まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

或る日の稿 【青年よ地方に戻れ】 再

2017-08-25 15:51:31 | Weblog




 糜爛(ビラン)文化の写し絵でありながら中央思考の強い雑薄な人間が集い、情報というガセネタが飛び交う東京を中央と勝手に呼び、その他の地域を身勝手にも地方と錯覚している。
 地方といえば「文化程度が低い」はたまた「インフラ整備が遅れている」だから「食っていけない」などと評価したり、そんな御仁に限って隣国やアジア地域を「遅れている」「後進国」などと呼称している。地図上の呼称である「何々地方」はあるが、都会人が哀愁なのか、それともたまに出かける物見遊山の想い出からか、「地方の文化」などと褒め上げても鼻白む思いがする。

 中央と呼んでいる都会とて,一旗上げようと上京したものや、何代前は鹿児島だとか、北海道だとか、江戸にさかのぼれば三河から連れられてきた職人さんだとか、所詮,寄り集まりの「無い混ぜ文化」でもある。

 そんなところでも居心地がイイのか,功成り名を遂げ、ついでに利を得た政治家がいつまでも中央に滞留している。待てば海路の日よりかな、褒賞狙いもいればパーティの挨拶役など、早く出身地に戻って後進の指導でもすればいいものを,そんなのに限って何年前かの悪事が露呈してお縄になる勲章持ちもいる。地方としても帰ってきて威張られたのではかなわないとばかり,揉み手で床の間に座らせ利権獲得のメッセンジャーに仕立て上げている。

 もともと中央というものが政治の中心とはいっても江戸築城のころは開発地域であり職人飯場のあつまりのようなもので、女性は飯盛り女か遊女。まともなのは?大店の女中か武家の腰元ぐらいで,男も熊さん,八っあんの長屋話のようなもの。約8割近くが独身だったそうで、ときおり嫁話があると「越後屋のお手つき女中をもらった」などと自慢の種になったようだ。立身出世の絵物語ではないが、家柄や出身校という風袋を自慢する昨今とひとつも変わりがない様相であったようだ。











 あの鬼平犯科帖で有名な長谷川平蔵が活躍した前後は、今と同じく若者が集まれば衣類やかんざしといつた装飾品を自慢しあったり、男は何々道場で稽古をしているとか、脇差は誰の銘があるものだとか、今と変わらない浮俗の態であった。余談だが、徒人と称して,罪まではならないが日がなブラブラしている遊び人を石川島に連行して石組みなどの殖産事業を行ったのも平蔵である。

 そんな江戸の庶民ではあるが,しばらく住むと地方出身者を「田舎もん」とか「きたれもん」呼んだりしているが、どうも似たり寄ったりで変わりがない。面白いことに当時の感覚も、北を背にして西を向き,文化は西からといった考えが強かったようだが、大いなる田舎人、まさに「江戸東京人」の面目躍如といったところである。

 維新の薩長とて,先ずは進駐軍の威光もさることながら江戸武家や庶民文化の習得に努め一時の中央風情に浸ったものだ。

 出身地では出目とか家柄があり、なかなか『旅の恥は掻き捨て』といった解放感は無いが、その『掻き捨て場』はいたる所にあるのも煩雑とた中央の特徴でもある。なかにはのっぴきならない事情を抱えて東京に来るものがいるが、ここでは民主とか人権意識がはびこり,虚勢と錯覚によって程いい営みができる重宝な地域でもある。

 ないよりはあったほうが良いと思われるくらいで、なんら人格を表現することのない地位,名誉,学歴、財力は附属性価値として本質とはかけ離れた虚勢の道具立てにはなる。あるいは暴力,詐欺、奢を、勇気や知識、幸福と置きかえる錯覚に安堵するような出稼ぎ根性の一過性価値も、自由と人権と民主の名のもとに゛生き生きと活力を持って゛細菌の如く繁殖している。それらは本物の゛出稼ぎ゛の真摯な労働まで蔑んでいる。

 










もともと国内の文化交流は物質交易や、体制制度としての交替。庶民においては神社仏閣等の講による代参などがあるが、戦国時代などは公家落ち,平家落ちが各地に散り、鎮まりをもって特徴のある地域文化をつくりあげている。

 それは゛落ち゛という境遇に加え情報の集約地域であった京の地域性からくる広い知見や、やもすれば糜爛した中央の諸芸や裏返しの゛はかなさ゛や風雅が、寂寥な心の境地と豊潤な自然とあいまって,より高度な心の゛置き所を゛薫醸している。

 しかも、そのなかでも棲み分けがあり、分別もある狭い範囲の掟(陋規)である地域独特の生活規範をつくりだしている。心底には京への望郷や回帰への願望が強靭な精神の持続をたすけ、また゛落ち゛の遠因となった爛熟,糜爛,堕落を戒めたしきたりを伝統化して回帰と誇りの精神維持に勤めたのです。

 現在はその地方にスポットをあて,中央のシステムや権限を移す動きがあるが、つまるところ、自制の欠如から有り余る陳腐な富と煩雑な情報に息が詰まった中央の自堕落した姿の塗り替えに他ならない。なかには偽の地方もあって権限拡散を利権の拡散として予備段階での受け皿として既成事実を作り上げているものもいる。

 地方的とは地方なりに何を学び何を覚醒するかが問題である。なにもインフラが整備されたから設備を地方に移すとか、ゴミ処理事業に 補助金をつけて自営させることが地方ではない。
















 山が高いから削り,谷が深いから埋める。これは政策ではない。自然の循環をなぞっているだけだ。 故事に『平ならずものを平すれば平ならず』とあるが,平らでないものを平らにすれば不平がでるということだ。能力や特徴の違いがある地方や、あるいは人物をたかだか人間がつくつた評価基準で耳障りのイイ平等観念を振りまかれたのでは、おのずと不平は出る。

 はたして地方のどこがよくて地方と言うのか。地方的なのか地方性なのか、自然なのか人間なのか。どうも判別がつかない流行言葉だが、それとも中央が難儀なので帰りたいのか。そんな婿養子の戯言にも聞こえる。

 よく改革は地方からといわれるがシステムや制度が整っているからではない。簡単に言えば「躾」という習慣学習ができている人間が多くいるからだ。それは中央の集約される情報を価値として迎え入れるだけではなく、情報の中にあるインテリジェンスを選別する習慣学習の基礎となる分別と、自然の循環を栄枯盛衰の習いとして見分けることが可能な゛鎮まりの英知゛があるからだ。

 つまり地方をどうするかより厳存する地域文化から学ぶことがマニュアル化されヒステリックになった飽和国家の応用力ではないだろうか。

 科学的根拠と言う代物に生活スタイルそのものが安易にマニュアル化され、政策頓智すら編み出せない中央の環境。その環境にあるものを「中央」と呼び,地方政治も同様に中央集権の分配ステーションとして各地の功利的デリバリーを呼びみ、法人で言えば現地法人として見られている名目自治体も、体裁はいいがシステムの内情は似たり寄ったりの機構の小型化が大部分である。










 最近,石原都知事も自治の回復を唱えて脚光を浴びているが、足元の実態は生半可な事では覚醒しない。どこでもそうだが公選の弊害か出先首長の腰が落ち着かない。

 こんなことをいうと時代が違うとか現地を見なければ、などと゛なるほど゛という舌ハナシが飛んでくるが、どうも世間の騒情が気になるのか、鎮まりのなかで孤高な精神の涵養が適わないようだ。まるでお茶ッ引きの麗女が入り口のドアを気にする風でもあるが、そんな首長に限って盛大な送別会の宴のあとに悲哀をかこうものだ。

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このようにして君たちを誘う 2011 9 再

2017-08-07 09:41:47 | Weblog








弾も飛ばない、いわんや武力もない。ただ愚かにすればいいだけだ

それには先ず個性を謳い自由を与え、権利を謳い民主を与え、全てを数値に置き換える

そのもっともらしい数値を合理として、教育、経済、政治にあてはめる。

数値に追いかけられ、数値を求め、数値によって人々に優劣に刻印を押す

皆、遅れてはならないと誘いに乗った

我々にとって成功は目の前だ










  いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。


われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

棲み分けられた民族固有の連帯や調和の基礎となる精霊や神々を無意味なものとするには、民衆を数値の評価に囲い、情緒などの精神性を無意味なものとさせ物質の欲望に誘う



思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。


深く考えたりも道徳的価値に照らす暇すらないように、今までの勤労の価値から人々を金銭対価のみのビジネスに没頭させる


 そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。


多くの人間たちは自分の利益にのみ懸命となり、大きな視野を失い浸透する企てに気がつかなくなる


 自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。


文字と言葉を宣伝によって謳い上げた「自由」と「民主」は人々のつながりを分断させ、かつ不安定な政府は社会に混乱を巻き起こす。そのためには賭博性(投機的な株や為替)あるビジネスに誘引する


そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

地下から取り出した鉱物資源、食料はすべて統一された市場の流通を通し、かつ為替や投機の種としてそれらを操作して我々の管理下に置き、交易の差損を操り我々のルールによって収奪する


経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。

宣伝で操られた経済的成功価値への欲求は、つねに競争や嫉妬を招き、とめどもない数値の欲求は人々の連帯を破壊し、社会は混迷して肉親でさえ信じられなくなるような社会にたどりつくだろう  


 そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

終には政治はイベント化して宗教は無意味なものとなり、欲望の制御を亡くした人々は金儲けが生きがいになる


民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。


人々は金を対価としたモノの欲望のとらわれ、数値の多少によってしか成功価値を考えられなくなるだろう 


そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだろう



そのようにして考えもなくし、神への畏敬もなくし、財貨にまい進した愚かな人々は錯覚した成功価値しか見えなくなり、忌わしい嫉妬や羨望を簡単に起して社会はばらばらになり、優しさや尊敬を亡くした人々は、政治リーダーや民族固有の長(おさ)を追放したり、無意味なものとして、ついには我々の奴隷になるだろう

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人物を「見る眼」と「観る直感」の大いなる違い 13 1/11あの頃

2017-08-01 08:17:24 | Weblog

 


よく女房をみても男はわからない。゛連れている女(いろ)をみれば器量も分かる゛と、浮俗ではいう。家庭内の切り廻しをする妻に対しては恐縮だが、でき、不出来のことを指しているのではない。連れ歩く男の、人を視る眼と己の「分」が判っているのかを問うているのだ。

派手好みで行儀が悪く、みだらな欲を亢進する女を連れていては、男の行く末もわかる。よく挨拶もできなく立場もわきまえないような女を公式な場面に連れ回している男がいる。
そんな接待役かマスコット、はたまた己の卑小さを隠すつもりで女に媚をうらせている野暮な男がいるが、そんな男に限って威勢のいい能書きを言うようだ。

そのショーケースのように各党に陳列された選挙候補者にも似たようなことがある。
とくに小選挙区や比例代表、さかのぼれば参議院全国区からその傾向は顕著になっている。それを大衆迎合などという生易しいものではなく、有権者をはなから愚民としてしか見ていないのではないかともおもえる陳列である。料理ならいかにも旨そうに、ブランドならいかにも希少で高価そうに並べるが、バナナのたたき売りではないが、裏も表もどれもこれもバナナには変わらない。

地方自治体にもその姿はある。国政顔負けに与野党があるが、態の良い是々非々論を掲げながらも食い扶持安定についてはオール与党となることもある。国政と違うところは、政策立案は理事者側(首長)にあり、出された予算を意志乏しい議論をするが、本来の仕事である決算チェックすら、その決算書も読み解けない議員も多い。それでいて地域の平均所得の何倍もの高待遇の給与と待遇をうけ、おまけに視察と称して過剰請求をして小遣いをせしめるものもいる。しかも、それを承知で視察予算を設定する官吏もしたたかだ。

それらに人物観や人格を問うのも津々浦々の掟や習慣性の為すものであり、徒労すら覚えるものであるが、それも我が国の民癖とおもえば諦めもつく小人の業だ。だだ、民情の地殻はその状況に耐えきれず破砕しやすくなっていることも昨今の事情だ。

さて、その候補者に戻るが、参議院全国区のころは女優やアナウンサー、落語家,学者など多彩な顔ぶれが並んだが、当時の参議院の員数集めとして著名人立候補が始まった。
あの、佐藤総理夫人の覚えめでたかった文筆家石原新太郎氏もその一人だ。派閥スポンサーだった企業選挙も盛んだった。国民をおろかとみて愚弄したのか、その頃から見栄えのいい候補、ハナシの巧いアナウンサー、毒舌ガス抜き候補など多彩だったが議員の役割は応援演説がもっぱらで、なかには芸能人やスポーツマンを帯同して意味不明な衆遇選挙を繰り広げた。

その後は福祉やスポーツ振興の名のもとにプロレスラー、力士、オリンピック選手など、これまた人寄せパンダと揶揄されるようになった。手綱を握るのは派閥ボスだ。

とくに比例代表制ともなると時の人や有名人が重宝され、その候補者が所属する政党は人気投票のごとく集票し候補者に振り分けられた。振り分けられる方は舞台回しの悪い役者のごとくみられた官僚OBや業界の傀儡候補者いたが、政党にとってはこちらが本命だった。

その後は、修得練度は不明だが横文字学校の経歴か、東大法科、早稲田雄弁会、、そして松下政経塾と変化はしたが、数値評価はともかく政治に肝要な教養や下座観、深層の情緒などを涵養した人物は、まるで枯渇したかのように見かけなくなった。流行りは弁護士と作家、コンサルタントだが、口舌あざやかだか胆力や人望などに資質は求めなくなり、それが高じて議会は騒がしくなり、抗論(はりあって言いあう)が争論となり、党内も荒れた公立中学校の教室のようになっている。長幼の序(順)を知らず、総理でさえ愚か者呼ばわりする行儀の整っていない議員が増え、劇場型といわれるほど見せ場を作ることに労して、大衆もそれを楽しみ喜ぶという現状だ。






弘前こども議会



何のいい訳か、民主主義と議会主義に振り分けて、
≪「議会主義」とは不安定な「民意」を直接政治に反映させない工夫であり、だから両者が時に対立するのは当然≫
だと、大学教授の言を借りて「産経抄」は書いている。

それは、多くの新聞が自民党の圧勝と政権復帰を書いているのに、東京新聞は「脱原発の民意と隔たり」と書いたことへの異端視である。だから東京新聞は書いたのだろう。近ごろの新聞は異なることを恐れないのが意志の姿だということを知らないらしい、いや忘却したのだろう。
どちらの一面が目を引くかは売り紙屋の勝手だ。またどのように書こうと押し売り契約を強要し、洗剤や野球観覧券を餌に最低でも三カ月契約するユーザーからすれば、そうそう新聞屋を替えられない。だだ、書いてあるものを読むだけだが、東京の一面を云々するなら各氏のコピーを載せて読者に閲覧してもらえばいいことだ。

問題とするのは一面の標題活字ではなく、論調とその書き手の意志だ。たかだかと思える部数の少ない東京新聞への慇懃な批判だが、どうも産経抄はちかごろ多面的な観察に自身の生業であり第四権力と称する「界」を含めた実相と人の世との関連性(影響力)の検証が乏しくなっている。
彼らにしても、民意を煽り選挙掲載でしこたま儲けた瓦版の理屈だが、それを以て経済(予算)効率ばかりが取り上げられる議会の、そして議員の現状を将来逆賭なしに、゛お追従゛して、ただ面前の有り様を書き連ねる記者の様相は問題にもならない。
※「逆賭」 将来を先見して、いま行うべきことを考える


しかも、政党の人寄せパンダをとりあげて民意を触発するのも彼らの仕事だ。
視る眼がないからこそ、学者の言を借用して「うろこが落ちた」と平然としているのだ。
一片の言に上げ足をとり、大型活字で大事だと煽り、岡っ引きに行列して事件を貰い、通信社の記事を買って視てきたような記事を書き、官吏の提灯記事を平然と国民に流す、これでは隣国の人民日報を嗤えない。


≪個別の政策を繁栄させるのが民主主義とするならば・・・・≫

ならば、人物、ここでは代議士として不特定多数に有効なのか、視る眼を養うべきだ。
ちなみに、「観人則」は
地位があがったらどのような人物を登用するか
財をもったらどんな使い方をするか
どんな友人をもっているか  
等々、今流の地位、名誉、財力、学校歴と称する人格と何ら関係の無い附属性価値では、国家の用となる人材は得られない

以前、友達内閣と揶揄された時、総理のコバンザメのように総理がインタビューを受ければ肩越しから首を出し、外遊にいけばまるで仲間内の若者のごとく振舞っていた。これが国家百年の要といわれていた文科省では、いまだ講釈、理屈の外形がまかり通るらしい。

まさか、新聞社採用もそうなら自滅は必然だ。
言論人、陸羯南はそんに観人則はもたなかった。だから正岡子規も長谷川如是閑も採用された。大企業となった新聞社ではとくに変わり者は不採用だろう。だだ、羯南の人を観る眼は変わり者を明治の傑物とした。そして彼らもそれに応えた。

新聞社も政治任用も人物を得ることが肝要だ。とくに倣うべき人物がオボロゲニなった今こそ、見せる人より、魅せる人物の任用が必要だと感ずる次第。

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