まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

再読 「嗚呼  中学生狂歌」 再

2022-10-29 09:17:44 | Weblog


            満州新京の佐藤慎一郎氏 ご家族





哀しさは 勤めに出ての たまにする 母の話題の くだらなさ                         (中三男)

あの親爺 大学出たのは 本当かな どうも怪しい 教養の無さ
                        (中三男)

あなたのネ パパが働き ないために こんな暮らしをと 母の口癖                         (中二女)

あんな人 選んじゃだめよ あなたわネ 体験がにじむ 母の口癖
                        (中三女)

心から、すがりつこうと するときに いつも父さん 逃げてしまうよ
                        (中一女)

人並みに 叱られてみたい 時もある 俺の親爺は 俺が怖いのか
                        (中二男)

家庭とは 父厳しくて 母優し それでイイのだ うちは違うが
                        (中二男)

残業と 母から電話 父と吾 ボソボソ食べる 味気ない夕食                         (中二男)

地獄だな 心通じぬ 人たちが いやでも同じ 家に住むとは
                        
みんなだめ 顔とげとげで イライラで 他人みたいな わが家一族                         (中三女)

          
                     矢野寿男「親を見れば僕の将来知れたもの」より








マナーとルールの こども議会





稚拙であるが、いずれも痛いほど現実をつかんでいる

政府や議会の堕落紛乱、これもとより恥ずべく、憂ることである。

会社や産業の不振衰微、これも困った苦しいことである。

犯罪の横行、公害の蔓延、これまた一日も捨てておけぬ恐ろしいことである。

しかし国家として民族として、もつとも根本的本質的に危険なことは家庭の堕落である。

国民が相愛し、相信じ、相扶け、相和して行く家庭を荒ませ、亡ぼすことは、

やがて国民国家の破壊であり、滅亡である。

この頃のリブだの、脱だの、反などという軽薄無頼の横行に対して世の識者、指導者達の

猛省奮発を切望する。
                  
                                 
憂楽秘帳 安岡正篤撰より抜粋


思春期の無垢な問題意識をスキップする受験の弊害についての話題で

安岡氏より自著案内されたものです。(筆者)



08 7 25 再

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金にまつわる百年に一度の危機とはいうが・・・  2008 あの頃

2022-10-25 14:16:47 | Weblog

                 日本の少年




江戸の金貸しや両替屋が銀行だとしたら、駕籠かきはタクシー、旅籠はホテル、馬方は運送業、武士が役人、藩主が議員か知事、変らないのが坊さんと医者、数多の職種が分派して面白い横文字名称が増えたが、当時は金や地位名誉に志向する人間は限られていた。

竹下総理がリクルート事件で辞任したが、その際「武士(モノノフ)の心で・・」と心境を語ったが武士は金を不浄なものとして触れない気風があった。しかも江戸の口入屋の変化した人材紹介業リクルート社からの賂(まいない)つまり袖の下にまつわる辞任だが、お白州(裁判所)に呼び立てられたのは御家人頭である。



               
                  1989.6 北京


古来より米穀を生産する範囲を石(こく)高知行として土地を配分していたが、そうそう無限にあるモノでもなく、ときには茶碗や壷、香炉、または金銀に価値を設けて下賜していたが、各藩主への仮払い、前払い、あるいは参勤交代の支度金、幕府直轄事業の負担金など、今どきの割合補助に似て、゛生かさず殺さず゛といった風の支配方法は忠義立てを奨励し競わせ、時には藩運営に困窮して騒動(事件)などが多発している。もちろん賂に関する不祥事も歴史に多く記されている。

先ずもって資金だが、そこは武士の気風か、゛喰わぬど高楊枝゛と、面子のやせ我慢が過ぎたのか小商人からの借金をするものも出てきた。



              

               50年前の日本の家族


為政者や役人の呼称は異なっても人間のすることにはそうそう変化はないようだが、古今にわたって指摘されていることは金に触れるときの用心、つまり心がけだろう。

多く稼いで持ち続ける、それは経済人(小商人)のナリワイだが、丁稚や番頭など今どきはサラリーマンや、はたまたその女房までが算盤変じたパソコンでの儲けの算段に走る姿は、子供の教科点数まで将来の投資対象になる浅ましさがある。


昨今は百年に一度の危機と云われているが、危機ならず嬉々としている一群も見え隠れするなか、事の問題で多くの深層の変動が起こっているようにみえる。
それは「矜持」と「自尊」について、あるいは人格を云々するであろう人間の必須となる条件が薄れ、誰彼ともない群れの煩雑な混交として良なり善なり、あるいは敬することなりが埋没してしまっているようである。




                  
                  
               80年前の日本人家族




以前、旧知の侍従が逸話を語ってくれた。
東京の過ごしやすい冷夏に安堵する侍従の言葉に、
『東北は冷害で大変だろう』

「庭の雑草を刈り取りました」の報告に、
『雑草とて名もなくても其処に生存している、やたら刈り取らないように』

今どきは皮肉に聞こえるだろう、あるいは立場における嫉妬も入り混じるだろうが、また或る時期までの多くの日本人は普通に聴こえた。かつ、そのような意見や言葉に尊敬や畏敬の念を自然に抱いていた。

翻って金に纏わる危機とは云うが、金を働かせ利の子を増やし、勤勉な労働の上前をはねる鉄火場の乱高下に一喜一憂する博打経済の色目の胴元の苦渋は論外として、内では埒外から柵の中の様子を横目で伺う羊飼いのような官吏の有り様は,百年に一度ならず通年危機として、『冷夏・・・』『雑草刈り取り・・』の言辞を汚しているようだ。

山中の賊を除くは易し、心中の賊を祓うは難し

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中国人は中国人に戻り、日本はアジアに還れば・・

2022-10-22 17:34:49 | Weblog

突如満州に侵攻したソ連は、現代の東欧の戦禍同様に奪略と暴行を繰り広げた。

同様なことを日本の軍人も行ったと歴史に記述にはある。

これは当時の実情だが、いかなる国でも戦火を交えれば同様なことが起き得る、人間の醜悪な姿である。

その満州騒乱のなか、高学歴の軍官僚や天皇から信任を受けた勅任官の実態はどうだったのだろうか。

隠蔽,改竄、廃棄、責任回避、逃避は、現代でも官吏のつねだが、異民族の地に進出して美しい国ならぬ王道楽土を掲げた末路は、まさに土壇場における性癖とも言うべき日本人の姿を現した。

それは教育なるものが、人間の性(しょう)に対して無力だあった証左でもある。よく一部との評もあるが、数値選別で成した高位高官のの影響力は無辜の民とは格段に違う。吉田松陰は士規七規の初章に「禽獣と異なる」と記している。しかし、人間は土壇場になると禽獣以下になった。

国の歴史には好むと好まざる戦でも勝ち負けがある。しかし人間の歴史、ここでは日本人の歴史として負け戦の姿ではあるが。心に留め置くべき事実であり、将来起こりうる姿として明記すべきことでもある。

 

新京でのご家族

 

孫文は側近の山田に、「真の日本人がいなくなった」と呟いた。

その山田の甥、佐藤慎一郎は敗戦まで二十年以上も中国社会で生き、その体験を通じて、戦後は中国問題の泰斗として要路に提言や気骨ある諫言をする人物である。

 

その佐藤氏と筆者の応談は音声記録「荻窪酔譚」として残されている。

いつもは荻窪団地の三階の居間で御夫婦とご一緒の酔譚だが、悩み,大笑、ときに不覚にも二人して落涙することもあった。

「これもある」と、長押に設えた棚から降ろしたり、背後の書棚から引き出したり、それでも「ほかの方がご覧になるから」と遠慮すると、数日して依頼文を添えて送付していただく。

 

すべて音声応談に関することだが、講話依頼の課題に逡巡すると、その音声を聞くたびに、無学な恥知らずを回想している。

昨日のこと、アジアの「そもそもの姿」を考えたく、繰り返し酔譚を訊いた。

そのなかに「中国人は中国人に戻る。日本はアジアに還る」それは、孫文と山田のことを聴いていた時だった。

 

筆者はすぐ応じた。「孫文は山田さんに、真の日本人がいなくなったといっていましたね。それは台湾に革命資金の援助を当時の民生長官後藤さんに頼みに行った時の印象でしたね」

「後藤(新平)さんは菊池九郎から大きな影響をうけた。叔父もその関係で一緒に行ったが、後藤さんの対応に孫文もまいってしまったと、叔父が言っていた」

  • 菊池九郎・・・代議士、初代弘前市長、東奥日報、東奥義塾創立 

「・・真の日本人。異民族に畏敬されるような、日本および日本人への命題ですね」

 

 

以下は佐藤先生の居宅、杉並区荻窪団地の⒊階で数年に亘り応談した録音記録は、まるで歴史の綴りを驚愕の体験をとおして回顧したものです。

歴史、教育、中国、日本、世界はと、それは学び舎の課題解答にはない人間学の様相であり、登場人物に背を押されたような大経綸でもあった。以下はその抜粋です。

 

中国人は中国人に戻る。日本はアジアに還る

言いたいこと、書きたいこと、様々だが、そもそも「言うべきこと」は、なかなか聴くことはない。この「・・・戻る」ことも稀な論だが、市井に生きて中国なるものを体感した佐藤氏ならではの至言でもある。

 

S‥ 佐藤慎一郎先生  T‥寳田時雄「明治の日本人と孫文との回顧録(天下為公)を著した」] 

 

T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。

 

S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。

 

T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。 国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〈 もしも ~ならば、 〉を遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と云いますが。

 

S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、東大を卒た奴は皆駄目だ! (笑)。

 

T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。

 

S : 勅任官が留置場で僕に

 「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。全く情け無いよ。

 

T : この間、『教育勅語』の起草に関与した元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、 「東大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いでは無いか。 江戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、東大卒の彼らが国家指導の任に堪え得るで或ろうか……」と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。

「聖諭記」・・明治天皇帝大視察で感じた人物養成の危惧を元田侍従に諭した記録

 

S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。  記誦の学・・身に浸透しない暗記学

 

T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、人格から倣う〝感動・感激〟 が大切ですね。

 

S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が、「お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから

 「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、

と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。

  其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当に難儀をしたよ (笑)。

 

T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。

 

S : 僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。

 

T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?

 

S :(旅順の中国人小学校)五年生五十三人に何を教えても、直ぐ

 「はい、解りました」

と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。

≪分かりましたと云えば先生が悦ぶと・・・≫

 

T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。

 

S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。

 

T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、たかが人間のやる事だ、と。

 

S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。

 

T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。

 

S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、その外事課長さんです。

 

T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も観得ない (観無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟  どち等で判断しますかね?

 見る・・眼で見る  観る・・全体を観て感じる、察する

 

S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種類の人間は) 考えられ無いよ。

中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで金が一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。

 

T : 自然の三欲 〝食・艶・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。

 

S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。

 

T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。

 

S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、公の席は公文書だからだ。

 

孫文の側近 山田純三郎(佐藤氏の叔父)

 

 

T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王荊山さんの?

 

S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。

 

T : 平山が横流しを

 

S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、露軍が侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった。

 

T : 高級将校がですか?

 

S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで

 「如何したのだ?」と訊いたら

 「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」

と訊いてやっと解った。 僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて

「関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した」

と謂う事も判った。 兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら

    「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。

 もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は

「私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、と

    ほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て

 「この野郎、殴り殺してやる」

物凄い剣幕だった。

 

T : 処で、或の平山 (其の時は日本人会会長) ですが、日本の女性を売ったのですか、差し出したのですか?  金で。

 

S : 金を貰ったのか如何なのかは判ら無い。 終戦翌年の五月十九日、新京のホウラク劇場で平山主催の日ソ友好大会があり二十日に五百人の女性を出したらしい。 カジ園さんの噺に拠れば五百六十二人だ。 何にしても、出したのは確かだ。

 

T : 其の後、(彼女達の) 消息は何も無いのですか、現在向こうから残留日本人婦人 (孤児) が来ていますよね?

 

S : 善い意味で、残ってはい無い。

 

T : 要するに、日本人に罪が在る訳ですね。 満州関係の援護の人で、誰独りも手を差し伸べては在無いですね。

 

S : 本当に悲惨だった……。 結局、計画を長引かせる程、賄賂が多く得れる。 誰から貰ったのかは判ら無いが、田村は其の金で妾を拵えたよ (苦笑)。

 

T : 三井からでしょう。

S : 誰から金を貰ったかは判ら無い、三井かどうか ――― 。 山田 純三郎も僕も貰った事に為っているかもしれ無い。 桂公使 (戦犯容疑者) が山田 純三郎の処へ行って玄関で土下座して

「救けて下さい、私が誤魔化しました」

(蒋介石は満州国の日本国内の土地、資財の処理を革命の先輩山田に懇請していた)

 

と、伯父にはっきりと謂った。 カンオン会が香港から留学生九十七名連れて来て、相模女子大学に入れる積りで松平 キトや山口 重二が奔走したけれども、金の見通しが着かず結局、武蔵境の日本経済短期大学 (現・亜細亜大学) に入れる事に為って、其の経費は善隣協会が三千万円出すと云う約束で其処に入った。

 

イメージは寄託・関係サイトより

 

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今どきの、飲(呑)む・打つ・買う  2015 5/27 再

2022-10-21 00:38:53 | Weblog

学習院 乃木希典院長 

人倫の道を若き陛下に説く



欲望にもホドがある。
ましてや、自分に縄をかけることは難しい。
縄もちでもできないことは、なおさらだ。
為政者は、゛美しい国゛というが、清く・正しく・美しい、が連なるものだ。
これは大欲や大業の理念だが、我利の小欲が蔓延ると国家は衰亡する。



よく、遊び人の三拍子で飲む、打つ、買う、が一人前といわれた。
もちろん、すべてはホドが肝心だが、酒も博打も異性も身体と懐の算段が必要だ。
また、事前準備として、それに苦労する。

姿や格好を気にした一昔前の遊び人は、一人遊びもいいが、遊ぶ相手を選んだ。
競馬・競輪などの公営ギャンブルは、当たり外れはあっても恨みっこなしだが、麻雀はときおり苦いものが残る。株も博打相場になって主婦など素人投資家が多くなったが、玄人に言わせればゴミか餌のような扱いだ。それでも止められない。

儲ければ酒か異性が相場だった。公営博打場の近辺には飲み屋、風俗が集まった。
戸田競艇、浦和競馬は西川口のソープランド、川崎は堀之内、当たれば頭がそちらに向くのも男の性なのだ。外れれば荒川に架かる笹目橋を高島平に向かって寒風のなか行列ができる。当たればタクシーに乗り西川口で湯につかり一時の桃源郷に潤いを求める。

近ごろは素人の娘さんや主婦が好奇心や生活苦でその世界に入るという。
まるで流行り仕事のように気軽に、なかには楽しそうに従事している。しかも需要と供給では供給が多く、断る状態だという。周り巡って人助けともいうものもいるが、手にした金でパチンコ、ホストクラブ、ブランドだけではなく、授業料や親に仕送りするけなげな女性もいる。

筆者もときおり依頼される大学講義には多くの女生徒がいる。総じて男子より真剣さと問題の感受性が鋭い印象だ。なかには芝生で足を崩してタバコを吸いながら嬌声を挙げる生徒もいるが、親掛かりとは違う印象がある。まさに産学一如の一つの効用なのだろう。

いまは博徒場だが法的には遊戯店扱いのパチンコ屋が流行っている。官民問わず多いときには30兆円といわれる市場にエサを求めて群がっている。その依存症は五百万人を超えるという。犯罪は動機が肝心とその種を絶やすことに治安当局は血道をあげている。

善なる青少年の環境と不健全図書の取り締まりをしたが、手から水が漏れたのか教職員による学童相手の性犯罪が増え続けている。また、犯罪の原因は遊興費が欲しいからとの理由が多いが、大方はパチンコやスロットルだ。
昔は射幸心を煽ると一台二万円が限度だったが、あらゆる場面で治安官吏が関わってから、何十万円の出入りが行われている。許可されているというべきだろう。

 

          金沢八景 称名寺


消費資本主義ともいう社会だが、消費まで管理され、しかも射幸心まで煽られ依存症になって犯罪原因も増える、ましてカジノだ。江戸時代なら素早く禁止令が出ただろう。それでなければ御政道は維持できないことを知っていた。いまは原因を作り捕まえるようなマッチポンプの状態だ。この犯罪の原因・発生・検挙、の流れはパチンコの三点方式に極似しているのも面白い現象だ。だれも解っていても止められないし、彼らの食い扶持利権には声も出せない。

江戸の仇は長崎のたとえがあるが、どこでしっぺ返しがあるかわからない嫌な社会になった。これでは、銃後の守りもおぼつかない。なによりも美しい国を標榜する為政者の二枚舌にもアキラメに近い国民の気持ちだろう。
浮俗の遊惰を昂進する環境を御上が率先することを看過して、美辞麗句が飛び交う政情は、まさに堕落から没落に向かう道だ。これは一方の見方だが・・・

ところで標題の三拍子だが、近ごろは趣が変わったようだ。
飲むは「薬」、打つは「鬱」、買うは「ペットを飼う」と高齢者はいう。

身体の患いに精神の孤独と病、まさに世相である。
そして、いつか辿る途であろう。

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その人は任侠の薫がした 13  4/9 再

2022-10-17 01:26:51 | Weblog


青森県は県下を南部とよばれる地域と西方の津軽とよぶ二分する地域があるが、その津軽氏を藩祖とした城下町に弘前という市がある。
あの「名山のもとに名士あり」と詠んだ明治の言論人陸羯南の生地でもある。

その弘前で幾度か訪れた居酒屋でのことだった。
「わっ(我) が作った漬物だ、旨いよ」
カウンターの隣に座った客が近ごろ心地よくきけるになった津軽弁で女将に持ち込んだ漬物をしきりにすすめる。酔客にもこだわりを持たないせいか、また旨かったためか話がはずみ、カラオケが始まった。この地域の人たちは歌が巧い。

よく男は陰気で頑固、足の引っ張りが特徴だと津軽の女性はいうが、ここには威勢よく威張るような、あるいは開けっぴろげで粋な江戸っ子のような軽妙さは少ない。
だが、腹は同じだとおもえる素振りがみえる。女に好いかっこしい、酒が好きで歌が巧い、違うのは時折みせる「にんまり」の感覚だろうか。

その騒ぐ旦那が席を立ったあと、カウンターの端に座っていた70代の客が「迷惑かけましたね」と、こちらに話しかけた。
黒々した短髪で眸は優しく透きとおっている。若いころはそれなりの人生を渡ってきたのだろう、初対面の客に気を遣ってくれる。
「この店の女将は俺を叱ってくれるんだ」
女将も70を少し越したくらいだが、張りのいい肌はきっぷのよさと、色気とよぶには、こちらが気恥ずかしくなるような落ち着きがある。料理の手さばきや酔客の扱いなど、そこいらの居酒屋にはなくなった見事なこなしがある。












その客に惹かれたので隣に移動して挨拶をした。なにも、どこから来たのか、何をしているのかなどの野暮な挨拶もなに、 その気遣いに礼を言った。
「言っていいかい」
女将に何事か伝えている。カウンターの上に置いた左手は中指が根元から欠けている。
その筋なら普通は小指だがこの客は不自由な左手を器用に使っている。
「わしは貧しくて学校にも行ってない。北海道で土木工事をしていた。人を出して上前を撥ねるようなこともしなかったが、 いつの間にか大勢付いてきた。いっぽんどっこだ。」

その「いっぽんどっこ」は組織を頼りにせず、また徒党も組まないことだ。
「学校も行ってなく、それを一生懸命にするだけだった」
「当時は今と違って大変だったでしょう」
「北海道の現場でやくざだか土方の荒くれが何を思ったかナタをもって脅かしてきた。わっ(我)は、ちょっと貸せととりあげて自分の中指をみてる前で断った。小指だとやくざになるが、わっはこれを落とした」

決して武勇伝を語るような烈しさと高揚感は無い。
「一緒についてきた連中はこれで苛められなくなった。医者にいって二三日して帰ったら目の前に一千万が置かれた。そんな意味はなかったが、彼らのしきたりなんだろう。連れて行った連中からははじめから礼など貰わなかったが、皆が貰ってくれという。だが、わっは無学のいっぽんどっこ、そんな料簡は無い。わっの喰い扶持は、わっが働いたモノだけでいいと貰わなかった。世話してもらったら商売人だ。」

そんな気分だから刑務所にもながい間世話になった。それで82にもなってもその気分が抜けない。人に迷惑をかけたらいけないという気持ちは行儀のよくない酔客にも向けられる。
『迷惑かけましたね』
「つぎはゆっくりとお話をお聞ききしたい」
無言で差し出した右手は温かかった。添えられた左手は心なしか弱かった。

いっぽんどっこの津軽の任侠、枕詞のように添えられた「俺は学校行ってないんだ」
律儀で生真面目な人生は、任侠の徒の眸に映る世間のうつろいを見透かしているようだった。
畏敬すべき無名な任侠の徒に随うように、戸口から道路まで添う己の自然な仕草に、吾ながら昂揚した稀な酔譚だった。

また、津軽が楽しくなった。

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あの時と同じ、国民党と共産党の国共合作会談だったのか

2022-10-14 02:10:41 | Weblog

 

   

習近平主席  台湾 馬英九総統 

 2015  11月7日シンガポールにて会談

 

中華人民共和国成立 天安門

 

 

http://sunasia.exblog.jp/7312984/  寳田時雄著「請孫文再来」より

Kindle版 「天下為公」

 

  

   山田  孫文  

 左 佐藤慎一郎 右 山田

 

≪幻の蒋介石毛沢東会談の章≫

滞在から数日して山田が真剣な顔で佐藤に伝える。
「じつは蒋さんの依頼で大陸へ行く」

「大陸って、中共ですか」

「毛沢東主席に会う。慎ちゃんもいっしょだ」
 佐藤は驚いた。蒋介石は常々大陸進攻を唱えている。それが毛沢東主席と…
 しかも伯父さんが…
 山田はあえて事務的に指示をあたえる。

「廖承志さんを通じて毛主席には伝えてある。廖さんの母親が上海に迎えにくることになっている」
 廖承志の父、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は孫文の革命に山田とともに奔走した革命の同志である。その息子の廖承志は、子供のころに山田の腕であやされていた関係である。
 後年、廖承志は中日友好協会の代表として来日すると、まずはさておき山田の家を訪問している。こんな逸話も残っている。
 

        

   

   子供の頃、山田の腕であやされていた寥承志と母

 

     

    新橋華僑総会 寥 筆

 

大阪万博のおり、会場には中華人民共和国の旗、中華民国々旗である青天白日満地紅旗がひるがえっていた。それを知った廖承志は旗を降ろせという。

ある識者はいう。
 そもそも青天白日旗は台湾の旗ではない。もともと台湾に国旗などはない。青天白日旗は中華民国を創設した孫文先生が認めた旗だ。あなたの父親は革命の志士として亡くなったとき盛大な葬式が挙行された。
 その柩は多くの人々の犠牲によって成立した中華民国の青天白日旗に覆われていた。 
 あなたの父廖仲ガイ(りっしんべんに豈)は国民の悲しみのなか、国家と家族の安寧を願って旅立ったのだ。
 その国旗に覆われた柩にすがりついて泣いていたのは君ではなかったか。

 

  革命党の旗  当初、運動会で使うと日本で作った

 

 

 

 そんなエピソードではあるが、政治的立場と普遍的な人情は分別できる人間である。
 その廖承志が大役を引き受けたのである。山田を迎えにくる母親の廖香凝も中華人民共和国の要人である。双方、国際的事情もあろう。複雑に入り組んだ国内事情もあることは推察できる。

 だが、ともに国父と仰ぎ、けっして侵すことのできない孫文の存在を想起するなら『小異を残して大同につく』といった中華民族特有の思考を活用する大義も生ずるはずだ。
 幼稚で騒がしい知識人や、歴史を錯覚した政治家の類いをしたたかに排除した両国民衆は過去の恩讐や民族を越えてアジアの再興を願った孫文の大経綸に賛同するだろう。
 それはアジア諸国の期待でもあり、もちろん日本も例外ではない。   

 父の柩に涙したものは体制に翻弄された民衆の意志であり、廖承志の心そのものであろう。履歴を積み、縁あって両岸に対峙する毛主席、蒋総統にしても冷静にして自らに立ち戻ったときリーダーにしか垣間見ることのできない境地が存在するはずだ。

 廖承志はその意味を知っている数少ない幹部の一人でもある。毛沢東も蒋介石も解り得る人物である。分析、解析、思惑、作為は仲介当事者である山田にはない。まず毛主席に会って、顔を観て、声を聞いて話はそれからだ。

 死地を越え、孫文を心中に抱いた山田に気負いはない。緊張するのは両巨頭のほうだろう。
 山田は大事を前にして、郷里弘前の思い出や兄、良政に随うことによって生じた孫文との出会と革命の回顧、そして蒋介石との縁、そしてこのたびの行動を想い起してみた。孫文先生や兄、良政ならどうするだろう。

 1911年10月10日 革命が武昌で成功を収めた日、アメリカにいた孫文は急遽、帰国の準備を整え、上海にいた山田に打電してきた。

「横浜を通過して帰国したいから日本政府に了解を取ってほしい」
 山田は犬養毅に依頼したが日本政府は拒否。やむなく大西洋を迂回して香港に到着したのは12月21日だった。山田は宮崎滔天、胡漢民、廖仲ガイ(りっしんべんに豈)とともに香港に迎えに行く。陸路北上は危険だから広東で様子を見るように勧めるが孫文は上海に向かうという。その上海に向かう船上でのことである。

「山田君、資金を作ってくれ」
 思い立つとせっかちと思われる指示のはやい孫文である。

「幾らぐらいですか」

「多ければ多いほどよい。一千万でも二千万でもいい」
 明治時代の一千万、山田にとっては見たこともない夢のような金額である。

「私にそんな大金は用意できない。無理です」
 いくら革命に必要だとしても一介の満鉄の職員にはどだい無理な話だと端からあきらめる山田に孫文は毅然とした姿勢で言った。

「たかが金の問題ではないか。しかもここは船の中だ。君はまだ何一つやってもみないででできないというのは、いかん。君のような考えでは、革命はおろか、一般の仕事だって成功するはずはない。上海に着いたら三井のマネージャーに相談しなさい。革命は何事も躊躇してはいけない」

 山田は静かに厳しく諭された孫文の言葉を反復した。
 こんなこともあった。中華民国臨時大総統に就任した孫文が南京にむかう車中のことである。当時、国旗が制定されていなかったので末永節は日の丸の小旗をたくさん抱えて同乗の皆に配った。

 豪気な末永は「孫さん万歳、染丸万歳」と孫文の頭を祓う格好をしながら繰り返した。車中は中国人も日本人も「孫さん万歳」の声で埋め尽くされた。
 頭山満、犬養毅とともに国境を越えた行動力と胆識をもった末永の豪気は、孫文をして民族融和の必要性を見たに違いない。

 余談だが革命初期は、運動会で使うといって日本でつくらせたのが革命党の旗である。末永節は福岡にあった頭山満主宰の筑前玄洋社出身で頭脳明晰で豪胆な人物で、幕末に来航した黒船に乗り付け日本刀で船腹に切りつけたが歯がたたない。ひるがえって意識転換できる開明的なところがある。ふだんは褌もつけず素っ裸で庭掃除をするような豪傑でもある。臨時大総統をつかまえて「染丸万歳」とは末永らしいエピソードである。
 ちなみに染丸とは日本に亡命中知り合った女性である。

 

         

        蒋介石夫妻 

 

      

若き蒋介石と革命の先輩、山田  

 

        

山田先生為 蒋介石 弘前市  永く風義を懐かしむ

 

南京臨時政府が成立し、国号は「中華民国」と宣言されたその翌日のことである。祝宴のドンチヤン騒ぎで今までの労苦を吹き飛ばしているさなか孫文が山田に言った。

「山田君、君はこれから上海三井の藤瀬支店長のところへ行ってください」
 孫文は三井と軍資金借用の件で約束をしていた。山田は祝宴の酒が手伝ったのか軽口をついた。

「商人の話なんか、そうきっちりとは、いかんですよ」

「山田君、君はまたそんなことをいう。藤瀬さんは一週間といっただろう。約束は約束だ。まだ本店から返事がきていないならそれでいい。できる、できないは別問題だ」

 以前、上海へ向かう船上で諭された時と同じように、山田は約束の重要さと積極的な行動について教えられている。

 孫文は山田の兄、良政との義侠の縁とはいえ純三郎をわが子のように慈しみ、あるときは叱り、又、あるときは激励しつつ共に分かち合った革命成功への感激と感動の体験を積んでいる。孫文が山田の父に贈った『若吾父』(吾が父の若(ごと)し)という感謝の書はいかに山田兄弟とのかかわりが誠実な関係であったかを表わしている。

 その関係からして確かに、今度の毛沢東、蒋介石交流の仲介に山田は最適な人材であろう。どちらに与する利なく、まして施して誇るような心地はない。抱く心はアジア諸民族が提携することによって平和の安定を確固たるものと希求した孫文の志操そのものの具体化であり献身である。

孫文の葬儀 右から犬養 頭山  

 

 

宋慶齢

 

 あの日、宋慶齢夫人に促され「山田さんお願いします」と、ガーゼで孫文の口元に注いだ水は孫文の意志継承の神聖なる伝達であり、自らの生涯を真の日中友誼に奮迅する誓いでもあった。こぼれ落ちる涙は孫文の頬につたわり、まるで孫文のうれし涙のようであった。

 生涯の大部分を理想に燃える革命家として費やし、一時として休まることのなかった心身の躍動が、独りの孫逸山として己を探し求めた結果の答えとして、魂の継承を山田が受納する瞬間でもあった。
 
 それは革命精神の継続性だけではなく、終始行動を共にした孫逸山そのものの気風の浸透であり、むしろ悲しみの涙ではなくアジア王道である桃李の地への旅の潤いとして降りそそいだ。それは民族を越えた孫文の普遍なる精神が結実した瞬間でもあった。
 

師父の死は山田にとって新たな革命の出発でもあった。それは支配者の交代といった功利に基づく覇道ではなく、あくまで東洋的諦観による王道の実践であり、遺志の継承であった。
 毛沢東、蒋介石仲介という大業に臨む山田の沈着さは、まさに郷里津軽で仰ぎ見た岩木山の風格であったと佐藤はいう。

 

        

 

 ≪責は自らに問う≫ 


 海峡に対峙する両雄の鎮まりを招くことであったはずの山田純三郎の行動は直前になって中止となる。アジアの安定が世界の平和を招来するであろう大事の直前での挫折は、佐藤慎一郎の悔しさにも増して山田の慚愧でもあった。
 たとえごく近い縁から生じた障害であっても超越した行動をとろうと思えば可能であった。且つ、押し通す力は山田にはある。

 しかし、山田の決断は瞬時にくだされた。それはたとえ成功したとしても山田の心中の秘奥に存在する至誠に恥じることであり、また自らに課した到達点である亡き孫文への許されぬ醜態でもあった。それは縁者の入国手続きから起こった。

「いま飛行場の入管で調べられています」
 調べられているのは縁者の在職する某商社の暗号文を所持していたためである。

「内容は…」
 報告する者も言いよどんだ

「実は…」
 山田は言葉を詰まらせる使いの者を直視して尋ねた。

「すべてを話してほしい」

「貿易商社が日本の本社と連絡用に作成した暗号文が見つかったのです」

「それがどんな問題なのだ」

「暗号文の内容が問題です。もし我が国で総統が亡くなった場合、中共が攻撃してきた場合、騒乱が起こった場合、などについて我が国駐在より日本本社に打電する暗号文です。しかもその紙片を口中に飲み込んだという情報もあります」

 大陸進攻を掲げ戒厳令を布く国情では諜報行為といっても変わりはない行動である。しかも日本の大手某商社の駐台責任者の行為である。
 商行為でも人情に第一義の信頼性を置く民情であり、国父、孫文のもと総統との革命家同志の間柄である山田の縁者を駐在責任者におく商社の魂胆は、物言わぬ重圧として交渉相手に浸透したはずだ。山田の矜持を理解しようとせず、商行為による財利獲得のみを目的とする海外の現地法人の姿は、混乱の過ぎ去らないアジアの商業覇道として頭をもたげてきた。

 商行為は物流とともに人情の潤いを添え、それぞれが暗黙の了解事項として成立させることが交易業務の円滑さを図るためには必要なことでもある。『賄賂』を称して『人情を贈る』といった民族習慣になっている場合でも、円滑化のための知恵は、財を得るための「才」を認め、高める効用にもなるだろう。

 『逢場作戯』(その場その時々で相手に合わせて演技する)や、詐術はここでは問うまい。あるいは厚黒学や貨殖伝の応用もあるだろう。しかし、大前提となることは行動圏の市場に対する最低限の掟の順守がなければならない。とくに外国交易を行う場合、当事国の歴史、民情、政治情勢に一定の理解と涵養がなければ単なる謀略利得の行為と化してしまうだろう。

 語学が堪能だ、人脈がある、といったことのみを商行為の有利性として海外に派遣する国内における責任者の欠落した観点は、アジアの歴史に繰り返される島国日本の致命的欠陥でもある。
 
商社としてはつねに行われていたことが発覚したともいえるが、まるで時を計ったかのように山田の行動を妨げたと同時に、表面の静けさとは反比例するかのように胸中の秘めていた純情な琴線に触れてしまったのである。

 山田とて三井の社員として上海で満州の石炭を売っていたことがある。その経験からして商売意識の許容する範囲の理解は深い。それゆえ逸脱した縁者の行為は、自らの責めとして恥じるとともに、軍の袖に隠れ満蒙、支那の利権の買収、収奪を企て、孫文の革命を終始疎んじた日本人そのものを顧みて無言の怒りと悲しみを覚えたのだ。

 

      

津輕の両親に贈ろうと孫文に促された写真 デンバー号

 

 如何なる民族といえども色、食、財の欲望を満たすための究極の手段である戦闘行為を除いては民族特有の商風を醸し出してはいる。駆け引きや情報収集と称する諜報、謀略も当然あるだろう。

 なかには相手を利敵の対象としてみる一団もあれば、財利の循環を前提とした同種同業の育成や活用を商い気質として、天地の空間でダイナミックに存在し、滅亡することのない悠久の歴史の中に存在している民族もある。
 山田は「商」の分際を認識し、ときに自身(商人)の存在を直視し、その存在を感謝しつつ、しかも交易を臨機の潤いにしなければ、商が万物の用を成すという存在意義から逸脱し、害や罪に化してしまうことを歴史の検証として理解している。

 貿易商人の堕落は、アジアの大志を抱いて孫文と共に苦闘した継承すべき辛亥革命の精神的変質でもあり、人間の劣化という観点でみた山田の憂いと言い知れぬ寂しさは、自らの途を断ち、辞して発芽の来復を待つといった境地に、自らを追い込むものであった。

それは当時の日本及び日本人としての無条件の行為に根底にある貪りを自己で規制する という、覚悟に似た矜持であった。それは革命成功の成否より優先されるべきという山田の兄である良政の遺訓でもあり、異民族の中にあって慎重に留意しなければならない普遍的意思の行動具現でもあった。

 

一部写真は関係サイトより転載

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 あの時、津軽に鎮した偉人の残像

2022-10-06 15:30:29 | Weblog

いつ頃からか進学で都会に出ると、多くは戻ってこいない。郷里は就職もままならず、年に数カ月も雪で閉ざされる。

だが、歴史事績が多く教育都市と云われた津軽弘前では帝大を卒業しても郷里に戻り、教員、官吏もさることながら、家業の酒屋や洗濯屋に就いた方も多かった。それは弘前の人材のファンダメンタル(基礎的条件)である学校歴や知力だけではない親しむ郷人の稀な姿だった。

東北の俊英が集った県立弘前高校の学風も特異ものがあった。また一時は精強として謳われた陸軍第八師団の軍都として郷は興った。

そして厳しい環境のなか多くの人物が輩出した。国内はもとより海外に飛躍し中国の近代化に挺身する偉人もいた。

近ごろは、何か発起すると必ずといってよいほど、役所は・・・、誰それに先ず話を・・・と、まるで郷の掟のように習慣化されているが、当時は、まず帝大出身者を長(おさ)にように信頼を寄せ相談し、知恵も借りた。それは郷の自治として定着し、矜持の涵養、長幼への敬重、学びの方向性も養われていた。ゆえに議員の論は細々した内容も少なく、郷民の自発的自治を援けるような政治があった。

 

岩木山

 

旧稿ですが

 

全国津々浦々、偉人、賢人と称えられている人物が存在する。

訪れること三十有余年、津軽弘前には多くの英傑を輩出した歴史があった

昨晩、津軽の偉人鈴木忠雄を想起した。

ブログを回想して鎮まりを得た。

以下はその頃の心情を記した献文である。

 

     l

弘前城公園

 

 

粛呈 (訃報に臨んで・)


突然の御逝去の報に接し、五(ご)内(だい)裂(さ)くような悲しみを覚えます

思い起こせば、佐藤慎一郎先生の機縁(きえん)を得て郷土輩出の亜細亜先覚者(せんかくしゃ)、山田良政、純三郎御霊(おんれい)の事跡(じせき)と教育を尋ねた折、その行動を察知された先生は早朝にもかかわらず宿に御来訪され、熱情溢(あふ)れる清談(せいだん)をさせて頂きました







弘前 松陰室の弟子有朋(山縣)の掲額



時を措(お)かず、養生会松陰室において身の引き締まる御高話も戴きました。

また、菩提寺(ぼだいじ)、貞昌寺御住職、赤平法導さまが大切に護持されている頌(しょう)徳(とく)碑文(ひぶん)の拓(たく)本(ほん)を所望した小生の懇請(こんせい)に、まるで意を得たがごとく御承引(しょういん)され、翌朝、強風のなか、墨(ぼく)滴(てき)を飛ばしながらご一緒に写(しゃ)拓(たく)を採らせて戴きました

なんと愉(たの)しかったことか、なんと有り難かったことか、





           山田純三郎頌徳碑拓本採取  鈴木先生




それは郷土の先人が描いたアジアの安寧(あんねい)の精神継承であり、先生の教育の具現(ぐげん)でもありました

その成果は中華民国台北の国(こく)父(ふ)記念館に所蔵され、多くの人々に弘前の歴史と人物(じんぶつ)を知らしめることとなりました

先人のご縁から生じた御厚誼(こうぎ)は永きにわたり、その後、名声を辿(たど)って多くの学徒(がくと)が弘前に参りました

また、ご養生(ようじょう)のさなか多くの青年が東京から訪れ、拙(つたな)くも語る至誠(しせい)の迸(ほとばし)りに、図(はか)らずも先生落涙(らくるい)を誘い、そして弘前のしきたりだと、寝(しん)床(しょう)にありながら杯を皆で干(ほ)しました


                
            山田を頌する孫文の直筆撰文


先生は郷土の教育界の重責(じゅうせき)にありながら、つねに進取(しんしゅ)の気概(きがい)に富み、菊池九郎先生をはじめとして、陸(くが)羯南(かつなん)先生、伊東重先生、遠くは伊東梅軒先生の学風(がくふう)を継ぎながら、その薫醸(くんじょう)された学識と炯(けい)眼(がん)とを兼備(けんび)し、先人(せんじん)に勝るとも劣らない功績を遺(のこ)し、その一声一語は郷里に留(と)まらず、全国津々浦々に多くの利他(りた)に励む人材を備えました

もう一度 杯を傾けたい

もう一度 郷土の教育を語りたい

菊池九郎は、人間がおるじゃないか、と津軽の悲哀(ひあい)を打ち払い、中国の近代化は山田兄弟の津軽魂によってその成果を成した

あの時、先生はつぶやいていた、名山の元(もと)に名士在(あ)り、は昔の話ではない、と



              
         弘前養生幼稚園の木製遊具



今もって聞こえる先生の言辞(げんじ)は、津軽の人間教育の再興(さいこう)を促(うなが)している

私たちは兢々(きょうきょう)として先生の意志を継承し、桜花(おうか)舞う郷土の礎(いしずえ)となるべく、心(しん)香(こう)を奉げ続けることを銘(めい)としなければならない

津軽の心魂(しんこん)は此処(ここ)に鎮(ちん)す

その志繰(しそう)、邦家(ほうか)において嗣(つぐ)ものあらんことを


平成十七年九月四日

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備忘録「Hong kong」 上場前夜 あの頃

2022-10-06 01:37:28 | Weblog



「Hong Kong」より抜粋


「お父さんは優しかった。私も日本に留学して落合の尾崎行雄さんのところに下宿した。あの事件の日に帰って押入れを開けたら岡田首相が出てきたのでビックリしました。押入れに隠れていたのですね。訪日すると憲政記念館の尾崎さんの娘(相馬)さんのところにいきますよ」

麗華の母が日本留学中の出来事である。
母の弟と妹が1989年の北京で起こった世界史に載るような事件(天安門)のとき筆者の通訳をしてくれた。弟は早稲田大学出身、新京の実家に新築した自分の家は岸信介氏のために譲り、その後武藤富雄氏(後の明治学院大学学長)が住んだ。父は関東軍に戦闘機五機を寄贈した。

満州経済界では有名だったが、戦後日本人帰還者のために食料など馬車百両を用意した。「この地は発展した。人々も豊かになった。困っている日本人にせめてもの感謝の気持ちだ」と云っていたが、そのことで銃殺刑になった。


今どきの乱暴さで言えば、小生がお世話になったわけではないが、名もない日本人が大勢助けられた。しかも命懸けの行動で。
関東軍は連絡電線を切って一目散に逃げた。今の官僚もそうだが土壇場で逃げる。それが王道楽土を謳って多くの日本人を満洲の辺境に送り、最後に棄てて逃げてきた。そして戦後も官僚となり政治家となっている。

小生も満州とは縁は無い、また生まれてもいない。しかし多くの日本人の縁が積まれ流れている。そしてそれを抱え、引きづりながら、多くの縁を再度甦らせ回顧しつつ感謝もしている。麗華に対する心は前人の反省でもなく、紙に書くような哀憐でもない。
だだ、多くの日本人が命がけで助けられたことに対する拙意の表れだ。またそのように理解しなければ己の置所が亡くなるようで・・・・

そんな時、多くの先輩が縁を運んできて、背を押してくれた。おかしな物言いだが面前の麗華の我侭にも映る姿を眺められるのもそのためだろう。なにしろ十歳も年上のジャジャ馬である。








・・・ともあれ構図はできた。

香港社長解雇、後任にアメリカからK氏。

アジア圏にある幾つかの現地法人を閉鎖、統合整理。

海外法人の余剰資金を国内国際部ほか役員の接待費に流用することを禁止。

渡航は原則エコノミークラスを使用。

上場に際して海外戦略再構築案を公開して透明性を高める。

などが、三日間の観察結果だった。要は時代に沿った企業ではあるが、組織は緊張感もなく人材も乏しい。それ以上の指摘や提案は消化しきれない現状だろう。

こんなことは時間を割いて大勢ですることではなく、積極果敢に全能を駆使することだ。

コンサルの愚論や、アカデミックな組織論、厚みばかり多い報告書など有効にこなされなければ残滓でしかない。
        

最たるものは、執行責任者の弛緩である。戴麗華を旅行添乗員のごとく中国旅行に引用し、名のある者への紹介斡旋を依頼するような体たらく。軽率にも私的な模擬家族関係を構成することは再度の危機を招来しかねない。これは麗華だけではなく、主従関係のある職域においては以後の慣性堕落回避にすべきと考えるべきだ。

この期間中、現地法人の職員の多くの怨嗟を聴いた。上司の曖昧な勤務態度や士気の衰えは、いずれ起こるこの種のトラブルの前兆である。精神不安定社員の長期北京滞在、(麗華が個人対応)、北京法人日本人職員による不適切な遊興支出の習慣化、それに是正しない本社幹部、などいくつもあった。

後日聞き及ぶに、アジア圏の責任者の連絡不明が長期間にわたり、統括香港支社責任者も困惑、いや投げやりな態度だった。いまだに海外現地法人との管轄管理はできていないようだ。

このような報告書は三日目の午後に麗華の総経理室を占拠して作成した。白紙のレポート用紙をめくり、めくって20枚、茶も飲まずに入室禁止。頭に詰め込まれたものを整理して筆記するのは苦ではないが、生理現象で瞬時でも途切れることが辛いことだ。
ガラスパーテーションの向こうは物音一つしない。三時間ほど集中して完了した。日本での普段の生活では到底考えられない集中力だった。

何か怒っていた。それは愚か者の日本人に対してなのか、麗華なのかはわからないが、関係邦人は全員日本に帰還すべきとも思っていた。恥ずかしかったのかもしれない。あの偉そうに闊歩した植民地不良官吏や夜郎自大となった軍人が頭をよぎった。あの無知な日本人をだ。

読み直してみると不思議と整理され正鵠を得ていた。
途中、麗華がのぞいた。そう、総経理が恐るおそるドアを開けた。レポートから目を離すことなく「入るな!」といった。いつもは社員から強権でなる総経理だが「すみません・・」とドアをそっと閉めた。大勢のエンジニアや営業部員も声を潜めていた。







「終わったよ」
ドアを開けてレポートをみせた。麗華は驚いていた。たいした資料もなく、本社の戦略や将来の踏むべき行動を羅列、人事まで明記した。
「清書は難しいだろうから帰国して整理する。あとは社長宛てで、あなたの名前で作成して、どこにいてもfaxで送れるように準備してください」

下の歩道のコーヒースタンドでミルキーマンダリンを2杯飲んだ。
日本ではこんなことはできない、この高揚感と集中力は何なのだろう。

やはり、アンタは日本にいるより香港の方がいいといった麗華の言葉を思い出した。滞在中、麗華もどことなく緊張していた。
客人扱いだった広州人のエドモンドやダンカンも変わった。覗きこむような視線から正対して眸を見るようになった。反発していた日本人の女性職員も動きがよくなった。

じつは彼らスタッフも私を懐疑的にみていた。彼らビジネスマンは無報酬では動かない、つまりどれくらいの報酬対価があるかについての興味だった。
永年の懸案だった上場に伴う前提として堆積していた海外事業所の整理に関する好奇な目と不思議さであった。

もともとTMSChinaコーポレーションはトッパン・マルチ・ソフトの略だが、子会社整理に伴って戴麗華が横浜の馬氏の投資資金で購入した会社だ。だだ、麗華がトッパンフォームの社長付顧問ということで、個人的に安請け合いした案件だった。

これが成功すれば上場企業となり、社長も安泰、ついでに麗華も信用を勝ち取り、社員も晴れて上場企業の花形となる。しかも、特別配布の株券の資産価値は膨大な金額になる。そのストックさえ考慮に入れない私の行為が彼らの不思議さでもあったが、ともあれ、その前提として、どうしても解決、整理しなければならない海外の懸案だ。要は宴の後のゴミ処理のようなものだ。
株式上場の宴はお前たちが勝手に考えればよい、という気分だった。

ただ、器は見栄えができても、人材の資質は変わるものではない。いくらか上場して変化はあるだろうとの安易な考えもあっただろうが、以後は社長の弛緩と個人的案件というべき思い付き、唯々諾々と従うサラリーマンのヒラメ根性はなくならなかった。
それは今回の懸案と同じ状況が、以後も現地法人で繰り返されていることでも分る。



  ダンカン  エドモンド  日本人社員 




スタッフはこの別会社の懸案解決を、彼らの所属するTMSの副総経理が行う疑問と不信感だった。しかも、この成果を麗華の名前で報告する気持ちが理解できなかったようだ。

だだ、対価は相手の心算段で、有っても無くてもいいと、一種の利害無境にならないとできないものだった。しかも気休め目的の滞在4日間である。大手企業の上場が懸っているプロジェクトには相当の対価があると考えるのも普通だった。だだ、私の方が普通ではなかったから、より不思議さが増幅したのだった。
これをコンサルタントに依頼すればどれだけの報酬を請求されることも、彼らは敏感に計算しての観察だったようだ。

もともと自腹で空気を吸いに来ただけの香港だった。文革時に師の佐藤慎一郎氏が海岸に泳ぎ着く大陸からの数多の逃亡者を待っていた海岸に行きたかった、それが唯一と云ってよい目的でもあった。それが着いた途端、このありさまだが麗華の祖父王荊山へのささやかな恩返しなら、それも縁だと乗ったことだ。



TMSの担当社員には迎合するつもりではなかったが、2日目に彼らと昼食を共にした。知らなかったが、長い昼食だった。この地では当たり前と思っていた。ほかの席も甲高い言葉のなか2時間席を温めていた。日本人の女性職員はこういった。
「嘘はどう思いますか?」
こう応えた
「嘘は大いに結構、嘘を言わなければ生きられない国がある、だから皆利口になる。人を貶める嘘はいけないが、評価を高く売る嘘などは可愛いもの、見抜けない方が嘘つきよりひどい愚か者だ」

「でも、困るときがありませんか」
「いや、自分は嘘で飾ることはできない。できないこと、できることは知っている。幸いにも親から嘘をつかない勇気を持ちなさいと言われてきた。時折、お金がないときは好きな女性からデートの誘いがある。そんな時は腹が痛いとかいったことはあるが、これは若いころの格好つけだ。いまは嫌われることより嘘を言って信頼がなくなる自分が恥ずかしい。だから君たちには嘘はつかない。」

        

翌月の香港再訪には誰も嘘つく人はいなかった。爽やかだった。
コンプライアンス、セキュリティー、服務規則、香港らしくない。
これも日本企業の常套だが、人間を知らずして金を扱うことこそ愚かなことだ。後藤新平も児玉源太郎台湾総督もそんなことはやらなかった。育てて信ずることだ。

件のレポートで容易に峻別ができたのは、香港法人が合弁予定の深圳企業との印刷機の取引で4万ドル儲けたと自慢の報告をしていたからだ。
本社も軽薄なものだから、数値に惑わされた。そして隙を見せた。
高く売れたから儲かった、これがこれからの合弁相手にすることか。この疑問が解けない限り海外進出は止めた方がいい。

本社から来た白倉監査は滔々とその成果を書き連ねた。そして香港は差ほど問題ないと。
私なら報告書を目の前で破る。社長は破らなかったが参考にすらしなかった。レポートは社長の経営判断の参考となる。とくに上場には胡散臭い噂もついてくる。だから金も、便宜供与も気を付けなくてはならないのだ。

筆者は、偶然の縁で其処にいた。いや麗華の曽祖父王荊山氏が誘ったのかもしれない。これは麗華は自覚しなくてもいいことだ。まして「死んだ人間には意味はない」という彼女のこと、彼の国の人情を眺めることだ。





3日目は上環のマンションに泊った。麗華は遅くなる予定なので近所のスパーで紹興酒と豚の煮物を買った。一ビン250円、日本なら当時1500円する。テレビはどこのチャンネルも経済時評と株と為替、そして天気予報とニュースだ。シャワーを浴び、まどろんでいるとスライドシャッターが開いた。どこもそうだが各個の玄関ドアの外側にはセキュリティーシャッターがついている。二重ロックだが、その度さわがしい。

麗華は疲れているのか、挨拶もそこそこにシャワールームに飛び込んだ。
シャワーにかき消されそうだったが
「食事はどうしました」
「・・・・・・・」
タオルを頭に巻いてきた。背中からの声掛けだったが腰壁から上に横一面に鏡がしつらえてあるため、派手な薄い部屋着をまとった姿が否応でも目に入る。
「なんか、疲れたね」
凝視するわけもいかず目線を天井に飛ばした。
「早く寝てください」
麗華は黙って部屋に入っていった。
6帖くらいの寝室らしいが、覗くこともしなかった。いくらひと回りのひらきがあってもここは香港の一室。まして緊張した依頼でこちらも頭が熱い。ざわめいた一日に静かな気分を味わおうと酒を借りて微睡もうろうとするが、眉の先のヒクつきが止まらない。おかしな縁の巡り回った関係だ。


その後も「相談が・・」と再三連絡が来る。「お願いします」ではない。
北京で伊藤忠とデサントが合弁で会社を作った。現地とのトラブル(現地販売について)があって撤退を考えている。数億円の損害だ。

要は、現地受け皿をつくり、そこと合弁会社をつくり、そこで販売できるようにしたらよい。アンタの弟を社長にして49-51の持ち分で合弁だ。その内中国もWTO(World Trade Organization(世界貿易機関」)に正式加盟したらデサントも市場を作れる。それまでの間この方法がいいだろう。

このような場合は中国の法律を熟知した現地律士(弁護士)を顧問依頼したらいい。その候補は中日青年友好中心(センター)の○○○が適任だ。その場合の顧問料は○○元だ。デサントや伊藤忠への収拾案は私が起文する。現地は「中国デサント」としたらいいだろ。それで日本側は欠損もないし、弟も生活安定するだろう。あとは間違いなく納得する起文をしなくてはならない。現地調整も並行して行うように・・・・

そのスキームで落ち着いた。その後の巧くいった報告はもちろん麗華らしく皆無。その後北京で弟の運転する外車に乗せてもらった。
それにしても利害得失の話ししかないが、麗華はトッパンフォームの社長付顧問として、また馬氏の投資で購入したTMSChina香港は馬氏の突然の死後、売却。馬氏の投資は家族には詳しく伝えていなかった様子。

そのさなか、母の前で麗華に「利と義」についての処世訓を垂れた。上り調子の時は「意味ない」と思っていても、寂しくなるよ、と。
母は頷きながら笑っていた。「自分を知るために曽祖父の自伝でも作ったら・・」と促した。その後中国人作家がそれを書いた。

最近、「貴方の云っていたことがよくわかった」と置き場所を探している。香港、北京、東京にも豪華なマンションを購入した。みな200m2以上だ。
「いつ来ても部屋は用意したあるよ」ともいう。
麗華には利交、詐交、熱交、を戒めている。また利用して用済の薄情を我が身に置き換えるようにと。彼の国は無条件は家族の情、金が絡めば瞬時に他人になると言う。。

筆者にとっては、ありがたくも、苦々しくも、淡い交わりのある縁でもある。

王荊山はどう思うのだろうか。いまでもその思いが麗華を映す。
「枯骨光生」そんなことが解るのは遠いことのようだが、筆者にはよく眺められるようになった。

おかげさまで・・・・


未完

「枯骨光生」 朽ち果てた骨から光が生まれる。

そう思う心、無から有を想像する境地。

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備忘録「Hong Kong」 香港調査報告 1 あの頃

2022-10-04 02:03:02 | Weblog



香港返還前年に突然依頼された上場前の大手企業のアジア圏現地法人調査ではあるが、改善実行計画、アジア圏への商圏拡大などを配慮した現地法人のトラブル処理の逸話である。



寳田時雄 備忘録「Hong Kong」より抜粋


啓徳空港からハーバービューのシャングリアホテルに直行した
香港はあのアヘン戦争によって九龍半島の突端と向かいの香港島が割譲され、今は英国人の総督によって施政権が管理されているアジアで唯一の植民地の名残を見せている地域だ。
当時、白人から未開で野蛮と蔑まされていたアジアは、日本、朝鮮のほかは西欧諸国の植民地陣取り合戦に巻き込まれていた。

香港は英国が大英帝国といわれていたころ東インド会社を先兵として中国にもその刃を向けていた。もちろん始めは宣教師と貿易商が進出するが、特産であった景徳鎮の硬質な白磁や絹織物を購入し、その代金をアジア植民地内で栽培していたアヘンを売っていた。

清朝の没落から混乱した社会となった中国においてアヘン中毒が蔓延するには、そう時を要さなかった。歴史の定説で、アヘン戦争は清朝の官警が港に荷揚げされたアヘンの箱を燃やしたことを発端として起きたことになっている。

゛なっている゛というのは当時の先に手をつけたところの優先権が植民地の掟みたいなところがあった。あるいは先に手を出させる謀略の巧妙さは狩猟民族の罠のように国家民族の面子を潰すことから行われることが多い。

あの007で有名な王立国際問題研究所、M!6を擁して映画「アラビアのローレンス」に描かれたようにイラクに真っ直ぐな境界を引いてクエートという国家をつくった謀略に長けた英国の紳士?のやることゆえ、定説となっている香港の歴史も疑って掛かる必要があろう。

戦後も彼らの常套手段である分割統治が行われ、撤退時には分断国家として、いまなお戦火の軋轢にみまわれている地域がアジアにはある。
南北朝鮮、南北ベトナム、インドネシアは東チモール、インドは東西パキスタンとカシミール、マレーシアとシンガポール、あるいは台湾海峡を挟んで中華民国と中華人民共和国など民族、宗教もしくは大国の干渉によって融和することさえ難しい状況が作られている。

その一つ香港が返還になる。いつもと変らないハーバービューの景観と街中で空き缶を置いて一日中座っている人々のエネルギーが溢れる香港が中国に返還されるのもあと僅かな時でもあった。

      




シャングリアホテルの8階、海側の窓は床から天井、左右を大きく開けた一面のガラスで装飾されている。
ベットサイドのパネルリモコンを押すと、まるでステージカーテンのように左右に開閉する。目の前にはセントラルの中国銀行がひときわ威容を誇り、右手の上環の入り江にはドーム型のマカオ行きのフェリーターミナルが見える。いずれ返還されるときのセレモニーはこの場所を置いて他にはないと思えるロケーションでもある。

とばりが落ちる頃、絵葉書にある香港島のビルディングに灯りがイルミネーションのように輝く。セントラルにある中国銀行の尖塔がそのパワーを見せつけるように輝き、九龍からセントラル、こちらの言葉では中環に渡る連絡船の灯火のようにも見える。

ベットに寝転んで気分に浸っていると、買い物に行っていた麗華のお帰りチャイムが邪魔をした
「お帰り」
麗華は案の定、懸案の話をまくし立てる。従業員の中国名が出てきてもチンプンカンプンで理解できない。
「ところで、その人たちのパーティーなりで撮った写真を見せてくれ。何でもいい、たくさん有った方がいい」
麗華は怪訝そうにしている
「ともかく、それを並べて相関図を作り、問題とあわせて判断する」
人相学ではないが、人は欲望を隠しても、あからさまにしても顔に出る。とくに昔の写真や、地位が上ったときの顔と仲間との顔が普通に撮られていると尚更よく判る

麗華にとっては訳も解らないだろうが、異国での研ぎ澄まされたように感ずる己の直観は、データーや売り上げ、組織図。成功価値など聞けば聞くほど判らなくなり、ことに矮小化された日本企業の人を見るデーターでは、異民族との問題解決にはならない。いや問題の意識が違うのである。共通するのは座標軸の確定した考察でしかない。顔と行為は一致する。とくに利に向かうときはよく解る。

小生はトッパンフォームの人間ではない。また香港で一旗上げようと企んできたのではない。もちろん対価も無い。これは中国人も日本人も同様に怪訝に思うことでも有り、世俗の彼等には終生わからないことだ。
       
         




どっさり抱えてきたのは数字の入った会社の資料と職員人事の関する書類。
「ちょっと見てほしい」
ぶっきらぼうな言い方だが、みな慣れるとそうだ。
「なに・・」
「トッパンフォームも来年上場で、今までの海外現地法人の整理が必要になっている。とくにアジアの要は香港が担当しているが、その香港の構成がどうもおかしい。当時中国語か話せるということでキャリアもない人間を雇い責任者にしたが、奥さんは中国人、そのうち親類がぞろぞろ入ってきて、専務も不動産のアルバイトをしているようで、本社では整理したいのでその調査なの。ルートは二つ、会社から監査がくる。そして社長付顧問の私が個人的調査ということ」

「それを俺に援けろと・・」
麗華は黙って唇をかんでいる。
サラリーマン体験もない、いわんや会社の内容や組織のことなど無知だ。だだ、糸口はあるし、別の切り口で成算もある。腐敗堕落、そして緩んだ組織の要因をえぐり、外科手術をするなり移植すればいい。加えて本社社長が納得する計画書を作り決済さえすれば完了する。


至極簡単な手順だが、別の危惧もある。なにしろ与太郎を装っているゆえに、牙をみせられない。こんな馬鹿げたことに躊躇しているサラリーマン組織の狡猾さと、体裁の作る姿は何よりも嫌な性分だ。小役人相手の人助けの頓智は慣れているが、わざわざ香港まで来て日本人よりより狡知あるといわれる現地人相手に何ができるのか、それが面白そうだと思うまでの気分の整理は麗華がぎっと結んだ唇を吐息に替わる寸前だった。
「面白そうだ、試してみる」
豪傑どもを蹴散らした春秋の義侠ならすとも、諸国を渡り歩き口舌を駆使して戦禍を収めた説家くらいのことはできる。まして今時は孔明ならずとも呆れるくらいの小事ではないか。







前提は、正式ルートで来る監査役の予定行動の探索指示、社長が麗華に依頼したことも、麗華が小生に依頼したことも誰も知らない。好都合だ。
対価を得ないこと。報告書は麗華の名前で出すこと。香港滞在は4日限りのため、関係者と接触せず、すべて上場後の海外戦略に合わせた組織構成と人員配置を過去・現在、未来の時間経過を推考して、企業の将来を俯瞰する前提を構成した。

そこから導く人員配置とアジア圏の邦人整理と新たな関係構築模索と、人間が行い具体的な施策の立案という、本来のトラブル処理、しかも異民族の関わる処理のポイントから面という従来の取り組みではなく、俯瞰から多面、根本、将来の三原則から、組織や人間そのものに下ろしたのちの整合性、可能性、また今回の齟齬の原因をなす部分の抽出、摘除に途を選択した。

会わなければ写真がある。車の助手席、トランクの様子、関係者の縁戚関係、などを指示、また損した内容より,儲けた自慢話をストックした。なぜなら香港と大陸窓口の深圳(しんせん)の合弁予定のあるという会社との最新の取引状況が数字を飾り易いし、白倉という監査への報告の先ず出てくるとの想像だった。
「ストックするのに2日、逐次報告しなくてもいい」

至極当然のように依頼しておいて、さも「わかったわよ」と言いたげな態度だが、出来上がったところで「ありがとう、助かった」などは云わないだろうが、だからこそ面白い試みだ。
企業としてはその最たる成功価値は上場だ。社長や社員も上場企業と付けば幾らか体裁がよいだろう。そのくらいな人間の煩悶だが、もともとの自堕落が気が付かないサラリーマン組織に、準備もなく、サラリーマンの経験もないものが行なうことに可笑しささえある。まして麗華のこと、報告書も自分の手柄として平然と報告するだろう。そして社長を容易に手なずける。よく観得る。

そしてみな、未公開株でしこたま懐を潤す。社長は会長として君臨し麗華を案内にして家族で中国旅行に励み、社員もそれに倣って弛緩して、また自堕落になる。それは早くて五年、遅くて10年の間に漂ってくる。また海外現地法人のコントロール不可も問題になるだろう。
この企業は大なり小なりこの状態を繰り返すだろう。それも人相の直観と同様な企業に寄生するサラリーマン諸氏の相観でもある。









昨日、着いた途端にIBMの人気機種AS400の当たりを探りに九竜に行った。セントラルからのフェリーだが、九竜に着くとボロ着をまとい正座して右手に空き缶を捧げる乞食に出会った。まさに俺たち乞食だと堂々としている。
予定もあったので早足でクライアントを訪ね、同行のエドモンドという広州の青年が東京から副社長が来たと身振り手振りで伝えていた。

さっき名刺をもらったら副総経理と印刷してあったが、さっそく胸元から出した。
地銀の大垣、北海道拓殖、都銀の富士を回ったが、意外と容易に話が納まり、先が見えたが、北拓殖だけは元気がなかった。香港には地銀、大手など邦銀が60行、支店なり営業所を開設しているが、ほかにカシオなどの事業所も多く、とくに九竜は邦人企業が集中している。

帰りすがりに、まだ居るかなと思ったら元気に缶を捧げていた。正座して頭の上のほうに空き缶を捧げているのだが、とても真似もできない。みると腕も太い。
でも、元気なので安心した。縄張りもありそうだが、これなら喰えそう


香港島の上環には彼女のマンションと歩いて5分ぐらいの所に会社がある。
ちなみに香港島から九竜半島を見て右が上環はマカオ行フェリーの発着所がある。真ん中の尖がった上海銀行のあるところが中環(セントラル)だ。九竜からのフェリーがある。マンションは28階だが、見えるのはビルの隙間に見える路面電車の終点、上環駅の停車場だ。
会社は歩いてすぐ、一階はマクドナルド、近所には商城と呼ばれている百貨店やセブンイレブンもあり便利なところである。


イメージは一部関係サイトより転載

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