まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

側近が語る吾が師 安岡正篤

2008-02-14 15:15:10 | 郷学

郷学研修所内 金鶏神社の社稷祭



平成19年の先生を偲ぶ会ではお元気な姿で杯を傾けていました。帰りの車中、「酒好きなものだからよく失敗して先生には失礼なことをした」と。
そういえば先生は「○○と酔っ払いがいる」と側近のことを呟いていたと、縁者の話。以下はたってのご懇請により講演していただいた貴重な記録である


平成5年8月了日 於(財)成人教学研修所
安岡正篤先生と老荘思想(下)「師と友」より
元全国師友協会事務局長
 山 口 勝 朗


《『浮生有情集』の編集と無常観》

 ・・・先生は外からきた手紙などは用が済めば屑篭行きです。詩や歌にしても作りっぱなしでした。よく旅行中など、汽車や飛行機の中で、いつの間にか詩や歌を作られる。ホテルに着くと、絵葉書を買って来なさいと言われる。買ってきますと、その季節の絵ハガキに機中で作られた詩を書いて親しい人に送られました。漢詩を即座に作るということは私どもにはとても出来ません。

ところが、その時に作られた詩は作りっぱなしなのです。
 昭和三十四年、先生の六十歳の還暦に、全難学院以来のお弟子たちが集まって、先生の還暦の記念に詩集を作りましょうと申し出たところ、先生は、詩歌は余技だからと固辞されたのですが、一同強ってのお願いで作ることになりました。ところが、先生は自作の詩を手許に保存していないのです。それで『師と友』に広告して、全国の同人から先生から頂いた漢詩や歌句を集めまして、特集を作りました。それが『浮生有情集』です。

この題なども老荘的ですね。先生は、真理の世界、無限の道の世界に入るためには、無常観、即ち世界は変化窮りない浮世である、束の間の世界であり、そういうことを知らねばならぬ。官位でも金でも物でも、そんなものは死ぬ時には持って行けぬものであると『金剛経』の中に書いてある。

世間は無常なものである。浮世であるということをしっかり知らなければ、真理の世界に入る資格はない。だから人物たらんとする第一の関門は、この世が常なきものである。ということを知ることである。

無常観を知ることが入道の第一関門であるということをしばしば言っておられます。この考え方も、やはり老荘に通じると思います。窮極に行けば、老荘も儒教も仏教も一致、共通するものかと思います。

 最近『活字』一編、二編が再刊されました。第一編に「木鶏」「木猫」「包丁」の話がありましたが、あの話はすばらしいてすね。あの中の木描の話の解説など全く儒・仏・道の一致ですね。あれなど読むと、日本人は儒も仏も道も一本にする名人ですから、その当時の剣客の中にも、こんなすばらLい哲学をもった人がおったのかと感心します。

その中で先生は、儒・仏・道一致の世界を自得すると言っておられます。自得というのは中庸の中のことばで本来儒教の言葉です。自得するとは、文字やことばで言い表せないものである。だから禅では以心伝心と言うし、教外別伝と呼んだと、これは仏教ですね。それを見性する、天から授かった本性を認識する、自覚する、これは見性。そういう自覚とか以心伝心とか見性とかいう言葉を使って、儒・仏・老荘のひとつになった世界を自在に説いておられる、実に貴重な文章だと思います。
 
それから『浮生有情集』の原稿が集まりましたとき、先生は、自分の気に入らないものは後世に残したくないということで、かなり削られました。これは安岡先生の男の美学とでも言うべきでしょう。作りっ放しであっても、いざ本にする時は、心に叶わないものは皆切り捨てられました。

 
《人相見の話》

 こういったことで、待や歌でも作りっ放しなんてすが、先生はまあ「僕は帽子から洋服から靴まで、頭のてっぺんから足の先まで皆貰い物だよ」とよく仰っていました。これに関連した話ですが、先生が小さい時、人柄を見る坊さんがおられて、先生のお宅に立ち寄られた。その時、ご雨親が「この子の人相はどうですか」と聞かれた。するとその坊さんが「いや、この子の将来は何も心配ないよ、この子は大きくなっても狐や狸が食わしてくれる」と。お父さんが心配されて、それはどういうことかと聞かれると、「この子は大きくなっても、何にもならんで、皆から尊敬されるだろう」と答えたそうです。

その通りになられたのですね。先生もよく言っておられましたが、小さい時は、ご飯どきなど、家の人が呼びに行くと、どこか近所の家に連れて行かれて夕飯をご馳走になっているということがたびたびあったと。大きくなられても、人々から尊敬され、何の官職にもつかず、頭の先から足の先まで皆さんが用意してくれて不自由を感じない人になられたわけです。

 戦時中でも先生は代用食など食べられた事がなかった。
全国に散らばっている農土学校出身の方が米や野草などすべて送ってくれるのです。千葉県の田舎に疎開しておられた牧野仲顕拍爵が食べ物に困っていると聞かれて、梶川さんというお弟子さんに食糧を届けさせたということも聞いておます。これも先生の人徳でしょう。

 《農士学校設立の精神》 

農士学校で想い出しましたが、先生は、日本の国は狭いと言っても全国土の17、8%の農地かある。そこを立派に耕せば、日本人全体が食えるくらいのものは作れる。そのためには、志を持った立派な農民の指導者が大切だということで農上学校を作られた。満蒙開拓といって、原他人を立ち退かせて、開拓をするなどということには賛成されなかった。自給自足の精神、オータルキーというのが先生の国策や農業に対する基本原則ではなかったかとおもいます。
 

《事務所も車も借りもの》
 
戦後の師友会の事務所も、はじめは神田淡路町のある法律事務所の一室を借りて発足しています。29年私が入ったきは、常盤橋の世界経済館という木造二階建ての古い建物の一角でしたが、これは三菱化成の昔の社屋だった。
二階が講堂になっていて、そこで講義も行われたわけです。
師友会専有の事務所というのは無かった。三菱化成さんの厚意で無料で借りられたのです。
それが改築されるというときには、久保田鉄工さんが最初に東京に出て来られたときに使った茅塙町に日鍛ビルという古い建物でしたが、そこを暫くタダで借りておりました。

それから今度は美土代町の明徳会館の一室を借りる。そして最後に新宿の山形相互銀行の一室を借りて事務所とし、そこで解散時までおったわけです。このように師友会の事務所もすべて維持会員の会社が提供してくれる事務所にた
だで住んで、先生の車も銀行とか会社が提供して下さった車と使わせてもらったわけです。無手勝流と言うか、事務所はない、車はない、着たきり雀というが、着る物から、住むところから、車から全部同人がお世話してくれたわけです。
 

《縁を大切にされる》

毎年の中央大会も日本工業倶楽部でやりましたが、いつも聴衆で一杯なのです。あすこは補助椅子を便っても八百人位しか入りませんが、先生に他に移りましょうかと進言しましても、先生は絶対に許されない。
経団連会館など随分立派なものが出来ましたが、先生は、『われわれはずっと日本工業クラブを借りてきた、長年の情誼から言っても、便利な立派な所が出来たからと言って、移ることはよくない』と言って許されず、一貫して日本工業クラブでやってきました。

 大会や講演会あるいは照心講座にしても、一度も新聞広告などをしたことはありません。照心講座などは『師と友』の同人便りの欄だけで予告してきたのです。 

先生のお墓にしても、自然石の小さな墓でそれも安岡家之墓ということで、安岡正篤之墓というのは無いのです。これも先生の生前からのお考えによっております。
 金難学院もそうでして、院長は酒井忠正伯で、先生は学監という肩書でした。あれは安岡先生の学院だ、事業だと皆思っておりますが、院長は酒井公だったのであります。

 国維会、これは近衛さん始め朝野の名士が多く加入し、新聞にも国維白面の青年が牛耳っておると報道されましたが、事実内実はそうでありまして、いろいろ有力な政治家もおりましたが、解散した時などは先生の一存で解散しております。そして、先生は国維会の何の役職にも就いておられませんてした。

 《右翼とは一線を画す》

大正十年前後、先生は猶存社で、北一輝・大川周明・満川亀太郎その他いろいろな人と活動されたことがありますが、これらの人だちと袂を分かったいきさつについて、次のように言われたことがありました。『この人たちは、学問もあるし、頭もよく、天下囚家を論ずれば第一級の人達であったが、ただ中には私生活に異常な人があった。酒乱の人もおるし、お金にルーズな人もおる、或いは女癖の悪い人もおる。そういう性格的に異常なところのある人々が揃って天下を取って、このような人々が揃って廟堂に立ったら、どのような内閣ができるであろうと思ったら、肌に粟を生じた。私はこの人々と飽くまでも行をともにすることはできない。与に共に行くべからず、と挟を分かった』  「与」組する
やはり人間を作ることが根本だと信じて金難学院を作ったのだと仰っていました。

 いかに良い政策、すぐれた理論を持っておっても、その人の性格そのものがまともでなければ、これは指導者としては落第である。これは先生の根本的な考え方であったと思うのであります

以下次号につづく

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秘録 孫文が犬養毅に宛てた手紙

2008-02-05 22:04:11 | Weblog
「大同」を求めて
(日本外交への啓示)

原文訳.佐藤慎一郎先生 63.4.21 寄稿 
構成 郷学研修会

孫文から犬養毅に宛てた手紙
(大正12年、この手紙は、山田純三郎が、犬養家へ持参したもの)

山田はこの原文写しを佐藤に託すときこう言っている

『私が孫さんを訪ねて犬養さんが入閣したことを知らせた。亡命中には頭山さんや犬養さんに援けられ、その無条件な援助にみた日本人と一緒にアジアの共通な意志を成し、そして遂げるには、まず日本人が先頭に立って抑圧されたアジアの人民の代弁者になって欲しいということだ。

またその精神もった信頼する日本人が多くいることを知っていたし期待も懸けていた。これはシナ一国でなくアジアのために日本は絶好の機会を逃しているという痛切な意思を犬養さんに託したものだ。三日三晩寝ずに考え、慶玲(妻)さんが何度も書き直したものだ。孫さんが終生日本に期待を懸けていた心が痛いほど滲み出ている。

 革命は後になって評価は色々出てくるが、これが事実だ。それがあっての革命だ。なにも好き好ん赤露に向かったんではない。日本が余りにも理解無く、追いやったのだ。これは孫さんの意志、いやアジアの意志として日本が指導的立場にならなくては、日本そのものが危うくなるという憂慮を犬養さんに伝えているんだ・・・

この手紙を託されたとき、孫さんは日本および日本人にアジアの将来を託したんだ
「山田君!宜しく頼むよ」と、今までに無い強い口調だった』

http://greendoor2.exblog.jp/

http://sunasia.exblog.jp/7292498/


【本文】

  木堂(犬養の号)先生、 山田君(訳注、山田純三郎)が来ての話では、先生がこの度入閣されたことは、私たちが達成することのできなかった願望を助成し、それによって東亜百年の問題を解決することに、非常に役立つことでしょうと、言っています。
これを聞いて、狂喜しました。

 早く書信をしたためて、色々と御相談申し上げたいと思っていたのでしたが、広東の軍事がまだ解決しないので、それを果すことが、できませんでした。
現在、曹錕が位を盗んだため、国を挙げて憤慨しており、西南では、すでにその罪状を宣言して討伐しており、四川、湖南、広東三省の軍隊および雲南、広西の同志各軍を大挙して北伐させ、同時に張作霖、段祺瑞、慮永祥と連絡して協力合作して国賊を破ろうとしています。
 
ただし、曹錕が敢えて天下の奇忌誹を犯してまで公然と位を奪っているのは、それより先に、強国があって、その後盾をしている者が居ればこそ、そのように、するようになったものであると思われます。
 
考えて見ますと、列強の伝統的政策としては、中国が治まって強くなることを厭わないため、しばしば革命に反対する挙に出ているのです。

この度のわれわれの行動も、列強のさまざまな阻害を受くることは、疑いの無いところでしょう。
 貴国の対支行動も、従来は専ら列強の鼻息を仰いで、中国及びアジア洲の各民
族を失望させていることは、非常な失策でありました。

この度先生が入閣されましたので、必ずや列強追随の政策をやめ、新な旗印を樹ててアジア洲の各民族が渇望している気持ちを慰めて頂けることだろうと思います。


訳注、以下の『』内の文章は、犬養さんに出した本文にはないが、 孫文が書いた原文には、有る文章である。参考のために訳しておく。

 『もし、そのようになるならば、日本はその増加する人口を容れる拓殖の地が無いということなどは、心配する必要などないでしょう。

 私は、南洋の島々および南アジアの各国では、必ずや日本をその救い主として歓迎するようになるだろう事を知っています。ネパールとブータンニ国が英国の統治を受けること、百有余年になりますが、依然として中国に対して、藩と称して貢物を送っている事を御覧下さい。これは民族の同じ人情というものは、政治的な勢力よりも強いものだという事を意味しているのです』

 もし日本がアジア民族を扶けることを志として、武力的な欧洲帝国主義の動きに追随することを止めるならば、アジア民族は、日本を敬慕し、崇敬しないということは、ないでしょう。

 欧洲大戦以来(19 14~18)、世界の大勢は、すでにその為めに一変しました。
強盛な英国、カナダの如きは、戦勝の餘威をもってしても、なお譲歩してアイルランドの自由を許し、エジプトの独立を許し、印度の開放を容れざるを得ませんでした。

その理由とは、何でしょう。それはつまり、欧洲大戦後に一種の新しい世界的勢力が発生したからです。この勢力は何であるかと言えば、それは虐げられた一部の人類が、みな大いに目醒め、方々で起ち上って強権に対して抵抗していることを言うのです。

 このような人類は、アジアに一番多いのです。したがって、アジア民族もまたこの世界の潮流を感知して、必ず起ち上って、欧洲の強権に抵抗することでしょう。今日のトルコは、その先導である。ペルシャ、アフガニスタンは、その後継者であり、更にそれに続くものは、印度、マラヤでしょう。

 このほか更に最も大きく、最も重要で、列強の競争に関すること最も撒しいのは、支那四億の人々です。だから、列強の中には、その初めには、之を独占しようとした者が有ったのでしたが、他の強国に阻まれて、ついには支那分割を謀る者が現われるようになったのです。図らずも、たまたま日本が東亜の海の果てで起ち上ったため、その分割の謀も遂行することが、できませんでした。

 この時には、支那四億の人々とアジア各民族は、日本をアジアの救い主であると見なさない者は、無かったのです。

 思いがけなくも、日本には遠大な志と高尚な政策がなく、ただ武力的な欧洲の侵掠的手段を知るだけで、遂には朝鮮を併呑する挙に出て、アジア全域の人心を失うようになったのは、誠に惜しむべきことであります。

 古人は「その心を得る者は、その民を得、その民を得る者は、その国を得る」
と言っています。

もし日本がロシアに戦勝した後、よくこの古人の言葉を教訓としていたならば、今日のアジア各国は、みな日本を頼りとしたはずです。英国は今日、アイルランドに自由を許し、エジプトに独立を許しているのは、つまり、そのような意味があるのです。

 もし日本が翻然として悟り、英国がアイルランドを遇したように、朝鮮を遇して、その失敗を補う方策をとったならば、アジアの人心は、なお収拾することができるでしょうが、さもなければ、アジアの人心は、必らずや、みな赤露に向って行くことでしょう。これは断じて、日本の幸福ではありません。
 
あの赤露というのは、欧洲の虐げられている人民の救い主であり、しかも強権者にとっての大敵であります。それで列強の政府は出兵してロシアを攻撃しているのですが、各国の人民はその政府に反攻しているのです。それで英仏米などの国々は、みな、その人民の内こう(言へんに工)のために、ロシア討伐の兵を撤収せざるをえなくなったのです。

 今日アジアの人民が圧制を受けていることは、欧洲の人民に比べて、もっと酷いのです。
それでその救いを望んでいることもまた、一層切実なのです。アジアには弱い者を救い、傾いている者を扶けようと、義によって言論を主張する国はないのです。
だからして、赤露に望みをかけざるを得ないのです。

 ペルシャ、トルコ(注、原稿では、アフガニスタンとなっているが、犬養宛には、トルコとなっている)は、すでにその望みを達成しました。支那、印度も、これに頼ろうとしています。
 
私は、日本がよくよく考えて、之に善処し、幸いにも重ね重ねの誤りを繰り返さぬよう深く望むものであります。

 そもそも欧洲戦争の初めにあたって、日本は小さい信義を盲信して、遠大な計画には暗く、遂に一躍して世界の盟主となる機会を失い、世界に再び戦争をする禍根を残しました。日本の志士たちの中には、今に至って回顧して、なお痛恨嘆息している者がおるのです。

 先生は、或はまだ霊南坂での半日の談話を思い起して頂けることでしょう。
先生は、昔、その志を行うことができないというので、大隈内閣に入閣することを拒まれました。 ところが今回、先生はついに入閣されました。それは多分、その志を行うことができると思われたからでしょう。だから先生のために長々と、お話申し上げ、深くつっこんでお話申し上げることを禁じえなかったのです。

 そもそも将来の世界戦争は、言う者の多くは、必ず黄色人種と白色人種との戦争であるとか、あるいは欧洲とアジアとの戦争であるとか言っていますが、私は敢えて、それは違う。それは必ず公理(訳注、多数の人々に公認される正しい道理)と強権との戦争であろうと断ずるものです。
 
しかも強権を排斥するものは、もとよりアジアの虐げられている人民が多いのですが、欧洲の虐げられている人民もまた少くはないのです。だから虐げられている人民は、まさに虐げられている人民と連合して、横暴な者を排除すべきです。 

ところで欧洲ではソ連だけが虐げられている者の中堅であり、英仏は横暴者の主流ですが、アジアでは、インド、中国が虐げられている者の中堅です。そして横暴者の主流も同じく英仏です。米国は横暴者の同盟か、あるいは中立ですが、被抑圧者の友人でないことだけは、断言できます。

(訳注、犬養に出す前の孫文の草稿では、次のようになっている。
『このようにすると欧洲に於ては、ロシア、ドイツが虐げられている者の中堅であり、英仏及び米国は、或は横暴者の主流ということになりましょう。アジアに於ては、印度、支那が虐げられている者の中堅で、横暴者の主流はまた同じく英仏及び米国であり、或は横暴者の同盟者となるか、或は中立の立場をとって、必ずしも虐げられている者の友人とはならないことは、断言することができます。』)

 ただ日本は、まだ未知数の立場にあり、虐げられている者の友となるか、それとも虐げられている者の敵となるかは、私は先生の志が山本内閣に於て行うことができるか否かによって、定まることと思います。

 もし先生が、その志を行うことが、できるならば、日本は必ず被抑圧者の友となることでしょう。もしそうなれば将来の世界の大戦争に対して、準備しなければなりません。では、準備の道は如何ということを、先生のために、之を述べさせて頂きます。

《 その一》、

日本政府は、この際、毅然決然として、支那革命の成功を助けて、対内的には統一できるようにし、対外的には独立することができるようにし、一挙にして列強の束縛を打破させるべきです。これによってこそ、日支親善は期待すべく、東亜の平和は永く保てるのです。
 さもなければ列強は、必ずや色々の手段を施して、支那を以て日本を制し、必ず日支親善は永久に期待することが、できないようにさせ、しかしかも日本経済は、必ずや再び発展することが難しくなることでしょう。

 欧洲列強は、大戦以来すでにその帝国主義を東亜に推行する実力はなくなりました。然しながらその経済基盤が支那にあるものは、すでに非常に強固なものとなっています。それでその最も心配なことは、吾が党の革命の成功は、彼らに不利をもたらすことを恐れていることです。
 
列強の深謀遠慮は実に日本を目標にしており(注、原稿、つまり、犬養に出す
前の孫文の草稿では、『列強の深謀遠慮は、まことに日本よりも上手であります』
となっている)、だから常に色々な名目を作り出して、日本が彼らと一致した行動をとって、支那に対せざるを得ないように、させているのです。

日本の支那における関係は、その利害は、まさしく列強とは相反していることを知らないのです。
凡そ対支政策で列強に有利なものは、必ず日本に害があるのです。

ところが、日本が事ごとに、みな列強の主張に従わざるを得ないのは、当初は、孤立していて、しかも力が敵対することができないので、いささかも敢て頭角をあらわして、列強と対抗して譲らないという態度は、とれなかったのですが、それが習慣となって、あたかも当り前の事だと思うようになったのです。

 今や時が移り、情勢がかわったのに、なお計画を変えることを知らないばかりか、一層酷くなっており、事ごとに列強の相棒をかついでおります。支那の志士たちが、日本を痛恨すること、列強に対するよりも、ひどいのは、そうゆう理由なのです。

 今回幸いにして先生が入閣なされました。必ずや日本の過去の失策と列強に盲従する主張を一掃し、之を清算されるに違いありませんが、その最も重要なことは、支那の革命事業に対することです。支那の革命は、欧洲列強の最も嫌うところです。

思うに支那革命が一旦成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータンなどの国々、インド、アフガニスタン、アラブ、マラヤなどの民族が必ず中国の後に続き、欧洲を離れて独立するからです

(訳注、孫文の草稿では『思うに支那革命が一旦成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータン等の諸国は必ずや、もとのように中国の藩屏として附属することを願うことでしょう。しかも印度、アフガニスタン、アラブ、マラヤなどの諸民族は、必ず支那の後塵を歩み、欧洲を離れて独立するようになるでしょう』)

 このようなことになると、欧洲の帝国主義と経済侵略は、必ず失敗するように、なるでしょう。だから支那革命は、実に欧洲帝国主義にとっては、死刑宣告の前ぶれであります。したがって列強政府が、支那革命に反対するのに、あらゆる方法を用いる所以のものは、ここに在るのです。

 ところが日本政府は、この事を察することなく、之に引きづられて、反対しているのは、自殺と何ら異なるところがないのです。
 もともと日本の明治維新は、実に支那革命の前因であり、支那革命は実に日本の明治維新の後果であり、この二者は、もともと一貫したものなのです。それによって東亜の復興を図ったならば、その利害は相同しことなのです。その密接なことは、もともと、そのような状態にあるのです。

 日本はどうして、中国革命に対して、欧洲の武力主義をとり、わが国を嫌い、わが国を害するのでしょう。
(訳注、孫文の草稿では、『日本は、どうして、欧洲に追随し、わが国を嫌い、わが国を害するのでしょう』)

日本の国家万年、有道の長期の基本計画のために、もし支那に革命の発生がなかったならば、日本は提唱して、これを誘導すべきであることは、ロシアが今日ペルシャ、印度に対しているようなものです。

先生が昔、宮崎(泗天)に命じて、わが党と連絡させたものと、まさにそれでありましょう。支那革命がすでに発動したのですから、日本はその全国の力を傾けて之を助成し、それによって支那を救い、自らをも救うべきことなのです。それはあだかも、百年前、英国がスペイン(訳注、孫文の草稿ではイスパニアとなっている)を助け、また近くは米国がパナマを助けたようなものです。 それなのに、日本政府は、支那革命に対してこの十二年来、すべて反対行動に出で、反対が失敗すれば、中立を守っているのだと偽装して自らを飾りたてています。

 従来、徹底的に白覚して、毅然決然として、支那革命を助け、日本を東亜に立国するものとして雄図を計ったことは、未だかってあったことはありません。これはすべて先生が従来政府に志を得なかったからのことでした。

いま先生は、自ら政府の一員となりました。私は切望、深望せざるを得ないのです。これは独り支那のための計略なのではなくして、日本のための計略でもあるのです。

 
《その二》

日本は真先にロシア政府を承認し、ただちに之を実行すべきです。絶対に、列強と一戦した歩調をとっては、いけません。
 列強が、ロシア政府を承認しないのは、利害が衝突しているからです。フランスは、国債の償還がないから、ロシア政府が、これを負担して、返済すれば、承認すると要求しています。英国は、インド問題が解決されないので、必ずロシア政府に、その領土を保証させようとしているのです。それは、あたかも最後の日英同盟のようなもので、そのあとで、之を承認しようとしているのです。米国も債権関係、つまりフランスの債権の多くは米国に転嫁されています。ロシアは、国債負担を廃除しています。米国も大いに損失を受けているのです。それで、英仏と一致した行動をとっているのです。

 顧みれば、日本はどうでしょう。このような状態なのに、なおも競って列強と一致した歩調をとるのは、その愚かさには、まことに、どうにもならぬものがあります。
 欧洲の諸々の小国は、どうでしょうロシアと関係のないものは、やはり、英仏と行動を同じくするものはあるが、ロシアと関係のあるものは、ことごとく、まずロシアを承認しています。

しかも日本とロシアとは、固より最大の関係があるのです。初めは誤って列強と一致した行動をとって、出兵しましたが、後には、自覚して単独でロシア代表と数回の会議を開いたのでしたが、思いがけなくも、承認問題では、なおも各国と同一行動をとり、感情的には融和することができなくなり、ついには色々な話し合いのさまたげとなり、満足な結果を得ることができなかったのは、まことに惜しいことでした。

 日本とロシアは、すでに密切な隣国関係があるのだし、そしてまた列強のように、権利の損失はないのです。ところが対露外交がなお敢えて列強の範囲を抜け切れないのは、これは欧洲の一小国と比べてみても、及ばないのです。

 どうして日本には人物がおらずして、このような状態にまで、たち至ったのでしょう。

 或は、日本の立国の根本は、ソビエト主義とは同じでない。だから敢えて承認することは、できないのだと言いますが、これは真に見識の狭い議論です。そもそもソビエト主義なるものは、つまり孔子のいわゆる「大同」なのです。

 孔子は
 「大いなる道が行われていた頃には、天下を公となし、私するようなことは、なかった。

賢い者を選び、有能な人を用い、人々は互いに信じあい、親しみあっていた。

自分の親だけを親としたり、自分の子だけを子として区別するようなことは、なかった。

老人は安らかに生涯を終えることができ、若者には十分活動する場所があった。幼い者はすくすくと成長することができたし、老いて妻なく、また夫のない者も、幼い時から父がなかったり、年老いて子のない者も、不具廃疾の者も、みなそれぞれに生活していくことができた。
 
男には、分に応じた職業はあるし、女にはいずれも配偶者があった。財貨は地に棄てられて粗末にするようなことはしないが、必ずしも自分のためにだけ力を用いるような事もなかった。力を十分に出せないことは申訳ないが、必ずしも自分のためだけ力を用いるような事もなかった。

 したがって、策謀する必要もなければ、泥棒や乱賊などの横行する余地もなかった。だからして表通りの戸閉りをしておく必要とてなかった。このような社会を大同という。」
 と言っています。

 ロシア立国の主義は、これほどのものでしかないのです。なんで怖るべきことが、ありましょう。まして日本は孔子を尊んでいる国です。これに対して、まず歓迎の意を表して、列国を導いてやってこそ、始めて東方文明国たる資格を失わないのです。もし列強が承認してから、その後で日本が始めて之に追随して承認しなくては、ならぬようになったならば、親善の良機はすでに失われてしまうことになるでしょう。これはいわゆる

  「渕の為めに魚を駆いやり、草むらの中に雀を追いやる」(訳注、孟子の言葉)
 ようなものです。

 日本を排斥しようとする強国が、ロシアをそのさきがけとして利用することになれば、独り日本が危いだけでなく、東亜もまた、それにつれて平和な日が無いようになるでしょう。そうなれば、公理と強権との戦いは、もしかしたら、ついには日本では、黄色人種と白色人種との戦争と変化するように、なるかも知れないのです。

 是非とも知っておかなくては、ならないことは、欧洲大戦後は世界の大勢は一変したばかりでなしに、人心の思想もまたその為めに一変したのです。日本の外交方針も必らずこれに順応して改変してこそ、はじめて世界に於ける地位をよく保存することができるでしょう。さもなければ、必ずドイツの仕損じたことを、また踏むことになるでしょう。

 試みにごらん下さい。ホノルルの軍事配置、シンガポールの設備を。これらは、誰を目標としているのでしょうか。
 事態はすでに此処まで来ているのです。日本がなおもロシアを興国としないならば、ゆくゆくは必ず水陸両面の央撃を受けるだけでしょう。英米の海軍は、すでに日本より強いこと数倍です。しかもロシアの陸軍は今日に於いては、実に天下に冠たりということを、知らないわけには、いかないのです。

 孤立している日本が、海陸の強い隣国に当ったとして、どうしてよく僥幸を期待することが、できるでしょうか。だから親露は、日本自存の一つの道なのです。

 以上二つの策は、実に日本が国威を発揚し、世界を左右する遠大な計画であリ、興廃存亡のかかわるところなのです。これは日本が欧洲大戦の初め、すでにその赴く所を誤り、世界の盟主となる良機を失ったのです。一度誤っているのに、何うして二度も誤ることが許されるでしょうか。

 ただ先生が詳細にお考え下さってヽ速やかに対処されるようお願い申しあげるのみ
です。                                
         
民国十二年十一月十六日   広州にて
          (訳注、大正十二年)




武力を背景にした当時の日本と、財貨を背景にした現在の日本。東洋の一員として、世界の強国として日本の経国に重大なる警鐘を鳴らしているかのような孫文の一声は、私達、次代を継ぐ者に、゛人物とは゛゛国とは゛゛外交とは゛を痛切に啓示するものです。(筆者考)
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台湾に国維はあるか

2008-02-04 11:41:27 | Weblog

以前、記したものだが、台湾政局が混沌としている中、総統選挙が施行されている。民進党の候補者である謝氏は対立候補国民党の馬氏の米国永住権取得について攻撃している。日本人には理解できないが、彼の民族はもともと砂民ともいわれ、国家観、国家帰属意識、あるいは孫文が危惧し、終始唱えた公民意識への連帯が希薄なのである。

あるいは観点を変えれば、彼らのグランドが出来つつある世界の動きでもある。
国家や伝統、はたまた情緒など、もともと無意味で野暮でセンチメンタルな感情であると切り捨てられるグローバルといったグランドである。

大陸、共産党の幹部の子弟も米国永住権なり銀行口座なりを西欧諸国に分散し、縁戚を異国に置いているのである。

自由と民主の恣意的宣伝によって社会は連帯を希薄にさせ、国家の在り様までもオボロゲニしている。一衣帯水の台湾は懐かしくもその思いは残像として日本人の想像の内にある。しかし、人間と空気が変化したのである。

つまり、色、食、財の同化。とくに財の意識と欲求の類似性は台湾、大陸とも同様な糜爛状態の様相で、カオスとよんでもよいくらいヒートアップしている。

国力などというものとは異質のモノを追いかける姿に成り下がっている。

はたして、日本人はこれをどのように見るか。
鼎の軽重を試されるときだろう。


以下は台湾事情を見る上での参考として再読を請うものです。 

【アジアの黎明と日本人】

「国おもえば国賊」とは孫文の側近として革命に挺身した山田純三郎の伸吟でもあった。
日華どちらに与するものでもなく、終始孫文の経綸にいうアジアの安寧を願いながらも、日本人としての矜持を備えた山田にして日華合い争う愚を複雑な境地で語っている。

それは何のための維新であり、日清日露と続いた戦役だったのか。
朝野の日本人が付き従い、アジア復興の端緒として求めた辛亥革命から、その後の泥沼のような日華戦、背後にひそむ西欧のアジア政策、とくに国際コミンテルンの謀略に赤子のように順ずる姿は、日華の争いが過去数百年アジアを蹂躙したヨーロッパ諸国の残影を再び呼び起こすのではないかとの危惧があった。

たとえ復興(独立、自治権回復)しても、彼らの巧妙な民族遊離策により、つねに同民族、ひいてはアジアが合い争う愚を避けなければならないと考えていた。
そのために、日華双方の当事者を熟知している山田の考えでは、まず日本がアジア復興の礎となった先人の願いに帰るべきとの考えがあった。

山田は智将秋山真之や外務省の小池張造、満鉄の犬塚信太郎、そして陳其美らと語り合い描いたアジアの復興は辛亥革命によってその端緒になったかにように思えた。
中国の国内革命だけではなく、そこには終始アジアが視野にあり、その先には世界の平和があった。 

今の感覚では到底理解できないような「おせっかい」ともみえる他国の革命の干渉や、暴政や衰堕した政権にあえぐ民衆を援けようとする気概は、明治のごく当たり前にあった日本人の姿であった。

孫文に呼応した明治の昂揚は、少数支配層の両班による戸籍管理によってがんじがらめになって変化の趨勢に乗り切れなかった李氏朝鮮にも及んだ。 日韓双方に存在する「反日」という戦後教育に書き加えられなかったことだが、両班支配層が行った虐政というべき支配に対して、朝鮮国民の怨嗟のありようを認め、あの高宗帝にして、抗しきれない両班支配の患いを国民から引き離す手段として、またそれが苦渋のなか選択された支配権の譲渡「併合」として一部の歴史理解に登場しはじめている。

それは日本及び日本人から、近隣アジアの復興と行く末を案じるような国際人としての普遍な学習でもあり、 いまどきの損得勘定のウラ読みも足元にも及ばないような、他国から見れば風変わりな日本人がアジアの一隅に存在していたということでもある。

逢場作戯

陶淵明の有名な詩に「帰去来の辞」がある。「田園まさに荒なんと・・・」と、怨嗟か苦悩か、それとも義憤か、所在を去る辞である。  
あるいは満州崩壊の朝、いつものように朝礼が始まった。襟章をつけ、「一満一徳云々・・」と唱和していた民衆は、崩壊の一報を聞くと襟章をかなぐり捨て、国民党の青天白日旗をすぐさま掲げ万歳を唱和した。 それは決して満州国施政が問題だったのではなく、空模様を眺めながら傘をさしたのである。 どこに隠していたのか青天白日旗の丈夫な生地だった。尋ねると、日本、満州、中共、国民党、ソ連の五旗を持っているという。そのうち何故青天白日旗だけが丈夫な生地で作っているのかは、張学良率いる東北軍ならいくらか長続きするだろうという意味である。

辞去することのできること、支配者をしたたかに柔軟に受け入れ戯れること、この両者は日本人がよくいわれる、「四角四面」とは異なる生き方とは異質の、人情、財貨を糧とした絶妙なる応答辞令を駆使して地球上至るところに生存し、滅亡なき民族として、まるで支配者の栄枯盛衰と交代を悠々と眺めることの能がある強靭な生命力がある。


国柄にみる経国

アジアの国々は近代になって善し悪しはあったがパートナーが存在していた。
我国も幕末にはフランス、イギリスが、それぞれの勢力にサポーターのような影響力を与えているが、俊英な志士たちの情報収集と、歴史を俯瞰した洞察力によって拙速に収集したお陰なのか、自決権や政体主権が侵されることはなかった。
それは同時期のアジアの状況を考えると驚異的ともいえる国家処世の術であり、四角四面と揶揄される民族が選択した国家目標へ団結力とかたくなまでの明治の実直性であろう。

国の転換期には政治家は模様眺めに衣を換え、知識人は阿諛迎合するものもいれば、人権や言論の自由という題目を駆使して曲学阿世の輩に成り下がるものもいる。
とくに日夜、高邁な理屈を表す知識人に限って抜け道を用意しておくのが常のようだ。

棲み分けられた地域では、国家概念の中での存在としての連帯が薄くなり、政治経済が社会のための利他から、狭い範囲の利に偏重したり、本来目的ではなく副次的な位置にあった知識、技術の類が名利欲求の手段となり、本来、発する感激、感動や感謝充足といった地域固有の情緒にみられる成功価値がいびつになり、嫉妬やいらぬ競争を発生させ、国家や人間の連帯に不可欠な人心を微かにしてしまう。
国家でいえばカオスであり衰亡に観る徴でもある。

政治や経済を歴史経過の運動体として考えるものは、時として「民主主義への転換期であり爛熟」と、高邁にも考察するが、それは祖国に対して自立した意思を保持している多くの人間が、連帯や縁によって織り成すという社会前提を忘れ、錯覚した運動論である。
不特定の人間や培った歴史が表した森羅万象を吾身にとらえる人間が存在してこその連帯であり、矜持を備えたリーダーを発生させる培養土でもある。


よく大陸の成功者は国際化の時代には利口な方法として特殊な分法があるという。
たとえば、蓄えた財は香港、日本、アメリカ、カナダなどの銀行や投資に半分から三分の一を移している。 家族には英語を習わせてその語圏に留学させ、ときには移住して市民権を保持しているものもいる。とくに香港返還前は駆け込み的に子息を移住させている。
いまなお停戦状態にある韓国の資産家も同様と聞く。

困ったことに、その類の連中に限って国家機関、もしくは影響ある位置にバランスよく納まり、さも国家を代表するかのような意見を述べたり、走狗に入る知識人はその権力の正当性を修飾することにその位置を設けている。 
連帯を薄くした国民は狭い範囲の人情を護りつつも利に走り、政治を嘲笑しながら、したたかにも追従する形態を作戯して、しかも習慣化している状態である。
アジアによく見られる国家衰亡の瀬戸際であり、自壊とともに外敵の侵入を容易にする姿である。


天下、公に成る

台湾に政体を移した国民党蒋介石政権も大陸の敗走は国民党の腐敗にあったと考え、今の陳水扁総統同様に黒金(暴力腐敗)勢力との戦いを推し進めていた。 李前総統、蒋経国総統も同様な憂いを抱いて撲滅に向かったが、法律の範疇からみる世界と、陋規にある掟、習慣の矯正はなかなか成果が上がらないようだ。

大陸でも民衆に最も信頼された朱容毅をもって共産党幹部の腐敗を摘発しているが、どうもその部分だけは中台も同様な憂いを抱えているようだ。
あの清朝末期の宮中宦官の腐敗と知識人の堕落は、西欧植民地主義者の侵入を誘引し、その清を成立させた満州人は漢族同化に押され言語まで消滅させられた。
いまでも、中国の疲弊は清の堕落が原因だと言わんばかりに抑圧状態が続いている。

蒋介石は新生活運動と称して清風運動を繰り広げている。 所謂、国維にいう国家の中心に流れる精神の確認と連帯を大衆の道徳順化にあると考え、国維なくしては国家の成立がないという意識をもって内政の基礎的部分の構築に努めている。
「維」は、縛る 保持するとの意はあるが、「国維」は国家に必須のおおもとの道筋や掟であり、綱維で表す建国綱領でもあり、四維にある「礼、義、廉、恥」にいう人間の節度と法治に欠くことができない欲望の自制を、蒋介石は生活運動として督励している。

全体の調和を司る礼、羞悪を是正する義、正直と公平の廉、人畜の異なりを制する恥、を敢えて国家権力の提唱として、かつ本省、内省と分離している民情軋轢の融和のために蒋介石みずから運動の先頭に立っている。 大陸とは異なる経国スローガンとして孫文の唱えた三民主義を綱領に掲げ、発足して間もない政体維持に努めている。

いまの中華民国台湾にとっては歴史のかなたに置き去ろうとしている政治経過ではあるが、
人称、政策呼称はともかく、現在でも必要な呼びかけであることは変りはない。
あえて孫文や蒋介石を懐古して固陋に拘るものではない。しかし、現在の政治状況にいまさら忘却された懐古趣味を投げかけるものと一顧だにしない群盲像を撫す類の寸評は、生真面目で実直な歴史の構成者として、とうてい任を得ない時節の浮浪として憂いの一端に存在するものだ。

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