まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

復、津軽の魂は甦るか   9 4/28 再

2014-04-17 11:46:49 | Weblog
         
      溥儀と秘書長 工藤忠 弘前市板柳出身






当てにならないとは、「計測不能」「予想もつかない」ともいえるが、ならば当てになるのは大陸の華人によれば、人情と財である。その人情は表層の優しさの前提にあるヒューマニティーや平和論という掴みどころの無いものではなく、狭い範囲の掟や習慣性を共有することの出来るような、ある意味では固陋な人間関係にあるものである。肉親や朋友などだが、それさえも信じられなくなった一時の政治体制ではあったが、よりその人情の在り様を察知するにはよい機会でもあった。

もう一方の財だが、地球全体を住処と考える民族にとってはその茫洋とも思える自然循環を前提に数多の思想と仕組みを柔軟に肉体化する術を身につけている。つねに実利を描き、また他に対しても、吾が身に対しても「利」の相対する潤いと裁制の両面の特性を量りつつ,また謀りつつも財に向き合っている。

ある意味では纏まりにくいが、滅びること無い民族である。また政治やシステムされた合理的経済体制には沿っているが、馴染むことのない「観」をもっている。


歴史をみればその地域を魅力と感じ、あるいは客観的国家概念から未開で御しやすい地域と考えた欧米や同圏内の異民族の侵入があった。また、それもいつの間にか同化させててしまうような一種のブラックホールのような、またそれが色、食 財への素直な欲望の香を自然に発散させる雰囲気とあいまって、いまでもその迷路のような魅力に迷っている国々もある。




               
 
        蒋介石が革命の先輩 山田純三郎を讃えた撰書
                        弘前 貞昌寺


そのような民族と地域の防御性を危惧し、アジア圏の危機と察した人々が政治革命を起している。わが国の維(国の本綱となるもの)を新たに復古させようとした維新
や清朝から統治から漢民族を復興させようとする辛亥革命などは欧米の植民地化の波によってようやく目覚めた夫々の躍動でもあった。


歴史経過を縷々説明することは省くが、漢民族の復興と清朝の皇帝溥儀を推戴した満州国の創成期に多くの日本人が活躍している。一口で侵略や利権と括られる安易な風潮ではあるが,日本国内にある多くの事績やその証、そしてオーラルヒストリーで継承されている異民族との人情と夢の交感は数多の研究家、学者たちの書中の記述とは趣の違う感慨がある。

ただ時の経過や時期を違えるだけで、これほど人の行為が一種畏敬の気持ちを湧き出させるものなのか、その感動と感激につづく感謝の念だ。



             

                 八甲田 4/21




その辿り道は新たな発見や結びつき、またその切り口の更新から現在の事象を照らす貴重な良機でもあった。

標題はその機会に臨み、津軽の変化と期待を考察して将来を逆賭した結果に辿り着いた発想である。

人間の愛顧する歴史が在る処、必ず再興する。

これは歴史の必然である。





           
           今年の桜  弘前城


以下ブログ 「請孫文再来」より抜粋

《弘前と孫文》

 青森県弘前市は山田良政、純三郎兄弟の生地である。明治の言論人、陸羯南が喝破した「名山のもとに名士あり」と謳われた追木山(岩木山)が四季折々に姿を変え、仰ぎ見るものに愛着と、言うに言われぬ心の鎮まりを与えてくれる。

 戊辰の戦火を避け、いまも残る津軽藩の居城であった弘前城は、城郭を中心に公園として整えられ日本有数の桜の名所として季節の時をにぎわしている。桜枝の隙間から仰ぐ岩木の頂は陽光に輝き、雪と桜がまるで人目を競い奪い合うかのように津軽平野に共生している。

 菊地九郎がその礎を遺し、羯南や良政や純三郎を育んだ弘前の地ではその遺志を継承する人々が多く暮らしてしている。儒学者、伊東梅軒の子で医師の伊東重、孫の郷学者、伊東六十次郎、教育界の重鎮、鈴木忠雄などは郷土文化の伝承、人材輩出の養土のように、まさに郷学にして有力といった弘前教育の独特の養成法があるかのようにもみえる。
 それに加えて東奥義塾の外国語教育、山背の風に立ち向かう“じょっぱり”精神が独特の人物像を描き出している。
 





                 孫文桜  境内




新寺町 貞昌寺

大手門から西に歩いてほどなく行くと新寺町という各宗派の寺院が混在している一角がある。その中でいちばん奥まったところに貞昌寺がある。ここは津軽藩代々の家老の菩提として霊を鎮めている寺である。入り口付近にはだれが名付けたか、孫文桜の古木が参拝するものを桜のベールで抱き包むように根を張っている。

 左手には住職の赤平法導が大切に護持している良政、純三郎兄弟の頌徳碑が二碑、建立されている。一方は孫文撰書による良政の碑、片方は蒋介石撰書「永懐風義」(永く風儀を懐かしむ)、蒋介石撰文、何応欽謹書による頌徳碑が清掃された碑台に安置されている。
 観光名所ではなく、またそれを知る市民も少ないが、毎年、桜の季節になると中日関係者の友好拝礼祈願がおこなわれ、東京の東洋思想研究団体の郷学研修会を中心に年々振るあいを増している。




               






 「なぜ、弘前と孫文が」という疑問が市民にはある。
 郷土から輩出した英明なる人間の歴史をたどるということが少なくなった教育ではあるが、歴史が将来のための鏡として効果ならしめるかは、それも人間の問題である。

 清麗かつ豪気な気風を醸し出す弘前に生まれ、幼少に菊地九郎の薫陶をうけ、長じては向かい家に住む陸羯南に影響され、日本および日本人に対する問題意識を支那の列強からの解放と自立に求めた先見と遠大なる志操は、孫文の唱える「支那と日本との連携によるアジアの安定は、世界の平和に貢献するものだ」という考えに賛同したものではあるが、それのみではない。

「明治維新は支那革命の前因であり成功は後果である」といった孫文の唱えは、良政の寡黙な義侠心を喚起させ、自らの自得した普遍な精神を異民族のなかで問いかけようとする熱情であっただろう。しかも支那民族に我が身を靖んじて献ずるという、殉難を厭わない自己の発揮は、孫文をはじめとした全支那民族の心を喚起し、孫文の意志をより強固に擁護するバックボーンとして厳存している。
 兄に追随した純三郎に対する孫文の慈父に似たさまざまな問いかけは、兄に習うということから兄を継ぐといった壮絶な使命感を呼び起こしたことだろう。





     山田純三郎と孫文



 つねに孫文に同行し、革命の隅々を体験した純三郎の姿は、列強に追従して支那を侵食し始めた日本軍部に国賊扱いされたことでも、その心底は複雑であり、敗戦を慚愧の念で迎えたことは容易に想像できることである。
 山田はこの頃、書き残した文章の表題にこう記している。

『国を愛せんとすれば国賊』と。

 昭和16年4月、当時、山田は上海日本語専修学校を経営し、自ら校長として活躍していた。その紹介文には「日華親善の遠大な理想の下に、多数の中国人に慈父の如く親しまれている中国通であり、老上海である」とある。

 山田は国賊といわれ身の危険を感じながらも語っている。

「自分はあくまで"戦争はやめよ"と主張する。然して全面和平を主張する。それは終始一貫した国家的信念である。然らば、現在の日華関係の上に立って、その信念を貫徹する希望ありやと問う人があれば“見込みなし”と言わざるを得ないのを痛恨事とする」


「…中国にも和平ブローカーが存在する。日本にもまた存在する。これらがさまざまな禍をつくって暗躍、跳梁している。かくのごときブローカー輩が蒋介石を動かすことができるものでないことは自分は再三、要路者に忠言を呈したが、これに耳を貸さなかった」

>「このブローカーたちが入り乱れて、あらゆる手段を講じ蒋介石を引き出そうとした運動は全部失敗を繰り返しているではないか。笑い事では済まされない問題である」

>「…汪(汪精衛)にも元気づけた。"日本では君のことを知っておらんから何かやれ"、"何がある"というから犬養先生の墓参りをしなさい、宮崎滔天の墓を建てたらどうか。革命当時、国事に奔走した同志で、既に黄泉の客となっている人々の碑を建てて盛大な慰霊祭をやって遺族を慰めたらどうか」

>「…然らば如何にして全面平和に導くか。その道程においては、国策に反する行動をとらなければ現状より推してその望みは遂げ難い」








       津軽の人形創作  木村ヨシ師作




「…されど国策に反したことを言えば、それが果たして日本の生きる唯一の道であるとしても、烈々たる愛国心の発露であるとしても、直ちに国賊の汚名を冠せられる。ここに事変処理途上におけるはなはだしき矛盾があり、また我々としても最も苦しい立場がある」

「…全面和平に導びかんとすれば国策に相反し、全面和平の言説を吐露すれば直ちに国賊となるとすれば、全面和平は現場において絶対不可能という結論に到達せざるを得ないのである」
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