まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

贅沢をするものに憧れ近づき、妬み、そして不幸を待ち望む  2021再

2023-05-30 08:23:26 | Weblog

                 

             極東軍事裁判 ラダ・ビノード・バル判事の椅子

 

                 

                                                東條家の人たちとパル博士

 

 

標題は、ロシュフーコのいう自己愛の観察の類なのだろうが、どうも、「そもそも人間は・・」、との問いに頓首せざるを得ない。まだ頭を傾げる姿ならまだしも、悲しいかなおおよそは当てはまる心の深層だろう。筆者もその風はあるのだろうと、内心を探ってみた。

 

当てはまる現象を取り上げることも野暮な思索だが、表記を逆に考えれば、己が幸せの羨望を集め、嫉妬されるような幸福感を求めていることなのだろう

 

そんなことを考えることも思想ゲームの類だと一笑されそうだが、いくら聖書や古い経典を振り回さなくても、己の内心を探れば口に出さなくても大方は得心している。

 

ところが、幾らか人生を重ねると、その時々に錯覚していた、あるいは今考えると、゛あれさえなければ゛と、悔やむことがある。それは間違いではなく、錯覚というしろものだ。

正邪や善悪の判断は誤ればリターンが己に降りかかるために抑制はある。だが、錯覚だけはその影響があらわになるまで判らない。

 

標題は「贅沢を幸せと考える」内心の変化だが、「怯えを守りと言い換える」「野蛮な暴力を勇と思う」なかには「詐欺を頭がいい行為」と考えるようになると、今どきの文明観にある人間の存在価値であり判断として附属性価値である、地位・名誉・財力・学校歴が意味を持つ。 

 

あの人は金が有る、地位がある、有名だ、と、人は集い誇ることもあるが、人によって金もちはケチで、地位は人を蹴落とす薄情で、有名は無名に劣ることある。おこぼれを想像してもまずは徒労なのだが、人は屏風にしたり仮借するために集う。代表的なものは選挙だ。

近ごろは横文字経歴や、政治家は人を騙して雄弁と揶揄される大言壮語を錯覚する。

 

いずれそのような選別評価で職掌を得た収益担保に人々の観人則(人物を観る視点)になると、今どきの争論となっている社会の患いごとになるのは当然な帰結として、しかたがないことだろう。

 

その是正をまたもや制度や法律に委ねても、それを運用する人間が不特定多数の錯覚した成功価値や幸福感に沿っているだけでは、よりその混迷は深くなる。当面の・・・、現況は・・・と、政治も追従する。まさにそれは無責任な官僚社会主義と揶揄される由縁の姿だ。

 

              

             佐藤慎一郎氏  満州にて

 

ともあれ標題は多くの事象に当てはまる人の姿だが、いま社会はその本性を露見させ、かつ、大手を振って錯覚した幸福感を増幅させている。

 

高度成長のころは家電や持ち家、車などの所有物に憧れ、みなローンの奴隷になった。便利さと安易さは、完済するまでは所有権のない仮の資産だが、それでも幸せがあった。そして優越感も生まれた。視聴覚が満たされると加工された情報であるスポーツ・芸能・趣味に易々と乗ずる昨今の興味は誘引された。スキャンダルは話題となり、高額報酬は憧れになり子供の成長もそれら巻き込まれた。

昔はカメラを向けられれば顔を隠して隠れ、マイクを向けられれば逃げた。喜んだのは芸人か政治家くらいだ。今昔の世評の良し悪しではない、ここでは人間の表現変化を歴史の鳥瞰視として由縁(なぜなのか)を考えてみたい。

自由のいたるところ孤独となり、平等は不満を喚起し、民主はまとまりのない混迷と争論を招いた。それらの錯覚した短絡的応用は、ときに人々の連帯を離反・希薄になり社会の調和さえ失くすようになった。

 

国を亡ぼすのは「無関心」というが、繁栄を誇ったローマ帝国、大英帝国も絶頂期の民心は政治や将来無関心で、指向することは温泉・グルメ・旅行・イベント、と共通していたと識者は伝える。

そろそろ行き着く先と、是正ならずとも抑制の意識を栄枯盛衰の倣いとして考えるべきだろう。

その標題の意識が人間の姿として当然視されることを否定するものではない。

ただ、それを進捗させ感化影響するかの様な、錯覚した政治政策や商業宣伝の現状に、勝手な独言だが現時の備忘として記したまでです。

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警備から民生に 警察官僚との不思議な邂逅

2023-05-29 17:02:59 | Weblog

            陛下の祷りに恥じない権力の姿とは・・・・

 

世の中は目的は定かではないが縁によって逍遥することが多い 。

逍遥とはそぞろ歩きのようだが、地位や名利などの利得などに関知しなけれは縁は多くの果実を運んでくる。つまり成した人物との邂逅(出会い)が不思議と巡り合い、また己次第では多岐にわたる交流も波のように寄せてくる。

利得に関知しなければと記したが、ここでは不特定多数の利福に役立つ知力なり威力が積層され、組織にも、組織の持つ意義にも有効性を持つ関係がある。

ここでは様々な交流の一端において縁があった治安関係者を想いだして、備忘録としたい。

また、面前権力としての治安関係者が、公務員として上部権力や組織維持に指向することなく、国民の不特定多数の安寧を守護する存在として具現できるか否かを、諸々の交流や人物観の座標を保持しつつ、浮俗の関係者にある阿諛迎合、便宜供与がいずれは利得を企図する関係に陥らないよう、権力の運用官として慎重に観察すべきだと考え、ときに単なる交流ではなく、緊張を含む厚誼に至ったことはしばしばだった。

 

     

      

      初代 川路大警視

 

行政機構の一端である警察と税務は目に見える面前権力としてその職掌は国民の身近にある。

また、税と警察は政府の公平と正義を表す職掌、または個々の職員のおいてはそれを具現する立場として国民からつねに観察されている立場でもある。

その税と警察の姿勢如何によっては政府の施政なり、大きくは社会の行く末まで変化させる力を持つ組織であり、その執行次第でいかに政府の公平と正義を基とする政治の信頼が構成されるかは、彼ら面前権力を負託された職員の姿勢によって国民はその「信」を読み取っている。

それゆえ、恣意的な税の徴収や権力者への忖度と称する便宜供与、あるいは警察における恣意的な法の運用など、生身の人間だからこそ起こりうる諸事情があるからこそ国民からの権力負託については、人物を得た組織統御が必要になってくる。

 

ここで記すのはあくまで私事だが、さまざまな分野の人物交流のなかで、縁をもって邂逅した警察関係者と当時の社会事情を想起して備忘としてみたい。

 

いまでも想い出すのは五円を拾って交番に届けたときのことだった。ことさら善い子ぶって、褒められたくて届けたわけでもなく、そんな考えにも及ばない頃だった。

いまは私鉄で百七十円の距離が子供料金で当時十円くらいだった。何十円か握りしめてターミナルデパートの屋上で遊んだ覚えがある。

五円は子供にとっては価値あるものだった。お巡りさんは難しい書類に書き込むことなく、面倒くさがらずに頭を撫でてくれた。

その五円のゆくえを詮索する知恵もなかった。当たり前のことだが持っていったことが善いことであり、親や先生から褒められることより、制服のお巡りさんに良いことだと教えられたことが、今でも記憶に残っている。

きっと地方から都会の警察に志望する警察官もその記憶があったのだと思う。つまり、尊敬する当時の警察官の姿に倣っていたのだ。いまどきは試験昇進や減点や加点に汲々として、あの頃のように管轄地の住民の結婚式の来賓に招かれるようなことは無くなった。

下手に出席すれば利益相反行為などと、敵対関係のようにみられる四角四面の関係になっているようだ。

 

その警察官だが、さかのぼれば端緒は笠木会という満州関係者との縁だった。

満州建国の精神的支柱と謳われた笠木良明を偲ぶ会は新橋の善隣会館において毎年一回三十名くらいで行われた。戦後生まれは筆者のみ。

当時は二十代。満鉄、関東軍、自治指導部、満州浪人、呉越同船だった。石原莞爾の側近片倉参謀児玉誉士夫氏ら交風倶楽部、吉林興和会の五十嵐八郎氏、佐藤慎一郎氏等、政治家もいた。

そのなかで柔和な老士が隣に座った。その時はアブアブといわれた赤札堂の役員をしていた警察学校の名物校長高橋和一氏だ。その時は戦後混乱期の治安事情や警察官の教育事情を伺った。

 

その後、前記の児玉氏と朋友の五十嵐八郎氏から新日本協議会と新勢力という組織に案内された。

新勢力は毛呂清輝氏、新日本協議会は元法相木村篤太郎終戦時の内相阿部源基、その後、厚誼に与った安岡正篤氏らが発起にとして名を連ねていた。

 

       

                 安倍源基

 

丁度そのころ安倍氏が「昭和動乱の真相」という本を出したころだった。早速数冊購入して安倍氏に署名を依頼した。飯田橋の事務所では二・二六事件当時の特高課長だった氏から多くの逸話を伺った。その頃は警友会の会長をしていた頃だ。

その後、杉並和田の自宅に参上して旧知の岸信介氏とのこと、あるいは内務大臣として署名した終戦御前会議の様子など臨場感あふれる逸話を伺った。

 

        岸信介

 

また、警察官僚として民生治安と政府警護など、戦後の警察の在り方について氏なりの切り口で多くの建策を伺い、かつ小生の建言を傾聴していただいた。

 

安倍氏と旧知の安岡正篤氏に慕う警察官僚も多かった。その系譜も様々だった。

前記した佐藤慎一郎氏は戦後満州から帰国後,いっとき内閣調査室の仕事をしていた。

その頃、ラストポロフ事件など冷戦時の特務関係のことで警察庁の柏原信夫長官とは懇意だった。池田内閣の側近がソ連との内通者だったことも柏原氏は知っていた。

その柏原氏が登庁するときはよく同乗されたが、阿佐ヶ谷か高円寺で秘書を乗せた。それが後の野球のコミッショナー川島廣守氏だ。

 

川島氏には安岡氏の会で度々お会いした。あるとき小倉の加藤三之輔氏が西鉄ライオンズの稲生和久氏に依頼された池永氏の永久追放解除について相談があった際、川島氏に繋いだことがあった。

道縁ゆえ川島氏は「早めに時をみて」と快諾され、後日して博多中洲のドーベルという池永氏が経営していた店に訪ねそれを伝え、小倉の加藤氏(カネミ油脂会長)にも報告した。

 

            

              川島廣守氏

 

 

安岡氏の関係では高橋幹夫警察庁長官もいた。のちにJAFの会長にもなった方だが後藤田さんの後輩だ。公安警察の範疇では安岡氏は思想右翼となっていたため、催す会には必ずカメラをもった公安関係者が来ていたが、事情を察してか記念写真を依頼したりもした。

この高橋氏の秘書役に浅野忠雄氏(第五方面本部長)がいる。何度か官舎に伺ったが、あるとき「お願いが・・」と連絡があった。組織系列があったのか下稲葉氏の参議院選挙のことだった。三田の選挙事務所に行くと濱崎仁元警備部長が責任者で、事務は元所轄の署長連だった。

 

 

          

            安岡正篤

 

この浅野氏の後輩が荒井昭氏だった。当時は丸の内の署長で千代田線事件について事情を拝聴した。その場にいたのが産経社会部の樫山記者だった。事件は少年が注意した老人に暴行したことだった。署長室からの眺望は窓際の国旗の後ろに皇居が望めた。

「これは単なる暴行事件ではない。これを小事件として看過しては社会の道徳的風儀が衰えてしまう恐れがある。社会的事件としてキャンペーンを張れないものか」

樫山氏は早速記事にした。少年は逮捕されたが、荒井署長は出署するとまず少年に声を掛け、退署時も同様に声掛けした。

「逮捕するまでは鬼ですが、それからは事情を観察して更生を援けるのが大人の務め」と、語った。

「荒井さんや樫山さんのような方が出世して世に影響を持つようになったらいいですね」

と、応えたが、案の定、樫山氏はワシントン支局長から編集委員になった。

荒井氏は第四方面本部長から本庁の総務部長になった。

 

あるとき、「狭いところだが」と誘われて法務省のレンガ庁舎が見える部屋に通された。

「なにか」

「いま組織は端境期に入っているが、まだ方向が定まっていない」

「現在は警備に偏重しているような組織ですが、本来の民生治安になる方向で・・」

「組織が大きいと人員や予算など多くの問題がある」

「まず目的ですが、青少年とヤクザのようです。バブル期の大手を振って歩くヤクザと、遊惰になった社会に成長する子供たちの将来を考えたらいかがでしょうか。もともと国民は交番や駐在のお巡りさんに警察官の姿を見ていましたが、近ごろは厳めしい警察官が多くなった印象があります。また組織内でも警備なら出世が早いし、予算も確保できる安易て゜偏った流れがあるようです。いずれ足元を知らない組織は内部が弛緩したり、堕落腐敗まで生まれる危険があります」

 

そのとき電話が入った。

「いま、○○さんが来て、あなたの心配と同じことを話してました」

「だれですか」

「板橋の○○署長ですよ」

電話が終わって席にもどりこちらの話を傾聴していた。

「ところで、面前権力が民生、つまり民間分野に入ることは今までの警備のオイコラでは民意は離れます。教育も大変ですね。それと経済分野に権力がかかわると人によってはサンズイ(警察用語で汚職)も気をつけなくてはなりません。法の運用官ですから規制や違反の取り扱い次第では民意との離反は起こり、防犯協力も乏しくなります。その点を抑えないと新たな問題も出ますし、抑えすぎてもサラリーマン化して士気さえ衰えますね。これは組織論ではなく人間学のようなもので、その点のキャリアの意識変革も重要になります」と応えた。

やはり学びの縁だが、宮内に出仕した鎌倉元総監「警察はサンズイが取れなくなった」と危惧していた。サンズイとは汚職案件である。同じ官職にあるものの便宜的駆け引きや、予算確保に阿吽の姿が甚だしくなった状況の憂慮であり、陛下の傍に仕えるからこそ、何を根底に置くべきかと改めて自得した嘆きだった。

 

          

           鎌倉 節 

 

その人間学を提唱していた安岡氏の子息正明氏は税務官僚として税務大学校長を退官して郷学研修所理事長をしていた。あるとき、いまの民情はどのようになっているのかと問われたとき、地元の板橋警察に同行して治安状況を伺ったことがある。

署長室の掲額は「格別到知」中村不折氏の書だ。

 

 

         

           安岡正明

 

当時、人員シフトや予算も警備から民生に移行しつつあるときだった。また勤務評定も粗雑で単なる点数方式や官吏特有の減点方式が採られていた。

なかには朝の講堂での朝礼で上司挨拶が終わると肩を叩いている職員もいた。肩は肩章、つまり人間ではなく肩章(地位)が言っていると揶揄している者もいた。

キャリアとノンキャリアの断絶だけではなく、刑事や交番職員と管理部門に当たる警務と二年くらいで転勤する上司との感情のわだかまりもあった。

 

署長に提案した。

「地位が話しているのではない。この署の伝統が集積した使命感がそうさせているはずだ。この署でも先祖がいる。署長はその魂の継承者だ。この署の殉職者は何人いますか」

「写真もあったはずだが、紛失している」

「ならば、氏名、死亡時、理由、年齢を調べて掲額して朝礼時の署長挨拶する後背に掲げたらどうですか。つまり、先輩、先霊が職員を見守っていることを顕示したらいいですよ」

早速作成し、その裏に殉職慰霊に捧げる献呈文を小生が著し御霊棚に安置した。

普段は閉じてある幕は訓示の時には開け、それを背景として上司は訓示することになった。また、警視庁の弥生祭(殉職者慰霊)とは別に、署独自で執り行えば職員の士気の元となる上司への信頼と情緒が高まるのではないかと提案した。

殉職者は古い署だと、空襲、地震、疫病、逮捕執行時、柔剣道練習など様々だ。各々に物語があり、死の直前まで職務に精励していた職員ばかりだ。

 

次の新署長が来訪するとの連絡があった。

就任時には公用車で来訪するのが慣わしだった。

「お越しになられるなら、民情視察を兼ねて電車でいらしたらいかがですか」と伝えた。

その時に講話を懇嘱された。

事情は、地元大山商店会の中国人の店で飲料に薬物を混入した事件だが、逮捕しても黙秘していることの相談だった。日本的にいう黙秘権ではなく、警察そのものへの拒否だった。

以前、二年ばかり香港に行き来して彼の地の世情と民情を観察したことがあった。もちろん現地警察との間合いも知った。

ある件では地方の警察が道路利権をもちバスの運行をしたいので協力してほしいと持ち込まれた。地域ではギャングも配下にする権力を持っている。もちろん彼の国では「人情を贈る」という賄賂の要求の仕方や渡し方も当事者から聴いた。

 

庶民は、警察は悪いことをする連中だと染み込んでいる。だから逮捕したオバサンは、話したら何されるかわからない、金を無いので賄賂も渡せない、隠しているのではなく、困り果てていたのだ。

そこで「人情は普遍なり」という題で70人くらいの署員に講話した。

署長には「私みたいな人間に語らせると困ることもありますよ。いいですか」と事前に伝えてあったが、内部組織の問題は刺激が強いので、彼の国の犯罪事情や警察と庶民の関係を例にとって語った。データーの一部は法務省のアジア極東犯罪研究所の引用だ。

 

その問題とは、キャリアとノンキャリア、勤務評価、それらが数値評価で犯罪や違反のグラフとなり、宿命的な任官出発点の諦めと、自らの愚直を問う生き方の迷いだった。

このまま歳をとって安全安定に収入を確保するか、またそのために国民に対する問題意識もなく組織に愚直に応えるのか、自身の戸惑いでもあった。そこには自己の内なる良心や希望との整合と納得が必要だった

 

組織の一員として「生活」が第一義となるここと、義侠、善行との狭間は大きく乖離しているという憂慮が要所の現況組織観として、当時は浮上していた。

戦後世代と戦中世代との見方もあったが、浮俗の変化と童心にある道徳的観念への戸惑いでもあった。

 

点数を挙げるために見も知らぬ他人の車に覚せい剤を挿入したり、拳銃摘発に稼業と折り合いをつけたりするノルマ偏重の不埒な不祥事があった。またキャリアの役得や接待、噂になった裏金、など若い警察官には問題意識を持つものが多く、上司との関係も厭世気分になってきていた。

 

         

            駐在さん

 

そんなときの講義依頼だった。

標題は「人情は普遍なり」だった。その内容は前記したとおりのことだが、幾分は遠慮していた記憶がある。当然ごとく質問はなかった。だが、後日おおくの若い警察官から話しかけられるようになった。

 

難しいことではない。権力の腐敗は当然だが、別世界のことと埒外に置くこともいいだろう。

しかし当事者が諦めをもって名位や食い扶持に堕しては権力委託した庶民との乖離は取り返しのつかない状態となる。法の信は崩壊し、歪み(陋規)の更正にはよほどのことが無い限り数十年掛かる。教育、政治も同様だろう。                    

 ⭐️陋規 ・・・組織や郷などの狭い範囲での掟や習慣

 

過去を亡羊として、未来は近視眼になると円はゆがむ。

平成元号の起草者といわれる安岡正篤氏は「地平らかに天成る」と遠い過去の観察と、永い将来の推考を促がした。直線的な意ではない。天地内外を構成するもののバランスを指していた。

そして「無名でいなさい」と督励してくれた。

官学の立身出世主義は昔のことではない。

「智は大偽を生ず」(肉体化しない頭のみ智は高邁を装って大きな偽りをつくようになる)

 

「くれぐれも注意するように」

その言葉が冠についたのは言うまでもない

 

           

 

署長は署内もしくは近隣の官舎に住むことになっている。当時任期中は一泊旅行は余程のことがない限り禁止、いつもポケットベルを所持しゴルフに行っても緊急時にはすぐに帰署し指揮した。なかには単身赴任者もいた。独り酒はつまらんと呼ばれることもあった。

ジョッキングが好きで管内を走っていたが、或る時お節介を言った。

「どうせ走るなら管内の交番をまわったらどうですか。署員の士気も上がるし、緊急時には経路も明るくなるし指揮も的確に執れるはず。署員も緊張と頑張りが違いますよ」

その署長はその通り実行した。そのような人物は出世も早いし退職後も安逸には暮らしていない。

 

なにか半知半解で高邁な指摘をするようだが、先達たちは皆そのように考え、行っていた。

とくに国民の近くで面前で権力を行使する運用官として、みなな自身を律していた。それゆえ安岡氏に訓導を請う人物も多かった。

邂逅した方々は国家社会を背負う、そんな気概のある先輩たちだったと記憶している。

 

さて、現在は国民からどのように映っているのだろうか。

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台湾憧憬 異邦に残置すること

2023-05-29 11:37:31 | Weblog

                  南方のサクラ

 

ことは、今まで使っていた言葉を禁止され、流入してきた人たちに生活語や行動の自由を制約され、かつ今までの既存の社会の仕組みまで解体され、まるで残置されたように数十年も苦渋な生活を強いられる人々の姿を黙視する憐憫の情は、我が身を刺すように心魂を揺るがすのである。

 

それは歴史の隘路に取り残されたかのように我が国の情感を大切に維持し、且つそれを生計の座標として、覚え習った佳き習慣性を心に抱き、まるで客分のように控えめに営みをもつような、ここでは残置されたかのような元邦人の姿であった。

まさに狭く困難な路を歩んだ善人の轍(わだち)が明確に遺されているのが台湾というところだ。

 

    

                  

中山老人住宅

                             

 

元邦人と記したが、清国から割譲され殖産事業に邁進した時から生を享け、幼少期、思春期を経て、反面教師のごとく混乱を巻き起こした国民党軍の来島から、内省人の共通言語となっていた言葉を使うことすら厳禁され、生活環境すら破壊された人々が密かに抱いていた情感と懐古は、いまでも台湾の寛容ある心として日本からの渡航者を包む潤いや安堵感として体感させてくれる

まさに日本では乏しくなった同胞感が異邦となった台湾にそこにある。まさにそのままの状態で残置されているといってもよい環境だ。

             

日本語の説明ボラカティア

     施設では職員20数名と居住ボランティア40名が施設を運営している

 

もし、慣れ親しんだ友人が突然、異郷に渡らざるを得なくなった時、かつ当時の敬重に値した恩師や、厳しかったが民生の安定を守ってくれたお巡りさんがいなくなり、寝るときには鍵を絞めなくてはならなくなり、窓には鉄格子を張り巡らし、生活語まで禁止されたら、まるで残り置かれた悲哀は五内が裂かれる気持ちだったろう。

 

しかし、彼らは頑張った。その想い出と情感を守るために

 

よく、靖国神社は国を護るために戦った兵士を讃えるという。今どきの政治家は「生命と財産を守る」という。ならば、今もって当時の歴史を共有し、かつ異邦において、その生命財産を有効化せしめる情感を深層において守り続ける方々が存在することは、まさに命を繋ぐことを財とする、真の人間の在り様ではないかと思うのだ。

生命も財産も一過性だ。まして長命や財の多寡を競うことの儚さを知る人間の存在は、日本及び日本人にとって多くの無言の教訓を授けてくれる。

 

そして彼らの無言の意志や密やかな吐息は、日本の自然災害の惨禍に対して、浮俗遊惰に浸っていた日本人にも思いもよらぬ俊敏な行動によって、残置の悲哀すら怨みや嫉妬ではなく、報恩の心で義捐を贈り、その深層に培った心を示してくれた。

 

当時、我が国の先人が戸惑いながら試行した行為は、不安だった彼らの心を緩やかにして、多くの協働を成し得た。それでも現世の後輩たちは不安だった。植民地、搾取、差別、などの宣伝に慄(おのの)き、怨みを残しているのかと・・・。

しかし、潜み、伏して、残置された人々の精神は日本人の偏狭な心を払拭させる厳しくも優しい心魂があった。まさに「人情は国法より重し」という普遍的な在り様を教えてくれた。

         

日本語の堪能な80歳の女性

      同行した皇室担当記者 松崎敏彌 さん

 

筆者はそれを「台湾の贈り物」として考えている。有志を集った高齢者施設訪問も数次二十余年、正しい日本語に加え、女性は凛とした姿と優美な仕草を漂わせ、男性は意気軒昂そのもの、低頭せざるを得ない残置された気概だ。日本語もこんなに落ち着いた抑揚があることを知った。男はこうあるべきだと胸を張る。亡くなった祖父母に遇うような不思議な場面がある。

          

           

  

生徒が運営する朝礼

 

そして、小学校の朝礼も恒例になった。生徒が運営する朝礼では校歌に続いて国歌と国旗掲揚がある。懐古趣味ではない、運営責任者は自治会会長だが、『国歌と国旗掲揚は、僕たちが学校で勉強できるのは先生の導き、友達の協力、両親のお陰、それは社会のお蔭であり、国の援助によって僕たちが勉強できる。みんなが組み合わされて社会があると思います。国歌を唱えるのも国旗の掲揚も、私たちは当然と思っています』

尋ねた筆者も、゛何かおかしいところがありますか゛とも感ずる不思議感で応えられれば、これが小学校六年生かと驚いたが、台湾の民主化の実態は学校にもあった。

                      自治会役員と                        

 

会長選挙は各教室で演説をして自分の考えを述べて校内選挙する。きまれば国旗掲揚担当、朝礼担当、清掃担当などを指名し自治会を構成する。父母協力会はあるが日本のようなPTAの類はない。文科省や教育委員会の類似はあるが、父母会の総合意志で校長の罷免さえできるシステムだ。

かといって迎合したり反目したりすることはない。まして、PTA女性の接待や飲食などはありえない。当然のことだが、まさに学校も社会生活の場なのだ。だから、幼稚園すら併設し、知的障害児の教室も並列して、朝礼も一緒だ。売店では蒸し饅頭や果実飲料など、まさに校内コンビニが小学校に設置してある。

                         

                        

                                           

             

衛生についての習慣化も徹底している。廊下の数十メートルおきに手洗い水場が設置してある。時限が終わるたびに生徒は入念な手洗いや歯磨きに勤しんでいる。

想起するに、セシウムによる禁輸処置、日本の悪徳業者が行った偽ラベル事件に過敏に反応する台湾の清潔観念は幼少期から徹底している。さかのぼれば、後藤新平が現地赴任して最初に行ったのは防疫と清潔観念の徹底だった。まさに実利ある有益な習慣は指示されることなく習慣化されるものなのだろう。

 

余談だが、セシウムの風評に、いくら行政が平身低頭して、台湾当局も調整を図っても、庶民感覚は「子供に放射能は御免だ」と、購買にはつながらなかった。こと清潔観念について政府の宣伝には惑わされない強い意志がある。きっと後藤新平も賛同するだろう。

偽ラベルも、福島など⒋県の農産物禁輸を決めていたところ、偽の生産地ラベルを張り付け台湾の消費者を騙した事件だが、日本の農水省官吏は、「台湾の基準こそオカシイ」と、謝り、再発防止を言う前に、詐欺師を擁護し居直りをした。

 

どこの国でもある二重基準だ。4県の作物が国内スーパーで売っているのに、台湾はなぜ輸入しないのか、逆に考えれば、消費者が台湾では禁輸になっているのに、なぜ国内では平然と売っているのか、と苦情が出かねない。往々にして官吏はそんな説明のつかない経済優先基準を作りたがるものだ。農薬も原発も同様だろう。

 

台湾はあくまで法律違反の問題を処理し、その後の実態調査の経過は相談するという大人の対応をした。日本官吏は3・11の経緯を考慮することもなく、偽ラベルを開き直った夜郎自大的態度を見せていた。四角四面は台湾のみならず、我が国官吏のおおよその印象だが、歴史観や冷静に日本人の変質に戸惑っている残置された人々を看過しない非人情も、当世日本人官吏の習性なのだろう

 

                          

                                    後藤民生長官           児玉台湾総督

後藤はなぜ成功したか、理由はいろいろあるが、先ずは人間を観たのだ。

着任早々、ダラ官となり単なる西洋模倣の植民地官僚として増長した日本人官吏の罷免と内地送還だ。つまり、不作為、威張り、無責任と放縦がセットになった官吏だ。

その数、数千人。いまならその使命感も覚悟もないだろうが、採用したのは内地の正義感と使命感ある新進気鋭の若手官吏や現地官吏、そして新渡戸稲造など技術者・教育家など多岐にわたって有能な人材を登用している。

 

予算を執行したら乗数的な効果を得る」、などと言うような今もあるような実態知らずの施策ではなく、「人を観て、人を育て、目的を明確にして資材を活かし、人間を活かせば、超数値的効果が得られる」という、人間学(生物学類)的思考を軸として、信頼、目的醸成、を自治の柱として施策を行っている。もともと偏屈で変わり者だった後藤に白羽の矢を立てたのは児玉源太郎の洞察だが、当時は人格と何ら代表しない、学歴や出自、経歴ではなく、人間そのものを観ることが事の正否すら決定する要因として考えられていた

 

その後藤に台湾は応えている。児玉と縁があった江の島に児玉を讃える神社の建立を後藤が提唱した時、日本ではわずかしか資金が集まらなかった。その大部分は台湾からの奉賛である。本殿のヒノキ材、石材類なども台湾だ。

台湾は、響けば応える人たちなのだ。

 

                                                                         

 

この度、中華民国台湾の駐日交流窓口にあたる新代表に元首相だった謝氏が就任したと共同が伝えている。以下はその共同電である。

 ≪台湾で5月に新政権を発足させる民主進歩党(民進党)は、東京にある台北駐日経済文化代表処(駐日代表部に相当)の沈斯淳代表の後任に、元行政院長(首相)の謝長廷氏(69)の起用を決めたと台湾メディアが21日報じた。

 行政院長経験者が同代表処代表に就任するのは初となる。日本との人脈が豊富で中国政策にも通じた謝氏の起用は、蔡英文次期総統の対日重視の表れとの見方が広がりそうだ。

 謝氏は1946年5月、台北市生まれ。台湾大法学部を卒業後、京都大でも学んだ。86年の民進党結成に参加し、立法委員(国会議員)、高雄市長、党主席などを歴任。陳水扁政権時代の2005年2月~06年1月に行政院長を務めた。

(台北 共同)》

 

一カ月前に関係者から台北の新聞報道で掲載されたようだが、その時は本人が希望して新聞発表されたようだが、その時はまだ決定ではなかった。また就任前の新総統から懇請されたとは記されていなかった。駐日代表人事は総統任命で、今までは学者、ジャーナリスト、元海軍司令など多彩だったが、首相にあたる元行政委員長の任命はそれによって起こるさまざまな近隣との煩悶を深慮して、程よく納まる絶妙な人事が行われていた。

ここで注目されるのは産経新聞の報道記載で、「台湾は日本と運命共同体」とあった。日中国交の約束事に台湾は中国の一部、よって台湾政府との断交、ということで政府間の交流は途絶えている。アメリカは台湾関係法をもって関係を継続しているが、日本は智慧も微かな選択の政府間断交である。

少々、前のめりの「運命共同体」云々だが、意外と大陸の顔色を見て怯むのは外務官僚と風見鶏議員や商売人だが、庶民はいちいちそんなことを言わなくても分別は備わっている。よくよく考えれば、かえって政府間国交がない方が知恵も出る。全国の自治体も自治体交流など直接交流が盛んになり、首長の相互訪問も多くなっている。

何よりも若年層を中心に観光訪問が多くなり、台湾便は各社も満席状態だ。みな東シナ海の蓬来島を目指し、古き日本を味わい人情に触れることで、映画のKANOのように日本人、原住民、華人の連帯と融和の実態を体感している。

巷に警察官は見かけない、政治との間が絶妙にして制約も少なく、よって躍動感もある。何よりも、台湾デモクラシーは既得権者に厳しい目があり、便宜優遇にも国民は敏感な観察眼がある。二十年前の訪問時には、「赤も青も一緒」と、国民党や民進党の政権に冷静さと諦めがあったが、いまは自信をもって社会を語る人が増えた。

断交しているとは思われない人々の交流だが、頭に政府の重しがなく、また双方が大陸の気持ちを忖度するように明確な政策を出せないことによって、かえって中国古代の堯瞬時代のように、政治を気にしないで自由に生活ができる地が、台湾人、日本人の双方にとって居心地の良い雰囲気を作っているようだ。「税金も出すし言うことも聞く、しかし我々のことは構わないでくれ」といって社会だ。

断交後の関係構築だが、経済と文化を政治と切り離すことの新たな仕組みとして日本側は交流協会、中華民国は台北駐日経済文化代表處を窓口としてそれぞれ台北と東京に連絡事務所を設置している。マスコミも北京に中国総局を置き、台北は支局となった。だだ政府間交流は途絶えても人間、とくに情緒性のつながりは途絶えることなく、政治経済の分野ではあるが、いまも深層の心情として多くの分野に通底している。

 

                  

馮寄台元駐日代表    

 

元代表でジャーナリスト出身の馮寄台氏は多くの寄稿を日本の新聞に投稿している。「なぜ、投稿形態・・・」と,尋ねたことがある。

日本は台湾を政体として認めてはいないので台湾の考えていることを新聞に載ることもない。しかも台湾は中国の支局なのです。日本政府も大陸に対する忖度もあり、マスコミもそれに倣っています。ですから個人の投稿という形しか受け入れられない日本側の事情があるようです

震災の慰霊式典の時、多くの義捐金を贈っていただいた台湾も案内があった。しかし台湾代表は2階の一般席に案内され、中国は国家代表として指名献花している。かといって台湾は怒ることもない。有為なる日本国民は憤慨したが日本政府は知らん顔で通した。しかし日本にはもう一つの超越した威があった。

天皇は園遊会に台湾代表馮寄台氏をご招待した。普通は言葉を掛けられなければ参加者は語ることができなかったが、馮氏は数十分前から陛下のお通りする道筋でお待ちした。陛下が通り過ぎようとしたその時、「台湾駐日代表の馮寄台です」と、言葉をお掛けした。名簿にはあったが、側近は敢えて芸人や物書き・スポーツマンなど絵になる出席者を紹介するが、あえて台湾代表を紹介しなかった。物おじしない馮氏は台湾の心情を陛下にお伝えしたかった。

あの時はいろいろありがとう 陛下は意を尽くし、まるで溜飲が下がる気持ちで深甚な謝意を馮氏に伝え、その背後にある台湾国民に対して、日本国民を代表して表意を述べた。皇后は英語で馮夫人に話しかけた。英語が堪能な馮夫人だが、緊張されたのか、とっさに日本語で応答された。

あの台湾南部の自然災害から東日本の震災、そして台南地震から九州の地震と、まるで災害援助の繰り返し共助がつづいている。

あのとき馬総統は黄色いブルゾンを着てテレビで日本を援けようと訴えた。政府も相応な義援金や物資を提供した。それから台湾全土で考えられないことが起こった。それは思いもよらぬ国民運動の様相で、「日本を援けよう」と。

海外や在日華僑までが動き出した。想像していなかったのは馬総統である。国民運動で日本を援けようとする台湾人の姿に驚愕した。政府に言われるまでもなく、人々が勝手に動き出し、しかも競うようになった。不謹慎な日本人は帰属選挙をしたら台湾は日本と一緒になるかもしれないと呟いた。

在外華僑は台湾の精神として誇りにした。中華街の商店主は、『三度の食事を一度にしてもと、みな頑張っている。こなんときしか大っぴらに日本を応援できない。国の法律より人情の方が重いことは知っている。判ってくれる日本人も多い。政治は関係ない-・・・」と、昂じた気持ちを筆者に伝えてきた。まさに、如何ともしがたい政治である。歴史的起因は数多の切り口はあるが、個々の人情の積層は何を以てしても滅することはない台湾と日本の関係だ。

ことさら多寡を競うものではないが、互いに数千年の歴史をもつ国柄で、果たして継続した政体がどのくらいあったのかと問われても、片腹がくすぐったい。中華人民共和国の現政権は漢民族が数も多いが、モンゴル族、満州族や鮮人の皇帝を推戴して、元,清。唐など日本と関係の深い文化を築いた民族もあった。

今でも苗族、客家など由縁をたどれば、いつの時代でも血の混交や結縁などで大陸民族を構成しているが、辛亥革命の後も民族出自に関わらず軍閥集団が入り混じって支配権力の戦いを繰り広げていた。

台湾とて原住民の高砂族などの他に数百年前から対岸の福建省から多くの華人が来島している。それを含めて内省人と称しているが、戦後国共内戦に敗れた国民党が来島すると外省人と呼んで、その軋轢は反目を惹起して、いまでも台湾内省人の記憶として継続している。それは大陸との関係においても、つねに深層に通底している内省人の気持ちとなっている。

 

                   馬総統 

 

以前、日本統治世代の蔡氏から食事のお誘いを受けた。あの司馬遼太郎氏が台湾紀行で老朋友として賞賛していた人物だ。話題は日本の歴史だ。色々と述べられたあと、「知っているかい」と、聴く。「いや知らなかった」と応えようものなら、「だから、今の日本人は・・」とかえってくる。日本語のラジオ番組を同席していた林氏と掛け合い漫談のように続けているという。和歌、俳句、川柳は秀逸だ。蔡氏だけではない、台湾の津々浦々にこのような現代日本人以上の日本通がいる。唄えば軍歌や演歌はもちろんのことだ。

靖国神社にも縁者がいて毎年参拝する。少年工科学校の同級会や、戦友会にも参加して、今の日本の現状を憂い、ときに憤慨して叱咤激励する。聴いている日本人の専らの話題は、健康・孫・年金などが普通だが、日本よ! 日本人よ!と、提言は止まない。この人たちの気概が、三度の飯を一度にしても震災にありったけの義捐を贈ってくれた人たちなのだ。

余談だが、彼らとは異質な人物観のある蒋介石だが、彼も孫文の意志を守り、「日本と戦ってはならない、日中は共に滅びてしまう、日本が亡んだらアジアの復興はない」と、共産党との合作をためらっていた(側近、何応欣将軍談)。それが西安事件の蒋介石監禁となるのだが、軍閥の取り巻き既得権者の横暴は、残置された人々の心に深い怨嗟を残し、日本当時の懐古として今でも継続した情緒となっている。

 

                                   

                                         

 

もう一つの逸話として、訪台した日本の代議士が終戦時の「怨みに報いるには徳もってする」と全国に放送し、大量の艦船を準備して無事内地に帰還させたことに感謝を述べたら、「何を言っているのですか、礼をいうなら貴方がた御国の先輩の方々に言ってください」と、厳言している。それは辛亥革命で孫文を援けた山田兄弟、萱野、宮崎、頭山の先輩たちを指している。

また、孫文の指示で日本が満州が経営してソ連の南下を防ぐという満州工作に蒋介石みずから石岡と日本名で山田らと潜入工作した経験事実であり、日本となら被植民地のアジアを復興できるという確信があった

                   

山田純三郎と孫文

                 

                 新生活運動の原本 中正記念堂

蒋経国総統は、《我々が台湾にいる現状は戦いに負けたのではなく、国軍の腐敗と堕落にあった》と、社会の整風運動として、父蒋介石と「新生活運動」を行った。つまり、国が依って立つ幹と人々の風紀を整える国民運動だった。。

 

議会でさえ手を拱いた日本軍閥の企図は、その理想さえも潰えさせた。台湾の人々は日本を贔屓目に見ているのではない。大陸で体験した外省人も然り、慎重に事情によって変質する日本人を観て、熟知している。その上での友誼だろう。ざっくばらんは無礼の境にある。ここは訪れる者を、思った通りの日本人なのか、財利は超えて継続的厚誼は成り立つのか、とくに残置した人々は、当時の日本人と比較して観察している。

昔の日本人はそんな行儀の悪いことはしなかった」それは、ほんの少し前の観光地での出来事だった。そんな叱ってくれる大人がまだ残る台湾に多くの若人が訪れる。まさに好きで興味を持った台湾だからこそ耳も敏感で許容量も多いだろう。それは社会に感応しなくなった世代や、懐古に潤いを感ずる訪問者が、烏帽子親(他人親のような)の如く愛着と感謝の念が訪れるときでもある。

残置された情感は台湾のみならず多くの国々にある。少章でも記したが、アルベルト・フジモリ、ペルー大統領は陛下に「私は勤勉・正直・礼儀、そして母からは忍耐を学び、それをもとに国づくりをしています」と、旧来の日本の徳目をお伝えしている。陛下はそれら応えて、「我が国を祖とする方が異国において、その地に貢献していることを嬉しく思います」と語っている。

 

                                    フジモリ大統領       

                                                

                                          

    ケイコ・フジモリ大統領候補

経済や軍事が数値比較され、国家のバロメーターとなっているが、たかだか努力すれば叶うものだ。真の国力は人々に涵養されている深層の情緒性だろう。その良質な情緒性は経済や軍事力のみならず、社会の基盤として、それらの数値に別のかたちで厚みを持たせてくれるに違いない

とくに、ここに記した台湾においては、残置された人、華人の知恵、固有の文化が調和し、連帯してはじめて台湾が台湾として立つ由縁になるはずだ。どれも必須な事柄であり人格なのだ。いわんや、偏重(アンバランス)したり、数値の熱狂に各位を偏見するようになったら、台湾は落ち着かなく侵入を許すようになるだろう。また、それぞれの有効性を認め、人心が微かにならなければその安寧は歴史が証明する。

政治と民はその間(マ)を絶妙にとっている。それが良さであり、訪れる者を安心させる。一過性の爆買招致は経済のバランスを歪め、情緒性まで緩んでくる。それは表層であり浸透性のない、たんなる財への簡便な昂進しかないだろう。

台湾は佳き姿を継続してほしい。そして学びであってほしい。

                   第五次訪台施設訪問を終えて・・

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脅されたり、揉み手ですり寄る関係 08 あの頃

2023-05-25 01:54:18 | Weblog

中曽根・胡耀邦による青年3000人交流のために作られたホテル、ホール、体育施設などの複合施設 

中日青年友好中心(センター)



暴力団のミカジメに嫌々つき合わせられる飲食店の女将の関係でもないが、よく似ている。
昔の行きがかりで物騒なものは持たされず、それゆえに従わされ、言うことを聞かなければ敵の敵は味方よろしく、物騒な飛び道具で脅しをかけ、ミカジメ量の増額を図る、どこかアメリカと日本の関係に似た仕組みだが、戦後70年たってもその関係は変わらない。

ドイツは、第一次大戦は皇帝のせいにした。第二次はヒットラーのせいにした。
日本の戦いはそれと違うというが、敗けた後の始末はドイツの方が一枚上手だ。

しかも戦勝国からの要求に一々反駁している。教育、憲法などは勝手にさせないと口出しを拒否。それに比べて日本の当事者は満州事変や日中戦と同様な現状追認で、今ごろ騒いでいる。復興と繁栄への欲求は、金にならない憲法などは見向きもしなかった。

いくら中国が台頭したからと云って、昔の因縁を援助金で大人しくさせたと小人政治家や狡知に長けた官吏らしい発想だが、バックマージンをあからさまにされたら困る瓦版や政治家は押し黙っている。

いや、四角四面に清廉さを繕うものではないが、心中で推し量る力関係や人物器量の大きさや深さが、侮りになることの憂慮だ。
とくに日本人官吏や政治家の海外における軽薄な態度に、慚愧の念さえ覚えるのだ。

北京 中日青年友好中心(センター) 陳松董事長の招請で


私事で恐縮だが、宴席で「日中友好を祈念して・・・」と乾杯になったとき、「今回の訪中は政治家でも経済人でもない立場だ。友好は誘い降し(誘降ユウコウ)と揶揄するものもいる。もとより民族の友好は政府の友好と趣は異なる。どうだろうか、亜細亜万歳でいこうではないか・・・」と乾杯を遮った。

主催者の公的機関の董事長は「それでいきましょう」と即座に応答した。
そして、普段飲んでいる高粱酒とニンニクの皮むきを小鉢に用意して、「さあ、やりましょう」と高級料理を参会者に任せて歓談した。
突然「国内のホールや施設の優先的使用権をいかがですか・・」という。
さらに「以前は北島三郎さんが公演した。こんどは宝塚歌劇団招致できないだろうか」とも。

いゃね、そんな日本人がいるようだが、私は利権屋ではないですよ」と笑ったら、「やはりあなたは日本人だ。そんな人が大勢来ていただければ・・」と云いながら、高度数の高粱酒をニンニクだけの肴で空にした。それからの厚誼は言うまでもない。
金と食い物と、女性を添えれば男がよく観えるということだ。とくに外国に遣わされる外交官や政治家はそれを人選の要となる。

件は、東宝の有力後援者であった岡村吾一さんと外務省の外郭団体、外交協会にその旨を伝えた。たしか外交周年記念で北京公演を行ったと聞いた。今年も10月に訪中する。

敢えて経歴を尋ねることはなかったが、党青年団委員長を経て政治権力には進まず、中日の文化施設の董事長をしていた。趣味は絵画だ。地位に恬淡とした人格者だからこそ、外交儀礼上に失するような筆者の言を許容したのだろう。彼も、民族を超えた普遍な人情と人倫を備えた人物だ。






昔は中国の近代革命(辛亥)に挺身した日本人がいた。 側近山田純三郎と孫文



小者はその結果も考えずに目の前の名利に遠慮がちに手を出すが、クリーンハンドの法則は一度汚れたら、みな仲間なのだ。そして脅かされる。
戦後賠償利権に汚れた貪り政治家や狡吏はそれがあるから笑顔に隠された秘密の脅しで金を出し続ける仕組みだ。

まして相手国の政権が変わろうものなら、秘匿した関係まで暴露される。
悪党は開き直るが、税金を食い物にする子悪党は逃げ回り隠れる。

あの社会保険庁の官吏もそれに倣った。

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衰亡の歴史を感知する習近平氏の国内政策 ②

2023-05-23 01:31:36 | Weblog

        虎視眈々と清朝の利権獲得を狙う列強諸国

 

≪ 毛沢東主席はスターリンとの緊張した会談で原爆のことに触れて、

『たとえ落とされても、人民の半分四億は残る』と応えたと逸話がある ≫

 

 

ここでは昨今の米中、中台の情勢や、中国の威武(経済力、軍事力)を現示的行動として伸長する問題から離れて、経国内治について簡記したい。

それは、たかだか人間の努力次第で数値があがる経済力、軍事力ではなく、人心の統御(人民の放埓を防ぐ)が真の国力の基盤として表層の経済、軍事を支える深層の国力として民情について考えてみたい。

それは、銘酒の名でわが国でも知れ渡った老子の「上善如水」にいう最善な人間の生き方にもよく表れている。

その擬人化した水の生き方だが、本(もと)は循環であり形の定まらないものだ。だが、方円や四角の器(環境)に順って納まり、渓流は平地において小川となり、合流して大河となる。また、万物(動植物・大地)を潤して大海に注ぐ。

大海では舟を浮かべるが、一旦荒れれば舟をも転覆させる力がある。

その大海は人民と称する人間の集団であり、舟は皇帝なり現代では共産党体制でもあろう。

群雄割拠した古来より国人のなりわいは土地であり、労働と天地の恩恵を受けた収穫物であり、そこには権利意識もあった。その仕組みが重層的に変わると貨幣所有の多寡が富となり、発行権を有する集権体制が人々の欲望の多様化と競争に見合うグランドの提供と、ときに欲望の拡大欲求に迫られるのは当然なことである。

 

水の生き方に戻るが、次は水蒸気となり天空に昇り、再び地球の表皮に降り注ぐ。それが変化と「気」を創造し、人間界を活かし動く(活動)の根源となるものであり、理屈ではない浸透した体感から導いた智慧ともなっている。

それは、華人の「力」の作用と見方が天地循環の理(ことわり)を元として、かつ深層の情緒として形成されているということです。

まさに易経の本(もと)は、「元亨利貞」、日本でも挨拶は「お元気ですか」となる。

 

極東軍事裁判インド判事 バル博士の椅子

 

歴史をたどれば百年来、資本主義と共産主義が相対しているような状況だが、果たしてそうだろうか。要は論理で飾れば異なるものが対峙しなければ、人々の統治の整わない為政者の理由もあるようだ。

各々は、似て非なる主義を、利点を添えて謳いあげ、かつそれを看板として実利を唱え、武力や財貨を以て地球の表皮を騒然とさせてきた。

 

わが国も名目上は資本主義とか自由主義、民主主義と看板を掲げ、国内でも各々が政党なるものを作って国民の支援の多寡によって政権なるものを獲得している。

支援者も謳いあげる主義を勝手に解釈して、目の前の実利獲得に邁進している。隣国の掲げる共産主義も、はたして国民の大多数は共産なり資本なりの主義を分かったように喝采を挙げているが、わが国を観ても解っているようには感じられない。

以前、満州軍閥の頭目張作霖に認められ日本の帝大、高等文官試験に合格.張の子息学良の軍事顧問となり、国共合作を謀って蒋介石を監禁した(西安事件)の首謀者、苗剣秋氏に台北で幾度か会った際、大陸民衆の政治に対する見方を面白く語っていた。(佐藤慎一郎氏談)

自民党は「自眠党」、社会党は「斜解党」、公明党は「混迷党」、そして共産党は「共惨党」、総理の人物評では、三木は見限った、大平はまっ平、中曽根には根がない、田中角栄は一角の繁栄しかない、と。老華人らしい鷹揚なもの言いだが、当を得ている。

そして、世界史に名を記ような人物に成らなくては・・と、筆者も揮毫を頂いた。

「天下 公に為す 其の中に道在り」

周恩来氏とも同居する仲だが、多くの日本中枢との交友があったが、他方、国際謀略機関の一員としても名を遺している。

 

その共産主義だが、田中総理は周恩来総理との会話で、「便宜共産主義」と語っている。

その喩えだが、

「子沢山の家で、それぞれが好き勝手なことを云いだしたら親の言うことは聞かなくなる。厳しくしなければ家はもたない。これが国なら大変なことになる」と田中氏らしい論法で周総理に語っている。

 

その意は、広大な国土に、多くの民族が異なる環境にしたがって棲んでいる。それらは個々の民族ごとに固陋ではあるが、宗教、掟、習慣をもち、曲がりなりにも長(おさ)を推戴し中央の政治的要請を効果あらしめる連帯を構成している。

それが天変地異や政治的失策、あるいは権能を有す政権幹部の恣意的政策への反動によって、盲動したり大きな流動が起きたら国は大混乱に陥り、その怨嗟は為政者に向かうようになる。

それゆえ歴代の為政者は「専制」を執らざるを得ない、それが中国では有効な一党専制独裁の共産党なのだと語っている。

彼の国は東洋的看板として代表的には儒教の大家孔子を謳っている。

日本の中国好きな方は、孔子・老子の国、近代では魯迅や孫文となるが、一時は毛沢東主義に傾倒していた。ロシア文学を好むものはロシアに傾倒し共産党を賛美した者もいる。

 

右孫文 側近の山田純三郎

 

 

孫文は経綸を立て、武力を背景に大陸侵攻する日本人に追いやられるようにロシアに救いを求めた。

その時の共産主義への見方は自国の理想に説く大同思想と近似したものと考えていた。軍官学校もロシアの援助で創設し、その頃は蒋介石や周恩来も同じ学び舎で勤務している。もちろん、日本との協調があればロシアに向かうことはなかったと推測する。

なぜなら昔から侵入者は蒙古の元、満州族の清、古くは匈奴、韃靼、みな北方だった。

民衆はロシア(スラブ)人を大鼻(ダービー)と蔑称していた。

ならば、なぜ共産主義なのか。

中華人民共和国が成立してから毛沢東は本家のロシア共産主義(コミンテルン)とは異質の形態で経国している。

ロシアの集団農営に倣ったのか、働き者の農民には不釣り合いな人民公社を全国に設営して農民を鼓舞したが、民族的慣習や性癖になじまなかったのか長くは続かなかった。

二十余年にわたって中国民衆とともに生きた佐藤慎一郎氏は、人民公社創設時、「この施策は民衆に合わない。日が昇ると田畑にでて働き、日が落ちれば休息するような生活を数千年やってきた農民が機械的に時を支配されることは、怨嗟どころか、労働意欲を失くしてしまう。早晩この施策は失敗する」と。

(パールバック女史も農民と財について詳しく記述している 著書「大地」参照 ノーベル賞作家)

 

もともと、マルクス・レーニン主義と云われる思想そのものは中国の民には合わなかった。いや、何か自分たちに実利があるのかすら解らない。つまり主義なる看板は食い扶持(腹はふくらまない)にもならない。

いっそのこと同じ顔を装い、その場、その時に戯れる(逢場作戯)で共産党員になれば、いくらか良いおもいができる。それが明け透けな生きるための方便なのだ。字も書けない、難しいことはわからない、当初は党員の多くはそのようだった。

それは純だった。本能的に力のある処を察して群れになって寄り添う自然界の生物の姿であり、衰えれば離合集散もたやすくできる。それは良し悪しを問うような野暮な理屈の納得ではなく、かつ、生きる(活かす)術(すべ)を考える前提として生命維持の必須な誘導でもあった。

「小人は利に集い、利薄くなれば散ず」

まさに、商人なずとも、上司しか見ないヒラメ官僚、派閥の陣笠議員、教員の出す課題に問題意識もなく数値欲しさに答案を埋める学生、とくに命令に愚直さを求める防衛や治安は組織コントロールすらままならない。それらの理由は様々だが、もとは人心の劣化でもある。

だが、わが国の政治社会の体制と違い隣国はその情況の繰り返しが「知恵」として浸透している。

しかも、更新するすべとして「力」の作用を為政者、人民の双方が、その間(マ)の取り方として理解している。また、その最大の障害でもあり西洋社会の倣いであるスローガン、民主・自由・人権・平等という常套句(美句)についても、あれはハナシとする情感は双方にある。

孔子は看板で、あれはハナシと言い切る骨柄が浸透している社会の復元力は強い。

また眺めながら機が熟すまで平然と待機する忍耐もある。

それが現世に、色、食、財の性急かつ止めどもない欲求が地球の表皮のいたる所に獲得しつつあるのだ。

その意味では、世界一自由な人たちでもあろう。その倣いは大航海時代の西洋人のように、航路を確保して武器で脅し港を占拠する。つまり国から離れば一点に気をつければ放埓(柵から放たれる)を謳歌できる。それは政権に逆らわないことだ。それは生きるために己れ以外の対して嘘や演技が巧みになることでもある。己れ以外、それは時として親、兄弟、子供にもなる。

先進国、文明国と謳われても、人の為すことは数多の歴史に刻まれている。

中国とて侵略、割譲、搾取、肉体的衝撃を受けた側にとっては、その掲げる美辞麗句の欺瞞と儚さは十分承知している。

現支配は、多くは漢民族による共産党の時代だ。歴史には満州族の清朝、モンゴル族の元だが、それをも超越して異邦人を登用して政治や軍を委ねるような特異な容力がある。元は色目人といわれたペルシャ系の耶律楚材を重臣として登用している。

 

後の満州帝国だが、孫文と桂太郎の会談で、

「満州は日本の手でパラダイスを築いてほしい。そしてロシアの南下を抑えてほしい。時が許せば国境を撤廃して中日提携してアジアを興し、西洋とも仲良くしていこう。だだ、シャッポはシナ人です」と、桂の日本の人口増加について応えている。

《つまり、日本の手で開発してロシアの不凍港をめざした侵入を抑え、名目のシャッポ(頭)はあくまでシナ人(当時孫文のいう呼称)ということだ》

たしかにロシア革命のゲルショニが、シナの革命が成功したら、次はロシアの革命を援助して欲しいとに応えて、「万里の長城以北は、我関せず」と伝えている。当時満蒙は異民族の棲む土地である。

しかも、孫文がつねに帯同した側近は日本人の山田純三郎である。山田を通じなければ蒋介石も孫文に会うことはできなかった。世界中の華僑から来る資金や武器は上海租界の山田の家に集まった。信と義の在り方は、たとえ異民族であろうとも命でさえ預ける器がある。

それは傀儡といわれた満州国の実像とは異なるが、彼の地の庶民でさえ、「あの偽満州は良かった」と明け透けに話す土地柄である。

ただ、日本人官吏は賄賂をとらない、これにはまいった。賄賂は人情を贈るものだ、そこから下っ端に流れるのが倣いだ。多少、悪いことをしても分ければ善人、分けなければ本当の悪党だ、と。ゆえに貰って分配しなければ循環が途切れ、人の情も伝わらなくなり、ギスギスした関係になってしまう、それが日本人の四角四面の官吏の分からないところだった。

まさに地球の表皮を棲家にする天下思想そのものである。

 

 

それは、贖うことができない天変地異(風水害等)に対しての諦観(あきらめ)をも包み込むものであり、次に生を躍動させ繋ぐための再生や更新のもととなる過去(失くした生命や財物への執着心)への忘却力である。

まさに華人が大地を躍動の糧として歓喜、失望、を肉体に浸透された学びとして生命を繋ぎ、天と地の間に存在する地球の表皮に棲み、万物の恩恵を認知して、おのれをその一粒(部分)として受容している自然の姿でもある。

それは、たかだか人間の作為的関係をも、支配されているようで、支配している関係として、余程のことがない限り水に例えられた民衆は荒れることはない。

それは、無意味として関知しないことではあるが、地位や財や享楽、そして命も永劫には続かないと達観している。

ゆえにリターンの速い現世価値に邁進し、いくら溜めても欲は止まらず、つねに不安感を抱き、財を蓄積できる間は止め処もなく溜め込み、それに相まって軍事力ですら蓄えに見合った量を備えるのは当然な姿でもある。

高官の蓄財が薄書記5000億、温首相 3000億、石油利権の周氏の一兆数千億(外電)にもなると、「大したもんだ」を越して共産党への怨嗟が増大し、体制すら危うくなるのは目に見えてきた。

 

逆に権力を持ち成果物を得ても、それを護り、維持することは、より強大な権力と多くの成果物を獲得する力や狡知を働かせていなければ維持できない。その擁護の恐れは一つの獲物に、群れとなって向かう周到さがある。たとえ相手が一丁の銃でも数十丁持たなければ安心できない。過剰とか怖れ体質とも思われるが、繁栄すればするほどそれは昂進(度合いが激しくなる)する。

 

近代は文明の求める利便によって地球観も狭くなり、交易の発展から版図の書き換えが行われた。

東西南北、文明は交差して諸民族は利を有する地域に進出した。

鷹揚な歴史は緊張から侵入、奪取へ進み、沿岸の領土は割譲された。

時を経て女神は秤の均衡を取り戻したように、力を取り戻した華人は割譲された土地を取り戻したが、有り余った繁栄は、まさに彼らの説く循環経路の方円を歪んだ導線として自らを着地点を計測できない環境に迷走させている。

 

つづく

一部イメージはは関係サイトより

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マスコミ考 存在と分の弁え 2008 あの頃

2023-05-21 21:00:25 | Weblog
  •           郷学にて 右端卜部氏 安岡正明氏




    産経新聞の一面に掲載され、かつ紙面の縦軸を掌る産経抄が陛下のお言葉に触れている。
    ことは、米国のチェイニー副大統領が宮中参殿のおりの会話であった。
    チェイニー氏がイラク派遣の自衛隊を評価するにおよび、陛下は
    自衛隊は給水活動や医療活動など、復興支援のために派遣されたものであり、無事にイラクの人のために貢献することを願っている」と発言されたことを受け筆者は、
    「なんと、陛下は自衛隊のイラク派遣が人道支援であることを明言された」と続き、
    「小欄の知る限り始めてのこと、すごいことである・・」と感動で結んでいる。

    ことさら、戦前の天皇制は、などと言い募ることでもないが、小生にもこれに似た望念に駆られたことがある。
    それはいまも慙愧の念を抱く言辞だった。
    一つは、皇太后御用係であった故卜部亮吾氏との回顧に、高齢化社会を憂慮してこう提言したことがあった。

    「近頃、女性週刊誌をにぎわしている皇后や妃殿下のファッションや旅先の逸話やイベントが多く取り上げられ、鎮まりの象徴である皇室が世俗の騒がしさに順化しているようにも拝察されるが、もし、皇后が皇太后を介護ている姿を自然に表せたら、ややもすれば浮情に流されやすい女性の価値観を変化させることができるのではないか。
  •  陛下の発言を世俗に晒すことは多岐に問題を誘発することもあるが、皇后の仕草や高齢である皇太后への労わり、女性ならこその役割表現として民風を変化させると考ます」

     願望に過ぎないものだったが、皇室の語り部として昭和天皇、そして皇太后につかえた卜部御用係の頷きを得るのには刻を要さなかったと記憶している。
    しかし、うかつにも行動を要望したのである。はたしてそのことが善例の創造だったとしても、いずれ訪れるだろう次なる願望の出現は、歴史の残像が作り出したさまざまな知恵の結実である我が国の皇室のあり方を、異国で晒される百家争鳴に似た後戻りできないような環境を醸し出してしまうという反省の憂慮だった。

     存在の座標は国民に在りといっても、時節の変化は否応なしにその姿を変化させている。
    政治、経済が織りなす世俗の変化に囚われず、歴史を俯瞰して下座に視点を置く鎮まりは、ひとえに、『おたちば』といわれる言葉に集約されている。

    以前、産経抄の筆者は、靖国参拝を懇願する趣旨の論を記していた。
    中国、韓国、靖国、小泉総理という登場人物のなかで、陛下の靖国参拝を請うている。

    はたして陛下に行動を懇請したり、御意思の確認をする意味があろうか。
    幕末にもとってつけたように、錦の御旗を持ち出し、明治の国家創生と国民という呼称の発生とともに、まるで為政者の屏風代わりとして使った。

    それは、「軍は竜眼の袖に隠れて云々・・」といわれたように、当時天皇の専権であった統帥権の乱用を誘発して議会を形骸化した。

    つまり、王道であったスメラギの道に、覇道の衣を纏わせることでもあった。

    我が意を得たりと肩の入った書き込みだが、真打登場のような表現は却ってその在らしめるお立場を窮屈にしないかと心配になる。
    「直なれば則ち絞ず」、一時の歓喜や大樹の傘を安堵することによって、わが国の行く末を絞め付けてはならない。

    子供心に祖父から学んだカミの意識は、お願いしてはならない、守ることだ、と。
    そして無条件の忠恕は国家のカテゴリーを超越して、救いを求めるものを包み込み、亡命者を「逃げてきたもの」とは考えない。
    産経抄の屏風の陰には無名有力な民の存在がある。

    それは、豪華社屋や部数の多少に一喜一憂する商業マスコミの立場を錯覚した知識人に多く観られるような、附属性価値に錯覚する元老院的猫鈴物書きの座標なのかもしれない。



    平成16年4月15日 産経抄考
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官吏の懐疑的対応 あの頃

2023-05-18 04:52:52 | Weblog

               

 

面前権力には税と治安があるが、成文にある法をもとに普遍的対応をしているという。

国民はその姿に、国なるものの税の公平、治安機関の正義の如何を敏感に察している。

それも、生身の人間が執行することだが、こと運用においてはどこか懐疑的、恣意的な印象がある。それは経営的行政の謳い文句の基となる数値的評価に、何の問題意識もなく踊る官吏の姿なのではないだろうか。

 

しかも課題を提示されると、課題の内容を吟味することなく、唯一の世界のように数値成果に邁進する牧民官となり、唯、国民は羊のように無抵抗な群れとなっている。

その課題となるものは、税は徴収の迅速化と量の確保であり、治安機関は出先においては数値の確保、内部においては、やはり収納金の多寡である。

 

彼等は国民に有無を言わせない負託権力を持ち、その収納を図るために煩雑とした多くの法をつくり恣意的(欲しいまま)に執行している。しかもその便法ともいうべき法を作成する立法府の議員ですら、沸点の低い(だれでも触法の恐れある)税法や選挙法のリード線つきの愛玩犬のように尻尾を振る始末との揶揄も巷では聴く。

 

これらは公権力と呼ばれているが、自分たちも国民だと思っているが、どうも懐疑的な関係は払拭できない。つまり姿は面従、心は腹背にある。真から信用していない。

このところ、それに慎みが無くなって数値の成功評価と収受の多寡を、さも慇懃に見せられると国民とて、より懐疑的な気持ちになってくる。

 

以前は、゛疑わしきこと罰せず゛と相手の自省と覚醒に求めたものだが、もともとそんな心は当てにならないとばかり、疑わしきことを探すようになっている。くわえて対応も懐疑的だ。相対では話にもならないからと弁護士など商業司法家に頼るあまり、その分野の生産量?も増大している。

 

松下幸之助氏が米国の感想として「弁護士と精神科医が多い国は決して豊かでも善い国とは思わない」つまり人を信じられない社会は、国としての基を成していないということだ。

人が人でなくて、どうして国が国として成りえようか」は清末の読書人(知識人)梁巨川の言葉だ。

 

公務員に国の威儀を表せなどと四角四面なことは云わないが、ましてや立場維持が食い扶持安定と生涯賃金の担保を企図しているとも思いたくはないが、執拗に良心を閉ざしているように見えるのは国民を、゛信用ならぬ者゛゛無知な者゛゛徴収されるべき者゛とみてはいないか、あるいは国民とて、゛貰えるものなら何でも゛゛助かるなら我先に゛など、双方が、゛学んで行わず゛゛知って教えず゛の関係になっているようで、政府が提示する国益や防衛などの案件など話のネタにもならない状況がそこにはあるようだ。

官僚社会主義、いい得て妙な呼称だ

 

 

 

 

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明治天皇が直感した人間教育の欠如 10/7再

2023-05-12 02:59:52 | Weblog

 

明治天皇は帝大(東京大学)の巡察で現代の教育についての混迷を逆賭するかのように賢察を侍従に諭している。

これは天皇でありながら独りの英明なる人間としての直感である。

明治創成期、国家、国民という名ではじめて呼称され、国家経営のための諸制度がつくられた。
そのなかで一番重要視されたのは教育であり、さらに国民の人間としての尊厳を護るために任用される各部署要員と共に、それらの人員を用いて有用にプロデュースする「相」の育成だった。


その様子は天皇の慧眼というべき指摘であり、以後、立身出世主義から形式的組織となり、ついには臨機の応用に応えられないような状態が起こり、あたかも国家の暗雲となり惨禍を誘引してしまったことを観透すような憂いでもあった

それは結果として今もつづく教育の在りように添えられる数多の枝論、ここでは文部省官制学校制度の限界を縫い繕う対策や、あるいはそもそもが教育課程の前提なるものを国家の施策の範疇に留め置き、しかもそれが全人格、全教養を補うかの如く考える官吏や受益者の習慣的錯誤によって囲うような状態を作り出してしまった。

その前提が崩れるといった状態だが、当時の目標が「公」に基づく立身出世なら、現在は食い扶持安定、やりたいことのステージ確保といったありさまである。

政治の「相」といえば、徴税、分配という部分は唱えても、国内の流動を俯瞰する教養も乏しく、その流動でさえ世界を包む流れからすれば盲流のような行き先不明状態でもある。
事実、政治の一面でもある欲望の交差点に戸惑い難儀な姿を見せるが、複雑な要因を以て構成された国家を担う胆力はなかなか感じ取ることはできない。

西郷も勝も歎いた国家の柄と人々の風潮は、よりその教育制度の錯誤と西洋迎合のために当時流行りものとして、かつ引き寄らせられる個の伸張と我欲の昂進を促す啓蒙的思想に染まってしまった

そして大切なことを置き去りにしてしまった。

天皇はそのことを逆賭して諭したのである。
それは天皇の責任としての賢言でもある。

民族の危機は天皇の直感として今でも生きている、また解っていても動じない殻が社会を覆っている。問題はそれを意識として認知しなければ変わることはできない。以下は、その端緒として考え敢えて提示する。





             





≪聖喩記≫

                        明治19年丙戌11月5日
                                元田永孚謹記

11月5日午前10特例に依り参内既にして 皇上出御直に臣を召す。

臣進んで 御前に侍す。 呈上親喩して曰く。



 朕過日大学に臨す(10月29日)設くる所の学科を巡視するに、理科・化(学)科

植物科・医科・法科等は益々其の進歩を見る可しと雖も主本とする修身の学科に於いて

は曾て見る所無し。
 

和漢の学科は修身を専らとし古典講習科ありと聞くと雖も如何なる所に設けあるや過

日観ること無し。

 抑(そもそも)大学は日本教育高等の人材を成就すぺき所なり。
 
然るに今の学科にして政治治要の道を講習し得るべき人材を求めんと欲するにも決し

て得るぺからず。
 
仮令理科医学等の卒業にて其の人物を成したりとも人て相となる可き者に非ず。


 当世復古の功臣内閣に入りで政を執ると雖ども永久を保つすべからず。

 之を継ぐの相材を育成せざる可からず。然るに今、大学の教科和漢修身の科、有るや

無きやも知らず、国学腐儒固懇なる者ありと雖ども其の固泗なるは其の人の過ちなり

 其の道の本体に於いては固より之を皇張せざる可からず。

 故に 朕、今徳大寺侍従長に命じて渡辺総長に問わしめんと欲す。

 渡辺亦如何なる考慮なるや、森文部大臣は師範学校の改正よりして3年を待って地方

の教育を改良し大いに面目を改めんと云って自ら信じると雖ども中学は梢改まるも大学

今、見る所の如くなれば此の申より真性の人物を育成するは決して得難きなり

汝 見る所如何。                   

 臣謹んで對して曰く








                



数年前、与党の教育視察がイギリスに渡った。そして異文化から必然として考えられた教育制度を帰国して嬉々と広言していた。
今度の政権もその手の奇妙なハナシに飛びつくようにみえる。はたして何処の国の失敗と一過性の成功体験を持ってくるのだろうか。

制度やマニュアルや教師の増減や待遇を論じても失敗する。

明治以前、藩校、塾、郷学、寺子屋があった。
当時は制度や枠組みを問題としたのではない、教育、修得、修行に携る人間を問題として、かつ重要視した。

山田方谷,恩田杢、上杉鷹山、吉田松陰、みな教育を行なう前提として身を律した。それは古今東西の栄枯盛衰を成文化した古典を学び、人物、人格を倣いとした

「古典」は難しく固いものではない。語る人間の問題と明治天皇も説いている。
しかも、それは昔話として興味を持つものが端緒となる平易な学びだ。

敢えて外国の理を取り入れた明治の学制、それが日本及び日本人の情緒に齟齬をきたしたからといって、また外国を範とする愚は阿諛迎合性という国癖を深いところで理解しない擬似知識人、選良の一群でもある。

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人心、惟(コレ)微かなり 10 1/8 再

2023-05-12 02:57:33 | Weblog

            師走の富士





S氏とN氏のTV漫談対談のこと・・・

双方、善人である。かつ人生経過において常に問題意識をもち、゛考える゛ということを怠りなく行なってきた。また遭遇した人の縁によるものなのか、あるいは身の置所の縁ゆえか人師より経師の縁が多かったようだ。
それとも、人には天爵と人爵があるというが、それかもしれない。

それゆえか、世俗ではごく普通な経過であっても、彼等の観た挫折反抗が反骨という特徴ある気概を生み、味のある口舌のオンが滲み出ている。その意味では洒脱でもある。

ただ、吸い取り紙と皮肉屋の言いっ放しといってよい談でも論でもないハナシのようでだが、これらが「壇」や「界」を形成し、錯覚した「威」をもつと国家は弛緩する。

吸い取り紙とは、なんでも頭に入れ珍奇な切り口で、切り絵貼り付けを成す論を高邁に語るが座標がなく責任言辞が無いことである。皮肉は世俗を嘲りながらも心根に素直さが無いシャイな様である。天邪鬼な筆者はそう診るのである。







            






先日、ドイツの哲学者カントのことで二人が対談していた
双方、学者と称する人物だが、一人は元左翼との経歴はあるが、矢鱈と知を詰め込んだためか、それとも「本立って道生ず」にいう知の集積以前の「本(もと)」の希薄のせいか、迷いに迷って他に解答を求めんがために、つまり素直さのない口舌を当たると幸いに投げつけ、かつ今以て有るが如く捜し求めているが極みがなく、亡羊で言い切りのない人物である。

一方は元教員だが応答の妙は前者とは異なり、幾分の気質はこの世界の師の影響ゆえか、反骨の気概は和(日本風)の根が醸し出されている。そのせいか応答に、゛押して殺す゛、あるいは眺めるような言葉の韻がある。
だた、彼の講演テープを拝聴したことがあったが、教育者、評論家の雰囲気はなく、ただ彼らしいイメージを護るものであろう権力を嘲る軽い音調であった。

共通していることは大衆を軽薄なものとして自身の置くところを錯覚していることだ。ともあれ無学歴、無教養なると定義した世の善男善女、ここではそれをスメラギの倣いになる「大御宝」と留め置く忠恕な心が希薄なようだ。
当世知識人の一方の姿として眺めても、いざとなったとき「欲知」の衣を被り肉体的衝撃を感受できるが、同感できない人物のように見受けられる。







                     

                八甲田




余談だが新年参賀の陛下の言に「平安」があった。平和ではない。
「和して平らかに」から「安らかに平らに」である。陛下は若かりし頃「平等」について考察をしている。平等とは意志ある人たちの自由を担保するものであり、自由とは人間の尊厳を護持するものである、との考察だった。

ならば、人間の尊厳を毀損するものは何か・・・、それは権力を構成するものの在り様である。今どきの権力は政治家、官吏、宗教家、宗教家、教育者、あるいは金を繰る金融資本家もそうだろう。また、第四権力といわれる商業マスコミも当てはまる。それは力の加減であり、ホドの問題である。

調和と連帯は譲ること、つまり辞譲に表れる礼と醸し出す「威」の認知にあるが、そこに大小の「力」がつくと様々な煩いになる。商業マスコミに踊る、売文、言論もその力を必然として生業を成立させているが、自他に毀損するものについての言は微かである。

また、衆を恃む人々の集合やうねりも、「人の権」、つまり人権を基に力の大小を問わず姿のないものだが、己には決して向けられることのない「威」をつくっている。

往々にして言や文、そして行動を人は反芻する。そこから反省、確証、突破力などが生まれるが、逆に一過性の゛このぐらい゛という自己許容の弁えがないと、たとえ虚構や他の錯覚ではあっても覚醒なき者にとっては「威」をみてしまうことがある





              

            青森県平川町 木村ヨシ 作



今どきは、人の考えること、思うことは勝手、あるいは巧舌を以って相手の無理解や錯誤を突くような、通り魔的ないっときの戯れが言論、売文の争論としてもてはやされている。また無理解にも真剣さと難しさが同衾していると考えているのか、優しい言辞も「易しい」という錯覚を生み、世俗でも易しい男女を増大させている。まさに劣意スパイラルに陥り、より「権」や「威」の効用を衰えさせている。

たとえ世俗に異論であっても恐れぬ言辞を発するのが知識人ではないだろうか。
それが真の自由を担保することだと「学」に向かったのではないのか。
やはり、歴史を裁つことでなく、より糸を断つのだろうか。絶つべきは権と威を食い扶持に用する怠惰ではないだろうか。





            

            全ての人形には口が無い




古今東西、つまり日本以外の宗教なり哲学に遺された言辞にはナルホドと共感するものがある。
同時代の情感や和訳の巧みさもあろうが、時を越えても、あるいは積み重ねたり、崩されても、人の心に入り込む適応はあるようだ。加えて、似て非なる理解でも相対の象として残るような考証期限のないものでもある。

ただ、似て非なる民族なり環境なりから必然として発生し、継続なり時には忌諱された説として理解なり押さえなくてはならないことは、この手の対談には必要なことだろう。なぜなら堂々巡りして発言者の、しかも自己発言の自己納得で済んでしまうような滑稽な論壇演技になるからだ。

対談は「潜在」というキーワードが最後の句として語られたが、尚更のこと当てずっぽうの放談、いや笑談という緊張感のない対談に双方が捜し求めても見つからない「我ナニビト」に落ち着いたことに現代知識人の突き当りを観ることができた。





              

            岩木の冬





次は江藤淳がまな板の鯉だった。
「安岡正篤の講座に参加していたが、其のうち来なくなった。安岡氏は『江藤君は朱子学だからか・・』と云っていた」
また「江藤さんが三島氏の行為に『病気だったのではないか・・』と小林秀雄さんに言ったら、『幕末維新の吉田松陰も・・・』と、その侠気を例に反論された」と江藤氏の曖昧さと型(形式)を付けるような人柄を語っている。

筆者は江藤氏や三島氏の著作を見ているわけでもないが、手紙の交換経緯は眺めていた。

朱子だか陽明だからは省くが伏線がある。
江藤氏がアメリカに滞在していたとき三島氏から懇請の便りがきた。内容は自身の英訳に適した人なり方法を、゛たって゛のこととして請うている。

その後、江藤氏がどのように動いたかは判明しないが、きっと動かなかったのか、難しいこともあったのだろう。だだ、英訳の意図はノーベル賞に辿り着く前提でもあるということだ。ここでは著者と読者の相関関係ではない。本来なら商業出版社が労をとると思うのだが、本人がアメリカ在住の江藤氏に直接便りを出して請うべきものなのだろうか。また人物なり見識に敬する気持ちがなければ、たっての請願は行なわない。なぜなら意図を錯誤され批判の対象にされかねないからだ。江藤氏は書評家でもある。






          





書評、とくに外国の有名な書評家のコメントは特に我が国の著書を生業にしている人たちにとって気になるところだ。中国のリ・トクジュン氏も新潮45に多くのページを占める人だが、筆者に親指と中指を広げて『司馬さんからこんなに手紙を貰っている、ほかにも阿部さんもある』と。

「ところで李さんは元外交部で単身でしょ・・。この新潮45を書いたのは北京でしょ・・」

李さんは『なぜ分かるの・・』

「数十ページの長い書評ですが、この2行が李さんらしい」
その意の詳細は省くが、説明責任なら以前コラムに記してあるので、此処では省く。

つまり書評とは相手の意思ならず、意図の中で調理されるものなのである。あるいは其の世界では「見透かされる」ことなのである。

江藤氏では埒が明かないとみたのか、三島氏は安岡正篤氏に手紙を送っている。
其の手紙の内容だか、江藤氏を罵詈雑言でこき下ろしいている内容である。
はたして人間学を説き、人物、人格を人間の観点とする安岡氏にどのように映ったのだろうか。あるいは江藤氏の観点、人格が完璧ならずとも常識を弁えていたら、安岡氏の講義に際して何か知りえたとしたら、遠慮する、あるいは控えるのが三島氏に譲る礼であったのだろう。







               

               碩学の書棚



あの決行直前にも長文の手紙を送っている。その際安岡氏は「手紙を貰っていたが、早い時期に陽明など、じっくりと語り合いたかった・・」と彼の死を慙愧の気持ちで惜しんでいる。

世俗の人間なら、あの時あの手紙の懇請に複雑な事情で応えることができなかったが、安岡氏にそれとは逆な意味の手紙を差し出すことにどう対応するだろうか・・・

突き詰めた真剣さ、純なる思い、陽明のある意味での到達である「狂」の境地を行動した三島氏の烈行は畏敬されるものだ。

また別なる境地として理解した安岡氏も金鶏学院に参講した血盟団の若者との縁を想起しただろう。
「暴力的手段は人の心に衝撃を与えるが、社会は一過性のこととしてみる。私は全国津々浦々の礎となる人物を育てる立場に為すべき社会に目標を立てる・・」と歩調を合わせなかった。
それゆえ、御用学者、腰抜けと罵倒されもした。

ことさら江藤氏を援護するものではない。
しかし、事には動と静がある。また三島氏の行の後の世相に、いたたまれない慙愧と鎮まりが訪れたことだろう。

それは世の中が人の言辞に踊り、その筆者や言者でさえ自らの記述や言辞に吸い込まれるような自己愛に、茫洋とした無常を感ずことである。

つまり、独立した精神は筆者にも読者においても、自己を俯瞰客観視する余裕、あるいは自裁の辿りを想起するような自己への戒めを、利他増進へ行動によって解消するような鷹揚さと、歴史の腐葉土として受忍し将来を逆賭する生き方への学びの探求だった。





             
      
            京都 上賀茂





三島氏を心根で理解してほしい、それが江藤氏の思いだったのだと・・・
それさえも阿吽で忖度できない日本人、ならびに文化を高め未来を推考するなどと水面のミズスマシ如く表層問題に争論を闘わせ、潜在する良心を観てみぬ振りして、いや在るを知らずして食い扶持前提に走狗する知識人を歎き眺めていたと筆者は意を受ける。

今どきの売文の徒と言論貴族は、極みと覚悟を忘れた放埓の痴(知)戯に成り下がった。再度、集積歴史の恩顧と覚醒をお願いしたい。

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碩学に世襲はないが風韻はある 09・06/03 再

2023-05-02 06:14:32 | Weblog

風韻・・・品格、趣き


近頃、世襲問題が騒がしいが、一つ切り口を変えて線引きをしたらどうだろうか。

それは食い扶持収入の安定の為にすることと、安岡氏の謂う地方郷村のリーダーの人成りを涵養する習慣的学習と環境に則した特異にもみえる人格の有り様である。

ここでは財があるだけの豪農ではなく、篤農家と呼ばれる人々である。
その昔、名字帯刀を許され、徴税、裁判(掟、習慣による陋規)や,一旦危機が訪れたら米蔵を開け、時に権力者と対峙する。

そのような気概が果たして瞬時に出来るだろうか。
ここでは覚悟と潔さと貪りのない精神だろう。

あるいは「今年は涼しくていいですね」との侍従の言葉に「東北は冷害で大変だろう・・」。あるいは「雑草を刈りました」には「雑草とてそこで生きている、無闇に刈らないように・・」とは昭和天皇のエピソードである。

巷では天邪鬼だとか、゛格好付け゛と嘲笑されそうだが、これも附属性価値である地位、名誉、財力、学校歴に無欲で恬淡な肉体に浸透された継続学である。



              

                 孫文の隠れ宿



国柄、家風、あるいは社会の風潮などは一朝に出来上がるものではない。よく娘を観るのに母親を見ればいいとか、食は三代と言われるくらい嗜好も食べ方もしくは喰い方も習慣性の変換は三代に亘る時が必要だといわれている。

あるいは応答辞令における態度、仕草などは子供の使いでは無いが、外交なり政治応答、はたまた官吏の姿勢、警察官の権力行使など、社会ならず国家間のやりとりまで影響を及ぼすことがある。

よく「貧すれば貪(どん)す」とある。貧しいゆえに貪るということだが、これは狭くなることでもある。そのような人間に限って税や他人の金で飲み食いするときは無駄もあり豪勢だが、応答においては自己責任を逃避するために殻に閉じこもり、中身のない暗記学校歴から知った狡知を駆使して言い逃れをする。



                

              蓬莱園



今どきの世襲は身分、収入の安定を指す。
それは一時の男感情ではなく、女性の志向が多い。
「公務員になりなさい」多くの子息が母親から激励される言葉だ。

とくに地方公務員や現業の官吏はその事情に詳しいせいか、内に秘めた貧貪の心が充満し、組織内の習慣性となった怠惰、公金裏金化に異を唱える意識も劣化して「公」を屏風に巧妙に国家を二層化して惰眠を貪っている。


笑われるかもしれないが、麻生氏の「さもしい」の言は世襲のよさと、広言する空気の読めない楽天的な盲点として複雑な気持ちがした。
育ちはともかく、筆者も「さもしい」に同感だが、もし貪官を管理する行政の長なら内なるものに切り込むだろう。

昨今、問題になっているのは、喰い扶持安定の為の学校歴(学歴ではない)であり、既得権化された特殊なエゴ集団ではあるが、どうも、゛いいたい、やりたい自由゛なのか、しかも分別なき民の主たる「民主」意識なのか、安岡氏もデモクラシー変じて「デモクレージー」とよび、価値の混在より自己の混在と座標の消滅を憂いていた。



            

            孫文宿部屋での揮毫



「君、座標を確立するには無名の位置におって、下座観と世の中の過去と将来、つまり歴史の俯瞰が大切だ。其の観点は将来を逆賭(先見)することにもなる。これは有力だ。無名は有力ということだ」

初対面から聴き慣れない簡潔さであり根本を押さえた応答だった。

弟子と称するものはいたが、弟子はいなかった。ただ、安岡ブランドを喰い物にしたり、半知半解な言辞の聞きかじりを他に広言するものを批評もせず眺めていた。筆者もそれを観人則として自己に問いかけている。

正明さん(長男)も父から教えられたことはなかった。ただ皮肉にもある試験に落ちたとき「試験は落ちるもか・・」と呟かれ、参ったという。
背中で学んだということだろう。

学問には世襲はない。

安岡ブランドや縁者をもてはやす風潮は堕落だ、と草葉の陰から一喝されそうだ。

コメント
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