陽明学者、漢学者と呼称のある昭和の碩学安岡正篤氏の長男正明氏は筆者に、父から直接学んだことは無いと語る。言われることといえば或る試験に及ばなかったとき、「試験とは落ちるものかね・・」と皮肉を言われたことがあったが、今どきは自棄になって不良になるか、怠惰な生活に堕ちないとも限らない、一種の冷酷さがあった。
別に厭なオヤジだとは思わなかったが、世上の煩いごとに奔走するごとに感ずる細事,小事に拘泥する人間の姿を憂慮して、愛する豚児に厳しくあたったのかともおもえたという。
人の心を思いやり、行く末を見越して今を考える俯瞰力は、冷酷とも思えた父の、゛教えない教育゛だったと回想していた。
それは為政者の訓導者として、かつ日本の将来を憂慮して説く「人間学」は、親子の背中学的交感であったようだ。
その正明氏だが、父が筆者に勧奨した「郷学」の作興のために集った小会の講頭として多くの話題を提供した。そのなかで男子の美学について歴史上の逸話をひいて語ったことがある。
それは、どこか父正篤氏に似て、含みを込めた洒脱な雰囲気があり、どこか男子特有の苦みの混じった悲哀を感じさせ、声をひそめて「戦後婦女子の教育は間違っていた・・」と語ると共に「男児の美しかった頃は・・」と続け、戦国時代、幕末期、終戦直前を例に語った。
流行作家の司馬遼太郎氏も「戦国における美について」こう述べている。
思想や道徳で日本人をとらえるより、やはり美意識でとらえた方がわかりやすい・・・
その美意識の鮮烈さは・・・
日本の体制がいちばん崩れて、生の人間が躍り出た戦国時代・・・
山本常長が語りつづけた「葉隠」の「狂」は、我々はなかなか狂たりえませんが、しかし、なにか、日本人というものが、わかるような気がします・・・
戦国時代は人間が猛獣だったとおもうのです・・・・
その、猛獣性を矯めるものが朱子学であったし、そのほかの道学だった・・・・
ところが、常長は「それはいかん、猛獣は猛獣の美があって猛獣の美を研ぎ澄ませ・・」と言うのです。
猛獣は猛獣のように生き,死することは、これはちょっとすごいですね・・・
「狂」とは病的狂人ではない。陽明が説いた陽明学でも「狂」の極致についてのこしているが、幕末期の維新回天のもととして、あの山県有朋も「狂介」と号している。
つまり、平常心をもった「狂」であり、松陰の教育前提として説く「人と異なることを恐れない自己ノ確立」のために到達すべき境地だった。
戦国時代は夜盗盗賊であれ、農民、商人までが群雄割拠して津々浦々で戦っていた。それが収斂される過程では落武者とて農民に襲われ褒章目当てに首を断たれ、首が重くなると耳を削いで縄にくくって持ち歩いた。運よく勝ち組になると、こんどは寝首をかかれたり裏切りをおそれて刀狩りをして武具を取り上げ、朱子学によって、今更ながらの人の道を説いた。
また、猛獣の美学の代りに芸や道の美学を武士の習いとして推奨し、褒美であった領地分配の代りに、ルソンの痰壺のような拙い陶器を堺の商人利休に値踏みさせ、猛獣を芸道に手なづけた。つまり品のある生き方の勧めだ。ただ、あくまで茶室という小部屋の世界のことだが、為政者からすれば無知を弄ぶ下品な統治方法でもあった。
ちなみに、外地まで出向きブランドをあさる婦女子や成り金紳士もその類いだが、中国製でも刻印や印刷をすれば競って購入する。彼の地の貴族はあえて刻印をはずし、自家の紋章をつけて使用するが、だいたいは紋章や横文字ブランド名を見せびらかすのが愛好家のならいでもある。
標題に戻るが、幕末、終戦直前の男子の事績や表現する文章詩句は歴史を超えて人の心を動かす力がある。鉄舟をはじめとする維新先覚者の書軸は今もって当時の男子の香りを漂わせる。それは僧職、政治家、経済に関わらず当時の気風である意気と悲哀を表しているが、時代を経て特攻隊の若い兵士の遺書も言葉を絶する力がある。
その時代に生まれた男子の運と縁の関係と現代人は理解するだろうが、このような時代の姿は、その渦中にある男子にとっては肉体的衝撃を伴う勝利もしくは死を単なる運や縁とは思っていなかったはずだ。ましてその鮮烈な臨場感は安逸にふける浮情の論評など及ばぬところだ。ならば何故に行動したのか。
なかには郷や国家に靖んじて己を献ずることもあれば、恐怖に戸惑って背を押されたもの、はたまた流れに抗すことなく諦めの気持ちなど、様々な事情が想像できる。
よく武士は「己を知るもののために死す」とあるが、そこに臨む人たちは武士だけではない。雑兵とよばれたものでも領袖の力だけではない威厳に畏敬をもち、その意志に嬉々として随ったものもいる。今の政治スローガンではないが、国のため、家族のため、我欲充足のためと種々の約束事を不特定多数に吠えるのと違い、当時は口先ではなく「仁」に表される男子の優しさ、「義狭」にいう無条件な利他への貢献を人物の姿,統領の器量として自身を同化できる安心感があった。
ましてそうでなければ命を懸けることなどできない。それは仁とか義にいう精神を具体的に行動して教え指し示す統領の、一方のあり方であり、あのような人物になってみたいという目標でもあった。
戦国、幕末、終戦直前は多く男子に「先人に倣おう」という意識が溢れ、死などはその希求心からすれば霞のようなものだったとおもえる男子のすがたである。
剛もの、義あるものに付き従う気概は土壇場を想像し、゛裏切らない゛゛忘れない゛行動意志の存在として「人物の姿」を第一義においていた男子が括目して、勇気ある侠となったようだ。それは隣国の春秋戦国時代の侠客にそのもとをみることができる。
昨今は、中国に侠客・・?と想像も難しいが、日本とて侠客とたたえられた博徒なり口入れ業も、やくざ、暴力団と括られる時代だが、その「侠客」なるものは市井の普通の善行にもあり、被災地のボランティアにもその精神はある。彼の国の侠客も徒党を組み悪事を働くもののように印象付けられてはいるが、為政者、体制側からすればことのほか面倒な連中であり、直なる性質のあまり、ときに謀りごとに利用されることもあった。
山田良政の義侠心は辛亥革命に向かった
ここに平井吉夫氏の「任侠史伝」という著書がある。
まさに目からうろこの感慨を味わった内容だが、同じ出典の「史記」でも視点と切り口が異なると、こうも理解を広くさせてくれるものなのかと、今更ながら驚いている。 それは、佐藤慎一郎氏のごとく、二十年もの長きにわたって彼の国の庶世を体験して、人々の古典に対する見方や活かし方、それを補い実利とする諺(ことわざ)や俗話を学びの補完としたときに似た感慨がある。
bそこにはアカデミックな古典教育や意味の薄い習学を学び、しかも数値評価によって学域ステータスと食い扶持を按配する学徒にはない異文化、異民族の性癖をこえた普遍性がある。
余談だが、日中友好なのか「誘降」なのか、美句に惑わされ、却って軋轢を増している関係も、単なる空中友誼のようにもおもえる人間観察の共通した価値感のようだ。
冒頭はこのようの始まる 《抜粋、簡易記載》
≪「史記」遊侠列伝とその序文は、のちの中国思想の正統派には気に入らないものである≫
まさに古典期養育においても、体制治安においても「任侠」や「侠客」を正面にとらえることもなく、ましてや義人や仁者にはならない。鼠小僧や清水次郎長も庶民から喝采は受けても悪党、科人であろう。
≪「漢書」も遊侠伝を書いているが、「下賤の身分でありながら、僭越にも生殺与奪の権利をふりまわす・」罪人と断じている≫
そして魯の国の朱家という人物をひいて
≪魯は儒教の本場であるが,朱家は任侠によって有名になった。朱家にかくまわれて救われた人は何百人もいるが、そのほかの普通の人々にいたっては数えきれなかった。
しかも、自分の能力や人にほどこした恩を誇示するようなことはしない。
かって恩をほどこした人と顔を合わせることもしなかった。
困窮している人を助けるときは、まずは貧賤なものから始めた。
家に余分な財産はなく、粗末な服を着て、食事は一汁一菜、乗り物は小牛にひかせ、馬車に乗るような奢ったことはしなかった。
人が危急に陥ったと聞けばすぐさまに駆けつけ、自分のことはかえりみない。
天下の尋ねものだった季布将軍を、一族皆殺しの厳罰を承知でひそかにかくまい、赦免されるように高官に働きかけたこともある。季布が尊貴に身分になると、死ぬまで合わなかった。函谷関より東の人たちは朱家と交際を願わないものはいなかった。≫
まさに宮沢賢治の詩はここから引用したのではないかと想像もする内容だ。
郭解(あざなは翁伯 前180-157)も意味深い。
≪若いころは酒も飲まず陰険悪辣でかっとすると人を殺し、友の仇打ちを助けたり,逃亡犯をかくまったり、強盗、贋金、墓の盗掘までした。運の強い男で捕まっても恩赦で罪を逃れた。
ところが年をとってからが面白い
荒い気性を抑え、徳を以て恨みに報い、厚く恩をほどこしても返報を望むことはなかった。しかも、任侠をおこなうことはますます盛んで、人の命を助けても誇ることもなく、ときどき昔のぞっとする目をすることがあったが、若者たちはその行いを慕い、郭解も彼らのために仇討をしても、知らせることはなかった。
あるとき郭解の甥が彼の威を借りて酒席で一気飲みを強要した。相手は怒って剣を抜き姉の子を刺して逃げた。
姉は怒って「ひとかどの親分のくせに甥の仇もとれないのか・・」といい、その亡きがらを道に放置して葬らず郭解に恥をかかせようとした。
犯人は観念して郭解をおとずれ、事情を包み隠さず話すと,郭解は「あなたが甥を殺したのは当然です。あの子の方が間違っている」と立ち去らせ、甥の罪を認めてから死体をひきとり埋葬した。人々はそれを聞いて郭解の義狭を讃え、ますます心を寄せた≫
山岡鉄舟
たとえ身内でも善悪を明らかにして賞罰を公平に行う、昨今の政治家や官吏にはなくなった行為だか、翻って若者の頃は極悪非道の科人だが、人はいつでも転化できることを教えてくれる。しかも深い考えを行いにして、何よりも財物に惑わされず、行為を誇らず、貪らない姿は、「任侠史伝」の末尾まで貫く、任侠、義狭、侠客の在り様を、惜しく、せつない時節として問いかけている。
いまは、やくざ、暴力団と括られた博徒も侠各と謳われたころ、義人は全国津々浦々に存在して、郷の安定を思案し、その言辞や行動によって魅せていた。それが政治家になったり、村長になった者もいた。
江戸時代にあった御上御用の十手を振りまわして小遣いをせしめる博徒も少なからずいた。駕籠かきは客をたぶらかし、博打はいかさま、役人には袖に賄賂を滑り込ませ、庶民からは蔑まれたものもいる。
ただ、隣国の春秋戦国の混乱期に朱家や郭解のような人物が遊侠列伝として「史記」や「漢書」にも記載され、科人と記されても、現在の日本社会において愛顧される人物と覚えるのも、繰り返す歴史に彼らの生きた時代と同期に似たような感がする。
それは各界に携わる人物に枯渇したような「侠」の涵養された彼らに、羨望と出現を望んでいるようにもみえる。政治経済の混沌は人物観の混沌である。安岡正篤氏は佐藤総理の施政方針演説の冒頭に「社会におきるあらゆる問題の根本に人間の問題がある・・」と挿入した。その意は隣国の清朝末の哲人梁巨川の言辞が透かして見える。
「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか」
そして筆者にはこう説く
「貪らざるを以て、寶となす」と。
その倣いは現在の日本中の津々浦々の無名の人々にある。ただ、それを視る普通の心が放たれてしまっているだけだ。くわえ、栄枯盛衰の歴史に埋没することなく潜在する情緒に遺された「侠」ある人物を愛顧する異民族との同感は、昨今両国に漂う患いの治癒にも良薬となるはずだ。
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