日本の近代化は明治の王政復古を掲げた維新だと教えられた
それは徳川幕閣の経国能力の適応に疑問を持った薩長をはじめとする雄藩が立ち上がったと歴史に記されているが、彼らとて名目や大義をつくろっても下心を隠すほどの効果もなく、京都に坐す「玉(ぎょく)」と彼らが称していた天皇を推戴して王政の復古を掲げて倒幕をした。
それが彼らの身分や利権にどのような影響を与えたかは研究者に委ねるところだが、民衆からすれば推して知るべしところだ。
あの西郷でも「この様な国にしたくはなかった・・」と言わしめたその後の体制だが、まさに昭和二十年までその風は続いた。
賢候と謳われた山内容堂は「もともと無頼の徒の集まり」と揶揄した。西洋かぶれと成り金の支配層が「玉」を巧妙に奪取して名目を整えた政変という意味だが、官吏や政治家の、゛人と成り゛は江戸の御家人とは変わりはなかった。
まして武士の継続した習慣性を野暮で古臭いと切り捨てた無頼といわれた下級武士の行儀の悪さは,士の矜持すら忘却して「玉」として利用した天皇に軍服を着せた。天皇も有史以来の禁を棄て洋装の軍服に袖を通して形式的にも軍の統帥まで行った。
国際的情勢も今とは違う。また理念はともかく押し寄せる外圧に抗する姿としての時世は已を得ないことだったが、自制することを「怯え」「逡巡」と、妙なところで武士の禁忌を拾い出して国威伸張のスローガンのもと群行した。
惨禍の中、親への孝、天皇(国家)への忠などが綴られた逸話がある。小生も先覚者に頭を垂れ感涙を禁じえないが、政治の無力、軍官吏の机上戦略と手前勝手な数値合理の追求の情勢基盤にあった彼らの経国意志とは敢えて別の位置として考えるべきとおもう。
一例は田中正造の天皇直訴、二・二六動乱の青年兵士の純情などは、あの無頼の徒が謳った王政復古の謀りとは異なる醇なる依願として、また天聴に達して大御心によって正否を明確にして戴きたいとする切なる願いだった。
つまり、軍の動向に現状追認する政治家、いまなら官吏に丸なげ政策されたかのような箇条を読み上げて名利に邁進する政治家、加えて安定収入の保全と官域を広げることに狡知を図る官吏や、救済を掲げる宗教界の政治リンクと組織利権の保全、あるいは公徳を亡くした経済人の醜態にたいして、真に依頼すべき人物として、吾が身を慟哭させる存在に依願を求めるのは、縁あって日本に生まれ、これも縁によって棲み分けられた郷里の疲弊に勇を試みる若者が大御心に認知を委ねることは極、自然なことだ。
いわんや、あの無頼の徒が王政の正きを謳い、忠恕の在り様を体現する「玉」だと民に広く認知させたなら、あるいは議会の開会を宣し、褒章の御璽を押し、内閣を認証する意が存することを周知された国民なら、くわえ赤子として戦地に靖んじて身を献じた防人なら、今現状を覚醒していただきたい、あるいは大御心の有効なる姿を拝したいと思うことは当然起きることだ。それは安寧な生活を営む国民の真の願望であり、毀損する群れの退治は国民の依頼心を別とした責務でもあろう。
聖徳太子が十七条に託したものは単なる官吏の就業規則ではない。
何れ彼らが天皇の補弼を屏風に権力を構成し、豪族や宗教家がそれに倣い衆を恃み権力を構成し、民の尊厳を毀損するであろうことを危惧して彼らに向けた矩(規範、法,等)を制定したのだ。
しかも推戴されたものを護ることが、彼らの恣意的作為で、寄せ付けない、耳に入れない、ことによって専横を始めたのは歴史によくあることだ。
王政復古は解りやすいが、内容は明確ではない。二・二六の時、天皇は叱責して自ら動こうとした。しかし、以来、立憲君主ということで政治に口を挟まなくなった。また、そのありように都合が良かったものがいた。統帥権を弄ぶものたちだ。やはりは威力があった。
無名有力とはあるが、天皇は有名、無声、忖度として様々な形で融通無碍に利用された。だが奥に隠されたような陛下の沈潜、鎮護の涵養された安寧への祷りは、まさに心情において国民の直接交感であり、それが、いかに為政者がその王道とは似ても似つかわない現実政治の統治にはときに存在を忘却しようが、あるいは覆い隠そうとしても、それゆえに民はより陛下の存在に接近するのだろう。
被災地に大衆が選択した代議士によって選任された総理が行けば、「いまさら何しに来た」と罵倒され、可哀そうなことに高学歴無教養な官吏や企業重役の露払いに怨嗟の念をもつ国民のターゲットにされる始末だ。
誰が見ても「わかっていただいている」と感ずるものが国民は欲しいのだ。
妙な例だが、自由と金を与えた子供が、本当に欲しいものが解らなくなったあの「理由なき反抗」と似ている。お父さんは働き、母はいつも口喧嘩して子供をステージの高いところに上げようとする。それが子供のためと思っている。子供は無謀な遊戯に走り補導される。刑事は問いかけると青年は泣きながら吐露する「お父さんがお母さんを叱る勇気があったなら・・・」と、奥底にある理由を告げる。
国民も文化的といわれる生活になじみ、便利性に誘われる、しかし、どこか空虚だ。それは身の丈にそぐわない欲望に物質が届かないためだけではない。ただ、見せられたことのない本当の安心とはどのようなものか想像しているのだろう。
稼業博徒が疑似親である親分や女将さんに従順として随い、生徒が教師を恩ある人と慕い、陣傘代議士が派閥や党派の領袖に忠誠を励むように社会に出れば烏帽子親が必要になる。それが縁あって集まった群れの自然な習性だろう。
ならば宗教は教祖があるように国家にも国父や国母といわれる存在がある。そして由縁の背景とともに、国の父なり母なりの言辞なり動きを待ち望むようになる。あるいは拙速にも嘆願したり、行動を請うこともある。あくまで不特定多数への普遍と忠恕を表す大御心の発動を願うためだ。
これを近頃は政治的利用と括るが、往々にしてそういう輩が利用しているのだ。
神話にあるアマテラスがお隠れになって漆黒の闇になったとき岩戸を開けるものの出現だ。
逸話だが、岩戸を開けるために騒がしくも裸踊りをする神々がいたというが、これも不敬で行儀が悪く、神を辞任しろと言ったのだろうか。裸踊りだが、下着もないころ、乳房は上下左右に揺れ、裾はみだれ女陰があらわになったというが、現代人のスキャンダルも真っ青な神々の乱痴気騒ぎである。現代の皇室もユーモアの許容量はあると聞く。あのグルメ嗜好の入江侍従がなくなったとき陛下は「入江は食べすぎだったのか」と呟いた、とは皇室の語り部、卜部皇太后御用掛の筆者への逸話。
国民が望むのは暗く視えない世でなく、明るく照らされた世の希求だ。
しかし、現実社会は開けることを妨げるものがいる。
昔からその不特定多数への貢献責務は形式権力に安住する群れからは「なじまない」「不敬」だと迫害され、ときに捕縛される。
千葉の佐倉宗五郎、大阪の同心大塩平八郎などの義狭は今でも語られるが、当世は世間を渡れば誰にでもあろう些細な瑕疵や色ごとで義狭すら不埒な謀りごととして忌避される。
議員なら「辞職せよ」となるが、翼賛政治の頃、齋藤隆夫は国会の粛軍演説で除名された。
さわらぬ神なのか、齋藤を庇うものもいなかった。しかし兵庫の出石の選挙民は最高点で再び議会に送り出している。
「軍は聖戦というが・・・、国民は何のことか解らない・・」と言ったまでだが、議員としては当然なこと。軍人は戦地で倒れた兵士を愚弄すると怒り、議員は唇寒しだ。
いまは外国勢力の狭間でポチになり、ときに空威ばり、なかには4000億がキャッシュで銀行にある、すぐ出せる、だからオリンピックは東京で、と叫ぶ輩もいるいまの日本だ。
治安機関は不祥事、検察も意気消沈、官吏は不作為と慇懃、政治家は落ち着きもなく騒がしい、これではあの御方の大御心にすがることしかないと国民は考えている。
また、その威力は驚愕感動をつうじて、あの東工大の碩学芳賀教授が説く、高学歴無教養の官制学歴では到底修得できない人間の姿と浸透された教養を感じている。その文字の意味さえ知らなかった「畏敬」さえ覚え、拝する国民も増えている。
「自分には真似できない」、それでも存在は大きくなっている
先ごろ山本議員が天皇に書簡を呈上したということで問題になっている。
昔なら封書にしたため、手渡しではなく腰を折って、あるいは膝を折って両手で呈上するが、若者の已むに止まれぬ行動だとして目くじらを立てることはない。
なぜなら、被災地で膝を折る陛下の従者が突っ立ったままでその光景をみていることを考えると不敬は言えまい。
巷間、原発反対で俳優業もままならなくなり、種々のスキャンダルに晒されもしたが、彼とて陛下の存在を認知してその威力を知っている。あの台湾の多大な義援は多くの日本人、とくに若者に台湾の存在を認知させた。そして応えようとして模索している。
もし、山本議員が不敬で慣習に馴染まない変わり者でも、「わかっていただける御方」と存在を陛下に求めたのなら、また、震災地や様々な巡察訪問における陛下の姿に現実政治の限界を比してして認知したとしたら、これほど心強い覚醒はない。
いまは仲良し大臣となっている文部科学相も一次安倍内閣では黒子役の副官房でありながら、いつも総理の肩越しから顔をのぞかせていたが、事務担当なから古川貞次郎、石原信男氏のような謙譲の落ち着きはない。議員職とか事務職だとかは問わず、負託された政府要員の姿としては見るべきものがない。
「議員辞職ものだ・・」
まさに脚下照顧だが、どうも時代は代わり制度も変遷し、便利にもなったが、人は変わらない。
もし、移ろいの衆を恃んだイベント選挙を忌避し、国や社会の由縁を歴史に学び、そこにたどり着いたなら、その無鉄砲な匹夫の勇と嘲られても恐れることはない。
なによりも批判される群れは大御心に沿わない連中だからだ。
25 11/2