まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

不忘 台湾的情感

2014-05-25 11:09:39 | Weblog




 台湾の大使館にあたる台北駐日経済文化代表處は家族的雰囲気で訪れる人を迎えてくれる。
正式な国交がないため台湾外交部(日本の外務省にあたる)の亜東関係協会の対外機関として日本との関係交流に努めている。
 あの東日本の被災の際しての積極的貢献、便利になった羽田、台北松山の直行便、在留華僑の援護など、日台交流の交渉調整役として欠くことのできない窓口である。
 港区白銀台にある代表處に入ると右手の受付カウターから「ニーハオ」「いらっしゃいませ」と歓迎の言葉が心地よい。その声の主は楊桂香さんという美麗な女性である。
 現地(日本)採用のために外交官任期にかかわらず、かれこれ十五年、いや二十年近くかもしれないくらいの勤務だ。それゆえ筆者の多岐にわたる依頼訪問に的確なアドバイスをしてくれる。カウンターに彼女がいるだけで安心する訪問者も多いと聞く。

 楊桂香さんは多くの台湾事情に関する案内を送信してくれる。それは多くの関係日本人の理解を深め、より浸透された人間関係の構築に善良で実直な影響力を与えている。
 以下は、彼女の情感と、異なることへの理解、そして寛容と許容量の表れた文章である。そこには強い意志も感じられる。
 それは、台北の高齢者施設に通う戦前の台湾高等女学校卒業の女性の日本語の語りと仕草に似て、現代日本人に問いかける「忘れずの情感」のように感じた。





台北中山記念小学校  生徒が取り仕切る朝礼





出水芙蓉―蓮花 楊桂香


憶曩昔,甫抵東瀛之際,原本以為:同樣是使用漢字的國度,思惟理念、價值判斷應不至大相逕庭的一廂情願淺薄想法,在一次次與日本人的交會中,徹徹底底地被顛覆了。

 日本に参った間もない頃に、同じ漢字圏であるから、考え方や価値観に大した落差がないかという私の一方的な甘い考えは、数々の日本人との交流において見事に翻されてしまった。


記得是乍暖還寒的四月天,我著上一件嫩粉色,鑲滾細金邊的小鳳仙裝,表演完交織吟、揉、輪等繁複指法的快板『陽春白雪』後,許是因與邊低沉吟唱,邊以撥子輕攏慢撚的平家琵琶韻味截然不同,司儀十分好奇且笑盈盈地央求我示範一下指法,同時耳輕柔地詢問:日本人喜愛粉紅的櫻花,楊樣穿著粉紅服裝,是否也雅愛春櫻呢?

 確かにまだ肌寒いある年の初春に、淡いピンク色の絹生地の演奏服で、私が宛もギターを弾くような技法を駆使し、『陽春白雪』という極めて早いテンポの琵琶曲を披露した。きっと低く唸りながら滔々としたバチ捌きである平家琵琶との趣が違うためか、司会者が興味津々の表情と笑顔で私に演奏法を尋ねると同時に、耳に心地良い声で、「日本人は桜がこよなく愛します。楊様はピンクの服を着ていますが、やはり桜がお好きなのですか」と質問をしてきた。


時隔數載,受到日本文化洗禮後的我,若是現今,該會顧及司儀的立場,含蓄且委婉地回覆自己想法吧?然則彼時,我竟左右晃頭、直截了當地表示:不﹗我對蓮花情有獨鍾。那一瞬間,我發現司儀原本洋溢陽春的的笑靨,霎時變成愕然的神情,我倆之間的空氣竟仿若白雪般冰寒…。

 数年が経ち、日本文化の洗礼を受けた今の私なら、彼女の立場を考慮し、建前を使った返事をしたが、あの時、私は「いいえ。私は蓮の花に思い入れがあるのです」と言下に否定した。その瞬間、私はあの春の陽光のような笑顔を称えた司会者の表情が一瞬にして俄然な表情に変わり、2人の間の空気はまるで白雪のような冷たさとなったことを今でも鮮明に覚えた。










孩提時,祖母、母親常會教導我們:貌美端莊為何因?前世鮮花供佛前。並加以說明:這花指的就是蓮花。美人的比喻方式雖有國色天香的牡丹,雍容華貴的芍藥,但都不及芙蓉如面柳如腰來的親近。牡丹、芍藥兩者嬌豔雖好,多生自富貴人家,身為女人若是面容粉嫩如芙蓉,身材纖細如楊柳,就是平常人家婷婷玉立的美人了。


 幼い頃、祖母や母親は私達に厳しい躾をし、更に「私達の祖母や母親の代から、美人の例え方としては鮮やかでおっとりとした美しさを持つ牡丹や芍薬があるが、それはお金持ちの家のお嬢様に匹敵するものです。百姓の女性として、容貌は芙蓉のような笑顔を持つ上に、柳のようなしなやかな物腰を持てれば無敵ですよ」と付け加えた。


由於芙蓉不多見,蓮花倒是尋常可見,因之自然而然地被視為是芙蓉的姊妹花,再因其成長水濱,便冠以美麗的『出水芙蓉』專稱了。


 芙蓉という花は滅多に目にすることは出来無いが、夏となると蓮の花は随所に見かけることができるためか、いつしか水辺に成長する蓮の花は芙蓉の代名詞となり、『出水芙蓉』という美人を喩える固有名詞までとなった。



東瀛的蓮花則似乎不如此備受愛戴,在經歷過那次冷場的尷尬事件後,我戮力了解當時瞬間天地變色的原因。終於,在一家花商的娓娓說明下,我才恍然大悟:原來,在日本蓮花鮮少拿來當插花素材,多半僅在盂盆蘭節時,寺宇用之來供奉彼岸靈魂, 換句話說蓮花幾乎是與彼岸、佛寺畫上等號的。

 それとは裏腹に、日本の蓮の花の境遇は聊か様子が違う。あの気恥ずかしい事件の原因を突き止めるため、私なりに調べることに勤めた。果たしてある花屋さんによる丁寧な説明で、私はようやく悟った。元来、日本では蓮を花道等に用いらないばかりか、盂蘭盆会の時にのみ、お寺が彼岸の供え物として使う。つまり、蓮の花はお彼岸や仏事とイコールなのだ。


回想起來,那位用心良苦的司儀,一定是萬分詫異:花樣年華的這位外國人,為何偏偏會愛上象徵無常人生的蓮花吧?

 思い返せば、あの気配り上手な司会者は驚きを感じたのも無理が無い。まだ花盛りのようなこの外国の方は、どうして人生の無常を象徴する蓮を偏愛しているのだろうかと。


雖說如此,時稍事翻閱日本古寺巡禮書籍,襯托古剎靜謐威嚴的美景有繽紛櫻花,胭脂楓葉,彷彿柳絮因風起的白雪紛飛,而蓮花綻放的寺宇景象卻微之極微。倒是約莫十二年前的中元盛夏,造訪京都宇治萬福寺,意想聆賞僧侶精心保存的360年黃檗梵唄。猶記得踏入山門,順著石路走往大雄寶殿,炙熱的艷陽天下, 卻感到徐徐涼風拂面而來,碩大而油油的蓮葉,與令人賞心目的蓮花仿如笑吟吟的美人向訪客招手。眼前景象,讓我不禁想問道:隱元禪師東渡長崎、京都,也將愛蓮的文化併同黃檗教義傳承當時的江戶嗎?

 とは言え、日本の古寺巡礼に関する書籍をめくると、古刹の荘厳な静けさと美しさの中には咲き誇る桜に始まり、口紅色並みな紅葉、風で舞わせる柳絮を彷彿とさせる白雪はあるものの、蓮の花で引き立てる寺の景色は極めて少ない。12年ほど前の盂蘭盆会の時に、僧侶が心を込めて360年間も守ってきた『黄檗梵唄』を拝聴しようと思い、京都の宇治にある万福寺を訪れた。山門にひと足踏み入れ、石畳の参道を雄大な本堂に向かって進んで行くと、炎天下なのに、涼しい風を感じた。何と大きくて瑞々しい緑を湛えた蓮の葉と、人の心を満たし、目を楽しませる蓮の花はまるで綺麗な女性が笑顔で参拝客を快くもてなそうではないか。目前の景観に、私は思わず「隠元禅師は長崎、京都を巡られ、蓮を愛する文化
を黄檗宗の教義と共に江戸時代の日本人にも伝いたかったのでしょうか」と尋ねた。














蓮花亦稱荷花,蓮根又名蓮藕,蓮花節籽,曬乾剔除色苦芯便稱蓮子,蓮花、蓮葉上下均可入畫、入食、入文,不拘身分、名位,各行各業的人都能在蓮花的身上尋覓到自己的安身立命之道。故宮有南宋出水芙蓉畫作,老饕以蓮葉包裹糯米,清蒸可口的『荷香糯米珍珠雞』,據說駐顏有術的慈禧太后則是特別青睞『冰糖銀耳蓮子羹』,而描述蓮花脫俗的周敦頤『愛蓮說』則是老少均能朗朗上口的膾炙人口經典之作。

蓮の花は「荷花」とも称され、「蓮根」または「蓮藕」とも呼ばれ、ハスの種は乾燥した後に緑色の苦い芯を抜いて「蓮子」と言う。蓮の花から蓮根までは墨絵になり、食材にもなり、文学作品だって引用される。身分や地位に関わらず、どんな人でも自分を蓮に置き換えて自分に合うライフワークを探り出すことができる。故宮博物院に、南宋の『出水芙蓉』という墨絵があり、食いしん坊が蓮の葉で美味な「荷香糯米真珠鶏」を調理したり、あの美容に関心を寄せる「美魔女」の西太后も「冰糖銀耳蓮子羹」に特に目が無かったという噂も飛び交い、蓮の花を描写する周敦頣の「愛蓮説」は老若男女に膾炙したアカデミックな名作になっている。


四月十九日聽聞NHK一篇溫馨感人的報導:岩手縣廳為回報在311震災慷慨出援手的台灣,特別餽贈予岩手世界遺產『中尊寺』所尋覓到800年前、現今栽培有成、象徵復興之光的『中尊寺蓮花』。

 4月19日のNHKニュースで、心温まる報道があった。岩手県庁が東日本大震災に暖かい手を差し伸べてくれた台湾に対し、中尊寺が800年間絶やすことなく守り、復興の象徴として輝く「中尊寺の蓮の花」を特別に株分けするというものだ。

台灣人何其有幸?﹗竟然能近距離觀賞到800年前就已經綻放,而今千里迢迢跨國而來的世界遺產、名勝古蹟的蓮花﹗相信就在明年夏天,綻放笑靨的『中尊寺蓮花』,同樣也會帶給台灣人溫馨且象徵希望之光的安身立命勇氣﹗

 台湾人は何て幸せであろう!800年という遠い歳月を経た今も咲き綻び、千里の道を、国境を越えてやってきた「世界遺産」にあたる名所旧跡の蓮を目の当たりに見ることができるから!来年の夏には綻びほほ笑む「中尊寺の蓮の花」は台湾人にも心温まる希望の光の象徴として勇気を与えてくれることを信じている
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あのころ・・・  宝田時雄氏が「請孫文再来」を自費出版

2014-05-15 19:58:18 | Weblog

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伴 武澄 (2012年1月20日 14:11)

なつかしいタイトルの新刊が高知の自宅に届いた。『天下為公』。宝田時雄さんが長年温めてきた想い『請孫文再来』がワープロの文字になったのは、大分前のことである。上板橋の自宅でフロッピーディスクにコピーしてもらい、30回分の文章を読んだ。これは本になると直感した。しかし、中国革命の歴史をよく知っている人でないと理解できない部分が随所にある。

「とりあえず、これをメルマガで連載しましょう。ホームページは僕がつくります」と提案した。10年以上も前のことである。萬晩報で紹介したら、1000人近くの読者が一気についてしまった。その後、『請孫文再来』は宝田さん自身の手でブログに転載され、現在に到っている。

 宝田さんのブログ「まほろばの泉」に書かれた出版にいたる経緯を以下に転載させていただく。











 ----------------
昨年は辛亥革命百年ということで華人圏や、孫文に縁故のあった明治の日本人が多く取り上げられた。
さかのぼること二十年前、孫文の側近として日本人として唯一臨終に立ち会った山田純三郎の甥である佐藤慎一郎氏と夜半の酔譚のおり、歴史の必然という話題があった。

そのなかに孫文の様な人物(姿)が政治的にも、民生の上でも必要とされる時が来る、と。
それは教科書記述や歴史書となっている経過ではなく、人の心の変遷を推考して将来を描くような応答だった。

つまり、その将来を想定して、いま遺す作業が必要だった。誰に請われたわけではない、師弟のごく自然の感覚だった。

酔譚の録音テープを起すと
「先生、孫文再来を請う、こんな名前で書いたらどうでしょう」
『孫文は歴史の必然として興る。これは人の心の欲する人間像だから・・』


そんなことで書き始めた。章を追うたびに荻窪に参上し酔譚にふけた。
『年表も必要だ・・・』『写真はこれがいい・・』そう言って棚の上を探した。

それを見ながら『あの時、孫さんは・・と伯父が言っていた』と懐かしんだ

それゆえ拙書は研究者や学者の類にはない、つまりアカデミック(学術的)ではない、土着性(エスノぺタゴジー)な内容になった。それは歴史の時空を超えて吾が身を比較できるものだった。体験者から繋ぐ、それは感動感激の記述だった。

また、現代生活で自身が、これならできる、いや難しい、あるいは今の政治家や外交官との比較もできる市井の教本のようでもあった。

一応、脱稿して先生の前で朗読した。それは時間を要した。黙って聴いていた先生は「嗚呼」と声をあげた。顔はくしゃくしゃとなり落涙していた。奥さんは下を向いたままだった。津軽から満州、そして戦後の日本を見てきた先生が、涙を流した。以前、満州大同学院の二世にお話ししたとき「日本は悪いことをしたのです」と泣かれたことがあった。

喜びではない、それは人間の所作に向けた涙だった。そして『日本はもう駄目だ・・』と天井に目を向けた。
















佐藤先生と

お別れしてから暫く隠していた。己の浅学さが恥かしかった。これを自身の備忘として世に出すことが堪らなくて隠していた。

ある大手の新聞社が新たな構成で出版したらどうかと促された。「いゃ・・名が出ると好きな女と歩けなくなるから・・」と巧妙にお断りして事もあった。

あるとき友人に見つかってホームページに構成された。恥かしかった。孫文の命日には一日遅れたが、アップしたら上海のサイトから掲載の依頼があった。米国からもあった。こんな面倒で難しい、しかも稚拙な考察を書き連ねる文章だが多くの読者があった。インターネットとはこんなものかと驚いたりもした。

そして辛亥革命の百年を記念して多くの友人から嘱望があった。元々、売文の輩、言論貴族と揶揄しているものが、商業出版は馴染まないし潔くない。そこで、編集ソフトを購入し、自身で紙を選定し印刷した。あるとき仕事帰りに懸命に働く人のよさそうな製本作業所が目にとまった。車の窓越しでもそれが分かった。
もちろん、その方にお願いした。
内容は佐藤氏との酔譚抜粋も付け加えて編集した。



http://sunasia.exblog.jp/7292498/ 「請孫文再来」 


加えて、著書の最後にこう記して、すべて無料にて進呈した

筆者自歴


      冠位褒章歴ナシ、記すべき官制学校歴ナシ、数多の成文あれど商業著作ナシ

      世俗無名に座し、と教えられればそれに随い、貪るな、と諭されれば貧を悦こび、

      枯木寒岩を装いつつも、浮俗に浸ることを一片の学として朋と遊び、時として

      独り逍遥しつつ清風の至るを悦しみ、齢を重ねている処士なり

      頑迷の誹りあるも、学ぶ処、唯、先人万師の追隋なり
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太宰は津軽ではモテなかった

2014-05-11 16:05:10 | Weblog






三月の初旬の弘前は積もった雪で墓地にもたどり着けなかった。
気分がおさまらないので四月の中旬に再訪して念が落ち着いた。
墓参といっても、それは一か所ではなく、数か所になり、今年はもう一つ増えた。
今回はいつもと違い、さしたるお節介の用もなく目的は墓参だが、ついでに十三湖に足を入れたかった。現地同行の友人の奨めでもあったが、気が合う旧友に身を任せて己の気の向くままの自由な刻の余裕が欲しかったからだ。
わがままなことだが、それを許され邪魔にもならない友人のお蔭でもある。

経路は弘前から岩木山を左回りに鶴田方面から鰺ヶ沢に向かい、右手に折れて海沿いを北上すると1時間すこしで十三湖に着く。
シジミ汁やシジミラーメンとグルメ通には有名だが、その昔は十三湖の洲のようになっている良港を根拠地に、当時は表日本だった日本海沿岸から宋代はなやかな大陸へと安東水軍が交易を広げていた歴史のあるところだ。あの司馬遼太郎の「北のまほろば」でも記されている。その繁栄も天変地異なのか忽然と姿を消している。忽然といっても歴史上の間隔で、数ある繁栄の郷のストーリーに比べてもその速度は、最も早い方の部類に入る。それでも博多や堺と並ぶ繁栄していた。
今でいうミステリーの類でが、その自然美は何もなかったように、ある意味荒涼とした雰囲気を漂わせている。

近世では神戸や横浜、その前は堺など太平洋側の貿易港が繁栄したが、津軽でも辺境となる十三湖の湊は大陸交易の要として多くの文物を収集していた。
通常、大陸に渡る経路は江戸なら陸路、海路で博多から朝鮮、大陸と思うが、当時の津軽人は先ず樺太に渡り結氷を待って徒歩でロシアに渡った。
あの満州皇帝愛新覚羅溥儀の秘書長を務めた工藤忠(鉄三郎)も徒歩でロシアに渡り、監獄に収容、釈放されたのち徒歩で甘粛省まで行っている。しかもそれが二度に亘っている。










当時の津軽ではそのための鍛錬として厳冬の岩木山に独行したり、幼少時は弘前城の東門に毎朝五時に参集する東門会もあった。熱さは木陰に入ればいいが、極寒の戸外はどこにいても我慢する精神力が必要だった。陸羯南、珍田捨巳、山田兄弟もその自然に耐え順応する精神が後の功績の涵養ともなった。

今年の金木だが、いつもながらの様相だった。人を見かけるのも斜陽館と目の前の土産物屋や食堂くらいなものだが、日曜でも閑散としていた。一昨年は年中無休の斜陽館もあいにく臨時休館ということで役場前の喫茶店のカミさんと話をしたことがあった。唯一の楽しみは小遣いをためて東京へ行くことだが、田んぼや店の仕事が忙しくて、このまま歳をとってしまう嘆きだった。店に入るとすぐ想いだしてくれた。
その時の話をすると、あの時はJR東日本の宣伝撮影で吉永小百合さんが来ていたという。
確かめるすべもないが、そんな接近があり金木の空気を一緒に吸ったことが、ことのほかイイ気分の話として店のボロ隠しとなっているJRのポスターを眺めなおした。

太宰もあの当時人気女優が頻繁に訪れていたら、あのような流転じみた人生はなかったのではないだろうかと男心にふと思ったりもした。
迷いの祓いなのか、臨死試行なのかどうか意見もあろうが、そんな多様な切り口を勝手に想起させる太宰の存在は、当の本人すら我何人(ワレ・ナニビト)と自己を探し求めるような亡失の念と流転だった。
そんな太宰の生き方に己を映すかのような読者の共感に妙な悲哀を含んでいることにも、それが津軽の雄の児かと嘆かわしくなるとも感じていた。

それは、はたして太宰は津軽に居て、津軽の女を引き付けるのだろうか、という面白い切り口の想起でもある。つまり津軽の女性気質に沿う、゛もてる゛男ではないと。
津軽では「知っている」人のことを、よく覚えている、という。よく覚えているが、はっきりしない、ぐずぐずしている、妬むことはないが、ひがむ。自分が解らないくせに、人を詰問する。野暮な格好つけだが、素直な優しさもなければ、どこか己の混迷の原因である目線の高さなど、はっきりしない男がそこにある。低くから見ているようで、辛辣さは高めである。愚図は、己をどこに置いていいのか解らない浮浪な人生にもある。

津軽女に聴いてみるが、知らないし、話にものらない。それは地吹雪,偏東風にさらされ、極寒に耐え、慣れ、諦観すら醸し出す津軽衆や女たちには、分限者の身勝手な風変りとして、あるいは別世界の人間として視界にも入らない。それが孤独感なら,何をかいわんや、明るく素直ではないのだ。











江戸っ子とは違うところだが、数度の自殺も女連れだ。どう見ても利他への公憤で入水した屈原などにみる,死を懸けた残像もない。本当に死ぬ気なら、生き残らない「必死」な行動をとるはずだ。筆者の知人は吹雪舞う岸壁で割腹しているが、必死なるため小刀ではなく、必ず絶命する出刃包丁で腹を裂き頸動脈を断っている。しかも一回目は年下の娘を誘い、己だけ生き残っている。愛という代物はよく理解できないが、自己同体として共に死を誓う相手と生死を分けて生き恥をさらすなら、直ぐにでも後を追うべきことだ。しかも、最後も女と一緒に飛び込んでいる。

心の内を共感するのはそれにりだの趣味だが、決して援けにも解決にもならない。それが人生だ、人間だと考えるすべになるだろうが、決して格好のよい姿ではない。苦難に立ち向かい、自己の存在を知り、人生を明察する、それができないから心中する、儚いことではないだろうか。太宰は津軽衆の生き方すら横目で眺めていたのだろう。東京ならなおさらのこと、お里知らずで、虚偽でも架空でもまかり通る煩雑な世界だが、酒と女と物書きでは、時にみる庶民下座観の世界にも混じることができなかったろう。いわんや表層の垢では底部に留まる沈潜の情すら分からない。

どこか軽薄な「もてるか・・」の標題だが、どこに居てもモテない。いや、自分を知らぬ者が、俺を理解しないといわれても、言われた方が戸惑うだけだ。適うなら金木の津島の頭領として、哀願する数百戸の農民の手助けになるなら自己解決も容易だろう。
つまり,分(ぶん)を知ることだ。分は全体の一部分を認知することにある。それは家の来歴や親子縁者、小作人と家業、産みの親と育ての女性、それらを取り巻き諦観となっている津軽の厳しい環境、そこに分の位置を知ることだ。嫌だ、おかしい、と籠に閉じこもって苦悩する姿を、可哀想と思うのは切り口次第だが、、ここでは津軽女に「もてる」かどうかだ。

種銭(種を買う資金)を貸し付け、金利をとる家業が子供心に問題意識が芽生えたなら、長じて弘高での放蕩資金の意味に無関心だったのだろうか。どでかい家に、妙な同情心と野暮な姿を見たなら、庄内の本間家のように凶作には米蔵を解放したらいいだろう。いくら津軽男は口が重いといっても、厭世観を抱き、いまでも津軽に蔓延している「しかたがない」に諦観奴隷のように閉じこもらず、まして口に出せないからと文字に荒くれることなく、あるいは母恋しさなのかダメを装って女の情をかうような意気地なさは、良なる肉体的衝撃体験の乏しいひ弱さでもある。汗を吹き出して青空を眺め、「意気地なし」と吠えたこともないのか。






十三湖





足かけ25年余にもなる津軽だが、小説という代物を見ることの少なかったためか、太宰治や観光地となった斜陽館には興味がわかなかった。太宰を思いついたのはさびれた金木と住人から見て高給安定職を享受する役人と、斜陽館に当時哀願なり、支払いに訪れる数百戸の小作人の姿を映し合わせたときからだ。
太宰の実家津島家は大庄屋であるとともに金貸しもしていた。一段高いカウンターと事務所に大金庫、そこを仰ぎ見る小作人との応答は「金木でいいのは役場の役人と業者」と口の端にのぼる、今の金木と変わることはない。
太宰は金木から弘前と幼青期を過ごしているが、思春期の問題意識へのトライと、ときに起きる解放感に少しも爽やかで、すがすがしい気分がない。

あの、陸羯南でさえ朝晩、否応なしに視界を占める岩木山を擬人化して「名山のもとに名士あり」と詠んでいる。
偏東風(やませ)が地吹雪となって平野を舐め、岩木の山背にあたって弘前に落ちる厳しい環境を、長じて異郷に出で懐かしくもおもう津軽の明確な四季の変化を、人の人生の循環として受け止められない太宰に、はたして津軽衆はどう思っているのだろうか。

文学も学ぶうちはいいが、売文の輩になり小説という嘘文を世間に弄するものにオノコとメノコの潤いは感じられない。春を待ち遠しく思うのは、希望を抱くものだけに訪れる誠実で忍耐力ある津軽の人々の、ときにみる破天荒な明るさだ。
江戸っ子が恥ずかしいと身を引き、恐れ、おののくような突き抜けた明るさは、他郷にない躍動として筆者には映るのだが・・・、津島の坊ちゃんは苦手ゆえ、我慢ならないようだ。
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人間考学  集団的自衛権は法理ではなく、運用執行者の「信」だ

2014-05-04 14:42:25 | Weblog
横浜 称名寺


どうも弁護士資格を持つ代議士の議論は、まさに自陣営の三百代言のように、よくよく考えれば抗争掛け合いの喉元論のごとく、重要案件ですら通過してしまえば何のことやら狐につままれたようで国民は空疎になる。しかも、その群れが増えている。

国民とて断続的な刺激に慣らされ、信用基盤とする店舗もない、バナナの叩き売りや、ガマの油の寅さん風の口上の巧みさのように面白がっている状況だ。
「裏も表も間違いなくバナナ・・」とひっくり返されても、バナナに目を集中されているお客はバナナ以外の選択は考えられない。だだ、変哲もないバナナの山盛りに、あれがいい、これがいい、と夢中に考えさせる。

よく、論理の整合性とは言うが、要は口先の名分を合わせることのようだ。
国会という欲望の交差点で肩をぶつからないように泳ぐのはその方がいいらしいが、もっと深い底を這うようなことは考えないようだ。まるで春先の池にパン屑を撒くと亀や鯉が群れで重なり合うあの乱雑さだ。

何に、どこにでも成文化された法が優先するのか、あるいは解釈の裏と表でオセロゲームのように戯れているのか、反対する方も懐かしくも青い論を元気に楽しんでいる。
あるプロトコール(予定書)に、「・・自由と民主が社会を瓦解させてしまうために、人々を商工業に向け・・・、金を偶像視するようになり・・・、人情薄弱な社会を作ってしまう・・・」

その前段では「神と精霊の思想を奪い・・・・、思索と観照の暇を与えないために・・・・、」がある。

簡単に要約すれば、神と精霊を感知させる、深い考えのもとにある思索と観照を奪うにはビジネスにすべてを誘引し、金を偶像視させ、人々の連帯と調和を破壊し、愚かになった人々は宣伝によって作られた上流階級の嫉妬にかられ、競い、疑い、加えて民主と自由によって我儘と放埓に陥れる。それら群れとなった人々を管理するのは、元々ありもしない虚利を複利として実利に替える金融によって彼らを管理し、また総てを数値によって置き換える。加え、大地から取り出した資源や食糧などの富は為替を操作することで我々の懐に入る。






金沢文庫 称名寺の池



 これは西洋人の考えた数百年前の真偽が問われている予定書だが、東洋では歴史の循環惰性によって起きる人と社会の劣化を「偽、私、放、奢」の四つの患いとして表している。
偽りは、知を蓄えることでより大きな偽りを生む、と言っている。公は公徳心だが、パブリックよりプライベートを優先させる公の任務に就くものの堕落を指している。放は埓(らつ,柵)、ここでは道徳や法を狡猾にも超えた者の存在である。奢は、驕(おごり)り、驕慢になるということだ。この四つの病弊が表れたら、いくに制度や組織が整備されていても適正な政策や運動の提唱も人々には届かない。穴の開いたバケツで水を運ぶようなものだ。

後漢の荀悦は宰相への就任命令に、この官吏に四つの患いがあるようでは、到底、皇帝の善政も民には届かない、これを無くし整えることができなければ宰相は受けられないと諫言した。

党益、省益、外郭団体での政策や資金の滞留などや、地方自治の弛緩であろう。
そんなところに数値や経営などを持ち出しても、元を断たなければ言い訳にすらならない。

このような状況を作り出し、その隷下にある人々に嫌気のさすような政治にするには、もう一ランク上の策謀がある。





仁を布いて義を興す  (善いことを広げて正しい心を興す) 小生印



それがこのブログで幾度となく取り上げている「五寒(ごかん)」である。
政外(せいがい)・・政治のピントが合わないようにする。
つまり、飯も食えないくらいの騒音や害虫を舞わせ、先ずは害の整理に疲労させると、落ち着いて飯(内政)に取り組めなくなる。

内外(ないがい)・・内が治まらないので外に目を向けさせる。過大な危機をあおる。
つねに蜂のごとく刺されると、政外に記した状態になる。また意図的に危機を作り出す。いや出させるようにする。東アジアの近隣国の様子の類だが、目くじらを立てる狭さも我が国の外への許容量の姿だ。

敬重(けいちょう)・・落ち着きのなくなった社会は人々を軽薄にする。プロトコールにあるように金持ちや外見によってしか人を見なくなり、土壇場で逃げない、他を援ける、あるいは責任をとるような人間に価値を持たなくなる。つまり連帯と統合の要をもつ存在に関心がなくなることだ。

女(じょれい)・・女性が烈しくなる。解放、平等、参画、が順次に謳われて久しいが、いつの間にか男女の逆転現象が進んでいる、いや、口には出さないが、何となくそう考えている男が多くなった。とくに数値管理とコンプライアンスは女性の感情的欲求とは相いれない。なかには男社会だった世界にも有能な女性が進出してくると男以上にアドバンテージ(優位性)が担保され、それが社会の風潮となっている。
巷の居酒屋談義だが、覗きや、痴漢、風俗はもっぱら男の嗜好で被害者は女性だが、引っかかる男も増えてきた。つまり金になる女性の性だ。いくらスケベ心が平等だといってもいまだにその構造は変わらない。なかには狡猾な女性はそれを優位性として、医療、家庭内生活、ビジネス、はたまた政治にも利用しつつ増長している面もある。
潤いと補いで敬愛の対象であった残影は母の烈しさではなく、越えられない憧れでもあった。いや、これも野暮で古臭いと嘲笑される浮俗となってしまったようだ。


謀弛(ぼうち)・・これは弛緩する、社会、組織、人が弛(ゆる)むことだ。大切なことが漏れる、夫婦でさえプライバシーが漏れ信頼をなくす。公共の規範が弛みより管理を助長させることなど、国家でいえば秘密保護法まで作られる。余談だが東京では浄水器の性能がよくなった便利だというが、浄水器を使わないでも飲める方がより便利だという方向に考えがすすまない。つまり真の便利さの錯誤だ。これは弛緩によって四角四面になった思考の柔軟性と智慧の衰えでもあろう。






桂林の童



標記に戻るが、これを、゛そもそも゛あるべき姿の変化として、また人々の種々の掴みどころのない困惑として捉え、問題意識を持つのか、くわえ問題解消に果敢に取り組むのか、その姿に人々は「信」を映すのだ。

現在の問題は歴史の集積からにじみ出たことが多い。その滲みはときに屍として地表に堆積し、栄華は風化した遺跡として遺され、人は無関心を装いつつも、その否応なしに循環に巻き込まれる。それらの風韻に人は無関心ではいられない。ときに経年の栄枯盛衰の残滓は人の考えや行動に思いもよらぬ深い習慣性として、ときに浮俗の一過性常識として人の姿に表れる。そして、今は循環の何処に存在するのか気になって仕方がない。

かといって孔孟や西洋の哲学にまみえることを勧めるものではない
生まれにもつ潜在力は、現象行動に際しての内省復元力(免疫力)を甦らせる。つまり、己を信じて、期待することだ。
成文化した教えは、ときに知った覚えた類で、自身を装い、護るための偽りを生じさせるからだ
ここでは、知の制御も必要となってくる。


いくら陳腐な企てによって神と精霊の思想と、思索と観照が衰えさせられたとしても、「色(性)」と食、財の欲求がなくならない限り、大自然から導かれた浸透力の学びに抗することはできない。それは、管理という他に委ねつつある欲望の制御(コントロール)を、自省や自制にある我に取り戻すべきことに気が付かなくてはならないことでもある。

そのためには、人の「信」を問う前に、自身そのものに信を抱くのかを考える必要があろう。
標題は世俗の表層に表れた端のようなもの
いつまでもバナナの叩き売りに誘われて見物客になっているより、また比較、競争に明け暮れる豊かに生活より、落第しない人生を考えるべきだと、人間考学は拙意を呈上する。
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