まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学 安倍君の器量と度量  終章

2018-03-19 13:51:03 | Weblog

 

簡記すれば、

 

政外(せいがい)・・・政治政策のピントが合わない 内外情勢を錯覚して施策を誤る

内外(ないがい)・・・内政がおぼつかないと外で気勢を上げ危機を煽る

謀弛(ぼうち)・・・・謀が漏れる。秘密が漏洩する

敬重(けいちょう)・・尊敬されるものがいなくなる。わからなくなる

女厲(じょれい)・・・女性が烈しくなる。男が弱くなる

 

この兆候が表れたら何れ国家は国家の態を失くし、滅びる。

自から滅び、自壊する。それは、我を失くし茫然自失した姿を現わす。

無関心や問題からの逃避は、その前兆として表れる。

 

以下はブログ小章の抜粋

 

「五寒」に表れる、゛謀弛゛の姿

 

内外、政外、謀弛、敬重、女厲、が国家の衰亡、亡国に表れる現象であり、その前段に人々の心ら表れる姿や、その原因となる病巣に「四患」を当ブログで紹介し、その例示も再三記してきた。

 

後の祭りを語ったり、あまり現象の現れていない状況でその兆候を警告したところで浮俗の耳には入ってこない。

 

あまり政治はともかく、政局のことは当ブログの趣には馴染まないが、時々の人々の姿に表れたり、誘引されたり、「五寒」にいう現象が絡み合うと、個々の興味や得意分野、あるいは己にかかる厄災などから発する言葉や行動なりが、騒然とする状態下にあると、それぞれの関係を拙考「人間考学」の手順を追って解きほぐすと、その現況の行き着くところや、解決が見えてくると考える。以下は筆者の愚論だが、お節介を記してみたい。

 

「内外」と「謀弛」が顕著に現れたのは米英が推し進めたイラク戦である。内政問題を覆い隠し外に向かった衝突は大量破壊兵器の保有が前提にあった。しかし無かったことが漏れ、露呈した(謀弛 はかりごと弛む)。それによって情報部の管理力は疑われ、その推進役であった米英の政策責任者への信頼は失墜し政権交代にすすんだ。それは政策責任者への敬重(信頼と尊敬)の失墜でもあった。

 

そしてリーマンショックである。これは「四患」にある偽、私、放、奢そのものであった。

゛偽りの数値によって私企業が法規範を逸脱し奢った゛まさに偽私放奢の流れである。

その結果「五寒」に推移するのである。

 

つまり人の衰えの問題なのである。

 

 

 

 

今回の尖閣問題でもその通りの道筋をなぞっている。また、゛なぞる゛ことが予見できる人物たちによる結果でもあった。

外交上における各種会議、資源問題など必須と思われているが、往々にして会うことに意義がある程度の内容しかない会議、それに拘って内政のスケジュールなりシステム転換を図るような本末転倒な状況がある。

 

ビデオは漏れ、税官吏の汚職、閣僚の放言などは精神の弛みであり、公務員の偽りと私事である。もちろん信頼や尊敬などは見る影も無い。

 

選挙当選、政権交代の謳いはマニュフェストの偽りと政権党の弛緩によって国民の怨嗟を助長した。弛みの政治主導ではなんのことはない。

 

奢りは「驕り」でもある。公務員の待遇と高額給与は、国民状況を判っていながら知らない振りをした狡務員や公無員の群れの増殖がある。

 

もちろん「上下交々、利を獲る」ように、国民にもその倣いは顕著になっている。

母親は安定職だと子供に公務員へとせかし、教育界、知識人にまでその食い扶持の用学に陥っている。人生を説き、夢を描く男子のへ風圧は「女厲」にある、女性の荒々しさ、烈しさとなって表れる。それは方向性のさもしい比較競争でもある。

 

浮俗の噺だが、浮気調査は時を代えて男子の側からの相談が多くなり、パチンコとサラ金は女性客のほうが多くなっている。それに付随して警察白書には場所まで記されないパチンコ屋のトイレの自殺は女性客が多くなり、しかも一日何十万も稼ぐときがあり、損することもあるパチンコは博打場ではなく、法律的には健全な遊技場扱いである。この便法の適用と立法の促しは警察である。

 

よりによって、そこに自由と民主と平等や人権が添えられれば、より一層、放埓(やりたい放題)、民主(人は人)が四患を顕著にさせ、家庭や教室でも「敬重」の存在は無く、もちろん政治の要諦である「信」や尊敬など、どう考えたらいいか、尊敬とは何か、と理解の淵にも届かない情緒が漂ってきた。

 

学生も学歴だけはとっておけばと商業教育のお客となり、当選すればと居眠り議員や、総理まで目力のないウツロナ様相を晒している。みな、こんなはずではなかった、と思いつつも俸給と待遇に魂を滅ぼしている。

 

以上、成すべきことを避けて、゛言いたいこと゛を垂れてみたが、この症状が治らなければ亡国である。「亡国とは亡国の後に、その亡国を知る」といわれるくらい、自然に忍び寄ってくる。あのローマ、ギリシャ、大英帝国、もそうだった。

また、亡国のたどりはことのほか楽しいものだという。

そして、すべてが、偽、私、放、者をたどって「五寒」に行き着き、打つ手も無く滅んでいくようだ。

 

身近な世界や政治の携る人間も同じ日本人だ。しかし気が付く人間と、覚醒転化する人間がいる。またただ騒ぎ立てるものもいる。

 

四患」と「五寒」を透かして世の中を観察することをお勧めする。

まずは「見る」ことと「観る」そして「診る」ことから適所にあった治療が始まるはずだ。

 

以上の例文の参考引用ですが、巷では器量度量は任侠の世界と思っている者もいるが、口舌批評の種でもなければ、学び舎でのアカデミックな理屈ではない。それゆえに結果は対象となるものの姿によって量られるものだ。

それは農、漁、工、を生業(なりわい)にしている人の方が自得している。

戦後、復興のままならない中、陛下は全国を巡察している。

国民は陰ながらその人物の器を量り安堵した。

そして、相手の心を思いはかって慈しみを添える「忠恕」を知った。

 

安倍くんにはそれを望まない。

せめて、怨みは吾身で受け、謗りは他に転嫁しない

そんな器量と度量を日本の総理はあったのだと期待したいだけだ。

 

終章

 

 イメージは関連サイトより転載しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間考学 安倍君の器量と度量  そのⅡ

2018-03-17 09:42:07 | Weblog

 

 

安倍くんの考える器量とか度量は如何なものだろうか。

まずは部下を思いやる忠恕がなければ彼らは覚醒しない。

内なる賊吏」とか「増殖する国家バチルス」と陰では揶揄される哀れな現状は、強権や裁き、あるいはコンプライアンスや好待遇だけでは治まることはない。

 

再三当ブログ記しているが、ここに至る前に現れる現象は「四患」だった。

 

 

        

                良い習慣性

 

 

以下、長文だが抜粋する

 【まず、四患を除け】

 

この患いが政治、官吏、司法、経済、民心に蔓延すると優れた政策も財政も行き渡らなくなる。いやそれでも不安と不満がとめどもなく湧き出てくる。

 

 「政を為す術(すべ)は、先ず四患を除く

 と云う言葉がある。後漢の荀悦(148~209年)という人の教えである。

 

彼は後漢第十四代献帝(189~220年)の時、進講申上げている。その彼が漢の政治の乱れを正すために書いた「新一」(五巻)という本の中で「政を為す術(要諦)は、先ず四患を除く」と、主張している。政治を行なう要諦は、まず四つの病根を取り除くことから始めなければ、ならないと云うのである。

 

その四つの病根とは「偽、私、放、奢」の四つである。

 

政治の「政」という字の本義は、天下万民の不正を正すということである。

 

孔子も

 「政とは正なり。君、正を為せば則ち百姓(ひゃくせい)(人民)故(これ)に従う」(礼、哀公開)と教えている。

 

「偽」と。は、「化ける」と云う意味。偽せものの人という意味。

 政治とは、まず自らを正して、しかる後、世の中を正すのではないのか。とにかく、日本は上から下まで、「偽」が、蔓延している。にせ物が本物を乱しているのだ

 

  「」、公を忘れた私、私意、私欲に翻弄された日本人が、日本国中に氾濫している。特に上に立つ人こそは、私心を滅して公に奉ずるのが本当のはず。ところが彼らは、天下、国家の公論を借りて、私情を満足させようとしているではないか。

 

私心を抱くことなく、誠心誠意、社会のために、そして仕事のために、尽し切るからこそ、その人間がはじめて生かされてくるのではないのか。自分を忘れた日本人の氾濫。自があっての分、分があっての自ではないのか。

  

」とは、棄てるということ。子供らを勝手気ままにさせるのは、わが子を棄てることだ。慈母に敗子あり。必らず締りのない、目標のない子に育つ。

 放埓の埓とは、馬場の囲い。かこいを取り除いて馬を放つと、馬は、本能のままに飛び歩く。放埓息子、放蕩息子が必らず育つ。

  

」とは、ぜいたく、おごる。

 俺の金だ。俺がかってに使って何がわるいと、傲然として、ぜいたくした気分になっている。そんなものは、ぜいたくでも何でもない、浪費だ。

 本当のぜいたくとは、金で買えないような悦びを味うことだ。

 

それを「窮奢」--ぜいたくを窮めると云う。 奢る者は、その心は常に貧しい。

偽私放奢、この四恵有りて存するものなし。生きた歴史は、この警告は真実であることを証明している

 

四つの病患の第三は「放は、軌(軌道)を越える」である。

  

「放」の原典は、「はなす」ことであるが、「放は、逐なり」(説文)で、追い払う(放逐)とか、「放は棄なり」(小爾雅)で、棄てる(放棄)とか、また勝手気まま、欲しいままにする(放縦)といった意味がある

 

 「厳家に格虜なく、しかも慈母に敗子あり」(史記、李斯)

 厳格な家風をもった家庭では、気荒い召使いでも、手に負えなくなるようなことはない。ところが慈愛に過ぎた母のもとでは、かえって、やくざな、どうにもならぬ放埓息子ができる。

 

 放埓の「埓」とは、馬場の囲い、柵のことである。この囲いを解かれて放たれた馬は、本能のままに、勝手気ままに飛び回れるが、その馬は馬としての用はなさない。

 放蕩息子とは、そのように軌道をそれて、かって気ままな振舞いはするが、人生に対する方向のない、志のない、全く締りのない悪子のことである。自分で自分を抑えることが、できないのである。

 

 前漢の第九代宣帝(前74~79年)の時、侍御史。その後河南の太守として、河南の民政を委された人に厳延年という人がいた。彼は厳しい母に育てられた人であったにもかかわらず、彼は人民を刑殺すること頗(すこぶ)る多く、冬でも殺された人々の血が数里も流れたという。それで河南の人々は、彼のことを、「屠伯」殺し屋の親玉と呼んでいたと記録されている。

 

 そのような様子を見ていた彼の母は、「お前のように人を多く殺せば、やがては自分も殺されることになるだろう。私は故郷に帰って、お墓を掃除して、お前が殺されてここに来るのを待つことにしょう」と云って息子を諌め責めたてて、故郷へ帰った。

 果して、彼は、死刑に処され、その屍は街に晒された。(後漢書、酷史、厳延年)

 

 「厳母、墓を掃く

 という言葉が残っている。継母に育てられた子においてすら、この始末。まして、骨のない慈母に放縦に育てられた子供たちの将来は、まともではあるまい。

 

「温室に大木無し。寒門に硬骨有り」

とは、苗剣秋が、私に語ってくれた言葉である。要するに「放は軌を越える」からである。

 いかに日本は豊かではあっても、子供たちが駄目なら、そんな国に明るい未来は望めまい。そのような子供を育てているのは、私たち大人、親たちである。

 

 本当の亡国とは、国が亡んでしまってから、亡んだことを知ることである。今なら、まだ救う道はある。

 


                     

                             津軽講話


 

第一は「偽は、俗を乱す」である。

 

  「偽」という字は、「人と為」でできている。つまり人為、作為が加わっているということであろう「偽は、詐なり」(説文)とか、「偽は欺なり」(広稚)などと解されている。

 

 」とは、あざむく、言葉を飾る、落し入れる。

 「欺」とは、あざむくという意味ではあるが、欺の「欠」(かける)という字は、心中にひけ目があることを表わした字である。入を騙しながらも、心中にひけ目がある間は、少しは望みがあろうというものである。入間はその心根を誠にしておりさえすれ、ば、自分を欺き、他人を欺くようなことは有りえないはずである

 

 「偽は俗を乱す」の俗は、一般には、習俗、風俗といった意味に使われてはいるが、これには、もう少し深い意味がある。

 「俗は、欲なり。入の欲するところなり」(釈名)と解されている。

 「俗」という字は、「人と谷」。「谷」とは「穴から水が自然に沸き出るかち」を表わした文字。この谷の水が欠けると、自然に不足を満そうとする「欲」が生まれてくる。

 

 人間には、そのように生まれながらにして、穴から自然に沸き出て来る水のように、自らの生を全うするために、自らなる生への意欲が、こんこんと沸き出て来ている。それが社会一般の本然的な習俗を作りあげているのである。

要するに生命の自然現象が「」である

 

 人間の本性は、性善説か性悪説かは、私には分からないが、自然の天理に背き、私意私欲から出た悪意ある作為は、たしかに「偽」であると云ってよかろう。

 そのような私意から生まれた「偽」がこの世に横行するようになれば、偽は真を乱す。偽物が本物を乱すようになるのは、理の当然のことだろう。

 

 ところが、このような悪意ある「倫」を弄ぶことのできる生物は、人間だけである。まさしく

  「智慧出でて大倫あり」(老子、十八)

 日本の政界の実状は、智識は己れの非を飾る道具であることを、はっきりと示している。貪るからこそ、姦智が生ずるのである。政界が国家百年のために雄大な国策実施に専念することなく、基地だ、手当てだ、献金だと、次々に天下に示している事実は、はっきりと、「偽り」そのものである。

 

 上の好むところ、下またこれを好む。それはまさしく、政界の「偽」が、民俗を乱している」からである。

 

 四つの病患の第二は「私」は、法を壊(やぶ)るである。

「私」という字、「禾」は穀物の一番良い「いね」のこと。その収穫されたいねを囲んで、自分一人のものとする。それが「私」という字の原義である。

 

  「公」とは、そのよい穀物を一人占めしないで「ハ」、つまり、それを公開して公平に分ける。「公は、共なり」、(礼記、礼運)で、みんなの物にする。公平無私だとか、公を以て私を滅する、とか云われている。それが「公」の意味である。

 

  「私は邪なり」(准南子、注)で、「私」という字には、よこしま、かたよる、いつわる、ひそかに……といった意味が含まれている。

人間には、どうしても、こうした私意、私欲というものが、つきまとう。

 

  「私意は乱を生じ、姦を長じ、公正を害する所以なり」(管子、明法解)

 と云われている。

 私意、私欲を以て、物事を見たり聞いたり、考えたり、行なったりすれば、どうしても物事の是非善悪の正しい判断をすることはできない。それで、遂には乱を生じ、三人の女性を合して私するような、姦悪不正不義が多くなり、結局は公正を傷つけることになる。

 

  「公は明を生じ、偏は闇を生ず」(荀子、不易)

 公正であ・ってこそ、始めて明智を生じ、偏頗なればこそ、闇愚を生ずるのは、理の当然のことであろう。

ところが「私」を離れて「公」はありえないし、また「公」を離れて「私」もありえない。

「天に私覆なく、地に私載なく、日月に私照なし。この三者を奉じて以て天下に労す。これを之れ“三無私”と謂う」(礼孔子間居)

 

 天には私心がなく、あらゆる物、を公平に覆うている。地もまた偏頗(へんぱ)に物を載せるようなことはなく、万物を公平に載せている。日月もまた私意によって、かたよった照し方をするようなことはなく、万物を公平無私に照している。天と地と日月は、このように公平無私であればこそ、その生命は永遠に不変なのである。

 

 大自然そのものの一部である我々人間は、このような天と地と日月のあり方を、そのまま奉戴して、天下のために全力を尽す。公を以て私を滅し、小我を乗り越えて大我の世界に生き続ける人間の在り方。それこそが人間自然の当然の生き方であろう。

 

 

四つの病患の第四は「奢は、・制を敗(やぶ)る」である。

 

 「奢」という字は、古文では「奓」と書いていた。つまり「大」プラス「多」の会意文字である。大きいうえに更に多くの物を寄せ集める意味だという。

どうするか、救うしかない

 

天下を憂いることは簡単だ。天下を救うことは、むずかしい。しかし救うしかない。何とかいう坊さんの言葉 一燈照隅、万燈照国、これしかない。

 

 

以上が四患だが、国家経営でこの兆候は江戸の御家人から維新を経て戦後の現代まで途切れることなく続いている我が国の官吏の性癖だ。軍官吏は惨禍を誘引もした。

 

その後、現われるのは隣国の栄枯盛衰に記された「五寒」の情況だ。

 

つづく

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間考学 安倍君の器量と度量  そのⅠ

2018-03-16 13:41:49 | Weblog

 

人間考学 安倍君の器量と度量

 

いまは聞くこともなくなったが、よく美麗な女性には「器量よし」といって容姿を褒めた。いまは簡単に顔だちを見てキレイというが、美しいとはなかなか言わない。

「器」はうつわ、「量」はその大きさや広さ、つまり才能に加えて徳といわれる篤い情が備わっている人物を器量人といっている。度量は許容量、つまり異なる意見を受け入れたり、隠れた善行(隠徳)に心を寄せ、深い人情を備えている人物を、度量があるといっている。

 

このところ官僚の文章改竄(恣意的書き換え)が問題になっている。

以前の当稿で「文は経国の大義にして不朽の盛事なり」と記したが、改ざんは「経国の大偽」となり、政官は愚かな人物によって朽ちようとしている。

ここではマスコミで流布された各種の一過性の情報を部分検証するものではなく、標記の「安倍君の器量と度量」について世情と異なった切り口を呈したい。

 

行政の総理であり政治の首相、あるいは自民党の総裁と立場を使い分けることに長けた器用さがある安倍くんだが、もともと敏感で恐れ気質といわれるような性格だと評されている。まずは素心として押さえておかなければならないのは「人の情」の如何だ。

敏感で反応の早いことは、好転していれば何事もスムーズになる。しかしセンター軸が歪んだり、循環に潤いがないときは、敏感は短慮となり、反応は拙速となり、落ち着きのないリーターの姿として信頼を失うことになる。

いまはその経過だとおもえる状況だが、そのような場面では言葉の説明ではなく、人は顔色、動作、人の情などを観ている。(゛見る゛ではない)

むかし竹下総理は「言語明瞭 意味不明」といわれた。いまはそれに近いようだ。

 

よく沈黙は金というが、説明すれば人が上げ足をとるからと裏読みするが、沈黙は相手に考えさせ、自問させることになり、相手の心象を忖度することもあるからだ。

 

行政府の長としてそれぞれの職掌を持つ部下の不祥事に対して、声高に責任を追及するのは簡単だ。それを不平等とか民主的ではないと悪しざまに大義を飾って追及しても、戦いの後はつねに日本人の潜在する情緒にある、「良くも悪くもお互いさま」が、一方の正義を掲げた一過性の高揚感で相手を打ちのめしていることに、なにゆえか苦い思いがする徒労と内傷が起きる。

その「なにゆえか・・」は、今どき説明や証明になじまないが、筆者は「忠恕ある人の情」を問うべきだとみたのだ。

それは「お互いさまに」だ。

 

「そんな生易しいことでは国民は理解できない!問題も解明できず解決しない」と、罵詈雑言が投げかけられそうな騒々しい浮俗のようだが、もともと切り口の違う見方であるし、異なることを恐れないことを学旨としている少章の意なので介すことはない。

 

ことは、もともと情感やそれを守る操(情感)を意味のないものとして昇官した学校エリート達だが、彼らは囲われた奴隷気質で智を磨いたためか「智は大偽を生ず」の陥った人たちだ。己れを偽っても恥じない、いや感応しない。智は大きな偽りを容易にする、まさにこの度に官僚姿がそれだ。

彼らは本当の智ではなく、単なる知ったか、覚えたか、軽薄な学びで数値選別され、食い扶持に預かっただけのことなのだ。昇官人事に敏感で、妙に意固地なメンツも養って生涯賃金を日夜、企図している群れゆえ、国民の下僕とか利福に貢献するなど考えることも忌避している環境に置かれいている。若いころは国家観をもち熱情があったといわれるが、地位と俸給に義(正しい意識)を曲げるのはもともと希薄な精神しかなかったといわざるを得ない。

 

かれらに器量や度量などという文字は似合わないし、かれらも意味のないことでと思っているようだ。

そこで、そのような部下をもった上司や、統御すべき内閣総理大臣だか、囲われた省内はうかがい知れない狭い範囲の掟や習慣があり、表には成文法がある。

再三記しているが成文法(清規)は状況の変化で立法され、関係法とともに積層される。

ところが掟や習慣(陋規)は習慣性を持っている。規範規律ならまだしも問題なのは彼らの利得のために陋規は固く守護され入省から退官してのち亡くなるまで守られている。

自由と正義を謳いつつ人間らしく生きることを隠さなければならない人生の背反生活をしなければならない、まさに哀れで惨めな立場だからこそ、当然の如く謳歌できる供与だと思っているのだろう。

 

当ブログでも隣国官吏の醜態と習性を「昇官発財」として連載しているが、明治創生期の議会開設していない頃は有司(官僚)専制として、天皇の輔弼としての矜持は持っていた。立身出世は学びの動機だったが「昇官発財」までは汚れていなかった。

隣国は賄賂を「人情を贈る」といって当然なことの官界風習だが、これだけは当時の日本人官吏には無かった。

 

近ごろは狡猾にも官界に使いやすい便宜的な法を、しかも恣意的(おもいのまま)にお手盛り議員に立法させて、狡猾にも貪り議員を屏風にして国民の目を欺き、問題が起きれば腹話術よろしくセリフを読ませ、謝らせ、辞任さえさせて自ら安逸をむさぼっている。この問題意識もない貪り議員は与野党問わず全国津々浦々に蔓延している。

それが国家を俯瞰した政治的な慣性であり、真の危機なのだ

 

        

          犬でも掃除する?

 

それでも世の中の時間軸のなかで、前記の現象は渦を巻くようにスパイラルな動きで将来に向かっている。

宰相はこの現象の行き着くところを鎮まりをもって眺め、熟慮する役割に立つ器量が必要となる。部下の不祥事の由縁を探り、行き着くところは自らの内省としなければならない。ましてや行政府の職員として任官時には公務員として誓詞を認めた者が、非業の死を選択せざるを得ない状況においては、まずは「惻隠の情」を悟るべきだ。

 

くわえて、すべては己に帰す

しかも立候補して、命を懸けて国家国民のために身を奉げると誓詞した立場にあって、社会の一隅で難渋、困窮しているであろう国民を想起するような下座心を抱き、また、国家の歴史に刻まれた禍福を想念して自らを叱咤するような遠大な経綸と気概がなければ、歴史には刻まれることはない。

 

麻生元総理は孫文が好んだ「天下為公」(天下は私するものでなく公にある) 意であり、福田赳夫元総理は「任怨分謗」(怨みは吾身で受け、謗りは他に転嫁しない)を同じく座右としている。福田総理が座右としたことだが、師と崇めた安岡正篤氏から授かった名言だ。

 

 つづく

イメージは関係サイトより参考転載しました

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進次郎君、政策を問う前に「信」を再復せよ

2018-03-03 11:06:36 | Weblog


中華民国台湾 台北にて


眼前に羅列された政策論は、欲望の交差点と化した国会争論の種だが、いま涵養すべき問題は国家の連帯と調和の前提である「信」を問うことだ。

それは縁者が稼業人だろうが総理だろうが、独立した気概で「公」の在り様を、行動を以て具体化することだ。

それは自身を魅せることによって学び、倣わせることでもある。

学びでいえば「背中學」ともいえる。色男や口の巧いことで当選する軽薄な浮俗だが、背は数倍の力で背後を威圧して面前すら巻き込む力となる。

上へ昇りたいものはそのスピードを気にするが、勉強と一緒で成長過程に合った学びでなければ、情緒性を失くした数値エリートのごとく人生をスキップしてしまう。

少なからず頭を下げ、お願いしますと懇願しなくてはならない不憫な役割を、いかに土壇場での肉体的衝撃ですら克服する人物になるかは、尋常な学びでは得られない。

とくに下座観と人を観る座標がないと、周囲には、いたずらな損得勘定で動く人間を募ってしまい、しかもそのような人間の周縁になってしまう。

政治家なら、いかなる場面か、どのような人たちの、どの部分を観るか、あるいは上目線か,地に伏した観点なのか、それは繁栄に加算される立場なのか、補う立場なのか、その意味においての下座に身を置く観点が大切になる。

人を観るとは、多くは数値に換算される附属性価値である財力、学校歴、地位などの人格をなんら代表しない価値選別とは異なり、分ける、逃げない、許す、誇らない、に観る、人物の在り様のことである。

つまり、様々な臨機に気が付く、もしくは思いを致す、習慣的に行う義侠心、つねに不特定多数の利福を前提とするような人格である。

しかし欲望の交差点の整理は権力という信号によって人は群行する。みんなで渡れば怖くないといったが、千万人といえど我行かん、の気概の維持はなかなか難しい。

そうならないためにも、人物によって繰り返される歴史の栄枯盛衰の岐路において、いかに覚醒・更新・再復が「信」を基として転換したかを探る必要がある。

そこで持ち出されるのが政治論や経済論にあるアカデミックな定則や論証だが、これとて昨今の国会の論争を見る限り、たいして有効性もなく、火を注ぐ種になることもある。

横文字ではパラダイムシフトの類だが、その多くは行動すべき人材の私事(小欲)を忍んだ「大欲」の如何でその成否は決定している。

いま、原発、税、扶養とスポットを照られた政策は大小の欲望に晒され、「信」乏しき為政者の狡猾な謀によって国民の怨嗟は増え続けている。




弘前



議員は国会で何が議論され、その目的と方向の所以を、演説をもって国民に知らせるに責務がある。いまは、それをマスコミが代用している。しかも事細かな推論や恣意的な流れを作りながら、あえて国民に真摯な思索と観照を与えることのない遊惰な浮俗を醸成している。

また、議員が陥る錯覚病がある。
一例に元共同通信の記者のことだが、それは共同でなくても大手新聞、週刊誌の類でも同様に、経済記事を書くために財務省や経産省にネタ取りに行くようになると、いつの間にか敢えて難解にした経済の仕組みや用語を知る。すると、いつの間にかいっぱしの経済通になった気持ちになるという。しかも名のあるマスコミなら大手を振って大臣や官僚と対等に話せるようになり、己の立場を錯覚するという。

しかも政治家なら政務官、副大臣にもなると官僚の腹話術のようになり、不祥事さえ隠すようになり委員会答弁も官僚の屏風になって言い訳を言うようになる。それだけならまだしも官製政策まで問題意識もなく代弁するようになる。まさに通信社、新聞も同様な錯覚に陥る。とくに事件物は出先の警察や検察のもったいぶった情報管理の穴ぬけをスクープとする記者の慣性は、ときにポチ犬のように情報をねだるようになる。しかも予想記事まで書かされる記者もいる。

つまり村の掟のように逆らわなければ、地位も食い扶持も安定すると考えるようになる。こうなると法律とは違い、清河になるのは百年かかるという。だだ、掉をささなければ出世の階段は確保され、村長(むらおさ)にもなれる。政治家なら大臣、マスコミなら編集長から解説委員が目標となる。

そのところは国民も承知している。もちろん標題の進次郎君もその評価からは逃げられない。発言を注意しているな、と。そして立派ではなく「巧くなった」と評価する。
とくに発行部数確保と与党確保の誘いは、得てしてそのような姿を感知させることが往々にしてある。
彼らにとっては野に咲く蓮華草では無意味なのだ。「野にして、粗にして、卑ならず」の矜持は負け犬の遠吠えでしかない。それは貪官(むさぼり)の手駒でしか生きる道がない、さもしい、卑しい選良に成り果ててしまう。









きっと青雲の志をいだいている進次郎君も忸怩たる思いで観察している世情なり政治を、どのように我が身の政策や行動に調和させるか、それはまさに「信」の負託を前提として考えるべきだろう。たとえ一過性の流行り対策に一喜一憂する大衆や、深慮なき同僚議員であっても、術数を駆使することなく、「信」を体現し、魅せることだ。

西郷は人をそしることなく、天を相手にする、との意を基とした。
なにも細々とした説明責任もない、落選をおののくこともない、つねに臨機において自らの良心に問いかけることだ。くわえて,その良心を磨くことだ。

それが議員、いや人間として異なることを恐れない自己の座標でもあろう。


イメージは関係サイトより転載

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする