった。藩には藩校があり、郷村には塾があった。それは清末の混乱期において桂林の地に生まれ哲人碩学と謳われた梁先生もそうだった。



郷学の作興を唱えた 安岡正篤氏



小会 郷学研修会 卜部皇太后御用掛 講話


それは中央集権国家の用とする教育とは異なる「郷学」のもつ人間陶冶(形成)修学の成果である。それは人為律を国家なり為政の方策として人間を統御するための学問を郷村作興にそのまま充てはめられないことでもある。また、領地の防衛や生産性は集合体の必須な政策としての郷村との捉え方は否定はしないが、深層の国力としての国家への協調や親和心を培うには、また別種の取り組み方が必要になるだろう。
それは郷村のためのエリートの養成でもあった。世俗の実利のための数値選別に必須な知学も大切だが、数値に表わすことのできない修養が郷の人心安定には必要だ。現代社会は「人心、微かなり」となっている。

郷村運動も歴史を遡れば、混乱の春秋戦国時代に民から歓迎された「墨家」にある任侠の気概と民生の相互扶助の試行ではあったが、なぜか忽然と消滅し清朝末に再び甦ったような墨家集団の気概を懐いた人間の躍動でもあった。


とくに都はその狂乱に近似する状態だ。我欲の増大は、競い、争い、人は不信になる。梁先生の言葉を借りるまでもなく、それこそ躍動の社会ではあるが、はたして国家の生成目標の具現された結果なのであろうか。
その理想を掘り起して再復させるために梁漱溟氏は隔地であるが郷村の地に、理想社会の実現を描いたのだ。その集合体が国家なるものとの信念であり、父巨川の理想である人の棲む社会の実現なのだ。それは上から下に流れる水のような為政ではなく、水(民)が舟(権威)を浮かべる社会の姿でもある。運動は水が万物の用となることと同様に、水(たみ)を活かす、その前提として人物を養成する教化運動でもあった。

その人(人物)とは、生死の間にある人畜の異なりやその分別を始めとして、人としての善悪を弁えることだ。そのためには欲望のコントロールを修學の根本におき、よき人生を集合体のなかに育むことだ。競い、争い、怯み、恨む、は小冨の欲求にあり、大冨は人生の禍福を眺める客観性を持つものである。

古臭くも固陋な考察だが、この再復なくして為政者の掲げる「夢」には届かない。
また、時節の転換期に見る流行り思考は、地球上の表皮に多くの毀損を生じ、各々が永続していた歴史の核を異文化の邪まにも見える企図によって崩壊させている。棲み分けられた民族には集合体を形成する過程で族長を推戴する。

ときにそれを鑑として倣い、希望を抱き、従順にして随うこともある。その呼称は様々ではあるが忠恕ある専制が安定であり理想となっている国もある。種々編出され提供される強圧的統治手法や思想は、仮借する者にとっていたずらな混乱を招いている。

例えば後の政策としてソビエトの集団農営や中国の人民公社がある。
在華二十年にわたる佐藤慎一郎氏は農民について「公社は多くの民族で構成された国家の収斂には便宜的な方法ではあるが、思想という一種合理的におもえる手法によって自然界に生息する人間の行動を画一化し、統合することは政治的には有効合理だとしても、生身の人間、とくに逞しい中国の民には無理がある。

それは、゛為政者の言っていること゛と合理ではなく「無理」に面従腹背する作戯を生ずる。また理は無限大の意味を生ずる、つまり「無理」と智慧を働かせ天理に沿う天下思想に己の営みを転化させることのできる許容量のある民族なのだ。

自然は人間に普遍的恩恵と惨禍を与える。それは循環の動きとなって遍く平等観や死生観となって人間の情緒を涵養する。そのようにして現世をどのように生きるかという姿が文化と文明となり育ってきた。しかも積層されたものに通貫するのは唯我の思想だ。それが時と量、唯我が手にする平等分配が彼の民族に合うはずはない

これが人民公社創成期に語った言葉である。





筆者  右 吉林興亜塾々長 五十嵐八郎氏 鎮海観音会 於



たしかに砂民と称され纏りのない民情だが、為政者の易性はあっても民族は滅びることもなく永い歴史を刻んでいる。また、識者はカオスと観る者もいるが、かえって混沌(カオス)でなくては人間関係の巧みさは育まれなかっただろう。善悪が存在してこそ分別は生じ、潜在する心情保護として諦観も生まれる。つまり唯我の外部に目を閉ざし除ける生き方だ。
そこには聖人君子の言などは入り込む隙はない。唯一は形式的看板と我が身を虚飾する用のみである。それは企図する実利を飾り隠すことにもなっている。

あの科挙試験を経て昇官する官吏は発財を描き、銅臭紛々としていた。その科挙試験の題目は聖人君子の有り難くも悟りある教えだ。それがいくら清廉でも数年経てば銀貨舞う状態になる。官庁は南面に門を開き税の徴収に勤しみ、民は従順としてかつ官吏を蔑む。
善悪を問わず「力」のある部分を認知して嬉々として迎合したり屈する慣性は、学問を旨とする知識人とて例外ではない。



つまり、帝を推戴し、為政者(宰相)は有司専制(官僚独裁)をおこなう体制だが、我が国もその点は模倣している。つまり近代化といわれ一定範囲の民主や自由を提供された国民は行き着く処、中国同様の「砂民」的状況になってきたのだ。そして、互いに同化しやすい環境であり、体制としては専制に進まなければ国家としての態を成さないようになるだろう。
歴史に記されている皇帝による封建、革命時の袁世凱も孫文も掲げることは違っても専制を描いた。もちろん蒋介石も毛沢東も統治の仕組みや掲げる思想は異なっても、描いたことは専制だ。

抑圧と独裁とはいうが、善性独裁は合理的統治でもある。かえって自制のない自由、責任のない民主を唯一に主たる目標とする国なるものに方が始末が悪いこともある。

民主や自由や人権を提唱している西欧にとっても、あるいはグローバルスタンダードを提唱している金融集団も、まずは固陋なる慣習を打破するために民主や自由、人権を大衆に唱えて連帯の鎖を解き、人情すら希薄なものとした。つまり砂民化である。この浸透を容易にするのが自由、民主、平等、人権の標語なのだ。
ここに触媒として先に書いた三欲(色、食、財)を喚起させ、成功価値、人生価値まで恣意的に変更させた。
それは「小人の学 利にすすむ」「小人、利に殉ず」小人、利に集い、利薄ければ散ず
のたとえを待つまでもなく功利的状況をつくりだし、「上下交々利をとれば国 危うし」の状態になってきた。

それは梁巨川先生の「人が人でなく・・」になり、梁漱溟先生の「術を失くし・・・」の状況であり、それを防ぐ手段と行動としての思想展開と郷村運動の実践となったのだ。

それは民族の情感にうまく接合しないために起きた混乱である。梁漱溟氏の志業は民族の固陋なる性癖や慣習にあった先人の知恵を活用している。だだ、欲望と異なる思想の干渉は障害もあったが、氏の達観した砂民的民族観は纏めるための要点として、人情の潤いと人心を安らぐ公平観に加え、従来の天下思想に基づく大らかな自由を作興の担保としている。そこに付随するのは、知識や技術そして郷に合った仕組みである。





山田純三郎と孫文





前列右 頭山満 末永節 後列右 佐藤慎一郎

亜細亜を地球の郷村に例えれば、郷村の自立と域内の融和を希求して、かつ西洋と争うことなく調和しようと唱えた孫文の大経綸にも通ずることでもある。もう一つは我欲のの抑制である。
逸話だが、孫文と縁のある方々にその特異な部分を聴くと、「お金に綺麗」だという。
在外華僑からの資金は上海の山田純三郎のところに集まった。「孫文先生はお金に触らなかった」と山田はいう。慶齢夫人への遺書で「上海の家を・・」とあり、同志の前で読み上げたら、「あんな幾つもの抵当に入っている家を貰っても可哀想だ」と、死後はじめて笑い声があがったという。

郷村の民は提唱者を観ている。そして無言で歓迎し拒否もする。
そこでも「人が人でなくて・・」が成否の要となる。
ささやかでも真の人情の在り処を探し、また解かる人たちがいる。
また、悪は永劫に栄えないことを知り、没落を眺める余裕もある。
況や、普遍な人情を知ることで、真の日本人はどのような人達かも知っている。

孫文は側近の山田に「真の日本人が・・」と嘆息した。
山田の兄は異郷人だと助かるものを「自分はシナ人だ」といって恵州で革命に殉じている。
孫文先生の臨終に際して慶齢夫人に独り招き入れられた山田の落涙は孫文先生の頬を濡らし、誠心ある中日民族の提携と友誼を誓った。

日本人も誠の異郷人を知っている。
だから梁先生の意志を護持啓蒙して梁漱溟氏の偉業を頌徳しているのだ。またその大業を倣い、教えに含まれた使命感は戦後の復興にも活かされている。
再度、彼の国に両先生ならびに孫文先生のような異民族に共感し得る清廉な人物が再来したら我が地の民族も範とするであろう。

兢々として鎮香を奉げ小意ながら感謝の拙章を呈上する

                      
                               2015 4 吉祥日

                                   日本郷村処士  

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小章 満州郷村運動に倣う地方創生の要   其の一

2022-11-09 01:58:30 | Weblog

広州

以下は桂林の友人が連れてきた北京の大学教授の依頼で記した拙い回顧備忘の小章である。



地球の表皮に刻まれた歴史の中には複雑な要因をもって構成された国家がある。いや「国家なるもの」と云ってもよいだろう。
その国家なるものの成立は、棲み分けられた地域や環境に適応した人間の作業が習慣化され、自然律や人為律の調和のもとに集合されたものだ。また、集合した「類」の協働生産性や「類」の増加は他地域との境際を越え干渉や侵入を行うようになった。分類すれば成立した「類」の習慣性から発生した思想なり宗教の広幡、もしくは生産拡大への欲求などもあるが、細部の出来事は学術的な部分考証に委ねたい。

ここに記す郷村運動とは、政治目的、宗教目的、民族目的などの順化運動や単なる企図をもった啓蒙ではない。また学術的に歴史経過をたどり、構造的、あるいは仕組みを検証するものではない。あえて言えば寒暖など種々な環境のなかで日々の時程を暮らす人々の下座観と、いかに生存を維持できたかを俯瞰的考察をもって考える郷村観である。

それは、既存の切り口と異なることだが、有効なる利他の増進は如何に棲む人々の心情に浸透し、かつ実利具体性のある行動に導くのか、くわえて他動的な作用だけではなく、自活、自制にある郷の生存耐力など、たとえ拙い行動や固陋な慣習であっても棲み分けられた環境に自生し、植物に例えれば繁茂する姿の一考でもある。

東洋の近代化なるものへの促しは便利性と科学的合理性を謳った。あるときは宗教に隠れて武具をまとった一団も侵入した。それは慈愛を携えてきたが、その奉仕精神はボランティア(volunteer)と称するが、義行や志行とは異なるものだった。また友愛精神もあったが、これとて色を同じくする仲間同士の協働のようなものだった。だが「力」のあるところを探り、その「力」に寄り添うことによって得る名利は、多くの人々に馴染むものでもなく、逆に阿諛迎合する徒を生み出し、不特定多数の郷村に棲む人々の自然律を含む永続的成功価値なり人情に基づく情理まで毀損するようになった。

それは己の立脚を維持するであろう多くの他の存在を顧みず、強欲にも映るエゴイズムを当然な在り様として発生することとなった。多くは財であり、責任あるものは「昇官発財」を一官九族の繁栄の要とすることでもあった。ある意味、個人が郷を脱し繁栄を夢見ることは自然の流れでもあり、天地の間に棲むという天下循環の意識を「財」に帰着させれば当然な姿でもある

それのみを否定するものではないが、唯、才あるものが欲しい貝(財)を得るだけのことでもある。それは一つの在り様ではあるが、標題にある郷村作興の本意とは違い、後の章に記す「人間」の義や徳を掲げた生存の永続性とは異なる様態であろう。

国家成立においては政治、宗教、思想の統一のための試みもあったが、それとて遠大な歴史からすれば一過性の事象に過ぎない。たとえ時節に歓迎される成果があっても、大よそは国民という名への集約目的が多く、不特定多数の部分統合の形であっても各々の連結経路は間断することのことが多かった。つまり個々の算術的総和は全体として形は出来ても内実は乏しかった。

それは為政者が統合と富国を企図するために、個々の郷村の平準化なり制度化をいくら成文化(法律・規)しても、棲み分けられた郷の人々はあくまで固陋な慣習を基として、あくまで為政者に沿う表層の様態を繕うだろう。その為政者との間(ま)は、琵琶の音調のように気に合わせた自在な調律を奏(かな)で、一時として束縛された平準な規律はない。

それは「言うことはごもっとも、言うことは聴く、逆らわない、唯、天を仰ぐ自由が欲しい」と言外に表現をしているのだ。それが、゛国家なるものとの間隔の取り方であり対応の智慧だった。

あえて申せば、国家なるものが施政の数値的合理性を求めたり、前記した思想や宗教が人間を介することによる拡大や伸張の欲望が行われたりすれば、なおさら融和的連帯や親和心から導く信頼すらできなくなってしまう。その意図が彼らの勤めだとしても郷村からすれば見透かされた小欲でしかない。

それは二律背反となり潜在する意識は面従腹背となるだろう。郷村の民はこれを自然律に倣い「大富在天」として、智慧で生きる大欲を備えることになる。それは「陋規」としての慣習や掟、そして狭い範囲の人情を唯一潜在する力として、宗教の戒律や為政者の掲げる「清規」を作戯のように使い分けることによって郷村を守護していた。







もとより政治は人をどのように考え、統御し、維持するかが命題である。いくら時代の潮流に乗って数値比較の繁栄を得たとしても、潜在する「力」の継続性には敵わない。故に易織感覚があるのだろう。それは船を浮かべる水の作用に似て、まさに哲人が覚る「上善如水」の処世訓である。

また、天地六方の循環の妙を含み禍福の交差や積層された知恵として人生全般の時程に収められる余裕なり、諦観を生み出している。これが潜在する力であり情緒として人々の心に刻まれている。
人間と自然、人間と人間、その折り合いは多くの先住した賢人が編んだ万巻の書に記されている。また己を探求する事柄も、それを知るための手立てとして数多、顕示されている。

じつは数多の事績を考えるとき、記した事柄の検索も大切なことだが、書いたり、唱えたりする人物に興味を抱くことがある。出生地と環境、時代観、家族、影響を受けた人物や交流関係などに興味をそそられる。それは記されたものが自身の内心に喚起すればするほど前提としての興味が湧いてくる。ときに精神的衝動を促し、対面すれば背筋に冷たい汗が流れる感動を覚えたときは尚更のことだ。

同じアジア圏に生存し、主義なるものを違えている国に中国がある。違えているといっても、異なりは政体の呼称だけである。また多くの文物は交互して、原典発生地では忘却されても日本など異郷において伝播昇華する思想や仕組みもある。その意味では友邦ではあるが、ときに起きる離反も効を成していると思えなくもない。

また、それを必須なものとして護持し、広める経過では伝播した地域から元の原典発生の地に再復する妙もあり、決して為政者の統治用語や仮装に用いられるだけでなく、東洋圏の深層の情緒にある善性の蘇りにおいても、たとえ異郷といえ、いずれかで護持しなくてはならないものなのだろう。

とくに必然性を認めたなら功利的な世俗から忌諱されたとしても、あるいは生地が異文化に転化したとしても護持すべきものは後世に甦る。この確信的逆賭こそ人物の為し得る学問的作業であり経年集成であることは言うまでもない。往々にして俗物的対価を企図する勧学が学会を覆っている現在、異郷において隠蔵護持される志気なり義志ある行為こそ、真摯に倣う読書人の学究であり人格の範であるべきだ。

標題に掲げる満洲の郷村運動は清末の哲人梁巨川の子息、梁漱溟(りょうそうめい Liang Shu-min1893-. 1988.6.23.)氏の郷村運動にその範をみた。そこで前記に照らして、まず父である梁巨川先生の志気について記したい。









数十年前に同学の友から「一読書人の節操」という著書をいただいた。監修は景嘉、出版は日本、発行も日本人だ。内容は清末の哲人読書人の梁巨川とある。帯にはこのようなことが記されていた。
人が人でなくて、どうして国が国として成りえようか
複雑な要因を以て構成されている国家なるものも、その歴史の綴りは人間の所作だ。その人間の問題なくして複雑な成立要因すら解けるものではない。それは東洋圏の一学派の問題ではなく、地球の表皮を食い荒らす人間種の宿る問題として考えることだ。


その宿る問題のなかの一つに現世利益がある。それは死んだらお終い、生きている間に三欲を満たす歓喜や栄華を至上のこととして、その為には善悪の別なく知恵を絞ることが生を受けたものの当然な行為として、聖人や君子の賢い論を「看板の話」として対為政者への態度を見せることである

                              (三欲・・食・色・財)

その意は「上の政策に応じて、下に対策」と生きる人々であり、知識人(読書人)を九儒、臭九老と嘲笑し蔑む人たちの群れである。
しかし哲人は「聞くか聴かないかを案ずることは機会を失くしてしまう。聞こうと聞くまいと私はいま言うべきことを言うまでである」と喝破した我が国の幕末の武人、横井小南を彷彿とさせる。

その稿録者序にこう記されている。
「論語に云う。仁以て己の任と為す また重からずや 死して後已む また遠からずや」と。

これは中国の読書人のみならず、人として千古不変の原則である。

・「…世界で発生するあらゆる問題、国際間で起こるあらゆる問題、および一国一家に起こるあらゆる問題は、実は人間の問題から切り離せないということである。そして人間の問題としては、とくに東洋の伝統が主張する人格の問題がとりわけ重要である・・・。人心、人格、信義の重要さを知り、とくに精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負と己を偽り相手に従うことの不可、強いて相手を己に従わせる不可を、こころの深奥のところで反省することである」







その表紙帯には「読書人とは聖賢の書を読む人のことを云う。聖賢の書には聖賢の教えが記されている。従って聖賢の書を読んだ以上は、その教えを実践しなくてはならない。即ち読書人とは聖賢の教えを実践する責任を負う人のことである」   

この序を眼にするだけで、梁巨川先生と子息漱溟先生の学問と利他行動の意義を著す章を通貫できる。しかも後続の著書というべき漱溟先生の「人心と人生」の序には同様な風儀が醸し出されている。

中国古代の礼は、私が以前から云っているように、理性が早く啓け、文化が早熟であったために起こった。それは元来統治階級によって作られたものだけれども、今後の人類の新しい社会が必要とする文化建設に、大いに参考になることを知らなければならない」

孟子の言を以て付け加えるなら「辞譲の情,礼の端なり」がある。互いに譲り合う心、許し合う心がここで云う「礼」の端とすれば、統治とか知性の他動的、後発的なものではなく、生まれながら保持している「性」、つまり知の徳性を自ずから認知して、自他の厳存を知り、礼の効用によって徳性(個々の特徴)を発揮することだと云っている。

また、その人間の特性すら地球表皮の神羅万象の一部分でしかないが、それとて唯我独尊的我欲に邁進して真の実利とは認知しない、「礼」のない世界(無礼)について将来を推考している。

そこにみえる一種の絶望感は民族の諦観としてこびり付き、しかも唯我独尊的と書くような連帯の希薄、自然との不調和として浸食同化するように地球の表皮を食い荒らしている。

その欲の多くは唯我の「小欲」で、不特定多数への利他の増進である「大欲」は微かだ。これでは序に記す「術(すべ)・方策」などは見当たらない。

「科学の発展は今日に至ってすでに原子、電子の種々の幽渺(れいみょう 奥深い)に達し、また能く宇宙に遊泳し、月に到達するなど、物の認識、利用、支配において術なしとはせぬが、顧みれば地上の人為的禍はまさに急で、しかもこれを止めるスベが無いのである」

つまり、三欲に欠かせない知欲と物のバランスとコントロール如何で世の中は変換し、科学技術と人間の関係の調和が無ければ人為的禍となり、単なる多寡を争えば人間の徳性すら毀損させる。それは人間の最上の価値とされる財においてもっとも顕著に表れる現象のようだ。

つまり、財のために殉じ、財のために学び、また情を財で買い、集合体である国家なるものすら毀損させる事になる。つまり自省や自制のない獣のような群れが跋扈するようになるとの警鐘だ。            
いわんや、それらの群れは、師あって学ばず、知って教えず、学んで行わない。


満蒙開拓 協和と義志の精神

ある時期、筆者は年一回催される「笠木会」に毎年招かれていた。
参会者は元関東軍高級参謀片倉衷、古海忠之総務次長、五十嵐八郎吉林興亜塾長、佐藤慎一郎大同学院教授、十河信二など、ほか満州関係の関東軍、施政関係、満鉄調査部、政界では三原朝雄、あるいは児玉誉士夫、岩田幸夫氏等など毎回30名ほどが参加していた。それは当時では対立勢力のようであった関東軍と満州國官僚が共に笠木亮明を偲び満州時代を回顧する場でもあった。

マスコミなど部外者はないが、噂では戦後の高度成長をを先導した統制経済官僚、政治では岸信介を筆頭にした政官経の満州人脈の集いと喧伝されていた。戦後生まれは筆者だけである。

 満州で成功した統制経済は勤勉な民族的特質と性癖を読み解いた岸氏を始めとする統制経済官吏の成果であり、社会主義とも模せられる経営でもあった。それは戦後の興銀による集中投資や国鉄の十河総裁などにみる高度成長経済の前段である経済の基礎的(ファンダメンタル)部分の構成指針にもなった。

 また豊富な人材に加味する目的意識と集中力、緊張感の醸成については、民族の調和と連帯のもつ増幅された人間力が必要だった。
満州の「五族協和」と「王道」はまさに内なる統治を経済とともに強固にするためにとった良策だった。なぜなら勤勉でお節介だといわれた日本人だが「旅の恥は掻き捨て」に反して、内地の柵(しがらみ)ない新天地での開拓に精神が好転反応するかのように変化して、本来の気質に加え、使命感、義務感のともなった行動として躍動した。

好奇心、集団行動、その民族的特異点は満州の地に適したようだが、もう一つの悪しき特徴は関東軍の謀略によって獲得した地域であり、異民族に池に侵入した集団であったことだ。よって一部は夜郎自大のように振る舞う輩もいた。内地で食い潰したものなど、彼の地からすれば不良外国人である。

それを覆う理由ではないが物事には起点と底流がある。その一つにシナの辛亥革命がある。

当時の先住である漢民族からすれば満州族の清朝は北方へ駆逐すべき存在だった。そのためには日本の協力を得なくてはならなかった。その時の逸話だが、革命の領袖孫文が来日時に桂太郎と東京駅の喫煙室で会談している。

孫文は桂に問う。「このまま人口が増え続けたら日本はどうなりますか」続けて「日本が生きる場所は、満州です」「満州を日本の手でパラダイスを築いてほしい。そしてロシアの南下を防いで欲しい。でもシャッポ(名目リーダー)は地元民・・・」くわえて「いずれ日本とシナは国境を撤廃して提携し再びアジアを興しましょう」首相を退任していた桂だが、黙って立ち上がり固い握手をしている。

きっかけは張作霖軍閥との事変だが、満州國成立と満族の愛新覚羅溥儀を皇帝に推戴、ソ満国境には関東軍を配備してソ連の南下にあてる。まさに孫文と桂太郎が話し合った内容そのものである。



台湾立法院院長 梁粛成氏  筆者  丘昌河氏





王荊山遺子と佐藤慎一郎氏


後世の記述では植民地や偽満州といわれるが、新京の大同学院ではなんら民族に拘りもなく、俗にいう植民地官僚に満人や華人も任官している。笠木会で総務庁次官だった古海氏は待遇も給与も差別なく行うことが協和の根本理念に沿うことであったと回顧していた。庶民生活では日本人官吏が清廉なので賄賂が下に流れてこない苦情も多かったという。

後の台湾立法院の梁粛成院長も満州時代は充実していた。植民地官僚といわれたが、そんな差別もなく日本人を大勢部下に持っている満人や華人もたくさんいた。
実業家丘昌河も梁氏ともども大同学院の日本人教官だった佐藤慎一郎氏をいまでも恩師として畏敬する学友だ。新京の実業家王荊山氏は日本人帰還者のために馬車100両の食料を提供している。

それらの逸話は日本人が書くと我田引水のようだが、「人情は国法より重い」という普遍的関係においてこそ発展した彼の地の出来事だった。先ずは人間の信頼を基とした協働であった。

人格をなんら代表することのない附属性価値である、高位高官、高学歴で素餐を得る忘恩の徒は民族を問わず寄生虫のように派生する。

それを排斥するのではなく、矯正し用とする梁巨川先生の唱えは、潜在する善性の人格涵養を基にしたエリートの存在如何で郷はいかようにも転化すると云った思想と理念でもある。それは郷を興すのは、あくまで人物を得て、人間を良化し、善き習慣性の基、資材を活かすことを前提とした子息梁漱溟先生の根底の理解でもあった


つづく

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手を汚し、媚びへつらう者の謂う国益   H10 10 あの頃

2022-11-05 05:00:05 | Weblog

                津軽岩木の祷り



日本の西には日本海、中国の東には南シナ海がある。そのシナ海が荒れている。
前総理は「友愛の海」といったと国内は騒ぎたて、まるでエンターテイメント「朝までテレビ」の売文の徒、言論貴族、貰い扶持議員の狂態の愚に倣うように庶民は呆然としている。

器量や度量を測ったのか互いに「なめられている」と思い、また思われ古女房との力関係を試すかのように稚拙な抗論が交差して妙に間合いが取れなくなっている。

近すぎず、遠からずが似て非なる民族との交誼ではあるが、そもそも同族、家族(国家)を忘却した小商人を虎の子として彼の地に誘引された親としては歯がゆい対応しかできないのは欲と人情の常である。

しかし、それは飽くまで庶民の感覚である。分別極みのない気弱なオヤジの姿である。

それは安岡流に言えば「芯の無い」人物のありきたりの醜態ではあるが、左派、右派を問わず、多くの選良が招待外交の餌食となり、群流として国民を欺いてきた。

あの河野洋平氏が台北空港で駐機した際に一歩も機外に出なかったことを北京の高官にわざわざ伝えたが、清廉といわれた縁戚の議員T氏も選挙になると東京の華僑総会に屯っていた。それは、゛人情゛が出るまで待つという卑しい姿だった。これが一部の親中派である。
当時は大豆が小遣いの糧だった。


人情とい名の小遣いの提供は華人圏の倣いだが、問題は、手を出す、あるいは慇懃に懐を開いて落ちるのを待つ受け手もいる。政治家だけではない。ここのところ元気のいい売文の輩や言論貴族も親台派と称している徒が多い。利権は政治家だけではない。交流会、研究会を催してちゃっかり小遣いをせしめる堕落知識人もいる。

元通信社の友人の体験だが、外国語を専門とする有名大学の教授は机の引き出しを開けて、これ見よがしに見せていたという。もちろん台湾からの小遣いだ。いまでも何かというと中国を非難しているN氏だ。いまは就職率の高い新設大学の学長に納まっているという。

佐藤慎一郎氏も山田純三郎(孫文側近、国民党顧問)の関係で学術交流に参加したことがある。日本側責任者は有名な親台派の教授だが、帰りに小遣いを提供された。

佐藤氏は他国から金を貰って何が友好か・・・と独り拒否。それ以来、その会からは招聘されることは無かった。あくまで貰ったら仲間なのだ。

数年前にThink アジアで訪台した。李総統の後援者で経済界の実力者であり、後の交流関係の責任者にもなった方と面会した。印象的な言葉は『親台派といわれる議員や学者に色々と便宜を図ったが、何も意味のないことだった』とあきれたような雰囲気で語った。便宜とは貿易利権や学者に渡した小遣いだ。もちろん接待供応も過大なものだ。

知らぬは日本国民と台湾の人々だが、食を減らし、貯金を取り崩してまで震災に援助した人々の心を踏みにじる偽の親台は日本及び日本人の恥として先覚者に懺悔するべきだろう。

あの後藤新平(台湾民政長官)が先ず行ったことは、台湾にシロアリのように巣をつくった不良日本人官吏の追放(更迭)だった。そして新進の技術者や官吏を登用した。その中には八田与一や新渡戸をはじめとして、今でも偉人として顕彰されている人物も多くいる。

国内では変人扱いだった後藤の人物を見抜き登用した児玉源太郎も畏敬されていた。その証は児玉が好んだ藤沢市江の島に建立した児玉神社にある。資金不足を案じた台湾の有志は建立費用の70%を拠出、台湾ヒノキの社殿、狛犬、鳥居などその刻名にその義援をみることができる。


外交利権は歴史の負の大義を謳いつつも多くの隠れた盗賊を育てた。

古くは賠償利権、資源利権、ODA土木利権があるようだが、これは政権派閥の手中にあった。左派は教科書、歴史認識を手駒として便宜的思想を背景に媚び諂い、国内の反体制運動に分別のつかない青年を煽って闘争を繰り広げた。もちろん資金援助もあろう。

戦時賠償利権で蓄財した政治家は「資金は濾過しなくてはならない」とほざいたが、外国からの資源や賠償利得、加えて総理専権のODA(事業借款、工事)に選定した国内企業からの献金は証拠が残らないように現地法人から、ヨーロッパの某市に作った○○館を舞台に濾過している。

後の軍事航空機問題で国会が紛糾した時は金庫番の秘書を○○館に逃している。縁者も似たもので、国会召致されそうな問題職員は海外公館に逃し、海外訪問や援助額も記録的な数字を誇っている。しかもその館の建設資金は財界の利権仲間に拠出させる厚かましさもある。

よく総理が在任中、何カ国訪問したと実績を誇るが、訪問には手ブラで行かない。事前に御用聞き調査企業が土木や医療、はたまた原発の売り込みに行く。長期政権になると数十兆の資金が支援という名のもとに日本の司法、行政(会計検査、税、検察)の治外法権である諸国にばらまかれ、前記の海外の蓄財場所に集められるという。隣の大国を笑えないが、援助国の指導階級に賄賂を渡すことに長けた国は量においても当時の日本は有名だった。それからするとキックバックも莫大だったのだろう。

なかには、党の会館建設資金まで他国に無心した国賊的政党もある。資金のあてもないのに建設準備委員会を作ったが、いくら議論好きの連中でも先立つ金がない。すると幹部の一人が3億円調達してきた。口達者だが汗水働いた金ではないことは確かだった。「○○からだ」国の名前だが、こんなことは朝飯前だと言わんばかりにほざいたという。

右も左もカネには目がくらむ。それでいて民主だ、自由だ、人権だと美辞麗句を並び立てて、ときに涙を流し土下座してまで票を騙し取ることも長けている。これらが自衛隊を指揮したり、国の代表として外交を行うのだから衰亡は必然だ。




改革、施策 より、整理整頓のすすめ



筆者も感じたことだか、北京で高官と会食があったとき、始めは決まりきった「日中友好を祝して・・」と唱和して乾杯がある。もとより政治家でもなければ商人でもない筆者は

「お待ちください、ユウコウは、゛友の好き゛と書きますが、文字遊びをすれば、゛誘い降ろし゛(誘降)ともいえます。友は実利が無くては貴国の倣いになりません。実利は技術と資金ですが、その意味からして私は土産もなく意味の無い訪問です。これからは乾杯は日中の意を共にして「アジア万歳」ではどうだろう」
通訳は戸惑いながら其の高官に伝えた。場は沈黙してしらけた。しかし其の高官は意を得たかのように言葉を発した。

「其の通り」来客は驚いていた。そして「今日の席はそれで行きましょう」
すると接客係りに命じてニンニクを山盛りにした器を目の前に置いた。他の相伴する客は机一杯に並べられた山海の珍味に箸をつけているが、其の高官は普段飲んでいる京酒(度の高い高粱酒)とニンニク(辛くない)をかじりつつで通訳を交えて歓談した。

自然な言葉だった。手前勝手だが、彼等の信頼する客は自宅でごく普通に食べている奥さんの手料理を振舞う。利に添うものは食べきれない豪華な料理で歓待する。

もちろんごく普通にこんな話もあった。
「中国国内の会館の優先的使用を認めますので、この施設でも宝塚歌劇団の公演をしてみませんか」

其の言葉にこう応じた。
「それは日本では利権屋といいます。そのような付き合いは利交、熱交、あるいは詐交といって長続きしません。自分はは小商人や政治家ではありません。わざわざ北京に来たのはその理由ではありません」
もちろん京酒が数本、山のようなニンニクも飲み干し、食べ尽くしたことは言うまでもない。

しかし、不思議と酩酊しなかった。
【それは天安門の騒乱から6年目の訪中機会に、再びあの青年達と同じ空気を吸った場所に早朝行ってみたいという予定があったからだ】


              

          芽は小さく思いがけず


彼等は邪まな気持ちで言うのではない。便宜は人情だからだ。ただ、金の関係はあくまで他人である。そして「力」を勘案したら別の「力」に移行することを自然なことと考えている。

それゆえ日本の政治権力の在り処を注意深く観察している。また「力」によって多くを獲得しても、もっと多くの利があれば乗り移ることは自然の行為としている。
そこに日本風に「義」や「人情」を添えたところで、意味の無いことと考えている。

そして狭い範囲の利の交わりは互いに利で潤うことで仲間意識が生まれる。賄賂でも貰わなければ仲間ではないという考えだ。日本では貰わない人間が貰った人間を責め、付き合いの悪い人間として排除されるが、彼等は貰うものが意味あるモノなのかが重要な判別だ。

ある意味では欲に素直なのである。
彼の国は「財、意の如く」「招財」と年賀状にあるが、我国は「謹んで貝を加える年」と「貝(貨幣の代物)」を謹んで加える「賀」(加と貝)と表して我欲を隠すような表現をする。

今時の流行り言葉で、゛ぶっちゃける゛゛本音を云えば゛゛どうせ゛にある腹を覗くことだが、敢えてたとえれば関西風と東北風の違いがある。
ただ、関西風の「あけっぴろげ」だけではなく、直感的に異民族との間合いを勘案する習慣的智慧があり、しかも透き通った人情も秘めている。

クリーンハンドの法則というものがあると聞いたことがある。アカデミックではないが
一度汚れた手は記憶が続くまで洗っても綺麗にならない、という法則だ。

はたして親中、親台といわれる知識人、政治家にクリーンハンドはどれくらいいるのか。
つまり「公」を表す立場に「公私の間」の分別はあるのだろうか。
あるいは官房機密費に群がり、手を出して選別を貰い、あるいは饗応を受けた政治記者、政治視察団の心中にクリーンハンドの法則は無いのだろうか。

もし他国の意図的な提供に吾が身は汚さなくても縁者、商社を介在してキックバックを得るものは、相手国からすれば、゛お小遣い゛゛便宜的お仕事゛を与えて人情を引き出し便宜供与を受ける仲間として認知される。

特に力関係と外交環境が変化すれば、その特異なる清潔性を求める我国の国民の信託に耐えられなくなり、外交交渉すら当事者の力関係を軽んじられることにもなる。



                 
 
             もみじの裏模様



つまり、彼の国の習慣と我国の習慣は当然異なることを知らなくてはならない。
また「力」の応用と獲得の手立ても違う、其の点、我国の政治家は脇が甘く稚拙と言わざるを得ない。

文部省カリキュラムにはスポイルされたカリキュラムがある。それは中央集権体制という権限集中とそこに蠢く官吏の既得権を容易にする数値選別の「羊群」とは異なる、人物養成の人間学ともいう学問だ。困ったことに数値評価も適わないし、土壇場でしかその涵養を観ることができないものだ。

標記にある「手を汚す・・」も其の場面の所作の問題だが、それが正しいかどうかは、「公私の間」の見方だ。

政治の「政」は「一」に「止まる」つまり正しいということだ。其の止まる一線に止まれるか、止まれないか、とくに他人の目が無いところでの行動である。
また、「これだけはしてはいけない」「これだけは為さなければならない」という一線として、誇り、矜持に当てはめるが、簡単には欲望のコントロールと使命感、義務感、あるいはヒューマニティーや松陰の「士規七則」の冒頭に記されている「禽獣と異なる人間」の問題であろう。

食い扶持、貰い扶持の源泉となる官製学校歴にはないカリキュラムだが、手を汚し民族をも辱める彼等は何を学んできたのだろうか。それとも禽獣なのか。

人の世の世界はホドも潤いも人情も有る。
しかしそれらは自然界の森羅万象に照らしてみる些細な人間界の倣いだ。
環境も騒がれているが、自然環境より人間の精神環境の劣化が及ぼす欲望のコントロールの欠如は些細な人間界さえ消滅させる負の「力」がある。
いまその抑えられていた「力」が、野蛮性を加えて禽獣のようになって増大している。

松陰先生も、その人間の劣化を予見したのだろうか。

すべからず人間(人)の問題なのである。



  写真は平林禅寺

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