まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

過呼吸という症候群の対処法は・・・謹煙

2008-06-29 12:59:16 | Weblog
 この時も興奮性過呼吸だった 

     津軽弘前の哲人 鈴木忠雄氏と孫文の頌徳碑拓本採写

     


人体を専門学で説明すると、今どきの食肉の譬えのように、゛部位゛の専門説明、つまり研究者による部分の解明や、その関連性として神経経路や臓器、筋肉などの部分の影響が他の各部に影響する医学的な合併症など患いとして発生することもある。

この関連性に痛み、痺れ、麻痺などの自覚症状があると、自身の反応ゆえか、瞬時に予防的自制を行ない、自己愛などという美句さえ意味の無い良質の本能的反応もおきてくる。

これらは他に変わるものが有るわけでもないし、他を傷つけたところで癒されるわけでもない。もっとも同類相哀れむ類はあるだろうが、肉体的衝撃から消滅というう死に至る経過を憂慮することを避けては通れない。

それらを考えると、人の行為と社会へ及ぼす関連性について、よくよくその部位の認識と問題発生の経過を人体に例えて考えれば、正しい現状認識と処置が見えてくるだろう。

つまり自身の身体に置き換えた生活習慣、や侵入ウイルスについてのセキュリテ(免疫)が社会や国家の衰亡の盾として活用できる応用考察になるはずだ。それは、ややもすると陥る部位の探求議論を全体の身体論議に向けることでもあり、逆に地球生命体の部分として国家なり、人間種のあり方をみることにもなるだろう。

これとは別に、日本人の罹りやすい問題に「時間」との関連性がある。
よく「時間を守れない奴は・・」との規範習慣の元に一律な時限行動を苦にしなかった日本人だが、テレビ、交通機関など耳目に表れるテンポを恣意的に、かつ微妙に操作されると順応が追いつかなくなり、俗にパニック状態になり落ち着いた思考が出来なくなる。また適応温度を人為的に操作されると体温調整が出来なくなり循環が衰えてくる。

この合併症は「鬱」という医学症状となり、消化、循環、泌尿が滞り、体温が低下し、毒素が滞留して患いとなり、過敏な精神を刺激するようになる。

ならば、時間を人体適応に合わせ、身体機能によって変化する時間微調整を自身のセキュリティーにしたり、衣食を温もりあるものに変えれば患いは自ずと払拭できる。古人は「そんなときには寝るのに限る」と。


ここに「医者要らず」の喩えがある

酒を温めて鬱を医す  (身体を温めて鬱症状を治す)
正座して躁を医す   (静かに正しく座って騒がしい心を落ち着ける)
花を観て険を医す   (自然に触れて険しい風容を和らげる)
欲を少なくして貧を医す(欲張らなければ貧しいとは思わない)

まだ幾つかありますが、他人の所為にしたり、頼ったり、むやみにマニュアル本を開いたり、医者に通ったりしなくてもね「医者、相談人、要らず」になれるという智恵だ。

以下はコントロールの問題だが、大いに励むことだ。
 好きな人と遭ったり、想像の膨らんだ人物や自然に遭遇したりしたとき、胸の鼓動は高まり、眸は潤む。そして脳味噌はフル回転して心は活気づき、外には善で良質な言葉や技芸を発揮する。出来もしなかった事に取り組み、何気ないものに優しい感情を与え、新しい自分を見て、知ってもらいたくなる。

それは、ややもすれば我欲の患いにもなる、地位、名誉、財の価値をより活かし、高めることでもあり、身体も温もりを持ち心も安心する。

そこで些細な慣れや癖が、飽きと離反を起さぬように良質な書と賢明な会話が必要となり、自然に欲してくる。

ただ、そんなときでも繊細な筆者は時折、過呼吸に見舞われる。
対処は二酸化炭素の摂取だという。安岡先生との面談応答も話題はカタイがピースを促され紫煙応答だった。
『私はキンエン?している。毒だ々と吸えば身体に良くない。謹煙、欣煙だ』と
筆者も頭から袋をかぶるわけにもいかず、ひたすら紫煙でケム?に巻く。
原因は不安、緊張、興奮と医学書の手引きにある。
しかし、習慣学習なのか先生の応答から、其の種の方との面談に過呼吸はあまりない。

ともあれ、近頃は臭気のある二酸化炭素が多く、外に出て爽やかな空気を吸いたくなることもある。症状とはいえ筆者の過呼吸は人物にも、ある時は美麗な異性にも、゛ないものネダリ゛のバロメーターのようなものである。

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東條英機 彼も日本人 吾も日本人 (終章)

2008-06-08 21:14:33 | Weblog
ゾルゲ氏

戦争誘引工作に関与?


【キーナン主席検事が,東條との一騎打ちの数ヶ月前、『並み居る被告の中で真実
を述べているのは東條英機ただ一人、真犯人は木戸幸一である』と、本国にいる妻
に手紙を書いている。】

 

〔第二次近衛内閣に於る日米交渉〕

 二十六、 所謂日米了解案(証第1059号と同文)なるものを日本政府が受取つ
たのは1941年4月18日であります。

 此の日以後、政府として之を研究するようになりました。私は無論陸軍大臣として之に関与しました。但し私は職務上軍に関係ある事項につき特に関心を有して居りまして其他のことは首相及外相が取扱われたのであります。

 締結に伴ひその日米国交に及ぼす影響に苦慮せられて居つたのに淵源するのであつて、早く既に1940年末より日米の私人の間に、初めは日本に於て、後には米国に於て、話合が続けられて来て居つた如くでありました。米国に於ける下交渉は日本側は野村大使了解の下に又米国側では大統領国務長官、郵務長官の了解の下に行はれて居つた旨華府駐在の陸軍武官から報道を受けて居りました。

 上記了解案は非公式の私案といふ事になつて居りますが併し大統領も国務長官も之を承知し特に国務長官から、在米日本大使に此案を基礎として交渉を進めて可なりや否やの日本政府の訓令を求められたき旨の意思表示があつた以上我々は之を公式のものと思つて居りました。即ち此の案に対する日本政府の態度の表示を求められた時に日米交渉は開始されたものと認めたのであります。

 二十七、 此案を受けとつた政府は直ちに連絡会議を開きました。連絡会議の空気は此案を見て今迄の問題解決に一の曙光を認め、或る気軽さを感じました。何故かと言へば我国は当時支那事変の長期化に悩まされて居りした。他方米英よりの引続く経済圧迫に苦しんで居つた折柄でありますから、此の交渉で此等の問題の解決の端緒を開きたいと思つたからであります。米国側も我国との国交調整に依り太平洋の平和維持の目的を達することが出来ますからこれに相当熱意をもつものと見て居りました。

米国側に於て当初から藁をも掴む心持ちで之に臨み又時間の猶予を稼ぐために交渉に当るなどといふことは日本では夢想だにもして居らなかつたのであります。連絡会議は爾来数回開会して最後に4月21日に態度の決定を見ました。当時は松岡外相は欧州より帰途大連迄着いて居つてその翌日には着京する予定でありました。

1941年(昭和十六年)4月21日の態度決定の要旨は

一、此の案の成立は三国同盟関係には幾分冷却の感を与へるけれども、之を忍んで此の線で進み速に妥協を図ること

ニ、我国の立場としては次の基準で進むこと即ち
 (イ) 支那事変の迅速解決を図ること
 (ロ) 日本は必要且重要なる物資の供給を受けること
 (ハ) 三国同盟関係には多少の冷却感を与ふることは可なるも明かに信義に反することは避けることといふのであります。

我方では原則論に重きを置かず具体的問題の解決を重視したのであります。それは我方には焦眉の急務たる支那事変解決と自存自給体制の確立といふ問題があるからでありました。

 三国同盟條約との関係の解釈に依つて此の了解案の趣旨と調和を図り得るとの結論に達して居りました。日米交渉を独逸側に知らせるか否か、知らせるとすれば其の程度如何といふことが一つの問題でありましたが、此のことは外務大臣に一任するといふことになりました。以上の趣旨で連絡会議の決意に到達しましたから之に基き此の案を基礎として交渉を進むるに大体異存なき旨を直ちに野村大使に電報をしようといふことになりましたが、此点については外務次官も異存はない、ただ松岡外務大臣が明日帰京するから華盛頓への打電は其時迄保留するといふ申出を為し会議は之を承認して閉会したのでありました。

 二十八、 しかし翌4月22日(1941年昭和十六年)松岡外相が帰つてから此の問題の進行が渋滞するに至つたのであります。松岡外相の帰京の日である4月22日の午後直ちに連絡会議を開いて之を審議しようとしましたが、外相は席上渡欧の報告のみをして上記案の審議には入らず、これは二週間位は考へたいといふことを言ひ出しました。

之が進行の渋滞を来した第一原因であります。外相は又、此の了解案の内容を過早に独逸大使に内報しました。之がやはり此の問題の渋滞と混乱の第二の原因となつたのであります。なほ其他外相は

 (A)回訓に先だち欧州戦争に対する「ステートメント」を出すことを主張し
 (B)又日米中立条約案を提案せん

としました。此等のことのため此の問題に更に混乱を加へたのであります。松岡外相の斯の如き態度を採るには色々の理由があつたと思われます。松岡氏は初めは此の了解案は予て同外相がやつて居つた下工作が発展して此のようになつて来たものであらうと判断して居つたが、間もなく此の案は自分の構想より発生したのもではなく、又一般の外交機関より生れて来たものでもないといふことを覚知するに至りました。それが為松岡氏は此の交渉に不満を懐くようになつて来ました。

又松岡外相は独伊に行き、其の主脳者に接し三国同盟の義務履行について緊切なる感を抱くに至つたことがその言葉の上より観取することが出来ました。なほ松岡外相の持論である、米国に対し厳然たる態度に依つてのみ戦争の危険が避けられるといふ信念がその後の米国の態度に依り益々固くなつたものであると私は観察しました。

 二十九、 斯くて我国よりは漸く1941年(昭和十六年)5月12日に我修正案を提出することが出来ました。(法廷証第1070号)「アメリカ」側は之を我国よりの最初の申出であるといつて居るようでありますが、日本では4月18日のものを最初の案として之に修正を加へたのであります。此の修正案の趣旨について其の主なる点を説明すれば、

 (一)その一つは三国同盟條約の適用と自衛権の解釈問題であります。4月18日案では米国が自衛上欧州戦争に参加した場合に於ては日本は太平洋方面に於て米国の安全を脅威せざることの保障を求めて居ります。然るに5月12日の該修正案では三国同盟條約に因る援助義務は條約の規定に依るとして居るのであります。__

三国同盟の目的の一つは「アメリカ」の欧州戦争参加の防止と及欧州戦争が東亜に波及することを防止するためでありました。

米国はこの條約の死文化を求めたものでありますが、日本としては表面より此の申出を受諾することは出来ませぬ。我方は契約は之を存して必要なることは、條約の條項の解釈に依り処理をしよういふ考へでありました。即ち我方は実質に於て譲歩し協調的態度をとつたのであります。

 (二)二は支那事変関係のことであります。4月18日案では米大統領はその自ら容認する條件を基礎として蒋政権に対し日支交渉を為す勧告をしょう、而して蒋政権が、之に応ぜざれば米国の之に対する援助を中止するといふ事になつて居ります。

我方5月12日案では米国は近衛声明、日華基本條約及日満華の三国共同宣言(法廷証第972号ノH464)の趣旨を米国政府が了承して之に基き重慶に和平勧告を為し、もし之に応ぜざれば米国より蒋政権に対する援助を中止することになつて居ります。尤もこの制約は別約でもよし、又米国高官の保証でもよいとなつて居ります。乃ち米国は蒋政権に対しその日本と協議することを要求するといふことになつて居ります。

 元来支那問題の解決は日本としては焦眉の急であります。此の解決には二つの重点があります。その一つには支那事変自体の解決であります。その二つは新秩序の承認であります。我方の5月12日案では近衛声明、日華基本條約及日満華共同宣言を基本とするのでありますから、当然東亜に於ける新秩序の承認といふことが含まれて居ります。

 撤兵の問題は4月18日案にも含まれて居ることになるのであります。即ち日支間に成立すべき協定に基くといふことになつて居ります。5月12日案も結局は日華基本條約に依るのでありますから趣旨に於て相違はありません。門戸解放のことも4月18日案と5月12日案とは相違しないのであります。4月18日案には支那領土への大量の移民を禁ずるとの條項がありますが、5月12日案は之に触れて居りません。

 三十、 5月12日以降の日米交渉の経過につき私の知る所を陳述いたします。5月12日以降上記の日本案を中心として交渉を継続しました。日本に於ては政府も統帥部もその促進につとめたのでありましたが、次の三点に於て米国と意見の一致を見るに至らなかつたのであります。その一つは中国に於ける日本の駐兵問題、

その二は中国に於ける通商無差別問題、その三は米国の自衛権行使に依る参戦と三国條約との関連問題であります。5月30日に米国からの中間提案(法廷証第1078号)が提出されなど致しましたが、此の問の経緯は今、省略いたします。結局6月21日の米国対案の提出といふことに帰着いたしました。

 三十一、 6月21日と言へば独「ソ」開戦の前日であります。此頃には独ソ戦の開始は蓋然性より進んで可能性のある事実として世界に認められて居りました。

我々はこの事実に因り米国の態度が一変したものと認定したのであります。この6月21日案の内容は証第1092号の通りでありますが、我方は之につき次の四点に注意致しました。

 その一つは米国の6月21日案は独り我方の5月12日修正案に対し相当かけ離れて居るのみならず、4月18日案に比するも米国側の互譲の態度は認められません。

米国は米国の立場を固守し非友誼的であるといふことが観取せられます。その二つは三国條約の解釈については米国が対独戦争に参加した場合の三国同盟条約上の我方の対独援助義務につき制限を加へた上に廣汎なる拘束を意味する公文の交換を要求して来ました。(証第1078号中に在り)

その三は従前の案で南西太平洋地域に関して
規定せられて居つた通商無差別主義を太平洋の全体に適用することを求めて来たことであります。その四は移民問題の條項の削除であります。4月18日案にも5月12日案にも米国並に南西太平洋地域に対する日本移民は他国と平等且無差別の原則の下に好意的考慮が与へられるであらうとの條項がありました。

6月21日のこの重要なる條項を削除して来ました。6月21日の米提案には口頭の覚書(オーラル・ステートメント)といふものが他と合わせて附いて居ります(証第1091号)。

その中に日本の有力なる地位に在る指導者はナチ独逸並その世界征服の政策を支持する者ありとして暗に外相の不信任を表現する辞句がありました。

之は日本の関係者には内政干渉にあらざるやとの印象を与へました。以上の次第で日米交渉は暗礁に乗り上げたのであります。

 三十二、 しかも、此の時代に次の四つのことが起りました。

一、6月22日独ソ戦争が開始したこと

ニ、「フランス」政府と了解の下に日本の行つた南部仏印への進駐を原因として米国の態度が変化したこと

三、7月25日及26日に米、英、蘭の我在外資金凍結に依る経済封鎖

四、松岡外務大臣の態度を原因としたる第二次近衛内閣の総辞職

 以上の内一及二の原因に依り米国の態度は硬化し、それ以後の日米交渉は仏印問題を中心として行はるるようになりました。四の内閣変更の措置は我方は如何にしても日米交渉を継続したいとの念願で、内閣を更迭してまでも、その成立を望んだのでありまして、我方では国の死活に関する問題として此の交渉の成立に対する努力は緩めませんでした。前記の如く内閣を更迭しその後に於ても努力を続けたのであります。



次回は一稿「ヒラリー・クリントン」おいて巣鴨プリズンでの東條氏の「遺言書」を掲載します。
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東條英機 彼も日本人 吾も日本人 その3

2008-06-08 07:29:31 | Weblog
               国民党 蒋介石総統


 〔日華基本條約と日満華共同宣言〕

十七、 第二近衛内閣に於て1940年(昭和十五年)11月30日、日華基本條約を締結し、日満華共同宣言を発するに至りました事実を述べ、これが検察側の主張するような対支侵略戦争行為でなかつた事を証明致します。これは1940年(昭和十五年)11月13日の御前会議で決定せられた「支那事変処理要綱」基くのであります(弁護側文書第2813号)。

何故に此時にかかる要綱を決定する必要があつたかと申しますに、これより先、従前の政府も統帥部も支那事変の解決に全力を尽して居りました。1940年(昭和十五年)3月には南京に新国民政府の遷都を見ました。これを承認しこれとの間に基本條約を締結するために前内閣時代より阿部信行大使は已に支那に出発し、南京に滞在して居りましたが、南京との基本條約を締結する前に

今一度重慶を含んだ全面平和の手を打つて見るを適当と認めました。又当時既に支那事変も3年に亘り国防力の消耗が甚だしからんとし、又米英の経済圧迫が益々強くなつて来て居るから我国は国力の弾撥性を回復する必要が痛感せられました。この支那事変処理要綱の骨子は
 
(一)昭和十五年(1940年)11月末を目途として重慶政府に対する和平工作を促進する
 
(ニ)上記不成立の場合に於ては長期持久の態勢に転位し帝国国防の弾撥性を回復
するといふのでありました。

十八、 上記要綱(一)の対重慶和平工作は従来各種の方面、色々の人々に依つて試みられて居つたのでありますが、此時これを松岡外相の手、一本に纏めて遂行したのでありましたが、この工作は遂に成功せず、遂に南京政府との間に基本條約を締結するに至つたのであります(証第464号、英文記録5318頁)。

この條約は松岡外相指導の下に阿部信行大使と汪兆銘氏との間に隔意なき談合の上に出来たものであつて彼の1938年(昭和十三年)12月22日の近衛声明(証第972号ノH、英文記録9527頁)の主旨を我方より進んで約束したものであります。又同日日満華共同宣言(証第464号英文記録5322頁)に依つて日満華の関係を明らかににしました。なほ基本條約及上記宣言の外に附属の秘密協約、秘密協定並に阿部大使と汪委員長との間の交換公文が交換されて居ります。(証第465号英文記録5327以下)

十九、 上記の1940年(昭和十五年)11月30日の日華基本條約並日華共同宣言、秘密協約、秘密協定、交換公文を通じて陸軍大臣として私の関心を持つた点が三つあります。一は條約等の実行と支那に於ける事実上の戦争状態の確認、二は日本の撤兵、三は駐兵問題であります。

 第一の條約の完全なる実行は政府も統帥部も亦出先の軍も総て同感で一日も早く條約の実行を為すべきことを希望して居つたのであります。然るに我方の真摯なる努力にも拘らず蒋介石氏は少しも反省せず米英の支援に依り戦闘を続行し事実上の戦争行為が進行しつつありました。占拠地の治安のためにも、軍自身の安全のためにも、在留民の生命財産の保護のためにも、亦新政府自体の発展のためにも、條約の実行と共に此の事実上の戦争状態を確認し、交戦の場合に必要な諸法則を準用するの必要がありました。

これが基本條約附属議定書中第一に現在戦闘行為が継続する時代に於ては作戦に伴ふ特殊の状態の成立すること又、之に伴ふ必要なる手段を採るの必要が承認さられた所以であります。(法廷証第464号英文写4頁)

 第二の日本軍の撤兵については統帥部に於ても支那事変が解決すれば原則として一部を除いて全面撤兵には異存がなたつたのであります。我国の国防力の回復のためにも其の必要がありました。然し撤兵には二つの要件があります。

その中の一つといふのは日支の間の平和解決に依り戦争が終了するといふことであります。

その二つは故障なく撤兵するために後方の治安が確立するといふことであります。撤兵を実行するには技術上約2年はかかるのでありまして、後方の治安が悪くては撤兵実行が不能になります。これが附属議定書第三條に中国政府は此期間治安の確立を保障すべき旨の規定を必要とした所以であります。(法廷証第464号、英文写頁4頁)

 第三の駐兵とは所謂「防共駐兵」が主であります。「防共駐兵」とは日支事変の重要なる原因の一つであるところの共産主義の破壊行為に対し日支両国が協同して、之を防衛せんとするものでありまして、事変中共産党の勢力が拡大したのに鑑み、日本軍の駐兵が是非必要と考へられました。之は基本條約第三條及交換公文にもその規定があります。(法廷証第464号、第465号)

 そして所要の期間駐兵するといふことであつて必要がなくなれば撤兵するものであります。

 以上は私が陸軍大臣として此條約に関係を持つた重なる事柄でありまして此の條約は従前の国際間の戦争終結の場合に見るような領土の併合とか戦費の賠償とかいふことはありません。これは特に御留意を乞ひたき点であります。ただ附属議定書

第四條
には支那側の義務と日本側の義務とを相互的の関係に置き支那側の作戦に依つて日本在留民が蒙つた損害は中国側で賠償し中国側の難民は日本側で救助するといふ約束をしました。(基本條約一條、七條、法廷証第464号)

 而して治外法権の放棄及租界の返還等中国の国権の完備のために我国が約束した事柄は1943年(昭和十八年)春迄の間に逐次実行せられました。なほ1943年(昭和十八年)の日華同盟條約法廷証第466号に於て上記基本條約に於て日本が権利として保留した駐兵其他の権利は全部放棄してしまひました。


 〔日「ソ」中立條約並に松岡外相の渡欧〕

二十、 次に日「ソ」中立條約に関し陸軍大臣として私の関係したことを申上げます。1941年(昭和十六年)春、松岡外相渡欧といふ問題が起りました。1941年(昭和十六年)2月3日の連絡会議で『対独伊「ソ」交渉案要綱』(弁護側文書第2811号)なるものを決定しました。此の決定は松岡外相が渡欧直前に提案したものでありまして、言はば外相渡欧の腹案であつて正式の訓令ではありません。

 此の「ソ」連との交渉は「ソ」連をして三国同盟側に同調せしめこれによつて対
「ソ」静謐を保持し又、我国の国際的地位を高めることが重点であります。かくすることによつて

  (イ) 対米国交調整にも資し
  (ロ) ソ連の援蒋行為を停止せしめ、支那事変を解決する

といふ二つの目的を達せんとしたのであります。

二十一、 上記要綱の審議に当つて問題となつた主たる点は四つあつたと記憶致します。その一つは「ソ」連をして三国側に同調せしむることが可能であらうかといふことであります。此点については既に独「ソ」間に不可侵條約が締結されて居り予て内容の提示してあつた「リツペンドロツプ」腹案(此本文は法廷証第2735号中に在り)なるものにも独逸も「ソ」連を三国條約に同調せしむることを希望して居り、「スターマー」氏よりもその説明があつた次第であり、「ソ」連をして三国に同調せしめ得ることが十分の可能性ありとの説明でありました。

 その二は我国の「ソ」連との同調に対し独逸はどんな肝をもつて居るであらうかといふことでありました。此点については独逸自身既に「対」ソ不可侵條約を結んで居る。

 加之、現に独逸は対英作戦をやつて居る。それ故当時の我国の判断としては独逸は我国が「ソ」連と友好関係を結ぶことを希望して居るであらうと思いました。かくて「ソ」連をして日独に同調せしめ、進んで対英作戦に参加せしむるとの希望を抱くであらうとの見通しでありました。

 その三は日「ソ」同調の目的を達するためには我国はある程度の犠牲を払つても此の目的を達して行きたい。然らば日本として払うことあるべき犠牲の種類と限度如何といふ問題でありました。そこで犠牲とすべきものとしては日「ソ」漁業條約上の権利並に北樺太の油田に関する権利を還付するといふ肝を決めたのであります。

尤も対独伊「ソ」交渉案要綱には先づ樺太を買受けるの申出を為すといふ事項がありますが之は交渉の段階として先づ此の申出をすることより始めるといふ意味であります。北樺太の油田のことは海軍にも大いなる関係がありますから無論その意見を取入れたのであります。

 その四は外相の性格上もし統帥に関する事項で我国の責任又は負担となるようなことを言はれては非常な手違いとなりますから、参謀総長、軍令部総長はこの点を非常に心配されました。そして特にそのことのないやうに注意を払ひ、要綱中の五の柱にも特に「我国の欧州戦参加に関する企図行動並に武力行使につき帝国の自主性を拘束する如き約束は行はざるものとす」との明文まで入れたのであります。

 二十二、 此の要綱中で問題となるのはその三及四でありますが、これは決して世界の分割を為したり、或は制覇を為すといふ意味ではありません。唯、国際的に隣保互助の精神で自給自足を為すの範囲を予定するといふの意味に外なりません。

 二十三、 当時日本側で外相渡欧の腹案として協議したことは以上の通りでありますが、当法廷で検察側より独逸から押収した文書であるとして提出せられたもの殊に「オツト」大使の電報(法廷証第567乃号至第569号)並に「ヒトラー」総統及「リツペントロツプ」松岡外相との会談録(証第577号乃第583号)に記載してあることは上記腹案に甚しく相違して居ります。
 松岡外相帰朝後の連絡会議並に内閣への報告内容も之とは絶対に背馳して居ります。

 二十四、 松岡外相が渡欧したときは当時日本として考へて居つたことと異なり独逸と「ソ」連との間は非常に緊張して居り「ソ」連を三国と同盟せしめるといふことは不可能となりました。又、独逸は日本と「ソ」連とが中立條約を結ぶことを歓迎せぬ状態となつたのであります。従つてその斡旋はありません。即ち此点については我国の考へと独逸のそれとは背馳するに至りました。結局4月13日松岡外相の帰途「ソ」連との間に中立條約は締結いたしましたが(証第45号)その外に此の松岡外相渡欧より生じた実質的の外交上の利益は何もなかつたのであります。詳しく言へば



  (1) 松岡外相の渡欧は独伊に対しては全く儀礼的のものであつて、何も政治的の効果はありませんでした。要綱中の単独不講和といふことは話にも出て居りません。
  (2) 統帥に関することは初めより松岡に禁じたことでもあり、又「シンガポール」攻撃其他之に類する事項は報告中にもありません。
  (3) 又、検察官のいふ如き1941年(昭和十六年)2月上旬日独の間に軍事的協議をしたといふことも事実ではありません。

 二十五、 日「ソ」中立條約は以上の状況の下に於て締結せられたものでありまして、その後の我国の国策には大きな影響をもつものではありません。又日本の南方政策とは何の関係もありません。この中立條約があるがため我国の「ソ」連に備へた北方の兵備を軽くする効果もありませんでした。乍然、我国は終始此の中立條約の條項は厳重に尊守し、その後の内閣も屡々此の中立條約を守る旨の言質を与へ独逸側の要求がありましても「ソ」連側に対し事を構へることは一度も致しませんでした。ただ、「ソ」連側に於ては中立條約有効期間中我国の領土を獲得する條件を以て対日戦に参加する約束をなし、現に中立條約有効期間中日本を攻撃したのであります。

次号へつづく

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東條英機 彼も日本人 吾も日本人   その2

2008-06-07 10:02:18 | Weblog
           ベンガルの子供新聞発刊式

ベンガル新聞の発行者シャーカー氏はいう
『独立後三十数年祖国は変わらなかった。最貧国といわれそれを売り物にして邪な政治家や商売人は援助国の利権屋と結託して、日本人の尊い税金をポケットに入れていた。そんなODAは却って国を貧しくする。今までのようなODAは日陰で苦しんでいる日本人の方々に有効に使ってもらいたい。ベンガルと日本との関係はアジア全体の一部分として考えるべきだ・・・

また日本の方々にもベンガルの心を知って欲しい・・・そのために先ずは立派な子供を育てなくてはならない。正しい問題意識と希望を抱けるような心を育てなければならない』

筆者は思う、シャーカーさんのようなアジアに対する熱情と祖国愛は、きっとインド独立の英雄スバス・チャンドラ・ボースのように、鬼気迫る熱情で東條英機氏に訴えたのだろう。日印将兵が闘ったインドへの道、今以って現地で語り継がれる東條氏への賞賛と感謝の姿は、いつ日本人に届くのだろうか。

「・・女神は秤の均衡を保ち、賞罰の置くところ(評価の逆転)を変えるであろう・・」ベンガル出身のラダ・ビノード・パル(東京裁判判事)の言葉が妙に響く。


 〔三国同盟〕

十、 以下日独伊三国同盟締結に至る迄の経緯にして私の承知する限りを陳述致します。上記條約締結に至る迄の外交交渉は専ら松岡外務大臣の手に依つて行われたのであります。自分は単に陸軍大臣として之に参与致しました。国策としての決定は前に述べました第二次近衛内閣の二大国策に関係するのであります。

即ち「基本国策要綱」に在る国防及外交の重心を支那事変の完遂に置き建設的にして弾力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録6273頁)及「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」の第四項、独伊との政治的結束を強化すとの項目に該当致します(英文録11795頁)。独伊との結束強化の真意は本供述書九項目中(A)として述べた通りであります。

 この提携の問題は第二次近衛内閣成立前後より内面的に雑談的に話が続いて居りました。
第二次近衛内閣成立後「ハイリツヒ、スターマー」氏の来朝を契機として、此の問題が具体化するに至りましたが之に付ては反対の論もあつたのであります。吉田海軍大臣は病気の故を以て辞職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。9月4日に総理大臣官邸で四相会議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日独伊枢軸強化に関する件が予めの打合わせもなく突如議題として提案せられました。

 それは三国間に欧羅巴及亜細亜に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に関する最善の方法に関し短時間内に協議を行ひ且つ之を発表するといふのでありました。上記会合は之に同意を与へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に会見して居ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして1940年(昭和十五年)9月19日の連合会議及御前会議となつたのであります。

「茲で申上げますが検事提出の証拠中1940年(昭和十五年)9月16日枢密院会議及御前会議に関する書類が見られますが(法廷証第551号)同日に斯の如き会議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同日8月1日の四相会議なるものも私は記憶しませぬ」

 1940年(昭和十五年)9月19日の連絡会議では同月4日の四相会議の合意を認めました。此の会議で私の記憶に残つて居ることは四つであります。

 其の一は三国の関係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同声明の形式に依るかの点でありますが、松岡外相は共同声明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。

 其の二は独伊との関係が米国との国交に及ぼす影響如何であります。此点に付ては松岡外相は独逸は米国の参戦を希望して居らぬ。独逸は日米衝突を回避することを望み之に協力を与へんと希望して居るとの説明でありました。

 三は若し米国が参戦した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの点でありますが、松岡外相は米国には独伊系の国民の勢力も相当存在し与論に或る程度影響与ふることが出来る。従つて米国の参戦の場合には我国の援助義務発動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を与へました。

 四は「ソ」連との同調には自信ありやとの点でありますが、松岡外相は此点は独逸も希望して居り、極力援助を与ふるとのこともありまして、参会者も亦皆松岡外相の説明を了としました。

 上記会議後同日午後三時頃より御前会議が開かれました。同日の御前会議も亦連絡会議の決議を承知しました。此の御前会議の席上、原枢府議長より「米国は日本を独伊側に加入せしめざるため可なり圧迫を手控へて居るが、日本が独伊と同盟を締結し其態度が明白とならば対日圧迫を強化し、日本の支那事変遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、之に対し松岡外相は「今や米国の対日感情は極度に悪化して居つて単なる御機嫌とりでは恢復するものではない。

只、我方の毅然たる態度のみが戦争を避けることを得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三国同盟條約案を作り閣議を経て之を枢密院の議に附ることとしたのであります。

十一、 此の條約締結に関する枢密院の会議は1940年(昭和十五年)9月26日午前10時に審査委員会を開き同日午後9時40分に天皇陛下臨席の下に本会議を開いたのであります。(法廷証第552号、同553号)枢密院審議委員会の出席者は首相、外相、陸相、海相、蔵相だけであります。同本会議には小林商相、安井内の外全閣僚出席しました。星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは単に説明者でありまして、審議に関する責任はありませぬ。

責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚ほここで申上げますが、そもそも枢密院の会議録は速記法に依るのではなくして同会議陪席の書記官が説明要旨を摘録するにすぎませんから、説明答弁の趣旨は此の会議録と全く合致するといふことは保証できません。此の会議の場合に於ても左様でありました。

 此の会議中私は陸軍大臣として対米開戦の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。これは「最悪の場合」と云ふ仮定の質問に対し我国統帥部が平時より年度作戦計画の一部として考えて居つた対米作戦計画に基いて説明したものであります。

斯る計画は統帥部が其の責任に於て独自の考に依り立てて居るものでありまして国家が対米開戦の決意を為したりや否やとは無関係のものであります。統帥部とし
ては将来の事態を仮想して平時より之を為すものであつて孰れの国に於ても斯る計画を持つて居りますことは某顧問官より「ソ」連との同調に関し質問があつたのに対し松岡外相より條約案第五條及交換文書を挙げ独逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の労をとるべきことを説明しました。以上枢密院会議の決定を経て翌27日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥発せられましたことは法廷証第43号及び第554号の通りであります。

十二、 上記の如く三国同盟條約締結の経過に因て明かなる如く上記同盟締結の目的は之に依て日本国の国際的地位を向上せしめ以て支那事変の解決に資し、併せて欧州戦の東亜に波及することを防止せんとするにありました。

 三国同盟の議がすすめられたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世界を制覇するとか云ふことは夢にも考えられて居りませんでした。唯、「持てる国」の制覇に対抗し此の世界情勢に処して我国が生きて行く為の防衛的手段として此の同盟を考へました。大東亜の新秩序と云ふのも之は関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、其後の我国と東亜各国との條約に於ても何れも領土及主権の尊重を規定して居ります。

又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他国を隷属関係に置くと云ふ意味ではありません。之は近衛総理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釈であります。


 〔北部仏印進駐〕

十三、 1940年(昭和十五年)9月末に行はれたる日本軍隊の北部仏印進駐については私は陸軍大臣として統帥部と共に之に干与しました。日本の南方政策は引きつづき行はれたる米英側の経済圧迫に依り余儀なくせられたものであつて、其の大綱は同年7月27日の「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」(法廷証第1310号)に定められてあります。この南方政策は二つの性格を有して居ります。

その一は支那事変解決のため米英と重慶との提携を分断すること、その二は日本の自給自足の経済体制を確立することであります。ともに日本の自存と自衛の最高措置として発展したものであつて、而もこれは外交に依り平和的に処理することを期して居つたのでありますが、米英蘭の対日圧迫に依り予期せざる実際問題に転化して行つたのであります。

十四、 私は以下に日本軍の少数の部隊を北部仏印に派遣したことにつき仏印側に便宜供与を求めたことを陳述致します。元来此の派兵は専ら対支作戦上の必要より発し統帥部の切なる要望に基くものであります。
 前内閣時代である1940年(昭和十五年)6月下旬に仏印当局は自発的に援蒋物資の仏印通過を禁絶することを約し、其の実行を監視するために日本より監視機関を派遣することになつたのであります(法廷証第618号)。

当時「ビルマ」に於ても同様の措置が取られました。然し実際にやつてみると少数の監視機関では援蒋物資禁絶の実施の完璧を期することの出来ぬことが判明しました。加之、仏印国境閉鎖以来重慶側は実力を以て仏印ルート再開を呼号し兵力を遂次仏印国境方面に移動したのであります。故に日本としては斯る情勢上北部仏印防衛の必要を感じました。

なほ統帥部では支那事変を急速に解決するために支那奥地作戦を実行したいとの希望を抱き、それがため北部仏印に根拠を持ちたいとの考を有ちました。7月下旬連絡会議も之を認め政府が「フランス」側に交渉することになつたのであります。
此の要求の要点は北仏自体に一定の限定兵力を置くこと、又一定の限定兵力を通過せしめることの要求であります。その兵力は前者六千、後者は二千位と記憶して居ります。

上記に関する外交交渉は8月1日以来、松岡外相と日本駐在の「シヤール、アルセイヌ、アンリー」仏蘭西大使との間に行はれ、同年8月30日公文を交換し話合は妥結したのであります(法廷証第620号の附属書第 十の一、及ニ)。即ち日本側に於ては仏領印度支那に対する「フランス」の領土保全及主権を尊重しフランス側では日本兵の駐在に関し軍事上の特殊の便宜を供与することを約し、又此の便宜供与は軍事占領の性質を有せざることを保証して居ります。

十五、 上記8月30日の松岡「アンリー」協定に於ては上記の原則を定め現地に於ては日本国の要望に満足を与ふることを目的とする交渉が遅滞なく開始せられ、速かに所期の目的を達成するため「フランス」政府は印度支那官憲に必要なる訓令を発せらるべきのとしたのであります。そこで前に監視機関の委員長として現地に出張して居つた西原少将は大本営の指導の下に上記日仏両国政府の協定に基き直ちに仏印政庁との間に交渉を開始し、9月4日には既に基礎的事項の妥協を見るに至りました(法廷証第620号の附属書第11号)。

引続いて9月6日には便宜供与の細目協定に調印する筈でありましたが、不幸にも其前日たる9月5日に仏印と支那との国境に居つた日本の或る大隊が国境不明のために越境したといふ事件が起りました。(其後軍法会議での調査の結果、越境に非らざることが判明しましたが)無論これは国境偵察の為でありましたから一発も発射した訳ではありませんが、仏印側は之を口実として細目協定に調印を拒んだのであります。

当時仏印当局の態度は表面は「ヴイシー」政府に忠誠を誓つて居つたようでありましたが、内実はその真偽疑はしきものと観察せられました。一方我方では派兵を急ぐ必要がありたるに拘らず、交渉が斯く頓挫し、非常に焦燥を感じましたが、それでも最後まで平和的方法を進行したしとの念を棄てず、これがため参謀本部より態々第一部長を仏印に派遣し、此の交渉を援助せしめました。

その派遣に際しても参謀総長よりも、陸軍大臣たる私より、平和進駐に依るべきことを懇切に訓諭したのでありました。それでも細目協定が成立しませぬから、同月18日、19日頃に大本営より西原機関に対し同月22日正午(東京時間)を期して先方の回答を求めようといふことを申しやりました。これは「フランス」政府自身が日本兵の進駐を承諾せるに拘らず、現地の作為で遷延するのですから、自由進駐も止むを得ずと考へたのであります。従つて居留民等の引上げもその前に行ひました。

 仏印側との交渉は22日正午迄には妥結に至りませんでしたが、我方最後に若干の譲歩を為し、それより2時間程過ぎた午後2時過ぎに細目協定の成立を見るに至つたのであります(それは証第620号の附属書12号であります)。然るに翌23日零時30分頃に仏印支那との国境で日仏間に戦闘が起りました。

それは当時仏印国境近くに在つた第一線兵団は南支那の交通不便な山や谷の間に分散して居つたがため、連絡が困難で22日午後2時の細目妥結を通知することが日本側の努力にも拘らず不可能であつたのと、「フランス」側に於いても、その通知の不徹底であつたからでありますが、此の小衝突はその日のうちに解決しました。

海防方面の西村兵団は「フランス」海軍の案内に依つて海防港に入ることになつて居つたのでありますが、北方陸正面で争の起つたのに鑑み海防港に入らず、南方の海浜に何等のことなく上陸しました。
なほその後同月26日日本の偵察飛行隊が隊長と部下との信号の誤りから海防郊外に爆弾を落とした事件が起りました。これは全くの過失に基くもので且一些事であります。

十六、 要するに我国が1940年(昭和十五年)9月末に仏印に派遣したことは中国との問題を早く解決する目的であつて、その方法は終始一貫平和手段に依らうとしたものであります。又実際に派遣した兵力も最小限度に止め約束限度の遥か以内なる四千位であつたと記憶します。

1941年(昭和十六年)12月8日、米国「ルーズベルト」大統領より天皇陛下宛の親書(法廷証第1245号_J)中に「陛下の政府は「ヴイシー」政府と協定し、これに依て五千又は六千の日本軍隊を北部仏印に入れ、それより以北に於て中国に対し作戦中の日本軍を保護する許可を得た」と述べて居ることに於ても当時の事情を米国政府が正当に解釈して居つたことを知り得ます。

 以上説明しましたやうな次第で不幸にて不慮の出来事が起りましたが、之に対しては私は陸軍大臣として軍紀の振粛を目的として厳粛なる手段をとりました。即ち連隊長以下を軍法会議にかけ、現地指揮官、大本営幕僚を或は罷免し或は左遷したのであります。之はその前から天皇陛下より特に軍の統制には注意せよとの御言葉があり、又陸軍大臣として軍の統制を一の方針として居つたのに基くもので、軍内部の規律に関することでありまして、之は固より日本が仏印側に対し国際法上の責任があることを意味したものではありません。


次回は 
〔日華基本條約と日満華共同宣言〕
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東條英機 彼も日本人 吾も日本人 

2008-06-06 15:55:20 | Weblog


東條英機氏のお孫さんの由布子さんは、よく「祖国」という言葉を発する。
今どきはビジネスの蓄財グランドや利便性で国家を選択するむきもあるが、「祖国」の深遠なる問いかけに感応することも少なくなったようだ。

戦後「東條が悪かった」「軍閥のボス」と国民怨嗟のはけ口として「詰め腹」を切らされたように思われた東條氏だが、実のところその先が意味不明、はたまた意識外に置かれたような人物だが、昨年の参議院選挙での由布子さんの立候補で新たな印象が描かれつつある。

「語るなかれ」東條家の決まりごとだが、近頃海外からのメッセージが発せられるようになった。とくに英国の二百年にわたる植民地を打破し、戦うことによってアジアを回復しようと連帯したインド国民軍の指導者スバス・チャンドラ・ボース、さかのぼればタゴール、中村屋のカレーで有名なビハリー・ボース、極東軍事裁判(東京裁判)の判事ラダ・ビノード・パル、彼らを輩出したベンガルからその声は高まっている。逆に他国から教えられているという状況である。
そこには感謝と激励がともなって、『知って欲しい』という内容である。

それに触発されたように国内でもその動きは各界に興り、理解不明であるが、心の片隅にあった「印象」を残像の疑問から解き起こそうとの動きがおこっている。

そこで長文だが裁判における宣誓供述書を二回に分けて掲載します。
もちろん由布子さんには「お祖父さんの記録を記す」と伝えてのことです。



東條英機宣誓供述書(全文)  昭和22年12月26日提出

極東国際軍事裁判所 
  亜米利加合衆国其他 対 荒木貞夫其他 
          宣誓供述書

                  供述者 東條英機

自分儀我国ニ行ハルル方式ニ従ヒ宣誓ヲ為シタル上次ノ如ク供述致シマス

 〔わが経歴〕

一、 私は1884年(明治17年)東京に生まれ、1905年(明治38年)より1944年(昭
和19年)に至る迄陸軍士官となり、其間先任順進級の一般原則に拠り進級し、日本陸軍の服務規律の下に勤務いたしました。私は1940年(昭和15年)7月22日に、第二次近衛内閣成立と共に其の陸軍大臣に任ぜられる(当時陸軍中将)迄は一切政治には関係しませんでした。

私はまた1941年(昭和16年)7月18日成立の第三次近衛内閣にも陸軍大臣として留任しました。1941年10月18日、私は組閣の大命を蒙り、謹んで之を拝受し当初は内閣総理大臣、陸軍大臣の外、内務大臣も兼摂しました。(同日陸軍大臣に任ぜらる)。

内務大臣の兼摂は1942年(昭和17年)2月17日に解かれましたが、其後外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣等を兼摂したことがあります。1944年(昭和19年)2月には参謀総長に任ぜられました。7月22日内閣総辞職と共に総ての官職を免ぜられ、予備役に編入せられ、爾来、何等公の職務に就いて居りませぬ。即ち私は1940年(昭和15年)7月22日に政治上責任の地位に立ち、皮肉にも、偶然4年後の同じ日に責任の地位を去ったのであります。

二、 以下私が政治責任の地位に立つた期間に於ける出来事中、本件の御審理に関係あり、且参考となると思われる事実を供述します。茲に明白に申上げて置きますが私が以下の供述及検事聴取書に於て、「責任である」とか「責任の地位に在つた」といふ語を使用する場合には其事柄又は行為が私の職務範囲内である、従って其事に付きては政治上私が責を負ふべき地位に在るといふ意味であつて、法律的又は刑事的の責任を承認するの意味ではありませぬ。

三、 但し、ここに唯一つ1940年前の事柄で、説明を致して置く必要のある事柄があります。それは外でもない1937年6月9日附の電報(法廷証第672号)のことであります。私は関東軍参謀長としてこの電報を陸軍次官並びに参謀長に対して発信したといふ事を否認するものではありませぬ。然し乍ら検察側文書0003号の104頁に引用せられるものは明瞭を欠き且歪曲も甚だしきものであります。検察官は私の発した電文は対「ソ」の作戦に関し』打電したと言つて居りますが、上記電文には実際は『対「ソ」作戦準備の見地より』とあります。

又摘要書作成者は上記電文が『南京を攻撃し先ず中国に一撃を加え云々』と在ることを前提とする電報本文には『南京政権に一撃を加え』となつて居るのであります。(英文にも上記と同様の誤あり、而も電文英訳は検察側証拠提出の訳文に依る)。本電は満州に在て対「ソ」防衛及満州国の治安確保の任務を有する関東軍の立場より対「ソ」作戦準備の見地より日支国交調整に関する考察に就て意見を参謀長より進達せるものであつて、軍司令官より大臣又は総長に対する意見上申とは其の重要性に就き相違し、下僚間の連絡程度のものであります。

 当時支那全土に排日思想風靡し殊に北支に於ける情勢は抗日を標榜せる中国共産軍の脅威、平津地方に於ける中国共産党及び抗日団体の策動熾烈で北支在留邦人は一触即発の危険状態に曝されて居りました。此儘推移したならば済南事件(1928年)南京事件(1928年)上海事件(1932年)の如き不祥事の発生は避くべからざると判断せられました。而して其の影響絶えず満州の治安に悪影響を及ぼして居り関東軍としては対ソ防衛の重責上、満州の背後が斯の如き不安状態に在ることは忍び得ざるものがありました。

之を速に改善し平静なる状態に置いて貰いひたかつたのであります。中国との間の終局的の国交調整の必要は当然であるが、排日抗日の態度を改めしむることが先決であり、之がためには其の手段として挑発行為のあつた場合には彼に一撃を加へて其の反省を求むるか、然らざれば国防の充実に依る沈黙の威圧に依るべきで、其の何れにも依らざる、御機嫌取り的方法に依るは却て支那側を増長せしむるだけに過ぎずとの観察でありました。この関東軍の意見が一般の事務処理規律に従ひ私の名に於いて発信せられたのであります。

 この具申を採用するや否やは全局の判断に基く中央の決定することであります。然し本意見は採用する処とはなりませんでした。蘆溝橋事件(1937年7月7日)は本電とは何等関係在りません。蘆溝橋事件及之に引続く北支事変は当初常に受身であつたことに依ても知られます。

 
 〔第二次近衛内閣の成立と その当時に於ける内外の情勢〕

四、 先ず私が始めて政治的責任の地位に立つに至つた第二次近衛内閣の成立に関する事実中、後に起訴事実に関係を有つて来る事項の陳述を続けます。

私は上記政変の約1ヶ月前より陸軍の航空総監として演習のため満州に公務出張中でありました。7月17日陸軍大臣より帰郷の命令を受けましたにつき、同日奉天飛行場を出発、途中平壌に一泊翌18日午後9時40分東京立川着、直ちに陸軍大臣官邸に赴き、前内閣崩壊の事情、大命が近衛公に下つた事、其他私が陸相候補に推薦された事等を聞きました。

其時の印象では大命を拝された近衛公はこの組閣については極めて慎重であることを観取しました。乃ち近衛公は我国は今後如何なる国策を取るべきか、殊に当時我国は支那事変遂行の過程に在るから、陸軍と海軍との一致、統帥と国務との調整等に格別の注意を払われつつあるものと了解しました。

五、 その夜、近衛首相候補から通知があつたので、翌7月19日午後3時より東京杉並区荻窪に在る近衛邸に出頭しました。此時会合した人々は、近衛首相候補と、海軍大臣吉田善吾氏、外相候補の松岡洋右氏及私即ち東條の四人でありました。

この会談は今後の国政を遂行するに当り国防、外交及内政等に関し或る程度の意見の一致を見るための私的会談でありましたから、会談の記録等は作りません。之が後に世間でいふ荻窪会談なるものであります。

近衛首相は今後の国策は従来の経緯に鑑みて支那事変の完遂に重きを置いて行きたいと、それがためには政治と統帥との調整並に陸軍と海軍との調和に今後一層重きを置くべきこと等を提唱せられまして、之には総て来会者は同感であり、之に努力すべきことを申合わせました。政治に関する具体的なことも話に出ました。内外の情勢の下に国内体制の刷新、支那事変解決の促進、外交の刷新、国防の充実等がそれであります。其の詳細は今日記憶して居りませぬが後日閣議に於て決定せられた基本国策要項の骨子を為すものであります。

陸軍側も海軍側も共に入閣につき条件をつきつけたようなことはありませんが、自分は希望として支那事変の解決の促進と国防の充実を望む旨を述べました。此の会合は単に意見の一致を見たいといふに止まり、特に国策を決定したといふ性質のもではありません。閣僚の選定については討議せず、之は総て近衛公に一任しましたが、我々はその結果については通報を受けました。要するに検事側の云ふが如き此の場合に於て「権威ある外交国策を決定したり」といふことは(検察0003号)事実ではありません。
その後近衛公爵に依り閣僚の選定が終り、同月22日午後8時信任式がありました。

 当時私は陸相として今後に望む態度として概ね次の三つの方針を定めました。即ち
(一)支那事変の解決に全力を注ぐこと、
(二)軍の統帥を一層確立すること、
(三)政治と統帥の緊密化並に陸海軍の協調を図ること、
これであります。

六、 ここに私が陸相の地位につきました当時私が感得しました国家内外の情勢を申上げて置く必要があります。

此の当時は対外問題としては第一に支那事変は既に発生以来三年に相成つて居りますが、未だ解決の曙光をも見出しては居りません。重慶に対する米英の援助は露骨になつて来て居ります。これが支那事変解決上の重大な癌でありました。我々としてはこれに重大関心を持たざるを得ませんでした。

第二に第二次欧州大戦は開戦以来重大なる変化を世界に与へました。東亜に関係ある欧州勢力、即ち「フランス」及和蘭は戦局より脱落し、「イギリス」の危殆に伴ふて「アメリカ」が参戦するといふ気配が濃厚になつて来て居ります。それがため戦禍が東亜に波及する虞がありました。従つて帝国としてはこれ等の事態の発生に対処する必要がありました。

第三に米英の日本に対する経済圧迫は日々重大を加へました。これは支那事変
の解決の困難と共に重大なる関心事でありました。

 対内問題について言へば第一に近衛公提唱の政治新体制問題が国内を風靡する様相でありました。之に応じて各党各派は自発的に解消し又は解消するの形勢に在りました。第二に経済と思想についても新体制の思想が盛り上つて来て居りました。第三に米英等諸国の我国に対する各種の圧迫に伴ひ自由主義より国家主義への転換といふ与論が盛んになつて来て居りました。


 〔二大重要国策〕

七、 斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。

その一つは1940年(昭和15年)7月26日閣議決定の「基本国策要項(法廷証第541号英文記録6271頁、及法廷証第1297号英文記録11714頁)であります。

その二は同年7月27日の「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」と題する連絡会議の決定(法廷証第1310号英文記録11794頁)であります。私は陸軍大臣として共に之に関与しました。此等の国策の要点は要するに二つであります。

即ちその一つは東亜安定のため速に支那事変を解決するといふこと、その二つは米英の圧迫に対して戦争を避けつつも、あくまで我国の独立と自存を完ふしようといふことであります。

 新内閣の第一の願望は東亜に於ける恒久の平和と高度の繁栄を招来せんことであり、その第二の国家的重責は適宜且十分なる国防を整備し国家の独立と安全を確保することでありました。此等の国策は毫末も領土的野心、経済的独占に指向することなく、況んや世界の全部又は一部を統御し又制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。

 私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題解決を要する重大問題であつて、私の明白なる任務は、力の限りを尽して之が達成に努力するに在りと考へました。私が予め侵略思想又は侵略計画を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。又私の知る限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。

八、 7月26日の「基本国策要項」は近衛総理の意を受けて企画院でその草案を作り対内政策の基準と為したのであります。之には三つの要点があります。その一つは国内体制の刷新であります。その二は支那事変の解決の促進であります。その三は国防の充実であります。第一の国内体制については閣内に文教のこと及び経済のことにつき多少の議論があり結局確定案の通り極まりました。

 第二の支那事変の解決については総べて一致であつて国家の総ての力を之に集中すべきこと、又具体的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。

 第三の国防充実は国家の財政と睨み合せて英米の経済圧迫に対応する必要上国内生産の自立的向上及基礎的資源の確保を為すべき旨が協調せられたのであります。大東亜の新秩序といふことについては近衛総理の予てより提唱せられて居ることでありまして此際特に議論せられませんでした。

要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇国の大精神」(英文記録6272頁、英文記録11715頁)といふことは最も道徳的意味に解せられて居ります。道徳を基準とする世界平和の意味であります。三国同盟そのものについては此時は余り議論はありませんでした。唯、現下の国際情報に対処し、従来の経緯に捉はるることなく、弾力性ある外交を施策すべきであるといふ点につき意見が一致を見たと記憶します。

九、 「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。これは7月27日に連絡会議で決定せられました。此の要綱の眼目は二つあります。その一つは支那事変解決の方途であります。その二つは南方問題解決の方策であります。此の要綱の討議に当り、議論になつた主要な点は凡そ四つほどあつたと記憶します。

(A)独伊関係、独伊関係については支那事変の解決及世界変局の状態よりして日本を国際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。支那事変を通じて英のとりたる態度に鑑み従来の経緯同盟とまでは持つて行かずただ之との政治的の連絡を強化するといふ意味でありました。又対「ソ」関係を調整強化。

(B)日米国交調整、全員は皆、独伊との提携が日米関係に及ぼす影響を懸念して居りました。近衛総理は天皇陛下の御平生より米英との国交を厚くすべしとの御考を了知して居りましたから、此点については特に懸念して居られました。乃ち閣僚は皆支那事変の解決には英米との良好関係を必要とすることを強く感じて居りました。

ただ「ワシントン」会議以来の米英の非友誼的態度の顕然たるに鑑み上記両者に対しては毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。

松岡氏の主張は若し対米戦が起こるならばそれは世界の破滅である。従つて之は極力回避せねばならぬといつて居ります。
それがためには日米の国交を改善する必要があるがそれには我方は毅然たる態度をとの外はないといふことであります。会議では具体案については外相に信頼するといふことになりました。

(C)対中国政策、対中国施策としては援蒋行為を禁止し敵性芟除を実行するといふにありました。何故斯の如きことが必要であるかといへば今回の事変の片付かないのは重慶が我が国力につき過小評価をして居るといふことと及び第三国の蒋介石援助に因るからであると見解からであります。従つて蒋政府と米英との分断が絶対的に必要であるとせられたのであります。

(D)南方問題、対「ソ」国防の完璧、自立国家の建設は当時の日本に取つては絶対の課題でありますが之を阻害するものは
 (1)支那事変の未解決と
 (2)英米の圧迫であります。上記の内第二のことについては重要物資の大部分は我国は米英より輸入に依つて居るといふことが注意せられます。もし一朝この輸入が杜絶すれば我国の自存に重大なる影響があります。従つて支那事変の解決と共に此事に付ては重大関心が持たれて居りました。

之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完璧を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。但し支那事変の進行中のことでもあ
り日本は之がために第三国との摩擦は極力これを避けたいといふのであります。

 要するに対米英戦争といふことはこの決定当時に於ては少しも考へられて居りません。
 但し日本の之を欲すると否とに拘わらず場合に依り米英より武力的妨害のあるべきことは懸念されては居りました。


以下 三国同盟につづく


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楠木正成の怨霊と御陰

2008-06-06 12:40:44 | Weblog
             孫文   医者、革命家、政治家 頭目・・・国父


このところ頻繁にやり取りする友人が、彼なりの切り口と座標で解説した本が講談社から出版された。当ブログでもその間の出版社の交渉過程と小生の観察を記させてもらった。
http://www.sonoda-yoshiaki.com/index2.html

出版から削除された部分を上記サイトにて掲載しているが、多くの意見が寄せられる。その実直な質疑のなかに、その提起は友人の本と根底では同義ながら、文字表現と解釈に異なるものをみる、というものだった。
それは楠木の意志を勘案して善なるものを現世に活かそうとする意志が双方にある。それゆえ小生も拙意を呈する気持ちになった。

それは文中にある楠木正成の意にたいする各様の捉え方だが、「怨」という、ある種忌まわしい文字を楠木の「霊」に繋げ、「怨霊」としたことだった。友人にもその意がある。また真摯な質疑を呈する方も意があるが、そのことについて小生に意見を求めるメールが友人から届いた。

以下は、友人の情をを別として応答したものである。


「怨霊」は「御陰」

邪なものからすれば、怨であり、心の秘奥にある自制心などを支える「御陰」ともおもえます。

産霊を、゛むすび゛とも読みますが、神域の問いは、現世を超越して恐れを抱く、祟りがある、これを利用しようとすれば霊の意思とは異なる現象を招くといいます。これをアカデミックに考察するとノイローゼになり、解消するスベとして珍奇かつ高邁な仮説を立て自己納得します。

愚かな軍部、政治家からすれば怨ですが、無辜の民からすれば御陰です。
孫文もペテン師、女好き、謀略家、と色々あり、これを部分検証しても全体はわかりません。また切り口によっては英雄豪傑もその類の論評に晒されます。

拙書「請孫文再来」も、その評を超えて明治の先覚者が命がけで隣国の革命に挺身したその歴史的事実と、彼らが抱いた一国の革命の背景にある西欧の植民地に抑圧されたアジアの解放と再興に、その要を観たからである。

書籍出版は商業という生業(なりわい)によって行ないます。とくに異なった切り口、新資料の発見など、時にはセンセーショナルな部分やプロパガンダ的宣伝に好都合な標題が生業を援けます。

とくに今どきのサイト上のやり取りによくある「部分コピー反論」から、゛炎上゛といわれる非難合戦を観るに、全体像やこの種の内容に必須な「情緒性の認知」や「忖度」など、読者の思索、観照が衰えると説明責任の欲求に晒され、どうしても部分解説の集合という書風に陥る傾向があります。
それゆえ、たとえバーチャルでも劇画、映像が解りやすいようです。

書き手として往々にしてこれに陥るのが研究家などにみられる姿のようです。
また、曖昧な部分があれば「小説」として選択します

標題に戻れば、楠木も孫文も肉体的衝撃を回避せず、吾が身に受けて不特定多数の安寧を求めたもので、その代表するものとして天皇があったと見るべきが歴史からの恩恵という見方です。

なによりも、楠木の善なる精神を倣い、かつ彼のように肉体的衝撃を恐れず、つまり何ゆえ生命と財産が存在るかを問い、かつ継承する血統、家柄の持つものの責任を内観することが、その意を繋ぐ事かとおもいます。

俯瞰した歴史の中で多くの錯誤と、それら伴う争いがありますが、尋常として死地に臨む楠木の「歴史への責任」を鎮まりを以って考えたいものです。
何よりも鎮まりを守る「鎮護の国」の守護者たらんとしたものだからです。
 
現世求められるのは、後世の評の良し悪しは置いて、国家安寧の基礎となる人間の尊厳と調和を「長(おさ)」を推戴して「スメラギ」の道を指し示した一隅の人間の存在を発見し、心に留め置くことです。それは楠木にも熊楠にも観ることができます。

眼前に展開される数多の文字、口舌は、己を知る、つまり「我、ナニビトゾ」を明確にしてくれる臨機でもあります。それは苦いものほど効あるものです。
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