まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

塩田丸男さんとナベツネ 【ピースと電柱】 07 6/8稿再

2011-11-25 08:58:34 | ふぞろいの写真館
              塩田丸男氏(浜離宮にて)


世に、社長になりたくて成れることは数少ない
あのナベツネこと読売の渡辺恒夫氏はそう言って社長になった。

辞めたら寄り付かない、つまり悲哀をかこう瓦版屋の世界では蒸されたような味がある。
筆者がみるに、あの落合博満氏もその香りがする。
人の観方や切り口だが、あの二人が附属性価値である地位名誉をかなぐり捨てた立場で杯を傾けたら、肝胆相照らす酒宴になるに違いない。

嫌われ者、変人、彼らにとっては酒の肴か笑いの具だ。
今、そんな人物がいなくなった。

あのダジャレの帝王と自称する塩田の爺さんも、和服のみやつ口には目がないが、ナベツネさんや落合さんにはその色はない。かといって塩田氏のそれは助平ではない。いたずらな情感が溢れているのだろう。

そう、みないたずら小僧が大人になったようなものだからだ。

どこか懐かしい人間模様のようだ。




石(意志)にかじりつく


ここのところご無沙汰だが、塩田氏は洒脱な物知りでチョット恐妻・・・、いゃ愛妻家です。
80?才ですがエネルギッシュで午前様は何のその、また俳人として多くの弟子がいます。

読売新聞の記者であの元気印のナベツネさんとは記者仲間。若かりし頃新橋の「電柱」という飲み屋でのこと猥談ならぬ猥行為を楽しんだという。
塩田氏はピースの空箱を輪にして一物を入れ窮屈だったと太さ自慢、ナベさんは店の中にある電柱の後ろで一物を前後すると電柱からはみ出る長さ自慢。

当時は黒塗りの社用車に社旗をはためかせて取材?していた特権記者。
ナベツネさんは当時から「俺は読売の社長になる!」と喝破していたという。その後、丸さんは荻窪団地に住んでいた頃NHKドラマの小説からデビュー、ナベさんは読売政治部の金看板を駆使して今の位置にあるが、当時のやんちゃは今も抜けず巷間の耳目を楽しませてくれる。

塩田氏は和太鼓の演奏に立ち上がって「腹に響いた、感動した!」と顔をくしゃくしゃにして感涙していた童心は自然で素朴な文書になり人を楽しませてくれる。

美麗な女性を取り巻きに持つのもそのせいか・・
奥様には内々だが
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日本人はどこに

2011-11-13 12:58:10 | Weblog
寶田時雄氏の「請孫文再来」の抜粋を紹介して、昨日の伴氏の撰文の参照としたい



いま、TPPという外交交渉に耳目が集まっている。いや国内事情を考えれば、目を転じさせられていると考えたほうがあてはまるだろう。経済界、農産物、国民生活、と呼称は色々だが、政治への不信や、官民の待遇への不満、そして外圧への恐怖感など、部分の争論がTPPに集約され、あの原発への恐怖、震災被災地への側隠の心など忘れたかのようになっている。ともあれ生活という食い扶持と既得利益の収得構造の変化への、描けない将来への争論である。

バナナの叩き売りが、バナナだけを並べて、「裏も表もバナナだよ、ええぃもってけ」と威勢よく口上を述べられ、所詮バナナしか選択肢がなく、ことさら食べたくないものを大量に買わされるのと似て、「ことわざや」や「タルムード」の知恵の世界のようでもある。

とくに可否は歴史の考証をふまえ、具体的には国家間の勢力を勘案した交渉によるものだが、どうも山を見た谷を見ずのような野田君の動きである。まさか匕首(あいくち 刃)を突きつけられて腹話術師に言わされているのではないかと、そのほうが心配になる。

ここで参照とするのは孫文と鶴見祐輔の応答である。







「請孫文再来」 

≪日本人はどこに≫


 山田純三郎はことごとく曲解され,命まで狙われた純三郎の心には、そんな肉体的衝撃の危機にも増して,孫文に付き従い恵州で捕らえられ「日本人」だと告げれば死を免れたが、あくまで「支那人だ」と言い張り斬首された兄,良政の意志を、孫文に共鳴する独りの日本人の志操というだけではなく、独立した真の日本人としての矜持をもってアジアの将来に献じたものだと映っている。
 












孫文は革命に殉死した兄・良政の志操を懐かしみ、終生、弟・純三郎を側近において、ときには叱り、あるときは激励して共に歓喜した孫文は、純三郎にとって革命の指導者であり、人生の師であり慈父のような存在であった。
 
それゆえ、国際人となった純三郎なりの先見の推考で提言しても、日本に受け入れられないもどかしさは、とりもなおさず日本の衰亡への道筋でもあった。身を賭した諌言が国賊として身を襲撃にさらさなければならないとしても、あるいは国策の遂行やアジア解放の大義だとしても、山田にとって日本の将来起こりくるだろう惨禍の予測は無念となって重なった。
 
“ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。




孫文の強固な意志

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。
 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」


 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で

「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。

それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。

日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。

過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。

日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」



「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」


 孫文は毅然として

「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。

北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。

北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。

それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱で

す。

一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」


 

鶴見は問う。

「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」


「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。

列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。

私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。

それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。

それはなぜか、日本を愛するからです。

私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します



「また東洋の擁護者として日本を必要とする。

それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。

自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」
 

(アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)




「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。

私は日本を滅ぼすに忍びない。

また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」


「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき

国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」




 日本の対支那外交について問う


「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えにな
るのですか」


「それは必ず統一できます」


「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する


「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。

支那の混乱の原因はどこにあるか。

みなこの私です。

満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。

我輩です。

袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」


「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。

しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。

ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。

ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」


「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。

だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」






当時の代議士は命懸けだった


 
        浜田国松代議士の腹切り問答   軍、軍官僚への増長への抵抗





        斎藤隆夫代議士の粛軍演説    国家方針への疑問




「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。

日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。

日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」


「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。

私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。

そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。

それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」


「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。

“日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。

そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。

日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。

彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」



「しかし、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。

あれほど慕った東洋民族の力になったでしょう

か。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。

日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってく

れなかったじゃないですか…」




日本は東洋民族の保護者として


「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。

ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。

日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。

北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。

そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」





「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。

そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。

それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。

それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。

支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」



真の日本人とは


 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。
 
 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。
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萬晩報の伴武澄 久々の一声

2011-11-10 22:59:08 | Weblog

岩木山    左 大塚寿昭氏 右 伴氏


「萬朝報」の向こうを張って「萬晩報」を主宰する伴武澄氏が、元の棲家であった共同通信を卒業して出身地の高知に戻った。
以前といおうか昔のことだが、まだネットが盛んでない時分に「京都霊山の坂本龍馬の墓に何日の何時に集合」という知らせが入った。東京、横浜、関西から好き者が集まって遊んだことがある。みな初対面の連中だった。

以来、「Think アジア」を提唱して台湾に有為なる人探しに行ったり,彼のライフワークになった賀川豊彦氏の由縁を訪ねて神戸を訪問したり、津軽弘前には歴史の縁を訪ねて深雪に戯れ、まさに人生色々を体験した。

当時経済部の伴、総務省補佐官の大塚氏、経産省の某氏などとの手弁当の旅だった

また寶田時雄氏の備忘録「請孫文再来」をホームぺージにして多くの読者を集めたのも、伴氏と友人の大塚寿昭氏である。

今回、元経済部の賢察から腹話術のドジョウの考えに切り込んでいる。
食い扶持に囲われているときは、なかなか見られなかった筆力だが、もともと構想力と気概がある氏のことゆえ,多方面での活躍が望まれる。

そんな的確な着眼に敬意を表して転載させていただきます。





  弘前市幹部との押しかけシンポジューム  左 伴 





  国の無駄遣い4200億円で賄える震災復興
            
                2011年11月09日水)萬晩報主宰 伴 武澄

 最近、意味の分からない議論が多すぎる。東日本大震災の復古財源に充てる復興
債の償還期間が25年に延長されることで与野党が合意した。そもそも復興債の発想
は「次世代に負担させたくない」(野田佳彦首相)ということから始まった。当初
10年で返済するはずだったものが、自民党の要請で25年に延長されてしまった。

 与野党の合意は歓迎すべきことだが、25年となれば、確実に次世代に引き継がれ
ることになってしまう。そうなら、あえて「復興債」などという仰々しいことをし
なくても建設国債でも赤字国債でもよかったはずである。この間の与野党の議論は
なんだったのかと思うととたんに疲れが出てしまう。

 一方、会計検査院が野田首相に提出した2010年度の決算検査報告書によると、税
金の無駄遣いは約4283億円だったそうだ。金額で2009年の1兆 7904億円に次いで
過去2番目に多かった。ちょっと待て。東日本大震災の復興に使う11兆2000億円を
25年で割ると4480億円。国の無駄遣いとほぼ同じではないか。政府が無駄遣いをや
めれば、復興債など出さなくとも賄える金額ではないのか。



 そんなに毎年、巨額の無駄遣いが出るわけではないといかぶる向きもあろうと思
うが、実は2006年度までは数百億程度だった無駄遣いの指摘が翌年度から千億円の
単位となっているのである。2006年度310億円だったのが、2007年度は1253億円、
2008年度は2364億円と続く。

 これは消費税増税の議論の中で「まずは無駄遣いをなくせ」という与野党の機運
が盛り上がり、会計検査院としても本気にならざるを得なくなったからである。民
主党の仕分け会議でなくとも、公務員でもやろうと思えばできることを証明してい
るのである。


 野田政権は何もやらない政権かと思っていたが、なかなかしたたかである。とい
うより従順である。消費税増税、TPP、復興税、普天間・・・。官僚の振り付け
のままに中央突破を図ろうとしている。官僚の議論はある意味で緻密に積み重ねら
れているから、国会の論戦でもたじろぐことはない。ちゃんと答弁書を用意してく
れるから心配もない。

 官僚のへりくつに従って、後は馬耳東風を決め込んできたのは歴代の自民党政権
だった。その自民党の手法を真似ていれば「政権の安定」が図れると考えているの
だとしたら、それは偉大なる勘違いであろう。脱官僚を目指した民主党が官僚に完
全に取り込まれている姿はいかにも痛々しい。

 よく考えてみよう。国民の前で一度だって公言したことのない「消費税10%」の
議論を野田首相はカンヌサミットで「国際公約」だと約束してみせた。「税と社会
保障の一体改革」で財源である消費税増税議論を進めながら、肝心のどういう年金
を目指すのかの議論は止まったままなのである。

 消費税増税によって民主党のマニフェストである税金による基礎年金の負担がで
きるのであれば、国民の一定の理解もすすむだろうが、今回の消費税増税によって
改善するのは「財政」だけとなれば話は別である。

「税と社会保障の一体改革」は完璧なまやかしとなる。(伴 武澄)
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天皇陛下は国民に語った

2011-11-07 14:48:15 | Weblog


昭和二十年八月十五日、終戦の詔勅は発せられた。
「万世のために太平をひらかんと欲す・・・」
開戦時には明治天皇の和歌をひいて「四方(よも)の海・・・」と苦渋の心を表している。
それ以前は、漏れ伝わるに二・二六の時に、「朕、自らが討伐すると・・・」
あの時は現人神(あらひとかみ)に奉(まつ)られたが、今も変わりなく陛下は言葉を選んでいる。ときに国民には言霊のようにも感じられることもある。

園遊会では「あ、そー」と、少し甲高いお声を聴くことができるが、応ずる言葉に滑稽な逸話がある。それは入江侍従長が逝去されたときのこと・・
「入江は食べすぎだったのか・・」
筆者とビール仲間だった後任の卜部侍従の軽妙な語りである。
たしかに入江さんは健啖家だった。陛下の観察は鋭い。
陛下は軽妙洒脱だったと卜部氏は語る。後で考えると着眼点が異なることに気がつくという。しかも聴くものを鎮考させることが多いという。

「陛下、雑草を刈っておきました」
『名もない雑草だからと云って、むやみに刈り取らないように』

「今年の夏は涼しくて過ごし易いです」
『東北は冷害が心配だ』

至極真っ当な応答だが、なかなか返せないお言葉でもある。

あの碩学と謳われた安岡正篤氏にもそんな体験がある
園遊会でのこと、昭和の陛下は安岡に向かって・・
「勉強していますか・・」
世間では聴くことはないお言葉だ
最終官歴は税務大学校長の長男正明氏も平成の陛下に・・
「勉強していますか・・」
安岡家親子二代にわたって「勉強していますか・・」は、陛下ならではのお言葉でもある。












次代の平成となり、東北の震災に際して陛下はビデオでメッセージを発せられた。
国民に発する激励メッセージではあるが、共にわかちあい協働しようとする内容だった
想い起せば、教育勅語も陛下みずから先頭に立ち、共に学び、ともに援け合うことを勧奨していた。

陛下はあるときの記者会見で、こう語っていたと覚えている。
自分の立場としては、いとも簡易に、しかも客観的に・・・
『普段の生活ではなく、何かが起きたときに想い起す存在であることが望ましい』

文は経国の大業にして・・、と魏の文帝はいうが、国民は言葉の応答も鎮まりのなかで心機(シンキ、心の動き)を促すようだ。落ち着いて静かに語り、考えて応答する、そんな関係でこそ「鎮護の国」の姿なのだろう

時間に急がされ、騒々しさと説明責任の強圧から生まれるものは、人心を微にして互いを離反させる。親子、教師、国民と政治家、みな疑心暗鬼になっている。
そうすることを企てとしている者がいるかのごとく、人は易々と遊離する。

たしか「神と精霊への心を奪い・・・、思索と観照の暇(ひま)を与えず・・・、自由と民主によって社会を瓦歴解させる・・・、金を偶像視させる・・・、人情薄弱の世にする・・・」
彼らの計画にはそう書かれていた

ときに心耳(しんじ)を澄まして聴いてみると、在ることさえ気がつかなかった、いや気がついても誰にも見せられない秘奥に護られている心宮の精霊が新たな甦りを起すようだ。

いっそのこと「朕、自ら社会の悪弊を絶つ・・」と、人間の尊厳を毀損する糜爛した種々権力の覚醒を促すお言葉が賜れれば、人心も転化するとおもうが・・
コメント (2)
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