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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

外交における応答辞令 あの頃も

2025-05-06 01:04:28 | Weblog

あの時は岸田さんがバイデン大統領と、麻生氏がトランプ元大統領と会った。

今は関税交渉とやらで、石破さんのご指名で数少ないお友達の中で赤沢議員が交渉に渡米した。

何を話題にしたのかわからない。毎度のことと国民も諦めているが、売文の輩や商業新聞はお決まりの覗きと予想記事で紙面を埋めている。

問題はアメリカ国民が現と元に朝貢と迎合を繰り返す日本の媚態政治家を人物としてどのようにみているのか気になるところだ。

政治的背景や経済的事情はあるとしても、国民の代表として説明や営業、加え信頼確認のために米国民のみならず、遣いに出す日本国民の軽重すら測られる姿であろうか憂慮がある。

 

 

中国共産党の党学では歴史、古典の科目があるという。

いま日本では受験科目にも忌避され、企業でも採用には無用の能力として顧みられることが少なくなった。

それでも挨拶のネタや微かな教養の披歴として稲盛氏や安岡氏の言葉や文字を説明している。

習近平氏はその党学校の校長を歴任している。しかも下放という辺鄙に地方での労働教化も体験している。

それは、人物によってその情勢や時の流れが見て取れることであり、相手が政治指導者ならその国の力量や行く末まで読み取れる、一種の度量や器量の類だ。まさに頭の良いということは数値秀才ではなく「直観力」や先を見通す「逆賭」の力量だろう。

  「逆賭」・・・現状観察からあらかじめ起こり得ることを推考する。事前に手を打つ。

  「観る」・・・多面的、根本的、全体的、俯瞰

 もちろん、相手によって対応を変えたり、古典百家の逸話を駆使した応答も長けている民族のこと、我が国の売文の輩や言論貴族の珍奇な説に踊る政治家や企業人にはない、厚く深い智慧や洞察によって逢場作戯(場面や相手によって応答を戯れる)を、まさに愉しんでいる。つまり見極めた余裕である。「呑んでかかる」と思えばよい。

 

              

 

以前、佐藤首相と米国大統領の応答を記したことがある。

佐藤総理とて岸田総理同様、仮にも学び舎教育を受けた学歴持ちだが、こと相手が戦争の勝者、こちらは白人から野蛮で未開と云われ、時の流れで完膚なきまで叩かれ敗戦した国の宰相だある。それゆえ、臆する心があったのか道学の師である安岡正篤氏に対応の妙を請うた。

安岡正篤氏は簡略に騎士道と武士道の共通理念を説いた。相手は利権に目ざとい陣笠代議士ではない。地位の立場に相応した教養と、歴代大統領に比した矜持の現示を他国の指導者に表わす威儀もあった。

従来は短時間の表敬後、ホワイトハウスの庭で共同会見を行うのが通例である。まさか「何の用で来たの?」「ワシントンは素敵な街ですね」はないと思うが、相手によってはそれもあるのが首脳会談だ。

共産主義国家同士でもテーブルの下は足の蹴りあいもある。衛星国の子分のようにあしらうこともある。

「こちらは核がある。言うことを効かなければ大変なことになる」

『いや~、8憶いるので、半分失っても4億は残る』

半分冗談だのようだが、応答は鷹揚だが国を背負う胆力、気概がある応答だ。

笑って握手して協力を謳ってマスコミが化粧して喧伝しても、「どうなるか分かっているよな」は応答の内実である。

なかには,はじめから卑屈、迎合して歓心を買う政経の人間もいるが、もともと仁義道徳が亡失しなければ当選も金儲けもできない世界での一過性の成功者では、なかなか出来ない芸当のようであるが、国家の衰退や亡国には現れる人間の類である。

 

                

 

 

日中国交交渉は官僚で積み上げられ、周総理、田中総理によってまとめられた。二人で毛主席に報告した際、「もう喧嘩は終わりましたが、ケンカしなくては仲良くならないようです」と、大人が子供に諭すように語った。そして田中総理は「楚辞」をもらった。楚辞は「世はみな濁る、吾、独り清む」と嘆いてベキラの淵に身を投じた人物の逸話が書かれている。つまり最後には「身を投じる」ことの暗示のようにもみえる。

周は論語の一説「言、信を必す。行、果を必す」と揮毫を贈呈した。随行は歓喜し,記者もそれを発信した。

佐藤慎一郎氏は「遊ばれたね、あれは文字遊び。一国の総理やエリート官僚がコロリやられた。いずれ日本は下座になる、それがエリートなんだ」 それは占領時の軍人が高名な書家に揮毫依頼したときのこと、エリート軍官吏は書いてある内容はわからないが、有名書家の、つまり女性のブランド好きのようなもの。

ところが文中に「恥」が欠けていた。恥を知れということだ。嬉々として床の間にかけている軍官吏が高位高官に就いたエリートなのだ。ロシア文学好きの共産主義者や論語好きの媚中のようなものだろう。

論語に戻るが、周の揮毫は論語の一節にある「弟子が一等の人間はどのような人物をいうのでしょうか」と問うた部分の抜粋だ。

「言うことが信用できて、行うえば必ず結果がでる、このような人物はどうですか」

「まだまだ小者だよ」

「一等の人間とは」

「主人(皇帝なり元首)の遣いで異郷の地に行って、主人に恥をかかせない,義のある人物が一等な人物だ」

つまり、周の揮毫に書かれていた章は論語の重要な部分が欠落したものなのだ。

続く章は「硜々然として小人なるかな」、つまり言うことが信用できて、行うことに結果がでる、それは小者で、国や民族、要は元首や国民の思考や教養を矜持として他国に遣いに出なければ真の宰相とはならないと皮肉ったのだ。

だだ、これも遊びて、一杯食った、今度は知恵を絞って、一杯食わせると考えれば、これも人物としての懐に深さだろう。総理みずから国会で流行りごとのようになった細々とした説明や言い訳では会談も締まらない。貴重な時間の浪費でもある。まして改竄、隠蔽、先延ばしでは異国では通用しない。

彼の国は人治と云われるが、所詮、法を積層しても、部分を探求する官吏が優秀と云われても、軍備が整っていても、在れば有るに越したことはないような類で、個々の力量、深層の情緒が真の国力であることは熟知している。歪めるのは汚職腐敗で民が面従腹背になり放埓になることによる国内社会の衰亡だと考えている。

いや歴史の教訓として、弱さを見せれば外敵も内敵も浸食する歴史が学びとして重要視され、先ずは「人間観察」を要点として現在から将来を推考する、つまり人物の力量を見抜き応答する、かつ信用できる人間の存在こそ国の命運あると考えている。

周さんは上手くやった、と人民大会堂は万歳が響き渡った。万歳は「万砕」(ワンソイ」同じ音でもある。

鄧小平さんは、小平は「小瓶」黙って瓶を壁に投げつけた。

四つの近代化は「四化」だが「四話」、あれはできもしない四つのお話しだと。

でも、批判されても分り切ったことだ。角さんも一杯食わされたと鷹揚だ。

高く買わされれば、「あんな良いものを安くしてもらって」といえば、売り手も隙がでる。日本人なら今後は買わないとなるが、彼の国は関係性が継続する。看板な「言、二値ナシ」とある。価格は間違いない、これが正価です。ところが看板の二つの値段はないが、三値や四値はある。そこには断絶や訴訟もない。前記した「逢場作戯」なのだ。悔しがれば、運が悪かった、今度がある、と。

いっとき市井で流行った本に「厚黒学」がある。要は面の皮が厚く、腹黒い生き方だが、まさに腑に落ちる心底を表した内容でもある。それならと香港で「賄賂学」はないかと探したが見当たらなかった。日本人は賄賂は悪で腐敗堕落の根との印象だが、昔から賄賂は「人情を贈る」と考える慣習があった。

それは「よろしくお願いします」「邪魔しないでください」の類で大らかな人情交換だった。コソコソした日本人と異なり額も大きい。数年前に摘発では、省幹部でも数100億、党幹部になると数千億にもなった。日本では政治家や官僚も小粒で狡猾なのか、その度胸は無い。だからなのか決断は鈍く、すべて打ち抜きで曖昧を旨としている。政治資金の流用も居酒屋やガソリンの領収証、最近では家族に還流して大臣を辞めた小者もいる。それでも東大出の元エリート官僚だ。これでは国を代表した外交など任せられないし、せいぜい握手と写真、少し小狡ければODAの援助利権が関の山だろう。

今回は岸田君は彼の国の民から観て小者のように映った。もしも装って隙を見せたなら、今度は大人のように振る舞って欲しい。孫文も「真の日本人がいなくなった」と、側近の日本人に嘆息している。

先ずは、狡猾な官吏、欲張り陣笠や曲学阿世な知識人に阿諛迎合せず、宿命を立命に転化する学びが欲しい。

メンツをつぶさず、一杯喰わせるような頓智があるなら、面白い漢となる。また、亜細亜は再興するはず。

それなら「宏池」を冠とした命名者安岡正篤氏も感服するはずだが。

< 現在の中国での状況と民情は、繁栄とともに政治指標も変化し民の習性や情操も変化している。ここで取り上げた逸話は人間の本性とする「色・食・財」の欲望に向かうとき、ときおり垣間見る民の智慧と観えることがある。

政治の政策には応ずる民の対策と云われるものがそれである。とくに外交交渉での隘路として異なる姿を見せることでもある。たしかに独特の感覚と応答である。それは個々のメンツとも思えるものではあるが、環境や状況で瞬時に変化する。日本では立場の形式と本音として通底されている姿でもある>

 

   

 

 

以下、Yahoo!ニュース コラムより抜粋

中国問題グローバル研究所所長、筑波大学名誉教授、理学博士

 

岸田首相が習近平と会談できたのはG20が終わった翌日11月17日にタイに移動してからだった。単純に国の順番から言うと、国連のグテーレス事務総長を含めて15番目となる。

 もっとも、11月17日にタイのバンコクで開催されたAPECに参加する国と参加しない国(オランダ、南アフリカ、セネガル、アルゼンチン、スペイン、イタリア)があるので、必ずしも日本が関係国の中で15番目にしか位置付けられていないとは言えないものの、やはり図表を作成してみると、習近平が日本を相当低くしか位置付けていないという現実が、否定しがたい形で突きつけられる。

 少なくとも、同じ大統領あるいは首相がAPECにも参加しているのはフランスやオーストラリア、インドネシアなどで、タイで会っても良かっただろうが、優先的にインドネシアで会っているし、17日にタイに移動してからも、フィリピンやシンガポールの首脳よりも、日本は後回しになっている。

 日本が少しは優位に立っているのは「ブルネイ、ニュージーランド、パプアニューギニア、チリ」に対してのみだ。タイが最後になっているのは主催国だからだ。

 一方、視点を変えると、韓国の大統領とはかなり優先的に先に会っているのは、韓国は米韓との関係上、何としても中国側に引き付けておきたいという思惑があるからだろう。韓国の場合、APECには大統領に代わって首相が出席することになっているからという理屈は成り立つだろうが、韓国側のやり方もうまければ、韓国が6番目に位置しているのは、日本人として決して愉快な気持ちにはなれない人が多いのではないだろうか。

 中国は、こういう順番を非常に重視するという伝統があるので、その視点から見ても、韓国に比べて日本など、「どうせ放っておいても尻尾を振って近づいてくる」と高を括っている何よりの証拠だとしか見えないのである。

 

◆習近平の前でオドオドと焦る岸田首相

 そのイヤな予感は、初対面の場面で早速、現実のものとなった。

 11月17日午後8時46分、習近平が宿泊するホテルに岸田首相が表れた。バイデンのときと同じように習近平が対面舞台の真ん中にいて岸田首相が速足で歩いて近づいていく設定だ。最初に会った時の会話と動作が滑稽過ぎて、実際の対談がどうであったかはほぼ関係ないほどだ。

 以下、日中両国のネットに現れている数多くの動画に基づいて、「習近平&岸田」の対話や動作を記したい。( )内は中国語の和訳や筆者の説明で、会話の文字起こしに関しては筆者自身が聞き取れたものを記録した。

 

習近平:到了(あ、来た)。

岸田:・・・(走り寄っている最中)

習近平:你好啊(やあ、こんにちは)。(非常に軽いトーン)握手。

岸田:(ペコペコしながら)ええ、習主席と直接対話できましたことを大変うれしく思います。

習近平:那我们今天呢,坐下来谈一谈(じゃあ、今日はですね、座って話しますかね)。

岸田:・・・(大急ぎで日本語通訳の方を見るが、通訳が間に合わない。)

     (習近平、握手の手を離す。)

習近平:今天过来的还是昨天过来的?(今日いらしたんですか?それとも昨日いらしたんですか?)

岸田:・・・(通訳の方を振り向いている)

習近平:从巴厘岛(バリ島からさ)(回答が遅れてるので付け足す)

岸田:(しばらく沈黙。通訳の方を振り向く岸田首相に日本語通訳の声が届くと、ようやく)そうですね・・・、あのう・・・、え――っと、そのう・・・、本日、こちらに移動してきました。

    (「今日です」という一声が出なく、「あのう・・・、そのう・・・、えーーとぉ」を続けた後に、ようやく「本日」という言葉が出た。)

習近平:今天刚刚到的、我也是(ああ、今日、着いたばかりなんですね。私もです)。

    (ここで対面場面は終わることになっていたらしく、二人は対面舞台から去ろうとするのだが、岸田首相は間違えて習近平のあとに付いていき、習近平ら中国側の方向に向かおうとしたので、習近平がそれを遮り)

習近平:你们这边(あなたたちは、こっちですよ)

    (岸田首相ら日本側が向かうべき反対側の方向を、習近平が掌を上に向ける形で指す。「あ、どうも」と言ったのか否か、声は拾えてないが、頭を軽く下げながら習近平の後ろをアタフタと「日本側」の方向に戻る岸田首相の姿が映し出されたところで、画面は切れた。)

 

 バイデンとの出会いの場面も見ものだったが、岸田首相との対面場面は、それに輪をかけて「抱腹絶倒」と言っても過言ではなく、中文メディアは大喜びだ。

 日本人としては愕然とする。会談で何を話そうと、あとは推して知るべし。

 平然とゆったり構える習近平の前に、おどおどと緊張し、日本語も普通には出てこない岸田首相の小物ぶりが際立った。

 習近平はそんなに「偉い」のか?

 なぜ、ここまでビクつかなければならないのか?

 何を恐れているのか?

 だらしない!

 みっともない!

 せっかく国際社会的には有利な立ち位置にありながら、結局は「ご機嫌伺い外交」しかできない国のツケが露わになったのを見る思いだ。「言うだけ外交」、「戦略なき日本」の姿は、こういうところで顕著になる。今後、岸田首相が中国に関して、どのような勇ましいことを「言葉だけで」言っても、何も信用できない。

 日本はなぜこんな国になってしまったのか、暗然たる思いだ。

 

以上,参照として転記させていただきます

イメージは一部関係サイトより

 

 

 

 

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人間考学「五寒」 生じて国家無し その四

2025-05-04 07:41:20 | Weblog

         文 佐藤慎一郎氏



「五寒」とは

《政 外》  政治のピントが外れる。

《内 外》  国外に危機を煽るなど内外のバランスが取れない

《敬 重》  敬われる人物の欠如 敬う意味の欠落

《謀 弛》  謀(はかりごと)が漏れる 弛(ゆるむ)

《女 レイ》 女性が烈しくなる。荒々しくなる。


                

               孫文夫妻




[両性の調和]

娘、嫁、姑、姥、と変化する女性の表現文字は、男性から見ると、その積み重ねた経験の変化に、尊敬と慶び、あるいは慈愛にあふれた母性に感謝が込められています。
 
 言葉のニュアンスを論ずるものではありませんが、「女厲」にある女の烈しさと、母の剛さはその意味において大きな隔たりがあります。
「強さ」と「剛さ」、「烈しさ」と「激しさ」も同様に似て非なるものです。
 
 女性には元々、性における特質があります。 表現方法も男性とは違います。
 一つ一つの問題に互いの劣性、優性を争うものではありませんが、区別はあります。本来、両性は特性を際立たせながら互いに補い合う共生本能があり、役割認識があります。

 しかし、その時々の流行や、経済力、あるいは社会生活等の変化や衰退、はたまたは物質的発展とともに蓄積されるという精神的怠惰などは、男女の役割を反転させたり、両性の調和を崩し、単に、対立した権利、度が過ぎた享楽にその特性が浮き上がり、それぞれの生まれながら持つ優性が劣性に変化してしまいます。

男女に区別もあれば能力もさまざまでが、両性の優性が種類の違う自由と権利が交差、錯誤することによって優れた部分を劣化させることにもなります。

 多くの人は義務よりは権利の多くを主張します。
表現は異なりますが、人はそれぞれの範囲の中で権利の主張をしますが、自らが族を主張し、種を主張し、譲りあわなければどうでしょうか。
たとえば、不特定多数の利福を代表する議員が己の生活を主張したなら、「公」の意識は崩壊します。
子供が人権を掲げて大人と同様な享楽的な権利を唱えたら、道徳規範は必要ありません。
理屈では決められた役割ではないにしろ、暗黙の了解とか、当たり前の事、といわれている男性の責務の代表的な“戦地での戦闘”“社会での生産的役割”を一人の人間の自我として放棄したらどうなるでしょうか。

今までは考えもしなかった男性としての当然の責務が、妙な雰囲気のなかで逃避傾向にあるように感じられるのは拙者の思い過ごしでしょうか。


              

             満州での佐藤夫妻



[ 錯覚価値の露見]

或る碩学の格言に「六錯」と称して文明人が陥りやすい錯誤を述べています。

【奢シャ】
      (贅沢)を以て福(幸福)と爲ナ(考える)す。

【詐サ】
      (人を騙す)を以て智(賢い)と爲す。

【貪ドン】
      (むさぼり)を以て為す(行動力)ありと爲す。

【怯】
      (おびえ)を以て守(守り)ありと爲す。

【争ソウ】
      (あらそい)を以て氣(ちから)ありと爲す。

【嗔シン】
      (いかり)を以て威イ(人を従わせる力)ありと爲す。



また、こうも併記 されています。

肉体の欲望を神聖な行為と考え、堕落を文化と考え、流行を進歩と考え、道徳を反動と考え、闘争を正義と考え、とある。

  今流に言えば、自分を知らずして、なお且つ地位、名誉、財力、学歴といった無いよりはあった方がましぐらいの附属性価値にうつつをぬかす人々のようなものです。

しかし、このような錯覚価値も自分の秘奥な良心に問いかける心の余裕があれば、あるいは、眼前に現れる事柄に問題意識をもち、自己能力を認めようとする勇気があるなら、正しい価値に覚醒された新しい人生がおのずから浮かび上がります。
そのことは誰もが生まれながら持っている、すがすがしい精神への回帰であり、世俗の錯覚価値に放たれた“放心”の取り戻しでもあります。
赤子の免疫能力のように…         孟子「四端」参照


            
           竹内夫妻  妻は佐藤慎一郎氏姉


[弁(ワキマ)え]

俗話に「女に負けるものかと、馬鹿が言い」とか、「女三界に家なし」「カカア天下」などと様々な言葉があります。
男が威張っているのか、カラ威張りなのか、はたまたは遠吠えなのかは解りませんが、なるほど近ごろではそんな男が増えています。

 江戸の一時期は8割以上の成人男子が独身であったわけですが、平成の世でも60万人以上の男あまりの現象があります。
風俗としては男性の女性化、逆に、女性の男性化が言われます。
人工的に容姿を作り上げたりするものもありますが、男女の“それらしい”姿が希薄になって来ました。

  別に、断定的に男女かくあるべし、というものではありませんが、生活にはどう生きたらよいかの基本的スタイルが有るはずでもあるし、社会の表層に現れた部分を比較して「解放」や「優越性」を唱えたところで両性の劣性のみが目立ち、ときには権利の対立を起こし「優しさ」、「強さ」が、「軟弱」、「烈しさ」に変化します。
 
 現代ではそれぞれの性を忘れたかのように、様々な属性価値を求めて誘引されています。 例えば、「昔の女はこんな風ではなかった」「今の男はだらしがない」などと、いささか江戸の長屋談義になってしまうが、言葉に飾りがないなかにでも互いの性を憂うる気持ちが表れています。
こんな世相のひとこまも井戸端会議のように「カラッと」 しているとよいのだが、ちかごろの雰囲気はそうでもないらしい。 根本的には「自分」そのものが解らない事が多いようだ。
自分を解らないとは少々難解だが、自分を忘れていると考えた方がよいのかもしれない。 

 




 孔子の逸話にこんな話がある。
引っ越しのときに女房を忘れて行ったものがあるという話だが」

6ところが孔子は、「女房ぐらいならたいしたことはない、近ごろでは自分を忘れているものが多いようです 
 いかにも孔子らしい説話のたとえだが、現代では他人の存在がなければ比較する己もなく、自分を表現できない人生は生きていることそのものを半知半解している風にも見られる。

別段、人生哲学を高邁に述べる訳ではないが、人間は人間そのものとして生きる簡単な行為を分かりにくくして、際限のない欲望と、禽獣同様な部分に身を置いていることに気が付かない。
もっと分かりやすく言うならば「何のために生まれて来たのか」「自分は何をしようとしているのか」「誕生のとき親はどんな喜びがあったのだろうか」
いわゆる「我(われ)は何なのか」を考える余裕と真剣さが必要ではないだろうか。

 こんなときが無かっただろうか。
 喜怒哀楽が親兄弟、伴侶にも垣間見ることの不可能な秘奥なる心の奥底を考えるとき、或るときには絶対無垢な良心で、あるいは邪まな心で、はたまたどうしようもない本能の欲望などさまざまな葛藤が巡るときがある。

 どのように理解し解消しょうかと試行錯誤が始まる。
自分で消化できるうちはよいが、友人や適当と思われる知り合いに連絡を取り一時の“まぎれ”をとるのだが「弱みを見せられない」「他人に話されたら困る」などと余計な心配ごとを発生させてしまう。いわゆる相談事である。
妙に事己納得する風で、一事が万事「自己愛」から出発し本当の自分が分からない繰り返しである。


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「五寒」 生じて国家無し その二

2025-05-03 05:55:11 | Weblog

果たして我国の現状は・・・

五 寒

中国は漢代のころ、当時の識者は国家社会を衰亡させる要因に五つの兆候があると説いている。 

其の一
   「敬 重」ケイチョウ 敬われる人物がいなくなる

  敬う対象がなくなるのか、あるいは敬意の心そのものを無くしてしまうものなのか、閨閥、学閥、財力、名誉、地位など人格以前の属性価値の変化から生ずる無秩序な社会の一過性の現象とも考えられる。 いわゆる民心の混乱でもある。

其の二
   「謀 弛」謀(はかりごと)が 弛(ゆるむ

  大切な問題が筒抜けになる。相互信頼の欠如によって心の動揺が生まれ、公私の分別がつかなくなり我欲が際立つ社会構成になってしまう。 また国家の重要な問題が他国に漏洩したりして、国家の維持機能が軟弱になったりします。
 また、綱紀が弛むなど自己規制がなくなる状態である。

其の三
   「内 外」ナイガイ 内面の欠点を外部で補うようになる

  内政の失敗を、外敵を作り出すことにより国民の眼を外に向けさせたり、外国勢力の力を利用して内政を取りまとめたり、あるいは指導者が自己の錯覚した属性価値を高めるために外国要人との記念写真を国内向けに撮ったりすることなどは、指導者の必須の資質条件と何ら関係のないことである。いわゆる短い単位の歴史の流れにうごめく軽薄な民の組成ほかならない。

其の四
  「政 外」セイガイ 政治のピントが外れ
 
 政治の根本である「政綱」がないままの政策論議が政治家の仕事と錯覚してしまい、常に対策に翻弄されてしまう状態を生み出してしまう。   「政綱」 政治方針の根本や、 目的のない学問と同様に、“我、何を為すべきか”の根本もなく、本来あるべき歴史の真理、真実の探求もなく、単に時運に右顧左眄する政治を露呈してしまいます。 しかも人間のみにその政策の重点を置くあまり、地上の森羅万象を観察する秘奥な心眼を失い自然界との共生ができなくなり“天に唾する”状況を作り上げてしまう。
「 亡国になって初めて亡国を知る」とはこのようなことを言うのであろう。

其の五
 「女厲」(ジョレイ・ラン) 女が(烈)はげしくなる

 国家衰亡の五つある徴(しるし)のなかに“女性が烈しくなる”とある。 
暇に飽かして漢和辞典をひいてみると“女”という文字につらなる合字は数え切れないほどあるが、“男”のそれはなかなか見当たらない。

 薄学が一生懸命探しあてた一つが“嬲(なぶ)る”であった。男二人の間に女を挟んでいる“嬲る”は文字の意味そのものであろう。
“なぶる”は、いじめたり、からかったり、あれこれと苦しめたり、あるいは戯れるといった意味がある。

ところがもう一つの“なぶる”がある。 「嫐」である。
これは小生の辞書にはのってないが、ワープロ変換に記憶されているものである。 確かな意味は判明しないが“嬲る”における男女の役割が入れ替わったものだろうと想像する。近頃はその気配すらする。






 女偏のつく文字のおびただしい数は、それだけ重要な役割と責任がある“性”なのであろう事は疑う余地はない。とくに陽(男)と陰(女)の調和が生命を誕生(産む)するという神秘的な行為に対する感謝、崇拝が、かくも多様な文字を作り上げたと言っても過言ではない。

 このように両性扶助(調和)は人間界の繁栄と維持に欠くことができない条件ではあるが、歴史はその時々にその還元力を試したり、互いの必須条件を確かめるかのように愛憎の反復行為を両性に与えたりする。
太古の歴史の反復、循環の作用からすれば先入観と考えられることかもしれないが、役割の入れ替えと、心の棲み分けがそれである。

 古代の埴輪にある帯刀した女性、儒教における男女の役割、戦後の社会的生産分野への進出、教育分野での女性的価値観での影響力、政治の分野における女性特有の参加形態がそれである。
街中では到底歩けないような原色のスーツと、ここ一番の厚化粧をした議員が口角泡を飛ばして平和、平等、人権を屏風にして相手を批判、もしくは自身の意見を確認するかのような論を強弁することに本気で応じられるのだろうか。
現在の姿は、平和ゆえに一過性の現象とも考えられる。






 「女厲」は男性側から指して言っている訳ではない。調和の崩れが及ぼす影響が、いずれは女性自身の側に降り注ぐことを憂慮した、歴史からのささやかな啓示であることを考えてみたい。
 
 たかだか人間の考える範囲の問題だが、人間は平等であるという。しかし男女の区別は双方から見てもある。 肉体の構造は大きく違い、ときとしてその享受する歓びも、それぞれは真に理解することはかなわない。また憎しみも違えば行為も違う。

 こんな俗諺もある。「平ならぬもの、平すれば、平ならず
平ならず、とは不平と書く。平すれば、とは平等と書く。平ならず、とは不平である。つまり元々「元々は平らでないものを、平等にすれば、不平が出る」ということである。この隙間には、優劣個性とか特徴があり、また少々異なる平和や人権の意識がある。

 人間は何と遠回りして考えるのであろうか、あるいは誰に問いかけているのであろうか、人間の身体にも機能は均等だが利き腕、支え手がある、また戦禍や不慮の事故で機能を亡くしても補助や他からの扶助がある。不平、公平、平等を眼前にも意識にも総て存在するのが世の中である。これを得手勝手な嫉妬、恨み、に逆進する意識と、惻隠、感謝、学習に転化することでは、人の世の現象に多くの差異が生ずることとなる。

 だが人間同種として共有、共感することがあるからこそ、違いから生ずるさまざまな苦楽を認め、受け入れることの積み重ねを“愛情”という文字に写しとっているのである。

以下次号

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小学に観る 習慣学習と、その活学    其の一  07 12/17再

2025-04-29 01:26:56 | Weblog







無機質な教育を有機的な学問に
              (官制学校歴と真の学問歴)

亜細亜大学   教職専攻課程 226号
1st 12:30   2st 2:50


①有機的に教えるということ          ⑩成長に沿った学問
②自と分について               ⑪古典を尋ねる
③活き方を探す                ⑫ある警告
④満州崩壊と土壇場の学問           ⑬鬼平犯科帳の頃
⑤トヨタの小学の活用と継承          ⑭亡国の後、その亡国を知る
⑥吾を活かす青年               ⑮世代の調和と礼
⑦今に無い明治復興のカリキュラム       ⑯トヨタの合理と歴史の科学
⑧憲法は権力制御
⑨小学に観る習慣学習と躾


ゲストスピーチ
金沢明造       弁護士の堕落と学問
サキール・カーン   日本における大学というところ

村岡聡史       教学随聴記





寳田時雄 特別講義を終えて

今回はゲストとして金沢明造、サキール・カーン、村岡聡史の各氏を招請し、サキール・カーン氏には日本の学生への率直な感想を英語のスピーチで、金沢明造氏には裁判官、弁護士という司法にかかわる一部の人々の腐敗の醜態と、学問の意味についてそれぞれスピーチ願った。
また、村岡氏からは小学と大学が、官制学校の小学校、中学校と混同、錯誤してしまうのではないかとの、ヤラセ?質問が突然飛び出し、氏なりの学生への細やかな斟酌があった。

後日、女子学生から、小生のホームページ「請孫文再来」を見て興味を抱き、詳しい話を所望したいとの電話があり、いつでも、どこでも、何人でも、悦んで、と応答した

小生の体験で、研修会を開催した折、参加者が少ないことを憂いたところ、いつも柔和な老師は「一人でも小なしといえず、千人でも多しといえず」「国は一人をもって興り、一人を以って滅ぶ」と烈火のごとく喝破された。
まさにその時、その場における絶妙な教育であった  それ以来、独りでも真剣に聴講する学生の所望があれば、参ずるようにしている。

講義中はいつもそのことを念頭に駄弁を弄しているが、若者の清純なアタマに固陋で難論かと察するが、それゆえ古今東西の事例、あるいは拙い体験を駆使して彼らの紅心の的をめがけて奔走した。

ともあれ、たかだか人間が編み出し 、集積された論なりを踏襲するか、混ぜ合わせて自説、仮説を高邁にも論ずるのを学説としたり、また口舌を生業としているものが世の中に跳梁跋扈しているなかで、無学無名の学を提供することは、気と勇と情に委ねることもあるが、これを観念的駄論と称すむきもあろう。
それも昭和に生を享け、明治大正の息づかいにふれ、平成に現存するものの役割であろう。

ともあれ、無機質なキャンパスを、真に意味ある有機運動体にすべく、がんばるのみであった。それは、小生にとっても有意義な活学でもあり、師への回顧報恩でもある。

 

東京裁判インド選出判事 ラダ・ビノード・パル博士



【講話録 本文】


 もっと前のほうへ座ってください 後ろは眠りのスペースではないですよ(笑)  最近は自由に座らせると後ろのほうに座りますよ(小曽根) それは日本人のDNAみたいなものですね 考えることはヨーロピアン 本当は近くでディベートができればいいね 

実は小曽根先生は私の母校の地理の先生です 担任を持っていまして、時折、子供を近所のお寺に連れて行って住職にお話を伺ったり、ベー駒の話題から川口の鋳物工場の見学など行っていますが、ところが考えすぎる人で、生徒が心配でいろいろと私のところへ来てお話されるのですが、ほかの先生からはやりすぎだ、とか、変わっていると言われるような、いまどきはあまりいない熱心な先生です 

社会に入って役立つ勉強、社会にリンクする内容を行動で示しているんですね でもプロの先生からすると、余計なこと、と思われたりします 君たちも教職志望なら分かるとおもいますが、たしかに日本人的な教職組織のようですけど、どこかおかしいですね 私は教職の世界ではないので、言いたいこと、では無く、言うべきことをお話します 今日は3,4時限ですが、90分が2回計3時間ですが、皆さんと相互学習のつもりで勉強させていただきます 



《有機的に教えるということ》


いま、皆さんは教育の仕方を学んでいます ここでは教育から得た知識技術の活かし方、使い方を学びたいとおもいます 教育の仕方は色々あります それぞれに教授案もありますし、アンチョコというものも有りましたが、「覚えておけよ、試験に出るから」が、大多数でしょう 
何年経っても同じ教科書なら同じ教え方をしている これでは機械がやっても同じことです 教授案というのは時と人、あるいはそのときの情緒に合わせて作るのです もちろん真理は変りませんが、人間が行い人間に伝えるものですから、世代や状況によって活かすものが変化するのです 17年の亜細亜の生徒と去年、一昨年とは違うのです ある意味では教授案は真理どう伝えるかという先生各々の工夫なのです 小学校や中学校ではそれぞれ異なる教科書が使われます、また小曽根先生のように体験を添えたものもあります 教え方、伝達方法が色々ある訳です 

前回、この学校の講義はアジア諸国の留学生でした アジアの留学生には日本人から観た、あるいは世代の異なる目からアジアを語る 日本の善いところ、悪いところも語る 気をつけなさい、と注意もする 同じ地理でも導入が違う それがいつも同じなら寝ていたほうがいい つまらない、生徒それぞれの目を視て、雰囲気を観て場面を変えていく、これを応答辞令といいますが、これが無機質な授業を有機的に動かすことになります これはテクニックではないですよ 習慣づけられた人間の情緒の交歓です ここに感動感激が発生する場面があります あくまで教える側の人間性が前提です 

先ほどの応答辞令というのは教室の対応とは別に、たとえば君は何が興味あるのだろう、ということを瞬時に観察して そして応答すると目を輝かせますね 直感力を養うことが大切です  そのマニュアルは自然界に沿ったシステムを考えることで、意外と容易になることがあります

じつは、さっき君の席に座っていた生徒が階段を下りながら「恥ずかしかったですよ」というので、「何が、恥ずかしかった」じつは前の授業の中で人間の成長過程があったとき、「君、夢精があったろう、いつ頃だった」と尋ねたことだったでもね「正直言ってスッキリしましたよ」笑っていましたけれど 他の生徒に聞いたら「僕はなかったなぁ」というんです そういうことが無い子がいる、無くてもいい子がいる、君は真面目だからあったんだね、といったら「そうです、私も勉強になりました」 笑いながら別れました 

やはり一つの事柄を単に学術的に捕らえるか、過去の体験、皆さんは二十歳ぐらいですが、その共通したところを探しあうところに理解の淵、入り口があるんですね それが人間同士の理解の入り口を入りやすくすることでもあるんです
君たちは教職課程をとって、学校の先生になろうかなぁ、というところですね
成れる、なれないは別として、人を導くことは学校の先生でなくても教えることができます 

    


《自と分について》


そのためには学校の勉強は大事ですが、自分を知って欲しいということです  日本人は自

分といいます 英語ではアイ、マイ、とか言います 中国では我といいますが、自分という意味が無い 皆さん簡単に使っていますが大変な意味があります 自はオノズカラ、とかミズカラと読みます オノズカラは自然にということです 自然に歳をとる 自然に四季が訪れる ミズカラは自発的ですね 私はこうするとか、人間のなかに人為と無為が同居しているんです 人為は考えたり見たりすることができますが、無為自然は計算できない部分です こんなこともあるんだなぁ、と知ることも自分探しなのです


分ですが、これは何分の何ですね 教室に30人いたら僕は30分の1です みんなが集まって全体、つまり1になります ですから自分はどの位置かなぁ 背が低いかなぁ、走るのが速いかなぁ、さまざまな特徴があります、その特徴ある一人一人が補い合い、調和しあって全体になるわけです 社会も教室も一緒です あるときは僕が先生、あるときは君たちの誰かが先生になって教室を有機的にする




《活かしかたを探すこと》

 国も同じです 学問の究極は「ワレ、ナニビト、ゾ」といいまして、自分は何なんだろうということを探求することが学問です 特徴を探求すれば、科学、文学、体育、分派すれば色々あります 農業、工業、政治家、それも特徴の発揮で他に貢献します 一生掛けても解らない難しいことです 

たとえば、松尾芭蕉が追い求めてものが道端のぺんぺん草を観て開眼したという話もあります  文字からそれが解けることがあります  玆(クロ)という文字ですが、玄が二つです  この玄という奥深いものを求めていくと、玆になる  しっ黒ですね  玄のマタ玄といってどこまで行っても玆(黒)なのです それほど難しいものですが、前を探さなくても、すぐ後ろに在るといことですね  見えるものばかりではありませんね  後ろに大事なものが付いている、あるいは探していたものが自分自身の中にあることが気がつかない、ということがあるということです 

 
昔、お爺さん、お婆さんに聴いたことがある、あるいはそんな体験があったと思います  親はうるさいことばかり言っていたけど、あの言葉は忘れないな、と想うことがあります  またトラウマになっていると感じている人もいますね

逆に、新しい知識を、新しいものを取り入れているのが、今の状況ですが、却って煩雑になって混乱しています 振り向けば身近にあった、あるいは鎮まりをもって考えると自分自身の心の奥に在った、ということもあります ですから探求も前ばかり突き進むのではなく、命も考えも東洋的な考え方では循環している、と考えると容易に発見できるものです そこには感動や感激も湧き出てきます 

だから学問は知識技術を唯一、有用なものだと考えるのではなく、感動感激という心の躍動をつねに感ずる、ある意味では魂の継承が無ければ本当の学問とはいえません  また循環ですが、悪いことがあったら善いことの前兆かな、あるいは勝手な話ですが、夏には冬が恋しいし、冬は夏が恋しい、これは四季循環からくる習慣思考です

一つ古典ですが、中国では一番よい生き方は、水のように生きることだといいます
水は気体、固体にもなる 雲となり山に水を降らせ、小川となって中流では万物に潤いを与える また四角でも丸でも器に納まり、一生そこに留まることもあり、濁水は綺麗な水を受け入れ、きれいな水は泥水をも無条件で受け入れる そして大海に注いで船を浮かべ、いったん怒ると船を転覆させる、すごいですね  ここでいう水は人民、船は皇帝です いつでもひっくり返すよ、ということです  

あの「上善水の如し」という日本酒がありますが、これは老子の教えです ある意味では中国は儒教ではなく、道教ですね  支配、制御は儒教、実利、生活の工夫は道教です  よく、くだらない人間といいますが、水は上から下に、しかし人間は地位、名誉、お金、みんな上に昇りたがる 昔は馬鹿ほど上に昇りたがると言いましたが、これをクダラナイ人間というのです ちょっとコジツケかも知れませんが、当たっていますね 

 無いよりかは、幾らか有ったほうがマシくらいで、なんら人格を代表しないものを求めるのですね そこには争い、裏切り、など多くの問題を招きます 智は大偽を生ず、といって智を己を偽るために使い出すといっています 終いには欲望を制御できなくなる  これを制御するのが勉強の一つなんです 知識人の堕落は国をも滅ぼすことは数々の歴史に現れています

ここでも学んだものを、どのように活かすかが問題になります そのためには無機質な勉強を有機的に使わなくてはなりません 単位とって合格しても、それだけでは人生は落第するかもしれません もう一つ異なった視点が必要です  たとえは゛学問全体が10だとしたら官制学校の勉強は2か3ぐらいしか占めていません  大学校へ行ったからって一人前のパスポートがある、そんな問題ではない ある意味では儚さを覚えることもあるようです 

その一終わりい

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「人間考学」は無限空間での「心の標(しるべ)」である

2025-04-28 01:26:57 | Weblog




≪解題≫
【寳田氏の「人間考学」を含めて、その他の作品群を集積し、分類し、然るのち体系化することは可能である。作業としてはできる。しかしほとんど無意味だ。氏の思想と文章は一個の芸術だからである。氏のどの個々の作品の中にも全体が貫徹し、全体を観ればそれが個々の作品を写影している。

戦後、発展した複雑系の数学では、これを基本原理(フラクタル)になっているのだが、要するに芸術の芸術たる所以は人々に生き活きとした感動を与える事にあるのであって、体系化や分析をした途端、何かおかしなものになってしまう。「目黒の秋刀魚」になる恐れがある。読者に注意を喚起したい。

※「目黒のさんま」とは七輪で丸ごと焼いたさんまは美味いが、骨を取り頭と尻尾を取って身だけ献上しても丸ごとの焼きさんまの美味しさとは違うと殿様の面白噺である。】



宇宙はどこまで広がっているのだろう。空を見上げるときの疑問である。それは童心でもあり、既成の知を積み重ね、老成しても解くことのできない想像である。

よく空間に仮説を立てて、その中の森羅万象を説明しているが、そもそもその仮説に立てられた「空間」の境の状況は、あるいはその先はどのようになっているか、童心におもった『どこまで続いているのだろうか・・・?』という疑問には、この文明にして、この論理の整えた結果にしても、 だれも納得するハナシはない。未だ、ああ言えば、こう言う、世界のようだ。註釈①


≪註釈≫
古今東西、人間が追求してきた永遠のテーマである。最近の現代物理学(宇宙論)によれば、宇宙年齢は137億年である。これはハツブル法則から逆算されたものだが、実感はわかない。空間の広がりも然り、曖昧模糊としている。カントは「純粋理性批判」の中で、人間の先験的認識について論を展開しているが、我々が宇宙について考察することは暴挙なのかもしれない。


よく、解明されている宇宙の仕組みは10パーセントにも満たないという。
その10パーセントが物理学、自然科学と称してカリキュラムや試験の題になっているが、一過性の探求を事実として刷り込まれ、数値評価の種として食い扶持まで決定されたのでは堪らない。その評価さえ「仮説の修得」という、「仮の能力」の姿として、新説まで否定する権利などはないだろう。もちろん奇説、珍説もむげにはできない。たしかに学び舎では定説に随うことが生きるすべでもあるようだが、それが「仮説」で生きる者たちの絶対範囲のようだ。

ならば、茫洋な姿である宇宙を無限だろうが、有限だろうが、拡大した想像なり考察を縮めて、その人によっては異なる範囲の世界のどこかに一定な位置を標したらどうだろう
まずは東西南北、言い方はどちらの方角が先でもいい。その中にどの方角に変更したとしても、定(観則)点を決めてみる。あくまで己の感覚だ。註釈②


≪註釈≫
然りであるからこそ、どのような姿の標でも「定点を決めてみる、あくまでこの感覚だ」という発想が活きてくるし、非常な重要な意味をもってくるのだ











それは四方でも円周でも現在の時間を見回すことになる。地球の東西の文化や現実の金融情報もあろう。あるいは紛争もあれば、幸せな国もある。切り口はあろうがさまざまだ。

そこに天と地(上下)を加える。
地理上で言えば通常は極点になる。時間軸で言えば横は現実、縦は過去と未来の時間軸にもなるも、あるいは平面を回転させる軸にもなる。
もし、そっくり90度回転すれば、東西なり南北は縦軸になり、横の現実は極点と赤道は規則どおり交互に到来する。

この動作が不規則に交互に回転してきたらどうだろう。
己の座標はどうなるのだろう。また地球外を観照して不規則回転を認めたり、あるいはスパイラルに動く地球内の一点をみとめたら、どのように映るのだろうか。

人間に戻るが、よく推察、予想、など将来観がいわれる。あるいは過去の歴史の考察にある事績の解明、人間の変遷、地球環境の変化、それらは、たかだか人間の思索や観照の果てである。その堆積は「知」や「技」として、今代に現示され用いられている。註釈③



≪註釈≫
人間の思索や観照は影のようなものである。その堆積を無限に重ねても、おそらく真理に集束されることはないだろう。数量的、機械的な集積ではなく、全的、質的な転換(パラダイム)が必要となる。そこにこの存在意義がある。


また、そこには発する場所、つまり座標がある。己の存在位置だ。
これが無くてはどんな論にも貼り付ける膏薬のごとく、言を発し、書類は埋められるが、「本意は解からない」だろう。

あるものは学派や閥におき、男女老若もあろう。思想や生活環境、その慣れ親しんだ感性もあるだろう。能力的には直観力や身体能力もその考察に影響を及ぼすだろう。

ただ、先に述べた座標を考えると、時や状況によって変遷したり転化したりするのは座標ではない。あくまで、転覆や転化は外部なり外周でおきる現象である。

座標の意味からはおかしい言い方だか、ここで云う人間考学は「浮遊する座標」であるが、ヨットのようにバラスト(重し)がそこにはある。ゆえに定点で観る座標では上下水平、あるいはどのように転化しても、その視界なり観察が座標を基に行なわれる。
それは転覆しない、あるいは全体の部分という存在(自分)を見失なわないことでもある。
譬えはどうか、乗馬の呼吸のようなもので、バランスが悪ければ鞍上は常に尻を叩くようになる。この場合のバランスは膝の柔軟さと締める按配である。

しかし概念では一時でも、その瞬間の座標である。否定するものではない、それが生き物としての人間の姿と呼吸の合わせ方だからだ。

異性の好き嫌いが変わったり、食べ物の嗜好や思想の転換も、事実の倣いだからだ。
そこに生きている理由が在り、軋轢がエネルギーだからだ。

ここでいう「人間考学」だが、座標の置き様で良質のエネルギーとなり、世の融解と組成の繰り返しを平常な姿で観察できる「眺め」と「率先」、あるいは「拘泥」と「柔軟」を容易に判別する倣いの学として考えている。つまり縁の機会、運の到来という、合理的といわれる西洋学の整理検証に囚われた論理では到底と解くことのできない部分を、どのように受容するかとの考証でもある。註釈④



≪註釈≫
デカルト以来の機械的な近代合理主義は20世紀以後の量子力学の発展過程で、完全に行き詰まり、もはや我々が期待しているような、いや望みをかけられるような有効性を喪失している。たとえば生物化学の世界では、DNA内の染色体の数量や、その設計図まで解明されているが、だれが、いや何ものが設計を成したかについては全く何も解かっていない。つまり「生物とは何か」については全く何も解明されていないわけです。神の神たるゆえんは此処にあるように気がする。











前記した空間だが、狭いより広いに越したことはない。想像、推考の思考や行動の多面性でもあるからだ。ときにその茫洋さは絶対無限に逃避する向きもあろうが、ことさら物理学の数値探求や宗教に言う神ゴトに委ねるものではない。

宇宙観やその検証の発意は己に在る。意思を成文され研究本なり、仮説は己の言辞にある。それは己の心に宇宙を描くことから始まる。それを「智」と称している。はたまた夢か。
智は錯誤と正邪の切り口を提供する。論争となり、抗論、詭弁、が徐々に増幅され、人の利が絡めば戦争になる。それは智でなく、疑うべき狡知なのだ。註釈⑤



≪註釈≫
歴史的には科学の発展は西洋によるところが大きい。自由と平等の理念しかり。しかしながら狡知と背中合わせの理念でもあった。第一次世界大戦のベルサイユ会議で提案された「人種差別撤退」が西欧諸国において一蹴された事実がこれを如実に物語っている。


人間はその解決の為にまたもや「智」を用いる。「人間考学」の一面は、その解決を他の智を借用することではなく、己の内なる潜在する能力を探し出し、内なる心宮の、仮称「神」なり精霊に問うものだからだ。「神」は示す偏に申す。つまり「示す」行動と「申す」言辞は己のものだからだ。
だからといって宗教ではない。教義もければ、垂直系列もない。註釈⑥


≪註釈≫
私の解釈では氏の謂う「神」とは宇宙の意志であると思う。宇宙それ自体を一つの生命体として把握すれば、この一節は自然に、素直に氷解するはず。したがって当然に宗教ではないし,教義でもなければ、垂直系列でもない、という結論になるはず


それは内在する座標の探求と他との調和のために、あるいは空間における「自由自在の座標」の慣性を養い、他を活かし有効とする人間の「考学」だからだ。

よく時間は伸び縮みして空間はねじれると聴く。註釈⑦何れも定則は無いし、たかだか解明されてない空を宇宙空間(ここでは間(マ)を限定)と呼び、そのなかの米粒のような、あるいは近ごろいわれているナノ粒子の様な地球の時間を大宇宙に当てはめても無理があるのは誰でも承知だ。たとえ地球を周回する人口衛星に周回時間の誤差が数兆分の一あったとしても、大宇宙では数時間にもなる。これほど些細な誤差を云々する人間の知力の証明という代物でも、あるときは定説として、ときに、゛原則的には゛と、数百年にわたる論争を繰り広げたりする。



≪註釈≫
ちなみにアユンシュタインの A「特殊相対性理論」と B「一般相対性理論」を方程式で表現すると次のようになる。
(A) E=MC2(二乗)     (B)   時空の曲がり=物質とエネルギーの分布
(A)は原水爆を生み、(B)は最近の宇宙観測の結果、その有効性が疑問視されている。要するに理論を金科玉条にしたり、彼を神格化したりするのは危険と錯誤を冒すことになるのです。













子供の頃、おもちゃ屋でコマを売っていた。和ゴマも洋ゴマも紐で回転をつけてコマの縦軸を立たせるが、洋ゴマのそれは何処か地球を想像させた。勢いよく回れば軸は垂直に立ち、勢いがなくなればダッチロールして軸がぶれる。もし地球のコアを安定させる回転エネルギー(陽極、陰極)の磁力が衰えたら地球は妙な回転を起すだろうと子供ながら考えた。

太陽のエネルギーは磁力と光熱とは童心でも解かっていたが、これが永劫に衰えないとも限らない。もし衰えたら太陽に向かう傾斜の変化が気候の変化が起きるだろうと想像もした。あるいはコマの回転力がなくなると倒れてしまうのではないかと恐れもした。

ただ、永い時間を刻む地球の慣性と太陽の関係は、自分の生きている時間から比べればことのほか恐れることはないと、それからは考えもしなくなった。それは童心のコマ遊びの、かつ一瞬の疑問だったが、人の慣性と歪み、そして何事もコア(中心核)が一番安心できることではないかと想像した。
今になって考えれば、核は戻るところであり、安心であり、そこから眺める外の世界、つまり脚下でもあった。その足下の有るを知ることが学びの前提だったようだ。

あのアインシュタインから忌避された、いや無理解ゆえに遠ざけられたハイゼンベルグも物理学者の定義や範疇になれば,後世の数値好きに弄ばれる。死者に反論なしを承知の決めつけである。もし不確定要素である仮説を、後世の研究家が確証だと言いくるめても、ハイゼンベルグは「たしかに物理の世界は・・」というに違いない。註釈⑧



≪註釈≫
ハイゼンベルグはアユンシュタインと並ぶ物理学の天才で在り、量子力学の元祖でもあった。量子力学は現代物理学や宇宙論の基礎を原理的に支え、生産活動にも応用されている。(一例 TVブラウン管)
奇妙なことに素粒子の位置と運動量を同時に観測することはできない。素粒子の位置や運動があたかも観測者(人間)によって影響を受けてしまうという状況になっている、と解釈せざるを得ない訳です。素粒子の世界は深遠なる神の世界と限りなく接近しているということとも思える状況だ。
ハイゼンベルグの名言に「部分の算術的総和は必ずしも全体にならない」とあるが、これは彼が晩年に中国やインドにおける古代アジア思想の研究に没頭した所産でもあった。     

つまり、二千年以上の時空を経過した結果、古代のアジアの英知、哲学と現代物理学とが見事に符合、調和したということになる。ちなみに現代最先端物理学は真空エネルギーが真理として説かれているが、これは中国自然思想の哲人「老子」と見事に一致している。
「天下の万物は有より生じ、有は無より生ず」


それは人間考学にいう、それぞれの事情におかれている後世の定点観測が、己の位置表現なり、従前の論拠なりに拘っている、いやそうでなければ自己表現のある位置すらオボロゲニなる研究者によって行われているために起きる、゛その世界゛特有の表現だからだろう。

研究者といわれる類いは何処かに納得する処を自身の証として描いている。思索や観照とはそのようなものだからだ。つまり仮説は結論と同義なのである。なかには想像を立てて結論を導くというが、結論なり結果を不思議さや問題意識から、そもそも何々であるという仮説を立て、思考を逆戻りすると不思議さにたどり着く。その不思議を説明すれば論理は成り立つ、そのようなものだ。

畢竟、そんなことは研究者の高邁な理屈を添えなくても人は知っている。いや多くの人々といってもいいだろう。

人間考学はその「学」を超えて思考や想像の座標を柔軟にすることにある。註釈⑨
゛定点が無ければ説明がつかない゛、これは説明好きの世界である。かつ想像力の無い世界である。



≪註釈≫
この一節を真に理解する方法論を二つ提示したい。第一に氏のレベルの感性は(または体験的認識能力)を身につけること。第二に理屈好きの方は、複雑系の数学と数学(非線形幾何学)と現代物理学の基礎(または初歩)を学ぶことが早道かと進言する。









桂林の童


時間が伸び縮みしたり、空間が歪む、空間や無限界では至極当然な現象とみる。なぜなら敢えて空間の見方を代え、時間を恣意的に理解しようとする限定空間の住人には「仮置く」などもってのほかに他ならない。つまり、説明がつかないと多論を仮借するだろう。

だから争うのだ。

もともとたかだか人間の解き明かす能力はみな知っている。だた、少し多く知っているかだ。

それを不確定要素と行った途端、究極の誤差を生じる一過性の機器を駆使し、かつ間違いの多い人間の目と手足で観測して、間違いを言い募る、これこそ人間の動作と反射を考える相対的な科学ではないだろうか。

このバカバカしい反射と動作は、心と体の為せるものだか、ならば座標は物理学なのか。
今だかって解明されることの無い世界、あるいは途方に暮れる一刻、それは物の理(ことわり)を知る以前に、茫洋とした世界の到達を想像しなければ生きている意味もなさない。

定点、限界の実証をしたいなら、自らの及ばざる不確定を観るべきだろう。
外は内にある、内は外に有る。

「壺中、天あり」よく謂ったものだ。註釈⑩



≪註釈≫
氏の小論の最後の一節は見事な表現である。偶然か必然か定かではないが、この一節は道元の著した「正法眼蔵」の帰結と軌を一つにしている。
「仏道を習うことは自己を習うなり。自己を習うということは自己を忘れることなり。
自己を忘れれば,万法進みて自己を証するなり」

註釈②解題者の観を圧縮して表現すれば、「宇宙意志」だ。宇宙意志(神と精霊)は、己を含めて森羅万象を貫徹している。
以上

                 「解題」「註釈」  処士  村 岡 聡 史 



また逢うと 思う心を 標にて
               道なき世にも 出ずる旅かな    龍馬

またあふと おもふこころを しるべにて みちなきよにも いずるたびかな

      「読後感」  龍馬の詠み歌を想起して      大 塚 寿 昭







桂林


いゃはゃ、畏友御両人は小生の拙文に戯れた。
異なることを恐れない独立した意志を掲げる自称奇人達だが、稀な存在と幾分は任じている。

村岡氏は某大学を出て、しかも卒業後莫大な寄付をしたが、大学など行かなければ良かったと、拙者を観て嘆じている。浮浪者と語らい、その哲人たちとの交誼と、図書館を住み処のようにして無上の悦楽を糧として人生を紡いでいる。
まさに交互の糸の網目は精細で無地ながらさまざまな文様を魅せてくれる。

ほんの数分の刻を筆に託した小論てあり、錯誤をも問う拙意だが、瞬時に同感する慧眼には恐れさえ抱く。
つまり、何かに書かされているようだと観た、と。
小生には殊のほか苦手な分野を調和させる、解題、脚注に敬服する。

大塚氏はIBM入社。当時のBK Systemの統括とし指揮し、己の置き所を確認すべく退社、数年間の米国流浪、帰国後著書が脚光を浴び某省のCIO-補佐官(IT担当)として辣腕をふるい、なぜか官域の水を忌避して短期退職、その識見は「人生は喰いに生まれたのではない」と喝破して大丈夫たる人生を闊歩している。人呼んで平成の龍馬とも称されている。
まさに、龍馬の詠み歌にある「標(しるべ)」は、小論の意を龍馬に重ね合わせている。それは龍馬の事績を云々する学究の徒とは異なる人間龍馬の真意に添う氏の観察と矜持のようでもある。

童子心の投げた小池の波紋が、波動となり、躍動となり、大海の変動に相対する力となることを希求して拙い小論の戯れとしたい。

                筆者
                          


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小学に観る 習慣学習と、その活学 随聴記     7 12,24再

2025-04-23 10:16:32 | Weblog






寶田教学随聴記
          ≪その志、嗣ぐものあらんことを≫

国策研究会元評議委員  村岡聡史




亜細亜大学における寶田時雄氏の特別講義の内容それ自体について、私が独言(論評)を展開することは極めて難しい。何となれば「屋上屋を架す」の恐れがあるからです。
それゆえ本稿では「何故に寶田時雄という日本人離れした大型の人物が形成され、皆さんの教壇の前に立つに至ったか?」という視点から寶田教学の本質と学問の方法論に就いて随聴記を編んでみました。

実相観入して神髄を極めるところ、寶田教学の本質と学問の方法論は、佐藤一斎(註�)の次の言葉に尽きる。
 「学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以って有字の書を読む。故に字に曲し、通透することを得ず。当に心を以って無字の書を読むべし。乃ち洞して自得するところ有いん」


【言志四録】

問題はそこに至った寶田氏自身の学問上、教育上の形成過程にある。要諦は寶田氏が二人の歴史的人物と青年期に邂逅し、その薫陶を享け、これを自家薬籠中のものとして自らの人間形成に活かして現在に至っているということである。

一人は安岡正篤氏であり、その同友たちである。深沈重厚、精義入神たる昭和の碩学であり、戦前戦後にわたって要路にある人々に多くの影響を与えた教育者である。
また終戦の詔勅に朱筆を入れたことは、知る人ぞ知るエピソードでもあり、その学識の深奥は計り知れないものがある。寶田氏の説く、無名有力の奨めと郷学の作興は、官制学にはない人間学として安岡氏から直接、訓導され、その後の活動に顕示されている。

もう一人は、佐藤慎一郎氏である。明朗闊達、正言躬行たる昭和の国士であり、「拓大最後の教官」と評されていた。佐藤氏は辛亥革命を指導した孫文に終始帯同した山田良政、純三郎兄弟の甥に当たる方である。

満州某重大事件で開幕した昭和動乱の渦中、二十数年にわたる大陸生活の中で、山田兄弟同様に日中提携によるアジアの安寧を願い、これに全霊を傾け、献身した人物である。遺憾ながら、風雲に大是を定むることができなかったが、その驚嘆に値する行動の軌跡は、明治が生んだ「日本の快男児」の一人として歴史に刻印されている。
この佐藤氏の精神とその行動学は、永年にわたって行動をともにした寶田氏に継承され、脈々として生き続けている。

斯様にして、寶田氏には二十代の青年期から両巨星【註�】と接し、人物的にも学問的にも多大な影響を受け乍、自己陶冶に努めてきた。つまり、寶田氏にとって両巨星が高等教育の場であったわけです。それは音声と触覚によって自身を供にした修学であった。

無論、寶田氏の学問や人物形成の背景の一つに膨大な読書【註�】による研鑽があっただろうことは想像に難くないが、根本的には両巨星との邂逅を契機にした素行自得にあったと思われる。

そのような来歴によるのか、寶田氏の教学や文章は難解であると感ずる人々が財界から言論界に至る各界に少なからず存在する。このたびの特別講義を通して、皆さんの中にもそう感じる人が居るかもしれない。
然らば、同情を禁じえません。実は私自身もそう感じている一人であるからです。

またそのように映ることは、氏の思考環境を支える座標にある、「無名有力」という浮俗の一般人からすれば頑なな自制心として映る名利に対する恬淡な行動があります。

それは公私を問わず、市井の観察や透徹した歴史観、あるいは異民族との間に横たわる現実の難問においても縦横無尽な応答を可能にしていることです。
それは官制学にない人と自然が活かしあうことによって生ずる直感力が、学術的な論から出される無機質な内容を有機的に転化させる柔軟な発想の基になっています。
氏は有名という現示的欲望は人間そのものを無力にさせると言います。
また「異なること」を恐れてはいけない、とも説いています。







台北小学校の朝礼  生徒が運営する




然しながら、「ものは考え様」です。頭の表層で直ぐ理解できるようなコンビニ知識や、インフォメーション(情報誌)の類は、すぐ役立たなくなる、すぐ飽きてくる、応用が利かない、普遍性に乏しいという致命的欠陥を内包している、これは真理であります。
例えば、電車の時刻表、受験の参考書はスグ役立つという点では大変便利だが、これらが百年後に役立つとはどうしても思えない。

翻って寶田市の説く「小学」(註�)と「大学」(註�)は、その起源を遡及すれば中国春秋時代に至り、朱熹の大成した「朱子学」(註�)も、その基礎に「大学」が鎮座しているわけであります。人間の本性が根本的に変革されない限り、おそらく此の学問は百年後の二十二世紀社会においても十分通用するであろうと予見できます。

此処まで読まれて、賢明な皆さんは既にお気づきのことと思います。
要するに、学問とは時代を超え、民族を超え、一般的、普遍的に通用する原理原則や、真理を追究する学為であって、学歴と称する官制学校歴とは似て非なるものである、ということです。
そして、教育にもっとも大切なことは、教育に関わる人自身が知りえた学問成果(原理原則、真理)を、現実に可能な範囲で率先垂範することであります。確かに、他者(生徒、聴衆)への訓導や説教は、必要不可欠な課題ではあるが、第二義的な意味しかも持ち得ない。

言うは易く、行なうは難し。率先垂範は困難な課題ではあるが、教育者足らんと欲するものは、これに努めなければならない。「大学」が人を説く所以は、教育が聖職であるという所以でも在る訳です。

次にごく簡単でありますが、特別講義に出席された皆さんの感想文と、ゲスト二人のスピーチに対する印象を徒然なるままに筆にします。
寶田教学に関する皆さんの感想文【註�】は総て精読いたしました。
素朴ではあるが、生き生きとした率直かつ真摯な意思と心情が私の心胆に津々として伝わり、久しぶりに感激を覚えました。そして、皆さんの感想文を読みながら、私自身も学ぶことが多く、「教えることは学ぶこと」(教学一如)というテーゼ(定立)を改めて実感した次第です。
皆さんありがとう、心より感謝申し上げます。

また、ミスター・サキール・カーンと金沢明造氏のスピーチ、謹聴いたしました。即興とはいえ、短時間でテーマ(学問と教育)に適したトピックスを自己の体験(日本体験と法曹界の堕落)と結びつけ語られ、見事に要諦をスピーチに纏め上げました。私には百年河清を以ってしてもできない技量であり、お二人の手腕には本当に感心しました。

最後に、私の願望を一言述べて結びに代えたいとおもいます。
私は、寶田時雄氏と亜細亜大学の皆さんとの「対話と交流」が、近い将来、再び訪れんことを期待しています。何となれば、私の予感では是が日本人および日本の教育の現状に対して一石を投じることになる、と考えるからです。

確かに寶田氏と皆さんのコミュニケーションは、深刻な問題を抱えた日本の教育という巨大な社会現象に比肩すれば、微小な一石に過ぎないものかもしれない。然しながら、我々は次の佐藤一斎の言葉に鼓舞されて、前進できるのではないでしょうか。
   『一灯を提げて暗夜を行く 暗夜を憂う勿れ 只、一灯を頼め』
                        【言志四録】

寶田氏と皆さんとのコミュニケーションが日本の教育における一灯たらん事を、延いては21世紀のアジア世界の万燈たらんことを希求します。
教える人、学ぶ人、その志、大学において嗣ぐものあらんことを。





1989 5 北京戒厳令時の小学校




【註�】
佐藤一斎 
江戸後期の儒学者 美濃岩村藩の家老の子
中山竹山に学び、朱子学を主としたが、後に陽明学に傾く。林家の塾長、昌平坂学問所教官。門下に渡辺崋山、佐久間象山など多数の人材を輩出。主著「言志四録」
        文献 井上正光全訳注 講談社学術文庫

【註�】
安岡正篤氏と佐藤慎一郎氏の人物や思想について、さらに精細を知りたい人は、寶田氏に問い合わせ願いたし。 ホームページ「郷学研修所」参照
文献 「運命を拓く」安岡正篤著 プレジデント社
   「佐藤慎一郎選集」佐藤慎一郎著 国際善隣協会
   ブログ「請孫文再来」寶田時雄著
   「荻窪酔譚」佐藤氏と寶田氏の師弟酔譚  郷学研修会編
   なお両氏は近しい交流関係がる。

【註�】
寶田氏の読書について想像を巡らしていたところ、南宋の黎靖徳が編纂した「朱子語録」の次の言葉を憶い出した。
『人が読書するのは、酒を飲むのに似ている。もしも、酒の好きな人であるなら、一杯飲み干せば、また一杯飲みたくなる。もしも嫌いであるなら、無理して一杯飲むと、もうそれでお終いだ』
多分、寶田氏は高級な美酒(古典の名著、現代の良書)を毎晩飲んでいるのでありましょう。老婆心ではありますが安い酒は身体や精神に悪い。

参考【朱子語類について】
1270年南宋の黎靖徳が朱熹とその門人との問答を部門別に集大成し、朱熹の思想、学問を体系化してた書。全140巻 鎌倉末期に日本に伝来した。
参照「朱子の自然学」 山田慶児著 岩波書店

【註�】小学について
12世紀末に成立。南宋の劉子澄が朱熹の指示で編纂。酒掃、応対、進退などの作法、嘉言、善行を古今の書から抜粋、収録し、中国小学(修身、道徳)の課目を示した書。内外二編 全六巻


【註�】大学について
春秋時代(紀元前五世紀)に成立。四書(大学、中庸、論語、孟子)の一つで、元々は五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)の一つの礼記の一編であったが、朱子学が重視されて以来、盛行した。最高の学問の理念について、三綱領(明徳、臣民、止至善)と八条目(格物、致知、誠意、誠心、修身、斉家、治国、平天下)を立てて説く。 後代、南宋の朱子学に多くの思想的影響を与えた。

【註�】「朱子学について」
南宋の朱熹が春秋以来の「大学」の人間哲学(修己治人)と、北宋以来の理気世界観とに基づいて大成した宇宙論から人間学に至る儒学の壮大な体系。
明代、清代を通じて体系強化のパラダイム(ある時代を特徴付ける思考や認識方法の基礎的枠組み)としての役割を果たし、李氏朝鮮や江戸時代の日本にも多くの影響を及ぼした。

参考
小学、大学および朱子学の歴史的沿革は、大雑把に言えば南宋時代に成立した「小学」の源流は、春秋時代に成立した「大学」の徳目の一つである修身に遡ることができる。また、南宋の朱熹によって大成した「朱子学」も、その骨格となった源流は「大学」である。但し、朱子学の宇宙論は北宋の世界理念と朱熹の創意工夫によるところが大であった。
大学には説かれていないことに要注意。

要するに「小学」も「朱子学」も「大学」に遡るのである。「大学」が四書の一つに位置づけられている所以はそこにある。
朱熹と朱子学に関心のある方は次の基本文献を推薦する
  「人間の知的財産19 朱子」三浦国雄著 講談社

【註�】鳩首作業
学生たちの感想文の整理と検討があった。難解ではあったが真摯なコメントの中にも、抱腹絶倒する場面などに遭遇して疲れを癒す場面もあった。気がつくと終電間際、千葉から来訪した学友高野華門氏は慌てて出立、小生も学ばして頂いた次第。


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陸奥斗南の憧憬. 15. 11/23 あの頃

2025-04-20 15:44:09 | Weblog

 

陸奥湾を望む

八戸から青い森鉄道、途中、野辺地から大湊線に分かれて一路下北へ・・

 

この章を記したとき、女性自身 」の皇室担当記者松崎敏彌氏から「むつは秩父宮様のご縁で松平さんと行きました。市長さんも立派な方で此れからも期待できるところですね・・・・」と妙縁を教えて頂いた、その後、台湾同行した津軽の方々との再会と今夏のむつの再訪を期していた松崎さんは病の床から戻る事はなかった。そんな縁を抱いての津軽墓参の途に、ふとむつに想いを運んでみたくなった。

その日は偶然にも田名部神社の大祭だった。久々に見た郷の力つよくも雅な祭りだった。歴史ある郷の新たな期待、それは臨機応変、縦横無尽に繰り出す機略ある若い市長に委ねられていると聞く。

以下は昨年の備忘録だが・・・・・

 

               

      左 松崎さん   台湾亜東関係協会蔡秘書長    平田元空将

 

 

青森県津軽地方の行脚も当初の独行から多くの奇縁を生んだ。

ことさら、みちのくの一人旅や切羽詰まっての北帰行を洒落込んだものではない

それは多くの郷人との邂逅とともに、独りよがりかもしれないが彼の地への憧憬が膨らんだゆえに辿る途のようなものだった。

よく自分探しや、ときに訪れる自棄に近い逍遥なのか、それさえも確認するすべもないが、敢えて云えば己の感性と運がはこぶ、みずみずしい縁の愉しみだと思っている。

 津軽衆やその近在のオナゴに下北の陸奥のことを話すと「遠い」と一蹴される。

どこか「何も、よりによって・・」と云わんばかりの雰囲気がある。それともせっかく津軽に馴染んだ東京モンが下北半島のむつ市まで行くことないだろうとの節介だろうが、だからこそ「何かいいことが・・」と下心がはずむのも自然の欲目である。

            

                

 10月の中頃に風呂帰りの本屋で何気なく手に取った本が陸軍大将柴五郎に関する「ある明治人の記録」だった。あの「北京の五十五日」という名のハリウッドムービーで有名な清朝の義和団事件で目覚ましい活躍をした柴五郎だが、その沈着冷静さと勇猛果敢な士気は新政府を牛耳った薩長の無頼衆とは異なる、実直な武士(モノノフ)の貌があった。

偏屈なもの好きは人物に興味があった。どこで生まれ、どんな環境で、両親の教育は、どんな学修をしたのか、避けられない苦悩はどうだったのか、など興味がわいてくる。

 斗南藩、聞き慣れない名だが、無頼衆が仕切る新政府は、会津藩が涵養し矜持としていた武士の心根を、勤王の士であった藩主松平容保憎しで完膚なきまでの辱めをあたえ、領地に残るは農民もしくは商人として営みを変え、武士として生きるなら本州の北端陸奥に移封するという会津処分を行った。

藩主に随ったものは未だ見たこともない地を斗南と名付け、現在のむつ市に藩を立てた。新政府の条件は農業によって財政基盤を作れ、という厳命だったが、一万七千余名の会津武士にとっては、ことのほか過酷なものだった。

 

 

                 

 

                

だからと云って境遇や歴史の隘路を質しても始まらない。

武士の浸透学にある「言を要さない」涵養は、さし迫った状況に向かっても超克する気概が、特筆される会津武士の姿だった。

会津の市街地戦闘では屍を倒れた場に晒し、白虎隊の童子さえ埋葬して弔うことさえ許されず、小動物にさえむしばまれた。非戦闘員だった武士家族の高齢者や女子は自決し、操と矜持の穢れることを良とせず誇りを護った。それから比べれば、゛何のこれしき゛との意気はあふれていた。

時を違えて世俗に惑いや小欲を制することもままならない旅人にとって、たとえ会津、陸奥と別世界に繰りひろげられた人々のストーリーを、彼の地に伝わる微かなる残像に心耳を澄ますことは、知った、覚えた類の探索ではなく、添って動転するような臨場感に浸ることだった。それは現状のささいな憂慮や煩悶に光明を推考し、実直なる当時の日本人への回帰願望が芽生える端にもなることだった。

 それは、同時期の冷害に同じく苦しんだ津軽弘前において、嘆く人々に向かって恩師の縁者である菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」という気概と同じ明治人の薫りを感ずるとともに、政府の補助金に「弘前に餓死者はない、他に困っているところがあれはそちらに渡してください」と断る、他への忠恕と責任感は、もともと寒気烈しいところに生地として営みを持った人間の守るべき矜持のようみえたのだ。

くわえ、その甥であるの山田純三郎に孫文が慚愧の気持ちで発した「真の日本人がいなくなった」との言葉が、妙に斗南武士となった会津士魂に、民族を超えた維持すべき普遍な意志のように共鳴するのだ。

 「そこを観よう」という観察眼と直感力の養いは、混迷の将来に宿命観を集積する世俗のには、偏屈な変わり者の夢想とおもえるだろうが、その浸透学こそ必ずや利他に必須な修学だと多くの先覚者や碩学の促しがあったればこそ、ゆえに哀悼と感謝の独行であった。だから敏感だった。

 

 

                  

 

北辺の地だが、当時は地域情報も乏しく、あの松陰でさえ山口県の萩から青森県弘前を経て竜飛まで足を延ばしているが、行程も順調ではなく、秋深くなれば降雪で歩行もままならなかった。その季節の萩は雪も見ることもなく、路銀(懐金)も計算通りではなく、至るところで松陰の借金証文が発見されている。それは予想外の異郷への旅だった。

 征夷大将軍の田村麻呂も秋田との県境を閉ざす白神以北は足を踏み入れることはなかったほどの、当時は化外の地だった。斗南藩の在ったむつ市は旧南部藩、いまでも八戸までの新幹線の頃は、大湊線の中継地である野辺地以北は訪れる観光客も少ない。

 周知されているのは原燃の六ケ所村、恐山、マグロの大間くらいで、斗南藩の史跡などは見向きもされないのが実情だ。グルメと観光はあっても、思索と懐古、加えて教訓を得るなどは浮俗の変わり者の所業のようだ。

だが、普段は心地よいと感じている浮俗に浸る都会の巷で、その深層に潜在する俗(現世)の人の在り様に滞留している鵺(ぬえ)のように取り付くモノの発見には、前記したように、かけがいのない風土であるとの確信が不思議とあった。

また、そのモノなるものを覚えたら掃き祓うことができるような拙い感のようなものがあった。それは人の縁なのか、史蹟に佇むことによって感受することなのか判然としなかったが、それはいつもながらの奇縁を運ぶ良機に乗るしかなかった。

 

東京からの時程では新青森を経由して弘前までの刻を要すが、単線の大湊線の最後部から望む陸奥湾の青さと丈のさほど高くない雑木林を後にする鉄路の景色は、窓枠をつかんで座席に膝立ちする童のような気分だった。

どこでもそうだが少ない乗客はスマホに夢中になって景色など興味がない。六ヶ所村の巨大な風車を超えると横浜町という駅に着く。これもユネスコ村のような駅舎だが、地元出身のオナゴは「沿線では一番大きな駅」と自慢する。

終点は大湊、海上自衛隊の北の要衝で、釜臥山に隠れるように基地がある。降りたところは一つ前の下北駅、ホテルは陸奥グランドホテル。電話をすると迎えに来た。

 

 

                

旅程は、昼に着いてグランドホテル内にある斗南藩の資料室を訪ね、近在の史跡を周り、ひと風呂浴びて夜には弘前に行く予定だった。いゃ、陸奥湾越に津軽半島の夕日を眺める経路が望みだった。

知人に陸奥の先導師がいる。生地ゆえだが醇な愛郷心は聴く者を旅に誘う雰囲気がある。普通は、金も、時間もと、聴く満足だが、津軽に旅慣れると機会を窺うようになるのも不思議なものだ。

到着後、報告のため連絡を入れた。前もって親切な郷人の連絡先を預けて戴いたが突然で、旅程もあり、報告のつもりが、オウム返しで郷人から連絡が入った。

 待ち合わせはホテルロビー。もともと先導師の伝言なのだろう、史蹟後、墓地、郷の陶芸家太郎仁窯を周遊した。時間を見計らったつもりだったが、太郎仁氏の話と清涼な自然環境に時を忘れてしまった。すると面白いもので、案内の郷人に「繁華街は近いですか・・・?」と尋ねた。すると「何時に迎えに行ったらいいですか・・・・?」と。

自然に「うむ・・、七時」と応えた。もう弘前行はなくなった。

ホテルのオーナーは余程の粋な気分を持った郷の長なのだろう、まるで使命感を持って収集したかのような資料と、その縁を郷に生かそうとする気概がみえる資料室を設えてあった。

 小腹がすいたので食堂に入ったら、どぶろく、とメニュー札が目に入った。

蕎麦を肴にコップ酒ならぬ、ドブロクを呑みこんだ。しばらく宙を眺めた。それほど美味しかった。以前、弘前駅が再開発される前の居酒屋の亭主と馴染になった折、事前連絡を入れると、山に分け入って山菜を採ったり、マタギに話をつけてドブロクを手に入れてくれたが、そのドブロクはどんぶりに粥のようなもので、水分も少なくスプーンで呑むより、口の中で噛むような感触があった。そしてジワリと酔いが滲みる。

食堂のドブロクもそれに近いものがあった。「これは・・・」とおばさんに尋ねると、ここで少し提供する試飲みたいなもので、外には出していません。と優しく応えた。

こうなると、呑ん平は狡知が働く。金持ちを見つけた税吏や隠れて違反を執る警吏の狡知も嗤えぬほど、詐知が生まれる。「部屋で呑みたいのですが、二合瓶に二本ほどいいですか・・」とへりくだる。「いいですよ」応えは優しかった。

よく考えたら、弘前行も忘れ、案内の郷人には夜を尋ねたが、肝心のホテルチェックインもしていなかった。二合瓶二本を抱えてチェックイン、部屋の冷蔵庫に貴重品のごとく安置して、風呂場に向かう。人も物も縁はまず添って、乗ってみることだとの実感だ。

きっと藩主容保ほか会津藩士も、弘前師団や斗南に縁があった秩父宮殿下も、きっとこのドブロクの味を知っていただろうと、妙な己の詐知の贖罪を想いつつ、落葉の浮かぶ湯に身をひたすこそばゆさがあった。

 この辺りは、あの津軽金木の資本家の息子のような放蕩噺もなければ、石高をごまかして瀟洒な城苑を構築された形跡もない。物語は少ないが、だからこそ人間がリアルな形で遺されている直感があった。もちろん類に漏れず閉鎖した巨大なショッピングセンターもあったが、いまはその建物をそのまま使って役所になっている妙智がある。弘前の歓楽地鍛冶町に類する夜の姿もあるが、いまでも、町村合併でむつ市では400件程、居酒屋は陸奥湾と津軽海峡の幸が豊富で、しかも都会ずれしていないところが柔らかい。

 

                 釜臥山 連山は恐山

 

 

翌朝、吉報?があった。

案内の郷人が件の食堂に掛け合って、ドブロクをもう二本用立ててくれた。

伺うと、以前このホテルに勤めたことがあり、みな仲間内のようなものだということだった。くわえて駅まで送ってくれるという。

定刻までの間、駅舎の外で紫煙を愉しんだ。中年の女性も紛れ込んだ。

改札を抜け、ホームに並ぶと後ろのフェンス越しに郷人はいた。電車に乗り発車するまで、いや発車してしばらく遠ざかり、見えなくなるまでその場にいてくれた。

一番後ろに乗って車窓をみると、電車の下から二本の鉄路がトコロテンのように押し出されるよう見えた。そのトコロテンの押し出し口のような窓から惜しむより、また必ず来ますと、ペコペコ頭を下げる童のような男が自分だった。

久しぶりにみた、我が身を刻み遺したい斗南の憧憬だった。

 

                      松平容保公

 

きっと、東京に上る容保公も残る藩士も、悲哀より下北への憧憬があったのだろう。

その呼応がなければ、あの賢将の柴五郎の説明もつかない。

なにより、図らずも朝敵となり、会津を惨禍に貶めた討幕軍が、御旗として推戴した宮家の系である秩父宮殿下に入籍した世津子(節子)妃殿下は、いくら計略といっても会津の姫君であったことは、宮家の真の意志と忠恕ある寛容な心であることは疑いもない事実だ。

 

                      秩父宮御夫妻

 

しかも会津の残影としてあるだけでなく、斗南の地に兢々として心香を献じた殿下の残照として今でも史蹟は丁重に護持されていることでもわかる。

それは、過酷な地へ移封した新政府との融和ではなく、もともと矜持として会津士魂を支えた勤王の大御心への忠誠であり、それら応えた黙契の表れが斗南に顕在する証しだ

分るものが判ればいい、そんな深層の情緒に黙礼せざるを得ない良機の旅だった。

 

イメージは関係サイト・陸奥グランドホテル資料室より

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相撲も野球もプロという興行   2011 あの頃

2025-04-19 06:58:03 | Weblog


                       写真はデイリースポーツより

選手や力士に罪は無い


全国津々浦々の興行、イベントは未曾有の震災に配慮して中止や延期をしている。
街のスナックや居酒屋で予約されていた送別会や親睦会までキャンセルが多くなっている。
なかには、形式的な付き合い宴会に疑問を持っていた若者にとっては、ごく自然に受け入れられた。

時宜を得た選択という名目があったとしても、歳時の倣いになった酒会は考え直す風潮にある。形式的といえば冠婚葬祭が代表的なところだが、結婚は経済事情もあり地味婚が流行り、葬儀は家族葬、密葬と称して経費のかからない葬儀が多く見られるようになった

あのとき、陛下のご平癒を祷り歌舞音曲も控えた。地震災害や火山の噴火もそうだった。だだ、これも納得性の問題なのか、青少年の育成を冠としたスポーツや催しについては計画通り行なわれることが例外的に行なわれた。いや様子見と按配なのだろう。

中止といえば、相撲の八百長問題でも法律的に問題があることではないが、自主的懲罰として中止している。ことは、合わせる顔がない、ということだ。それと内なる掟や習慣と成文された法律条文とのすり合わせに苦悩して明確な説明が出来ないことでもあるが、大多数の大向うのというべき人々との阿吽の繋がりがあっても、取り付く智慧が湧かないことが解決を遅らせているようだ。
最後は堂々とした言論と態度の問題に帰結するようだが、時宜の人物が得られない悩ましい問題でもある。
それでも、ことは商業興行である。食い扶持からみて敢えて矮小化すれば、スナックや居酒屋の人寄せイベントのようなものだ。

その商業興行といえばサッカーも野球もある。
本場米国で曰く、ベースボールではない、日本の野球である。
相撲は化粧まわしと土俵に髷である。野球は球技場に運動着にバットとミットにボール。団体競技と個人技の違いはあるが、客から木戸銭を貰い運動を見せるのは同じだ。
あえて横文字や職域言葉を使わずとも同類である。

試合の差配が行事か審判の違いはあるが、人寄せ興行は同じようだ。近くで見るのは砂被りとバックネット裏のボックスシートと言い方は変わるが、ともに高価で貴重になっている。

ローマのコロシアムもそうだった。飽きてくると支配地から猛獣を連れてきて奴隷と闘わせた。相撲も野球も外人がいなければ成り立たなくなった。つまり目慣れ、目垢がつくまえに目新しい大男か青い目をした異民族を用いるのも似ている。
次はどんな嗜好なのか見当もつかないが、ともに大金を並べれば済むことであり、精神性や内容は周辺言論や売文に煽らせて、大きな箱を一杯にすることが興業主の主眼である。

野球について言えば内務官僚の正力松太郎氏が音頭を取った興業野球だが、宣伝媒体である読売、日本テレビが巨人軍、一昔前はマスコミ資本の大毎オリオンズ、産経スワローズ、中日ドラゴンズが煽り立て、西武、西鉄、国鉄、阪急、阪神が球場まで人を乗せた。映画の大映や東映もそこに並び、近頃では金貸しと保険のオリックス、新興IT企業も参列している。

八百長とはいわないが、仕掛けはある。捨て試合もある。打率を競っていれば分母である打席には立たずサボタージュする。観客は知っているから騒がない。知らないのは健全育成スポーツとなった野球に打ち込む子供たちである。高校野球になると薄々大人社会がわかるようになり、くじ引き就職や金で交換売り買いすることも耳目を集めたイベントとして商業マスコミが騒ぐが、慣れてくると異論は偏論として忌諱される。






              

             未だ木鶏に至らず  双葉山関


これが相撲界であったら一大抗争となる。かれらは欧米のアカデミックなスポーツ論や経営論は馴染まない。金銭トレードや星勘定で休んだり、捨て相撲などしたら八百長どころではないはずだ。裏では大男が気色ばんで争いになる、つまり死闘になる。
そこには金ではすまない意地と人情がある。昔は食減らしや異形ゆえ就職がままならなかった若者を我が子のように育て、部屋を継がせようと思ったら金に転んだのでは、世間様にも示しがつかない。

高校野球のように監督が食料費や運動費を貰って生徒を好みの球団に入れることがあったが、また、相撲取りのほうが純情さは残っている。
悪い風潮なのかスター選手が幾ら貰ったか、何処とどこを天秤に掛けているか、あるいは三百代言の腕はどうか、などマスコミが煽ると、すべての少年野球が、゛売り物になるまで゛と女郎屋の水揚げみたいになってしまっている。
彼等の世界には世間様がどんな意識を持つかとか、その風潮が至極当然のように慣れさせるためにスターを作りエキサイティングに騒ぎ立てることがまともな思考を忘却させることへの危惧を考えない。

たしかに3Sといって、スポーツ、セックス、サイレントを操縦できれば人々はまともな事を考えなくなり奴隷化するというが、そのためには普遍的ではない掟や習慣によって整えられていた世界を無意味なものとして、聞くだけで満足する説明責任を強要して継続習慣を破壊してしまうようだ。
なにも相撲を擁護するものではない。厳存していたものの見方の問題だ。

ともに人の平常時にはない競いや戦いを商業興行とする周辺は、゛まとも゛ではないキワモノの世界のようだ。

以前、西鉄ライオンズの黒い霧事件で疑いがあり永久追放された池永投手がいる。当時は国会でも民間組織の問題が取り上げられた。法人格だからではあろうが、あの頃から国家や国民、外交矜持などはマスコミ耳目を集めない硬モノの風潮があったのか、高位高官や政治家まで大人たちが生真面目風に八百長問題を論議した。反応したのは球団経営者である。即刻、疑わしいものは追放となった。

あるとき福岡の中洲にドーベルという店を経営していた池永氏を訪ねたことがある。
北九州の道縁の老師から追放解除という地元の声があるといわれたことが切っかけだったが、同じ道縁にコミッショナーだった川島広守の存在を思い出し、件の要望を伝えたとき感触があった。そこで池永氏を訪ねた。何分初対面なので老師の縁者だった稲尾和久氏にゴルフ場まで電話して往訪を連絡してもらった。
店のトイレには多くのファンが書き込んだ紙が壁一面に貼ってある。ときおり客に応じてボールにサインをしていた。

カウンター越しの会話だったが・・・
『何の用ですか・・』
連絡が届いていなかったようで、ことのほかぶっきら棒だった。
いきさつを話して・・・
「下関球場で若者に野球を教えていることを聴きましたが、野球はプロの興業野球だけではないですね」
一瞬、乗り出したようだった。
『楽しいですよ』
「あの件は興業野球の都合です。追放は狭い範囲の世界ですよ。野球が楽しくてしょうがない子供たちには関係ないことです」
聞き耳を立ててくれた。
『そうゆう話はあまり聴いたことが無いが、自分も子供の頃は野球しか見てなかった』
「子供が喜んで夢が見れるなら、追放はあの世界のことですよ」
当日か前日かは不明だが、ボックスに東尾氏と大橋巨泉氏が来たと記憶している。

一杯しか呑まない客だったが、エレベーターまで送ってもらって最後は互いに慇懃な挨拶をした。
子供の夢・・・・
その夢に蠢く大人たち・・・

選手会長の阪神新井選手は被災を我がことのように哀しみ,爽やかな涙をみせ「後は俺達が・・・」と、国民に語った。
その清新さは池永氏がみた下関球場の子供たちと同じだった。
゛男の子がいた゛そして倣うべき人物となって成長した野球少年がいた。

また、学ばせていただいた。

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佐藤慎一郎氏に観る 官房機密費という銭   2010 加筆再

2025-04-14 01:57:29 | Weblog

≪最近、以下の内容に極めて似た著作が出版された。濾過された情報の又聞きだが、実直な作者ゆえか、佐藤先生象の感受表現は改めて懐かく感じられた。もし先生にお会いして盃を交して著作にある記述を拝聴するならば、P44のような言動をするような風はないと認識するでしょう。

また「おれ・・・(俺)」は、申が上から押されて下部が曲がった姿、つまり男性シンボルが押し曲げられた、いわゆる男の機能はないと、「日本人は面白い呼称をする」と云われたことを笑い話として語られた。

残置された書類はすべて焼却を切望していましたが、書類現物があることは不思議なこと。残っていたとしても触れた御仁は師の切望を知らぬはずはない。

真実を追うことが学問だと認識するのは勝手だが、切望の意を曲解なり隠匿することそのものを利とするのなら、どこかの国の大量破壊兵器隠匿如何として徒に知の有利さを弄ぶ愚は、師の「人師」としての風儀を汚すことだろう。≫

   

 

本文゜ 《酔譚の了解録音を参考加筆しました》

マスコミの解説委員や政治部長が機密費からお小遣いを貰っていたと話題になっている。

彼等にとっては問題なのだろう。ウンともスンとも言えないし書けない。陸羯南が聞いたら何といおうか。いや天聴(天皇の耳に届く)ならこれ程の社会悪は無いだろう。お耳を煩わせることだ。

たかだか瓦版、モノ書きの類のことだが、まさに走狗に入るとはこのことだろう。

国家観のあるうちはいいが、食い扶持、遊興、餞別の類になっては国民の信頼は得られない。とはいっても、゛国民の信頼゛ほどいい加減のものはないという前提もある。
つまり、嫉妬と怨嗟の対象だからだ。

こうなると、゛さもしい゛゛卑しい゛争論が発生するが、落ち着きの無い言いっ放しが大部分だ。

モノ書きの倣いだが、見たことを系列化するのが彼の職業における正当性であり、証拠や前提とする動機をとりあえず接続詞を多用して取り纏め、購読料を払っている不特定多数に伝えことを職業としているが、はたして食い扶持といえるのだろうか。珍奇、高邁に飾られた紙面は作り、書く者を文化人や知識人と称して盛り立てる世間の納得性もここでは問題視される。

   

北京知人

 

日中国交前夜にマスコミが中国に入った。当時は香港からあとは鉄道だったが、香港からの旅費は中国政府持ち。視察と称する物見遊山は最終地北京に到着した。人民大会堂では周恩来首相の招宴があった。最後に風呂敷包みが届けられ「これを皆さんで・・」と告げられた。

中身は現金である。ブンヤどもは会議を開いた。どう処理したらいいか。国内の社内会議のような堂々巡りで埒が明かなかった。それでも彼等は大新聞の記者である。
そのとき毎日新聞の橘氏が毅然として考えることではない。貰うべきものではない」と言い放った。

このことは当時の荒木文部大臣がエピソードとして語ったものである。場所は反共右翼が建てたビルの落成式である。こうも言っている「近頃は反共を謳って中共から金を貰ってビルを建てたものがいる」と。 むろん某政党も政党本部のために当時の額で3億円貰っている。

佐藤慎一郎氏が台湾の学術研究団に招かれ日本人の学者や研究者と訪台したときのこと、帰りにお土産が渡された。現金だった。

佐藤氏は賄賂を潤滑剤、人情を贈ると考えている彼等の慣習的な行為を非難はしない

問題は日本人の教育者や知識人の姿である。日本人として招かれた学者や、その後の台湾派と呼ばれている知識人達が当然の如く、あるいはコッソリと懐を開く姿に愕然とした。




          


クリーンハンドの法則は汚れた手を洗わないで握手をすると自らも汚れるということだ。
そのご佐藤氏はその訪問団からスポイルされている。つまり仲間ではないということだ。
狭い範囲の掟や習慣は法律の世界に優先することもある。とくに人情を加味されれば受けずとも理解することもある。しかもその訪問団の中では唯一20年以上中国で生活している佐藤氏はその意味するところを熟知している。
だから日本人が日本人として具現する姿を知っている。

知を働かせて意味も無い対価を受け取る。まるで物を売って対価を受け取るのと同じように手を差し出す。これでは言論の前提となる本(もと)が無いということだ。

「物知りのバカは無学のバカより始末が悪い」

「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

あの満州崩壊のときの軍人、官吏、しかも、゛高級゛と冠する連中と同じ醜態が平和時の知識人外交に佐藤氏はみたのだ


格好付け、変わり者といわれようが佐藤氏は断固、断った。それは、孫文の側近として、戦後は国民党最高顧問として日中交誼に尽力した叔父山田純三郎の遺志でもあった。その原点は「真の日本人がいなくなった」という孫文の嘆息への頑なな回答でもあった

その中でも外国語を専門とする親台派で有名な新設大学学長N教授は机を開けて生徒にその収得金をこれ見よがしに見せて平然としていた。いまは通信社の役職になった生徒の秘述である。

そんなのが大陸非難、日本政府への政策提言などと、何をかいわんや、いや国賊的知識人である。果たして彼等は孫文が歎いた真の日本人の枯渇した姿の映し絵ではないかとも思える醜態である。あるいは田中派経世会の中国詣から置いてきぼりにされた他派閥や大言壮語した議員の台湾派としての口利きは、辛い台湾の立場を巧妙に操りながらも何の功も産むことは無かった。

そのさもしい連中は、児玉源太郎、後藤新平、明石元三郎、八田興一、六士の教育殉職者等の事績を踏みにじり、かつ功利的な国内派閥抗争を台湾人の目に晒し、みっともない小人政治家の姿として今なお現地では語り草となっている。

またそれらが台湾棄民、つまり気に食わないので国を棄て、蛍のように甘い水に籍を移動した騒がしい連中の日本に対する阿諛迎合の口舌に気分を高揚させている。
知識人の曲学阿世と政治家の国賊的態度は今もって「信」を元とするアジアの民衆から嘲笑され続けている


つまり、かれらは実態から遊離した空中戦に戯れているのである。
゛片腹が痛い゛まさに台湾問題は日本人にとって胸を張って大義を唱えられない状況であり、三国の反目や難渋に多くの煩いとなっている因の一端は日本人そのものにあるといってよい問題でもある。

それが機密費をも扱うのである。官吏に嘲られるのも一理ある。
働かずに貰う銭、それは等しく国民から徴収した汗の対価である。

知識人は口舌と文筆によって営みがある。商業出版の労働者としてその技芸や珍奇な論を高邁に飾り立てて著作料を生活の糧としている。

部数を気にして本屋のデコレーションまで口を挟み、通称「平積み」の多少と置き場所を気にする。そんなのに限って人を映しに義や愛をつづり、読者を架空な世界に誘惑する。また論争と称して騒がしい罵詈雑言を繰り広げる



         

       山内龍雄


筆者の周りにもそのような輩が出没するが、総じて照れくさいのか清貧を装い、場を変えて酒色に興じる小人作家も散見する。彼等も商業出版の社用経費の使い方に長けている。
ネタ元である政治家、治安官吏とのバーターは客である読者というより、不特定の国民に対する背任がごく自然に行なわれている。

日露戦勝の立役者である明石元三郎は膨大な機密費を使いロシア国内の社会構造の転換まで行なったが、余った資金は精細な支出記録を添えて返却している。
今どきの、貰ったものは使い切りとは違う当時の日本人の姿であり、その真剣さと集中力、普段の努力と愛国心は、国家ら俸給をいただく軍官吏として当然な姿であった。

佐藤氏も永年にわたって総理報告を送っていた。はじめは何のためか解らなかった。
或る時、管轄の官吏が訪ねてきて中国問題への意見具申の懇嘱があった
いつも赤坂の料理屋で普段食したことの無い料理が出て聴取が行なわれた。後でわかったことだが中国は佐藤氏、米国は某、ソ連は某とあくまで秘密報告だった。印刷はしないで手書きの聴取で7部作成する。

それが分かったのは安岡さんのと一緒にいたところに福田総理が入ってきて、
「やぁ、佐藤先生いつも貴重なご報告恐縮です」といわれ、はじめて総理が読むものだと理解した。
香港に渡り、海岸で待っていると棄民が泳いでくる。そして中国人でさえ日本人と判別できない流暢な北京語で聴取する。温かい食べ物を一緒に食べる。
軍報や国内向け人民日報を読み解き検証し、次を推考する。国内法規を翻訳する

それが総理もみる秘密報告となる。
或る時、「そろそろ歳なので他の人に・・・、高名な中国研究者もおるし・・・」

担当聴者はいう
いゃ、彼等は誰にでも理解できること、発表できることを言っている。中国人がこの問題をどう考えるかは推測でしかない。それでは政府の決断はできない。この問題は佐藤先生しかできない。世界の中のアジア、そして日中関係、かつ善隣関係への模索という前提が無ければ只の論文でしかない。それはその人たちの事情です」

それも日本及びアジアのためだ。だから渡航費と謝金だけしかいただかなかった。コレ(妻)は大変だった。拓大でも学長に教授を依頼されたとき二万円もらった。コレにこれでは生活ができないね・・といったら、烈火のごとく怒った。『あなたは学生が好きなんでしょう。そんなことで辞めたら学生は可哀想です。私はできますから続けてくださいと叱られてしまった。



              

             モト夫人


この報告書も日本のため、国のためと思っている。日本人の伯父がなんで孫文の側近として中国の革命に行ったのか。それは西洋に抑圧されたアジアの人々を救うためには、先ず中国を近代化して日本と提携しアジアを興す、その一点だけだ。コレ(妻)に金の問題ではないことを改めて教えてもらった」

外務省が機密費を流用し贅沢三昧した。大蔵省高官の銀行接待、官官接待、佐藤氏は「もう日本人はいなくなったのか」と筆者の面前で大粒の涙を流した。
何のために伯父達は頑張った(辛亥革命)のか・・・

困ったときの荻窪頼り

(荻窪団地に居住)中国国務院の高官や台湾高官も佐藤氏を頼って訪問する。池田、福田氏ら総理からの教授要請がある。しかも無名を貫き足跡をたどるも痕跡は少ない。
それを是として財貨や名位には目もくれない。だから異民族にも信頼があった。
なによりも熱意と人情があった。そして自身にあえて重責を課し厳しかった。

「先生、今日は出席者も少なく失礼しました」と筆者が恐縮すると、

「何をそんなことを気にしている。陽明は、゛独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず ゛といっている。一人でも真剣に聴くものが入れば人数の多少を拘らない。一人の人間によって社会は興きる。また一人によって滅ぶときもある。このような場を作る志はありがたい。また継続することだ。わたしはいつでも参りますよ」
物の多少に囚われない、真の自由を担保するのは己の精神だと。

機密費というあぶく銭は手をつける人間次第によって国家は滅ぶ。
あえて説明はいらぬことだ。

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「人間考学」 人の心の進む方向を知る 再

2025-04-08 16:32:20 | Weblog

 

それはコンビューターの2000年問題が起きる以前、今から27年前のことだった

純朴で稚拙な童のころに目にした西洋の章を想起した

その結果は民族固有の暦(カレンダー)を亡きものとして西洋歴に収斂される企てだと、後で知った。

人々の成功価値は数値による財貨に向けられ、そのグランドも降り注ぐ「情報」という案内(インフォメーション)に先導され、ハーメルンの笛吹の逸話や羊飼いの群れのように、笛や一頭の牧羊犬に従順となってきた。

掲げられた「民主と自由」によって人々は仮装した自由を疑いもなく受け入れ、嬉々として民族の連帯を解きつつも、個別から孤独への道に迷い込んた。

国家は融解し固有の情緒も崩壊した。戻るべき所もなく、唯一偶像視する財貨の欲望に狂騒し、為政者の執る政治すら無意味なものとした。

それは、気がつかないように、いや気がつくことさえ許さないほど思索は衰え、かつ徐々に浸透し、終には自己さえ亡失している。

まさに誘拐されたような世界が訪れたようだ。

そして、奴隷化の促しのように人々は群行群止して茫洋とした世界に誘い込まれている

だだ、幸いにもこの国には、感知と覚(さとり)を識る多くの人々に、微かだが情緒が残っていることに救いがある



       




 【戊 寅 の 独 り 言】  参考資料 1998年 戌寅年の新年に送付

いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。

人間の支配には武器や血の代償も要らない。情報によって欲望を徐々に膨らませ、羨望の渦に競そい起きる嫉妬と憎しみは、有りもしない自由や民主を叫び争いの渦に誘い込ませる。



「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 

そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。

そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 

そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、

われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだ

 

偽書とも言われるが、たどり着いた現代の人間変容の根源的起因ではないだろうか。

果たして数多の候補者の大言壮語するビジョン、政策とは何なのだろうか。
         
                            戊寅   睦月   吉日

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人間考学講話   ある隊士の所感、  2022/7 あの時

2025-03-31 18:48:16 | Weblog

 

 

数次にわたる空自幹部講話ですが、懇嘱を受けて教授案の作成に取り掛かります。

近隣のパワーバランス変化が危機感となり、特異な職掌ある隊員諸士の講話については技術や知識の類ではない内実が必要となります、

しかし、此の全体を包み込む言辞は、コネまわした付け焼刃で適わないことは当然のこととの受任でした。

この章は、講話後に送付された隊員の所感への、感じたままの応答です

よく、統御(組織マネージメントなど)には、人間の問題として「観人則」を伝えます。

今回、教場の一隅で虚ろに聴いていた隊士の所感は講者の人物そのものを観る洞察がありました。

洞察力とは、対象となるものの本質に潜在するものや、その奥底まで見透す醇なる観察眼です。

まさに驚愕し講者も学ばせていただいた所感でした。

数次にわたった講話で継続課題としたのは「統御」・縦横無尽、臨機応変を養う「機略」・それを有効せしめる「浸透学」・そして例とした「謀略」でした。

所感は、その課題を連結意識として、職掌各位の有効的連携、あるいは運用に必須な瞬時における直感力、想像力として感じていただいたと思います。

数百ある所感の内、特異な観点から自在に記され、かつ組織内統御の要点である「信」の在りようを彼なりの視点で考察している一部を紹介します。

 

下北 釜臥山 山頂レーダーサイト

 

所感  Y 隊員

無名にして有力、下座からの視点。こうした、下手をすると説教がましい話は、内容の如何や伝え方以上に、それを語ろうとする当人の佇まいや立ち振る舞いの次第に左右される。

増して、それを初見の人々を前に冒頭で語るとなれば、これは困難というよりも、話し手の側に何かある種の開き直りがなければ不可能であると思う。

つまり、伝えようであるとか、講義をぶってやろうとか、そうした思惑がある限り、そのことが雑念となり、無名にして有力という内容をたちまちのうちに空虚なものにしてしまうであろう。

武人は、その空虚こそを身に纏い、伝えるというより相手の内にあるものを励起することで、相通ずるものであろう。

それが仮に、予期された内容を伴わないとしても、人が互いに影響を与え、受けるということの本質は、相手をねじ伏せようとか、相手から評価を得ようであるとか、まして、人の目を気にし、周囲に阿ることで成るものではない。

先生は、私がこれまで20年ほど大学人として生き、転職後1年ほどを自衛官として経験してきたなかで目にした教養人や研究者、あるいは上官や指揮官とは異なり、何かそのような間というか雰囲気というかを、その良し悪しというよりも次元の別に自然と伸び縮みさせる方とお見受けしました。

俗っぽく言いますと、小さくたたけばそれなりに、大きくたたけば大きく響くというような、鐘か器かのような印象を持ったのです。

そしてお話の一つ一つがどうというよりも、私にすれば小学生の低学年くらいまでの、学校や剣道の先生に向き合った感覚が想起されました。素直に倣い信用できる対象であった大人に、久しぶりにお目にかかった、ということです。これは懐かしいということと、あまりにご無沙汰のことで、逆に新鮮なことでした。

わかったようなことを書きましたが、私は当初より部屋の一番後ろに隠れるように座り、お話の半分くらいはうとうととしておりました。前夜、些細なことで妻と喧嘩をし、一睡もできなかったこともありますが、結局のところ言行一致のないことは、開き直りでもなく私の本質であり、修行を要するところなのです。先生はそれもお気づきでしたでしょう。

 

  

 三沢基地

 

応答

江戸の小話で「女房に負けるものかとバカが言い」とありますが、バカは馬鹿ではなく「莫過」と理解した方が安全です。

「あんたバカと云ったでしょう」

いや、バカは馬鹿でなく、過ぎたるはなしといって、バカでかい、バカにできた女房、バカちから、それは愚かでないが、人より過ぎた、優れているという意味なんだ」と、利口者は応える。

貴官は再度ケンカして試してみたら如何か。野暮でなく粋な喧嘩ですが・・・

戯言は世の潤いといいますが、旧知の卜部皇太后御用係と小生の酔譚はこうだ。

昭和天皇が重篤のときビヤホールでのこと、「大変な時に外出を・・」

「いゃ、おそばにいても私は医者ではないので役立たないので・・・」

ホールには健啖家の入江侍従長も生前は泡友として愉しんでいた。

「入江さんもお亡くなりになって陛下も淋しかったのでは・・・」

「お亡くなりになったとき、陛下は『入江は食べ過ぎだったのか…』と下問された」

「お応えになったのですか」

「ええ、そのようです、と」

かの世界の実直な問答だが、一般なら病の種類を御聞きになるが、不謹慎と息巻くものもいないとは限らないが、これも同じ楽器を鳴らしている御方の音と拍子と間(ま)の妙のようだ。たしかに起因は健啖家つまり食べ過ぎでもある。

 

竜馬は勝と横井小楠に私淑している。西郷も勝から音の表現でドンがチンではないと印象を持っている。江戸会談のお膳立てをした山岡鉄周も駿府で西郷と会見、気概と腑に落ちる言辞に呑み込みの速い西郷も肝胆を察した。

ちなみに小楠を「おそろしい人物をみた」と述懐している。

 

小生も安岡正篤氏との初面で見抜かれた。「君は無名でいなさい、それは何よりも有力です」また、学び舎での向学を考えていたら、「大学(四書五経)という学問は有効だが、学び舎大学校は独学の補助、自分は学ぶべきものがないので始終図書館にいた」ー

 

たしか孔子も「学問は衣食ためではない」と説く。(欲心の自制)

佐藤首相も訪米間際に教えを請うていた。それは大統領との応答辞令だ。

今までは数分の挨拶だったが、終了間際に「大統領、わが国にも武士道があり西洋にも騎士道があります。真の勝者は敗者にあわれみ(憐憫の情)を持つことが真の騎士道かと存じます」

大国の大統領の、孤高ではあるが矜持見識如何を問うた。会談は長時間に及び、それを機を境に沖縄返還に進んだ指導者同士の共感であった。

それは、学び舎では、学び、知る由もなかった人物の慧眼(本質をみる)を観た応答辞令の妙だった。

まさに眼で見ることではなく、感じて観ることの促しでもあった。

安岡正篤氏から何度も諭されたことだが

真に頭の良いということは、直感力とそれを活かす情緒(情感)の有無だ

ちなみに「デモクラシー変じてデモクレージーの様相になって、落ち着きがなく騒がしくなってきた」と。

 

北部航空警戒管制団 三沢基地

 

そういえば、多芸の野田秀樹氏は東大医学部卒の映画監督、作家、評論家だが、

受験の要は「数学は解方パターンの丸暗記、受験は要領」と、生業はまさに感性操縦の妙手でもある。

小生も学び舎講義では、「教えるのではない、伝えるだけだ」「学校は落第してもよい、人生は落第しないでほしい」教職課程では、「先ずは生徒を好きでたまらないと思えば、気心は立っているだけでも通じるものだ」と、学び舎にあらぬことを伝えている。

 

マレーシアの留学生が「無財の力」について思ったことがあると、キャンバスを追いかけて来た。特別講義なので専任に遠慮したのだろう。

「私の国でも郊外に行くとお年寄りが微笑んで挨拶してくれる。まさにお金がなくても挨拶は人と人との力です。おばあちゃんから日本に行ったらそんな勉強できる先生がいるからと云われた意味が分かった」

眼が潤んだのはこちらの方だった。

きっと帰ったら偉くなって笑顔を失くさない国にしようね

それが精いっぱいの伝える言葉だった。

老生も若いつもりだが、独りくらいは居てもいいと、近ごろでは古木寒岩のように突っ立っている情況です。

          ※「古木寒岩」寒い岩肌に根を張っている古木の様相

 

応答の妙を感じざる所感ですね。ご賢察 恐縮です

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安岡正篤の「六然」と「官吏十戒」 08. 6/14. 再

2025-03-29 17:32:40 | Weblog


安岡正篤氏は数々の金言、人生マニュアルを遺している。
漢学古典を氏の曰く「活学」したものだが、「臨機応変」(機会のタイミング)
に、人を観察して言葉を発している。とくに歴史の位置づけへの考察力は、その時々の社会情勢を読み込んで大向うを唸らせる。

それは活躍の機会を発した頃に、時の内大臣牧野伸顕氏への大量の提言書簡にも観ることができる。

その論は「天子論及官吏論 」である。

戦後は数多の増幅されたエピソードによって、また一般庶民に不得意な漢籍のもつ簡潔性、かつ漢字一字のもつ膨大な情報量と多岐な意味を縦横に活用して各界要路に特異な発言をしている。

その中で「六然」がある。
隣国では養生訓の「五医」、国家の病弊を記した「四患」、共産党の四つの近代化「四化」など、数字を以って解りやすく取りまとめ周知する方法が伝統的にある。

「何々三原則」など外交上スローガンに使われるものもあるが、よく商店に「言,弐価なし」と看板が吊るされるが、゛掛け値い゛という意味だと思って買うと、次の人には値段をまける事がある。『なぜだ、弐価なしと書いてあるではないか』と文句を言うと、『弐価はないが、三価、四価はある』と、どこ吹く風。

数はその時々に変わる、なぜならそこには「人間」が介在するからだ。
西洋学、アカデミックに数字を捉えても、ゼロが「無し」でなく「無限大」として考える生き方から「六然」は考えるものだろう。

そこで碩学の「六然」から考えてみたい。

「然」は、゛そのようにしたら゛、゛考えたら゛、いいですよ、と安岡先生は考えています。確かに的を得ている漢字の組み立てです。和綴じの「孝経」を戴きましたが、「身体髪膚・・・毀傷せず」と有名な一章が在ります。これを「起床せず」と大書して寝転び、見る者を茶化したことがあります。確か、結婚前の奥さんを連れて帝大の学校祭に連れて行ったとき教室に生徒が全員寝転んでいたのでビックリした逸話があります。

これは職人の駄洒落のようなものですが、帝大の漢籍に長けた人物がやると、゛なるほど゛というエピソードになります。

例えば

【自ら処すること自然】
みずから(自発)おのずから(自然)を両在する「自(おのれ)」に問いかける
つまり、バランスである。 
 
【人に処すること同然】
観人則は地位、財などの属性を観ず、人格本性、つまり己を内観すると同様に他と処する 。変わらないこと。

【有事歴然】 
有るべくして、来るべくした縁の作用を振り返る 。 ハッキリしていること。

【無事祐然】
無事は他からの「祐(人助けの意」のお陰とみる。ゆったりしている。 

【得意鎮然】
得意があればその因を鎮まりを以って考える 。得意には、漫然することなく、自身を客観視する。

【失意悠然】
将来に希望を持って、柔軟に考える

以上は小生の「六然(りくぜん)」である

 

     

       岡本義雄(哲山)  

・・・政見(政治の方向は)金権 分限をわきまえず。巧言令色 舌禍甚だしく。 国会空転,罪、奈辺(何処)にあるのか

 

 

それぞれが己の欲の作用を制する、或いはそれを効あるように考える、「六然」は金言やマニュアルではなく、また「教わる」ことから、自己の特徴を発見して
自分なりの「学問」をすることを薦めている。  
先生は、人生の答えは自分で出すものだ、という。
ただ、その方向性と、そもそもあるべき姿を倣わせてくれた先輩でもある。その意味で「人に処すること同然」と記したものである。

然るに書斎で煙草も酒も同然だった。その方が悦しい縁が訪れるようだ。

皆さんも六然、七然、或いは「欲」や「戒」、「制」も考案して銘とし独悦すると愉しいかと。例えば「官吏十戒」などは時流に合うはずだ。
銘とするなり、律とするなり、それぞれ特徴に合わせて明記すると面白い。

    

   

 

 

ちなみに安岡氏が記す「六然」は以下の通りです

自ら処すること超然
 (物にとらわれない)
   
人に処すること藹然(あいぜん)
 (和やかに)
  
有事斬然(ざんぜん)
 (有る時は速やかに)
  
無事澄然(ちょうぜん)
 (心安らかに澄みきる)
  
得意澹然(たんぜん)
 (爽やかに、謙虚さをもって)
  
失意泰然(たいぜん)
 (堂々としている)

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安岡正篤氏は「六然」と掲げるが・・・

2025-03-29 17:29:07 | Weblog



碩学と謳われた安岡正篤氏は古典を引用した数々の格言を提示した。
多くは著作権などない中国の古典にある昔話や逸話からだが、それを応用する「活学」もその一つだ。
※碩学・・・学問が広く深い

超然、泰然に代表される「六然」も先に付く文字によって「然り」が感覚で解る容易な処世の自覚ではあるが、浮俗時世にはマニュアル格言として挨拶や上司の訓話に用いるにはホドよい引用だ。

語る方も聴く側も何となく納得するが、どのような姿を具体的に表すのかは不明のようだ。手とり足とりで隣国の古典(昔話)をひいて説明しても、もともと国柄、民癖も似て非なる地域ゆえ、ときに錯誤珍奇な受け取り方をしてしまうこともある。

ただ、明治以降のフランス革命の前段仕込み思想のようだった啓蒙思想によって、これも我が国の民癖である好奇心、阿諛迎合でカブレ取り入れた官制教育制度の数値評価に馴染まないジャンルであったためか、或いは昨今の高官、サラリーマン社長には学ぶ機会もカリキュラムもなかった故か、学ぶ「本(もと)」の無理解ゆえのアンチョコマニュアルにもなっているのが現状だ。

それらの人々は人格とは何ら関係の無い附属性価値、つまり虚構の人格を功利価値とする者たちのヒーローとなり、それに雲霞のごとく取り付く軽薄不逞の学徒として、より安岡氏の「然」を、意に反する曲解としている。それでも無教養なエリート主義にみる迎合追従には手っ取り早い唱句でもあるようだ。

数字評価を追い求めて混然とする社内において超然や、泰然は馴染まない。いくら己に言い聞かせても妙な格好付で終わってしまい、滑稽でもある。

また、いくら心の持ちようだとしても、かえって自己陶酔に見られ、「異なることを恐れない」と威を張っても疎外感が増すばかりだ。






佐藤慎一郎先生



それは決して冷やかしでもなければ、たとえ虚構でも名利を得た者に対する怨嗟でもない。
安岡氏や隣国事情に詳しい佐藤慎一郎との邂逅と、厳しい諭しに添った筆者の憂慮として「六然」に添付したいことがある。なぜなら先哲のつたえる古典の引用と活用が自己の陶冶に導くものでなければ、真の学問ではないと諭す両氏への倣いからだ。

日中両文化だけでなく、多くの格言には冠として数字がある。
とりあげた「六然」もそうだが、当ブログで再三引用する「四患」「五寒」、あるいは三位(さんみ)、名園の「六義園」、モーゼの「十戒」など、人々が唱和しやすい数で表している。
もちろん、数には意味があるが、安岡氏は他に「六中観」も説いている。





岡本義雄氏の「五醫」 心の病は医者いらず

「欲を少なくして貧を医す(欲張らなければ貧しさも感じない)」

「正座して躁を医す(正座すれば心の騒ぎを鎮められる)」

「酒を温めて鬱を医す(鬱は身体が冷えるため)」など。

 



その「六然」の六だが、天、地、東、西、南、北、を表している。つまり平面の東西南北と天地で立体となり、円を形成する。逆に四角四面は円でなく、「ろく(六)でない」という。
この六は「六然」を含み、全体感は「自然」である。つまり「自ずから然り」だ。
ゆえに、人の心のありようは東西南北天地の全面から発している。

「自ずから(自然に)」と、「自ら(みずから、自発的)」という両意をふくむ己の精神のコントロールを六つの姿として「六然」を説いていると考える。だが、「本」となるものは「おのずから、みずから」に表れる精神の置き様であり、その「自」を失くしては総てが「茫然」となる。

つまり、「六然」を総覧して有効せしめるには、「自分」の探究が求められ、その「分」は全体の一部分という存在であり、その意志なり感覚をなくしたら「自」もなく、六然の説く効も不明となる。


ここで革めて「六然」に「自然」を加えて「七然」、もしくは「心の七則」として自己活学を表したい。

師は、きっと苦笑いで好物の虎屋の羊羹とPeace缶を勧められるはずだ。

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いま、陛下は何処(いずこ)に   あの時もコメはなくなった  15 7/27 改稿

2025-03-27 15:24:18 | Weblog

2016年掲載 旧題 あの頃に倣う 移風は、陛下の「威」と「忠恕」しか解決はない   

「移風」・・・忌まわしい雰囲気を祓い、新しい気風を起こす

 

あの時もコメは欠乏した。

原因は多くのコメを将軍をはじめとする高位な武士が住む江戸に送り、関西は食べるコメが欠乏した。

昔から幕府(政府)の行うべきことは,治山、治水、食料充足が主たる政策であった。

近代社会において主食となるコメが2倍の価格となり、不足するような四角四面な対策しかとれない政府とは・・・・

その時、一人の善良な下級役人が義憤に感じて動き、庶民のために法を超えて天皇も動いた。



天明・天保、あの頃も天変地異は多発して人心は乱れた

だだ、民の窮状を直視し、禁中並諸法度を越えた英知で人心を整えた賢帝や国母がいた。

それは民の依頼心や皇位の謀でもない醇なる忠恕心だった。

真の学を作興し、ややもすると慣性に緩む宮中を整え、世に公徳心を喚起した。

その威の力は、経年劣化に堕した幕府(政府)の軟弱さを露呈させ、民の離反を招いた

国風に新たな清涼感を抱かせるには、物や便法ではなく、縦軸である維を新たにする忠恕の心であった。

それが大御心に応ずる民(大御宝)の強固な国なるものの紐帯なのだろう。








以前、日本の道徳的移風は王政(道)復古でなくては、との考えを記したことがある。
文字解釈での多論はあるだろうが、「移風」は現状の民情なり、その方向性や価値観から導く政治なり経済、そして教育の雰囲気や流れを好転させることだ。

以前の章では道徳的移風については王政復古と書いたが、時代錯誤と非難かつ嘲笑された。王政の何処が、と切り取り反論をされても納得するものもなく、かといって天皇に政治権力を委ねるものでもなく、だだ、現状の政治形態にある権力者に慎みがなくなったとき王政の由縁となる「王道」に取り付く島をみるのだ。

己の薄弱さと人生すら完結できそうもない庶世の民として、天皇の姿に何を描くかはそれぞれだが、不特定多数の人々に対する人間の姿として垣間見る行動は、世俗にまみえる処士として、どう見ても近づくことのできない異次元の姿として映るのだ。

たとえ、土佐の賢候山内容堂が無頼の衆と切り捨てた薩長が大義を取り繕うために内裏から世俗にお出まし願い、歴史にもない軍服を着せたこともあるが、また古今の歴史に利用されかつ権力の形式的装飾に用いられたとしても、平成の御世における天皇の大御心を体現する姿は、まさに王道の心をみる観がある。それは忠恕心だともいう。

それを伝統だというのは容易いが、人間はそれができると思うだけでも意味がある。
また、教育においても単に数値選別されて望みの職掌を得た位上人でさえ、及びもしない観念や、庶民から見ても驚愕とも思える所作にも、処世で当然考えるであろう、小欲とは異次元の大業に向かう超克した心情が読み取れる。






昭和天皇


ときに、昨今の選良の態度や輔弼としての宰相と官吏の姿を見ると、どうしても大御心を忖度した行動が読み取れない。処世の人々からすれば一種の軽さを感ずるのだ。
いくら民主や法治と謳われても、そこには収まらない安堵と鎮まりがある。

以前、少し不敬な依頼心を抱いたことがある。
皇室の奥の語り部として重用された卜部亮吾氏(侍従、皇太后御用係)が良子皇太后のお付きで葉山の御用邸に赴くとの連絡があった。筆者とは洒脱な関係だったので「サッポロのビールを差し入れします」とお伝えしたところ、「ビールは輸送でゆすられると、しばらく間をおかなければなりませんね」と氏らしい洒脱な応えがあった。氏は銀座七丁目のライオンビヤホールでの泡友仲間ゆえのビール薀蓄だった。

ところで皇太后様はお元気ですか」と問うたら「お変わりありませんかの方がいいですね」と返された。

浜辺を散歩なされますか」と聴くと「補助を必要としますが」とのこと。

「ならば、皇后陛下がお手を添えれば今どきの家族それを見習い、それが周知されれば政府の扶養費支出も抑えられます。なによりも国民のムーブメント(運動)となれば、国柄も変わりますね」これが少々不敬な願望だった。

妃殿下ご自身で養育すれば、ベビーカーはどこの製品、衣類はどこの店,帽子はどこのブランド、と世の婦女子は騒がしかった。そこで世俗では嫁が義母の車椅子を押している微笑ましい姿を見倣ったら保護費も抑えられ、家族のきずなも強くなるとトンチまがいに考えた拙意だった。

陛下を活用することを過度にタブー視する向きもあります。もちろん政治にコミットすることも問題となります。

でも、御姿、しぐさ、お気持ち、といった人間が学ぶ対象として活かすことは陛下の意にも沿うものだと思います。

よしんば弛緩した政治家や官吏に対して

「政治は目立たない処を慎重に探り、つねに不特定多数の安寧を心掛けるよう」

と、お言葉を発したら、処世の人々は縁に依って来る苦難や煩悶にたいしても、自己における時と縁の巡り合わせだとして為政者に反目しなくなるはずです。

国民が真摯に政治に応ずれば、権力を運用する政治家や官吏も覚醒するはずです。それは国情の雰囲気を変えることにもなります」






卜部皇太后御用掛  小会にて 

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1


それは縁あって日本に棲む人々の心の中に描いている長(おさ)としての立場を認知している世代が存在する間にしか効力がないことです。

次世の御代が変われば威も徳も薄れるだけでなく、認知すら軽薄な関心しか持てなくなるかもしれません。

欧米のような私生活のスキャンダルやファミリーへの愛着はあっても、畏敬の存在ではなくなることもあります」

動物でも群れの長(おさ)を失うと羊飼いに連れられ、犬に追い立てられる羊のようになります。

郷や国の防衛とて、武器道具を揃え、財を駆使しても人々が連帯を失くしたら、防衛力は弱くなります。

なかには「小人は財に殉ず」のごとく、危機を察知したら責任回避するものも出てきます。

また、間諜も現れます。その内なる反省は70年前に体験しました。」

筆者がせめてもの皇室の「奥」に職掌を持つ卜部氏に対して答えを必要としない呟きごとであった。毎年のごとく節期の激励文をいただき、小会(郷学研修会)の道学に添い、天聴(天皇の知るところ)に達しているかのように至誠ほとばしる督励清言は、あえて意を表すことに逡巡すらなかった。また不遜にも卜部氏を通じて、゛あの御方ならわかっていただける゛、そんな下座からの気持ちだった。

そんな想いも世俗に晒せば、「自由と民主の時代に・・・・」との誹りもある。
その自由と民主の仮借がさまざまな分野に善くない影響を与えているから問題なのだ。

どうも表現が今風でなく稚拙らしい。仮にも定説なるものとアカデミックな論拠を書き連ねれば、いくらか数値選別エリートの反駁にも贖えるのだろうが、そこまでの知能力も耐力もない。いや、関わりになると問題がより複雑になってしまう危惧もある。







  義士 大塩平八郎


江戸、天保の頃、飢饉が襲った。江戸の役職や御家人は強引にも地方から米の上納を図った。江戸御府内という体面もあったが、物が動けば利を生ずるように、お決まりの御用商人と担当、責任官吏の賂も問題だった。私塾洗心洞を主宰し、かつ奉行所与力職にあった大塩平八郎は道学の士を募って豪商の打ち壊しを義行した。

令和のコメ不足に比べると   

減反をすすめる政治政策  国内は不足だが海外輸出は伸びている不思議

 

以下ウィキペディア転載

≪前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。

そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。

一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。≫

 


中央 安岡正明講頭  右 卜部皇太后御用係  於 郷学研修会

 

それ以前の天明の飢饉には一つの出来事があった。
庶民は、幕府は頼りにならないと京の天皇に直訴した。天皇の忠恕心に委ねたのだ。

光格天皇は窮状を知り即座に備蓄米を供出を幕府に問うた。率先して動いたのは後桜町上皇だった。

いっときは一日に三万人の庶民が御所に集まり、周囲約一千メーター余りを周る「御所千回周り」を行なった。

御所の周囲を流れる溝を掃除して清水を流し、上皇は数万個の果実を配った。他の宮家はお茶などをふるまった。

そのお姿は、その後代の孝明、明治とつづく天皇の現示的イメージとして、大政奉還、討幕維新と流れる時世を暗示する天皇の仁を添えた賢明な行動だった。






後桜町上皇



元々は民生の政治は幕府専権である。天皇が備蓄米の供出を関白をとおして京都所司代に命令を伝えることは禁中並公家諸法度に触れることであり、大問題になることだった。

その後、大塩の決起があった。天保は仁孝天皇だった。天皇は天明の件を一例として関白は京都所司代に対して救済策をご下問している。ここでも江戸の幹部用人の無策が露呈している。

江戸幕府ができてから朝廷が幕府に物申したのも初めてだが、しかも天皇をはじめとする上皇や公家の積極的救済は、たとえ「禁中並公家諸法度」という制約があったとしても、民を救済することに何ら幕府に遠慮することなく、怯むことのない皇道(すめらぎの仁道)を顕示する叡智と剛毅がある。



 

平成天皇が鑑とした光格天皇




そもそも存在する立場の役割として、民もその姿を認知し、かつ深層の情緒に溶け込んだ姿は普段の民生には隠れた存在だ。施政は幕府専権であり責任ある為政者だ。勤労の果実は年貢として徴税する。

しかし、一旦事が起こっても何ら問題意識もなく、埒外な政策しか執れないようでは、民は天皇の威と忠恕心にすがるしかないと、当時の民は考えた。そこに意が向くことは当然であり、今でもそれは威能は有し、行動は可能だ。なぜなら民の存在を大御宝(オオミタカラ)と称し、その民の良心の発露である「人情」無くして国法は機能しないからだ。制度はともあれ深層の国力である人間の情緒性は、政治機能とは別の意味で、直接的黙契の関係が厳然としてあるようだ。

幕府用人とて慣習とはいえ綱紀の緩みに対する問題意識すらなく腐敗堕落して、迫りくる欧米列強の植民地を企図する勢力との対応にすら窮するようになった。

現状追認、後回し、事なかれ、責任逃避、そして下剋上。

それは平成の御世に再来した現状とあまりにも類似した集団官吏の姿ではないだろうか。

しかも、その甦りなのか縁の再復なのか、天皇の姿が明らかに変わってきた。いや、変わったのは市井の人々の覚醒と蘇りへの愛顧なのかもしれない。








震災地への巡行、戦災慰霊の旅、津々浦々の市井の人々との交流、そして再び惨禍の兆候を察知したような言辞と国民への配慮は、あの大塩の抱いた正義と忠恕による人心の安定を共に願い祈る、皇祖仁孝天皇の宗旨(皇宗)に沿う、意識の伝承のようにも映る御姿でもある。

世俗は家族を基とした内外の社会生活に煩いを多くみるようになった。生産や消費、そして成功価値の変化や人生到達への茫洋さなどが混在して将来すら計れなくなっている。それらは苦情やモンスターと称される表現でしか表れる姿ではなくなっている。

当時の大塩とてそのような世情の姿に決起したのではないが、掴みどころのない浮俗ともおもえる時節に、問題意識を描く諸士は少なくはない。さりとて、゛どうしたら゛と暗中を模索するのみだ。





上賀茂


そこで筆者は今上陛下の発する大御心に沿うことを提案する。それは真似る、倣うことでもある。

応答辞令、仕草、言辞、様々だが、先ずは慎重に意志を読み取るべく鎮まりのある行動をすべきだろう。だからと言って崇拝主義やファン気質になることもない。姿を見せて膝を折り語りかけるだけで我が身の変化を感じられることの不思議さを我が身に問いかければよいことだ。宰相が百万言を弄しても届くことのない我が身の是非の感覚を探ることだ。

それが、普段は感じられることでなくてもよいが、何かあった時に想い起していただきたい存在でありたいとの応えに対する市井人のほどよい立場だろう。そして即位の宣誓に「憲法を遵守して・・」と、厳明した言葉を公務に嘱する人々に最も理解してほしい。

民主主義を仮借した政治なるものが、運用者たる為政者によって暫し混迷している時世に、国民は、゛あの御方ならわかってくれる゛それを護ることに何の衒いもない国民は多いと思う。

だからこそ形式的認証であっても、その受任者たる輔弼(政官)を教化して欲しいと、またもや依頼の心が興るのは自然の姿ではないだろうか。今ならまだ間に合うと思うのだが・・


一部、参考資料は関係サイトより転載。イメージも一部同様に転載しています

浮世はなれした切り口ですが、ご感想はコメント欄にいただければ幸いです。

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異なることを恐れない意志 08,8再

2025-03-24 07:56:18 | Weblog

     粛軍演説で国会を除名された 斉藤隆夫氏


国際主義、平和主義、平等主義
耳障りのよい文字配列だが、そこに自由主義、民主主義、はたまた経済構成を消費資本主義と管理社会、それらをミックスすると現代社会のようになり、茫洋としたなかで目標を描こうとしても、情報という便利魔物にかき回され、確かな答えがうっすらとモザイクを掛けられたような、まさに混沌とした状態が導き出される。

そもそも「主義」なるものをみるに一例がある。
戦前の碩学といわれた大川周明の日記の一章に、近頃、主義と冠するものが増えたが、往々にして主義業のようなもの・・・」とある。つまり食い扶持を賭して主義を唱えていたのである。

国際の云うところ、ボーダレス。平和が謳われると戦争への道程。平等は特徴を無くし却って不平を生ずる。自由は放埓、民主は分裂、消費は贅沢を生じ、管理は奴隷化の端緒、情報はハナシの充足感。

変わり者の切り口だが、人間を知らずば、そのようになること必然である。
そこには必然を意図する者もいれば、未然に考えるものもいる。

バーバリズムを幾らかでも文明に親しもうと知識を仕入れ、物腰を自制して、妙な成功価値を与えられ文明人を気取っても、現代の多岐にわたる忌まわしい現象は防ぐことは出来ない。却ってバーバリズムに内在する、ナチョラル、ピア、つまり素朴で純粋な人間の在り様が欠け、問題意識もなく危機に鈍重な人間を作り出してしまう。

不謹慎な戯れ話しだが、以前政党の世界について外国人からこんなセリフを聴いたことがある。
社会党は「斜解党」、公明党「混迷党」、共産党「共惨党」、自民党「自眠党」
主義業もそうだが、「党」も旧字には「黨」、黒で表す悪を賞する人々の集まりだと隣国の諺言にある。

「業」それを掌る「党」も似たように衆を恃み(数や勢力を当てにする)特徴を埋没させ、しかも大義と称して主義を唱え、人々を一定の檻に閉じ込め、それが世界だと思考さえ狭くさせている。

我国の情緒を著した本居宣長のいう「もののあわれ」を超え、哀しさと共に「悲哀」すら感ずる文明の姿のようだ。

明治以前はこのような文明観にもとづく「業」も「主義」もなかった。それは「分」を弁えた人たちの気概や規のなかに包まれ、「党」といえば悪党に限っていたと記憶している。たしかに善党はない。

西も東も左も右もと騒がしいが、独り鎮考すると「どのようなことを」「どのような人と」語り合おうかと、ふと心が前に進む。

そういえば安岡正篤氏は
「往々にして世の中を変え、歴史を動かすのは一握りの変人の集いだ・・」と
そして
「それには、無名で有力な人物になることだ。いまは有名だが土壇場では無力なものが多い。また今どきの学問もそのような人間を粗製乱造している」

無名を誇り、異なることを恐れない人物は、名利、財貨の成功を二の次にして己の矜持を高めている。


西郷
金も要らぬ、名誉もいらぬ、このような人間は困ったものだが、イザ(危機に際して)となったときに役に立つのはこのような人物だ」と回顧している。

確かに西郷、安岡も、人と異なることを恐れない言を歴史に標している。

コメント (2)
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