この時も興奮性過呼吸だった
津軽弘前の哲人 鈴木忠雄氏と孫文の頌徳碑拓本採写
人体を専門学で説明すると、今どきの食肉の譬えのように、゛部位゛の専門説明、つまり研究者による部分の解明や、その関連性として神経経路や臓器、筋肉などの部分の影響が他の各部に影響する医学的な合併症など患いとして発生することもある。
この関連性に痛み、痺れ、麻痺などの自覚症状があると、自身の反応ゆえか、瞬時に予防的自制を行ない、自己愛などという美句さえ意味の無い良質の本能的反応もおきてくる。
これらは他に変わるものが有るわけでもないし、他を傷つけたところで癒されるわけでもない。もっとも同類相哀れむ類はあるだろうが、肉体的衝撃から消滅というう死に至る経過を憂慮することを避けては通れない。
それらを考えると、人の行為と社会へ及ぼす関連性について、よくよくその部位の認識と問題発生の経過を人体に例えて考えれば、正しい現状認識と処置が見えてくるだろう。
つまり自身の身体に置き換えた生活習慣、や侵入ウイルスについてのセキュリテ(免疫)が社会や国家の衰亡の盾として活用できる応用考察になるはずだ。それは、ややもすると陥る部位の探求議論を全体の身体論議に向けることでもあり、逆に地球生命体の部分として国家なり、人間種のあり方をみることにもなるだろう。
これとは別に、日本人の罹りやすい問題に「時間」との関連性がある。
よく「時間を守れない奴は・・」との規範習慣の元に一律な時限行動を苦にしなかった日本人だが、テレビ、交通機関など耳目に表れるテンポを恣意的に、かつ微妙に操作されると順応が追いつかなくなり、俗にパニック状態になり落ち着いた思考が出来なくなる。また適応温度を人為的に操作されると体温調整が出来なくなり循環が衰えてくる。
この合併症は「鬱」という医学症状となり、消化、循環、泌尿が滞り、体温が低下し、毒素が滞留して患いとなり、過敏な精神を刺激するようになる。
ならば、時間を人体適応に合わせ、身体機能によって変化する時間微調整を自身のセキュリティーにしたり、衣食を温もりあるものに変えれば患いは自ずと払拭できる。古人は「そんなときには寝るのに限る」と。
ここに「医者要らず」の喩えがある
酒を温めて鬱を医す (身体を温めて鬱症状を治す)
正座して躁を医す (静かに正しく座って騒がしい心を落ち着ける)
花を観て険を医す (自然に触れて険しい風容を和らげる)
欲を少なくして貧を医す(欲張らなければ貧しいとは思わない)
まだ幾つかありますが、他人の所為にしたり、頼ったり、むやみにマニュアル本を開いたり、医者に通ったりしなくてもね「医者、相談人、要らず」になれるという智恵だ。
以下はコントロールの問題だが、大いに励むことだ。
好きな人と遭ったり、想像の膨らんだ人物や自然に遭遇したりしたとき、胸の鼓動は高まり、眸は潤む。そして脳味噌はフル回転して心は活気づき、外には善で良質な言葉や技芸を発揮する。出来もしなかった事に取り組み、何気ないものに優しい感情を与え、新しい自分を見て、知ってもらいたくなる。
それは、ややもすれば我欲の患いにもなる、地位、名誉、財の価値をより活かし、高めることでもあり、身体も温もりを持ち心も安心する。
そこで些細な慣れや癖が、飽きと離反を起さぬように良質な書と賢明な会話が必要となり、自然に欲してくる。
ただ、そんなときでも繊細な筆者は時折、過呼吸に見舞われる。
対処は二酸化炭素の摂取だという。安岡先生との面談応答も話題はカタイがピースを促され紫煙応答だった。
『私はキンエン?している。毒だ々と吸えば身体に良くない。謹煙、欣煙だ』と
筆者も頭から袋をかぶるわけにもいかず、ひたすら紫煙でケム?に巻く。
原因は不安、緊張、興奮と医学書の手引きにある。
しかし、習慣学習なのか先生の応答から、其の種の方との面談に過呼吸はあまりない。
ともあれ、近頃は臭気のある二酸化炭素が多く、外に出て爽やかな空気を吸いたくなることもある。症状とはいえ筆者の過呼吸は人物にも、ある時は美麗な異性にも、゛ないものネダリ゛のバロメーターのようなものである。
津軽弘前の哲人 鈴木忠雄氏と孫文の頌徳碑拓本採写
人体を専門学で説明すると、今どきの食肉の譬えのように、゛部位゛の専門説明、つまり研究者による部分の解明や、その関連性として神経経路や臓器、筋肉などの部分の影響が他の各部に影響する医学的な合併症など患いとして発生することもある。
この関連性に痛み、痺れ、麻痺などの自覚症状があると、自身の反応ゆえか、瞬時に予防的自制を行ない、自己愛などという美句さえ意味の無い良質の本能的反応もおきてくる。
これらは他に変わるものが有るわけでもないし、他を傷つけたところで癒されるわけでもない。もっとも同類相哀れむ類はあるだろうが、肉体的衝撃から消滅というう死に至る経過を憂慮することを避けては通れない。
それらを考えると、人の行為と社会へ及ぼす関連性について、よくよくその部位の認識と問題発生の経過を人体に例えて考えれば、正しい現状認識と処置が見えてくるだろう。
つまり自身の身体に置き換えた生活習慣、や侵入ウイルスについてのセキュリテ(免疫)が社会や国家の衰亡の盾として活用できる応用考察になるはずだ。それは、ややもすると陥る部位の探求議論を全体の身体論議に向けることでもあり、逆に地球生命体の部分として国家なり、人間種のあり方をみることにもなるだろう。
これとは別に、日本人の罹りやすい問題に「時間」との関連性がある。
よく「時間を守れない奴は・・」との規範習慣の元に一律な時限行動を苦にしなかった日本人だが、テレビ、交通機関など耳目に表れるテンポを恣意的に、かつ微妙に操作されると順応が追いつかなくなり、俗にパニック状態になり落ち着いた思考が出来なくなる。また適応温度を人為的に操作されると体温調整が出来なくなり循環が衰えてくる。
この合併症は「鬱」という医学症状となり、消化、循環、泌尿が滞り、体温が低下し、毒素が滞留して患いとなり、過敏な精神を刺激するようになる。
ならば、時間を人体適応に合わせ、身体機能によって変化する時間微調整を自身のセキュリティーにしたり、衣食を温もりあるものに変えれば患いは自ずと払拭できる。古人は「そんなときには寝るのに限る」と。
ここに「医者要らず」の喩えがある
酒を温めて鬱を医す (身体を温めて鬱症状を治す)
正座して躁を医す (静かに正しく座って騒がしい心を落ち着ける)
花を観て険を医す (自然に触れて険しい風容を和らげる)
欲を少なくして貧を医す(欲張らなければ貧しいとは思わない)
まだ幾つかありますが、他人の所為にしたり、頼ったり、むやみにマニュアル本を開いたり、医者に通ったりしなくてもね「医者、相談人、要らず」になれるという智恵だ。
以下はコントロールの問題だが、大いに励むことだ。
好きな人と遭ったり、想像の膨らんだ人物や自然に遭遇したりしたとき、胸の鼓動は高まり、眸は潤む。そして脳味噌はフル回転して心は活気づき、外には善で良質な言葉や技芸を発揮する。出来もしなかった事に取り組み、何気ないものに優しい感情を与え、新しい自分を見て、知ってもらいたくなる。
それは、ややもすれば我欲の患いにもなる、地位、名誉、財の価値をより活かし、高めることでもあり、身体も温もりを持ち心も安心する。
そこで些細な慣れや癖が、飽きと離反を起さぬように良質な書と賢明な会話が必要となり、自然に欲してくる。
ただ、そんなときでも繊細な筆者は時折、過呼吸に見舞われる。
対処は二酸化炭素の摂取だという。安岡先生との面談応答も話題はカタイがピースを促され紫煙応答だった。
『私はキンエン?している。毒だ々と吸えば身体に良くない。謹煙、欣煙だ』と
筆者も頭から袋をかぶるわけにもいかず、ひたすら紫煙でケム?に巻く。
原因は不安、緊張、興奮と医学書の手引きにある。
しかし、習慣学習なのか先生の応答から、其の種の方との面談に過呼吸はあまりない。
ともあれ、近頃は臭気のある二酸化炭素が多く、外に出て爽やかな空気を吸いたくなることもある。症状とはいえ筆者の過呼吸は人物にも、ある時は美麗な異性にも、゛ないものネダリ゛のバロメーターのようなものである。