まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

天地逍遥のすすめ  天に舞い、地に伏す  2010 再

2014-06-19 11:18:14 | Weblog
              
             天使のような童







天に舞い、地に伏す

月からみる地球には言葉は要らない。いくら説明責任といわれても捜す言葉が無い。
一方、上賀茂の脚下に生える葵(あうい)を擦ると、弱々しい可憐さを魅せるとおもった瞬間、大地に頬ずりしたくなる強烈な誘引がある。
上賀茂の神は別雷神、葵(あうい)の在るところ神は降臨するというが戦慄(わななき)さえ覚える

近頃では寒天の星のお陰で眸も洗われるようだが、世俗の話題では聴こえることはない。
「見る」と思っているのだが、「観られている」ことも忘れているようだ。

雪も積もれば、幾ら自然と人間の共生だといわれても一時の難儀はある。当たり前のことだが秋の次は冬、そして春が訪れることを知っているから難儀は当たり前となるが、人間社会の食い扶持、放埓に堕したものは秋も冬も見たくはない。

いくら星は観ているといっても、そんな細かいことは大宇宙からいえば無意味なことだ。
月の砂漠で熱燗を呑みながら漆黒の闇に青く光る地球を借景に何を考えるかと、寒山の拾得和尚のように眺め見た。







                    





まぁ・・お天道様の自家発光が在るからまだしも、無ければ漆黒、つまり玆(げん)である。
「玆」は玄が複数あるということだが、ただ加えたのではない。玄、つまりクロが一巡してクロと合うことだ。季節の四巡りのように春、夏、秋、冬とくれば次は春だ。
しかし、だれも逆周りは考え付かない。でも順路からすれば逆戻りがあるのも当然だ。
いくら地球の自転方向が決まっていても、一応、北が上で南が下でも地軸が逆転すれば逆
周りと同じことだ。

以前はバカなことだと考えていたが、「デイ・アフター・トモロウ」や「コア」などのハリウッドものがその近未来世界を暗示させ、近頃では2012.12の古代マヤの終末暦が取り上げられているが、我国でもその日は冬至であり、キリストの誕生日。終わりの始まりの日だ。昔話ではアマテラスが天の岩戸に入った為に漆黒になった、そこで鐘や太鼓や踊り、しかも女性(陰)の狂舞でアマテラス(陽)はお出ましになった。

そう考えればアマテラスは男だということが判る。陰だけでは成り立たず、陽だけでも成り立たず、神道用語では「産霊」と記して「むすび」と読んでいる。
婚礼の三々九度も女(陰)と男(陽)とが盃を合わせれば二度で済むところを、神にも誓っている。男と女が交わっても子供は生まれない。もちろん情緒も生まれない。神ともども産霊(むすび)を誓うことで、゛三合にして成る゛と形作っているが、西洋合理主義の世界でも教会でそれを誓っている。

アマテラス、お天道様が隠れればキャンバスではあるまいし、漆黒には色はつかない。天空の色はお天道様の作品だ。津軽の鉛色もゴールドコーストのエメラルドもそうだ。ただ東京、上海のゴミカスの浮遊は別物だが、いずれにしてもお天道様の光のなせる業だ。

其の危機が訪れていると地球ではもちきりである。ソーラー流行りもアダ花のようで、危機を煽る側も備える側も人間の食い扶持の企てに踊っている。暗くなるのと、それを頼りの自家発電、まるで欲食い、大病、保険と医療、そして防衛貯蓄、デフレスパイラル如きで驚いてはいけない循環下降が人の動きに訪れている。





                 






ところで、その地球の人は何を見たり、聞いたり、触ったりしているのだろう。
時折、音が出たり煙が昇ったり、表面が揺れたりしているが、なんとも騒がしい。
プスプスとガスが飛び出すように至る所で終わりなき争いが起こっている。
神も仏も精霊もいるのだろうが、それさえも食い扶持にして愚かになった人々を扇動している悪がいる。

二つの大戦の終わる頃、日本という国の賢人がこんなことを謂っていた。

「劫火洞然 君歎ずるなかれ 塵余掃って 祲ぷんの絶するをみる」

【とてつもない火がすべてを焼き尽くす、しかし君は歎くことはない、その火は塵、芥を焼き尽くして、忌まわしい気風が絶えて素晴らしい世界がくる】

しかし、それから60年、また循環が元に戻った。玄が玆になっただけだ。
そして、漆黒の中で光るもの、一隅の灯火がよく見えるようになったことだ。
だが、これにも易しい説明責任があるのだろうか。それがガスとともに噴出する塵芥に対するものだとしたら吹き飛ばす清風が欲しい。

その賢人はこうも遺している。
  「清風の至るを許す」

それを書いた短冊を鉄風鈴に下げてその清風の訪れを聴いていた。
彼は言う「夏炉冬扇」【夏の炉辺、冬の扇子】のような人物は、期を読み解けない地軸の狂った地球のようなものだ」と・・・ 

騒いだり、歎ずることはない。空を見上げて地に頬ずりすることだ。たかだか人間種の二足歩行はそんなことも、゛おっくう゛になっているようだが、天地は本当の生きる証が沁みてくる。それは在るを忘れていた己の潜在する力を悟ることでもある。

ならば、今見ているもの、聞いているもの、触っているものは何なんだろう
そんなに気になることなのだろうか・・・
コメント
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