青森県 鶴田の舞橋
苛め イジメ 虐め
女偏のつく漢字は多いが男編は少ない
ちなみにイジメに似ているナブルがあるが、嬲と嫐がある。
昔は男二人が女を挟んで、゛いたぶって゛いたが、今は、女房と娘に挟まれる男が増えた。
なかには、房中(寝室)でイジメ合う睦み事がある。
声を張り上げて嫌だ厭だと云ったと思うと、涙と歓喜に変わるのは視聴覚の学びだが、これもイジメと称すが、イライラと虐げは男女共通の鬱憤発露としてよくあることだ。
それが上手くいかないと子供にアタリ、登校拒否になったりもする。男は部下にアタリいじいじして酒で紛らすものもいる。
十七条の「和を以て貴しとなす」は、それ以前の隣国の房中の要にある「夫婦相和し、拒ばまざるを以てむねとする」を拝借したのではないかと古人が言っていた。
つまり、調和は「素直に拒まない」ことからなのだろうが、イジメる人間の鬱積は夫婦でさえ、色・食・財の三欲のコントロールができなくなっているからだろうが、それを認知する自分の能力、相手の理解度、社会の位置、などの「分(ぶん)」が解らなくなっている。
教育現場の事件や事故には子供どうしのイジメが絡んでいることが多いが、どうも教育機関という 昔は治外法権のような、はたまた聖職者といわれた教師がいたころとは現場が変わってきている。
教師は教員と呼称が変わり労働者とも自認している。用務員さんは校務員になった。昭和三十年ころの団塊と言われている世代はひとクラス40人以上、土曜はハンドンといわれた午前中のみだが 授業はあった。 女教師は少なかった。授業参観も着飾った父母はすくなく、普段着の母親が多かった。生徒は着たきりで一週間とおす子供も多かった。もちろん受験なども小学校は数えるほどしかなく、高校進学率も今ほどではない。身なりもジャージーだが、筆者の頃の上級生は学生服に帽子、ズックの掛けカバンは登下校は姿勢が歪まないように左右を変えた。
学校現場の環境が改善され整うと、教師が教員となり労働条件が変化するとともに、数値成果による学校の経営評価や生徒の進学率を競うようにもなった。外注の全国模試による競争は教員の評価として表れ、とくに私立高校はその数値評価を上げるために血眼になった。余談になるが、あの田中角栄さんが教員の待遇を他の公務員と比べて上げ、教科書も無償にした。
今時は使用人たる文部省の下げ降し教育カリキュラムと課題について、なんら問題意識もなく汲々として答えを数値として出すことに勤しんでいる。くわえ、手厚い補助金などで教育が商業ベースに乗り、教員の待遇が改善され、しかも補完的二次産業となった塾の乱立は、いかに教育が利益を図れる簡便な産業になったかの証左だ。
今更ながらの考察だが、標記のイジメが高低の差が大きくなったエントロピー曲線の底部を表わしていることに、国の行政だけでなく、就学児童を扶養している家族の一過性の期間経験は世間の無関心などが相まって、常に繰り返しの問題として社会に停留している。体験は活かされない問題になっているのだ。
しかも、受益者である子供の動向や社会的推移などお構いなしに、課題そのものの設定すら疑問を持たず、数値に依って人間を判定することを何ら不思議におもわない教員が増えている。問題意識がなければ探求や学びも無くなるのは当然のことだ。
岩木
摸倣ストレスなのか、大人同士の職場のイジメも甚だしい。多くは無視が多いという。
いっとき、その職域を狙って消費者金融が動いた。自衛隊や警察官、看護婦も狙われた。なにしろ安定給与で担保は公務員共済や自宅がある。つまり普通の客より担保があり優雅で世間知らずだからだ。とくに公立の小中学校の教員はそのターゲットだった。
しかも、職場では相談もできず、判っていても声すら掛けない非人情もある。
それらの職域からは数多の相談が筆者にあった。多くは女房にも内緒のことだ。
顕著な例だが、それらの職域は問題の把握と解決能力に乏しい。つまり課題に従順な解答を求められているためか、浮俗の諸問題に感応しないことが多い。 また、不思議と親が教員なら子も教員になるケースが多く、その点は医者や警察官も同様だ。
昔は論理が先行し、赤い旗を振って権力を忌み嫌っていたが、こと己に向かう問題について、例えば校内暴力、非行などについては、知恵を出し、協働して解決することなく、先ずは110番で、彼らが抗した警察の権力にすがるようだ。高潔な建学の精神や校訓を掲げている私立でさえ、自己解決力も乏しくなり、゛何でも警察゛と、まるで掃き溜めのように子供に対して警察権力を利用するようになった。 是非はともかく、昔は敷地内では治外権力として威を振り回していた教員だったはずだが・・・
台北
当初は尋常と冠を付けた小学校も、「常を尋ねる」という、平常心すら習慣化されなくなった。
平常心とは教科書(知識)を学ぶ前に、慌てず、むやみに競わず、騒がず、など連帯の調和に必須な精神を肉体に浸透させる(習慣性)をつける、社会性の端緒を小学校で修得べき成長過程と考えていたことだ。助け合い、正邪の判別、長幼の礼儀なども習慣性だ。
それが無くなり、そのまま中学校に送り込まれたら、中学校の教職員も堪ったものではない。
だから落ちこぼれも、登校拒否も、非行も発生するのだ。おおくは数値選別機関のコンベアーの規格にハマらないために排除されるからだ。加えて画一化した課題の答えしか目に入らない教育労働者と上司の、彼らなりの苦痛や煩悶となって徒労感のある職場となっているようだ。もちろんモンスターと蔑視される和製PTAの一群もそれに加担している。みずから聖職を棄て、教育労働者として闘争を繰り返し、管理職を吊るし上げたころの元気さはない。また待遇確保や賃上げの熱情を教化できたらと思うが、そんな教科書は無い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/26/3298704482fa02d52e0546fa6b1ae716.jpg)
地方自治の教育は、郷の特徴を付加した郷学のようなものでなくてはならないと考える。
しかし、中央集権統治の効率的教育方針は、その付加を逸脱として見るきらいがある。
それは、つねに教育価値とか効果とかいわれる人間の数値選別を、唯一の有効性ととらえ、安易簡便に、知った、覚えた、類の記誦学を教育の要として、社会の有効なる個々の人間の特徴さえ、平準化の流れに埋没させている。
これでは官制学校の教員は試験監督に動員されるアルバイトでも間に合うようなもので、有名高校ですら大学受験のための大型塾の様相になってきている。
「記誦の学は学にあらず」と云われてきたが、ますますその傾向は烈しくなっている。
韓国もそうだが、中国はコネや優遇に加えて学位による身分制度のごとく、かつ親族内で一人が官位が上がれば九族(親族)に繁栄するという歴史上の科挙現代版とした狂騒に陥っている。それは「一官九族に繁栄する」といった、親族が公位に就けば関係者は繁栄するという実利だからだ。ここには孔子や孟子のある仁や義などはなく、銅臭紛々とした金の臭いだ。
そして発生するのは排除もしくは無視だ。「仲良く」などというものは無意味なものだからだ。どんな手を使っても競争から勝ち残り、教員に賄賂を使っても学位を手にすれば財を招く手段はある。たがら、たとえイジメがあっても就学期間だけで、社会に出れば取り戻せるのだ。
イジメは排除といわれるが、茫洋としてつかみどころのない現実の憂慮は鬱積として堆積している。そして、無くならない。
政治に当てはめれば、独裁強圧には面従腹背がある。政策には対策がある。
ここでは虐めを批判したり抵抗しても無理がある。彼らはそれが一過性で、死ぬまで耐える事ではないと鷹揚さがある。
ならば、いじめに対して柔和に避けたり、逃げられなければ同化して馴染むこともある。
イジメは現存する。しかし虐めではなくても、そう感ずることもあればストレス被害者となる。
北京1989
教育とは負荷に弱らないことと、我が身に発する欲望に誘引される精神のコントロール、そしてイジメに挫(くじ)けない強靭な精神を作ることなのだ。
社会には排除、圧力はつねにある。組織や人間もそれによって知恵もつき強くなる。ただし経済的事情もあるが離脱の自由もある。しかし制度となり履修しなければ受け入れない社会も考えものだ。またそれに括り、情緒すら変容させる学び舎にさも当然のごとく順応を強いる風潮もある。
己の存在を識ることが学びとするなら、置かれている環境の是非の戸惑いと矛盾こそ学びの端緒となることであり、環境批判にこだわる事なく、負けない強い人間を自身の力でつくるべきだ。隣国では、人の社会には生きている間はイジメも排除もある。だから他からの恩恵もある社会では非難する前に、「負けない強さ」を得る、それが学びと考えている。
流行りに乗る大衆の群れは意識もなく、そのものが個々に負荷環境を作ることがある。
その加害は意識もなく世俗の成功価値として人々は昂進している。
また、長い人生、禍福は転換し、罪の評価さえ置く処を変える。
稚拙ながら一方の切り口として、時節の備忘記とする。