高野槇
どうなるのか・・・と、首を傾げる憂慮は銀座のビヤホールからはじまった。
どうにかしよう・・・と、応えたが成算はなかったが、その職域から発した憂慮に尋常ならさざる問題がこの国に滞留していることが、ことの始まりだった。
しかも、おとなしくしていれば、どうにか今どきの成功価値に安逸した生活ができる人物の問題意識は、部分は明確だが、社会の大まかな状況には手を拱くしかなかった。
人格とは何ら関係のない附属性価値を獲得する成功価値だが、手を拱かざるを得ない状況は、それを無意味だけでなく、ときにそれを所持する人物如何によって反有効性価値として社会の各部分に煩悶を発生させている状況がある。
人格を養う本(もと)は官製カリキュラムにはない。
また、部分カリキュラムなどのアカデミックな修学に求めるものではなく、まして、数値の比較評価に拘泥するものでもなく、あの陽明の「格物致知」のように、知に到り、身に浸透するような学びは各々の感性に委ね、あらゆる場面に訪れる事象への問題意識の喚起・探求こそ「本」の端緒なのだ。
しかし繁栄はときに成功価値を曲解させ、生産性を企図した人の養成は数値比較である、知った、覚えた、味気のない人間を大量に輩出ならぬ排出している。
よくこの種の涵養に求められる古今東西の古典記述とて、発生地の人の織り成す社会環境や習慣的性癖などを遠目に眺め、字章を簡便な美辞麗句に装い、本来の意を曲解して来歴を修復している状況がある。
「本」の微かで乏しい附属性価値は、地位、名誉、財力、学校歴となり、この前提は高給と安定担保が大よその成功価値となっている。しかも目的化している。また、浸透して血肉となり、己の特徴を以て利他に行動する「活かす学」などは、浮俗に誘因する欲望に抗しきれず、内に顧みる自省すら忌避して安易簡便なる学風に陥っている。
生きる要因や術(すべ)となる必要なものを、徒(いたずら)に抑制し偏狭に否定するものではない。だだ、ヤルベキことがヤリタイことになると、欲望は際限なく、コントロールを失くし、ときに公位に職を食む人間がその状態に陥ると、社会は調和と連帯を微かにさせて、まさに「どうなるのか・・・・」と、その進捗に戸惑いを覚えてしまう。
平田英俊氏 元空将
その疑問は、数値選別に勝ち残り高位高官に昇った人物から発した疑問ならなおさらのこと、一考に値するものだった。
土壇場になったら、あの社会保険庁の逃避構成員のようになるのか、前線で危険対峙する自衛官を横目に天下り生害賃金を思案する指揮官になるのか、詰まる所、政治家は行政官吏を管理コントロールできているのか、はたまた、自分の幼年期からみた世俗の変わりようとして、毎日のように報道される殺人、詐欺、公務員の不祥事、などあの頃には想像できない社会が出現している状況が、はたして求めた成功価値なのか、そんな疑問の根底は何なのだろうかと、切り口を求めてきた。
応えはこうだった。複雑な要因を以て構成され、かつ、さまざまな縁のなせることで、地球の表皮の部分に棲み分けられた、集う民族の変遷にある栄枯盛衰、とくに物的な集積と破壊、人的な争いと親和、とくに現実から遊離したような惨禍の回想など、人間の繰る社会の歪みなり劣化についての切り口など、率先的な意思も枯渇したような人間そのものへの問題として提示してみた。
問題意識の正確な把握と基礎的知識が備わっているエリートは直ぐに理解し呼応した。
そして、自身が体験した政官の高位の部類に入る人たちの状況も添え、かつ彼が依るすべとした理工系エリートの思考習慣を超えて、まさに彼らにとって当てにもならない人間学的考察から人の習性や情緒なりを更新、是正することを共有する人々と、利他の貢献を企図してお節介なる集いを催すことになった。
当初は四、五人、現在は多士済々の十人余り、この座談会を数回行い、その名称を考える段になってなかなか名案は浮かばない。そうしているうちに、このメンバーならそれぞれの分野のエキスパートゆえ、講話会を開いて、ささやかな相互学習をした経過で座談会の名称を考えることになった。そこで、簡便な知恵だったが、既存の会で休会になっている小生の主宰していた「郷学研修会」を、有志を募った相互交流の場として再開する運びとなった。
卜部亮吾氏
元々は、白山の安岡正篤宅での会話から、氏の督励がきっかけで、厚誼あった卜部侍従・安倍元内相・下中邦彦(平凡社)・佐藤慎一郎、各氏の発起をいただき、足掛け十年行っていた。会長は郷の篤志家、講頭は安岡正明氏、講師は漢学者、内外のジャーナリスト、政治家、匠、など多彩だか、選択は無名有名を問わず、督励意志を鑑みた人物を小生の専決で懇請させてもらった。会場は憲政記念館や渋沢別邸・都内の借室など、講話の趣によって選択していた。
休会の理由は、その世界では高名だった督励発起の方々への妙な錯覚した世俗評価に集う人たちが増えたことだ。
ある意味、権力に近い、皇室権威に近い、というアンチョコ学問の堕落だが、とくに中央官庁の官吏や政治家の卵にその傾向があった。参加者は高校生や近在の老人、研究者の類もいたが、みな良識があり、いくら有名でも四方同席の自由と平等の観念が備わっていた。
その卵や官吏は狡猾な目的があった。後援者を帯同し我が身を飾るものも出てきた。当時は安岡正篤氏と交誼があれば、何かと便利だと思う輩がいて、ご長男が講頭(当時郷学研修所理事長)なら尚更のこと、一部の者の意図は、会がブランド化していく憂慮があった。
佐藤慎一郎氏
たかだか有志の学習会ゆえ、有名になろうとか拡大しようとも考えていなかった。そもそも郷学は錯覚した人物観によって埋もれ、微かになった人心を作興させ、郷(地域)の埋もれた無名な人物を扶助し現世にその価値を覚醒させようとする運動であり、その意識をもつ人物を養成しようとする集いだからだ。
要は己の習得した能力を専ら自らの利に用せず、ささやかでも利他の貢献に結びつけることを目的としている相互研鑽でありムーブメントだからだ。
あの席で、同席の岡本義雄氏は「日本精神の新たな作興」と烈言した。呼応して安岡氏は「錯覚した価値により中央が糜爛すると、地方の篤士による志が顕在するようになる。有為なる人物を発掘して郷を作興する場が重要となってくる」
その意が、「郷学を興しなさい」と、偶然の機となって具現されたのが岡本氏命名の「郷学研修会」だった。
添えられた言葉が「無名は有力です」だった。
安岡正篤督 励発起人
作興とか、郷学とか、無名は有力だ、とかは深い意味も解らず、その場ではまる呑みだった。
こんなものだろうと始まった時、講頭の安岡正明氏が「父が考えていたのは、このような許容量のあるたおやかな相互学修なのです」と云われたが、あの烈言した岡本氏も気色鷹揚にして頷いていた。督励発起を戴いた御仁方も率先して講話を承諾し、様々な世界に起きる禍福に制度や組織にかかわらず、いかに基となる人間の問題が大切かを口唇の乾くのも忘れて語っていただいた。なかには、そのような集いならと、普段は高額な謝礼が必要な諸氏も篤志で講話を申し出る方もいた。
安岡正明 講頭
そして、妙な選民意識なのか流行りのブランド的な風評が漂ってきた。
この風評なるものは抑えられないものだった。゛たおやかな許容゛が戸惑いとなった
「安岡ブランドというものがあるようですが、食い扶持や虚飾の屏風になっています」
『父は、それを学問の堕落と云っていました』
宿泊研修で真っ暗な天井を眺めながらの寝床談議だったが、「本(もと)」が毀損されるようになれば・・・、それが、休会の理由である。
無名を旨とすると運営者は、とくにこのことに気を付けなければならない。
それが、時を経た今機の再開である。
いまは、あの当時の督励発起の方々はいない。
だが、その統(す)べを伝える内包されたものはある。つまり意志をつなぐコンテンツは前記の座談メンバーに充満している。「統(す)べを伝える」これが伝統なのか・・・
「郷学研修会」は、年初をめどに準備を進め、かつ有為なる無名の処士の参集を図っている
また、終章の「参考」にある以前の構成を維持し、新たな運営世話人等を追加選任して行うこととしている
※ ちなみに、この章のコメント欄に御感想、あるいは参加御意志のある方はご記載を受け付けております。
松崎氏著書
≪槇の会≫
また、準備世話人の座談は、名称を「槇の会」として並行して継続することとなった。
「槇」のいわれは、悠仁親王殿下の御印の「高野槇」を拝借して、世俗の学びにない俯瞰した人間考学を旨とするための名称として、次代のために現世を語る集いにした。
槇
イメージを与えて戴いたのは、参会されている松崎俊彌氏(皇室記者)の秋篠宮家の睦みと使命感についての話題に感応したことがその理由である。
郷学研修会の督励発起人だった卜部皇太后御用掛の逸話も含め、どこか督励を戴いた他の縁者との関係も、今期の再会の後押しになっているような義縁も感じている。
津輕講話
≪参考≫
当初の郷学研修会 構成
[顧問](発起督励)
安 岡 正 篤 教育家
ト 部 亮 吾 皇太后御用掛
佐 藤 慎一郎 中国問題研究家
安 倍 源 基 元内相
五十嵐 八 郎 吉林興亜塾
[相談役] 下 中 邦 彦 平凡社相談役
中 村 武 彦 古事記研究家
岡 本 義 雄 思想家
一 水 伝 環太平洋協会
[講頭] 安 岡 正 明 長野銀行会長 郷学研修所理事長
[代表世話人] 寶 田 時 雄 処士
主な講師は上記構成員(附属名省略)ほか
柳橋良雄 安岡正篤記念館 小関哲也 内外情勢調査会
ニックエドワーズ ジャーデンフレミング証券 稲葉修 憲法学者 法相
ほか内外有識者
[規約等] それぞれの良識に任せる
[費用] 当日の必要経費の参加者分担 講師料必要な場合は3万円を限度とする
[予算] 当日限りとして残金留保しない 運営は世話人篤志による
「会場] 憲政記念館 渋沢別邸 瀬田大山クラプほか
[研修] 定例は毎月一回 一泊研修年1回
[会議] 総会等の組織会議は行わず運営は篤志世話人によって随時企画構成する
イメージは関係サイトより転載させていただきました