まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「あの時の企て」  みな懸命に闘い苦悩した  08 12/3 再

2016-09-10 14:24:36 | Weblog

これを以て他国の生存を懸けた謀を悪意と言い立てるものではない。歴史は国家の創生とともに複雑多岐に要因と、情緒的には陋であるが民族夫々に涵養された精霊の存在なくしては語れない。

しかも座標の定まらない放埓した言論は、切り口の異なる奇論や高邁にも人格とは何ら関わりの無い附属製価値を金屏風にして判例の如く、一過性と思われる定説?を作り出している。

近頃はオーラルヒストリーが流行りだが、それとて曖昧な言辞としてその手の言論界に布かれた掟を覆すことなく、発言者の肉体的体験証言を虚偽、錯覚の範疇に追いやっている。


           
        辛亥革命の先輩山田純三郎と若き蒋介石


あの孫文の側近であり唯一宋夫人と臨終に立ち会った山田純三郎の言辞さえ、定説に添わないというだけで、歴史の章から外されている。
「孫先生があの時決断した理由は・・・」
山田の回顧は臨場感がある。

じつはこの資料は山田の甥である佐藤慎一郎氏から寄託されたものである。
「人々が落ち着きを取り戻し、真の日中善隣厚誼が図れるときこの資料は、『互いに難しい時期を一生懸命生きた』と、互いの反省と敬意を踏まえて語れるようになって欲しい。それが叔父や孫先生のアジア安寧に懸けた願いなんだ」

戦後の検証本は必ずといってよいほど、「コミュンテルンノ謀略で戦争に誘引された」と識者は云うが、その曖昧な表現は専門研究者ですら奥歯に物がはさまった章を重ね、因の根底にある問題を明確に表してはいない。

コミンテルンを作った大謀は数百年の経過を経て、恣意的にも民主と自由の美名を投げかけ、思索と連帯を亡くした人間に対して投機的数字を以って、再び「管理束縛」の世界を企てている。

つまり、歴史は継続している。しかも悟られぬように・・


この資料は、戦後検証と称して紙面に連載している新聞社、公共放送、あるいは新聞社から依嘱して貰った大学教授すら解読できなかったいずれ欧米からの情報の後追いに終始するだろう

なぜなら人の吐息が感じられる臨場感があるため、資料として取り纏めされてないものについては西洋的整理、分類、検証には馴染まないため、異民族の性癖、習慣、などを加味しなければ読み取れない「謀の展開」が読み解けないのである。

なかには、吾が身の危険を感じて、安全定説に隠れる当世知識人の倣いもある。

ともあれ、このような資料は眺めることから、登場人物の臨場感を引き寄せることが必要となってくるが、始めから覗き、反論の具と考える向きは歴史活学、ひいては異民族との交流史にみる人間の行を、単なる文章化して、゛知の位゛を得るだけに堕してしまうだろう。

何よりも記録のために歴史は作動してはいないからだ。



              




【老特務からの面前聴取抜粋  聞き手佐藤慎一郎氏】


「君は利害のないときにメクラになる」と
《郭は千葉県市川にいるとき、ゾルゲに誘われている》

ルーズベルト
駐重慶米大使 駐米中国大使
宋子文に聞く(ワシントンにいた)
王が米武官を呼び、ワシントンから来た宋子文の電報を見せた。
青くなる 蒋は安川を引きだして迎えにやれ、と、いうことになる。
王は蒋に
「 日本の降参は時間の問題である。 中国は米の援助で新軍隊の建設中である。
日本が降参してしまったら中止されてしまう。中国が独立するには戦いを利用して 新軍隊を建設せぬと行かぬ。できるまで押さえたほうがよい。」
蒋は「ナルホド」と。

王は蒋に
「このニュースを漏らさぬように、羅を逮捕してくれ。 この運動は彼がやっている。
この情報は羅の下から来たものだ。 いまは羅しか知らぬが、明日知れる。
あさって英にわかり、米に判る。それではいけない。」
それで、1920年3月2日朝、便衣(便衣隊)が
“ 蒋委員長がわたしに会いたいといっているから”と、迎えにくる
わたしは鄭介民と英大使館に、「逮捕に来た」と電話をかける。
英大使館は蒋に抗議する。蒋は“外患嫌疑”だと答える。
英は蒋に“それなら中英同盟関係はどう考えているのか”と決めつけられ、わたしは2週間ぐらいで出る。

 逮捕されたとき、国際知識社は鄭介民に接収され、鄭は軍司令部の中に、特別情報組をつくり、組長に王□承(少将 代表団の軍事組長 現台湾)とする。
わたし(羅)が三高のとき、周 佛海は京都大学経済学部にいた。
わたしがいないと周 佛海の情報はとれぬ。
それで、鄭、私と、英、王 □丞の4人で終戦情報をやった。

上海の共産党、顔と徐、張子羽が何世□、□恩承らと組んで繆 斌を日本に送った。(幻の謬斌の対日和平工作)

私の和平路線は
申錫雨(朝鮮人 終戦後、南朝鮮の駐華大使 当時上海にいた)
何世□ →申錫雨 →安川 の関係である。
謬 斌は重慶とはなんら関係のない人である。
繆 斌は 私の部下を通じて、何応欽に手紙をやった事がある。
私はこの手紙を何応欽にやらず、私が勝手に返事をやった。それで関係があろうと考えられている。

周佛海 →張叔平(国際知識社 上海主任) →羅
張は中共に利用されており、その後、追放され周佛海の法廷に出て、のち朝鮮に逃げ、日本を通過して現在香港で貧乏をしている。

・・・・・

周恩来の代表として、王仲仁?が来て、朱生命事件を起こす。
署名した人で残っている人 王徳立 宋越倫 催万秋 □恩承
新京亭の主人は王仲仁が帰るとき、新京亭で送別会をする。主人は挨拶にでる。


郭沫若と王凡生は仲が悪かった。
ソ連は郭沫若をして情報をやらせたかったが、郭は力も小さいし、情報にも疎かった。
宴会のとき、王は郭に
「きみのツンボは、都合の悪いときのみ聞こえない」


王は「安心せい、絶対言わぬから」と
「自負が強すぎるからこんなことになる。虚心坦懐にやろう」と、言った。
その後、王の情報はそのまま米本国に伝えた。

現在、香港にある、国府 鄭介民の大陸工作所 (国際知識社)を接収したものは、英国と一緒にやっている。 米もいま参加していると言われているが、疑問。英は米を軽蔑している。 □□曽は、私がやめてからやった。

工作所長 鄭介民
副所長 国防部第二庁々長 侯□(判っている)
〃 □□曽 (その後、台湾で1949年逮捕され、銃殺されたと噂されている。


苗剣秋が重慶に行ったのは、形式的には戴笠に呼ばれたのであるが、本当は国際問題研究所の王に呼ばれて重慶に行ったのだ。西安事変の張本人。

 スメドレー女史と打ち合わせたという。
また、事変まえに保定?の秘密会議に出ている。
共産党討伐をやめて、共産党と握手しろと張学良にすすめる。
終戦後は24年か5年頃 ,学良の護衛隊長 孫銘久が来日して、苗と画策する。
これはあくまで中共の使命をもって来たと苗は隠さなかった。
苗は羅に協力してくれと言われた。
そのとき羅は、大東漁業会社をやっていた。孫もやりたいから中にいれて一緒にやったら如何と、いって来た。 私は問題にしなかった。


          

《苗剣秋氏は病室のベットに横たわり身体にはチューブを挿入、まさに危篤状態だった。苗夫人は『苗先生は我(自己)を探す為に一生忙しく動いていました』と筆者に回顧した。「張さん(学良)は・・」の問には、『張さん、あの人はお坊ちゃんですよ』

 以前、苗氏は【天下公の為、其の中に道在り】と色紙を書いてくれた。そして『男なら世界史に名を遺すようなことをしなさい』と。
訪問は常備薬「七福」と甘いケーキだった。》


・・・・・
苗が共産党の悪口を言い出したのは、徳田球一らが、パージになってからである。
これは、一種の援護策である。 米は共産党の同調者を逮捕しかねない情勢だった。
それで、大使館の□友徳参事官を通じて、張群に取り入った。
( 張は□に日本情報を取らせる。□は日文が読めぬ。苗がかわってやっている。苗 はこれを利用して張群に取り入る。)

苗は現在、台湾政府から少し生活費をもらっている。
実際は、応大華行から出ている。(中共 日本工作機関)
正式には東京にはないが、楊雲竹が東京にいる。
張雲竹は本名(張宋植)米国籍でCCchangといっている。
応大華行は香港で手入れされてから、張宋植は行方不明。
米でも手入れされ、資金200万ドルぐらい凍結されたといわれる。

張の下で楊が働いていた。張の後で楊が日本の責任者になっている。
楊の事務所は、今、富国ビルにある。
大使館のそばが苗の家、苗はそこから新聞記者の資格で、自由が丘の大きな家に入る。
もとの苗の家に楊雲竹が入る。
平和条約の後、接収家屋を返さぬといかぬので、自由が丘の家を苗はかえして元の家に入る。
苗の今の家は日本のある無電会社々長が、タダで住まわしてくれている、といっているが、この事情はあわぬ。おそらく、応華大行の家である。
生活費は、張学良から出ているというが、ウソである。
苗の娘と、娘婿は米留学 これも張学良から出ているといっている。


結論からいうと、親米、和ソ、反中共策をとれ
中、ソは表面的円満のようだが、内部の摩擦は大変なもの、ソとしては中国に共産党を中心とした衛星国家をつくる計画があった。
あくまでも衛星国家としておきたかった
意外なことに、ソに負けぬぐらい強大なものになってしまった。
そのうえ、実権者はもともとソのお陰で今の地位に就いたものではない。

  英の援助が大きかった。
ソ連系の者には(国際派)、中共の主流にとって替わろうとする陰謀が何回もあった。
高□、李立三
共産主義のイデオロギーを重視し過ぎるきらいがある。

共産主義革命は、人をだます道具で、天にかわって道を行うと、いうのと同じである。
自分たちはソにだまされない。警戒しながら利用しているだけ。

6億の人を押さえ付けるのに、党員だけではできぬ。 どうしても、ソの援助という張り子の虎の威を借りる必要がある。

向ソ一辺倒は、威を借りるためのスローガン。
自分の力で押さえる自信がつくまで、自分で虎を破り捨てるつもりはないが、ソに対する警戒心は一刻もゆるんでない。

ソでは衛星国のつもりで援助していた。最大限、黄河以北と思っていた。
南京撤退したら、李宋仁と一緒にソ連大使館のみ広東に移る。米英は南京に残ったのに。
これは、ソが国民党と組んで、中共の南下をくい止めたかったのだ。
台湾は問題ではなかった。敗残兵のみ。
米のフリーゲート艦少しと、日本の武装解除された船のみ。
問題なく台湾は取れた。 ソは船を返さなかった。


朝鮮和平が長引いた原因は、米ソの問題ではなく、中ソの問題である。


ソは戦争をやめると同時に、中共の在鮮、在満の兵を本国に引き上げることを要求した。 中共は戦争をやめたいが、部隊をそのままにしておきたい。
この一致点を見つけられず、長引いたのだ。

スターリンは、中共を東南アジアに向けさせたかった。
中共が南進すると、北方が空っぽになる。
毛は要求を表面は引き受けて、朝鮮から動かさない。
催促され、申し訳に西蔵に兵を入れる。
中共の立場からすれば、西蔵に兵を入れるのは全く不必要。
西蔵を押さえるのは、東南アジアの入り口を抑えたと同じだ。
あとはソの援助を待つのみ。



満州占領の時は、中ソに秘密協定があり。
ソの了解をなしに、中共の兵を入れてはいかぬ、と。

スターリンの死がだいたい、決まる。
それで死の直前に、安心して中共は精鋭部隊である、林 彪旗下の2個軍団を佛印にまわす。
スターリンの死後、必ず主導権争いがあるだろうから、この機会に東南アジアを入手しておこう、というので中共は本気で乗り出す。

東南アジアに対する考えは、
ソ連は
1 中共をそそのかして、東南アジアで冒険させて、米英の力で叩きたい。
2 アジアで今一つの強い国をこしらえて、中共と互いに牽制させておきたい。
この国は、日本が一番条件がかなっているが、東南アジア諸国を日本にくっつけ てはじめて条件に適う。
   中共はこの腹が解る。その手には乗らない。


 中共が朝鮮に出たのも、もともと日本を入手したいからであった。

米はまさか、朝鮮や日本のために、本気でやるまいと思っていたのに、意外ややったのでビックリした。
工業の発達した日本をソに利用されたら困る。



東南アジアが米の援助で日本のものになると、本当に中共脅威である。
日本のものにならないうちに、東南アジアを中共が入手したい。
スターリンが生きてる時は、北から空き巣に狙われる。
スターリンが危なくなる。
それで本気で佛印を援助した。


・・・・・

                


これは決して相手をあげつらい、貶めるための資料ではない。また歴史の記述を徒に書き換えを要求するものではない。欧米列強に蝕まれた祖国の回復のために懸命に行動した民族の姿である。

弱きものは強きものに随い、自らをも欺き、地に伏して泥水を啜った民族が、その歴史の恩恵か、有り余る知と戯れを駆使して異物を排除する人間の自然な行為にもみえる。香港は還り、富も蓄積した。これからは守るために知と戯れを用とするだろう。

歴史を俯瞰して眺めると、武力が数字や投機と変化し、また漣が津波となって押し
寄せる危機を、アジアの共通意識として共助しなければ、またあのときのように離反の憂き目を見るだろう。






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亡命特務の自発的証言 07 11/5再

2016-09-10 14:22:51 | Weblog



石原莞爾から何応欽に宛てた書簡


昭和10年   北京排日運動 1,2,9事件 (盧溝橋の2年前)
当時 北京全学連委員長 □□□
後の統一戦線工作部 中央本部副組長

戦後、中央の指令で香港に単身来ていた。
中央は奥さんをよこした。
通常任務は妻帯はさせないことになっているが本人は本部の心遣いに感謝していた。同じ共産党の妻は逐一、夫の動向を北京に報告していたが、いたたまれず 夫に告白
「自分はあなたを監視するために送られて来ました」
夫は愕然として亡命を決意する。

香港から沖縄へ(米国施政)CIAが逃がす
東京ではCIA、公安調査庁が身柄保護 後米国へ

公安の依頼で面接する。〈聴取 佐藤慎一郎氏〉
本人から自発的に話し出す。
北京無血解放、工作部組織図、特務養成所、その中で盧溝橋事件の 話があった。

特務養成所では

【盧溝橋事件の成功が謀略として一番効果的であった】と教えられる。

自身は全学連委員長として忙しい毎日であったが事件のあったことは知っていた。1,2,9排日運動のときは各地に共産党青年活動家を送り込み行動を起こさせた。
指導指揮は後の国家主席、劉少奇であるという。

☆ 夜陰に紛れ両軍が対峙している真ん中から両軍に向かって発砲。
 好戦的日本軍人の背信的内通促しも・・・(田中隆吉氏の証言にもある)
   日本軍参謀は「偶発的事件…」と発表



単なる事件としてとらえてはならない。
国民党、共産党、日本軍だけが事件構成者ではない。
イキリス情報部M16の後ろ盾を得た国民党軍事委員会、“国際問題研究所”ゾルゲの謀略機関
 〈所長 王梵生〉蒋介石直下に在った組織だが、総ての構成は共産党員

中国の情勢を作為的に変化させて(謀略)日本国内の決定を誘導して、いち早く情報として収集する(情報)
(目的) 北進を南進に転化するために、どうしても中国国内に誘導し国民党と戦わせ英米の反感を誘い、包囲網によって禁輸戦略をとり真珠湾、東南アジアに日本の戦端を暴発させたのである。(真珠湾奇襲3週間前に日時、司令官まで察知)

ソ満国境は重要でなくなり、安心して独ソ戦(スターリングラード)に軍備を転進させられたのである。 (ゾルゲの任務)
西安事件もそれら一連の戦略内にあり、戦後の中華人民共和国成立まで一貫した謀略戦があった。

「日本と支那が戦ってどちらが勝ってもアジアの安定はなく、西洋列強のアジア侵略に手を貸すのみだ」
孫文の意志を守っていた蒋介石も、謀略に軽々として乗ずる日本と、列強の影響力を利して巧妙な謀略を図る共産党の構図の、どうしても抗すことのできない謀略によって作られた事実に負けたのです。

 ゾルゲ事件を日本国内の問題として取り上げても情報伝達や一面の意図しか描くことはできない。歴史からみた将来の国家戦略を考えた場合、大きな誤算を招くこと必至である。

日本の奢り、国民党の腐敗堕落、中共のソ連と連携した国際謀略、それはなるべくして成った現在の国家構成である。

まだまだある、以上は枝葉末節から小局、中局だが、見逃してはならない世界的構図は金融を始めとして現在の混沌とした社会の元凶であり、今以て継続しているものでもある。

上記は二国の情報戦としての問題だけではなく、アジア混迷の゛なぜ゛を解き明かす糧として例示しているようだ。

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荻窪酔譚・・?   2008 3/4 あの頃 再掲載

2016-09-10 14:14:39 | Weblog

   満州での佐藤慎一郎家族


荻窪酔譚余話

杉並区の荻窪住宅23楼301号の住人、佐藤慎一郎宅には多くの客人が訪れる。

さて、幾人が荻窪南口から経由する団地行きのバスに思い出を乗せたことだろう 

文章定かではないが梅里先生(徳川光圀)の碑文にこんな刻文がある

「第宅器物その奇を用せず。有れば有るに随い、無ければなきに任せてまた安如たり」

 書棚に囲まれた部屋に、まるで帰宅するような厚かましさで拝聴する無恥と無学の懇請は、まさに附属性価値を排して、無名で有力であれと諭す佐藤先生と懇意な碩学の言に沿ったものでもあろう。

 はじめは異質、異文化の世界かと伺っていると、浮俗にまみれていた自分に気付く。

驚くほどに透明感のある率直な欲望を鳥瞰して、そのコントロールの術を自得する人間学の存在を認識する。いわゆる自ずから然りという(自然)と人間の同化と循環、そして離反に表われる歴史の栄枯盛衰を自らが解き明かす(自明)という吾の存在の明確化という真の学問の探求に他ならない。

不自由な身体を運び、3楼から道路まで見送りに降りる姿は、多くの明治人が醸しだす、いとも自然な実直さを漂わせ、乗車、発車から車影が微かになるまで手を振る姿に車窓が涙でおぼろげになることも屡だった

 交談は、「話」という舌の上下ではなく、体験に観た吾そのものを伝える「語り」であり、知識や物珍しさの収穫ではなく、感動と感激の継承という人間を探求して「学んだら行う」学問の姿であった。

もちろん、巷間の学者、研究者の類にその薫りを観ることはない。




「荻窪酔譚」読後感  元国策研究会評議員 村岡仙人

魏の文帝曰く「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」
荻窪酔譚を一読して想起した言葉である。
実は、私の読後感は之に尽きる。然しながら是では、木で鼻をくくる、に等しい。暫し、私の独言にお付き合い願いたい。
 
 荻窪酔譚は佐藤慎一郎氏と寶田時雄氏との師弟対談である。(註)
 近代史の中で、このジャンルを物色すれば、まず筆頭に挙げられるのは「海舟座談」(岩波)である。これは衆目の一致するところであろう。

 次に、挙げられるのは「矢次一夫対談集」(サンケイ出版)である。 此の対談集の秀抜は、昭和の怪物と呼ばれた矢次一夫氏と碩学安岡正篤氏との対談である。
 是等に勝る対談集は当分の間、現れないだろうと諦めていたところ、私の周辺の縁を通じて突然、眼前に出現したことに驚いてしまった。 晴天の霹靂とはこのことである。
 即ち、私の先輩であり、精神的な背骨である寶田時雄氏の下から出現したわけである。
 
元はといえば、四年前、私の先輩である大塚壽昭氏(THINK JAPAN主宰)のご紹介で寶田時雄氏に邂逅したという事情が横たわっており、畢竟は道縁であろう。

 さて、「荻窪酔譚」であるが、これは資料集めの類である一編の作品ではなく、一個の人格(人間精神の交響楽)である。これを思い得ない人は少々、修行不足というものである。
 
 敷衍(フエン)すれば、師弟の拍子が絶妙であり、テーマは政治、社会、文化、歴史、人物論等々、広範に及び、対談それ自体が恰も一つのシンフォニーを形成しているということである。

 まさか?と思う人は「論より証拠」とにかくご一読あり。あなたはきっと何かを感じ、人生に一つの光明と感激、そして清涼で力強い世界観、人生観を確保するに違いない。

 心の荒廃が憂慮され、価値判断が混迷している昨今、「人生はどうあるべきか」「自己をどう形成するか」「他者にどう向き合うか」「歴史はなぜ繰り返すのか」という問いに、豊富な啓示を含む『荻窪酔譚』を、多くの人々に読んで頂きたい。
 語るも人、語らせるも人『荻窪酔譚』は真に座談の珠玉である。

                          

《以下、酔譚録》
第一宵 一坐 其一刻

(以下S) : 渋谷の中国料理屋、其処の親父が羅堅白さん。

(以下T) : 誰かに連れて行かれたのですか?

S : 割と美味しかったから、昼や晩其処で食事したのだ。 何も知らぬで料理屋の親爺だと思っていた。 僕は中国人と気軽に咄すでしょう。其れで或る時「羅さんの奥さんが北京から香港を経由して日本に来た時、中国共産党のスパイだと判って捕まり困っている」と聞いたので、僕は羅さんに相談せずに警視庁へ行って釈放を
頼んだ。 事件と違って書類が上に行ったり色々すると、片付かないうちは没に出
来ないらしい。 其れで早いほうが良いと思って一所懸命頼んで釈放させた。
〝釈放になってよかったなぁ〟、と思った。

T : その時の警視庁長官は柏村さん?

S : そう。 僕はその頃、西荻での引揚寮に住んで在た。 其処へ羅さんが物凄い剣幕でやって来て
「何でそんな余計な事するのだ!」

「どうしてですか?」

「あれ家内がどんな人間か知っているのか?」

「あんたの奥さんなのだろ?」

「あれ家内は中共のスパイだ」

「でも、あんたの女房じゃあないか」

結局、奥さんを横浜で船に乗せて香港へ送ってやった。 流石に気に為ったのか、羅さんも見送りに来た。 暫くしたら羅さんから連絡があって、僕を別の中国料理屋へ連れて行き之う謂った。

「実は僕は、国際問題研究所の総務部長です。 所長は王 梵生」

「どんな機関だ?」
「中国に於けるゾルゲ機関だ。 所長の王は国際共産党員」

「ノート執って良いか?」
「良 い」、と。

T : 良いって、現役じゃあなかったのですか?

S : 曾う、辞めた訳です。 大東亜戦争中、日本人を何百人も使ってスパイ活動をしていた。 総理の関係するルート等も有るらしい。

T : 何故話そうとしたのか、先生の立場が解っていたのですか?

S : 多分、解っていたよ。 話が跳ぶけど引揚寮にいた時、政府筋から連絡があって毎月、総理に報告する事に為った (其の時は総理報告されるとは知ら無かった)。 赤坂見附迄行く電車賃が無くてね、四ッ谷で降りて指定の料亭迄歩いて行った。 すると
「中国のお噺を訊かせてくれませぬか」、と。
飲み乍ら話を訊いた訳だけれども料理なんてチョピっとだった。

T : 料理屋なんて其ンなものですよ。

S : 「タイピストなど他人の手に任せ無い。 全部私が自分でノートして政府に提出します」、と。
質問すると

「実は是、アメリカ・ソ連・中東等の専門家、7~8名集めて月一回やります」、と

「莫迦話なら出来ます」  

「其れで結構です」、
と謂うから引き請けた。 帰り、金一封を寄越したけど

「僕、お金なんて要りません」、と断った。

帰りの電車賃が無いから、ハイヤーに乗せてくれて寮まで送ってくれたけど、アバラ家だったから運転士が吃驚していた。

僕の報告が総理に出されている事が何で判ったかと云うと、此う云う事があったのだ。 外務省主催で年3~4回、九州から青森迄、講演して廻った事があった。 確か外務省の外郭団体 (国民外交協会) からの依頼だったかな、某ソ連駐留大使夫人と一緒に講演して廻った事があって、一緒に飯を喰べていると、御本人が中共へ行った時のトンでも無い噺をペラペラ喋っているのだよ。
僕は翌月其の事に即いて赤坂で報告した。

3~4ヶ月経ってから、外務省主催の何らかの会合で大使夫人と会った時、満座の席で

「あんた何で私の事、中国大使館に漏らしたのよ!」、
と罵倒された。 其れで僕は、赤坂で

「あんた一体、之を何処に報告しているのだ?」、
と事情を問い詰めたら、初めて

「実 は総理に報告しています」と。

「全部で7部作り、1部を保存し、残り6部を配ります。 総理に直接渡しますが、ご不在の時は秘書館室に渡します」、と打ち明けた。

T : 最高機密が何処かから漏れる! 漏れている事実は勿論、総理には話さないのでしょうが……。

S : 暫く続けていた或時、安岡 正篤先生の会があって其処に福田総理が入って来ると、安岡先生が僕を紹介して下った。
 其の時総理は 「嗚呼、佐藤先生の報告は毎月、拝見しております」、と謂ったので、本当に総理に行っているのか如何かが判った訳です。 何ヶ月か経ってから〝何時・何処で・誰が・何を如何した〟と謂う資料を僕にくれる様に成った。 其れで愈々

 「もう二十年以上続けたし、自分でも書き残したいものが有るから辞めたい」、
と云ったら

「代わりの人を推薦してくれ」、と。

 「大学の先生はどうですか」、
と云ったら

 「大学の先生は理論ばかりであり、誰にでも見る事が出来ます。 我々は中国人が、〝何を・如何〟 考えているのかを知りたいのです」、と。

T : 観るべきものは見ているのですね、政府も。 売文業の輩で然か無い嗚呼云う学者や評論家の謂う事は、表現としては整っているけれども、誰も信用しませんしね。

S : だから人材は仲々見つから無い。

T : 処で、羅 堅白さんは先生の役割を知っていたのですか?

S : 最高機関の或れ (宏池会事務局長・田村氏) と繋がっていたから知っていたと思う。

T : 其れだけ日本人の情報 (の管理体制) は能天気 (杜撰) なのですね。

S : 羅さんは
「日本人を何百人も使ったけれども、日本程情報の安 (易) い国は無い。 日本人は、一回金を貰うと忠誠を尽くすが、アメリカ人は毎回、其の都度金が要る」、
と謂っていた。 僕は満州国に在た時からお金は使わ無かった。

T : 羅さんもお金では無く、誠意で喋ったのですね。 或の人も其うですね、北京紫禁城の無血開城で中国共産党/全学連の委員長が自分から喋り出したのも同じケースですね。

S : 嗚呼、其れをもっと正直に云うとね、実はこうなのだ。 アメリカが香港から連れて来て公安調査庁が一時預かり、僕に世話を頼みに来た。 公安調査庁は何も知ら無いで局長から直接頼まれた。 其れで渋谷の家に七ヶ月以上匿った。 内閣調査室 は僕に尾行を就けて来たけれども、僕は「其れは却って安心だ、有り難い」、
と云ってやった。

T : 矢っ張り中共ですから危ないと思うのでしょうね。

S : だけれども、僕は 〝中国人がどう考えるのか〟 が勉強の目的で、僕の目的が国の情報として、役立つのなら役立てて頂きたいだけ。 金の為にやると堕落する。

T : 国を売る事も有りますしね。 その後、羅さんとのお付き合いは?

S : 羅さんが立川へ引っ越す迄、付き合っていた。

T : 資料を拝見すると、日本を北進から南進へと。

S : 曾うなのだよ! 維新以来、日本としてはソ連が一番の問題命脈だ。
だから陸軍幼年 学校でも一番出来る奴は、東京でロシア語をやらされたのだ。 長男は小学校 (旧・幼年学校)でも中学校 (旧・士官学校) でもずっと一番で通したけれども、満州から東京へと移ってから肺を病んだ。

満州って空が凄く綺麗だから、肺の抵抗力が無くなり、其れで東京へ来てから肺を患ったのだ。 入院してから34才で退院した。

軍人への道を諦めて弁護士を志し、二年目に合格した。三十六才で弁護士に成って、五十一か二で死んだのだけれども、肺でね………… ―――――。

さっきのロシアに如何対処するのかという北進論だが、日清・日露・韓国併合・満州
国建国・開拓団。 皆、北進論だ。 是を南進論に換えたのは国際問題研究所なのだ。

T : 羅さんの資料に拠ると、完全にイギリスからの援助ですね。 北進を南進に換えさせて、日本を英米にぶつける、此の謀略に能く引っ懸りましたよね。 西安事件も其の一端の中に有りますね。

S : 北京大学で関係している〃一二九事件〃 この排日運動に僕も参加している。 だから領事館内警察の青山さんが僕にずっと喰っ付いて歩いていた。
僕の事は 〝要 注意人物〟 として、警察を通して中国政府にも情報が入っているよ。
其れで中国の愛国者を探して演説しようと思ったら独りも在無い
東北大学なら本物が在ると思って学長と会うと
「日中親善云々―――」、
と喋り始めてもう如何にも為ら無いよ。
本に書いてある事は全部嘘!! 愛国者なんて独りも在やし無いよ……。

T : 本を読むと歴史的には相当な抗日運動と標記されているけれども、その実、内容はトンでも無い。

S : その後、青山さんがずっと僕に喰っ付いていたから、日本政府に報告されていたのでしょう。 戦後、満州から引き挙げて来て、佐世保港に着いたら 「佐藤 慎一郎は居るか!」、と呼ばれ、米国情報部に連れて行かれ、川島 芳子に即いて尋かれた。僕、北京で彼女と2~3回会っている。

T : どんな人だったのですか? 〝男装の麗人〟と銘ばれていますが。

S : 男が駄目だったんだよ。 結婚初夜に痙攣を起こして抜けなく為った (笑)、其れで義兄さん (旅順長官・竹内氏) の知人で三浦というお医者さんが後始末した。

T : どこに情報を持っていったのですかね?

S : 能くは解らんが、兎に角 〝金で情報〟 は駄目です、人間自体が駄目。 国の為の情報は命懸けです。

T : 国家意識が無いのですかね……… ――――。

S : 之、整理して差し上げますよ、 国際問題研究所の事でいらっしゃる、て謂うから探そうと思ったのだけれども、毎日忙しくて…… (苦笑)。

T : 大丈夫、此処に関係図が有りますから (微笑)。 苗さんも入っています。 胡 耀邦が来日して国会演説した時、新聞は一項分カットしましたよね、日本で革命を罫る為に日中友好を図るという部分を。

S : 日本革命で引っ繰り返す為の日中友好。

T : 処が日本では誰も信用し無い (笑)。 大きな歴史の流れの中で中共の動向を観れば考えられる事なのだけれども。

S : (話しが変わって) 譚さん、本を書いているね。
(譚 路美 譚覚真娘)

T : 台湾で反共新聞を執り、中共の朱徳の使いで来日しましたが、我々からは考えられない。 某総理は話に乗ったのですかね。 秘書さんとは会いましたか?

S : 次男と仲が良いから、会った。 某総理が北京に行く時、僕の処に話を訊きに来ましたよ。

T : 日本の国策を決定する中枢部に、スパイと云うか情報漏れが有った訳ですね。 日本共産党では無く自民党、其う謂う処に (スパイが) 棲る。

S : 僕は情報で中国人から金を貰った事が無い。

T : だから喋ったのでしょうね。 金で動くあの国の人が人情で噺をしてくれると
は (笑)。 根本的に中国の人に【人間】として関わる時、何が一番重要ですか?

S : 矢っ張り人情だと思う。 《人情は国法に勝る》だよ。 天下・国家の話や、孔子様・孟子様は 〝看板〟 だから。 中国人は 〝お金を取る=他人/何もとらない=家〟。 〝家族〟 だと何でも喋る。

T : 確かに実感ですね。 向うからやって来た商社の女性 (中国人) が、私とは商売抜きでやって来ると、必ず私に 「元気ですか!」 と電話して来ます。 中国人も日本人も付き合い方は同じですね。 でも、金が介在すると駄目ですね (苦笑)。

S : 中国では医者と坊主は殺さ無い。 だから僕は、薬を必ず持って出る。 逃げた事は一度も無い。ロシアの女兵士と死姦以外は (笑)。

T : 所謂【人間】に安心、矢っ張り 〝性善説〟 ですか。

S : 本当、危険を感じた事は一度も無い。危ない所に行くでしょう。 旅館が無いから民家に泊めて貰う。
僕が外出すると、バッグの中を調べるの。 其れで薬を見て
「あっ、医者だ!」
と判断する訳 (笑)。

終戦の2・3年前、恒吉副官から関東軍の作 戦第一号極秘書類を見せて貰って、満州人に詫びる積りで死のうと思った。

発表したもの全部嘘! 其れで終戦の時、家族皆を帰国させて自分だけ死ぬ積りでいたら、暫くしてコレ (モト奥様) が皆を連れ戻して来てしまった。
(鉄領から引き返している)
僕は一人でも多く の日本人を助けること、満州側に日本の文化財を引き渡して、其の二つだけ遺して死のうと思った。

終戦の時に最後に貰った給与の半分を、長い間気懸りで或り乍ら何 もして挙げられなかったリツさん (佐藤先生の恩人) に差し上げた。 そして、大同学院へ走って遺言を書こうと思って日本刀を使ったら斬れないのだよ。 死ぬ作法も出来ぬ (苦笑)。 人から 〝軽く斬れ〟 と謂われ、今度は上手くいったと思ったら、ブッと斬れて血が止まらくて大変な傷に成ってしまった。
遺言処では無いよ (笑)。

T : 指先を切るのです、腕は斬らないで…… (苦笑)。

S : 何も知らぬで (苦笑)。 そして二・三日したらコレが子供達を連れて帰って来たのだ。 食って行かねば為ら無いから、外へ米や醤油を仕入れに行くでしょう。 米屋へ行ったら其処で
「あんた、吉林の田舎で中国人を救けた医者でしょう?」、
と謂われ
「否や、僕は医者じゃあ無い。 僕は大同学院で支那語を教えていたのだ」、と答えたのだけれども 「否や、あんたは医者だ」、と謂う。

実は当時僕は、仁丹や 歯磨き、目薬等をバッグに詰めて吉林の田舎へ行った時、其処で重病のお婆ちゃん を本当に仁丹で治した事が有る。
六、七年経ってもお爺ちゃんが其れを覚えていて、吉林の田舎から新京迄卵を20~三十個も持って三・四日掛けて歩いて来て

「大同学院の佐藤 慎一郎と云うお医者はいないか」
と支那街を捜し廻り、其の米屋にも立 ち寄ったらしい。 其れで米屋の親爺が僕を見て

「あんた、吉林で中国人を救けた医者でしょう」
と謂って米を気持ち良く分けてくれたのだ。 其れを自宅で売るのだが、僕は一割も儲けて売るのが心苦しくて、玄関に『仕入れ価格幾等、一割儲けます』 と貼紙して売った。 跳ぶ様に売れて生活の見通しが就く様に為った、青森県人だけでも救けようと思った。
  

以上、一部抜粋



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我、汝らほど書を読まず、されど愚かならず 14 6/20 あの頃

2016-09-01 09:57:49 | Weblog

解ろうと判るまいと、言うべきことは言う   横井小楠




明治の傑物は「学歴」は豊富だが「学校歴」はなかった
西郷、高杉、坂本、勝、は幕末明治の有名人だが、今どきの官製学ではとうてい量ることが適わない器量、度量がある。それは任侠稼業の次郎長や国定忠治もそうだ。
そのころの国とは藩や郷を指したものだが、衰え穏やかになった幕政は、それまで規制されていた各藩の自治なり交流連携を盛んにさせ、飛耳、遠目は郷民意識の高まりとなり,他藩、あるいは他国との観照によって自藩を知ることとなった。くわえて虎視眈々と植民地化を窺う西洋事情とその力量を知ることで、より「時の存在」を認識するようになった。

分かり切ったことだが、この経過は人の学び、政治、経済などの進捗ステップに例えれば、流れは自ずと我を知ることになる。
犬に例えるのも失敬だが、リード線の出し入れは犬の死活問題だ。慣らされた犬は飼い主の顔色を窺いつつも大人しくしていればリード線が弛むことを知っている。飼い主も犬の動きに添ったのでは動きが忙しいので、なるべくリード線を伸ばすことを考える。
当時の幕府も時の流れについてゆくのがしんどかった。これは制度うんぬんより身分ある人の問題だった。その身分に敬重が無くなった。






児玉源太郎



秋山真之

児玉や秋山がいなかったら・・・・


俺もそうだかが、お前もそうか、それが広がるのは早かった。もともと確固なる維新の思想があったわけではなく、同様な他を知ることと、発想や行動の自由がそれを推し進めたと云ってもいい。ここでは人の躍動を支える好奇心と類に生ずる協調や連帯の喚起だと考えられる。
それは冒険への後押しだ。挫折さえ成果として肉体に浸透した。目を見張る成功は逆に恐れと自省さえ呼び込んだ。時の縁で競った相手の敗北と目前の惨死は、哀悼、忠恕、の精神を養い、儚い人の世を自認するすべともなった。

ならば、学びを与えたものは何なのだろうか。
総ては人の織り成す現象と、自身にも更新を促す戦慄(わなな)きに似た感動と感動だ。
松陰は思想家とはいうが、伝承者としての存在の方が勝るだろう。またそのように考えることで師は学徒の心に浸透するのだ。
瀟洒な学舎や珍奇な学科ではなく、或るときは馬小屋、ときに獄舎だ。教科は使い慣れた古典だ。しかし教え方は固陋ではなかった。解釈は変わらなかったが、講釈は一様ではなかった。もちろん高下駄をカラカラ鳴らしてくる晋作には頭領の心得として覚悟を説いただろう。博文には勤勉と忠恕を説いたに違いない。




高杉晋作



長府東行庵




筆者が二十代の頃、松陰神社の土産物屋の老いた女性が母の想いでを語ってくれた。
「晋作さんはお城の近くから松陰先生のところへ通っていて、早足で高下駄をカラカラ鳴らして周りを見向きもしないで通っていた」いかに、好きで愉しい学びだったのだろう、何よりも先生が好きだった。面白かったに違いない。想像するに松陰は晋作に笑ってこう説いたはずだ。
「孔子先生も、学問は好きで愉しくならなければ覚えないと説いているょ」
知識や技術は己の特徴に合わせて選択しなければ役に立たない。ならば、学問とは「我、ナニビト」己の特徴を知ることなのだ。知ったら伸ばすことだ。そこに精励がある。
「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」
≪朝から騒がしい世の中の鴉(帰りを知らせる手代の意もある)を殺せばお前とゆっくり朝寝ができる≫
三味線好きの晋作の都都逸だが、命の儚さを知れば遊びにも余裕がある。
辞世の句は「面白きこともなき世を 面白く」聴く方も面白くさせる。

己を知ることは己と他人との関係を知ることでもあり、相互補完、つまり他のために自身の特徴を貢献することがなければ、学びに意義を見出せるはずはない。もちろん賢書も読むが、強いて勉める勉強では頭に入っても知った覚えた類でしかなく、晋作の先覚者としての経綸や功山寺の突破力など望むべきもない。晋作はいつも頓智に似た智慧の応答を楽しんだ。

己を知らないものが、知ることを集積しても、あるいは目的と方策を仮装しても結果は一過性のものでしかない。何よりも善例を創造することなく、社会や未来にも前途は描けない。
己を知ることのない知は、知識の「識」のいう道理的効用ない知が痴に化さぬとも限らない。現代の煩悶は不必要な知に錯覚した価値を添加することにある。しかも合理的論拠として数字を援用して人間の尊厳さえ毀損いることだ。
しかし、この現象に抗することさえ手をこまねいている有様だ。
「わかっちゃいるけど、やめられない」たしか三十年前の流行り歌だ。


松陰は行動に化すことで真の学びとなると、自身も実行し,至誠に殉ずる姿を、わが身を以て伝えた。聴くも聴かずも勝手だが、人間の死生は「カクアルベシ」と。
気は剛直だが、耳は老成したように耳順だった。情報には許容量と培った鑑識眼もあった。行動は南北他郷におよび、有為な人物がいれば足を運んで耳をそばだてた。
そこには、教えるのは吾、学ぶ者は君だ、との厳然した関係が習い、学びの前提だと示している。







満州皇帝 愛新覚羅溥儀

忌まわしいことだが、満州崩壊に際してソ連軍が国境に近づいたとの情報が入った。入ったと云っても一部の者たちだ。数百キロ離れた新京の関東軍高級軍人宿舎や高級軍人宿舎では夜陰に紛れて一晩で遁走(脱走)している。しかも電話線を切ってまで・・・。
残されたのは国境沿いにあった開拓居留民や各地に点在する郷村の人々だ。
ましてや目の前にある下級官吏や民間人に知らせず慌てふためいて逃げている。
その高級軍官僚は天皇からの勅任を受けた官吏だ。立身出世に邁進して数値優秀な人間たちだが、土壇場では逃げ出している。彼らは肉体的衝撃に弱く恐れていた。
撃たれるのも,斬られるのも、塹壕を掘るのも、名もない兵士だ。
人民解放軍が人民に銃を放ったと非難するが、一昔前は国民を守らないで遁走している我が国の歴史もある。
しかも書を読み、否、読まれた卑怯者はことのほかわが身を虚飾するために高学校歴を得て高位高官で素餐をむしばんでいる。そして「頭のいい人」「偉い人」と呼ばした。



学問の目的が堕落した結果は亡国だった。しかし懲りない人たちはこの学制を維持した。
知って、覚えて、暗誦力を磨く、そして高位高官となり仮借権力を有し社会を混乱させる。
それは何も政官のみならず、経済や教育界に蔓延して、つかみどころのない暗澹たる憂慮を人々に抱かせている。
愚か者は「いつか俺も」と盲目的に追従している。まさにブラックホールだ。
また、土壇場で醜態をみせる日本人を止め処もなく増殖するのだろうか。





門田隆将 著


敢えて下座観からの拙意だが、ますます標記が現実となっている。
為政者は制度をいじくり、外来の制度を仮借する。いつも変わらない姿だが、成果は乏しい。なぜなら教育の所以は、独立した精神を担保する自由が制御域を超えて暴走しないようにコントロールする自己を作ることだ。
それを以て連帯や調和を知り,衆(国民)をつかさどるのが最低限の官学の務めだ。
融和や信頼はそのことを前提として独自の特徴に合わせて培われると考える。

つまり標記は「物知りのバカは、無学の莫迦より始末が悪い」と同義なのだ。
だから「智は大偽を生ず」とあるように、知は己を飾り欺くために使う輩が増えるのだ。
我欲を遂げ、身を守ることのみ使うものに権力を構成させては、社会は混沌として国家は衰亡する。
無学でも分る、いや無学だから解るが、彼らにとっては難問なのだろう。


イメージは関係サイトより転載

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