1989・5 /25 戒厳令下 北京 小学校 (筆者撮影)
逆に「一人を以って、国は滅ぶ」ともあるが、ここでは如何に独りの人物の出現によって家庭や社会、そして国家なりが良くも悪くもなるという集積された歴史からの一章である。
歴史の事象に遺された例をみれば、宗教家、政治家、あるいは戦闘集団の英雄など、一姓、一家、一国に語り伝えられた人物の残像は数多数え切れないほどある。
マホメット、キリスト、ブッタのように預言や教義を通して人を率いることもあれば、三国志の英雄やナポレオン、ヒットラーなど矛と盾を駆使して一時代を走り抜けたものもあるが、我国でも聖徳太子を始めとして武家社会から明治まで歴史の岐路には多くの逸材が輩出され歴史の記述として遺されている。
それらは尊敬や畏敬の念を生ずる神の言葉繋ぎや、肉体的衝撃への勇気のように特別な人間の行為として、それらの驚愕と恐怖の援護者として仰がれる立場であり、それを直視する民衆の素朴さもあった。
昨今の民主主義のリーダーになれる方法として、先ずは財力と有名性、そして大義を謳い宣伝するといった巧みな技法を持った集団の、゛かつぎ神輿゛として、衆愚などと揶揄される民衆の取替え可能なリーダーが作られるが、歴史に刻まれた「人物像」とは似て非なるものであろう。
大勢の人と財を集めるリーダーもいれば、一方、王陽明は「一人で少なしといえず、千人でも多しといえず」と、徒に衆を恃むような考え方を戒めている。
独立した一人の人間の覚悟や、透徹した考え方に基づく先見と行動の突破力が、いかに方向の行く末に影響があるか、また人々を率いるために必須な「貪り」や、浅薄な「計算」を超然視して、名利に恬淡な気風を涵養するかは、王陽明だけでなく多くの先賢の言に範をみるのも其の喩えであろう。
ことの善し悪しへの理解は、雑多な「情報知」を背景として、かつ自らの排他性が招く孤独感は、落ち着きの無い言動を共有する仲間を募り、居心地のよい場面に誘い込み、より流行の価値観や放埓気分に安住して錯覚した理解に迷い込んでいる。いや、本質の問題の理解には程遠いくらいな茫洋な世界になっているといっても過言ではない。
言いたいことばかりで、言うべきことが観られない状況でもある。
ロシュフーコの奇書には「自己愛」の行為について多くの章を割いている。
とくに愛とか情熱についての言葉や行為の裏側には自己愛をまずベースに置き観察することだと辛辣にも言い切っている。
彼はその「自己愛」について、これでもかとばかりニヒルな態度を徹底して語っている。つまり、それは真実ではなく欺瞞である・・・と。
しかも、其の明け透けの姿こそ、人間の真実であると言い放っているようでもある。
宗教家であろうが、愛する恋人であろうが、今どきの引かれモノの台詞にある「きっとそうだ」のような絶妙な裏読み?がそこにはある。
当世の公務員のように狡猾になった徒や、走狗に入る知識人ならまだしも、誰もが薄々心当たりがあっても言い切れない観察力と妙な勇気である。これを明け透けと考えるのか、陰湿さと見るかは、既成の道徳規範や精神科医や動物行動学などにみるような論には無い、素直なリアルさがある。あの人間学を提唱した安岡正篤氏もそれについて筆者に語ったことがある。
たしかに言行一致することは、なかなか難しいことだが、よくよく観察すると、よく「大義」を謳うというが、゛貴方のために゛゛弱者のため゛゛平和のために゛などに添える美辞には有りそうなことでもある。ただこの場合は対価収入の「物」の問題ではなく、連帯が融解しつつある現代の人のあり方に関する「存在」の探し処のようにも見えてくる。つまり判らなくなった自分のカウンターパートのようなもので、意味不明だが心地よい美句のようなものである。
これでは国を興したり、滅ぼしたりするまでもなく、あくまで客観に留まり美辞に酔うまでのこと、またそのような同類もよく見つかりツルムようだ。
歴史の登場人物を観ると、まず「異なることを恐れない」ような学問なり、社会から異端と見られるような人物を探し当てて相互研磨している。
また、自身の特徴を発見し伸ばすような行動をしている。
先の王陽明だが、「どのような人間になりたいか」との問に、「聖賢のようになりたい」と少年期に応えている。聖賢とは知者、賢者とは異なり、そこに存在するだけで畏怖を感じ、自ずから律する心が起きるような人物である。
また「恥」について当世日本人とは異なる切り口を友人に語っている。
試験に落ちたことを恥じていた友人に向かって「試験に落ちたことを恥じるものではない。自身の努力を恥ずかしいと思う心こそ、恥ずかしいことだ」と応えている。
一例だが、聴衆が集まらなくて慌て、逆に嬉々として増長する選挙演説や受験の有りように、本質の見方を示している。考えている内は気宇壮大でも、行動になると、゛どうしたら成功するか゛゛笑われないか゛゛成功するか゛など気弱な逡巡と計算が働いて、ただただ手も足も出ない状況だ。
それが多数を占めると社会や国は停滞し衰亡する。
恥ずかしいこと、嘲笑されること、これを愉しい試練に置き換えるようでなければ、国は興るまい。
戦国時代、幕末、敗戦前夜、大和雄の子には文化があったし、雅(みやび)を愉しむ一時の余裕もあった。