まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

津軽の夏に・・・ 2008 8 あの頃

2019-08-24 10:09:26 | Weblog

津軽弘前はことのほか静かだった。

いや小生にとっての愛郷は鎮まりのある佇まいを残してくれていた。

経済の衰退と政治の錯覚した政策は,携る人物の如何ともしがたい思いを帯びて全国津々浦々に茫洋とした暗雲を発生させ、この祖国である四島を覆っている。

ことさら学者風に分析しても部分検索で終始するのがオチのようだが、天然自然をグランドにして「眺める」と、地上での人々の行いにある作為が、車窓を疾走するがごとき景色とは異なり、観点の違った時(とき)の間隔で眼前に表れる。それは焦点の当て方でもある。

時空を飛ぶ、いや「渡る」といったほうが佳いくらいに浸透する。それは煩雑に思える都会暮らしに忘れかけた座標を甦えさせることでもあり、「観則」の素朴で純粋な回帰でもあるようだ。

その「観則」だが、それに人物、社会、交わりことなどを挿入すると、「観人則」などになるが、面白いことに人格と何ら関係性のない、地位、名誉、財力、学校歴で人を「見る」ことから、「則」を前段の素朴で純粋という、ある意味では天然自然にみる生物のバーバーリズムにある素心を「則」として「観る」ことに変化し、より蟻のような下座観と鳳凰のような俯瞰視が可能になるようだ。

妙に老成した類のモノの言い様だが、「独り」と「自然」は隣国の先哲偉人の言を借りずとも四島の自然に潜在していることが、穏やかな夏の涼風のように察知できる。じつは、それが津軽弘前への旅だった。

春夏秋冬、津軽はその装いを鮮明に現してくれる。また津軽平野から、岩木山中から、その遠近の景色は遠い歴史を我が手元に引き寄せる不思議な力がある。

津軽の歴史を尋ね、そこに涵養された多くの先覚者の恩顧は、頭を垂れるに充分すぎるくらいに真摯に己の心を蘇させる。

いつまでも、そのままでいて欲しいと願う我儘な気分だ。

「請孫文再来」弘前と孫文
http://sunasia.exblog.jp/7456818


続く

コメント (1)
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