まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡が共感し、児玉が師と仰いだ笠木良明

2009-10-27 15:01:39 | Weblog
寺のもみじが色づく頃、毎年のことだが笠木先生の墓前に参って懐かしむことがある。


「安岡は先生の葬式のときに、いの一番に到着して墓前には中華月餅を供えてくれた。彼は先生とは袂を別けて権力についたように思うが、かれの目標は別のところにあった。学者としては珍しくも出る場面は政、経、軍に誘われているが、念ずるところはあったはずだ。」

「先生は児玉が内地で身を持て余しているのを見て、『君は外地へ行ったほうが能力を発揮できる。すぐにでも行きなさい』と児玉の異質な能力を見抜き促している。」

縁者も薄くなった笠木のために世田谷の豪徳寺に同志が墓を建立したとき、傍らには満蒙関係殉職者の墓と児玉が揮毫している。
「いゃ・・字を書くのは苦手でねぇ・」と、ようやく動かした筆である。

また豪徳寺では宮島大八(詠士)氏が主宰していた鎮海観音会が毎年行なわれ、笠木関係者も参加している。「書は東に行った」と中国から讃えられた書家であり思想家であった宮島の縁も多岐にわたり、代々この会は布施無しと住職に伝わっているほど盛大なものだった。本堂での観音経の読経は重厚で長く、毎回足がしびれる不謹慎を記憶している。





                  






毎年一回の笠木会には満州高官、関東軍、笠木の提唱した自治指導部、あるいは満州体験の政治家、経済人が新橋の国際善隣会館に集った。
また、世田谷豪徳寺でも法要があったが、児玉の主宰する交風倶楽部の面々も参加している。

筆者は唯一の戦後生まれだが、可愛がられ、いたずらされ、叱咤され、縁を繋いでもらった。当時、新日本協議会の甲斐田氏、新勢力の毛呂氏、あるいは神兵隊の中村武彦氏、また師友会の安岡氏や多くの影響を戴いた佐藤慎一郎も笠木氏の道縁である。




               





この笠木会を陰で導いているのは終生笠木氏を看た五十嵐八郎氏であり、名幹事の木下氏である。五十嵐氏は神田神保町に事務所を設けて多くの運動家や引揚者の拠点というべき場所を提供している。前記にある面々も五十嵐氏の世話になっている。

剛毅な五十嵐氏は大よそ姓なり名を呼び捨てである。巷間、正統右翼の論客といわれた中村氏を、゛武さん゛とよび、よく筆者を同席させて昔話をしていた。岡村吾一さんとの縁は、筆者が通っていた銀座の東京温泉のサウナ室で何気なく話した笠木氏の縁から五十嵐氏との厚誼がわかり、ときおり精力のつく栄養剤を土産に歓談する仲だという。
児玉氏との逸話は別章に記したが、これも元は笠木氏の縁である。





                





戦前は笠木、大川周明、安岡が歩みをそろえたときがあったが、意を違えて袂を別けている。その事情を知っているものにとっては月餅をもって一番に駆けつけた安岡の純粋な情感は、様々にいきさつを超えて感謝をしている。

筆者がみて似ているところは、ぶっきらぼうだが、温かく、語ると厳しい。あるいはあの年嵩も違う選手に聞こえよがしに呟く野村監督のボヤキに似たものが多くのインフォーマルな逸話にある。器でも度でも目方が違うのである、いや量れないのである。





               






世情に博学な人物を評して、物という字に点を付けて「テンで物にならない」(点を付けたら物という字ではない)、単なる物知りだということだ。
あるとき大企業の社長が就任挨拶に訪れた際に、「辞めるときのことを考えておやりなさい」と、褒め激励されるものと想像していた社長に応えている。

笠木も大川周明の話を聴きに行ったが、みな高名な学者の話に聞き入っていると「オレはポチではない」と纏わりつく弟子と称するものを嘲笑している。
また、滝にうたれて修行したと自慢する人間には「滝にうたれて偉くなるなら、滝つぼの鯉はもっと偉い」と応えている。

つまり、「本立って道生ず」人間としての本(もと)のないものは、いくら学校歴や地位を貼り付けても役に立たない、その証拠に満州崩壊時の軍、官高官の醜態は、まさに、「儚き知の集積」でしかなかった。

安岡にも多くの弟子と称するものがいるが、本人は弟子を持ったことが無い。
また多くの高学(校)歴を有したものや、名利を金科とするものが訪れるが、心中は、゛幼児でも解ることが分からなくなっている。これが国家の指導階級か・・・゛と歎いていた。

゛政治家は人物としては二流にしかなれないものだ ゛とも。

確かに安岡は共感し、児玉は師と仰ぎ添った。笠木良明とはそんな日本人だ。

[敬称略]



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今どきと・・・・

2009-10-11 20:08:12 | Weblog


                        





山田純三郎先生 五十年忌 墓前慰霊祭のご案内


                 世話人  原子昭三 小笠原 豊 広瀬寿秀
                      寶田時雄 大塚寿昭 志村卓哉 

清俗両忙の折、貴台におかれましては益々ご活躍のことと拝察いてします
この度、アジア復興の魁となった孫文先生率いる辛亥革命において多大な功績を遺し、終生その志行に邁進した山田純三郎霊位の没後五十年にあたり、内外の関係有志相集い墓前慰霊祭を行ないます。

 想起するに隣国の革命に馳せ参じた先覚者は国内の津々浦々から大陸に渡りました
其の中でも当地弘前は本州の端地にもかかわらず、山田良政、純三郎兄弟を始めとして多くの先人がその涵養された人間教育と背骨となる津軽の魂を副えてアジア復興の目標に邁進しました

 昨今、その偉業が恩讐を越え復考され、再び民族の共生と安寧を甦らせるために、遠い過去の世界でありながら共通の灯火として、また現世の必然を帯びて両国民に問いかけるようになりました

 経済実利だけでなく、より重層された歴史経過を辿ることによって、それが真利となると気がついた賢者の声が多くなったのも、未来に向けた必然だとおもいます
それゆえ、孫文が全中国民族を代表して兄良政の頌徳碑草稿の末尾に記された「其の志、東方において嗣ぐものあらんことを」という撰文の意が、ますます真利の扉を開けるにふさわしい言辞として甦るのです

 歴史の循環に観る人の倣いは、人の心の辿り着く処にある縁に感謝し、活かすことでもあります

 また、真利を活かす倣いが微かになった今こそ、郷土の先覚者であり異民族に普遍な精神を貫いた明治の日本人の涵養された志操に、何れかを悟る機会として慰霊に臨んでいただければ故人も本望かつ欣快な安らぎかと存じます

 和らいだ祭事ゆえ有志相諮って御参集戴ければ幸いです
                
                記

日 時   平成21年 11月8 日
                     午後1時開始

祭 場   弘前市新寺町 貞昌寺  碑文御前
                     導師 赤平法導法主

参加費   献花料 1.000円



墓前祭後、清話懇談がございます。






                



「請孫文再来」より抜粋参照

 終始、孫文に添い日常の言動を知る山田だから言えることではあるが、この革命は支那の歴史を構成する大河泥流のような民情を基としない表層の政治学、人類学、歴史学といった知識人の稚拙な論拠ではなんら実証することのできないばかりか、大言壮語する革命家と違い、つねに民衆の下座に置いてこそ見ることが可能な惻隠の観察が革命決起の大前提であり、それは悠久の大地から萌芽した種のようなものとして、おのずから到達点を直感して疑いのないものと確信したものであり、孫文自身にとっても自己革命ともいえるもので、書物にはない歴史の事実であり行動の原点になる感動と感激の蓄積となるものであった。

 山田は縁者である同時に、唯一の理解者である佐藤を「慎ちゃん」と呼んでつねに近くにおいている。それは孫文が山田を終生、側近として時には叱り、激励した姿を彷彿させるものでもある。
 
孫文にしても山田の兄、良政を革命初期の恵州義挙において亡くし、その弟である純三郎を国籍を問わず側近として重用したことは兄の義命を懐かしむものであり、現代風にいう知識、技術、財力、あるいは有用なものしか価値を見いだすことができない人間評価ではなく、あくまで「大志」の存在の有無を原点としたからでもある。

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