まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あの頃の米国 職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー

2023-07-30 15:52:33 | Weblog

           

          桂林の子供たち



1998年02月27日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


 ニューヨークに赴任したことのある資生堂の八木さんの、初めの半年の悩みは当時高校2年生だった娘さんのことだった。公立高校に通わせていたが、いつま で経ってもアメリカの学園生活に慣れなかった。

ある日、高校のカウンセラーに「これ以上この学校にいても娘は慣れることはないだろうから、近くの日本人学校に転校させたい」と打ち明けた。


 カウンセラーからの返事は八木さんを驚かせた。「あと一週間下さい。自分なりに最後の努力をしてみたい」。日本語では平凡な言い回しにしかできないが、 英語ではまるでその娘さんを立ち直らせることが自分の義務であり、一週間の時間が与えられることが担当者としての権利のような言い方に聞こえた。

一週間 後、カウンセラーの努力のかいがあって娘さんは見事に立ち直った。

 たった11ドルで得る手厚い教育システム

 アメリカの公立学校の外国人対策は州によって異なるが、八木さんが住んでいたコネチカット州では、英語を第二外国語とする外国人に対する特別の英語クラスがあり、児童や学生に少しでも早くアメリカに慣れてもらうシステムが定着している。

文化や生活習慣の激変で悩む子供たちには専門のカウンセラーも常駐し ている。

 八木さんは言う。「われわれは年間の授業料として体育のウエア代金などたったの11ドルしか払っていないんですよ。なのに外国人に対するこの手厚い教育システム」。ただただ感動した。
 

 

     

   台北 生徒自治会主宰の朝礼

  

   

   北京 1989  6/26

 

 

人種差別が横行し、凶悪犯罪が絶えないのが多国籍国家アメリカの一断面だとすると、外国人の定住への公的支援が活発なのももう一つの側面なのだ。在留邦人で、アメリカの行き届いた教育システムに驚きや尊敬の念を抱く人は少なくない。

 ひるがえって自治体を含め長年、国際化を標榜してきたわが日本はどうだろう。日本語が出来ない外国人に対する特別クラスどころか、制度以前の日本人生徒 によるいじめや村八分が待ち受けている。

アメリカ社会でうらやましく思うことは、外国人だけでなくマイノリティーや障害者を社会に受け入れていこうとする モーメントが常に存在することである。

 アメリカに差別がないわけでない。アメリカを無批判に礼賛しようというのでもない。1960年代前半までは、それこそ白人と黒人とが別々の学校に通うアパルトヘイトが存在する州が多くあった。

しかし、差別をなくそうとする運動は、弱者や有色人種を擁護するアファーマティブ法として結実した。社会の効率を 多少犠牲にしても「正義」を優先したのだ。1990年代に入ってこの法律が逆差別だとする批判もでているが、お蔵入りになるような勢いがあるわけではな い。

 

                 

     日本   縁側の子守っ子  

 

    

                 弘前 こども祭


 ●求められる"異なるもの"を受け入れる度量

 凶悪犯罪の低年齢化や登校拒否児の増加など、日本の教育現場では深刻な問題を抱えている。「外国人対策どころではない」。そんな声が先生方から聞こえそ うだ。

しかし、アメリカだって同じ問題を抱えている。少年犯罪は日本より進んでいるし、スラム地区でも学校の荒廃は日本の比ではない。

 問題は、外国人子弟のアメリカへの定着が、犯罪増加や登校拒否と同じ土俵で論議されているのに対して、日本ではまったく異次元の問題としか捉えられてい ないことである。

 

              

バングラデシュ クミンラの中学校    

   

            子供新聞 交番取材

 

 

真の国際化とは、日本人が外国へ行ったり、外国語を使うようになることではない。誤解があってはいけない。

日本の中で外国人が不都合なく 暮らせたり、法律的にも日本人と同様の取り扱いを受けられるようになることである
 

日本の教育現場が、外国人子弟がすんなり順応できるような環境になれば、きっと日本人の子供だって気持ちよく学校に行けるようになる。

いま、大人にも子供にも日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量が求められている。




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田の草の矜持  2015

2023-07-29 14:45:32 | Weblog




草でも根無し草ではない。

よく国会議員が選挙区を田や畑にたとえて、゛草刈゛だの、゛耕す゛と、あの世界の隠語のように交わせているが、さしずめ民草と呼ぶ選挙有権者の確保、あるいは後援会のてなづけと見るべきだろう。盆踊り、縁日、結婚式や葬儀には必ずといってよいほど顔を出す、つまり顔役である。

この時期になると米搗きバッタの競いだが、逆もある。ある東北の退任された知事だが、結婚式に呼ぶと最低数百万を車代、あるいは謝礼として知事に差し出すという。誕生日には各市町村の主だった有力者が知事の誕生日の宴を各所で開き、ここでも数百万。しかも公共工事を振り分ける際も協力金の提示額次第で、選挙となるとその地方の名を冠して○○選挙として勝ち負けの排他が烈しい選挙が繰り広げられ、負ければ任期中は完全に干されるか、もしくは勝ち組の下請けに甘んじる。

これは根の深い民草のハナシである。ただ表層に養分が無いときはより深いところまで根は伸びて広がる。氷山の一角のたとえはあるが、市町村、名誉職、あるいはPTAの役員まで全てがその調子で、勇ましいことを唱えるが大きな力である役所あるいは議員を面前にするとからきし弱い。「しかたがない・・」これが自己納得の最善の言葉だ。

しかし、それもコレもある特別な位置から観ると数多の特徴ある善男善女だ。国の中には夫々の名称をつけた人々が棲んでいる。地方に事情によって棲み別けられている。批判も怨嗟も有ろうがともかく人間がいる。







青森県弘前市の傑物、菊池九郎は明治初頭の混乱とおりしも襲った冷害に打ちひしがれた人々に向かって「人間がおるじゃないか」と喝破した。そして東奥義塾を創設し外人教師を招聘し、その際りんごの苗木を持ち込み、いまではりんごの郷と海外でも有名になっている。もちろん教え子は陸羯南、珍田捨巳、あるいは後藤新平も薫陶を受け、多くの逸材が海外へも雄飛している。確かに活躍する場としての津軽は充分ではないが世界を住処として青山を夢見た人間を数多輩出している。





菊池九郎



郷に留まって文句や諦めを放っているだけでは、生きる意味も無いだろう。だだ、留まって郷の存在を深層で堅持している人々がいたからこそ、その堅固なジャンプ台からの突破が可能だったとみることも出来る。しかも出て行ったら戻らないことが多い。これもこの地の人は、゛仕方が無い゛とはいうが、深層を堅持する人々が少なくなって役所の都会型模倣改変に呈する具申さえ上がってこなくなっている。そして全国類型のシャッター通りと遊戯店の乱立と駅前のサラ金の光景である。

この田を草取りや種まきという、ある種蔑視のような心もちで済まそうとしている群れがあるが、津軽に例えればあの頃のように山や田をリンゴ園に改変するような開拓意図も無く、単なる票田という選挙区に伏し貪官に媚びる群れの世界こそ、外来の民主草、自由草、平等草の蔓延を助長し、郷の営みの情緒まで融解させてしまった内なる賊の姿である。

民草の棲家は必然性がある。そして宿るものがある。
それは、精霊の存在でもあろう。賢人、熊楠の産土神の守護も鎮守の杜の保護もその意味だ。




                    

                  南方熊楠



よく語られる逸話だが、那須御静養から帰京の折、侍従の「雑草を刈り取りました」との報告に、「名も無い雑草とてそこで生きている。やたら刈り取らないように」と叱責され、或るときは「今年の夏は涼しくて過ごしやすいです」との侍従の言葉についての応えには、「東北は冷害で大変だろう」と発している。

その侍従のいう雑草だか、草を強くして根を張らせるには肥料は要らない。草に自尊心を擬すものではないが、花を愛でるものもいれば、芭蕉のように路傍のぺんぺん草で己を覚醒することもある。あるいは洛陽の牡丹の大きさを問うたとき、日本の牡丹は土壌を改良して肥料を沢山あげているが、洛陽は土地も固いし肥料も日本みたいにはあげない。だから此処の牡丹は大きく見事になる。苦難を経て大成する人間に似ている。

花か、雑草かは問うまいが、大地は共にある。
花は肥料も欲しがり、観賞してもらいたい。つまりそれが自尊である。しかし、草の自尊は風に飛ばされ、泥に汚れ、踏まれ、刈られ、焼かれるが、花と違った自尊がある。
他から貰えるものを意図しない。また盆栽のように針金に巻かれない。
また、草の自尊はたとえ踏まれようが、汚れようが、自在の活き方がある。つまり自由だ。

その自由を守る、人間で言えば尊厳であり国家構成上の要諦も人間の尊厳を護ることが第一義だ。経済も防衛も政治も、あるいは年金も給付金も尊厳を護り、維持することを目的としている。よく、゛生命と財産をまもる゛と政治家がいうが、生命と財産が有ることによって行なうべき行為は何か・・、゛やりたいこと゛ではない。






                




憲法でさえ、何条が問題と騒がしいが、憲法は人の尊厳を毀損するであろう権力を制御なり拘束することが本義である。ちなみに聖徳太子の十七条の大部分は役人の規律と民に対する姿勢が謳われている。今どきの権力は政治家、官吏、宗教家、教育者、金融家であろう。

いくら民が主人だというが、代弁者に田の種まき、雑草の刈り取りなどと揶揄される民草だが、故事に「天が落ちたら一番高いところに当たる」と構える呑気さがある。
天とは権力交代、高いところとは高官や名誉とは似て非なる虚飾地位のことだ。

本来はそれに拘らず、追わない存在を天という。
また、唯一津々浦々に棲む民草の真の自由を知る存在でもある。

田の草取り、種まきと揶揄する群れが、この天地の関係と意思の循環を妨げることがあれば柔和な民草は沈黙から解き放たれて動くだろう。
群れの施策に座標軸が無いとするなら、この部分だろう。
野暮で古臭い拙意とも思えるだろうが、近頃は天地が逆になって、天が地を支えているように思えてならない。

民草は茂って選定される立場でなく、賢く繁るべきだろう。

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入れ歯の刻印 RPH 2015

2023-07-28 06:47:49 | Weblog



縁あって都下東久留米に住む花山信勝師にお話を伺う機会があった。
佐藤慎一郎氏にもお知らせして同行をお願いした。

花山氏は東京裁判の未決囚を拘置していた巣鴨プリズンの嘱託教誨師である。


ウィキペディアの概要を借用すれば以下のとおりである

石川県金沢市生まれ。第四高等学校卒、東京帝国大学印度哲学科卒。大学院で日本仏教史を専攻し、東洋大学教授、東京大学文学部教授、國學院大學教授等を歴任する。昭和10年(1935年)、『聖徳太子御製法華経義疏の研究』で学士院恩賜賞を受賞。

昭和21年(1946年)2月から巣鴨拘置所の教誨師となり、東條英機ら七人のA級戦犯の処刑に立ち会い、その時の模様を『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』に記した。東條は、「米国憲兵と一緒に合掌するのも仏縁だね」と笑っていた、と語った。

なお被告の重光葵の手記『巣鴨日記』には、長期間の収監で精神的に消耗していた被告たちにとって、花山との接触はひとつの救いでもあった、という旨の記述がある。(『文藝春秋』昭和27年8月号掲載、翌年に文藝春秋新社刊)

印象に残ったのは当時「書物には記されていないことですが・・・」と語った言葉だ。
東條さんは仏教に話に興味を持たれた。そして『もっと早くわかっていたら・・』と呟いた。」
「拘置所のなかでは医療体制もしっかりとしていた。重要人物とのことだが、やんちゃな歯医者がいた。それが東條さんの入れ歯にRPHと彫った。東條さんは知っていたが、ほかは知るものはいなかった」
RPHとは、リメンバー・パール・ハーバーの頭文字だ」








筆者は花山氏の言葉を忘れなかった。
後年、東條氏の孫となる岩波由布子さんと度々会う機会があった。彼女は共感する仲間に促され選挙に出たことがあった。
その時、その逸話を伝えた。

お祖父さんは『語るなかれ』と家族に言い残した。また花山氏に『もっと早くわかっていたら・・』と云った。東條家の人間として選挙もいいが、お爺さんは何を知りたかったのか、語るなとはどのような事なのか、鎮まりを以て追い求めることも役割ではないだろうか」と平河町の選挙事務所で伝えた。

語ることは時宜を得なくてはならない。そのような意味だった。いろいろやり取りをした。メール文字は殊のほか大きい。機会があれば様々な場所に足しげく参加していただいた。

彼女のライフワークは遺骨収集活動だった。東南アジア、インド亜大陸まで広範囲な活動だった。
「インドでは東條は英雄だと云われている」と語り、多くのアジア留学生を激励・援助していた。

御葬儀は盛大だった。祭壇はたくさんの生花に包まれた。その一つに互いに時代を懐古する生花があった。参列者は縁の回顧に安堵を感じた。

それは、安倍晋三氏が送り花として献呈されたものだったからだ。

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あの日、私案 憲法前文を撰す     2007年12 再

2023-07-27 01:50:25 | Weblog


世情が騒がしい

ふと思う。あの太子の十七条に簡記された憲法と称する律を本(もと)にすれば、国民は等しく、かつ、そもそも憲法なるものがなぜ必要なのかが腑に落ちるだろう。

もともと神棚の護符のように、謂れ因縁は解らずとも都合よく手前勝手な助力を請う様になった憲法観ではあるが、まともに読み理解した国民は微かだろう。

必要かといえば、他国を意識した明治初頭はその阿諛迎合(カブレ風)気質を開花?させ、憲法を理解、有効せしめる教育制度まで似て非なる文化を模倣した。故に本義はともかく四角四面な細部にこだわる官吏によって致命的欠陥を含んだ憲法なるものが発布された。ここでも国民は半解のままだった。

その欠陥だが、一時は国民を歓喜させたが、徐々に暗雲となって国を覆い自律自制できない情況を誘引した。ある意味では民癖のようだが惨禍の後、数年間の欧米人を主とした占領統治のなか、またしても欠陥憲法なるものを推し戴いた。

当時は有り難がった。なにしろ白人文化にカブレた明治憲法だったが、今度は細部まで添削監修をして戴いた護符のようなものだった。しかし小金を持ったり、妙な理屈を覚えるようになる。つまり成長から緩み、増長をたどる多くの人の倣いが、推しいだいた護符を錦の御旗にするもの、内容が行動(放埒した)の妨げになると改正を唱える者も出てきた。

完膚なきまで叩かれ、その強者に怒られる前に低頭して有り難がった憲法だが、今でも頭が上がらない。なかには経済植民地だとか世界のATM、最近では傭兵などと揶揄され、それでも大国の袖に隠れることを恥じず、悦に入る為政者が続いている。

昔は鎮護の国といった。鎮は「しずまり」あるいは、人の逝去を「鎮す」といった。

騒ぐことと,鎮まることは、考えることでも結論が逆になることがある。

そんなことを鎮考すると、大船の行き先が見えてきた。

畏まって記した。



              



四方蒼海の鎮まりに在る我国の美風は、国家創立の礎として顕示されている古

代律令にある矩を範として、人間の尊厳を祈護する心を継承したものである。

その意思は万物隣邦の共存と安寧を謳う皇道の祈念を国維として、国民におい

て等しくその目標のために勤めるべく、志操の涵養と互いに慈みあう姿を願う

ものである。

それは人々の連帯と調和を司るために古人が宗とした我国の徳目である、勤勉、

正直、礼儀、忍耐を基礎とした人格による徳威の修練を求め、歴史の栄

枯盛衰に標された内省を鑑として、地球史に普遍な恒心の自得に他ならない

この憲法は人間の尊厳と、それを扶ける綱目を表し、我国の清新な国民意思を

次代に継承祈念すべく公布するものであるとともに、諸外国との善隣好誼にお

いて有効な日本国民の意思として掲げるものである




平成17年2月9日 撰




注 「国維」(こくい)国の大幹



【撰 憲法前文考で想起する
        民情を下座視 歴史を俯瞰した憲法観とは】

普段の生活では思いもよらぬ観点であり、国民にとっても通常の生活では考えることすら及ばない憲法の、しかも前文などを起草しようとした心の節を記してみたい。

過日、新聞紙上に各氏、諸団体の憲法前文試案が掲載されていた。
内容は程よい説明文の形式だが、その起草代表者は権力者もしくは、威を装った知的集団の集いである。
とくに目に付くことは、「我々は・・・」「私たちは・・・」の繰り返しが多用され、一昔前のアジ演説かと見間違うほどの書き出しであった。

この前文だが、憲法の記されている内容を国家の遵守事項を国民の生活マニュアルとするか、自意識に存在する自制と内外に示す国家標題と考えるかによってその趣はおのずと異なるものになってしまう。

そのことは明治という集権国家創成にともなう国民という文言を、単に新しい意識でとらえるか、それとも国家運営形式の変化にとらわれない、国家という成り立ちに沿った日本人としての有り様を基本とした人間の尊厳を守護する為政者の施政方針の類なのか、あるいは王政復古にともなう国家概念の変化を標榜したものなのか、未だ意識のなかに定着していないようだ。

 憲法といえば、政治論議の対象になる9条の解釈や、最高裁の憲法判断といわれるものなどが国民の耳目に触れる憲法の一端である。またそれが総べてであろう。
国民にとっての憲法は、いや憲法観はそのようなものであろう。
 封建社会もそうだったが、庶民は法やそれ以前にある掟、慣習にある規範もしくは道徳については教えられたり強制されたりするものではなく、「習う」あるいは「慣れる」ものであった。

 法は、分別層にあった武士の権力乱用や、商人の矩(のり)というべき商業道徳を侵した場合に適用されるものが多かった。また幕府と藩主にある法度や、武士が自らの道徳律とした武士道は他に制裁を委ねることを潔しとしない自裁、靖献であり、武士という分別階層にのみ与えられた慣習規範だった。

もちろん、人別帳によって住居替えなどは農民の制約としてあったが、これとて地主、庄屋に代表される地域社会の長(おさ)の裁制に委ねられていた。

 聖徳太子の制定した憲法はそれらを対象にしたものではなく、それらを強権力によって侵害しようとする支配権力に向けられていた。また冠位によって存在をコントロールする術も憲法との抱き合わせ効果としてあった。

 その意味からすれば、高位高官、経済人、篤志家と称される者たちが権力者に褒章、勲位を強請(ねだ)る醜態は憲法意思の融解を推し進めていることでもある。

 褒章、勲位はその置かれた位置と矜持によって、何を為すかを求めたものであり、単に権力者を通じた天皇の威を人品の代表物にするものではなく、またそれが醜悪なる人品骨柄を覆い隠すものでない。

 太子の制定も制度として成立してはいるが、人の欲望が織り成す「昇官発財」の道具立てになることは予想していても、現在のような統治方法としての民主を騙取仮借した権力者による改憲は思いもよらぬことだったろう。

太子は制定当初から憲法の意思が権力者によって融解してしまうだろうという危惧があった。それほど権力を持つものの欲望のコントロールの難しさを知っていた

 つまり、憲法の意思は権力者によって人間の尊厳を侵されないために制定祈護したものであり、たとえ民意に負託された間接権力を行使するものだとしても、官吏や政治家の一過性の意図に制定を委ねるものではないはずだ。


現在のように公権力に携わるもの達が、装いはあっても公意をなくしたときこそ権力に対する憲法の効用が活かされるべきであろう

 しかも、戦中に「軍は竜眼の袖に隠れて・・」とあったように、たとえ民から選ばれた政府為政者および議員、官吏が争論をもって按配される憲法が、天皇の認証によって公布される憲法とするならば、なおさらのこと鎮まりの機を待つべきだろう。

 ならば、なぜ憲法前文をこの期に起草しようと思ったか。
じつは、怒りにも似た感情、甚だしい憤怒の念、そうでもない、只、気がついたら起草していた。ものの二十分、いや三十分だろうか、拙い残像にある留魂を文字化していた。恥ずかしながら紹介文を書いていだいた大塚寿昭氏、背景を具体的に記していただいた村岡聡史氏の論文によって始めて事の提起を覚ったものである。

 どのような評価を期したものでなければ、功ある定着を描いたものではない。
染み付いた残像がそうさせたのだと思っている。









〈無国籍な憲法争論〉

元総理をはじめとする様々な憲法研究団体には、多くの若手議員が列をなしている。
各々の前文試案には、天皇、国民主権、平和、が明記されているが、どれも国民を錯覚した支配観、いや管理意識というような錯覚した選良意識があり、伏して下座視しているようには思えない。それは民主という便宜統治の耳障りの良いスローガンに酔っているかのような文字が羅列している


 それは江戸開国の不平等条約改正のために西洋の近代国家に近似するかのような体裁を取り繕ったものではあったが、当時の一部指導者の阿諛迎合性と拙速な行為は今もって掃うことの出来ない特有の性癖でもあるようだ。

現代のパソコン文化は世界の擬似平準化に欠くことができない道具文化を創生した。そこにはコンテンツ(空虚な内容)を、まるで実証とするかのようにソフトという代物によって起動提供され、あたかも科学的根拠があるがごとく眼前に現している。

憲法論議もそれに似て、まるでそれが大義のごとくにスローガンを包装して国民を惑わしている。
たとえば、あえて必要不可欠のように取り繕われている「天皇」という言葉も、その専権である国事行為も意味は分かっても、どのように向き合ったらいいか見当もつかない人が多いようだ。

宮中参殿における天皇の秘事と同様に、国民に分かりやすい国事は元号の制定がある。
あるいは維新前におこなわれていた三種の紳器の親授や、一世に幾たびかおこなわれた改元は明治以降、一世一元になり現在の平成で四世四元となっている。
元号は単なる年記号ではなく、その御世における国家安寧に祈りを込めて元号に託すものである。

それは現世利益のみを追う、政治、宗教、経済、あるいは役人の解釈では届かぬ、歴史を俯瞰した継承精神の蘇りと覚醒を託したものでもある。
明治、大正、昭和、平成には国家の歴史とともに、人や生活環境、人心の流れを表わす節目があった。

 もし、その期とするならば敢えて案として世に問おうとゴマメの歯軋りを撰したものである。

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2007 あの頃   グアム移転の米兵住宅が8000万円!

2023-07-26 04:30:00 | Weblog





農協の海外団体旅行が問題になったが、公衆行儀の点では隣国を嘲笑できない。
どうも石松の金毘羅代参ではないが次郎長の目の届かない処では、女房に隠れた亭主の戯れようなもの。
これが国になると、援助という名のODAだが、キックバックやリベートでは誰のための援助かわからなくなる。
伴氏の書くグアム移転にかかる住宅建設だが、新しもの好きのマスコミ報道も今では皆無だ。
政治家も官吏も国民を騙す言い訳には長けているが、知ったかぶりと解らないふりは、この国の政治の性癖のようなものだ。
国民も知ったところで、たんなる知る満足しかない。


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伴 武澄 (2007年10月30日 21:11)

 28日のテレビ朝日、サンデープロジェクトで民主党の浅尾慶一郎氏が、防衛省疑惑問題で、一番問題なのはグアムへの米沖縄海兵隊の移転に絡む日本側負担 で米軍住宅の建設費が一戸あたり73万ドル、日本円で8000万円にも及ぶ事実を強調していた。米側の試算では17万ドル程度で、4倍以上もするのだとい う。


 昨年の日米合意で、移転費用の日本の負担は60・9臆ドルとなり、そのうち家族住宅の建設費は25・5億ドル(2800億円)となっていた。政府は 3500件を建設するとしていた。単純に割り算をすると一戸あたり8000万円となるのだ。

 住宅面積は150平方メートル程度で、日本の家屋より広めとはいえ、土地代抜きで8000万円とはどういうことなのか。誰でも疑問に思うことが防衛省を含めて日本の官僚や政治家には分からないらしい。

 ネットで検索してみると、この問題は昨年5月、共産党の井上哲議員がすでに参院で額賀防衛庁長官に質問していた。額賀前長官は、建設資材をグアムに運ぶ な どどうしてもコスト高になると説明したらしいが、日本の住宅の建材はほとんどが輸入もの、3500件分もの大規模な住宅建設は日本の住宅メーカーの年間の 売上高に匹敵する水準。逆にこれだけの量を注文すれば、普通の住宅より格段に安くなるのが普通の経済感覚である。

 守屋前防衛事務次官の証人喚問が29日(月)テレビ中継され、山田洋行と過去にゴルフを200回以上したことが批判の的になった。しかし、よく考えれ ば、ゴルフ代などは高が知れている。1回5万円かかったとしても200回で1000万円。そのほかに飲食の供応をうけても1億円には届かないだろう。

 守屋次官のゴルフ接待を見逃していいという話ではないが、メディアが批判しもっと怒るべきは、国家予算の無駄遣いなのだ。アメリカのいうがままに1件あ たり8000万円の住宅を3500件分も支出することだ。これは常軌を失しているというようなレベルではない。犯罪である。もしアメリカ並に2000万円 程度で建設されるならば、2100億円もの予算を節約できるのである。

 総額60・9億ドルの中には住宅のほかの項目でも同じような"法外"の要求金額があるはずだ。

 軍事費についてはよく、兵器など民間と比較できない要素があると説明されることがある。確かに艦船や航空機の価格はそうだろうが、一般の備品や建設費は 本当は民間以下で購入できるはずなのだ。軍隊はとにかく規模がでかいのだ。ワイシャツや靴下だって、一人一枚支給すると27万枚、27万足となる。たぶん 納入業者はとんでもなくいい思いをしているはずだ。



 【思いやり予算】日本は1978年から、思いやり予算として米軍住宅や戦闘機の格納庫 などを建設してきた。87年の日米特別協定で、基地内に働く日本人従業員の給与や米軍の訓練費の一部、光熱費を負担することになった。問題はその金額であ る。スタート時に62億円だった予算が2005年に43倍の2700億円を上 回る額になっている。ちなみに米国防省の報告では、米軍への協力費が04年に44億ドルと、ダントツ。2位ドイツの15億ドルをふくめて26カ国の合計額 39億ドルを上回るのである。 


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ベンガル盛衰の要   2011 あの頃

2023-07-24 15:16:36 | Weblog

          大人が読み聞かせる

 

日本のマスコミは初心に還れるのだろうか・・・・



日本の地図ではインドの右、彼の国では西側にベンガル湾が広がっている。
昔は西ベンガル、隣はミャンマーである。インドが独立し翼となる地域を東パキスタン,西パキスタンと分け、現在はパキスタンとバングラディシュという国名となっている。

言語はベンガル語、インドはヒンドゥー語。宗教は大部分がイスラム、そしてヒンドゥーと仏教がある。よくインド仏教とは言うが、もとはインドの一地方であったベンガルが最も仏教が盛んだった。

そもそも仏教寺院は僧侶の学問所である。その広大な史跡はバングラデッシュにある。
その理由は教育に適した気候環境と人々の情緒に、調和心と真っ当なものに対しての順応性が豊かだったからだ。いま言われる貧しさからではない。

譬えはヒマラヤの麓の小国ブータンにもある。仏教国である。
ちなみに今のバングデッシュの仏教史跡にあるとおり、多くの仏教徒が隣り合った地域に渡り仏教は広がったが、ブータンはチベット仏教の影響があるというが、それも当初はベンガルの寺院で学んだ僧侶たちによるものだ。

そのブータンの若き国王は時流の流れで国民に自由化を促がした。もともと今までの方策でも不満はなかったが、馴染んでみようという試行だった。
すると、まず表れたのは女性や子供たちの西洋文化の模倣だった。衣服、化粧、便利品、それによって家族が徐々に変化した。それは情緒の問題として新旧の軋轢にもなることだった。ムーブメント(運動)は「易きに流れる」そのものだった。幸せ感、あるいはその度数さえ新しい価値に翻弄されそうだった。

国民の大多数はその国王の試行に気が付いた。このままでは祖国がなくなる。それは賢明な先見だった。「国王様、もうこの様な自由化は結構です」国民は王様に諫言した。
英明な国王は大多数の国民の意を汲み取り、歓迎した。
先ごろドキュメント放送で人々にインタビューしている。
「幸せですか?」『今のままで本当に幸せです』

ゲームセンターやパチンコもなければ子供たちはモバイルも手にするものは少ない。
インフラも循環型で先進文明人が言う便利さもないが、国民には笑顔と落ち着きがあり、自然界とともに感謝も添えている。

法は狭い範囲の掟や習慣で国民の規範は充分成り立っている。

温泉、グルメ、旅行、イベントに煽られることもない。






          壁に貼り出された新聞




彼等は死生観を明確に持ち、そう生きることが「幸せ」と実感している。
昔のベンガル地方、バングラデッシュもそうだった。
だが、豊かさを比較するようになると貧しいことを、恥、競い、憎しみ、争い、他国の侵入が順次、頭をもたげてくる。国内でも人格を反映しない身分が発生し、貧者、富者が明確に色分けされ、一部の国民は怨嗟を起こし、国家に諦め観を定着させる。
それは政治が行なう政策や簡易な分配では解決しない。かえって怠惰な欲望を喚起し、反発さえ巻き起こし国家は混沌とする。

国民は混沌を振り払おうと強い指導者を求める。一過性の到達ではあるが、そこでも力あるものや臣下や取り巻きの欲望は物事に善悪を発生させる。

ブータンのように賢い臣下ならいいが、外部の糜爛した文化に晒されると国内に持ち込む人たちも出現する。本来はそれを選択して法制を整え、教育や分配にも慎重な政策を執るのが為政者だが、鎖国もその選択肢のようだ。
また権力を威力として虚飾する指導者もでてくるが、こと独立以来バングラディシュは、ある人物を誇りとしている。

その独立の父はラーマン。暗殺されている。その子女が現在の首相で国民には絶大な人気がある。最貧国といわれて久しいが国民は首相を尊敬、いや大好きである。
彼女には色々な逸話がある。もちろん実話である。国民はそれを語り継いで反対勢力から彼女を守っている。未だに外国勢力からの暗殺の危惧があるからだ。
過去に何度も襲撃され多くの側近が亡くなっている。






          楽しみにしていた3月号

https://www.flickr.com/photos/59344194@N03/    (資料写真)

子供新聞を授業にも活かす



勢力とは何か・・・。
一つの理由は、貧しくとも気高く独歩する伝統的な国民性にもある。もちろん彼女は父から語り伝えられたことを本に、現実政治に滞留している患いについて深く考察している。また「最貧国」である故の諸外国からの援助が慣性のようになり関係職位を汚していることも判っている。それが企てとして影響を及ぼそうとする外国勢力と結びついていることも知っている。

彼女は国民の歓迎を盾として、ときに強く厳しい政治を遂行する。ときおり軋轢がある宗教も問わない。国民と同じ衣服を着て、皮膚に病を持つ貧しい人達でも温かく抱擁する。つまり普通のやさしい小母さんのようで、それがこの国の国母なのだ。

昔から精密作業が巧みな民族に譬えられ、川岸の植物から紡いだ薄い繊維で何メートルの生地を衣服にまとっていたが、小さくまとめると指輪のようになる技術も彼等の作業から生まれている。当時は英国の植民地。小ズルイ商人が政府(英国)に懇願し、たかが植民地という意識なのだろう、巧みな技術を持った職人の指を切り落とした。
                          (プロビール・シャカー談)

日本との関係も深い。詩人タゴールと岡倉天心、インド独立の英雄スバス・チャンドラ・ボーズ、東京裁判のインド判事ラダ・ビノード・パルは西ベンガル、いまのバングラデッシュだ。
一時、多くの青年が来日した。顔を見ると亜大陸のどの国か判別も付かず、中東の青年が混じると、ついぞインド人と総称していた。
その中で技術を修得して、気心の会う女性と結婚して永住している青年もいる。
その分野は多岐にわたり、印刷技術、科学、医学、IT、工業など、堪能な日本語を駆使して活躍している。もちろん心は祖国の復興である。

そのためには善い習慣を持った子供を育てることが、繁栄を一過性に終わらせない要だった。識字率40%強 人口比率は日本と逆で青少年の底辺は広い。その子供たちに正しい問題意識を育てるために新聞発行を思い立った。







           教材として読み上げ


子供が取材して記事を書き、絵や詩歌の得意な子供はそれを書き、そのまま紙面にする。
様々な子供新聞はあるが、大新聞の市場開拓を意図して大人が作る新聞が大多数だ。そして必ずコマーシャルが入る。これは子供の衣をつけた大人の商業新聞だ。

ベンガルの子供新聞はコマーシャルもなく、しかも無料だ。







キシロチェットロ東京支局 取材 平井和成住職



それは新しい展開だった。子供が大人に取材する。童の心で時に辛辣に質問する。

その本人が記事を書く。記事を書く子供が増えた。読む子供が増えて大人も興味を持ってきた。

いまは1000部だが壁にも張り出すほど人気が出てきた。日本からの記事は在日の小学生が休日に取材する。

スポーツ少年、簡易ソーラー、名僧と寺院、それを紹介している。渋谷の忠犬ハチ公や日本の昔話も記事になる。







       現地編集長 プロビール・シャカー




費用は筆者、友人、在日子供記者の父親が工面している。現地には日本の奥さんと子供を日本に残して、覚悟の生活のなかで新聞発行に懸けている友人がいる。
皆、無名だ。しかし有力である。

社会や国を興すことは息の長い作業である。

収益や名誉も忌避する人たちでしか成せないことだ。

好きな首相に倣ってみたい。子供の成長を見たい。

その意味では子供たちの清純な問題意識と夢はバングラデッシュの人々を転化することになるのではないか、淡い希望が広がる。

それは、ブータンが自由化試行の末に辿り着いた幸福感、国民と共に地に伏し歓喜を興した国父ラーマン、日本とベンガルという旧来の縁が、新しい蘇りとして子供たちに正しい価値観を学ぶ機会になる、そんなささやかな願いが無名の徒にある。

いま、話題になっている自由報道協会の責任者も伝えてきた。
「子供でも総理に取材できるようにする、そんな自由な子供たちの取材は喜んで歓迎します」

先ずは子供たちに聞いてみたい。

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エロチックな風俗  2011 7/22 再

2023-07-19 01:35:19 | Weblog

                           
                         以下写真は海外送付メールより


外国人ミュージッシャンがよく訪れるが、なかにはお忍びで来日する大ものもいる。
アメリカ、東欧はポーランド、ロシア、中南米・ブラジル、中国、インドやバングラデッシュなどから来日して長期滞在する人もいれば、景気が落ち込んで仕事が甘くなると帰国することもある。

彼らはテクニックは文句ないが、加えて自分の音がある。あるとき鍵盤を大きな手で細やかに弾いていたとき、普通のコード進行では想像もつかない音を出したときがあった。聞くと、「自分の音だ。日本人はマズ怖がって弾かないでしょうが、楽器は人が関わらなくては単なる置物です。個性とはいっているが、マニュアルから抜け出せない音楽はつまらん人生のようで相手(楽器)も可哀そう。要はハーモニー・・・」
 

                                          

                   パウロ                  オスニー



顔なじみが多くなるが、意外と独り行動が多い。彼らにとって同業者はライバル関係になるらしく、同国人の友人は少ない。なかには某有名ミュージッシャンだが東京ジャズで来日しても、店の地下にある控え室で寝泊りして、馴染みのラーメンと餃子を毎日食べている者もいる。

彼らの来日時の土産物だが、茶菓子やアルコール度の強い酒が主だが、別段のシークレットがある。それは明るくて、滑稽で、卑猥など感じない、とくに欲望すら覚えないが強烈な男女の画像や動画である。彼らの国ではおおっぴらになっているが、我国では公衆の面前には出せない代物である。国内からもプロモーションの画像が送られてくるが、こちらはことのほか生真面目な様子である。

このブログでもよく、色、食、財の三欲のコントロールを記している
「食」はグルメと敏感になった環境汚染、「財」は恣意的な思惑に翻弄させる為替と株と金利、そして異性や同性との性の発露がありますが、それぞれが陰と陽、つまり表表現と裏表現、悪く言えば欲望の隠された、いや隠さなければ嗜好も効果も薄れる問題でもある。
よく表社会と裏社会といわれるが、近頃では裏社会が本音、実態として表に露見してきた。
表が裏にもぐり、裏が出てくる、そんな状況でもある。

                 

                     


さて、その土産物の話だが、日本でも昔はどこにでもいる小太りの女性がヌードをさらしていたが、近頃では嫁入り前の型崩れしていない数多の女性が愉しげに、積極的にこれでもかと画像や映像に映し出されている。よく好きで楽しいものはよく覚えるし智恵も働くとは言うが、それぞれの民族性なのか、行き着くところは同じだがことのほか多様になっている。



             



外国の、とくに南米の驚きは明け透けを通り越して健康的でもある。西欧の芸術性を気取った物欲しげとは違い、映像をあけた途端椅子から転げ落ちるようなおかしさがある。
これぐらいなら、みんなに笑いながら提供してもよかろうが、我国はそうもいかないらしい。表からしか見ないからだろう。言ってるだけ、贈られ?てきただけで,すぐ変態かスケベの烙印が押される。

彼らは言う、「昔は風呂屋や温泉で混浴していた人たちが妙に恥ずかしがるのはどうしてなんだろう。太陽の下で素っ裸になって遊んでいていた子供を思い出して欲しい。開放だのと理屈ではなく、自然なのだ」

そういえば便所に囲いがあるのはなぜか・・・
昔は囲いがなかった頃は動物や敵が襲ってくる危険性があった。あのときが一番無防備だから、つまり怖かったからだ、と、薀蓄を聞かされたことがある。

人は守るものができると過剰反応を誘い、地位や名誉や財力の同じような連中とツルムようになる。悪は徒党を組み、同類合い哀れむこともある。

つまらんものが纏わりつくと不自由になる。他人の自由をうらやましくなるのも人間だ。
彼らは世捨て人になって痴戯や媚態を示してアンチ常識を言うのではない。そんな難しいことを考えるやせ我慢の似非常識人ではない。人さまざまは社会の一端だと思っている

 

                   

 


アフリカの女性が乳房を出して子供に乳を飲ましても欲情は覚えないが、人の秘め事やフェチと称する好みの凝視は男女問わず欲情を喚起することもあろう。今ではそれをあけっぴろげに見せつけられ恐れおののき、恥ずかしくもなる草系といわれる人種が増えてきたという。

その土産物だが、日本人はスケベかと思っているのかよく送ってくる。折角の好意に破棄するのも酷なので、面白かったよ、と返信を送るとまた送ってくる。美女の裸体や男女の宴、あるいは人の滑稽な失敗映像だが、日本のテレビ局も手っ取り早く安上がりの時間稼ぎにこの種の映像が多くなった。流行のニヒルな嘲りである。

知人に話すと威儀?を正しても意志堅固なるもおぼろげになり、そのくせ興味津々。話のネタに欲しがるものもいて便利な媒体で送ると再度の催促。まさに君子は色に惑うである。


和製や外国モノの映像や画像がミュージッシャンの帰国時にメールで送られてくるが、こうも法の国境を越えて流れ込んでくると、こちらが麻痺しそうにもなる。
ともあれ、密室の淫靡な笑いのようだが、見てみたい、見せたい、その類のものでもある。

彼らから「いつ来るか・・」と誘われても、幸い地球の裏側が多いせいか丁重に避けている。



                           




風俗の違いを例にふと考えるとすれば、原発も風評(うわさ)として刷り込まれているが、
目に見えぬものの実態は過大反応する外国人の彼らにも真実があるのかもしれない、と疑念が湧く。

明け透けな裸体、旺盛な食欲、強欲な財利の追求、それを贖罪するかのような宗教や哲学、そしてアカデミックな論評、それらの、たかだか地球の表皮の現象がスパイラルのように循環して、一過性ではあるが経過の通過点を歴史として刻んでいるなかで、それは、我国が解り易いといわれながら壷にはまると抜け出せないような、アカデミックな論証と付き合い始めてから鷹揚さ、柔軟さ、をなくしたことが否めない事実と感じるからだ。

異なる情緒を理解し感受する順応性があると思われている人々に、順次進むべきスピードが変調して、異なりを愉しみながら感受するという子供に似た醇な情緒が衰えてしまったことでもあろう。

煩雑な経済と政治の行き着くところ、彼らの嗜好と喜びの手立てを一考することもいいだろう。どこか詰まった感のする四角四面の日本人には秘めた世界の理解を深めるに相違ない。
たかが風俗、しかも男女の性を嗤い、愉しみ、悦び、歎く、その感度は時とともに変遷しつつも、驚きとユーモアが添加されると遮蔽したり、嘲るストレスのほうが患いのようだ。

                  

碩学は寒い岩山に立つ枯れ木のようだった。老師は嫌いな女にも漏電した。
ともに裏腹だが、異国の状況を人間道徳の劣化とするには大人気ないような気がする。

 

資料はオスニーメロ フェイスブックより

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安岡家の焚書 冒険ダン吉

2023-07-14 13:30:47 | 郷学

郷学研修会にて



縁あって高名な父のもとに生まれ、あるいは家系に偉業の残像を積み重ねた生活環境に育くまれると、何かと人知れぬ苦労もするが、突破する、いや此処では超然といった境に至ると、俗人には思いもつかない洒脱な言辞を発することがある。
訊く側の思惑や妙なステータス意識を差し引いても、重厚さの背景にある

人懐っこさは、時折、童心に導いてくれるような魅力がある。
 孟子の「四端」にある誰にも教えられなくても備わった本性、惻隠、辞譲、羞悪、是非、を想起させ、人間の無垢で生まれながらの意識に引きずり込まれてしまう「安心」の境地がそこにある。

 そこには独律の厳しさと児戯に似た残酷な意図も隠されているが、単なるニヒリズムとは異なる芳醇な情の香りが、かえって訊くものの魂に新たな蘇りを覚えさせてくれることがある。

 

「父は教育者 。政財界の黒幕とか御意見番とかいわれたが、人格とは何ら関わりの無い附属性呼称ですね」

 

 或る日の弊会(郷学研修会)で「青雲の志」と題して安岡正明先生に講話を依頼したときのことがある。それ以来講頭として、御尊父の提唱督励によって発足した郷学研修会を支えて戴きました。当時は大蔵省を退官、長野銀行の会長をされていた。


 「学者の家に生まれて、小学校、中学校の当時は幼心に描いた青雲の志に謂う青空の向こうに夢あるとばかり、当時人気のあった冒険ダン吉を夢中になって読んだが、ある日、母親が庭で漫画を焼いてしまった。 まさに目の前の焚書であった・・・
 その後、何時でも東洋の古典に接する機会があろうかと、始めはドイツ哲学を読み漁った。それはどう生きるかという命題の探求だった・・・


東洋の古典に囲まれつつも、当時流行ったマルキシズムや西洋的教養に触れ、そして古典を回顧するといった経過の中、一方、大蔵省では税務査察という大衆にとっては疎ましい側から世俗を観察するリアリズムが、洒脱という他に直線的でない表現に顕れている。

 

        

        皇太后御用掛 卜部侍従講話の後に・・・

 


「あるとき税源について議論している若い税務職員が泥棒と売春婦から徴収したらどうか」と面白い設問があった。 

いわゆる所得に対する必要経費の問題だが、泥棒の凶器や売春婦の布団は必要経費かと議論になった。
徴収する税収財源について妙案を出すのが職員の習いのようなものだが、
『それは違法収入なので罰金』と、議論を終えたことがあった・・・
・・・本来、税は徴収されるものと考えているが、同じ地域に住む人々の参加費と考えるべきだろう

酒は召し上がらないということになっているが、熱海での一泊研修の折、女子会員の酌に幾度となく杯を傾けて、その都度面白い語りがほとばしる。
語り口は独り言のような小声だが、言わんとする単語になると妙にハイトーンになる。

「父が四柱推命で私を観たことがある。四十過ぎから運勢が善くなるが女難の相があると観た。 普通、女難とは女性に難をかけられるようだが自分の場合は女性に難を掛ける相のようだ」

何事かと聞き耳をたてて周りに集まった連中も、深刻な口調に笑っていいものやら、ただ頷くだけだったが、ニヤニヤと杯を差し出す風情に次はどんな話かと興味は募るばかり・・・

「東北の税務署長で赴任したとき、よく居酒屋で独り酒を飲むことがあったが、あるとき衝立の向こうで頻りに言い訳している声がした。 聞き耳をたててみると、 どうも愛妾に毎月の手当てを値切っている様子だったが、その言い訳の口上の中に『近ごろ税金の取立てが厳しくて・・・・』と聴こえた。何も税金のせいにしなくてもいいのに・・・・」

 

              

         卜部皇太后御用係    小会にて

 

御尊父を慕う政財界の弟子と称される人たちについて母のエピソードを語っている
あるとき母が父に問うていることがあった。あなたのお弟子さんと称する立派な人は多いけれど、どうして下半身に問題がある方が多いのですか・・・そんな母の問いに父は苦笑いで頷いて答えなかった」

時として潜在的剛毅がこぼれるときがある。
税(公平)と警察(正義)の姿勢によって国家は変質する」

郷学について
「田舎の学校と考えればいいと思います」それは田舎を単なる立ち遅れている野暮な場面としてではなく、清純かつ素朴であり感度が鋭いということであろう。
筆者も郷学作興の際、御尊父から『無名有力』を銘として諭されたことを想起します。

そして老若男女、内外職域を問わない小会の趣に
「難しいと思われる内容を難しく聴かせることは簡単ですが、楽しく好きになり、知って教え、行うことが容易になることが大事です。父の描いた郷学作興、無名有力はそんな意味があります。いろいろな見方や呼称はありますが、父は教育者です。父の実像を知ればそのことが分るし、このような集いが父の描いた地域郷学です

また世俗の患いを憂うる若者に
日本の各地域にこのような方々が集って語り合い、研鑽している。是があるから国は維持できている」とも述べています。

 

           

          熱海講話   中央 正明氏  

 

          

   佐藤慎一郎先生   講話の後の酔譚を愉しむ

 


 宿の就寝に天井を眺めながら止まらない会話が起床のもどかしさとなり、海風が心地よい早朝の茶話につい『安岡ブランドで喰っている連中が多い』と呟いた小生の一声に応えられた真摯な姿は、初対面にもかかわらず無名浅学な拙者に長時間に亘り対座された御尊父の威風がそのままの姿で蘇りました。 

朝食の呼びかけにも関らず学問の本義を語り続ける姿は、政府高官からの電話に『来客中!』と、取り合わず、ピースと羊羹を肴に、明治人特有な実直さで時折カン高い音調を取り混ぜた御尊父の熱中談話を彷彿とさせます。

是は面白いよ・・・と持参された本は、カメラマンの宮嶋茂樹氏が著したカンボジアPKOに派遣された自衛隊の随行記でした。
内容は『不肖、宮嶋は・・』から始まる緊張とコミカルが混在したものでした。手渡されたとき、楽しそうに語られる姿は庭先で母に焼かれた、焚書『冒険ダン吉』に描いた青雲の想いが蘇るようでした。

 

     

  奥様から、男だけの御茶の稽古

 


青雲が暗雲に移る時運の悪戯を、母の手によって焼かれていく青雲の夢と同様に眺めていた感のある人生のなかで、洒脱という幼子に似た照れ隠しが、折々に観える剛毅を包んでいました。

青雲の志を語るとき、常に自由な家風に育くまれた環境を感謝しています。
「何れは南洋のどこかの総督になりたいと思っていたのは、本当に当時の若者の夢だったのです。青い雲の向こうには大きな希望があり、それは男子の野望といったものでもありました」

佐藤慎一郎先生は郷学巻頭を楽しみにしていた。
そして、いつもこう述べています。

正明さんの文章は生きている。学問は生きていて活かすものだ。中国の古典は天地自然の循環の理(ことわり)の中で変化に対応している。つねに生きていなければ意味がない。真理があって事象だ。正明さんの文章は楽しく学べる深くて厚いものだ」

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天岩戸を開ける勇 「陛下なら解っていただける」2017・3再

2023-07-13 01:31:32 | Weblog


日本の近代化は明治の王政復古を掲げた維新だと教えられた
それは徳川幕閣の経国能力の適応に疑問を持った薩長をはじめとする雄藩が立ち上がったと歴史に記されているが、彼らとて名目や大義をつくろっても下心を隠すほどの効果もなく、京都に坐す「玉(ぎょく)」と彼らが称していた天皇を推戴して王政の復古を掲げて倒幕をした。
それが彼らの身分や利権にどのような影響を与えたかは研究者に委ねるところだが、民衆からすれば推して知るべしところだ。

あの西郷でも「この様な国にしたくはなかった・・」と言わしめたその後の体制だが、まさに昭和二十年までその風は続いた。
賢候と謳われた山内容堂は「もともと無頼の徒の集まり」と揶揄した。西洋かぶれと成り金の支配層が「玉」を巧妙に奪取して名目を整えた政変という意味だが、官吏や政治家の、゛人と成り゛は江戸の御家人とは変わりはなかった。

まして武士の継続した習慣性を野暮で古臭いと切り捨てた無頼といわれた下級武士の行儀の悪さは,士の矜持すら忘却して「玉」として利用した天皇に軍服を着せた。天皇も有史以来の禁を棄て洋装の軍服に袖を通して形式的にも軍の統帥まで行った。

国際的情勢も今とは違う。また理念はともかく押し寄せる外圧に抗する姿としての時世は已を得ないことだったが、自制することを「怯え」「逡巡」と、妙なところで武士の禁忌を拾い出して国威伸張のスローガンのもと群行した。

惨禍の中、親への孝、天皇(国家)への忠などが綴られた逸話がある。小生も先覚者に頭を垂れ感涙を禁じえないが、政治の無力、軍官吏の机上戦略と手前勝手な数値合理の追求の情勢基盤にあった彼らの経国意志とは敢えて別の位置として考えるべきとおもう。

一例は田中正造の天皇直訴、二・二六動乱の青年兵士の純情などは、あの無頼の徒が謳った王政復古の謀りとは異なる醇なる依願として、また天聴に達して大御心によって正否を明確にして戴きたいとする切なる願いだった。

つまり、軍の動向に現状追認する政治家、いまなら官吏に丸なげ政策されたかのような箇条を読み上げて名利に邁進する政治家、加えて安定収入の保全と官域を広げることに狡知を図る官吏や、救済を掲げる宗教界の政治リンクと組織利権の保全、あるいは公徳を亡くした経済人の醜態にたいして、真に依頼すべき人物として、吾が身を慟哭させる存在に依願を求めるのは、縁あって日本に生まれ、これも縁によって棲み分けられた郷里の疲弊に勇を試みる若者が大御心に認知を委ねることは極、自然なことだ。








いわんや、あの無頼の徒が王政の正きを謳い、忠恕の在り様を体現する「玉」だと民に広く認知させたなら、あるいは議会の開会を宣し、褒章の御璽を押し、内閣を認証する意が存することを周知された国民なら、くわえ赤子として戦地に靖んじて身を献じた防人なら、今現状を覚醒していただきたい、あるいは大御心の有効なる姿を拝したいと思うことは当然起きることだ。それは安寧な生活を営む国民の真の願望であり、毀損する群れの退治は国民の依頼心を別とした責務でもあろう。

聖徳太子が十七条に託したものは単なる官吏の就業規則ではない。

何れ彼らが天皇の補弼を屏風に権力を構成し、豪族や宗教家がそれに倣い衆を恃み権力を構成し、民の尊厳を毀損するであろうことを危惧して彼らに向けた矩(規範、法,等)を制定したのだ。
しかも推戴されたものを護ることが、彼らの恣意的作為で、寄せ付けない、耳に入れない、ことによって専横を始めたのは歴史によくあることだ。

王政復古は解りやすいが、内容は明確ではない。二・二六の時、天皇は叱責して自ら動こうとした。しかし、以来、立憲君主ということで政治に口を挟まなくなった。また、そのありように都合が良かったものがいた。統帥権を弄ぶものたちだ。やはりは威力があった。

無名有力とはあるが、天皇は有名、無声、忖度として様々な形で融通無碍に利用された。だが奥に隠されたような陛下の沈潜、鎮護の涵養された安寧への祷りは、まさに心情において国民の直接交感であり、それが、いかに為政者がその王道とは似ても似つかわない現実政治の統治にはときに存在を忘却しようが、あるいは覆い隠そうとしても、それゆえに民はより陛下の存在に接近するのだろう。

被災地に大衆が選択した代議士によって選任された総理が行けば、「いまさら何しに来た」と罵倒され、可哀そうなことに高学歴無教養な官吏や企業重役の露払いに怨嗟の念をもつ国民のターゲットにされる始末だ。









誰が見ても「わかっていただいている」と感ずるものが国民は欲しいのだ。
妙な例だが、自由と金を与えた子供が、本当に欲しいものが解らなくなったあの「理由なき反抗」と似ている。お父さんは働き、母はいつも口喧嘩して子供をステージの高いところに上げようとする。それが子供のためと思っている。子供は無謀な遊戯に走り補導される。刑事は問いかけると青年は泣きながら吐露する「お父さんがお母さんを叱る勇気があったなら・・・」と、奥底にある理由を告げる。


国民も文化的といわれる生活になじみ、便利性に誘われる、しかし、どこか空虚だ。それは身の丈にそぐわない欲望に物質が届かないためだけではない。ただ、見せられたことのない本当の安心とはどのようなものか想像しているのだろう。

稼業博徒が疑似親である親分や女将さんに従順として随い、生徒が教師を恩ある人と慕い、陣傘代議士が派閥や党派の領袖に忠誠を励むように社会に出れば烏帽子親が必要になる。それが縁あって集まった群れの自然な習性だろう。

ならば宗教は教祖があるように国家にも国父や国母といわれる存在がある。そして由縁の背景とともに、国の父なり母なりの言辞なり動きを待ち望むようになる。あるいは拙速にも嘆願したり、行動を請うこともある。あくまで不特定多数への普遍と忠恕を表す大御心の発動を願うためだ。
これを近頃は政治的利用と括るが、往々にしてそういう輩が利用しているのだ。



神話にあるアマテラスがお隠れになって漆黒の闇になったとき岩戸を開けるものの出現だ。
逸話だが、岩戸を開けるために騒がしくも裸踊りをする神々がいたというが、これも不敬で行儀が悪く、神を辞任しろと言ったのだろうか。裸踊りだが、下着もないころ、乳房は上下左右に揺れ、裾はみだれ女陰があらわになったというが、現代人のスキャンダルも真っ青な神々の乱痴気騒ぎである。現代の皇室もユーモアの許容量はあると聞く。あのグルメ嗜好の入江侍従がなくなったとき陛下は「入江は食べすぎだったのか」と呟いた、とは皇室の語り部、卜部皇太后御用掛の筆者への逸話。

国民が望むのは暗く視えない世でなく、明るく照らされた世の希求だ。

しかし、現実社会は開けることを妨げるものがいる。
昔からその不特定多数への貢献責務は形式権力に安住する群れからは「なじまない」「不敬」だと迫害され、ときに捕縛される。
千葉の佐倉宗五郎、大阪の同心大塩平八郎などの義狭は今でも語られるが、当世は世間を渡れば誰にでもあろう些細な瑕疵や色ごとで義狭すら不埒な謀りごととして忌避される。

議員なら「辞職せよ」となるが、翼賛政治の頃、齋藤隆夫は国会の粛軍演説で除名された。
さわらぬ神なのか、齋藤を庇うものもいなかった。しかし兵庫の出石の選挙民は最高点で再び議会に送り出している。
「軍は聖戦というが・・・、国民は何のことか解らない・・」と言ったまでだが、議員としては当然なこと。軍人は戦地で倒れた兵士を愚弄すると怒り、議員は唇寒しだ。

いまは外国勢力の狭間でポチになり、ときに空威ばり、なかには4000億がキャッシュで銀行にある、すぐ出せる、だからオリンピックは東京で、と叫ぶ輩もいるいまの日本だ。
治安機関は不祥事、検察も意気消沈、官吏は不作為と慇懃、政治家は落ち着きもなく騒がしい、これではあの御方の大御心にすがることしかないと国民は考えている。

また、その威力は驚愕感動をつうじて、あの東工大の碩学芳賀教授が説く、高学歴無教養の官制学歴では到底修得できない人間の姿と浸透された教養を感じている。その文字の意味さえ知らなかった「畏敬」さえ覚え、拝する国民も増えている。
「自分には真似できない」、それでも存在は大きくなっている













先ごろ山本議員が天皇に書簡を呈上したということで問題になっている。
昔なら封書にしたため、手渡しではなく腰を折って、あるいは膝を折って両手で呈上するが、若者の已むに止まれぬ行動だとして目くじらを立てることはない。
なぜなら、被災地で膝を折る陛下の従者が突っ立ったままでその光景をみていることを考えると不敬は言えまい。

巷間、原発反対で俳優業もままならなくなり、種々のスキャンダルに晒されもしたが、彼とて陛下の存在を認知してその威力を知っている。あの台湾の多大な義援は多くの日本人、とくに若者に台湾の存在を認知させた。そして応えようとして模索している。

もし、山本議員が不敬で慣習に馴染まない変わり者でも、「わかっていただける御方」と存在を陛下に求めたのなら、また、震災地や様々な巡察訪問における陛下の姿に現実政治の限界を比してして認知したとしたら、これほど心強い覚醒はない。

いまは仲良し大臣となっている文部科学相も一次安倍内閣では黒子役の副官房でありながら、いつも総理の肩越しから顔をのぞかせていたが、事務担当なから古川貞次郎、石原信男氏のような謙譲の落ち着きはない。議員職とか事務職だとかは問わず、負託された政府要員の姿としては見るべきものがない。
「議員辞職ものだ・・」
まさに脚下照顧だが、どうも時代は代わり制度も変遷し、便利にもなったが、人は変わらない。

もし、移ろいの衆を恃んだイベント選挙を忌避し、国や社会の由縁を歴史に学び、そこにたどり着いたなら、その無鉄砲な匹夫の勇と嘲られても恐れることはない。
なによりも批判される群れは大御心に沿わない連中だからだ。


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奇妙な「安岡学」に集う群れ 07/22 再

2023-07-02 10:07:03 | Weblog

 

         鎮まりのなかで  正面右 正明氏

 


正篤氏の嫡男正明氏との酔譚、いや、房中枕の呟きでもある。

そもそも「安岡学」などはない。来歴、事績を知り、広言したり仲間作りに勤しみ、中には名のある経師(説明講師)を招いて大金をせしめたり、その安岡名を冠とした運営体を宣伝して我が身を飾る者もいる。凡そは小人だが、多くは仮借学の類だ。

本来は経師ではなく、人師(人の師)でなくてはならないが、いたずらに軽薄な身を宣伝する徒が多くなり、ハーメルンの笛のように善良な郷徒を誘引している。

御尊父である正篤氏から督励された「郷学」の一泊研修でのことである。
夕の小宴での女性学徒との洒脱な応答に一同、笑い転げたことがある。

税務署長初任地の逸話、父から言われた自らの四柱推命に解く女難、正篤氏の面白い逸話、なにしろ座談の名手である。いずれこのコラムで記すこともあろうが標題に免じて、ここは控える。

寝所の離れでは小生と枕を並べての酔談である。

消灯しても障子からは薄明かりが射してくるが、敷き目天井のフシを借景に見立てての話が弾む。うつらうつらに・・・

『いや、父の描いた郷学は今日のような姿ですね・・』

「まだ皆目、淵にも届きませんが、卜部さんからも激励が・・・」(陛下侍従)

『昼は鎮まりのなか真剣に・・夜は剛毅な潤いと、志士の頃ですね・・」

「ちかごろ安岡学という妙な学が流行っていますが、ご尊父も苦笑しているでしょうね・・・」

『父は教育者ですよ・・私も面と向かって教えられたことはありませんが、雰囲気がありました・・』

「その雰囲気を喰っているものが多いようですね」

『仰るとおり、挨拶の種ならまだしも、父の知らないところでネタにしている人も大勢います。なかには揮毫の仲介で人脈作りしている人も居ます・・』

「いゃ・・切ない」独り言

『父の本意は、名を遺すことを避けていました。あくまで有用な人物を遺すことでした・・・』

「そういえば、君は無名かつ有力を・・と、お陰で世俗の価値に拘らなくなりましたが、変わりモンと・・」

『・・・・(含み笑い)』

「安岡・・・学・・ですか・・」

『これからですね・・・』

翌朝、眩しい陽光が部屋の中ほどまで射すなか、湯飲みの茶柱がジッと真ん中に留まっている。一時、寡黙になってそれを見ていた。

しばらくして双方、顔を見合わせて言葉がこぼれた。

「これからですね・」

正明氏の穏やかな眸は厳しさを増していた。

 

 

参照 郷学研修会 (現在休会中)2023/6

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1

現連絡先 当ブログコメント欄もしくは、sunwen@river.ocn.ne.jp

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