まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

アイ・ラブ・ユーに ご注意     07 5/27 ブログ初稿再

2015-12-22 10:30:03 | Weblog

              

 

アイ・ラブ・ユーは「ようこそデニーズへ」のように訳せば
「私は愛しています、貴方を」となる。
この言葉は、外来語応答マニュアルによる代表的な愛情表現のようだ。

一度は口にしてみたい言葉だが、外来語のせいか、それとも日本人特有のシャイな性癖のためか、はたまた打算的な恋愛を楽しみながらも(口に出したら負け)と、風変わりな恋愛を楽しんでいるのか、そんな雰囲気にはなれない。
こんな心地よいフィーリングと音声は滅多に無いと思いつつである。

ところで、当たり前のように理解していると思われるアイ・ラブ・ユーの意味も、改めて考えてみると、とんでもない錯覚の壁にぶつかる。
『バカの壁』という本がミリオンセラーになろうとしているが、
どうも外来語や共通単語の理解に関する「錯覚の壁」は、ベルリンの壁のように、よほど大きなアクションがなければ抜けられない、自分を取り囲むガイドラインのようだ。

あえて屁理屈をこねているわけではない。

 「アイ・ラブ・ユーはアイ・ラブ・ユーよ」との答えはその通りであり、理屈よりフィーリング、言葉より行動、昨日のアイ・ラブ・ユーは、今日のアイ・ラブ・ユーとは違うこともよく分かる。

恋をしたりウキウキした気持ちは楽しいこともあるが、もし双方向のラブの意味が違うとしたらどうだろう。
行き違いの果て、「愛してると言っただろう」とは言っても、「あの時は愛していた」と心変わりするのはよくあることだ。

だが「あなたのアイ・ラブ・ユーを取り違えていたわ」では、愛し合って結婚した、と理解したその取り違えは、「錯覚の壁」の存在を知ったところで後の祭りである。

レンアイから新鮮味のないナレアイへの変化は、怠惰な関係をさそい、非難中傷の理由ダネを作り出して、ついには別離のスケジュールに乗ることとなってしまうのが常である。

ある有名大学数校の法学部学生を集めた研修会で、自己紹介を行った時のことである。
一流会社の重役や官公庁の責任者なども同席する、プライベートな研修会であっても、お決まりの肩書きや趣味の身柄説明などが通例のようで、この日も出身地と現在の立場が披瀝された。
「自己の紹介」はなく、おしなべて経歴説明のたぐいであったことは、云うまでもない。

                 山内たつお              

 

そこで私は
「よく個性の発揮とか交際的に通用する人材の育成といわれるが、名刺の肩書きや人生の経過説明では、どんな人なのかは説明つかないだろう。外国に行ってどこかの役員だとか、学歴経歴がどれほど不偏な人格価値を表現できるか。
個性とかいう解らない表現ではなく、誰でも理解できる自分の優劣の特徴を明らかにして
『あなたは何者ですか』を分かりやすく紹介してください」
と促したところ、おしなべて反応がない。

「それならアイ・ラブ・ユーを訳してください」と続けたところ、
全員が「私は貴方を愛します」と、英和辞典の記述の解説に終始した。

「難しいことを訊いているのではないですよ。
一人の女性を対象に全員が同じ意味で愛しているのですか?
女性も、自分の愛と全員の愛は同じと考えますか?」

英語のアイ・ラブ・ユーは、中国語のウー・アイ・ニーと同意と言われるが、
あくまで双方が、意思を納得しているという前提がある。

「たとえば、暴れん坊将軍の吉宗や水戸黄門が『愛してる』と告白しますか?
ちょん髷に草履では、どうも格好がつかない台詞ですね。
せいぜい『そなたに参った』かと思いますよ」

外来語が洪水のように入ってきた明治期に、二葉亭四迷はアイ・ラブ・ユーをこのように訳しています。
『僕は貴方のために死ねます』
これなら、そうそう誰彼にも言える決意ではない。

キリストの愛は無条件な献身(犠牲)というが、こんな分かり易く、女性にとってもこんなに真面目で錯覚することのない告白を受けたことがない、と女性出席者の吐息でもあった。

フランスの画家ゴーギャンはタヒチの自然に漂いながら、
「我々はどこから来て、何者なのか、どこへ行こうとしているのか」
と訊ねています。

アイ(自然)も知らず、ラブ(愛)も分からず、ユー(対象)をどうするのだろうか。

くれぐれも思いつきや条件つきのアイ・ラブ・ユーにご注意を!

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「人間考学」  智恵ある者は臨機に際して北に向かう 13・8/17再

2015-12-09 10:53:47 | Weblog


本来は内進であろうが、あえて外に向ければ今は南進の状況だ
それは、福本日南や菅沼貞風のような南進論が歴史の循環のように甦ったような昨今の様相だ。

当時は福沢の脱亜細亜のごとく朝鮮,支那(当時の呼称)の惨状と、あまりにも我が国とは似て非なる状況を憂慮るすために生ずるエネルギーの浪費より、一足飛びに西欧に眼を転じようとする施策の基軸を論じたことと類しているが、その方向を南方(東南アジア)に転じようとする国家の経綸のようにみえる。

南方政策は台湾総督府におかれた日本初の財団、南洋協会が有名だが、この発起構成員は皇族、政治家、軍人、経済人と明治のオールスターが列記されている。要は台湾を出先として南洋諸島の殖産を意図したものだが、新領土となった島礁防衛も含まれた協会の設立だった。その点は台湾を軸に朝鮮や支那を鶴翼のように広げて囲う意図もあっただろう。

その鶴翼に被われた大陸だが、孫文が桂太郎と東京駅の喫煙室で語り合った「満州は日本の手でパラダイスを築いてほしい。そしてロシアの南下を抑えてほしい。しかしシャッポ(帽子)は支那人に・・・」という内容がある。
それは前段で、日本の人口増加に関する話題からつながったものだが、双方無言で立ち上がり握手している。互いの事情を知りぬいたもの同士の情景でもある。

昨今の売文の輩に言わせれば「孫文は裏切り者」と切り捨てるが、大同思想と共産思想の共通性を説く孫文の已む止まれぬ自得もあるが、つねに無視し強圧さえ掛けた日本政府にも多くの事情を含んでいる。つまり日清日露で血を流した犠牲の対価として考えたことと、硬直増長した軍官吏の言動にも問題があった。







支那(中国)を狙う列強




福沢の脱亜にしても古来より棲み分けられた地域で営む生活や、政治の慣性、ときに暴虐性をみる為政。そして民癖など、気になっても、憂慮しても、促しても転化することのない諦めに似た気持ちになるような、やりきれないものとなった感情だとしても、四角四面で拙速、迎合的な従順性をもつ日本人の忌み嫌う大陸への対応は、その後の日本軍進出にともなう惨禍の結果に少なからず影響があった。

日本人は鬼子、中国人はチャンコロ、互いがこれでは水飲み小作と庄屋の倅の宿命的意識からは抜けられまい。せめて庄内の豪農本間家のような忠恕と鷹揚さが欲しい。たしか、土佐の山内容堂が言った、明治の高官の多くは無頼の徒だ、というが、たしかに異民族に対する許容量が乏しいようだ。

ともあれ日本人にとっては面倒な国、いや地域だと考えられていた。だから、善意あふれるお節介もいれば、強盗のような日本人が出てくるのだ。
かといってロシアは恐い。なにを考えているのか腹が分からない。あの帝政も共産に変わっても理解しずらい国だった。新生中国もことのほか嫌ったが、表札の名称だけは仲間意識なのか共産だが、ときに共惨なものになる。

だが、19世紀から20世紀にかけて多くの王政、帝政は消滅した。なによりも民族の結び目だった長(おさ)が滅亡し、日がなの欲望しか考えないような民衆が市民という名で発生した。自由、平等、人権が誘い水だったが、新たに登場したのが虚利を実利に変えて利子を自動的に発生させる金融による管理だった。豊かさと便利性に誘われた民衆は金融奴隷のようになり、互いに競争し、争い疲弊した。









ニコライ二世



【民族や国家、家族の長(おさ)の消滅】

日露戦争当時、明石元三郎はその帝政を疲弊させるために内部攪乱をした。結果として後に発生する共産革命の助成ともなった。そしてレーニンやスターリンの登場だった。かといって民主・平等。人権を謳う啓蒙主義への危惧は明治天皇ですら解っていた。ただ、戦争という面前危機の対応としての明石の工作は最善だった。惜しむらくはたどり着くことで招来することへの俯瞰戦略は乏しかった。なによりも新たに発生した主義の持つ政策や意図に隠された大謀が見抜けなかったのは我が国だけではなかった。また、人間の狡知が編み出した主義が統治実験として用いられ、それが南方へ伝播してその実験期間の終宴に、彼らがいう資本主義が共産主義への移行経過としてではなく、彼らが打倒したために消滅した結び目もなく浮浪する民を奴隷化する金融資本の独裁だったということだ。付け加えれば自由と民主を装った資本主義もいっときは冷戦や軋轢消耗を競った共産主義と、行きつくところは同じ土俵だったという大戦略に世界が操られたことだ。どちらに組しようが同じことのようだ。

いっとき我が国の共産党も天皇制打倒を叫んで革命家を謳っていた。
国内政策には庶民のよき理解者だが、多くの日本人はそのことがトラウマになっている
あの震災地で頭を垂れ、お身体の不調をおして再三訪れ膝を折って被災された方々と語る日本風の長(おさ)の姿に、近頃では天皇制打倒と大声を上げないようだ。それはやっと高学歴の学び舎の教場論議から這い出てきたようだが、それでこそ覚醒されつつある共産党として歓迎したい。

狡知が秀でている?勢力は、国家には紛争の種を与え、大衆には際限ない欲望を植え付け、茫洋なる環境には危機を煽る、つまり、人民の手によって事前に長(おさ)を消滅させた。その長の司る財と連帯の絆を平等と民主、人権という美句によって解放(分散、分裂」することによって、それぞれの民族が護持する精霊や神の存在を無意味にさせたために、思索や観照という各々が考える力を衰えさせ、人々の信頼を本とする連帯まで経済数値の土台にのせてしまった。

国家の経済的基盤は独自決定できず、つねに株と為替に操られ食料資源さえも独自政策がとれない状態になった。
また、それを是とする構造が教育や政治の分を司る者にまで浸透し、民族の自立選択すら異端、排斥し、民主だの自由だの人権だと騒いでいた大衆も「釜中の民」のように徐々に己を絞めつけるようになった。その誘因は便利さと与えられた部分の選択、そして妙な豊かさたった。そこには深い思索に基づいた主義も主張もない人々のさもしい歓迎のようになった。



歴史的感情が慣性となった日本及び日本人だが、経済的欲望はどちらも普遍的なものだ。歯ブラシでも日本は一億本余、大陸は十二億本の理屈には誰もが納得した。そして誘引されて同化して融解するのは元も清も味わったことだ。
一昔前は周恩来首相も「あなた達のお陰で政権をとれた」(国民党を疲弊させてくれた)
また、別の指導者は「日本は軍備を増強した方がいい」とも。(対ソ対抗)
それが小金を持つと増長する。懐銭(賄賂経済)は海外貯金と子息は逃避、看板だった共産主義は汚れれば塗り返し、他人の苦しみは弾圧する。いや単に放っておけばカオスになる社会の専制集束のための方便だった主義は歴代帝政の専制に似て順法通りになっている。

そして常にカウンターとして存在するのが北方のロシアであり、ロシアの圧力が弱まれば中国は強引に伸張する。ロシアが強くなれば(北方が危なくなれば)外には出られない。つまり、歴史力のバランスにに忠実なのだ。謳う大義は装っても、「仁」や「義」にみる人助けはあまりない。

だか、外資や権力者が喰い荒した市場を耕作地に例えれば、多くの肥料か農薬をまかなければ、より疲弊する。多くの市場入植者は逃げ出す準備をしている。一旦、鶴翼(東南アジア)に下がるのが常道だ。
少し前は麻生氏も「繁栄の弧」と唱えていた。









プーチン大統領




さて、標記だが、南進は時の要請としては的確な政策だ。また障害もすくない。なによりも米国の利権さえ踏まなければ見過ごせる対応であり、対中国政策としては賛意もあるだろうが、風向きを気にした中期的推考による政策は中国にとって痛くもかゆくもないはずだ。では、何が痛くて、痒いのか、それが北方なのだ。どんなに面倒でも間断地域の北朝鮮をロシアに追いやることはしない。

よく民族は永い歴史の堆積から独特な先入観をもつという。それはセキュリティーでもあるがトラウマとして除くことの難儀な状態にもなる。対国家、対民族、対習慣性、など様々だが、帝政ロシア以来、我が国もロシアに対しては怖れに似たトラウマがあった。いまはMBA(経済学博士)を目指して英語を習うが、戦前の優秀な学生はロシア語の習得に勤しんだ。その中からロシア文学に傾倒しロシア大好き人間が共産主義賛歌を謳いだした。一方、漢籍を学ぶものは中国大好き人間が出てきた。それぞれの国と対立関係になっても、どこか腰の引けるものも出てきた。無条件で米国型資本主義システムに合理をみれば、米国の政策に阿諛迎合的になる者もいるように、ときに人はカブレ現象やファン気質に流れるものだ。

今どき便宜資本主義を謳う中国は科挙の如く学歴主義が韓国も同様に盛んだが、行き先は拝金と便宜共同体参加の免状だ。形式上は国家が依って立つ主義を前提として国造りをするが、その主義の本家ロシアに寄って立つ主義の学問の為に留学する学生が多いとは聞かない。そこにみるのは中国にとって実利がないということだ。だから逆に我が国は実利があるのだ。

そのロシアだが、昨今の資源経済といわれる地下資源も米国のシェールガス、原発などで景気動向が停滞気味だ。問題になっているのは南方からの人的進出だ。中国や北朝鮮だが、その浸透力は経済力と労働力を背景にしたもので、現地からすれば痛し痒しの状況だと聴く。そこでみるのはロシアと中国の力の逆転だ。その力も日本の感覚と違い、「力あるものは善」という、正邪はともかく、という感覚だ。それが浸透したらどうなるかロシアが一番よく知っている。

中華人民共和国建国当時はロシアの強圧をかわすことに知恵を絞った。行きがかり上、蒋介石国民党は米英、毛沢東はソ連と各陣営に与して冷戦下もその影響にあった。援助国の思想形式を装うが蒋軍閥と毛軍閥の様なものだ。
つまり、時節の御都合なのだ。教目を唱える宗教と同様に勢力拡大と資金力の確保だ。
しかし、民族には好き嫌いと,感情にどこか相反するものがある。統計的にもアンケートにもなることはないが、民情は的確だ。

二十年以上中国の市井に体験を持つ佐藤慎一郎氏は、どうもロシア人が嫌いらしいという。ロシアのことを大鼻(ダービー)といって語りたがらない。その次は朝鮮人 (今は韓国、北朝鮮)だという。監獄では朝になると訳もないのに朝鮮人が呼び出され折檻されていたという。侵略者といわれた日本人はその様なことはなかった。佐藤氏が満州一の大悪党と新聞に出たら、各地から現金をはじめとした差し入れが届いた。栄養がつくと一晩かけて歩って卵を届けてくれた中国人もいた。その共通性は人情が解り合えるということだ。








孫文と側近の山田純三郎  (佐藤氏の伯父) 





ならば、反日はどうだろう。当時のことだが佐藤氏の体験だ。
いまでは歴史にもなっている有名な反日デモだが、佐藤氏にもデモに誘われた。小遣いが出るという。日本人としては唯一だが日本官吏の青山氏が視察していた。渡された金は70銭、人力車で北京を回遊できる金額だ。だがデモの最中「どこから金が出たのかなぁ」「教授はいくらピンはねしたのかなぁ」「ところで日本は何をしたのだ」そんな話がそこいら中で囁かれていた。消防(当時は最初に鎮圧に出てくる)がくるとみな逃げる。佐藤氏は「逃げるな」というが、一目散に逃げる。少しは愛国者がいると思って東北大学(張学良学長)にいっても同様だった。それが今では歴史的反日デモだと記録されている。戦後逃避者調査のために香港の浜辺で待っていると泳いできた人に聴取した。「なぜ共産党に入ったのか」「なにも解らんが喰うためだ」という。

その喰うために彼らは国外に出る。世界のいたるところに住み処をつくり浸透する。
その危機感は地続きのロシアも同様に感じている。
日本は海洋伸張に苦慮している。そして外交にも多くの煩いを発生させている。
それは、北方の危機が無いとき南に伸張する歴史でもある。戦後まもなくはロシアの強圧に苦しんだ中国。促され厭々ながら西方に兵を出し、朝鮮戦争の停戦が遅れたのも中ソ関係の駆け引きだからだ。国境の衝突もあり死者も出た。毛もスターリンに強弁された。

いま、ロシアは弱っている(経済困難)とみる。それに比べ中国は力(虚財)がある。いずれにしろ弱肉強食だ。
そのバランスは偏ると争いが起きる。また危機感がなくなると人は増長する、かつ弛緩し堕落する。いずれ勢いは置くところを変えるだろうが、それも栄枯盛衰に記されたことだ。また諦めに似た諦観もある。それは自省心が衰えると吾が身を気づかないうちに自傷する。勝った負けた、俺の仲間だとか敵だとあげつらうものではないが、中ロのバランスをとることが近隣にとってもっと有効な方策ではないかとおもう。
つまり、ロシアの経済自立を援けることが中国に力の自制と慢心を抑制する,圏内の良策のように思える。

そのうち北方領土返還運動に資金が出ることもあるかもしれない。なぜなら反共を謳う民族運動家が中共から資金を貰いビルを建てたことがある前例があるからだ。(落成式での荒木文部大臣の苦言)
あるいは代々木の旧共産党本部の建設委員だった兵本氏(除名党員)は、その建設資金3憶円を幹部が持参したとき出所を尋ねると某国友党からだと平然としていたという。国家間のいさかいに火を点けたり、野党に資金援助したり、手先の小国をつかって歴史の残滓を言いつのることなどは、朝飯前だ。もちろん我が国も国益と称してその類いはあるが謀り事は賢くない。

諸国家の良し悪しをあげつらうものではない。また反日スローガンのように情緒浸透させる愚は自らの首を絞めることになる。
ただ、ともあれ近隣であり歴史の禍根もある。また運よく双方とも金持ちになった。アメリカのお陰でソ連は崩壊し危険がなくなった。だから新しい戦略的危機が必要になったともいえる。いまはそうすることで安心する他国勢力もいる。

議論を尽くすとか深慮などといってモタモタするのは我が国の習慣性?だが、整ってしまえば忘れるのも習慣だ。それを是とするのは、四角四面な対応や歴史のトラウマにこの際は正対せず、つまり、ぶつからず逃げず、除けるような、政策的許容が必要なのではないだろうか。
また、その圏内バランスをとることを良機とするなら、各国に滞留した歴史的煩悶を掃い、新世界を描こうとする我が国為政者の経綸として歓迎されることは間違いないだろう。

「成らざるは為さざるなり」やらないから、できない。
できない理由は我欲であり、その多くは人目と失敗への恐れである。

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「郷学研修会」の再開

2015-12-05 17:52:54 | Weblog

                            高野槇

 

どうなるのか・・・と、首を傾げる憂慮は銀座のビヤホールからはじまった。

どうにかしよう・・・と、応えたが成算はなかったが、その職域から発した憂慮に尋常ならさざる問題がこの国に滞留していることが、ことの始まりだった。

しかも、おとなしくしていれば、どうにか今どきの成功価値に安逸した生活ができる人物の問題意識は、部分は明確だが、社会の大まかな状況には手を拱くしかなかった。

 

人格とは何ら関係のない附属性価値を獲得する成功価値だが、手を拱かざるを得ない状況は、それを無意味だけでなく、ときにそれを所持する人物如何によって反有効性価値として社会の各部分に煩悶を発生させている状況がある。

 

人格を養う本(もと)は官製カリキュラムにはない。

また、部分カリキュラムなどのアカデミックな修学に求めるものではなく、まして、数値の比較評価に拘泥するものでもなく、あの陽明の「格物致知」のように、知に到り、身に浸透するような学びは各々の感性に委ね、あらゆる場面に訪れる事象への問題意識の喚起・探求こそ「本」の端緒なのだ。

 

しかし繁栄はときに成功価値を曲解させ、生産性を企図した人の養成は数値比較である、知った、覚えた、味気のない人間を大量に輩出ならぬ排出している

よくこの種の涵養に求められる古今東西の古典記述とて、発生地の人の織り成す社会環境や習慣的性癖などを遠目に眺め、字章を簡便な美辞麗句に装い、本来の意を曲解して来歴を修復している状況がある

「本」の微かで乏しい附属性価値は、地位、名誉、財力、学校歴となり、この前提は高給と安定担保が大よその成功価値となっている。しかも目的化している。また、浸透して血肉となり、己の特徴を以て利他に行動する「活かす学」などは、浮俗に誘因する欲望に抗しきれず、内に顧みる自省すら忌避して安易簡便なる学風に陥っている。

 

生きる要因や術(すべ)となる必要なものを、徒(いたずら)に抑制し偏狭に否定するものではない。だだ、ヤルベキことがヤリタイことになると、欲望は際限なく、コントロールを失くし、ときに公位に職を食む人間がその状態に陥ると、社会は調和と連帯を微かにさせて、まさに「どうなるのか・・・・」と、その進捗に戸惑いを覚えてしまう。

                                            平田英俊氏 元空将

その疑問は、数値選別に勝ち残り高位高官に昇った人物から発した疑問ならなおさらのこと、一考に値するものだった

土壇場になったら、あの社会保険庁の逃避構成員のようになるのか、前線で危険対峙する自衛官を横目に天下り生害賃金を思案する指揮官になるのか、詰まる所、政治家は行政官吏を管理コントロールできているのか、はたまた、自分の幼年期からみた世俗の変わりようとして、毎日のように報道される殺人、詐欺、公務員の不祥事、などあの頃には想像できない社会が出現している状況が、はたして求めた成功価値なのか、そんな疑問の根底は何なのだろうかと、切り口を求めてきた。

 

応えはこうだった。複雑な要因を以て構成され、かつ、さまざまな縁のなせることで、地球の表皮の部分に棲み分けられた、集う民族の変遷にある栄枯盛衰、とくに物的な集積と破壊、人的な争いと親和、とくに現実から遊離したような惨禍の回想など、人間の繰る社会の歪みなり劣化についての切り口など、率先的な意思も枯渇したような人間そのものへの問題として提示してみた。

 

問題意識の正確な把握と基礎的知識が備わっているエリートは直ぐに理解し呼応した。

そして、自身が体験した政官の高位の部類に入る人たちの状況も添え、かつ彼が依るすべとした理工系エリートの思考習慣を超えて、まさに彼らにとって当てにもならない人間学的考察から人の習性や情緒なりを更新、是正することを共有する人々と、利他の貢献を企図してお節介なる集いを催すことになった。

 

当初は四、五人、現在は多士済々の十人余り、この座談会を数回行い、その名称を考える段になってなかなか名案は浮かばない。そうしているうちに、このメンバーならそれぞれの分野のエキスパートゆえ、講話会を開いて、ささやかな相互学習をした経過で座談会の名称を考えることになった。そこで、簡便な知恵だったが、既存の会で休会になっている小生の主宰していた「郷学研修会」を、有志を募った相互交流の場として再開する運びとなった。

                                      卜部亮吾氏

 

元々は、白山の安岡正篤宅での会話から、氏の督励がきっかけで、厚誼あった卜部侍従・安倍元内相・下中邦彦(平凡社)・佐藤慎一郎、各氏の発起をいただき、足掛け十年行っていた。会長は郷の篤志家、講頭は安岡正明氏、講師は漢学者、内外のジャーナリスト、政治家、匠、など多彩だか、選択は無名有名を問わず、督励意志を鑑みた人物を小生の専決で懇請させてもらった。会場は憲政記念館や渋沢別邸・都内の借室など、講話の趣によって選択していた。

 

休会の理由は、その世界では高名だった督励発起の方々への妙な錯覚した世俗評価に集う人たちが増えたことだ

ある意味、権力に近い、皇室権威に近い、というアンチョコ学問の堕落だが、とくに中央官庁の官吏や政治家の卵にその傾向があった。参加者は高校生や近在の老人、研究者の類もいたが、みな良識があり、いくら有名でも四方同席の自由と平等の観念が備わっていた。

 

その卵や官吏は狡猾な目的があった。後援者を帯同し我が身を飾るものも出てきた。当時は安岡正篤氏と交誼があれば、何かと便利だと思う輩がいて、ご長男が講頭(当時郷学研修所理事長)なら尚更のこと、一部の者の意図は、会がブランド化していく憂慮があった。

                佐藤慎一郎氏

たかだか有志の学習会ゆえ、有名になろうとか拡大しようとも考えていなかった。そもそも郷学は錯覚した人物観によって埋もれ、微かになった人心を作興させ、郷(地域)の埋もれた無名な人物を扶助し現世にその価値を覚醒させようとする運動であり、その意識をもつ人物を養成しようとする集いだからだ。

要は己の習得した能力を専ら自らの利に用せず、ささやかでも利他の貢献に結びつけることを目的としている相互研鑽でありムーブメントだからだ。

 

あの席で、同席の岡本義雄氏は「日本精神の新たな作興」と烈言した。呼応して安岡氏は「錯覚した価値により中央が糜爛すると、地方の篤士による志が顕在するようになる。有為なる人物を発掘して郷を作興する場が重要となってくる

その意が、「郷学を興しなさい」と、偶然の機となって具現されたのが岡本氏命名の「郷学研修会」だった。

添えられた言葉が「無名は有力です」だった。

                 安岡正篤督 励発起人

 

作興とか、郷学とか、無名は有力だ、とかは深い意味も解らず、その場ではまる呑みだった。

こんなものだろうと始まった時、講頭の安岡正明氏が「父が考えていたのは、このような許容量のあるたおやかな相互学修なのです」と云われたが、あの烈言した岡本氏も気色鷹揚にして頷いていた。督励発起を戴いた御仁方も率先して講話を承諾し、様々な世界に起きる禍福に制度や組織にかかわらず、いかに基となる人間の問題が大切かを口唇の乾くのも忘れて語っていただいた。なかには、そのような集いならと、普段は高額な謝礼が必要な諸氏も篤志で講話を申し出る方もいた。                      

 

                   安岡正明 講頭

 

 

そして、妙な選民意識なのか流行りのブランド的な風評が漂ってきた。

この風評なるものは抑えられないものだった。゛たおやかな許容゛が戸惑いとなった

「安岡ブランドというものがあるようですが、食い扶持や虚飾の屏風になっています」

『父は、それを学問の堕落と云っていました』

宿泊研修で真っ暗な天井を眺めながらの寝床談議だったが、「本(もと)」が毀損されるようになれば・・・、それが、休会の理由である。

無名を旨とすると運営者は、とくにこのことに気を付けなければならない

 

それが、時を経た今機の再開である。

いまは、あの当時の督励発起の方々はいない。

だが、その統(す)べを伝える内包されたものはある。つまり意志をつなぐコンテンツは前記の座談メンバーに充満している。「統(す)べを伝える」これが伝統なのか・・・

「郷学研修会」は、年初をめどに準備を進め、かつ有為なる無名の処士の参集を図っている

また、終章の「参考」にある以前の構成を維持し、新たな運営世話人等を追加選任して行うこととしている

※ ちなみに、この章のコメント欄に御感想、あるいは参加御意志のある方はご記載を受け付けております。

 

 

 

 

 

                                                      

                                                   

 

                    松崎氏著書

≪槇の会≫

また、準備世話人の座談は、名称を「槇の会」として並行して継続することとなった。

「槇」のいわれは、悠仁親王殿下の御印の「高野槇」を拝借して、世俗の学びにない俯瞰した人間考学を旨とするための名称として、次代のために現世を語る集いにした。

 

                                              槇

イメージを与えて戴いたのは、参会されている松崎俊彌氏(皇室記者)の秋篠宮家の睦みと使命感についての話題に感応したことがその理由である。

郷学研修会の督励発起人だった卜部皇太后御用掛の逸話も含め、どこか督励を戴いた他の縁者との関係も、今期の再会の後押しになっているような義縁も感じている。

 

                津輕講話

 

≪参考≫

当初の郷学研修会 構成


[顧問](発起督励)
       安 岡 正 篤    教育家
       ト 部 亮 吾    皇太后御用掛
       佐 藤 慎一郎     中国問題研究家
       安 倍 源 基     元内相
       五十嵐 八 郎     吉林興亜塾

[相談役]    下 中 邦 彦   平凡社相談役
        中 村 武 彦   古事記研究家
        岡 本 義 雄   思想家
        一 水 伝    環太平洋協会

[講頭]     安 岡 正 明   長野銀行会長 郷学研修所理事長

[代表世話人]  寶 田 時 雄   処士



主な講師は上記構成員(附属名省略)ほか

柳橋良雄 安岡正篤記念館    小関哲也  内外情勢調査会
ニックエドワーズ ジャーデンフレミング証券   稲葉修   憲法学者 法相

ほか内外有識者


[規約等] それぞれの良識に任せる

[費用]  当日の必要経費の参加者分担 講師料必要な場合は3万円を限度とする

[予算]  当日限りとして残金留保しない  運営は世話人篤志による

「会場]  憲政記念館 渋沢別邸 瀬田大山クラプほか

[研修]  定例は毎月一回 一泊研修年1回

[会議]  総会等の組織会議は行わず運営は篤志世話人によって随時企画構成する

 

イメージは関係サイトより転載させていただきました

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