まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

読者の声

2011-01-27 17:34:30 | Weblog

  1989年北京  現在、あの頃の利発な生徒たちが中国を牽引している



孫氏 「教」「養」「育」の講義を聴いて

私は昨年還暦を迎え、現在生れ変わりの一歳半である。人生後半の始動に際し、人生前半を振り返るに、管制学歴を経て経済大国実現の一兵卒として人生の大半を投資した過去の価値について、果たして最良であったのか、官制学歴そのものが有用であったのかと自問しているところである。この自問への解答は孫氏が主張するところの小学の自己学習よりえられるのではないかと薄々感じ取っている。そこで自ら本来の小学を志すにあたりそのよりどころを見出すべく模索中である。具体的な実践としては、家内の嫌う皿洗い、掃除洗濯の押しつけを、押しつけと捉えず小学初歩の入門編として前向きにとらえ、日々これ務めている。


さて、小学探究のよりどころの一つとして私の官制学歴を自己評価すべきだが遠い過去のできことであり、記憶も定かではない。幸いにして私の娘が今年大学生となり子育ても一段落したので、身近な娘の教育遍歴の観察と最近の一般的な教育事情を踏まえて官制学歴を見つめ直してみたい。(我が家庭教育の反省を踏まえ)

娘の大学受験の有様で、驚愕し大いに落胆した点は、受験スタイルが43年前の私の時代と変化がない(進歩がない)ことであった。理系文系の科目選択、大量の暗記物がその象徴である。そもそも人の能力の優劣を理系向き、文系向きなどと選別すること自体が過ちと思われる。]

たとえば私の係わったIT業界では技術職はいわゆる理系卒採用が主流であったが、IT技術の発達進化により近年では美的センス、言語表現力の豊かさも求められている。岡潔は数学上の発見の源は情緒や美を感じる感性に由来していると力説しており、同じく数学者の藤原正彦も日本語教育の重視と情緒の育成が不可欠と論じている。このように、本来文系理系の切り分けは意味をなさない。

最近の受験動向として論文形式の出題がなされつつあるが、依然として大量の情報を効率的に整理記憶する生徒が優位であることに変わりはない。娘が世界史の年表暗記に必死になっている様を見るにつけ、無用で過酷な勉学(学問と呼べるか?)を強いる受験様式に強い反発を禁じ得なかった。確かにある目標に向かって努力を重ねこれを達成する行為は大人への通過儀礼と見做す向きもあるが、同量の努力は他の有用な目的に向けさせるべきではなかろうか。

さらに受験に際し、世界史としての事象の変遷を網羅的に記憶させる必要性は、はたしてなんであろうかと疑問である、過去数万年以前より派生したとされる旧石器時代より始まる日本史を基軸として、日本史と周辺との関連・比較として世界史をとらえるべきではないだろうか。

くわえ疑問であるのが英語力を有する受験生のアドバンテージである。確かに論文による技術の伝達や意思疎通手段として、グローバリゼーションの煽りで英語力確保は必須となりつつあるが、国際人としての評価は寧ろ日本人として日本語を正しく扱い、日本人としての感性、立ち居振る舞いを表象できるところに寄せられると思われる。

ノーベル賞の授賞式で益川敏英氏が、私は英語が喋れないと宣言し、毅然たる態度をもって日本語でスピーチを押し切った。これに触発されたのか、今年の授賞式でも日本語による日本人受賞者の紹介がなされ、ノーベル賞委員会の粋な計らいに感動を覚えた視聴者も多かったのではなかろうか。

近頃小学校への英語教育の浸透が叫ばれつつあるが、どのような背景によってこの動きが生じているのかを見極めなければならない。産学協調路線を主導する経済人による浅薄な要請か、日本語教育を衰退させ国体を衰弱させる深謀遠慮による謀かを。

このような状況認識を踏まえると、官制学歴における大学の選抜方式が旧態依然であり、何ら進歩していないことは明らかである。大学教育の有り様が最善・最良であるならともかく、最近では就活優先と変化しつつもあるようであり、無用な変革を進めつつも、改善すべき事項は保守的である。

一般的には、高校の履修内容は大学での学びの基礎固めの位置づけとして網羅性を要求されており、さらに中学校、小学校へと要請が連鎖している模様である。最近では経済界の要請による経済界向け即戦力育成用もどきのカリキュラムが登場し始めてもいる。現状の教育現場は何かにつけて経済至上主義のモラルハザードにさらされており、本来の小学として必要とされる「教」「養」「育」の涵養がおざなりな状況であると思われる。

科学を発達させ自然を管理可能と優越感に浸る大人の論理で、教育環境を構築し、子供への教育(実体は飼育に近い)を課すことはすべきでない。
教員の評価制度がその一例である。一般企業の人事評価さえ、その公平性には疑問符がつきものである。人事考課を定性的、定量的に把握することは不可能に近く、例えば売上金額といった定量的尺度による偏重した評価でお茶を濁すのがせいぜいである。


最近の新聞記事によると都の教育委員会が教育重点校のノルマとして難関大学の合格者数を都立高校に課したようである。民間企業の競争原理を神聖な教育現場に適用するとは信じがたい暴挙である。これでは、善良なる教員に余計なプレッシャを与え、成果第一主義に陥ることだろう。(成果主義は民間の塾のみで十分である)

赤子、幼児、低学年児童は自然そのものであり、悠久の大自然の摂理に従い、育ちゆく存在である。歪んだ思想・情報に毒された大人が過度な干渉をすべきでないと思う。

認知科学、脳科学による脳の発達のからくり、意識の創生の仕組みなどの研究は堵についたばかりであり、総じて単細胞の一つも作れない科学技術レベルである。哲学思想領域でも人類共通の賛同を得られる見識は提示されていないと思われる。植物が必要最低限で適度な養分を得ながら強靭に育つごとく、子供の育ちを見守るべきではなかろうか。

過度な養分を与えないで、(過保護、過干渉、一時的に認知された常識の強要)、思い込み
の剪定を加えず(時代背景を投影した揺らぐ教育指針)、踏みつぶしたりせず(親、社会のストレスを子供に向けたDV)、子供の育ちを静かに見守るべきと考える。

小学教育再考の拠り所としては、特異な主義主張(国家、経済、外交、歴史認識)を持たず、他国より強要されず、自然環境と融和しながら平穏な日々を過ごしたと伝えられる江戸時代にヒントがありそうである。江戸時代に渡来した欧米人が貧しくとも品格と威厳の風格を備えた庶民の態度に感動し、自然との共生を前提とした暮らしぶりと、落ち着きを持った都市景観に驚嘆したようである。特に子供は明朗快活で輝く瞳が印象的であったとされる。(子供の様子は現在でも同様ではなかろうか。理由は子供が自然な存在であるから)

昨今マスコミで喧伝される「日本に漂う閉塞感」については、私も個人的に主観として、さらに客観として感じ入るところがある。明治維新以降、特に太平洋戦争以後に再度、経済至上主義、拝金主義の暴走列車として驀進した故の金属疲労がおきつつある。そもそも金、物への欲望は際限がないが、この欲望の達成感と幸福感とがリンクすると妄想した結果として、当然ながら失望を味わい始めたところであろう。そもそも年収がいくらあれば幸福を甘受することができ、どれほどの衣食住が満たされれば礼節を弁えることが可能か、数量的に説明できるのか?当然ながら定量的な尺度では評価など不可能であろう。

やはり礼節をもった他者と関わりの中で、他者に生かされている(自然も当然他者に含む)との自覚を持ち、謙虚な姿勢と自己の欲望の適度な抑制のなかで、静まりの中の生き方を目指すべきではなかろうか。

この日本社会全般を覆い始めていると思われる閉塞感は教育分野も例外ではないだろう。
閉塞感と言うより根本的な変革の必要性が高まっていると見るべきかもしれない。
やはり明治以降の明確な国家の主張(経済軍事の欧米レベルへの到達と凌駕)と太平洋戦争以降の与えられた国家指針に基づく教育の有り様への根本的な見直しと再構築が必要である。

日本は地理的な特異性、自然環境(四季、海流、豊富な雨量、多様な植生)、国家形成の由来(世界最古の国家)、万世一系の皇室の継承、特異な言語等を有する稀有な存在である。
従来のように世界基準と評される欧米を絶対視するのではなく、一旦種々の呪縛より解き放たれて、あくまで日本独自の教育スタイルの確立を模索すべきであろう。日本独自であっても、それは将来世界が模倣すべき教育のスタイルとなりえると思う。

なぜなら、世界は相変わらず病んでおり、地理、歴史、宗教、思想、経済や生活レベルの差異にかかわらず、共通して精神面の充足感を満たされていないと思われるからである。
近代化した現代の優越性の妄想より離脱し、江戸以前の時代を見つめ直し、連綿として培われてきた日本人の情緒性を取り戻す努力が今問われている。
                 
  以上
            2010.12.28
山崎裕明
コメント
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