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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

武人が自らに「尊敬」を請う時代なのか

2025-06-23 16:53:20 | Weblog
 極東軍事裁判 インド選出判事 ラダ・ビノード・バル博士

『時が熱狂と偏見が過ぎ去り、女神が秤の均衡を保った暁には、賞罰のおく処をかえるだろう』簡訳


 あのアメリカ、ソ連、今の中国など世界を相手に、お祖父さん、お祖母さんたちが戦って、白いコメなど口にすることもなかった時代があったことを知らない世代が多くなり、かつ軍人が現業公務員となった今どき流行りのAI合成映像と思いたいが、友人から元陸上自衛隊員佐藤正久議員の国会発言動画が送付されてきた。



厚木 マッカーサー

それは戦後間もなくGHQの意向に沿いつつ、いかに旧態の状況から脱却して新憲法のもと戦争放棄、武装組織の解体を謳いつつも、世界情勢の変化に新たな軍事組織編成の促しに苦慮していた時期の吉田茂総理の言葉の「間違い!」との発言であった。

今でも総理が統括する内閣で防衛部分を司る防衛省の行政職現業職員、制服組といわれる自衛隊員退職者が問う最高指揮官ヘの指摘である。
それは多くの隊員のあるべき姿への願望や、当然そうあるべきだと隊員もそのように願っているという、国民代表の議員に向かっての発言のようだった。

戦勝国の強大な軍隊の占領下において、敗戦した国家の指導者とすれば、頭を低くして嵐の通り過ぎるのを忍耐強く待つ時期でもあったと察する。

かといって軍組織が跋扈し、継続した国家の「維」を棄損しかねなかった戦前の状況を繰り返すことのないよう、吉田氏なりの慎重な言葉を新編成の自衛隊員に述べている。それは憲法下において継子扱いのような組織への、矛盾した現況を共に、伏して協働しようとする最高指揮官としての、声を潜めた覚悟のような言葉だった。

旧軍なら考えられないような部下への低姿勢だが、激戦下では大元帥には誤った戦況を伝え、現地の詳細を把握せず机上で指揮をする参謀、陸海の予算確保争い、錯誤のある情報伝達、改めることを良しとしない陋規(狭い範囲の掟や習慣)など、吉田氏にとっては繰り返してはならないことへの憂慮か心中にはあったろう。その意味では二つ意味が浮かぶ状況だった。


 国際貢献

令和の現況は、近隣諸国の動向に応じ、戦勝国の要求があったと思われる防衛予算の増大、戦勝国米軍の指揮に沿った配置と共通装備品の購入、経験したこともない莫大な資金の運用でも、冗費、受注先からの便宜供与や天下りなど、吉田氏が憂慮したもう一つの心配の種が増殖している。
それは政治でもコントロールできない吉田氏が想像したような状況の出現だ。

吉田茂は自衛隊創設時、隊員に「控え目であることを耐えてほしい」と。
しかし、陸上自衛隊出身の佐藤正久議員は、「これは間違っている・・。尊敬されるべき立場だ」と、自衛隊、海上保安官、消防士、公安警察など現業組織をあげて発言している。
なぜ、自衛隊のほかを羅列したのか、それなら行政現業職と発すれば立場を共通なものとして国民の理解に分別はつく。
 わかりやすくは肉体的衝撃が想定される公務員の職場には相応の待遇をと、国民代表者である議員に請うべきだ。

あえて元自衛官が語らずとも国民は承知しているが、議員を通して元自衛官が国民に向けて「自衛隊ほ連呼した公務信は尊敬されるべきだ」と大言すれば、昨今の議員の金にまつわる不祥事、毎日のように多発する警察官の犯罪行為、教員による破廉恥な事件に、あきらめにも近い怨嗟の思いを持つ国民の耳に、果たしてどのように届くのか、生命財産の守護、安全安心を声高に謳う議員なら判らぬはずはない

仲間の国会議員なら聴いてくれる拍手もするだろう、また感動するものもいるだろうが、市井の賢者は、あの時のたどった道と,苦い想念がはたらくだろう。 何よりも大内山のご心痛はいかばかりかと拝察する

片腹が痛い四角四面な建前ではあるが、先ずは部下が直属の上官を信頼する環境を醸成し、上官や司令官は国民の代表者である最高司令官たる内閣総理大臣を信頼し、尊敬に値するであろうとする立場を護持し、その命令に生死をかけて精励しなくてはならない。それが自衛官の誓詞の所以であり、自衛官応援隊長を自認する国会議員として、佐藤氏の後背組織へ向かっての厳言でなくてはならない。それでこそ不特定多数の安寧を護持する貴員の国民に対する誓詞ではないだろうか。




被災地で膝を折りねぎらいのお言葉を・・

尊敬なるものは各々国民の内心にもともと存することではなく、慎重に観察しながら湧きいずるものでなくてはならない。とくに旧軍の禍福の逸話や国民の体感に観る、防人、武人、軍人と呼び名は変化しつつ、かつ変容する姿を心中に留め置きながら、現代の行政職自衛官の様態を「尊敬するべき」あるいは見倣うベキ人間像として、慎重に遠望している(眺める)いるのが、世上の実態ではないだろうか。

これは、政党政派や思想信条を内包する難儀な煩問ではなく、無関心、ことなかれの浮俗の様相に、ふだんの生活では語られることもない死生の臨場を直視することで共感を生み、たとえ模擬環境でも想像し察することへの促しが必要なことだろう。

地球の表皮では休むことなく軍事紛争が続いている。想像はいつ何時でもできることだ。怯え,恐れ、破壊、殺戮は、他山の石ではないはず。
※「匹夫に責あり(ひっぷにせきあり」、防衛を職掌とする自衛官のみならず、国民にもその責はある  ※ 国の興亡の責任は等しく国民にもある
まさに言辞を「控える」意味は、自衛隊だけでなく、国民にもいえることなのだ。

それではその尊敬に値する立場の自衛官は、その「尊敬」されることを求めているのだろうか

命を懸ける職域だから尊敬に値するなら、代議士も「皆様のために粉骨砕身、死ぬ気で国民の生命。財産を守ります」と、そして、「どうか国会に送り出してください」と哀願し、誰彼もなく低頭し、土下座までしている。その反面、選挙ポスターの多くは、白い歯を晒して何故か、微笑んでいる。

近ごろは、出身組織および家族縁者、あるいは天下りOBの関連企業からの資金援助なり支持で、めでたく議員に当選した諸氏の多くは、出身組織の組織的内の煩悶を隠しつつも、組織を背景に威をふりかざす夜郎自大のように野暮な姿を晒すようだ。

よく「錯学」として、怯えを守りとして、暴を勇としたり、詐言、詭弁を智があるとする風潮がある。国家の衰亡期には表れる姿だと碩学安岡正篤氏は故事引いて警鐘している。

 安岡正篤氏


むかしのことだが、地域には尊敬される人たちが身近に存在していた。
当時は自称労働者教員ではなく恩師といわれた先生、医師、駐在所のお巡りさんなど、結婚式や町の催しにも来賓で招かれる存在だった。しかし現代はそれらの職域に庶民の怨嗟が渦巻いている。

職域には信頼をもととした尊敬なるものがあったが、多くは形式的な立場や職業ではなく人物そのものに観ていた。だが組織の論理なのか、法なり仕組みなどに埋没し、本来の関係性を希薄な状態に変化してきた。

それまでの、医は仁術、教育は魂の継承、人情は国法より重し、といったことが固陋なこととして忌避されるようになると、本来あった人物像に倣う(人物目標)意識は希薄になり、いまは謙譲や尊敬といった意味さえ失われ、職域でも事なかれ、ヒラメ、下克上さえ惹起するような浮俗となっている

防衛なるものを考えるに、軍事力、経済力など数値で国力を測り、他国と比較しているが、多くは努力すれば数値は上がる範囲ではある。本来の国力は社会の深層にある人々の情緒性と協調の姿であろう。この欠落は社会をいつの間にか衰えさせ、人心すら微かになってしまう。まさに防衛の後背を支える基本的部分の亡失だ。

佐藤氏が「尊敬すべき・・」の本筋に援用する、海上保安庁は国土交通省、消防は総務省、自治体、公安警察は警察庁、自衛隊もそうだがすべて内閣総理大臣指揮監督下における行政職職員だ。

戦前は陸海の軍組織と、参謀本部をもつ形式だが、天皇の統帥のもと政治とは離れ、大元帥(天皇)指揮下の軍隊だった。
つまり今流にいえば行政職役人ではなく、異を唱えれば天皇の大権を用いて統帥権干犯などと、軍組織にかかわれないような状態だった。それゆえ独自の気風と高い矜持を涵養する武人もいたが、なかには官位褒章も軍服を埋め尽くすように勲章や記章を貼り付け、つねに常在戦場の気概なのか、平時でも軍服,長靴、日本刀で巷を闊歩していた。当時は軽便な「尊敬」ではなく、国民から「畏敬」されるべき武人も少なからず存在した

 
露天商           朝鮮戦争


陸海は養成機関をもち成績の良いものの多くは職業軍人、今でいえばキャリア軍人で、戦前は神のような存在として好待遇で経歴を重ねていた。
その頃の教育は旧制、戦後は新制と変わってきたが、その端境期に大学にも変化があったという。食事中は騒がしくなり、マナーも緩み、校歌さえも古臭いと歌わなくなった。

それ前までは、食事の所作、長幼を弁えた言葉の分別、家庭を含めて様々な成文(条文を文章化)、不文(習慣化された掟や習慣)を問わず道徳律を基とした教養を修めた学域、職域での独自の矜持があった。

上司、組織も能力だけでなく、浸透した人格を人間の在りようとして、軍でいえば職業軍人として顕示される「容、像、体」を部下の倣いとし、錯覚した人物観は土壇場において不明な行動を推考するような、人物眼、つまり人を観る、量るような、知識、技術など習得以前に修めるべき人格、識見を涵養する前提があった。

当時は教養や見識を活かす「胆識・胆力」も人物を測る目安であった。
あの官界でも偏屈で大風呂敷とみられていた後藤新平だが、児玉源太郎は台湾民生長官に抜擢している。医官らしく先ずは防疫と生活の順化として、その前提は現地人、本省人、日本人の特性をみて協働と調和を施策の前提として、住民には既得権に増長した植民地官僚の怠惰な職務態度を改めるべく、高官、官吏1000人近く罷免している。


後藤新平  児玉源太郎


日本からは無名だか気概を以て台湾を再興できる若手の技官、官吏、警察官を招集して、発展の基礎を作っている。
人を観て、人を育て(特徴を伸ばし)、その人物に資材を委ねれば、超数的(机上の期待以上の)成果を上げることができると、八田与一、新渡戸稲造などを現地人を含め多くの人材を育てている。

この「人を観て」が重要だが、いま時の人格を何ら代表しない附属性価値である地位、名誉、財力、学校歴(学歴ではない)では後藤を登用しなかった。
元はといえば智将と謳われた児玉源太郎の人物を観る目の秀逸さだが、要は現代人が狂騒している前記の附属性価値になんら人間の生きること、活かす意味を感じていないのだ。

まして名を売り、称賛されることを避け、小欲(目前の些細な我欲・ヤリタイこと)を滅して、大欲(私ではなく公の意識、行うベキこと)に生きる道を軍人の至上の命題としている。
役人、軍人の多くは、何よりも昇官を生涯の価値としているが、裏返せば、その所以は平時ではなく、戦時に前線で生死を超えて死闘を繰り広げる兵の存在ゆえのこと

シナ派遣軍 若杉参謀こと、三笠宮殿下

「若杉参謀の訓示」 
(某組織での講話所感に応答した筆者の拙文抜粋)

・・・外形的にはそうですが、内面では生身の隊員諸士の問題意識や疑問など、矛盾の要因を知りつつも、遊惰にも映る浮俗の声や無関心、ことなかれ、あるいはヒラメと称する諸部門の様相など、理解が混沌として整理もつかず、まして気風は何となく分かっていても、自己に落とし込めば、職掌任務さえ自縛するかのようなハラスメント、内規や法の適応の煩雑さなど、知っていても言葉に出ない、学んでも行えないような環境認識が滞留することもあります。そして次は下剋上の招来です。

ものは考えようです。貴官は内心の自由は担保しています。加えて内包している自己への問いに潜む矛盾や、誰もが葛藤さえしている適わぬ自己能力や適応の計測など、集合体では明らかにできない内心の吐露は、秘かな共感となり新たな結合を誘引する心情の理解となることもあります

夫々、組織においては上意,中意、下意の立場や意見もありますが、あくまで職掌上の問題だけでなく、辿る経験での思いは同じです。

歴史上の例ですが、日中戦の泥沼化で難渋していた頃、派遣軍の若杉参謀
が将兵を集めて問いました。「日中戦の泥沼化の原因を端的に記すように
援蒋ルート問題・・・、兵站の不足・・・、さまざまでしたが若杉参謀は納得しません。
ここに的確な答えがある。沢井中尉読みなさい
中尉は怯むことなく「日本軍が真の日本人に戻ることです」と読み上げた。
参謀は発した「略奪暴行をはたらいて、なにが皇軍か。何か聖戦か。」と。
陛下の軍隊と掲げながら、陛下に御心に沿った軍隊なら、異民族の地においてこのような行為はできないはずであり、民間人に恨みを持たれるような軍に成果は望めないと。

参謀が外したあと副官は部隊幹部にこう話した。
まあ、その、今回のことは、その・・無かったことにするので・・」と蓋をするかのように若杉参謀の行為を無視した。事なかれ、ヒラメ、隠蔽、軍事エリートは異郷においても戦火に逃げ惑う無辜の民のことを無視し、国内向けの戦績評価にとらわれていたのです。

参謀が司令官に指示して集合させたり、訓導することは組織上、ありえないことだが、若杉参謀は仮名の軍職で、「若杉」は三笠宮殿下の御印で、止む止まれぬ行動でした。

この時も当初は現地居留日本人保護と経済権益、つまり「日本人の生命と財産を護ることを目的」として掲げた一つの戦争でした。しかしその行為は沢井中尉が喝破した「真の日本人」とは異なる土壇場の姿でした。
異民族に普遍な人情(譲り合う忠恕の心)、王道でなく覇道に陥った武力集団を若杉参謀は戒めたのです。

ちなみに佐藤隊員が指揮統率した国連援助部隊は、現地の異民族の苦難に応える畏敬の存在として今なお語り継がれる偉業です。それは国なる存在を超えて、今後起き得るだろう如何なる恩讐にも復た良縁の興り得る行動として、かつ、内には民族の足跡として後世に刻まれることでした。




あの日本海海戦で世界的な名声を得た東郷平八郎は、明治神宮参拝を日々の倣いとしていた。参道に歩を進めるその印象は、まるで敗軍の将のように、うつむいて足も重いようだったと記述されている。それは何ら恩讐もない日露の若者たちが大勢亡くなってしまったことへの哀悼だった。乃木希典も戦地となった朝鮮の子供に「生まれ育ったところで外国の戦闘が行われることは忍びない・・」と涙ながらに童の頭を撫でていたという。




秋山真之


海軍参謀、秋山真之は戦闘中のデッキで、「これで抑圧された植民地アジアの民が再興できる・・」と日本が魁となった海戦の趨勢をえがいていたと、心友の山田純三郎は回顧している。
その山田も「国愛すれば国賊」の章で、秋山さんは戦勝で狂乱し褒章を期待する軍人の群れを避け、孫文の中国近代化革命の援助に奔走したため、秋山将軍は精神がおかしくなったといわれていたと記している。


【秋山真之氏について】
(某組織での筆者講話資料抜粋)

秋山真之 (日露戦争時の連合艦隊参謀、日本海海戦の立役者)

受講訓話

教官から話を聞くことは啓発の端緒にはなっても、知識が増えるだけで諸君の知識が増えることにはならない。

戦史を研究し、自分で考え、さらに考え直して得たことこそ諸君のものとなる。たとえ読み取り方を間違っても、100回の講座を聞くより勝る。

そして、学生の書いた答えが自分の考えと違っていても、論理が通っていて、一説を為しているとすればそれ相当の高い点数を与えた。

もし教官が自分の思い通りでなければ高い点数を与えないというやり方をすれば、学生は教官に従うだけになって自分で考えなくなる。
その様では、いざ実戦で自分の考えで判断し、適切な処置をすることができなくなってしまう。
  
≪真之の戦争不滅論講義≫

「生存競争は弱肉強食ある.そして奪い合い、報復する」

「戦争は好むべきものではないが、憎むべきではない」

「大国といえども戦いを好む国は危うい。平和といえど、戦いを忘れた国は亡びる」

「戦争を嫌悪して人為的に根絶しようとして、かえってこれに倍する惨害に陥ることを悟らない国も、必要以上に武力を使って、手に入れたものより、失ったものが多い国も哀れむべきだ。」

そして要諦は「天地人」と説く。
  • いかなる天候、いかなる機会、いかなる作戦
  • いかなる地点をとり、いかなる地点を与えてはならない。
➂ 人の和が重要。いかなる統率のもと、いかなる軍を配置し、いかにして将官の命令を徹底するか、これが人である。

母からの手紙と兄の名刺
もし後顧の憂いあり、足手まといの家族のために出征軍人として覚悟が鈍るようであれば、自分は自決する

この母の手紙と写真、そして
「這回(このたび)の役(戦争)、一家全滅するとも恨みなし

と書いた兄好古の名刺と一緒に軍装の内ポケットに入れていた。

まさに後藤田官房長官が中曽根総理に諫言した「戦地に隊員を出して、もし戦争になったら、国民に覚悟はありますか・?」と。

国内事情を俯瞰し、まさに戦争の実態をを知るもの気概ある忠告でであった。

(以上講話資料」

※ 講話の終わりに「防大でも修得した内容とは思いますが・・」と加えた。



  山田純三郎   孫文


兄好古(秋山)も、中央に留まって軍人としての栄耀栄華を望まず、故郷松山に戻って中学校の校長になって生徒を慈しんでいる。西郷も郷の村長になっている。

破壊、殺人で栄誉を得て名を立てても、襟にバッチを飾って「国家のため、皆さんのため」「尊敬しろ」と土下座、低頭、あるいは空威張りするような醜態は当時の武人の倣いではなかった。

日露の大戦は秋山真之が揮毫もしている天祐のような勝利だったが、喉元過ぎればの様相で、陸大、海大出身者でも平時になれば組織の慣性なのか、事なかれ、ヒラメ(上司迎合)が蔓延り、怠惰、堕落の道筋をたどるように、下剋上に進んだ

戦果の数値主義、現場を知らない机上指揮、もちろん他の介入を許さない戦闘集団特有の秘密主義は、当然のごとく文書改ざん、隠蔽、廃棄が行われ、聖戦、皇軍の美名を掲げ、竜眼(天皇権威)の袖に隠れて、後の甚大な戦禍を誘引している

敗戦の報では、各地の軍事施設、霞が関の官庁街では戦争遂行の関係資料が燃やされた。その光景は空襲でもあったと思われるくらい、全国津々浦々の官庁、村役場でも行われたが、占領軍のみならず国民にも見られてはならない証拠物なのだろう。

「文は経国の大業、不朽の盛事なり」

まさに、守ろうとした日本国の経国の歴史の証拠物を平然と棄損したのである。
エリートのこの国家的犯罪の習性は、最近も等しく国民は知ることとなった

武士は耐える、忍ぶことを規範とし、矜持でもあった。
命のやり取りでさえ「尋常に勝負せよ」と、平常心で戦うことを旨とした。
目前の見も知らなった相手であり、恨みもない者の命を絶つ行為でも互いを謙譲したのである。

また、守るべき対象への謙譲を美徳とし、尽くしても欲するような下品を恥とした。何よりも褒められたり、崇めたてられることを避け、隠れた徳行(陰徳)を当然な行為として自らの小欲を抑制し、律することを旨とした。
まして、自ら「尊敬すべき」とは大声で唱えることもなく、近親縁者もそれに倣って控えることを近親の陋規(ロウキ 狭い範囲、隠れた掟や習慣)としていた。

たしかに人を沢山殺め、破壊すれば英雄の世界である。あなた方の為とはあるが、その行為の当事者は先に書いた英傑のように、また「天祐」(天のたすけ)と書す秋山真之の心情を察するに、敵味方なく国のために、靖んじて吾身を献ずる尊い精神こそ護持すべき戦(いくさ)の所以なのではないだろうか。

明治天皇ご崩御に ご夫妻で殉職 乃木大将

控えることは間違い、尊敬すべきだ」という。

音感は理解できるが、日本人として、武人として残置すべきは、大声で唱える待遇や尊敬の念の哀願ではないような気がする。
まして、国権の一翼にあるものは、公意を以って、守るべき民への忠恕の具現した姿ではないだろうか。


旅順203高地  江の島 児玉神社


軍(人間)が変容する特異点

ペルシャ湾派遣に揺れたとき、後藤田官房長官の総理への諫言は「国民にその覚悟はありますか」だった。

逆に、国民の代表とする議員に「尊敬」を請う組織の実情を知らぬはずがないと察するが、その支持母体とする防衛組織に後藤田氏のように諫言すべきことは皆無なのか問うてみたい

官業、民業の峻別と倫理観、組織の統御、募兵の現状と世相の実像など、内実をすれば誇れるものが乏しくなった構成員の所作だが、それは複雑な要因を以て構成されている国なるものにある、官民問わず数多の組織や構成員の状況を俯瞰すれば、まさに「外の敵、破るに易し、内の賊、破るに難し」(王陽明)の様相です。

戦前、成績優秀な人間は軍を志願するものが多かった。もちろん帝大進学も選択されたが志望は立身出世の風潮もあったが、国に仕え安定的生活担保という当時の国内事情も理由としてあった。

※(現在でも多額の奨学金に苦しむ学生に対して、返済肩代わりによって軍隊志願を勧める某国軍当局者も存在する)

当時の状況は軍事を以て国威を伸長し海外にも飛躍する政策の方向性であり、生産を高め市場を拡大するための国内外の平準化を企図し、くわえて将来の人口増大の懸念もあり国内では賄いきれない状況でもあった。

あの中国革命の孫文と桂太郎が東京駅の喫煙室での会話でもそのことが現れている。孫文は桂に問う『今後、このまま人口が増大したら日本はどうなりますか?・・・、その生きる道は満州です。どうか日本の手でパラダイスを築いてほしい・・・、でもシャッポ(帽子)は中国人です。そしてロシアの南下を防いでほしい・・・、機会が許せば、日本とシナは国境を撤廃してでも協力して、抑圧(西欧植民地)されたアジアを再び興しましょう』と述べ、二人は黙って立ち上がり固い握手をしている。

その内容をその後の姿にトレースすると、袁世凱に突き付けた二十一か条外務省の小池、現役を退いた秋山真之らが撰文した日中盟約がある。署名は孫文、陳基美、日本側は満鉄理事の犬塚信太郎、山田純三郎だが、まさに袁世凱にあてた後の条約案の下敷きのように似ている。

その後の満州事変、清朝皇帝溥儀復位、満州国成立、の道筋は孫文の大経綸を復唱しているような行動だった。五族協和を掲げたパラダイス、国内の経済官僚による集中統制経済(重厚長大といわれる基幹産業の育成を端緒にした成長)は、わずか十年で目覚ましい繁栄をしている。

前提には、異民族に普遍に経綸、地政学、人間学、を活かして縦横無尽、臨機応変な「機略」、時節の変化によって敵と称される存在になった民族なり思想政治体制でも、再び恩讐を超えて良縁が再復するであろうとする遠大な歴史観、何よりも異民族に普遍な人情を厚誼の端とした深い識見と胆力が当局者(軍官僚、行政官吏、経済人、市井の賢者)には有ったようだ。



陸上自衛隊 災害復興

その意味では大欲だが、その欲が変質すると名利衣冠や権益欲、既得権が狭い範囲の「小欲」になると、競い、争い、詐術となり、やすやすと謀略に乗ずる状態に陥ってしまった。
しかも、国策として送り出した開拓民をソ満国境に入植させ、崩壊土壇場では国境まで数百キロに来たとの報が入ると、国境内数百キロ内側にあった首都新京の関東軍宿舎の高級軍人、勅任官らは夜陰に紛れ電話線を切って遁走している。本来は開拓民、満州国民を先頭に立って守るべき高級軍人、官僚、勅任官(天皇認証官)である。
彼らはこれを転進と称しているが、いち早く日本に帰って戦後も政治家、官僚、知事になり、経済界に入ったものは自衛隊装備品の受注で政官を巻き込む汚職事件を起こしている。

特攻隊など勇敢な青年の逸話もあるが、いまだ高校生の青少年世代を生きて帰れぬ死地に、後から続くと送り出し、組織が・・、上司の命令だから・・、時代が・・・、と戦後、幾たび聞いた武備を脱ぎ捨てた群れの姿である。

歴史の事実として、土壇場で高級官僚、高級軍人が逃げた歴史がある。

戦後、現地の古老たちは「ニセ満州はよかった」と回顧する。だが、すべてではないが、当時は尊敬されていた軍人の土壇場の姿を、あれは日本人ではない、おれ達と一緒に頑張った日本かわいそうだった。

「ニセ満州は、はじめは良かった、多くは歓迎した。しばらくすると長くは続かないだろと思ったので、いくつか用意していた旗を準備した。日本が負けた朝は満州国旗、昼になったら張学良の国民党旗を町中に掲げた。張学良の時は、少しは長く続くだろうと丈夫な生地で作ってあったのでそれを使った。それと満州国旗、日本国旗、ソ連国旗、共産党国旗を用意して、いつ変わっても良いように準備しているよ」
満州国総理,張景恵は「日本人は四角四面でよくない。一二度戦争に負ければ角が取れて丸くなるだろう」と語る。

旧軍のエリート養成は陸軍大学、海軍大学、官吏、医官は帝大が担った。
現代の自衛官の将官養成は防衛大学だが、隊員の充足率同様、卒業しても任官を忌避する学生が増えているという。事情は多岐にわたるが軍事組織の集団意識や、任官しても防大という区別意識、あるいはそれをアリ塚としての人事考査の環境、緊迫度を増す内外状況など、当然のこととはいえ、大学志願即自衛官への道程が、頭で理解しても腑に落ちない、つまり任官前提となる学び舎において解決不能に陥っているのではないかと感ずることがある。

大学の道、明徳」要は自らの特徴を知り、存在目的(生きる、活かす意義)を明らかにする学び舎である。
防大は陸、海、空の違いはあれ、短期的に様々な部隊職掌を歴任し、狭い門だが将官、幕僚長などに昇官して、受注先の役職に再雇用されることもある。もちろん国立や有名大学の将官も多数存在するが、大多数は防大出身者で占められている。

なかには官僚独特の箔付けなのか海外の大学(多くは米国)に短期留学してなにがしかの資格を得て、帰国後将官になる隊員もいる。
問題になるのは、彼らの組織観である。
たしかに国家公務員として法に庇護され、生活の糧も保証され、平時ゆえ人生も安易に考えれば会社員の如く、生涯賃金すら容易にはじき出すことができる。しかし、それも平時平和ゆえの前提だ。





それゆえ普通大学の志願とは異質な見解をもち、ことに問題があれば意識の立て方すら異なる状況がある。ある外部講話の質疑で元気な隊員が、「わが自衛隊の最大の特徴は、一度も戦闘を経験したことが無いことです、そのなかでも、われわれ幹部自衛官は精強な自衛官となるべく、日々訓練に励んでいるところであります・・

陸、海、戦後新設された航空自衛隊はどことなく風のとおりがよい気風を持っている。いろいろ質問がある中で彼らの抱く課題に一定の枠があるように感じて「君は防大出身ですか」と尋ねると、おおよそ一定の傾向があることに気が付いた。それでは一般大学の学び舎体験者に聴くと、やはり防大出身者と異なる問題提起があった。
そのうち,尋ねなくても防大と一般の区別は分かるようになった。
心配になったのは、人数的には防大は少ないが、それゆえ意識しなくても蟻塚ができてしまうのではないかと。

環境をみて想定する課題として、「統御」(組織コントロール、人の問題)、機略」(縦横無尽、臨機応変)、「浸透学」(成すべき意味、行動を肉体的にも浸透する学び)、「謀略」(はかりごとを知ることで安易に乗じない、情報選択)を基本課題とした。

それは、入隊時の誓詞を実際の現場において部下を育て、生死に係る指揮命令を大小問わず行う立場に立って、いかに優劣を数値選別し、職位に就いたところで、はたして土壇場の実践力はあるのか、まだ体験もない有事戦闘に協働は適うのか煩悶する課題でもあった。

それは文科省の共通課題を解くために、共通し慣性となった思考回路では解けない、あるいは成文では正解だが、行動を想定すると腑に落ちない、新たな曲解への迷路が出現したかのような曇天模様のようであった。

外部の切り口ではあるが、これを爽やかな晴天にして、臨機応変、縦横無尽に意識を働かせ、職掌に活かすには別の切り口が必要になった、いや自分が考えて気が付いただけでも良い体験だった。
上官が迷ったり、ことなかれ、上の意向を過剰に探るヒラメでは、いずれ反抗ないし下剋上になるのは歴史に記されている進捗の姿だが、迷わぬ上官の存在は、ときに生死を想定して協働する部下の信頼する存在であり、相互の謙譲意識の醸成にもなるだろう。



石原莞爾直筆綴り 弘前市養生会


何を観て、誰を想定して、尊敬する意味さえなくなったようだが、起業成功者や芸能人を対象することもしかり、多くは憧れから嫉妬、正論らしきものを引率して反感に転化しかねない世情でもある。

組織でも上司の威風さえコンプライアンスに触ると、身を隠し低頭までする上職もいる。まして少子化と人材難、職場を得ても直ぐに辞めるが、転職するわけでもない。良し悪しではないが、それが現下の国情なのだ。

だが、その中でも光明がある。某省の地方事務官で違法とも思える改ざん指示を、一人で負わされ諌死した方の公務員としての至言である。
わたくしの雇用主は日本国民であり、そのために仕事ができることを光栄に思っています」内心の誓いは議員の説く自衛官の誓詞だけではないようだ。

同僚は視て見ぬふり、当然の如く苦境に寄り添うものもなく、自死しても弔問すら微か、息潜む国民は手をこまねき、中央のエリートと称する幹部は組織自体の葬送なのか沈黙を貫き、一般職員は鎮座したような上級官僚を護り抜くことに狡知を絞った。
土壇場では満州崩壊時の醜態と何ら変わりはない。


一例だが、議員の足下には是正に難儀な内なる賊(個々の内心の小欲)が変容した価値が数多遊弋しています。
国政に携わるものは、まさに脚下照顧こそ国家の大綱である「維」を正す道筋だが、いまは知る由もない

【故事にみる衰亡の姿】
しかし組織の煩いは「小人に利に集い、利薄ければ散ず」すべて功利です。
学びは「小人の学、利に進む」公人さえ利殖の学びにすすみます。
成功目的の変容は「上下交々に利を獲(と)れば、国、危うし
つまり「下は上に倣う」です。 
亡国の後、その亡国を知る」 今まさに亡国前夜の宴のようです。
これらはすべて錯覚価値の収奪にいそしむ人間の所作にでる姿です。



弘前市禅林 忠霊塔


故事に「五寒」があります。
二千数百年前の荀子の「衰亡の徴」から、後漢の荀悦の政治、官吏の堕落「四患」、そして「五寒」が表れると亡国です。亡国の前兆は人心が微かになり、享楽、糜爛、偏狭となります。いつの間にか誘引されるように国家を覆うのです。
これは占いの類でなく、かつ隣国故事の個別習学ではありません。歴史の史記に表れた人間社会の姿と、経国の客観的記述を連結し、いつの間にか陥る道程を明らかにしたものです

「五寒」は最後にたどり着く亡国の結果です

《政 外》(せいがい)  政治(政策)のピントが外れる。 

《内 外》(ないがい)  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》(けいちょう)  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》(ぼうち)  謀(はかりごと)が漏れる ゆるむ

《女 厲》(れい) 女性が烈しくなる。荒々しくなる。


  桂林

ゆえに為政者は「相」(宰相)として先が見通せなくなる状況です。それは「逆賭」(将来起きることを想定して、手を打つこと)が、目先の煩い事に拘泥することです。首相,省相の「」とは、高い木の上に目を置き、過去、現在、将来を俯瞰して為政する役割のことです。

 高位に存在するものは、忠恕の心で、慈しむ謙譲の精神をもち、つねに自己を抑制し、ときに省くことです。それは下座観を養い、つねに全体に支えられている自らの分(自分)を銘として、決して褒められたり、尊敬されること、まして尊敬を請うようなことは自戒すべきことであり、武人なら、ときに士気を弛めるような歓心には、迷惑被るような剛毅を涵養すべきです。

ある組織では、上職が訓辞を垂れれば肩をたたく仕草で、肩章の星の数を侮っています。つまり、内実のない肩飾りと揶揄する状況です。
滲むように露呈する姿は国民とて人間組織の常なる姿として眺めてもいます。
 一部の高官OBはうそぶく。生活は生涯安定、担保は国家、勤務は減点評価でも余程のことがなければ退職はないと。まさに内(内心)なる賊だ。

翻って戦乱の地アフガニスタンで偉人と讃えられ、不慮の銃撃で命を落とした中村哲医師がいる。縁者の友人は云う。
 世上の安定職といわれる医師でありながら、銃では病も治せない、国も平定しない、先ずは食料自給を援けなくてはならないと、現地人と一緒に荒野を肥沃な大地に勤しんだ。重機を操り、土砂を担ぎ、ともに汗をかいた住民を称えた。長大な水路は完成し、緑の農地に変わった。
 ブラジルでも不毛の大地で土の香りを嗅ぎ、口に入れて舌で味わった土地は豊饒の農地に変わった。

 彼らはの行動端緒は異民族に普遍な人情と、誰に指示されることもない真の自由を現地の住民とは協働で知ったことだ。生命財産を賭して世俗価値である官位褒賞をも忌避するような気概は、まさに現代の真のモノノフ(武士)のようでもある。

標題で思うことは、平時に兵を養う難しさは山本大将も案じていたが、。戦後八十年の平時、先の憂慮が再復するかのような様相です。



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「女厲」は社会を劣化させる 16 4/8. 再

2025-06-19 00:39:41 | Weblog

               秩父

 大いに両性の炎上を請う


 「女厲」は五寒に記す、政外、内外、敬重、謀弛と同時に表れる相互作用だが、女性が荒々しく烈しくなる現象だ

この兆候が表れると社会は崩壊し、国家はなすすべもなく崩壊する。それは生産や軍事力という数値評価の多寡で競うものではなく、真の国力と云うべき人間の深層に存する情緒が五寒に記すそれぞれの問題の顕在化によって毀損され、数値の繁栄が砂上の楼閣のようになる危険性があることである。

なぜなら、数値の多寡を競い、成功価値や幸福感を追求するなかで、個々の成功や幸せが行き着くところにある「全体の毀損」が、まるでエントロピーの法則のようにその高低差を激しくなればなるほど、閉塞感や戸惑い、不安などの精神的社会基盤が歪み、回復力を失くすことになってしまう憂慮だ。

昨今は、格差社会といわれ、一過性でもある、情報、収入、などが、その一過性の人生価値によって、より激しさを増している。そこに付随するように「五寒」も顕著に表れている。

安易な生活感によって、考えることは難しく、観照することは関心もなく、問題意識すらない人々は、その境遇すら人任せにする傾向が多くなった。まるで羊飼いに飼われた犬に追い立てられるように、群れは流行り事や、政府の刺激に群行群止している

 

 

  台北市老人住宅 松崎敏彌氏と

第五次になる中華民国台湾の施設訪問が3/15から行われた。

施設は台北や高雄の高齢者住宅と小学校の朝礼、少年観護署(矯正施設)などだが、それぞれ数次にわたる継続訪問である。

 

この章に関係することだが、台北の高齢化施設での女性には、いつものこと応答や仕草など、便利性や情報に囲まれ、文化的と云われる世俗に生きる我が身に照らすと、ことのほか至らぬことに気が付くことがある。

 

ものごし、笑顔、言葉の選択、応答、すべてに日本の生活域では見かけられない情景がある。なかには台湾高等女学校や、あの映画KAMOで有名になった嘉義農林野球部出身者もいたが、みな応答辞令に優れている。懐古趣味に留まるものではないが、改めて日本語の教養的な使い方、心の沈潜した部分の表現、さらに異国ならではの一期一会の遠望するような眼差しなど、不謹慎にも抱きしめたくなるような老境の潤いがある。

 

 高雄市老人住宅 カラオケ室

 

それと云うのも、訪台直前にネットや国会を騒がせた日本女性の意見表現に、どこか裏悲しさを感じたこともあり、早くあの方々に会って、゛そもそも゛を取り戻したい気持ちがあった。

なにも大戦を前後しての価値評価を云々する野暮なことではなく、心地よい人々の「和」や「間(ま)」が、たとえ異郷においても、瞬時に連帯や調和による親和心を作ることのできる応答と観照の妙を浸透させる、人間の真の力を感受するために、己の敏感性を研ぎ澄ます体験への期待だった。それは、邦家では乏しくなった日々新たな発見でもあった。

 

その我が国の情勢だが、多くの女性の賛同を得て政府さえガブリつく文句があった。

 

何なんだよ、日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ、私、活躍出来ねーじゃねーか。

保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

 

世上、いくら欲張りでも都合のよいことばかりで思い通りにはいかないことは子供でも知っている。現状を認知して内容を熟慮しても、ヤクザや不良弁護士や利権代議士、はたまた扇動家が「いい話」や大義を言ってきても、世間は眉唾で聞き流すものだ。

いわんや方策としてもこの手の言葉を用いる人間が、浮俗の風でまかり間違って政権を取り、認証官(大臣)にでもなったら、陛下は平然として信任状をお渡しになるだろうか

しかも、男女平等を謳う世で、義務はともかく人の権利を唱える、ここでは女性に、嘲り、罵声を浴びせられて、ごもっともと語るオノコも情けない。

゛いつのまにか゛それが複合的に社会の隅々に表れるのが五寒にある「女厲(じょれい)」なのだ。

 

制度や待遇を考慮しても、わがナデシコの言は烈しくなった

これではまとまるものも、まとまらない。だが選挙目当てもあるが政府は瞬時に五兆円もの対策費を計上予定とのこと。これも選挙次第でウヤムヤニなってしまうのだが、どこか情けない気分だ。いわんや課題(批判)に対する応え(対策)だとするなら、対策のみで政策すら出せなくなった為政者との出来レースの芝居かと思えるほどの、タイミングの良い、゛さもしくも卑しい゛役者がそろっている。

 

              秩父

 

当ブログで記す、陋規の習慣と掟を倣い、自省や模範とすることがなくなっては、いくら法を積層しても意味がないと考えるが、この陋規(狭い範囲の掟や習慣)には、前記した台湾の高齢者の「ものごし、笑顔、言葉の選択、応答」あるいは、「整理、整頓、清潔」などトヨタでも5Sと称されることの習慣化、あるいは食事態度、姿勢、礼儀などが大きな部分を占めるが、件の女性は、野暮で古臭い、人権、平等を掲げて反論、いや争論でもするような威圧姿勢がある。

思春期を過ぎて大学生になり社会人になってからでは間に合わなくなることがある。

それは付け焼刃のような人間の矯正と、役に立たない知学である

 

人間を粗製乱造する教育産業の変容を進歩的成長とする風潮と相まって、その評価とする数値的選別が、なんら社会生活なり国家組織の形成に効あるものではなく、かえって屋上屋のような法の積層や内規(コンプライアンス等)を作らなければ、人間がその世界(組織なり)用と成さない現状がある。

 

近ごろは、職掌責任ある上司でさえ言葉を控え、いたずらに逡巡する傾向があるようだ。

なかには真性の病いでもなく、単なる我慢が利かないストレスという流行り語や、それを病気項目に当てはめた「うつ病」が多いようだが、言葉を失くし、動きを失くすと、それらに括られ、しかも数値に追いまくられ人情薄弱になった環境から逃避するように病を盾にすることもあるようだ。まともな病をもって苦しんでいる人はその偽病に嘆いている。

 

体裁のよい憑りつき病のようだが、これに「さもしさ」も「むさぼり」が感染したら、生活習慣病となるのは必至。点ける薬はないが、体質改善と精神の覚醒は肉体的衝撃がことのほか効く。人の弛緩や堕落は、それによって構成される社会なるもの、国家なるものも同様に弛緩し堕落する。

まさに、「何だよ、日本」、敢えて云われなくても、その姿で国民は察している。

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いま、陛下は何処(いずこ)に   あの時もコメはなくなった  15 7/27 改稿

2025-06-11 15:24:18 | Weblog

2016年掲載 旧題 あの頃に倣う 移風は、陛下の「威」と「忠恕」しか解決はない   

「移風」・・・忌まわしい雰囲気を祓い、新しい気風を起こす

 

あの時もコメは欠乏した。

原因は多くのコメを将軍をはじめとする高位な武士が住む江戸に送り、関西は食べるコメが欠乏した。

昔から幕府(政府)の行うべきことは,治山、治水、食料充足が主たる政策であった。

近代社会において主食となるコメが2倍の価格となり、不足するような四角四面な対策しかとれない政府とは・・・・

その時、一人の善良な下級役人が義憤に感じて動き、庶民のために法を超えて天皇も動いた。



天明・天保、あの頃も天変地異は多発して人心は乱れた

だだ、民の窮状を直視し、禁中並諸法度を越えた英知で人心を整えた賢帝や国母がいた。

それは民の依頼心や皇位の謀でもない醇なる忠恕心だった。

真の学を作興し、ややもすると慣性に緩む宮中を整え、世に公徳心を喚起した。

その威の力は、経年劣化に堕した幕府(政府)の軟弱さを露呈させ、民の離反を招いた

国風に新たな清涼感を抱かせるには、物や便法ではなく、縦軸である維を新たにする忠恕の心であった。

それが大御心に応ずる民(大御宝)の強固な国なるものの紐帯なのだろう。








以前、日本の道徳的移風は王政(道)復古でなくては、との考えを記したことがある。
文字解釈での多論はあるだろうが、「移風」は現状の民情なり、その方向性や価値観から導く政治なり経済、そして教育の雰囲気や流れを好転させることだ。

以前の章では道徳的移風については王政復古と書いたが、時代錯誤と非難かつ嘲笑された。王政の何処が、と切り取り反論をされても納得するものもなく、かといって天皇に政治権力を委ねるものでもなく、だだ、現状の政治形態にある権力者に慎みがなくなったとき王政の由縁となる「王道」に取り付く島をみるのだ。

己の薄弱さと人生すら完結できそうもない庶世の民として、天皇の姿に何を描くかはそれぞれだが、不特定多数の人々に対する人間の姿として垣間見る行動は、世俗にまみえる処士として、どう見ても近づくことのできない異次元の姿として映るのだ。

たとえ、土佐の賢候山内容堂が無頼の衆と切り捨てた薩長が大義を取り繕うために内裏から世俗にお出まし願い、歴史にもない軍服を着せたこともあるが、また古今の歴史に利用されかつ権力の形式的装飾に用いられたとしても、平成の御世における天皇の大御心を体現する姿は、まさに王道の心をみる観がある。それは忠恕心だともいう。

それを伝統だというのは容易いが、人間はそれができると思うだけでも意味がある。
また、教育においても単に数値選別されて望みの職掌を得た位上人でさえ、及びもしない観念や、庶民から見ても驚愕とも思える所作にも、処世で当然考えるであろう、小欲とは異次元の大業に向かう超克した心情が読み取れる。






昭和天皇


ときに、昨今の選良の態度や輔弼としての宰相と官吏の姿を見ると、どうしても大御心を忖度した行動が読み取れない。処世の人々からすれば一種の軽さを感ずるのだ。
いくら民主や法治と謳われても、そこには収まらない安堵と鎮まりがある。

以前、少し不敬な依頼心を抱いたことがある。
皇室の奥の語り部として重用された卜部亮吾氏(侍従、皇太后御用係)が良子皇太后のお付きで葉山の御用邸に赴くとの連絡があった。筆者とは洒脱な関係だったので「サッポロのビールを差し入れします」とお伝えしたところ、「ビールは輸送でゆすられると、しばらく間をおかなければなりませんね」と氏らしい洒脱な応えがあった。氏は銀座七丁目のライオンビヤホールでの泡友仲間ゆえのビール薀蓄だった。

ところで皇太后様はお元気ですか」と問うたら「お変わりありませんかの方がいいですね」と返された。

浜辺を散歩なされますか」と聴くと「補助を必要としますが」とのこと。

「ならば、皇后陛下がお手を添えれば今どきの家族それを見習い、それが周知されれば政府の扶養費支出も抑えられます。なによりも国民のムーブメント(運動)となれば、国柄も変わりますね」これが少々不敬な願望だった。

妃殿下ご自身で養育すれば、ベビーカーはどこの製品、衣類はどこの店,帽子はどこのブランド、と世の婦女子は騒がしかった。そこで世俗では嫁が義母の車椅子を押している微笑ましい姿を見倣ったら保護費も抑えられ、家族のきずなも強くなるとトンチまがいに考えた拙意だった。

陛下を活用することを過度にタブー視する向きもあります。もちろん政治にコミットすることも問題となります。

でも、御姿、しぐさ、お気持ち、といった人間が学ぶ対象として活かすことは陛下の意にも沿うものだと思います。

よしんば弛緩した政治家や官吏に対して

「政治は目立たない処を慎重に探り、つねに不特定多数の安寧を心掛けるよう」

と、お言葉を発したら、処世の人々は縁に依って来る苦難や煩悶にたいしても、自己における時と縁の巡り合わせだとして為政者に反目しなくなるはずです。

国民が真摯に政治に応ずれば、権力を運用する政治家や官吏も覚醒するはずです。それは国情の雰囲気を変えることにもなります」






卜部皇太后御用掛  小会にて 

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1


それは縁あって日本に棲む人々の心の中に描いている長(おさ)としての立場を認知している世代が存在する間にしか効力がないことです。

次世の御代が変われば威も徳も薄れるだけでなく、認知すら軽薄な関心しか持てなくなるかもしれません。

欧米のような私生活のスキャンダルやファミリーへの愛着はあっても、畏敬の存在ではなくなることもあります」

動物でも群れの長(おさ)を失うと羊飼いに連れられ、犬に追い立てられる羊のようになります。

郷や国の防衛とて、武器道具を揃え、財を駆使しても人々が連帯を失くしたら、防衛力は弱くなります。

なかには「小人は財に殉ず」のごとく、危機を察知したら責任回避するものも出てきます。

また、間諜も現れます。その内なる反省は70年前に体験しました。」

筆者がせめてもの皇室の「奥」に職掌を持つ卜部氏に対して答えを必要としない呟きごとであった。毎年のごとく節期の激励文をいただき、小会(郷学研修会)の道学に添い、天聴(天皇の知るところ)に達しているかのように至誠ほとばしる督励清言は、あえて意を表すことに逡巡すらなかった。また不遜にも卜部氏を通じて、゛あの御方ならわかっていただける゛、そんな下座からの気持ちだった。

そんな想いも世俗に晒せば、「自由と民主の時代に・・・・」との誹りもある。
その自由と民主の仮借がさまざまな分野に善くない影響を与えているから問題なのだ。

どうも表現が今風でなく稚拙らしい。仮にも定説なるものとアカデミックな論拠を書き連ねれば、いくらか数値選別エリートの反駁にも贖えるのだろうが、そこまでの知能力も耐力もない。いや、関わりになると問題がより複雑になってしまう危惧もある。







  義士 大塩平八郎


江戸、天保の頃、飢饉が襲った。江戸の役職や御家人は強引にも地方から米の上納を図った。江戸御府内という体面もあったが、物が動けば利を生ずるように、お決まりの御用商人と担当、責任官吏の賂も問題だった。私塾洗心洞を主宰し、かつ奉行所与力職にあった大塩平八郎は道学の士を募って豪商の打ち壊しを義行した。

令和のコメ不足に比べると   

減反をすすめる政治政策  国内は不足だが海外輸出は伸びている不思議

 

以下ウィキペディア転載

≪前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。

そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。

一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。≫

 


中央 安岡正明講頭  右 卜部皇太后御用係  於 郷学研修会

 

それ以前の天明の飢饉には一つの出来事があった。
庶民は、幕府は頼りにならないと京の天皇に直訴した。天皇の忠恕心に委ねたのだ。

光格天皇は窮状を知り即座に備蓄米を供出を幕府に問うた。率先して動いたのは後桜町上皇だった。

いっときは一日に三万人の庶民が御所に集まり、周囲約一千メーター余りを周る「御所千回周り」を行なった。

御所の周囲を流れる溝を掃除して清水を流し、上皇は数万個の果実を配った。他の宮家はお茶などをふるまった。

そのお姿は、その後代の孝明、明治とつづく天皇の現示的イメージとして、大政奉還、討幕維新と流れる時世を暗示する天皇の仁を添えた賢明な行動だった。






後桜町上皇



元々は民生の政治は幕府専権である。天皇が備蓄米の供出を関白をとおして京都所司代に命令を伝えることは禁中並公家諸法度に触れることであり、大問題になることだった。

その後、大塩の決起があった。天保は仁孝天皇だった。天皇は天明の件を一例として関白は京都所司代に対して救済策をご下問している。ここでも江戸の幹部用人の無策が露呈している。

江戸幕府ができてから朝廷が幕府に物申したのも初めてだが、しかも天皇をはじめとする上皇や公家の積極的救済は、たとえ「禁中並公家諸法度」という制約があったとしても、民を救済することに何ら幕府に遠慮することなく、怯むことのない皇道(すめらぎの仁道)を顕示する叡智と剛毅がある。



 

平成天皇が鑑とした光格天皇




そもそも存在する立場の役割として、民もその姿を認知し、かつ深層の情緒に溶け込んだ姿は普段の民生には隠れた存在だ。施政は幕府専権であり責任ある為政者だ。勤労の果実は年貢として徴税する。

しかし、一旦事が起こっても何ら問題意識もなく、埒外な政策しか執れないようでは、民は天皇の威と忠恕心にすがるしかないと、当時の民は考えた。そこに意が向くことは当然であり、今でもそれは威能は有し、行動は可能だ。なぜなら民の存在を大御宝(オオミタカラ)と称し、その民の良心の発露である「人情」無くして国法は機能しないからだ。制度はともあれ深層の国力である人間の情緒性は、政治機能とは別の意味で、直接的黙契の関係が厳然としてあるようだ。

幕府用人とて慣習とはいえ綱紀の緩みに対する問題意識すらなく腐敗堕落して、迫りくる欧米列強の植民地を企図する勢力との対応にすら窮するようになった。

現状追認、後回し、事なかれ、責任逃避、そして下剋上。

それは平成の御世に再来した現状とあまりにも類似した集団官吏の姿ではないだろうか。

しかも、その甦りなのか縁の再復なのか、天皇の姿が明らかに変わってきた。いや、変わったのは市井の人々の覚醒と蘇りへの愛顧なのかもしれない。








震災地への巡行、戦災慰霊の旅、津々浦々の市井の人々との交流、そして再び惨禍の兆候を察知したような言辞と国民への配慮は、あの大塩の抱いた正義と忠恕による人心の安定を共に願い祈る、皇祖仁孝天皇の宗旨(皇宗)に沿う、意識の伝承のようにも映る御姿でもある。

世俗は家族を基とした内外の社会生活に煩いを多くみるようになった。生産や消費、そして成功価値の変化や人生到達への茫洋さなどが混在して将来すら計れなくなっている。それらは苦情やモンスターと称される表現でしか表れる姿ではなくなっている。

当時の大塩とてそのような世情の姿に決起したのではないが、掴みどころのない浮俗ともおもえる時節に、問題意識を描く諸士は少なくはない。さりとて、゛どうしたら゛と暗中を模索するのみだ。





上賀茂


そこで筆者は今上陛下の発する大御心に沿うことを提案する。それは真似る、倣うことでもある。

応答辞令、仕草、言辞、様々だが、先ずは慎重に意志を読み取るべく鎮まりのある行動をすべきだろう。だからと言って崇拝主義やファン気質になることもない。姿を見せて膝を折り語りかけるだけで我が身の変化を感じられることの不思議さを我が身に問いかければよいことだ。宰相が百万言を弄しても届くことのない我が身の是非の感覚を探ることだ。

それが、普段は感じられることでなくてもよいが、何かあった時に想い起していただきたい存在でありたいとの応えに対する市井人のほどよい立場だろう。そして即位の宣誓に「憲法を遵守して・・」と、厳明した言葉を公務に嘱する人々に最も理解してほしい。

民主主義を仮借した政治なるものが、運用者たる為政者によって暫し混迷している時世に、国民は、゛あの御方ならわかってくれる゛それを護ることに何の衒いもない国民は多いと思う。

だからこそ形式的認証であっても、その受任者たる輔弼(政官)を教化して欲しいと、またもや依頼の心が興るのは自然の姿ではないだろうか。今ならまだ間に合うと思うのだが・・


一部、参考資料は関係サイトより転載。イメージも一部同様に転載しています

浮世はなれした切り口ですが、ご感想はコメント欄にいただければ幸いです。

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山田純三郎の仲介による、幻の毛沢東、蒋介石会談

2025-06-08 16:02:36 | Weblog

           末長節 頭山満 佐藤慎一郎


                 http://sunasia.exblog.jp/7292498/



滞在から数日して山田が真剣な顔で佐藤に伝える。
「じつは蒋さんの依頼で大陸へ行く」

「大陸って、中共ですか」

「毛沢東主席に会う。慎ちゃんもいっしょだ」
 佐藤は驚いた。蒋介石は常々大陸進攻を唱えている。それが毛沢東主席と…
 しかも伯父さんが…
 山田はあえて事務的に指示をあたえる。

「廖承志さんを通じて毛主席には伝えてある。廖さんの母親が上海に迎えにくることになっている」
 廖承志の父、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は孫文の革命に山田とともに奔走した革命の同志である。その息子の廖承志は、子供のころに山田の腕であやされていた関係である。
 後年、廖承志は中日友好協会の代表として来日すると、まずはさておき山田の家を訪問している。こんな逸話も残っている。
 
大阪万博のおり、会場には中華人民共和国の旗、中華民国々旗である青天白日旗がひるがえっていた。それを知った廖承志は青天白日旗を降ろせという。ある識者はいう。
 そもそも青天白日旗は台湾の旗ではない。もともと台湾に国旗などはない。青天白日旗は中華民国を創設した孫文先生が認めた旗だ。あなたの父親は革命の志士として亡くなったとき盛大な葬式が挙行された。
 その柩は多くの人々の犠牲によって成立した中華民国の青天白日旗に覆われていた。 
 あなたの父廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民の悲しみのなか、国家と家族の安寧を願って旅立ったのだ。
 その国旗に覆われた柩にすがりついて泣いていたのは君ではなかったか。

 そんなエピソードではあるが、政治的立場と普遍的な人情は分別できる人間である。
 その廖承志が大役を引き受けたのである。山田を迎えにくる母親の廖香凝も中華人民共和国の要人である。双方、国際的事情もあろう。複雑に入り組んだ国内事情もあることは推察できる。

 だが、ともに国父と仰ぎ、けっして侵すことのできない孫文の存在を想起するなら『小異を残して大同につく』といった中華民族特有の思考を活用する大義も生ずるはずだ。
 幼稚で騒がしい知識人や、歴史を錯覚した政治家の類いをしたたかに排除した両国民衆は過去の恩讐や民族を越えてアジアの再興を願った孫文の大経綸に賛同するだろう。
 それはアジア諸国の期待でもあり、もちろん日本も例外ではない。   

 父の柩に涙したものは体制に翻弄された民衆の意志であり、廖承志の心そのものであろう。履歴を積み、縁あって両岸に対峙する毛主席、蒋総統にしても冷静にして自らに立ち戻ったときリーダーにしか垣間見ることのできない境地が存在するはずだ。
 廖承志はその意味を知っている数少ない幹部の一人でもある。毛沢東も蒋介石も解り得る人物である。分析、解析、思惑、作為は仲介当事者である山田にはない。まず毛主席に会って、顔を観て、声を聞いて話はそれからだ。

 死地を越え、孫文を心中に抱いた山田に気負いはない。緊張するのは両巨頭のほうだろう。
 山田は大事を前にして、郷里弘前の思い出や兄、良政に随うことによって生じた孫文との出会と革命の回顧、そして蒋介石との縁、そしてこのたびの行動を想い起してみた。孫文先生や兄、良政ならどうするだろう。

 1911年10月10日 革命が武昌で成功を収めた日、アメリカにいた孫文は急遽、帰国の準備を整え、上海にいた山田に打電してきた。

「横浜を通過して帰国したいから日本政府に了解を取ってほしい」
 山田は犬養毅に依頼したが日本政府は拒否。やむなく大西洋を迂回して香港に到着したのは12月21日だった。山田は宮崎滔天、胡漢民、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)とともに香港に迎えに行く。陸路北上は危険だから広東で様子を見るように勧めるが孫文は上海に向かうという。その上海に向かう船上でのことである。

「山田君、資金を作ってくれ」
 思い立つとせっかちと思われる指示のはやい孫文である。

「幾らぐらいですか」

「多ければ多いほどよい。一千万でも二千万でもいい」
 明治時代の一千万、山田にとっては見たこともない夢のような金額である。

「私にそんな大金は用意できない。無理です」
 いくら革命に必要だとしても一介の満鉄の職員にはどだい無理な話だと端からあきらめる山田に孫文は毅然とした姿勢で言った。

「たかが金の問題ではないか。しかもここは船の中だ。君はまだ何一つやってもみないででできないというのは、いかん。君のような考えでは、革命はおろか、一般の仕事だって成功するはずはない。上海に着いたら三井のマネージャーに相談しなさい。革命は何事も躊躇してはいけない」

 山田は静かに厳しく諭された孫文の言葉を反復した。
 こんなこともあった。中華民国臨時大総統に就任した孫文が南京にむかう車中のことである。当時、国旗が制定されていなかったので末永節は日の丸の小旗をたくさん抱えて同乗の皆に配った。

 豪気な末永は「孫さん万歳、染丸万歳」と孫文の頭を祓う格好をしながら繰り返した。車中は中国人も日本人も「孫さん万歳」の声で埋め尽くされた。
 頭山満、犬養毅とともに国境を越えた行動力と胆識をもった末永の豪気は、孫文をして民族融和の必要性を見たに違いない。

 余談だが革命初期は、運動会で使うといって日本でつくらせたのが革命党の旗である。末永節は今の福岡にあった頭山満主宰の筑前玄洋社出身で頭脳明晰で豪胆な人物で、幕末に来航した黒船に乗り付け日本刀で船腹に切りつけたが歯がたたない。ひるがえって意識転換できる開明的なところがある。ふだんは褌もつけず素っ裸で庭掃除をするような豪傑でもある。臨時大総統をつかまえて「染丸万歳」とは末永らしいエピソードである。
 ちなみに染丸とは日本に亡命中知り合った女性である。

 南京臨時政府が成立し、国号は「中華民国」と宣言されたその翌日のことである。祝宴のドンチヤン騒ぎで今までの労苦を吹き飛ばしているさなか孫文が山田に言った。

「山田君、君はこれから上海三井の藤瀬支店長のところへ行ってください」
 孫文は三井と軍資金借用の件で約束をしていた。山田は祝宴の酒が手伝ったのか軽口をついた。

「商人の話なんか、そうきっちりとは、いかんですよ」

「山田君、君はまたそんなことをいう。藤瀬さんは一週間といっただろう。約束は約束だ。まだ本店から返事がきていないならそれでいい。できる、できないは別問題だ」

 以前、上海へ向かう船上で諭された時と同じように、山田は約束の重要さと積極的な行動について教えられている。

 孫文は山田の兄、良政との義侠の縁とはいえ純三郎をわが子のように慈しみ、あるときは叱り、又、あるときは激励しつつ共に分かち合った革命成功への感激と感動の体験を積んでいる。孫文が山田の父に贈った『若吾父』(吾が父の若(ごと)し)という感謝の書はいかに山田兄弟とのかかわりが誠実な関係であったかを表わしている。

 その関係からして確かに、今度の毛沢東、蒋介石交流の仲介に山田は最適な人材であろう。どちらに与する利なく、まして施して誇るような心地はない。抱く心はアジア諸民族が提携することによって平和の安定を確固たるものと希求した孫文の志操そのものの具体化であり献身である。

 あの日、宋慶齢夫人に促され「山田さんお願いします」と、ガーゼで孫文の口元に注いだ水は孫文の意志継承の神聖なる伝達であり、自らの生涯を真の日中友誼に奮迅する誓いでもあった。こぼれ落ちる涙は孫文の頬につたわり、まるで孫文のうれし涙のようであった。

 生涯の大部分を理想に燃える革命家として費やし、一時として休まることのなかった心身の躍動が、独りの孫逸山として己を探し求めた結果の答えとして、魂の継承を山田が受納する瞬間でもあった。
 
 それは革命精神の継続性だけではなく、終始行動を共にした孫逸山そのものの気風の浸透であり、むしろ悲しみの涙ではなくアジア王道である桃李の地への旅の潤いとして降りそそいだ。それは民族を越えた孫文の普遍なる精神が結実した瞬間でもあった。
 師父の死は山田にとって新たな革命の出発でもあった。それは支配者の交代といった功利に基づく覇道ではなく、あくまで東洋的諦観による王道の実践であり、遺志の継承であった。
 毛沢東、蒋介石仲介という大業に臨む山田の沈着さは、まさに郷里津軽で仰ぎ見た岩木山の風格であったと佐藤はいう。


  「桃李」   桃李もの言わず、下おのずから路を成す。
  人も徳が高ければ自然と人々が集まって付き従う(講談社編)

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東条英機と積善の宿  あの頃

2025-06-06 16:21:44 | Weblog



上毛の湯宿は伊香保、草津など全国的に名高いものが多い。その中でも上野ノ国 四万温泉には古くからの旅館が軒を並べ、今でも都心からの湯治客を多く招いている。
病気の回復治療や、近在の軽井沢より以前に拓けた避暑地として、政経人、文人などが、清流を渡る風によせて一刻の思索と風雅を愉しんでいた。

病は気からというが、地中の陰気を含留する温泉と地上の陽気が、山間に寄り添う大小の木々の間をわたる爽やかな風に調和して浮俗の邪気をとき放してくれる

奥まったところに積善館という宿がある。宿の名前からして、さぞ創建者の教養は素晴らしいものであった事だろうと想像する。

善を積むことは、不特定な利他への貢献に加え、子孫に大きな恩恵を遺すことは我国の道徳的規範の徳行として、戦前の教養には欠くことのできないものであった。

゛善とは何なのか゛などと、文字の前提理解で留まってしまうような、いまどきの教養とは異なり、諮りごとなど微塵もない自然界の小宿だからこそできる積善の作業だったに違いないと察するのである。

本館上手の山荘には贅を凝らした部屋が並んでいる。贅といっても華美ではない。
積雪が豊富なせいか屋根は亜鉛葺きで軒も長めに突き出ている。
部屋は書院と床の間が大きくとられ、角部屋の回りには畳廊下を隔てて雪見障子が二方を囲んでいる。
欄間は銘木の透かし彫り唐模様、玄関の上がり間と居室には直径三尺ほどの円窓に竹が組み込んである。

この部屋の独り客人となったのだが、聞くところによると開戦時の総理大臣東条英機氏や後藤新平の常部屋だったという。

先晩、お孫さんの由布子さんと英機氏を話題にしたばかりなので妙縁を感じざるを得ない。どうも寝られそうもない。あの戦争の開始と終結を拙文に記したばかりであることと、某新聞社の依頼で出版の勧めが現在あるのも手伝っているからだ。
帰郷後は専門家との対談も予定に入っている。

なんという巡り合わせなのか、しかも独りで静寂のなか清流の音だけが耳に伝わる
あの当時の日本に倣って、いまの日本を取り巻く暗雲と、その行く末を考えてみたい。

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煙草の話 「格好よく吸うべし」  12 1/28 あの頃

2025-06-04 23:37:43 | Weblog




ベンガルこども新聞 「キシロチェトロ」1月号転載 日本特集




ちかごろタバコといえば健康が問題になっています
また、タバコが嫌いな人、好きな人など感情の問題もあります
するとタバコを吸う人は悪い人、吸わない人は良い人と、人の心は移ってきます
ところが、世界中からタバコは無くならず、かえって人の好みに合わせてたくさんの種類が作られ、その税金は国の金庫を潤しています

日本ではタバコを「煙の草」と書きます  英語でもsmoking、煙です 🚬 シガレット
むかしはタバコにも色々な文化があり、戦争に行く兵士や労働者のポケットにも必ずといってよいほどタバコとマッチがありました。米兵はラッキーストライクにコークです。

家ではお祖父さんが煙管(キセル)でタバコを吸っていました。それはタバコが休息の合図であり、仲間と楽しむものだったのです。
少ないときには一本を分け与える友情もありました

映画ではスターが格好良く吸っていました。美味しそうに吸う女優は素晴らしい演技だとほめられました。それは生活であり、普通の動作だったのです。
マナーもありました。煙は人に向けない、車の中で吸わない、投げ捨てない、それを守らないと一人前の大人として認められませんでした
それは生活に溶け込んだ人々のマナーの交流でした

売ることも、止めることも、すべてがキャンペーンという宣伝です。
でも、そこに人の交流を支えたり、補ったり、認め合ったりするためのツールも必要です

そんな小さな楽しみだからこそ、互いを認め合うマナーが大切なのでしょう


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「人間考学」より 自己憲章のすすめ (再掲載)10/6

2025-05-28 01:36:27 | Weblog

「歴史は人から人への精神の流れ」東京工大 芳賀教授 産経正論欄より


「人間考学」

たかだか人間の問題である。

また、そう考えることが此処でいう「人間考学」の端緒でもある





聴き慣れないことだろうが筆者の奨めである。

とくに「伸ばす」「省く」を目標として掲げ習慣化することへの薦めである。

たとえば理想とすべき人物の座右を借用するもよし、感度とオンが馴染むと造語するもよし、それを自己流に、しかも能力の足らないところの目標でもよし、気の付くところへ掲げる薦めである。

よく心に銘記すればいいとはいうが、さしずめ携帯の待ちうけ画面に芸能人やペットを添付するように人生針路として活用したらどうだろう

安岡正篤氏の「六然訓」を借用して掲げる方もあるが、難しいことを簡易に自分勝手に解釈するより、「あがるな落ち着け」「怯むな」「競うな」「あげつらうな」のような、゛多くの不 ゛や、「無視しない」「深く考える」「知ったら教える」「学んだら行なう」といった、゛多くの善 ゛を多不、多善として銘記したらいい。

あるいは「無名かつ有力」「頭がいいことは直観力」など軌道修正に効果ある文言もいいだろう。


後藤新平は「自治三訣](ジチサンケツ)を自らのに課した


 人のお世話にならぬよう

 人のお世話するよう

 そして報いを求めぬよう


岡本哲人は

「尽くして欲せず、施して求めず」
    (安岡氏は「受けず」と添削)
また、「貪らざること宝と為す」


何ごとも対価にするような風潮に警鐘を鳴らしている。






               






誕生の頃、命名した半紙を貼り付けて期待を託した。近頃では格言カレンダーをトイレに掲げている宅もある。受験には必勝、合格、学業成就などと机の前に親が大書して貼り付けている。

さまざまな願目願望が溢れているが、なんとなく一過性で、回顧すると我欲のオンパレードで、、゛それからどうする゛゛どうなった゛と考えると何ともやりきれない。

よく「夢はなんだ」と問われるが、「恥ずかしくて口に出せない」と応えることにしている。
夢はそうゆうものだと考えているが、夢想も空想も「夢」には到底とどかない代物だ。
つまり想っているうちが夢だからだ。

筆者のような小人が考える憲章は、その想っていることの習慣性を銘としている。

夢想耐用に沿って、到底たどり着けないような、あるいは童心のような無限の夢を抱くようにしている。茶席の年初めの床の間の書は「夢」である。誰かが死の床で「夢のまた夢」と呟いたという。

死ぬまでもち続ける夢を探している。つまり自身に課すことに他ならない。
「己は何処から来て、何処へ行く、そして何者なのか」
ゴーギャンや毛沢東の言にもある。

自由は担保するためにさまざまな行為を課す。民主は己が主であることの継続を課す。

民主、自由が謳われる囲いの中で、バナナの叩き売りの如く「裏も表もバナナ」に誘われ、ひと房多いか少ないかに惑わされ、巧妙な口上に夢中する。これも夢だ。
いま世情は叩き売りの売り場確保で忙しい。

憲章は自身そのものが解りやすくするために銘とするものだ。

ひとは先ず自身に嘘をつく。実像に耐えられないのだ。
目覚ましのスヌーズのようなもので、まず己に負ける。
酒や異性や仕事の理由にして人生そのものをスヌーズしている。
起床するつもりの目覚ましも反抗はしないが、いつも反省という返りがある。

それが「オレだけではない」「誰かがやる」「別にいいんじゃん」の慣性に陥らないよう、かつ反省の悔しさを味合うことの無いよう、ささやかな自己憲章起草の薦めなのである。

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安岡正篤氏も驚嘆した佐藤慎一郎という人物 再

2025-05-27 01:43:59 | Weblog

杉並区の荻窪住宅23楼301号の住人、佐藤慎一郎宅には多くの客人が訪れる。

さて、幾人が荻窪南口から経由する団地行きのバスに思い出を乗せたことだろう 

文章定かではないが梅里先生(徳川光圀)の碑文にこんな刻文がある

「第宅器物その奇を用せず。有れば有るに随い、無ければなきに任せてまた安如たり」

 書棚に囲まれた部屋に、まるで帰宅するような厚かましさで拝聴する無恥と無学の懇請は、まさに附属性価値を排して、無名で有力であれと諭す佐藤先生と懇意な碩学の言に沿ったものでもあろう。

 はじめは異質、異文化の世界かと伺っていると、浮俗にまみれていた自分に気付く。

驚くほどに透明感のある率直な欲望を鳥瞰して、そのコントロールの術を自得する人間学の存在を認識する。

いわゆる自ずから然りという(自然)と人間の同化と循環、そして離反に表われる歴史の栄枯盛衰を自らが解き明かす(自明)という吾の存在の明確化という真の学問の探求に他ならない。

不自由な身体を運び、3楼から道路まで見送りに降りる姿は、多くの明治人が醸しだす、いとも自然な実直さを漂わせ、乗車、発車から車影が微かになるまで手を振る姿に車窓が涙でおぼろげになることも屡だった

 交談は、「話」という舌の上下ではなく、体験に観た吾そのものを伝える「語り」であり、知識や物珍しさの収穫ではなく、感動と感激の継承という人間を探求して「学んだら行う」学問の姿であった。

もちろん、巷間の学者、研究者の類にその薫りを観ることはない。

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デモ・クレージーと人物を得ない議会 再々掲載

2025-05-24 01:53:17 | Weblog

                                                       

 

 

ある日のこと白山の自宅書斎で碩学は紫煙をくゆらせて呟いた。

デモクラシー変じてデモ・クレージーになると人物二流でしか議員になれない

 

古典(昔の格言や栄枯盛衰の逸話)を活学することによって世の中の表れる関係性が幾らか解かるようになるが、単なる知った、覚えた類の数値評価や選別では本質は見えない。

もともと人が群れあう中では様々な現象が表れるが、単なる客観的評価や論理では事は動かないばかりか、問題発生に於いての解決はおぼつかない。

 

標記のデモ・クレージーだが、多くは欲望を誘引し虚栄や競争を促すものに安易に乗じ、かつ受益があると錯覚する人間によって起こされる姿だが、ことに一義的にマスコミや政治のせいにするが、自他循環からすれば、それは生きること、活かすこと、死ぬことを基とする人生観を亡失した自意識の内観に因を求めない限り問題すら見えてこない。

つまり、他に関するおびただしい情報や、本(もと)立って道を生ず、といわれる自己の認知や確認をスキップした単なる知の集積では何の役にも立たない。

 

よく、己を知らずして相談なり議論をすると、いつの間にか疑問に対する争論や抗論にもなってしまい、堂々巡りの理解はとどのつまり問題(疑問)の本質は己そのものを知らなかったことに生ずることが多いようだ。コンサルタント頼み、議員の官僚たのみ、占い過信、むやみな情報収集などは、自身の力足らずを他に委ねることに他ならない現象だ。

 

そもそもの政治なるものを語らず、政局なり選挙を政治と錯覚して口角泡を飛ばす庶民の居酒屋談義などはその好例だろう。

 

自他循環とは、自分と他が存在する社会を全体として、その全体の一部分という「分」が互いに干渉しあい、舐めあうように互いの特徴の優劣さを交互させる他人と己の関係を際限のない運動として繰り返す自己愛と他己愛の姿だ。あくまで優劣は自己の認識と他からの認識があり、時として変化するものだが、それぞれの関係はつねに補い合ったり反目しあったりして、定まった認識はなく時々の条件で是非も変化する。

その循環回転はスパイラルのように上下したりするが、前記した自己愛が優先すると循環バランスを崩してデモ(集団)が混乱してダッチロールを起こしたかのように収拾がつかなくなる

 

とくに価値観の錯そうは同じ生活圏である家庭や友人関係、職場においても、あの時は、あの場合は、今と異なる環境などと人間の個体で解決できるものさえ法や内規に委ねるような組織内での個々の分裂を引き起こしている。

教育でもそもそも収斂化されて効ある学派が、異なることを除外排斥して派を構成するようになると、分派された専門域が全体から分裂して、かつ夫々の群れにリーターなりボスを推戴すると全体の用となる学問の意義さえ亡失してしまうようになる。また、全体を統御なり俯瞰視して構想を企図するゼネラリスト的多面的視野、あるいは各分野の関係性を習熟するような人物(リーダー)観の乏しい人ことも因をなすようだ。

 

世の中の集団化されたものとして、政党、役所、企業、宗教、あるいは国籍や男女の性別まで分派されたようにカテゴリーとして集団化されている。仮にその集団に「色・食・財」の本姓的欲望を添加した場合、具体的には多勢を恃んで待遇、便宜、優越性といった欲望を抑制できない状態が現れる。

それが競い、せめぎあい、排除したりすると世の中の現況になることも人々は気が付いている。

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「五寒」 生じて国家無し     

2025-05-21 01:32:54 | Weblog

                 


五寒」生じて国家無し と言われる現象 亡国の兆候

顕著になって現れる姿は、政治、宗教、法律によるものばかりではなく、民族そのものの経年劣化、あるいは循環の妙ともいえるものである。

分かり易くいえば、成功価値や幸福感の錯誤のようなものが人間と複合的社会の関係を考察する座標や、人そのものを観る「観人則」の亡失であるといってよい。

宰相、荀悦が憂いた偽、私、放、奢を表す「四患」もその例である。

以下「五寒」を照らして世俗の現象をみると、普段の情報知識とは異なる切り口でそり問題の本質が浮かび上がる。

つまり自身の置所を変えた新たな感覚による考察が浮かび上がることでもある。



政 外》  政治のピントが外れる。

《内 外》  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》  謀が漏れる ゆるむ

《女 レイ》 女性が烈しくなる。荒々しくなる。








女(ジョ) 厲(ライ・レイ)  なぜか国家の衰亡期には女性は烈しくなるという

平成19年(2007)幕開けは二つのバラバラ死体事件と恒例の政治家と金にまつわる話題が各種マスコミ媒体を賑わした。
格差社会、年金、憲法と鎮まりのない議論とかいう、言いたいことの争論が社会の耳目を集めているが、刑事ものの探偵宜しく枝葉末節な推論に大衆も口角泡を飛ばして参戦している。

まるで末世の騒々しさの様相である。忌まわしいことではあるが、これほど多種多様な犯罪が日夜行われると社会や国家の真の存在意義を問いたくもなる。

 政治課題として憲法改正、教育基本法改正、郵政民営化、道路公団改革など、それぞれ政治家、官僚、有識者、専門家といわれる人々が掲げる国民の為、国家百年の計などという大義が部分の埋め合わせ論となり、かつ人間の欲望が混迷の種となり、社会全体の風儀や人の情緒を喪失させ、総ての根幹であり政策の大前提である人心の安定と調和がとれない、いやその在り所さえ判らなくなってしまっているようだ。

 また、そのような切り口にある問題の掲示を、観念的、具体性がない、はたまた科学的根拠が希薄であると、問題解決の前提である人の「意識」や「直感」を生み出す俯瞰性や下座観、あるいは時の経過から推考する考察を遮断するために起きる先見性の欠如に加え、他との調和に欠かせない譲り、委ねることの前提となる「礼」と「分」を否定する争論に陥っていることも大きな因となっている。







つまり、「部分は全体を表さない」というハイゼンベルグの論を人間学的、社会的にも実証しているかのようです。簡単に云えば、選択したものに間違いがあれば、言い訳を生じ、イヤイヤ選択したものの失敗は文句を生む。それゆえ選択に伴う責任を回避して無関心を装う大衆が増え、自らが全体の一部分であるという存在すら希薄になる現象である。

これが愛という共通語によって最小限のパートを組む夫婦はどうだろう。
愛といっても財、家屋、地位、学校歴、美麗、はたまた自らの自己愛を充足させてくれる存在などあるが、ここでは一般形式を満たした夫婦を考えたい。
2005年、浮俗では既婚者の男が女を殺害する件数は一年間に80件、逆に女が男を殺すのは120件、つまり三日に一人は夫が妻や内縁に殺害されている。

理由はさまざまだが、総じて金、嫉妬、ではあるが、近頃ではプライドを汚されたという理由も多くなっている。殺害の仕方も焼殺、切り刻むバラバラ殺人、あるいは食事に混入した毒物など女性らしくも、いやそれもより巧妙になってきている。

 昔は独占欲から別れ間際の殺人だったが、近頃ではドメスティックバイオレンスでも離婚せず虎視眈々と復讐の機会を探るという陰湿な犯罪が増えている。
この他に幼児虐待から殺害、子供の親殺し、あるいは兄弟姉妹同士の殺害など枚挙がない。






あの大江戸八百八町といわれた江戸でも武士は二本差し、渡世人、用心棒はドスを懐に入れていたが、殺人事件は数えるほどしかない。なにしろ殺人があると半年ばかり街中の話題に耐えたとも言う。幕府開設当初8割の男子は独身だったせいもあるが、あのゴールドラッシュの西部劇を見るようで女性は大事にされていた。たまに長屋で祝儀があれば「内の女房は何々家の腰元さがり」「前は大店の女で・・」などと自慢さえしていた。いくら女性が少ないからといって、御手つきばかりではなかった筈だが、それも出自のブランドだった。

 厳然とある士農工商という役割区分は夫々のエリアに調和をもたらしただけではなく、個々の嫉妬、怨嗟など軋轢や混乱の因を吸収できる楽天さがあった。
 
 また無常観という諦観が、「分」の矜持に似て存在していた。それはお上の権威もさることながら、村八分に代表される陋習(掟、慣習)や、支配者や長(オサ)の学問や規範が今のように多様ではなく、ごく自然に受け入れられる人心の素地があった。

また各層を総覧する支配階級には儒教やそれと一体になった山鹿素行の武士道得、または地域の実利学である郷学、塾が庶民の身近にあったことが、よりその有効性を高めている。力や権威とはいうが、力が財、学校歴、資格、という名目唯物ではなく、強いものの忠恕や庶民の人情が、あの大岡裁きに見るように官民一如であったことも否めない事実だ。加えて共通理解の淵が可能な範囲にあったということだろう。







翻って民主と自由を掲げるシステムではあるが、これほど個々の人々が乖離することになるとは・・、いくら欲望のコントロールが効かず、かつ助長させる外的要因(宣伝、思想)があったにしても、これほど人の心の自制心が弱いものなのか・・、ときおり強権のささやきが欲しいものだと思うことがある。

あの鬼平犯科帳の主人公長谷川平蔵は武士の強権によって捕縛したもの(虞犯、無宿物)を、石川島の寄場に集め殖産(手に職をつける)事業を行い、忠恕(権のもつものの優しさ)を添えて訓導している。

夫婦においても、官民においても触れ合う距離感が掴めなくなっている。自己喪失という難解な問題を身近に相対する人なり組織にリンクするにも、対象との位置感覚の境がおぼろげになる分裂した自由意識は、自発的な制御の在りどころさえ喪失して、他からの強制なり意識を超えた驚愕でしか解決がつかなくなっているからだろう。鼠の集団入水や天変地異を想起するような考えが起きるのもそのためだ。






なかには北朝鮮に描く強健国家の強制規律や貧乏と思われる環境に、我国に蔓延する怠惰な民情に起因する人々を矯正体験させたらいいとの片言があるのもその意があるようだ。

半知半解な自由意識や、己を知らない人権意識はとてつもない負荷エネルギーとして社会の融解を助長させている。殊に消費資本という主義システムを甘受した国家は、すべからず欲望のコントロール如何によって人々は時の集積(歴史)を分断忌諱しつつ、主である自身を時空に浮遊させるようになる。

また消費資本の発するバーチャルなプロパガンダ(宣伝)は、人々の表層知識を充足させることはあっても、人間関係に必須な人情の養いになるであろう、思索、観照の鎮まりにみる情緒性を陳腐なものとして廃棄してしまう。

犯罪に置き換えれば信頼に値しない関係、それも自己の都合の上のことが原因で犯罪や腐敗を誘引していることが多いことに気付くのはそのためだろう。単に法に抵触するなどの類ではない、陋規(習慣性、掟)にある善悪区別の迷走であり、成文化された法や制度では到底解決できないステージにこの社会は足を踏み入れたのである。

これも習い事のようだが、似て非なる隣国の永い循環サイクルに基づいた警言に知恵を借りることにする。


以下次号

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大相撲は「清規」には馴染まない 08 10/19 あの頃

2025-05-12 01:22:16 | Weblog

清規(成文法)と陋規(掟、習慣等)についての放談だが


好奇心の誘導なのか、相撲が八百長論議で騒がしい。

゛そもそも゛になるが、いつから国技と呼ぶようになったのだろうか。
また、数多のスポーツと称されるものと同様に、歪なコンプライアンス、つまり成文法の机上に乗せられるようになったのだろうか。

「我国の・・・」と振りかざす相撲だが、農耕神事から豪族、大名のタニマチ興行となり、近代では競馬などに冠されるように天皇杯が下賜され、形式的には法人化され国家のお墨付きを戴いている団体だが、だからといって全てが清規(成文法)に属する問題ではないと考える。

他のスポーツでもそうだが、猛特訓やシゴキが趣を変えればリンチ(私刑)になり虐めになる。それも先輩後輩や段階序列に処をかえれば、いつ加害者になるか判らない問題でもある。それを清規に当てはめると被害者が発生し、たとえ猛特訓でも受益者たるものの技や精神の昂揚喚起から生ずる感謝、感動は瞬時に犯罪として切り替わってしまう。技芸の自発習得は怪我も弁当(食い扶持)も己の問題としてあることは納得した修練においてはあるべき姿である。

もし相撲がスポーツなら指導料と食事代は支払うべき受益者負担である。
社団法人、スポーツ、国技に当てはめると、今どきはつねに法が付きまとう。
また、法なり則の狭間で歴史的には幾度と無く存亡の危機に立たされているのも相撲の世界である。




            


以前は農耕の祭事、神事として執り行われたが、それも格闘者の常で、終いには死闘となることもあったため、殴る、蹴る、突くを禁令とした熊本の吉田家の相撲作法および、横綱免許状の下賜という礼法をガイドラインとして、その陋規(狭い範囲の掟、習慣)が相撲界を司るものであった。あくまで狭い「界」のことである。

文明開化は肥満体にフンドシはみっともない、文明人らしくないと裸体禁止令など、それこそ文明人らしからぬ阿諛迎合拙速な奇法を発令したが、それも智恵の伊藤博文の気転で天覧相撲を催して危機を回避している。つまりミカドの威光を活かしているのである。

標題に「大相撲・・」と記したが、明治以降相撲興行は神社仏閣の勧進に関わらず、見世物興行的に各地で行なわれ、地元の名士、タニマチ、などが勧進元となり盛んに行なわれたが、東京を中心とした相撲興行は「大相撲」として各地の衰退とともに統合され、税制優遇処置ゆえ法人化され、先の吉田家が司った横綱免許交付権も協会に委譲されている。

ここで気が付くのは法(清規)の庇護、監督下になったのはつい最近のことで、それまでは陋規の範疇にあったのである。

そうでなければタニマチや地元名士、あるいは興行を仕切る侠客衆が興行成功の為に夫々の持ち場を形成する地域の調和が、優遇はあっても窮屈な清規の騒論に振り回されない、つまり敢えて御上や政道の外に位置することで相撲を継続してきたのではないかと思える。


          



もし、これが古来の神事、祭事に還り宗教法人ならばその危惧は無いだろう。
たかだか建前成文法であり、だからこそ争論観客までもが登場するのだろう。
御布施の如何で地獄か冥土、ミュージアムのような伽藍を立て本堂では落語にコンサート、かといって宗教゛道゛はとは問われない。あくまで掟、習慣の世界なのである。戒名は幾ら、お経料など全国一律ではなく都合に合わせた夫々の決りと話し合いで談合する世界である。

野球とて興行である。その世界には清規には馴染まない陋規が存在する。
法を執行する警察にも独特な掟や習慣がある。

つまり言い尽くされていることだが、人情は国の法より重いのである
ちなみに明治初頭の裁判官は判決文の作成に苦慮した。初めての憲法であり、今のように判例が無いのである。承知のことだが憲法は権力者を制御することにある。
聖徳太子の十七条も、遅刻してはならない、無闇に賄賂を獲ってはならない、筆者の乱暴な言い方ではあるが、人間の尊厳を毀損するであろう官吏に向けた条項が並んでいる。

その後は幕府の発する法度は武家向けたもので、庶民は多くは読むことの出来ない御触書などだが、耳にするものは身近な大家、名主、医者の言葉伝えである掟、習慣の陋規であり、自家に口伝されている決め事、訓語などを連帯の調和として生活を営んでいる。



                


大相撲に戻るが、八百長とガチンコという妙な言葉が踊ってる。
八百長は談合と金銭のやり取り、ガチンコは真剣勝負、いまでは真面目力士の代名詞のようになっているが、坊主の経や神官の祝詞もそこのところは微妙であることを我国の情緒は悟っている。

どうも四角四面と曖昧さに振り分けられる性癖のようだが、いつか満州国の副総理張景恵の親戚がそのようなことを知らせてくれた。
「どうも日本人は四角四面でいけない。二三度戦争に負ければ少しは丸くなるんだが・・」

逆に庶民は懐かしがってこう言っている。
「偽満州はよかった・・官吏は清廉で勤勉だ。ただ賄賂が下まで流れてこないので困ったが・・」

たしかに盲目的に四角四面になると道義心の薄くなった上司の言は惨劇に直結する。また狭い範囲の掟や習慣は相撲界ならずとも、人が集えば自然に作られる。
ただ、公権力といわれる部分、つまり警察、税、の面前権力や官吏、政治家にみる特殊な陋規は、清規(此処では恣意的に作られた法律)を屏風にして隠れた行為、あるいは 与野党八百長の類が大手を振ってまかり通っている現状をどう見たらいいのだろうか

とくに教職員や警察の食い扶持世襲は、陋規にある秘匿の掟が国家の清規さえも凌駕しつつ、教育、安全の美句を添えてバチルスのように増殖している。

大相撲への騒論と嗤いから何を導いたらいいのだろうか。
洋学で思い出したが、ドイツの物理学者ハイゼンベルグは、゛部分の算術的総和は全体を表さない゛と解いたと聴く。大相撲も世情の一部分である。

我々は事象を一面でなく多面的、枝葉末節ではなく根本的、しかも身近な日本人の変容を俯瞰して眺めたとき気がつく直感があるだろう。

曖昧だが、さもありなんと。

裸にマワシ、観衆に囲まれて相手を倒す、投げる、突き飛ばす、平手で顔面を叩く、そんな肉体的衝撃を試しに受けてみれば、腑に落ちることも有ろうかと思うのだ。

 

イメージはブラジル、オスニー・メロさんより

 

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小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅴ 7 12,20

2025-05-10 17:04:11 | Weblog

ある日の大学講話

 

【鬼平犯科帳の頃】

歴史でいえば、このような時代がありました  じつは私は18歳からボランティアでBBSという少年のためのケースワークを行ってきました 問題になっている保護観察の子供たちです  そのとき過去にもこんな歴史がなかったかな、と考え江戸時代を調べました 鬼平犯科帳というテレビがありましたか゛あの頃です  

考え方では平和な時代でしたが、政治も驕り、それにつれて人々の生活も乱れていました いわゆる贅沢な時代でした 今みたいに、「いいんじゃなぃ」、という時代でした  

若者が集えば持ち物のや流行の話題で、当時はグッチだとかシャネルとかないけど、かんざしは何処どこの店、刀のつばは誰々の作、江戸は滅ぶべきして滅んだ、その兆候があったのです  犯罪は犯さないが昼間から遊びまわり、仕事に就かない人が増え、風紀も乱れました いまの新宿、渋谷のようでした 

 もちろん政治家や役所の汚職も甚だしいものがありました  警察官はどうしたか、岡引ですよね 今でもあるようですが貰い下げ、願い下げ フトといって小遣い稼ぎが横行していました  ボランティアですが、私が担当した子供たちには人間の真理がそこにありました 当時は本当に不幸にして犯罪を犯してしまった子供たちがいました  いまは幸せでつまらない人が犯罪を犯します  

当時、武士は権力がありましたから 片っ端から徒人、生徒の徒に人と書きますが、この人たちを石川島、いまヤンキースに行った松井選手のマンションのそばですが、そこに集めて殖産事業といって仕事を教えました フリーターに技術を教えたんです  

パラサイトではなく自分の職業を与えました  そのご小泉さんの構造改革ではありませんが、贅沢取締りや役人の綱紀粛正がおこなわれました  当時は武士の絶対権力です ですが贅沢に浮かれていた中での改革は大変難しいものでした  

 



【亡国の後、その亡国の意味を知る】

人間は怠惰に流れ、一度味を知ってしまうと社会の統制は取れず、段々と徳川幕府の力は衰えたのは皆さんも知っていますね  これが国だったらローマ、ギリシャの衰亡です

ある学者が、七つの海を支配したあの大英帝国の衰退したときの人々の生活は、温泉、グルメ、旅行 ファッションに向かっていたといいます  社会や国の衰退は軍事脅威や経済力ではなく、その国の人々の心の問題、いわゆる驕りから来るということです
余談ですが、政治に命を懸けるという候補者のポスターは、みんな笑っていますね、大変な時代なのに、なにかおかしくなっていますね
 
インドのサキールさんは亜細亜のキャンパスに一歩踏み入れたとき感じました  私たちの国ではお金がなく学校にいけない人がいる みんな勉強したいと願っている
みんなは勉強したくて試験を受けて亜細亜大学にきたのだが、授業中寝ていたり、歩きながらタバコを吸っている女の人がいる  これが僕らの考えていた日本だったのかと感想を述べていました 

政治ですが民主と自由でみんな言いたいことを言い合います 社会の連帯がつくれません アメリカでも大統領選挙は共和党と民主党が僅差ですね 台湾もそうです、ウクライナもそうでした、日本も強い政権はつくれなくなっています 

言いたいことより、言うべきことが大切ですね  この教室でも30人がまとまることは難しいとおもいます でも皆さんが一人の責任者、リーダーを作ろうと思えばできますね  この教室にいる目的を話し合えばいいんです 

 そもそも私たちはこの教室に何でいるのか、考えればいいんです  ですから自分は全体の一部分ですよ、30分の1なんですよ、と考えて譲りあったり、助け合ったり、補い合えば、すばらしいグループができます

日本人は調和の中に生きていました だから飛びぬけることができなかった  でもグループが危機的状況になったら、あるいは学校の授業の目的がなくなったら発言し、行動すべきです  あの明治維新がなかったら植民地になっていたかもしれません

日露戦争に負けていたら私も青い目だ  問題意識を持ったらみんなで考えて行動することが大切です、それが若者の力です  私の父親の時代は、人と変わったことや、行動をしてはいけないと教えられたようです せっかくの自由です 30分の1の言うべきことを言ってください

 

 松下政経塾

筆者も一時間正座で講話 一学年7名 塾生は辛そう


【異なることを恐れない学問】

いまでもこのような話を皆さんは聴いてくれますが、小さな地域に戻ると、あいつは変っている、難しい、と異端扱いされますよ でも私はうれしい激励と聴いています
その変わり者が、シンクタンクを考えています  アジアの意思という名称です

各界で活躍している変わり者が集まって日本とアジアの問題、世界の中のアジア、いろいろ視点がありますが、その一つに明治の頃の人々がアジアに残した業績、その中の一つに数百年間、西欧の植民地によって抑圧されたアジアの国々がどのように復興したのか 

 例えば中国の近代化のさきがけとなった辛亥革命の孫文や、その意志に賛同した多くの日本人青年の意思などは、これからのアジアに必要な普遍的な精神だとおもいます。 そのためにはその青年たちがどのような学問をしたのか、いろいろ役立つことがあります 

前回の授業はアジアの留学生でしたが、真剣な授業態度に感動しました  
そのときマレーシアの学生が感想を述べました キャンパスの通路を追いかけてきました あの「無財の力」の意味がよく分かりました  アジアには財がなくても微笑みや優しさがある 財がないからこそ残る心ですね

今日は多くの変わり者が聴講に来ています
一番後ろは通称 仙人です その前は金沢さん そして先ほどのサキール・カーンさんです それでは金沢さんに何かお話をしていただきます

ひとまず・・・

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外交における応答辞令 あの頃も

2025-05-06 01:04:28 | Weblog

あの時は岸田さんがバイデン大統領と、麻生氏がトランプ元大統領と会った。

今は関税交渉とやらで、石破さんのご指名で数少ないお友達の中で赤沢議員が交渉に渡米した。

何を話題にしたのかわからない。毎度のことと国民も諦めているが、売文の輩や商業新聞はお決まりの覗きと予想記事で紙面を埋めている。

問題はアメリカ国民が現と元に朝貢と迎合を繰り返す日本の媚態政治家を人物としてどのようにみているのか気になるところだ。

政治的背景や経済的事情はあるとしても、国民の代表として説明や営業、加え信頼確認のために米国民のみならず、遣いに出す日本国民の軽重すら測られる姿であろうか憂慮がある。

 

 

中国共産党の党学では歴史、古典の科目があるという。

いま日本では受験科目にも忌避され、企業でも採用には無用の能力として顧みられることが少なくなった。

それでも挨拶のネタや微かな教養の披歴として稲盛氏や安岡氏の言葉や文字を説明している。

習近平氏はその党学校の校長を歴任している。しかも下放という辺鄙に地方での労働教化も体験している。

それは、人物によってその情勢や時の流れが見て取れることであり、相手が政治指導者ならその国の力量や行く末まで読み取れる、一種の度量や器量の類だ。まさに頭の良いということは数値秀才ではなく「直観力」や先を見通す「逆賭」の力量だろう。

  「逆賭」・・・現状観察からあらかじめ起こり得ることを推考する。事前に手を打つ。

  「観る」・・・多面的、根本的、全体的、俯瞰

 もちろん、相手によって対応を変えたり、古典百家の逸話を駆使した応答も長けている民族のこと、我が国の売文の輩や言論貴族の珍奇な説に踊る政治家や企業人にはない、厚く深い智慧や洞察によって逢場作戯(場面や相手によって応答を戯れる)を、まさに愉しんでいる。つまり見極めた余裕である。「呑んでかかる」と思えばよい。

 

              

 

以前、佐藤首相と米国大統領の応答を記したことがある。

佐藤総理とて岸田総理同様、仮にも学び舎教育を受けた学歴持ちだが、こと相手が戦争の勝者、こちらは白人から野蛮で未開と云われ、時の流れで完膚なきまで叩かれ敗戦した国の宰相だある。それゆえ、臆する心があったのか道学の師である安岡正篤氏に対応の妙を請うた。

安岡正篤氏は簡略に騎士道と武士道の共通理念を説いた。相手は利権に目ざとい陣笠代議士ではない。地位の立場に相応した教養と、歴代大統領に比した矜持の現示を他国の指導者に表わす威儀もあった。

従来は短時間の表敬後、ホワイトハウスの庭で共同会見を行うのが通例である。まさか「何の用で来たの?」「ワシントンは素敵な街ですね」はないと思うが、相手によってはそれもあるのが首脳会談だ。

共産主義国家同士でもテーブルの下は足の蹴りあいもある。衛星国の子分のようにあしらうこともある。

「こちらは核がある。言うことを効かなければ大変なことになる」

『いや~、8憶いるので、半分失っても4億は残る』

半分冗談だのようだが、応答は鷹揚だが国を背負う胆力、気概がある応答だ。

笑って握手して協力を謳ってマスコミが化粧して喧伝しても、「どうなるか分かっているよな」は応答の内実である。

なかには,はじめから卑屈、迎合して歓心を買う政経の人間もいるが、もともと仁義道徳が亡失しなければ当選も金儲けもできない世界での一過性の成功者では、なかなか出来ない芸当のようであるが、国家の衰退や亡国には現れる人間の類である。

 

                

 

 

日中国交交渉は官僚で積み上げられ、周総理、田中総理によってまとめられた。二人で毛主席に報告した際、「もう喧嘩は終わりましたが、ケンカしなくては仲良くならないようです」と、大人が子供に諭すように語った。そして田中総理は「楚辞」をもらった。楚辞は「世はみな濁る、吾、独り清む」と嘆いてベキラの淵に身を投じた人物の逸話が書かれている。つまり最後には「身を投じる」ことの暗示のようにもみえる。

周は論語の一説「言、信を必す。行、果を必す」と揮毫を贈呈した。随行は歓喜し,記者もそれを発信した。

佐藤慎一郎氏は「遊ばれたね、あれは文字遊び。一国の総理やエリート官僚がコロリやられた。いずれ日本は下座になる、それがエリートなんだ」 それは占領時の軍人が高名な書家に揮毫依頼したときのこと、エリート軍官吏は書いてある内容はわからないが、有名書家の、つまり女性のブランド好きのようなもの。

ところが文中に「恥」が欠けていた。恥を知れということだ。嬉々として床の間にかけている軍官吏が高位高官に就いたエリートなのだ。ロシア文学好きの共産主義者や論語好きの媚中のようなものだろう。

論語に戻るが、周の揮毫は論語の一節にある「弟子が一等の人間はどのような人物をいうのでしょうか」と問うた部分の抜粋だ。

「言うことが信用できて、行うえば必ず結果がでる、このような人物はどうですか」

「まだまだ小者だよ」

「一等の人間とは」

「主人(皇帝なり元首)の遣いで異郷の地に行って、主人に恥をかかせない,義のある人物が一等な人物だ」

つまり、周の揮毫に書かれていた章は論語の重要な部分が欠落したものなのだ。

続く章は「硜々然として小人なるかな」、つまり言うことが信用できて、行うことに結果がでる、それは小者で、国や民族、要は元首や国民の思考や教養を矜持として他国に遣いに出なければ真の宰相とはならないと皮肉ったのだ。

だだ、これも遊びて、一杯食った、今度は知恵を絞って、一杯食わせると考えれば、これも人物としての懐に深さだろう。総理みずから国会で流行りごとのようになった細々とした説明や言い訳では会談も締まらない。貴重な時間の浪費でもある。まして改竄、隠蔽、先延ばしでは異国では通用しない。

彼の国は人治と云われるが、所詮、法を積層しても、部分を探求する官吏が優秀と云われても、軍備が整っていても、在れば有るに越したことはないような類で、個々の力量、深層の情緒が真の国力であることは熟知している。歪めるのは汚職腐敗で民が面従腹背になり放埓になることによる国内社会の衰亡だと考えている。

いや歴史の教訓として、弱さを見せれば外敵も内敵も浸食する歴史が学びとして重要視され、先ずは「人間観察」を要点として現在から将来を推考する、つまり人物の力量を見抜き応答する、かつ信用できる人間の存在こそ国の命運あると考えている。

周さんは上手くやった、と人民大会堂は万歳が響き渡った。万歳は「万砕」(ワンソイ」同じ音でもある。

鄧小平さんは、小平は「小瓶」黙って瓶を壁に投げつけた。

四つの近代化は「四化」だが「四話」、あれはできもしない四つのお話しだと。

でも、批判されても分り切ったことだ。角さんも一杯食わされたと鷹揚だ。

高く買わされれば、「あんな良いものを安くしてもらって」といえば、売り手も隙がでる。日本人なら今後は買わないとなるが、彼の国は関係性が継続する。看板な「言、二値ナシ」とある。価格は間違いない、これが正価です。ところが看板の二つの値段はないが、三値や四値はある。そこには断絶や訴訟もない。前記した「逢場作戯」なのだ。悔しがれば、運が悪かった、今度がある、と。

いっとき市井で流行った本に「厚黒学」がある。要は面の皮が厚く、腹黒い生き方だが、まさに腑に落ちる心底を表した内容でもある。それならと香港で「賄賂学」はないかと探したが見当たらなかった。日本人は賄賂は悪で腐敗堕落の根との印象だが、昔から賄賂は「人情を贈る」と考える慣習があった。

それは「よろしくお願いします」「邪魔しないでください」の類で大らかな人情交換だった。コソコソした日本人と異なり額も大きい。数年前に摘発では、省幹部でも数100億、党幹部になると数千億にもなった。日本では政治家や官僚も小粒で狡猾なのか、その度胸は無い。だからなのか決断は鈍く、すべて打ち抜きで曖昧を旨としている。政治資金の流用も居酒屋やガソリンの領収証、最近では家族に還流して大臣を辞めた小者もいる。それでも東大出の元エリート官僚だ。これでは国を代表した外交など任せられないし、せいぜい握手と写真、少し小狡ければODAの援助利権が関の山だろう。

今回は岸田君は彼の国の民から観て小者のように映った。もしも装って隙を見せたなら、今度は大人のように振る舞って欲しい。孫文も「真の日本人がいなくなった」と、側近の日本人に嘆息している。

先ずは、狡猾な官吏、欲張り陣笠や曲学阿世な知識人に阿諛迎合せず、宿命を立命に転化する学びが欲しい。

メンツをつぶさず、一杯喰わせるような頓智があるなら、面白い漢となる。また、亜細亜は再興するはず。

それなら「宏池」を冠とした命名者安岡正篤氏も感服するはずだが。

< 現在の中国での状況と民情は、繁栄とともに政治指標も変化し民の習性や情操も変化している。ここで取り上げた逸話は人間の本性とする「色・食・財」の欲望に向かうとき、ときおり垣間見る民の智慧と観えることがある。

政治の政策には応ずる民の対策と云われるものがそれである。とくに外交交渉での隘路として異なる姿を見せることでもある。たしかに独特の感覚と応答である。それは個々のメンツとも思えるものではあるが、環境や状況で瞬時に変化する。日本では立場の形式と本音として通底されている姿でもある>

 

   

 

 

以下、Yahoo!ニュース コラムより抜粋

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

 

岸田首相が習近平と会談できたのはG20が終わった翌日11月17日にタイに移動してからだった。単純に国の順番から言うと、国連のグテーレス事務総長を含めて15番目となる。

 もっとも、11月17日にタイのバンコクで開催されたAPECに参加する国と参加しない国(オランダ、南アフリカ、セネガル、アルゼンチン、スペイン、イタリア)があるので、必ずしも日本が関係国の中で15番目にしか位置付けられていないとは言えないものの、やはり図表を作成してみると、習近平が日本を相当低くしか位置付けていないという現実が、否定しがたい形で突きつけられる。

 少なくとも、同じ大統領あるいは首相がAPECにも参加しているのはフランスやオーストラリア、インドネシアなどで、タイで会っても良かっただろうが、優先的にインドネシアで会っているし、17日にタイに移動してからも、フィリピンやシンガポールの首脳よりも、日本は後回しになっている。

 日本が少しは優位に立っているのは「ブルネイ、ニュージーランド、パプアニューギニア、チリ」に対してのみだ。タイが最後になっているのは主催国だからだ。

 一方、視点を変えると、韓国の大統領とはかなり優先的に先に会っているのは、韓国は米韓との関係上、何としても中国側に引き付けておきたいという思惑があるからだろう。韓国の場合、APECには大統領に代わって首相が出席することになっているからという理屈は成り立つだろうが、韓国側のやり方もうまければ、韓国が6番目に位置しているのは、日本人として決して愉快な気持ちにはなれない人が多いのではないだろうか。

 中国は、こういう順番を非常に重視するという伝統があるので、その視点から見ても、韓国に比べて日本など、「どうせ放っておいても尻尾を振って近づいてくる」と高を括っている何よりの証拠だとしか見えないのである。

 

◆習近平の前でオドオドと焦る岸田首相

 そのイヤな予感は、初対面の場面で早速、現実のものとなった。

 11月17日午後8時46分、習近平が宿泊するホテルに岸田首相が表れた。バイデンのときと同じように習近平が対面舞台の真ん中にいて岸田首相が速足で歩いて近づいていく設定だ。最初に会った時の会話と動作が滑稽過ぎて、実際の対談がどうであったかはほぼ関係ないほどだ。

 以下、日中両国のネットに現れている数多くの動画に基づいて、「習近平&岸田」の対話や動作を記したい。( )内は中国語の和訳や筆者の説明で、会話の文字起こしに関しては筆者自身が聞き取れたものを記録した。

 

習近平:到了(あ、来た)。

岸田:・・・(走り寄っている最中)

習近平:你好啊(やあ、こんにちは)。(非常に軽いトーン)握手。

岸田:(ペコペコしながら)ええ、習主席と直接対話できましたことを大変うれしく思います。

習近平:那我们今天呢,坐下来谈一谈(じゃあ、今日はですね、座って話しますかね)。

岸田:・・・(大急ぎで日本語通訳の方を見るが、通訳が間に合わない。)

     (習近平、握手の手を離す。)

習近平:今天过来的还是昨天过来的?(今日いらしたんですか?それとも昨日いらしたんですか?)

岸田:・・・(通訳の方を振り向いている)

習近平:从巴厘岛(バリ島からさ)(回答が遅れてるので付け足す)

岸田:(しばらく沈黙。通訳の方を振り向く岸田首相に日本語通訳の声が届くと、ようやく)そうですね・・・、あのう・・・、え――っと、そのう・・・、本日、こちらに移動してきました。

    (「今日です」という一声が出なく、「あのう・・・、そのう・・・、えーーとぉ」を続けた後に、ようやく「本日」という言葉が出た。)

習近平:今天刚刚到的、我也是(ああ、今日、着いたばかりなんですね。私もです)。

    (ここで対面場面は終わることになっていたらしく、二人は対面舞台から去ろうとするのだが、岸田首相は間違えて習近平のあとに付いていき、習近平ら中国側の方向に向かおうとしたので、習近平がそれを遮り)

習近平:你们这边(あなたたちは、こっちですよ)

    (岸田首相ら日本側が向かうべき反対側の方向を、習近平が掌を上に向ける形で指す。「あ、どうも」と言ったのか否か、声は拾えてないが、頭を軽く下げながら習近平の後ろをアタフタと「日本側」の方向に戻る岸田首相の姿が映し出されたところで、画面は切れた。)

 

 バイデンとの出会いの場面も見ものだったが、岸田首相との対面場面は、それに輪をかけて「抱腹絶倒」と言っても過言ではなく、中文メディアは大喜びだ。

 日本人としては愕然とする。会談で何を話そうと、あとは推して知るべし。

 平然とゆったり構える習近平の前に、おどおどと緊張し、日本語も普通には出てこない岸田首相の小物ぶりが際立った。

 習近平はそんなに「偉い」のか?

 なぜ、ここまでビクつかなければならないのか?

 何を恐れているのか?

 だらしない!

 みっともない!

 せっかく国際社会的には有利な立ち位置にありながら、結局は「ご機嫌伺い外交」しかできない国のツケが露わになったのを見る思いだ。「言うだけ外交」、「戦略なき日本」の姿は、こういうところで顕著になる。今後、岸田首相が中国に関して、どのような勇ましいことを「言葉だけで」言っても、何も信用できない。

 日本はなぜこんな国になってしまったのか、暗然たる思いだ。

 

以上,参照として転記させていただきます

イメージは一部関係サイトより

 

 

 

 

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人間考学「五寒」 生じて国家無し その四

2025-05-04 07:41:20 | Weblog

         文 佐藤慎一郎氏



「五寒」とは

《政 外》  政治のピントが外れる。

《内 外》  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》  謀(はかりごと)が漏れる 弛(ゆるむ)

《女 レイ》 女性が烈しくなる。荒々しくなる。


                

               孫文夫妻




[両性の調和]

娘、嫁、姑、姥、と変化する女性の表現文字は、男性から見ると、その積み重ねた経験の変化に、尊敬と慶び、あるいは慈愛にあふれた母性に感謝が込められています。
 
 言葉のニュアンスを論ずるものではありませんが、「女厲」にある女の烈しさと、母の剛さはその意味において大きな隔たりがあります。
「強さ」と「剛さ」、「烈しさ」と「激しさ」も同様に似て非なるものです。
 
 女性には元々、性における特質があります。 表現方法も男性とは違います。
 一つ一つの問題に互いの劣性、優性を争うものではありませんが、区別はあります。本来、両性は特性を際立たせながら互いに補い合う共生本能があり、役割認識があります。

 しかし、その時々の流行や、経済力、あるいは社会生活等の変化や衰退、はたまたは物質的発展とともに蓄積されるという精神的怠惰などは、男女の役割を反転させたり、両性の調和を崩し、単に、対立した権利、度が過ぎた享楽にその特性が浮き上がり、それぞれの生まれながら持つ優性が劣性に変化してしまいます。

男女に区別もあれば能力もさまざまでが、両性の優性が種類の違う自由と権利が交差、錯誤することによって優れた部分を劣化させることにもなります。

 多くの人は義務よりは権利の多くを主張します。
表現は異なりますが、人はそれぞれの範囲の中で権利の主張をしますが、自らが族を主張し、種を主張し、譲りあわなければどうでしょうか。
たとえば、不特定多数の利福を代表する議員が己の生活を主張したなら、「公」の意識は崩壊します。
子供が人権を掲げて大人と同様な享楽的な権利を唱えたら、道徳規範は必要ありません。
理屈では決められた役割ではないにしろ、暗黙の了解とか、当たり前の事、といわれている男性の責務の代表的な“戦地での戦闘”“社会での生産的役割”を一人の人間の自我として放棄したらどうなるでしょうか。

今までは考えもしなかった男性としての当然の責務が、妙な雰囲気のなかで逃避傾向にあるように感じられるのは拙者の思い過ごしでしょうか。


              

             満州での佐藤夫妻



[ 錯覚価値の露見]

或る碩学の格言に「六錯」と称して文明人が陥りやすい錯誤を述べています。

【奢シャ】
      (贅沢)を以て福(幸福)と爲ナ(考える)す。

【詐サ】
      (人を騙す)を以て智(賢い)と爲す。

【貪ドン】
      (むさぼり)を以て為す(行動力)ありと爲す。

【怯】
      (おびえ)を以て守(守り)ありと爲す。

【争ソウ】
      (あらそい)を以て氣(ちから)ありと爲す。

【嗔シン】
      (いかり)を以て威イ(人を従わせる力)ありと爲す。



また、こうも併記 されています。

肉体の欲望を神聖な行為と考え、堕落を文化と考え、流行を進歩と考え、道徳を反動と考え、闘争を正義と考え、とある。

  今流に言えば、自分を知らずして、なお且つ地位、名誉、財力、学歴といった無いよりはあった方がましぐらいの附属性価値にうつつをぬかす人々のようなものです。

しかし、このような錯覚価値も自分の秘奥な良心に問いかける心の余裕があれば、あるいは、眼前に現れる事柄に問題意識をもち、自己能力を認めようとする勇気があるなら、正しい価値に覚醒された新しい人生がおのずから浮かび上がります。
そのことは誰もが生まれながら持っている、すがすがしい精神への回帰であり、世俗の錯覚価値に放たれた“放心”の取り戻しでもあります。
赤子の免疫能力のように…         孟子「四端」参照


            
           竹内夫妻  妻は佐藤慎一郎氏姉


[弁(ワキマ)え]

俗話に「女に負けるものかと、馬鹿が言い」とか、「女三界に家なし」「カカア天下」などと様々な言葉があります。
男が威張っているのか、カラ威張りなのか、はたまたは遠吠えなのかは解りませんが、なるほど近ごろではそんな男が増えています。

 江戸の一時期は8割以上の成人男子が独身であったわけですが、平成の世でも60万人以上の男あまりの現象があります。
風俗としては男性の女性化、逆に、女性の男性化が言われます。
人工的に容姿を作り上げたりするものもありますが、男女の“それらしい”姿が希薄になって来ました。

  別に、断定的に男女かくあるべし、というものではありませんが、生活にはどう生きたらよいかの基本的スタイルが有るはずでもあるし、社会の表層に現れた部分を比較して「解放」や「優越性」を唱えたところで両性の劣性のみが目立ち、ときには権利の対立を起こし「優しさ」、「強さ」が、「軟弱」、「烈しさ」に変化します。
 
 現代ではそれぞれの性を忘れたかのように、様々な属性価値を求めて誘引されています。 例えば、「昔の女はこんな風ではなかった」「今の男はだらしがない」などと、いささか江戸の長屋談義になってしまうが、言葉に飾りがないなかにでも互いの性を憂うる気持ちが表れています。
こんな世相のひとこまも井戸端会議のように「カラッと」 しているとよいのだが、ちかごろの雰囲気はそうでもないらしい。 根本的には「自分」そのものが解らない事が多いようだ。
自分を解らないとは少々難解だが、自分を忘れていると考えた方がよいのかもしれない。 

 




 孔子の逸話にこんな話がある。
引っ越しのときに女房を忘れて行ったものがあるという話だが」

6ところが孔子は、「女房ぐらいならたいしたことはない、近ごろでは自分を忘れているものが多いようです 
 いかにも孔子らしい説話のたとえだが、現代では他人の存在がなければ比較する己もなく、自分を表現できない人生は生きていることそのものを半知半解している風にも見られる。

別段、人生哲学を高邁に述べる訳ではないが、人間は人間そのものとして生きる簡単な行為を分かりにくくして、際限のない欲望と、禽獣同様な部分に身を置いていることに気が付かない。
もっと分かりやすく言うならば「何のために生まれて来たのか」「自分は何をしようとしているのか」「誕生のとき親はどんな喜びがあったのだろうか」
いわゆる「我(われ)は何なのか」を考える余裕と真剣さが必要ではないだろうか。

 こんなときが無かっただろうか。
 喜怒哀楽が親兄弟、伴侶にも垣間見ることの不可能な秘奥なる心の奥底を考えるとき、或るときには絶対無垢な良心で、あるいは邪まな心で、はたまたどうしようもない本能の欲望などさまざまな葛藤が巡るときがある。

 どのように理解し解消しょうかと試行錯誤が始まる。
自分で消化できるうちはよいが、友人や適当と思われる知り合いに連絡を取り一時の“まぎれ”をとるのだが「弱みを見せられない」「他人に話されたら困る」などと余計な心配ごとを発生させてしまう。いわゆる相談事である。
妙に事己納得する風で、一事が万事「自己愛」から出発し本当の自分が分からない繰り返しである。


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「五寒」 生じて国家無し その二

2025-05-03 05:55:11 | Weblog

果たして我国の現状は・・・

五 寒

中国は漢代のころ、当時の識者は国家社会を衰亡させる要因に五つの兆候があると説いている。 

其の一
   「敬 重」ケイチョウ 敬われる人物がいなくなる

  敬う対象がなくなるのか、あるいは敬意の心そのものを無くしてしまうものなのか、閨閥、学閥、財力、名誉、地位など人格以前の属性価値の変化から生ずる無秩序な社会の一過性の現象とも考えられる。 いわゆる民心の混乱でもある。

其の二
   「謀 弛」謀(はかりごと)が 弛(ゆるむ

  大切な問題が筒抜けになる。相互信頼の欠如によって心の動揺が生まれ、公私の分別がつかなくなり我欲が際立つ社会構成になってしまう。 また国家の重要な問題が他国に漏洩したりして、国家の維持機能が軟弱になったりします。
 また、綱紀が弛むなど自己規制がなくなる状態である。

其の三
   「内 外」ナイガイ 内面の欠点を外部で補うようになる

  内政の失敗を、外敵を作り出すことにより国民の眼を外に向けさせたり、外国勢力の力を利用して内政を取りまとめたり、あるいは指導者が自己の錯覚した属性価値を高めるために外国要人との記念写真を国内向けに撮ったりすることなどは、指導者の必須の資質条件と何ら関係のないことである。いわゆる短い単位の歴史の流れにうごめく軽薄な民の組成ほかならない。

其の四
  「政 外」セイガイ 政治のピントが外れ
 
 政治の根本である「政綱」がないままの政策論議が政治家の仕事と錯覚してしまい、常に対策に翻弄されてしまう状態を生み出してしまう。   「政綱」 政治方針の根本や、 目的のない学問と同様に、“我、何を為すべきか”の根本もなく、本来あるべき歴史の真理、真実の探求もなく、単に時運に右顧左眄する政治を露呈してしまいます。 しかも人間のみにその政策の重点を置くあまり、地上の森羅万象を観察する秘奥な心眼を失い自然界との共生ができなくなり“天に唾する”状況を作り上げてしまう。
「 亡国になって初めて亡国を知る」とはこのようなことを言うのであろう。

其の五
 「女厲」(ジョレイ・ラン) 女が(烈)はげしくなる

 国家衰亡の五つある徴(しるし)のなかに“女性が烈しくなる”とある。 
暇に飽かして漢和辞典をひいてみると“女”という文字につらなる合字は数え切れないほどあるが、“男”のそれはなかなか見当たらない。

 薄学が一生懸命探しあてた一つが“嬲(なぶ)る”であった。男二人の間に女を挟んでいる“嬲る”は文字の意味そのものであろう。
“なぶる”は、いじめたり、からかったり、あれこれと苦しめたり、あるいは戯れるといった意味がある。

ところがもう一つの“なぶる”がある。 「嫐」である。
これは小生の辞書にはのってないが、ワープロ変換に記憶されているものである。 確かな意味は判明しないが“嬲る”における男女の役割が入れ替わったものだろうと想像する。近頃はその気配すらする。






 女偏のつく文字のおびただしい数は、それだけ重要な役割と責任がある“性”なのであろう事は疑う余地はない。とくに陽(男)と陰(女)の調和が生命を誕生(産む)するという神秘的な行為に対する感謝、崇拝が、かくも多様な文字を作り上げたと言っても過言ではない。

 このように両性扶助(調和)は人間界の繁栄と維持に欠くことができない条件ではあるが、歴史はその時々にその還元力を試したり、互いの必須条件を確かめるかのように愛憎の反復行為を両性に与えたりする。
太古の歴史の反復、循環の作用からすれば先入観と考えられることかもしれないが、役割の入れ替えと、心の棲み分けがそれである。

 古代の埴輪にある帯刀した女性、儒教における男女の役割、戦後の社会的生産分野への進出、教育分野での女性的価値観での影響力、政治の分野における女性特有の参加形態がそれである。
街中では到底歩けないような原色のスーツと、ここ一番の厚化粧をした議員が口角泡を飛ばして平和、平等、人権を屏風にして相手を批判、もしくは自身の意見を確認するかのような論を強弁することに本気で応じられるのだろうか。
現在の姿は、平和ゆえに一過性の現象とも考えられる。






 「女厲」は男性側から指して言っている訳ではない。調和の崩れが及ぼす影響が、いずれは女性自身の側に降り注ぐことを憂慮した、歴史からのささやかな啓示であることを考えてみたい。
 
 たかだか人間の考える範囲の問題だが、人間は平等であるという。しかし男女の区別は双方から見てもある。 肉体の構造は大きく違い、ときとしてその享受する歓びも、それぞれは真に理解することはかなわない。また憎しみも違えば行為も違う。

 こんな俗諺もある。「平ならぬもの、平すれば、平ならず
平ならず、とは不平と書く。平すれば、とは平等と書く。平ならず、とは不平である。つまり元々「元々は平らでないものを、平等にすれば、不平が出る」ということである。この隙間には、優劣個性とか特徴があり、また少々異なる平和や人権の意識がある。

 人間は何と遠回りして考えるのであろうか、あるいは誰に問いかけているのであろうか、人間の身体にも機能は均等だが利き腕、支え手がある、また戦禍や不慮の事故で機能を亡くしても補助や他からの扶助がある。不平、公平、平等を眼前にも意識にも総て存在するのが世の中である。これを得手勝手な嫉妬、恨み、に逆進する意識と、惻隠、感謝、学習に転化することでは、人の世の現象に多くの差異が生ずることとなる。

 だが人間同種として共有、共感することがあるからこそ、違いから生ずるさまざまな苦楽を認め、受け入れることの積み重ねを“愛情”という文字に写しとっているのである。

以下次号

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