まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あえて田中真紀子氏の言に耳を傾ける・  12 11/14

2024-09-19 01:19:17 | Weblog



田中角栄氏の子女真紀子氏は教育行政について独特な考えがあった。
父は教科書無償、教員の給与を含めた待遇改善を多くの反対を押し切って立法した。
今は、言葉には混乱もあるが官制の教育制度にある大学校の設置基準について政治家としての言を述べた。

角栄氏は戦後の教育行政へ勢力を伸ばしてきた日教組の構成員である教員の待遇を改善し、公務員なかでも厚遇というべき施策をおこなった。

その理由は子供たちに教育の機会拡大する枠組みとサポートする教員への援護だった。要は、角栄氏の許容量と見るべきだろう。

思想も施策も人間のなせること。複雑多岐な要因を以て構成されている国家を俯瞰すれば与党も野党もその協力者も当然な意味を含んだ存在だ。与党為政者といえど、欲望交差点に騒ぐ陣傘代議士とはことなる位置に居たことは確かだ。

当時、教員の多くは日教組に参加し、その政治志向は共産党、社会党と与党自民党の反対勢力だった。

教科書とて後の侵略記述にあるとおり教員の選択に任せた教材だが、これを無償配布した。

後日、「この施策については忸怩たる思いも少なからずある・・・」とも述べているが、それは自身の体験から「姉の使った教科書を大事に使った・・・」という、その教育環境の、゛ひもじさ゛と、教科書(もの)を大切にするという徳目が混在した複雑な思いからだった

だだ、戦後の疲弊から豊かさへの欲求であったが、易きに流れる風潮は内面(情操)教育を疎かにして、外面の形式を装う教育とそれに迎合する政治(政治家)・行政(官吏)・教育(教育者)の人材養成に多くの諸問題を発生させた

それは政治家、官吏、教員という公を代表する位置に在る「人間」の弛緩、怠惰、堕落を誘引し、角栄氏が時代を繋ぐ子供たちのために施策した法のもと、社会事情を顧みることなく既得権保護として、政府の是正もしくは効率化に、いや教育環境の適正化に対して政党を巻き込んで反対するようになった。

加え、偏差値という数値選別が人間の多様な能力を閉ざし、学校が商業化してそこに官界、政界の利権として多くの既得権者を生んだ。

覚えた、知った、類の数値が唯一の選別基準として社会全体を覆い、「人」の存在が希薄な状況を作り出した。

茫洋な混沌、あるいは橋下市長の言う、ふんわりした民意の怨嗟、とはこのことだ。

わかりやすく例をひけば、金融機関がリスク回避をするために信用保証機関の債務保証つきの貸出をするようになってから職員の査定能力が衰え、単に保証機関の取次店のような姿になったことと同様に、教員の教育の独自性、多様性が文部省通達と全国試験を生業とする企業の偏差値に右往左往して教員の機械的作業となり、あるいは適性(偏差値で算定した学校)紹介業の補助的な役割に陥っている。

時間が足りないとは言うが、それだけではあるまい。






本当の子供新聞

子供の不思議感、子供ながらの残酷な大人への疑問や指摘を直接生徒が取材して、日本の中古二色刷りの印刷機を駆使して生徒がカラー版を作る。

もちろん日本のような宣伝広告は無い。識字率は向上し、新聞によって大人は子供の疑問を知る。そして学校では子供新聞を教材にする

バングラデッシュ子供新聞 「キシロチェトロ紙」 記事は学校ポスト投函、日本へメール送信して校正・紙面データー化して送信する。

16ページ、海外面、社会面など、みな子供の書く記事で、大人の記事は小さいコラムだけ。毎月1000部、費用は数人の現地、日本の少ない賛助で発行している。





日本の大学数約800、多いか少ないかは別として、多くの内情は供給側の減少を補うために珍奇な学部を増設したり、コンビニ、レストランの併設や校舎のリフォームなど、より大学校本来の意味合いをなくしている。その大学に請われて講義に行ったことがある。

90分の授業では教授案作成が一週間かかる。同じ授業で教科書も同じなら、学生が変わっても同じ授業をオウムのように行っている教員もいるが、こちらは一期一会の機会である。
また、90分の間で緊張できる時間は15分ぐらいと老練な教授の言だが、そのほかは居眠りか、近頃は取り入れているパソコンへの集中だ。

授業とは言うが、顔を観て声を聴き、学びの意欲を共有することが学び舎の教場と考えていたが、ここでも出席単位の確保のみがはびこっている。

ある大学で女子生徒を注意したが、「叱らないほうがいいですよ、それに生徒はお客さんですから・・」何をかいわんやだ・・・。

私事だが、進学校だった私立高校卒業時に人並みに大学進学を考えた。それは想像したといってもいい。現実に視えたことは大学紛争と弛緩した大学生の生活だった。なかには女と酒と遊びがもっぱらな先輩たちだ。教場では居眠り、途中参加、教員はお構いなしにボードに学説という「説」なのか「拙」なのか分からんような文字を書きこんでいる。そしてお座なりの試験という数値選別だった。

一旦、人生の様子見を決め込んで逍遥した。逍遥はブラブラしたわけではなく、したいことより、するべきことの発見だった。

そして今は歴史記述にある多くの人物と邂逅し、いまは流行りとなっているオーラルヒストリーという、直接応接してときに問答した。

あるとき、安岡正篤氏に
「そろそろ大学に行ってみようかと・・」呟いたところ、
『大学という学問は面白いが、大学校はつまらん所だ。君、行くのかね』
確かに氏は帝大だが、自身の志す教科が無かったために併設図書館に通って、あの王陽明研究という名著を在学中に著した氏のこと、意味は深い。
゛好きで楽しくなければ覚えない゛゛学問は衣食のためにするものではない゛と古人も説くが、その意味では「大学」と「官制大学校」の世界は異なる場面だ。

その後、多くの縁を促され、多面で多岐な人物と応答が適った。それが安岡氏の言う「学問」なのだろう。

いまは拡大された縁を収斂する齢に差し掛かっている。それに随って拙意の提供を請われたり、大学等での駄弁を弄する機会も多くなった。

軍隊でいえば二等兵が士官に講ずるようなものだが、生徒が好きで楽しいためか居眠りも少ないようだ。犬ですら犬好きには吠えないというが、その点、若者のバーバリズムは健在のようだ。

もちろん教科を説明する「経師」ではなく、縁に随った稀な人物に倣って「人師」になろうと心掛けている。官制の「学校歴」はなかったが、学びの継続は「学歴」をいまだ追求し、そして欲している。そして生徒には「大学校は落第してもいいが、人生だけは落第しないように」と語る。
それは舌が言う「話(ハナシ)」でなく、吾を言う「語り」だからだ。

言い方が悪い、空気を読んでいない、仕草が悪い、と散々な真紀子氏だが別の切り口で見ると、よく空気を読んでいることが分かる。

あの石原氏や橋下氏が訴える官吏の弛緩と堕落、それは外務省の外交姿勢と隠ぺいされた内外の勤務状況に絡んだ経費の支出。文部省の政治家と絡んだ呉越同船の学校利権と、それが及ぼす教育の実態。みな夫々が判っているが是正できない問題だ。




桂林



いろいろ発言を面白がられ、それを気にもしない突破力は石原、橋下氏にも劣らぬものがある。政治家の言は国民の期待とはいうが、あくまで想像力をかきたてられるものだ。
また、総てが納得することもないが、ただ、橋下氏が言う、゛ふんわりした期待と怨嗟゛、石原氏が言う、゛大きい枠で協働する゛(小異をのこして大同につく)様子は、思索力をなくした人々に明確に喚起の為す意味を教えているようだ。

余談だが、あの小泉氏への応援演説は当の小泉氏への期待というよりか、田中氏への行動力、突破力に自民党有権者は賭けたのだろう。

それは外務省にも向けられたが、漏れるはずのない井戸端噂の類が高学歴、高級官僚の狡猾な情報操作で伝わったのだ。

父は高学歴の愚かものには人情という小遣いを使った。その位な連中だということを知っていた。要は国民のための政策を容易に実行するためだった。ただ、娘は入れ込んで昂揚していたためか、あるいは余りにも世間とかい離した官界に切れたのか、押さえきれない暴走になった。

「国民の意志を」と政治家は言うが、社会や国家を憂慮する意志などサラサラなくなった人々に、欲望の喚起を誘引することこそ、国家の自殺行為であることすら解っていない。歴史を観照して現在をみて将来を推考する、そんなことすら億劫になった人々には、たしかに変人、異物に映るだろうが、時宜を得ている言辞は貴重な存在だ。

面白がって揶揄する処世の民癖だが、こと大学ならず生徒を客として大学校を食い扶持にする連中にとっては前段の緊張として歓迎すべきことであろう。
ただ、またしても女性の烈しさに隠れる男子が情けなくも映るのも忸怩たるおもいもある。

 

 

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慎みの乏しくなった権力 2015 あの頃

2024-09-16 02:01:25 | Weblog

自民党をぶち壊す!と吠えた小泉氏のワンフレーズに酔った有権者だったが、しばらくして現れたのは、非正規雇用という、まさに正規の雇用ではない、いつでも解雇できる臨時雇だった。狂ったように叫び、争った郵政改革なるものは保険、貯金の虎の子を株や為替の博打まがいの世界に流動させる手立てだった。

規制改革は非効率な役人世界の手から離し、ハゲタカのような新興成金に安売りしたが、言い分は不良債権の切り離しという簡便な会計操作で、正常化を装ったが、ついでにリストラで従業員を解雇し、まるで垢落としでスッキリした気分になったようだが、要は見た目の変化の如く、本当に自民党だけではなく、社会構造や人心までぶち壊されてしまったようだ。

今までは非正規と正規に分離だが、今度は効率的とか働きがいなどと言葉を変え、正規まで雇用の流動化を図り、しかも要求者たる企業団体に政策として、早々と御説明に上がったとか。

あの時も競走馬のように、わき目も振らず走れとばかり遮眼帯だったが、やはり似たもの同士には非正規雇用口入れ屋の振り付け師も苦笑いしているだろう。

やはり「匹夫に責あり」無関心、無理解な有権者にも問題は大いにある。

 

 

横須賀  スカ ジャン

 

旧稿


戦後レジュームとかの脱却・・・・・

レジームとはフランス語で体制だが、安倍総理が就任時に頻繁に唱えた戦後レジームと云えばヤルタ・ポツダム会談後の連合国戦後体制、つまり日本でいえばGHQ(連合軍総司令部 ダグラスマッカーサー司令)が作り上げたという日本の戦後体制である。それは憲法条文や教育、土地税制、医療保険、防衛など多岐にわたり、一方でいわれるところの日本弱体政策といわれたりしている。

安倍総理はその習慣的思考が及ぼす政治政策や官吏の立案形態を「脱」という言葉で変えようとしている。それはレジュームのもう一つの意である「管理体制」下に構築されたという前提のもと現体制のレジュームチェンジだ。

しかし、「脱」と問題意識をもっても、今更ながら「脱」は出来ない、好まない一群がいる。しかもそれが政治中枢の周囲を取り巻き、「脱」の影響範囲を狭めている。要は、この部分だということに気が付いていないだけでなく、それらによって岩盤のようになったレジームを政権の背景力として互いに利用し合っている可笑しさがある。

何を基にしているのか政権が安定すると、その内にレジームの踏襲こそ平和安定の基であるなどと言い出しかねない。そのくらいに総理を操る力をレジームはもっている。

天に唾するようなことだが、安倍総理は安倍晋太郎の子息、母は岸総理の娘。それゆえ彼のバックボーンは実の父より、岸元総理の血脈として喧伝されることが多い。
戦前の商工省、満州官僚として統制経済を牽引した。

統制経済は集中資本、統制管理によって黎明期の満州経済を発展させ、その試行成果をもとに戦後は興銀を中心に重厚長大産業といわれる鉄鋼、造船、鉄道、エネルギーなどの産業を興している。まさに戦後復興は満洲の映し絵のよう近似政策だ。

私事だが、その満州人脈が会した新橋の国際善隣会館に唯一戦後生まれとしてその老海に漂い、取り付く島の縁に逍遥していたことで満州実情を大観させていただいた。

復興経済は多くの功罪を遺した。その副作用なのか、基幹産業を育てる過程で時世をにぎわす政財界の贈収賄が数多発生した。造船疑獄、インドネシア・フィリッピンの賠償利権、韓国地下鉄利権、アラブ石油利権、穀物利権など内外政治家と経済界、はたまた高級官吏を巻き込んだ汚職腐敗が蔓延った。

しかも、どこの派閥はエネルギー、他方は建設や電波利権、どこそこは文教(教育・技術)やODA利権など、国民からすればとんでもない利権が構築され、いまでもその系譜には手を突っ込めない状況があるという。つまり改革、省庁統合、独立行政も裏を返せば利権の再構築(陣取り)のようだと新進官吏は嘆く。

つまり戦後体制は戦前の軍刀に怯えていた連中が、GHQにお追従して手に入れた新世界なのだ。維新も欧米の植民地侵攻の怯えと対応を失くした幕府を倒し、美味い飯を奪った結果だが、その小人然とした貪りに、西郷は慚愧を抱いたのだ

今度も外来の侵攻軍だ。戦前の体制は倒れ、人物二番手が疲弊した戦後を曲がりなりにも担った。だからドサクサの奪い合いが起きたのだ。それが戦後レジームの恩恵を受けた群れであり、その血脈をつなぐ二世、三世の世襲議員が無くならない理由でもある。
ことさら抹香臭くも青臭い、または左翼(欲)掛かった立ち位置でいうのではない。あくまで下座観がそう観るのだ。










貧者のヒガミ根性なのか、日本人に染みついた習性なのか、今ほどウルサイ眼が無かった頃、政治家は井戸塀から金満に変わった。都内に大きな邸宅を構え、郊外には別荘、不思議に思っていると未公開株や情報有りきの土地ころがし、穀物やエネルギーの外交利権など、官吏の狡猾な知恵を寸借した蓄財が指摘されるようになった。

また、もともと財を成した二代目議員は狡猾な官吏出身議員の財布代わりになって没落したものもいる。「戦禍に倒れた人々のお蔭で繁栄した」、とはいうが、西郷の言葉を借りれば「こんな国にするつもりはなかった」だろう。それが遺伝子となって政権与党に群生する忘恩の徒を増産している。
それが、人心の衰えた権力に寄り添う者たちの戦後レジームなのだ。

官吏、政治家、軍閥の姿は、現在の官吏、政治家、官警、と何ら変わることのない御上御用の姿として国民は眺めている。数値比較ではなく、深層の国力というべき人心、情緒をみるならば確かに、戦後レジュームは戦前のそれと大きく異なる。しかし本来の問題は維新後のレジューム(体制)は、日本及び日本人の姿を根本的に変質させてしまったことだろう。

文明化は便利性とともに到来する。そして誘引されるように起きた情緒性の齟齬は近ごろの世代間の断絶どころではない。棲み分けられた地域に複雑な要因を以て構成され継続した国家なるものと、そこに棲む民と称される人間の親和性、すすんで連帯と調和心が、時とともに融解している。その憂慮に為政者の関心は薄い。その意味では、昔はそれを慎みを以て鎮考した為政者がいた。





ともあれ、戦勝国に迎合した知識人や議員、当初GHQの急進的もしくは試験的に試行しようとした勢力によって、あえて戦前・戦後と裁断された歴史的継続性だが、その後の至るところの各分野で馴染まない齟齬をきたしている。それは環境資質を基とした棲み分けられた人間の特徴ある姿の変質だ。

一方、その戦後レジームという安倍氏の云う紛い物の体制だが、ドイツの剛毅な反応と異なり、憲法のみならず、税制、教育、土地改革など、骨抜きや面従腹背を得意とする官吏や迎合政治家は巧妙にも自らの利権として戦後体制にバチルスのように寄生した。

他人から与えられたパッケージだからと理由にするが、GHQのみならず現在の日米関係は「年次要望書」の類にある、建設工事の透明化は談合排除、金融・保険は市場参入の自由化、医療の自由化、郵政改革は保険・金融の分離と自由化、それらの政策は治安当局のショック策を巧みに援用して市場開放と彼らの云う自由化に突き進んでいる。正規、非正規といわれる雇用問題も要望書の切り取りだ。


ここで問題なのは、戦後レジュームの恩恵を受けてきた公職者は食い扶持土俵を毀損することなく、その身分のようになった安定担保職を変わることなく維持している。
西洋感覚でいえばタックスペイヤーは変化に晒され、タックスイーターはお咎めなしの状態だ。その群れが弛緩した戦後レジュームの守護者なのだ。それが安倍君の視点にはない。
例をひいて恐縮だが、南欧のギリシャ、もしくは後進社会主義の国情だ。


憲法だが、ことさら組織や体制、もしくは法治の基となる条文を変え、整えたとしても世の中(国風)は変わらない。書き物や制度で民族を収斂し国家として成さしめても、単なる形式的国家としてしか成立しないだろう。法がことさら証明したり説明したりするための具では無いことは承知しているだろうが、それしか方法がない、つまりそれに数字を付け加えれば唯一の正しい答えとする固陋で許容量のない思考法しか導けない人間の習慣性の問題を考えることもない。神棚は汚れ掃除しなくてもお札は鎮座している。ときおり願い事のために手を合わせるが、エゴの利益には効能もない。













筆者がおもうに、これこそ戦前・戦後のみならず、明治に遡る「脱・模倣レジューム」だ。
あの頃は、法はドイツ、イギリス、教育はフランス、海軍はイギリス、陸軍はドイツと拙速な模倣だった。何よりも人間が西洋カブレに陥っていた。
また、そのモノマネに真や核というものを拙速にも置き忘れたために起きた形式欠陥が、その後の虚飾された経済力や軍事力に依存した国風となり、民風は人心すら微かなものとなってしまった。

世上では余りにも明治維新の異業などと喧伝するものだから、偉人、先覚者と顕彰される英雄や知恵者を汚すこともできず、その背後や後の場面で巧みに、時に狡猾に立ち回った連中によって近代模倣国家が曲がりなりにも出来上がった。

そして藩民は「国民」と呼ばれ、「国家」なるものに収斂された。
繰り返すが、西郷は「こんな国にするつもりはなかった・・」との意を語る。鉄舟も海舟も松陰もそんな慚愧の気持ちだと筆者は拙くも推測する。

教育はフランスかぶれの森有礼が持ち込んだ人権や平等、自由を編み込んだ啓蒙思想を文明の証として制度化した。それに直感し諭したのが明治天皇だ。(聖諭記)

理科、物理、法科は見るべきものがあるが、果たして相となる人材を養成することはできるだろうか・・つまり部分専門家は必要だが、多面的、総合的に内外の歴史を俯瞰して将来を推考する「宰相」を養成することは、この形態では適わない、という指摘だ

今もってその残滓は教育が立身出世の具となり、その弊害は先の原発被災時の東電経営者や監督官庁の官吏、そして選挙で選ばれた為政者たちのエリートと称される階層に、明治天皇の指摘を想起するのだ。

「現場は世界一だ、比して日本はエリートの養成に関しては失敗している」とは、世界中のジャーナリスト、有識者の感想だ。

これこそレジューム(体制)に安閑と巣を営む明治以降変わることのない残滓なのだ。いわゆる「脱」はこの部分であり、名利と安逸を最善の欲望として貪る者たちのコントロールの欠如なのだ。つまり欲望の自己制御を学問の基としておかず、互いに素餐を蝕む群れこそ、脱レジームの根幹をなすものであり、ここに視点が及ばないことこそ政治の放埓を招いている原因でもあろう。







ならば、どうしたら、こうしたらと堂々巡りの戯言が騒がしくなるが、先ず問題意識をもって明治以降の歴史の変遷を我が身に置き換えて内省してみたらよいだろう。
欲望についても「色、食、財」がある。世につれて対象と目的は変わるだろうが、この欲望のコントロールはどうだろうか。「数値」については法治、人治、そして数治になっていないだろうか。「知」について、質より量が単なる知った、覚えた類の学になってないだろうか。あるいは「色」にある性別、情欲が禽獣の別を弁えているのだろうか。「人物観」について一過性の数値の多寡や儚い名利に憧れたり、追従していないだろうか

学校では教えてくれなかったという。
もともと、官制の学校制度は数値競争と知の遊戯のようなもので、人間そのものを悟る場面ではない。習いはあっても「倣う」対象は少なくなっている。

未完

イメージは関連サイトより転載

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この有様は「五寒」の政外、内外の表れである  10   9 月  再

2024-09-12 01:00:15 | Weblog

あの頃も

 

平成29年、現下の情況は五寒にある「謀弛」、政治のユルミであり、隠していることが漏れる現象である。

また、政府を取り巻く諮問会議など、都度に国会の審議を得ることもなく、為政者にフリーハンドを与えたシステムではある。

だか、邪な意図をもった為政者なり側近が運用すると恣意的(思いのまま)に政策が遂行されてしまう。

つまり、官邸と一部の迎合官僚と業者の関係のみで国会のチェックもない。

面倒な争論を省き改革するには重宝だが、緩み(ゆるみ)と漏れ(もれ」は、必ず起きる

現下の騒動はその結果であり「五寒」に示す、謀弛の現象だ。

再三にわたりブログで記すが、「四患」から「五寒」になる過程は、人心の劣化と国家の衰亡である。

また、五寒にある「敬重」は、天皇、いや「天皇家」の意志にもかかわる問題である。

そもそも、天皇といわれる日本独自のシステムは、明治維新や戦後の民主制度で作られたものではない。

或る時は豪族が、封建では武士が、明治は議会が整う前は、有司(官僚)が考えた在り様だ。

有司が必要とあれば有史以来はじめて天皇に軍服を着せた。そしてその袖(かげ)に隠れてコントロールした。

最後は勝者である司令官に頭を下げさせ、多くの軍官吏、官僚、政治家の責任者は科(とが、罪)をのがれた。

今は、かたちなりに国民から権利を負託された政府が、その在り様を決めている。

だが、天皇の存在意義を考える側と、連綿と続いた掟や習慣で「家」を維持してきた側とは自ずと立つ位置は異なるのは当然なことだ。

その意義をどのように用いるかは為政者の問題だが、それらの手のひらに乗るお立場でもないことは、究極には割れない国家(分裂しない)であった歴史を俯瞰すれば自明なことだ。

欲望の交差点のような議会の与野党が分裂しても、国民の深層の情感は揺れることはない。いや安心しているといってもいい。

譲位は「家」の事情を含んでいる。

想像は勝手だが、「家」なりの深い事情が潜在することは事実だ。

それこそ「忖度」の用い方の知恵だ。ここでいう忖度は権力におもねて身を護る「そんたく」ではない。

 

                     

                         桂林

                                  

 

以下は再掲載ですが・・・・

政治のピントが外れる  「政外」


内政、外交の調和も無く、時として異国に侮られる  「内外」


「内外」は内政が治まらないために外に向かって気勢を上げる、あるときは危機を煽って国内の耳目を転化する状態である。

つまり、双方「信」が無いのである。いわんや「力」が乏しくなる状態である。

先ずはそこを押さえて昨今の日中問題、米国の政策を理解すべきだろう。
それは数値に表れる軍事力、経済力などを基に国力を見るだけでなく、過去から押し寄せるもの、将来を勘案して企てることが地域間に棲み分けられた民族の盛衰、あるいは民情の流れ方にある速度や量の問題を加えることへの促しでもある。

それは人間が群れとして向かう成功価値への欲求と集中、またその群れをコントロールする国家なり民族のリーダー【長(おさ)】なり政治機構の姿が「五寒」として現れるのである。

「信」が無く、「力」がなくなれば人間に関わる問題はすべからず弱体する。

とくに民主自由にグローバルという平準化がアジアに押し寄せたとき、率先して迎合した我国の諂いは隣国の民衆に一部にどれだけの追い風になったか、それを因とした、゛いいたいこと ゛゛ヤリタイこと゛が便宜的主義と相まって彼等なりの民族間競争がすすんだ。


゛彼等なり゛とは我国の政党内抗争同様、利に集い、利に散ることを掟や習慣でいう陋規(狭い範囲の因習)によって衆を恃み、群れを構成する姿である。従前の成文法(清規)がグローバルという外来システムに応用できず、また「人治」と称される実力者の意向(力)とのせめぎあいが心理的抗争という形で、表面形式や裏という其々の姿の権力が軍や経済を背景に間合いとバランスを取り合っている。


国内問題であるうちはまだしも、各々が国外に威を競争し始める、それが昨今の「力」の変容となり、国内異民族や諸外国との摩擦を起こしているのである。火山自噴の溶岩や地震が目に見えない境界を越えて影響を及ぼすことと考えればいいだろう。

また、それを当然の如く行なわせているのは「天下思想」と独特な諦観である。
つまり地球全体が住処であり、天は照らすこともあれば雨や暴風もあるが、それはそのときのこと、という生き方だ。それは普通に考える国家や社会観ではない。そのため「力」の有りようによって対応はどうにでも変化するのである。

分かりやすく言えば、゛天下の客であって主人゛なのである。
もちろん異なる考えを持っている民族なり国家との乖離は当然ある、また「力」の増減によってその対応は変わってくる。根底は肉体的衝撃と惨禍を想像させる「力」の姿とその表現である。


米国の軍閥といわれる産軍複合体同様、中国の各軍区における競うような経済行為と軍備拡張も新興財閥と同衾してそれぞれが独自の勢力圏を築き中央政府までコントロールしている。
つまり、力を「威」として政治すら傀儡化し、しかも其々が経済外交、国外勢力圏の増殖に走り出している。陸の軍区は内陸自治区から隣国を脅かし、海の軍区は海洋版図の書き換えを謀り外洋に進出し始めている。

歴史的にも軍(武力)を背景にしたものが権力を安定させてきたが、政治内局の各々が各軍区の後ろ盾を持つようになると、いつもながらの権謀術数が蔓延り、危機を感ずるものは財産の国外移動が当たり前のようになっている。

そこには国家を俯瞰した愛国心が、「一官九族に繁える」といった歴史的倣いにすすんでいる。「一官・・・」とは部族、親族に官位が昇り財(便宜、賄賂)を得るようになると「九族・・」でいう親族が恩恵を受けることである。

「政外」、「内外」その表れる姿は敬重を本とした「力」の威が衰えることではあるが、人を尊敬するとか、人々が譲り合うという敬重が無意味になる昨今、その本は財利に集中している。

「衣食足りて礼節を知る」とはいうが、゛足る゛の際限の無い欲望は彼の国をあげつらうまでも無く我国も同化しつつあるようだ。世界は財という鎖によって結ばれた。縛られるものと、引っ張られるものも明確になってきた。それは恣意的に与えられ放埓となった自由と、連帯や統合を妨げるように昂揚した民主意識を携えて現住所形の国家観に変化してきた。

彼等の活動しやすい状態になってきたことだが、それは、とりもなおさず自由と民主を掲げて便宜的資本主義を軍事力、財力、システム構成力を以って推し進めてきたもう一方の勢力の謀のような企てでもある。





               




【その行く末は・・・】

その一方に偏した繁栄と、そのシステムの頚木から解かれた新興勢力や復興勢力の計算高い連携と分裂の繰り返しが起こり、今までの経済支配から「力」(軍事)を背景にした固有の政治支配である専制への欲求が再び頭をもたげてくる。地域二国間の軋轢は国論を統一不可能になった、いや、そうすることによって連帯と調和を亡くすように民主、自由、平等という資本欲望と相容れない恣意的美句を諂い迎合受容した民族の衰亡をより明らかにする。

つまり群れの「長(おさ)」さえ推戴できなくなった群れの末路は獲物にとってこれほど好都合なことはない。気がつくことは親が親でなく、子が子でない家族の実態を国家に置き換えればセンターラインの無い繁栄として妙で特異な成功価値を生み、歴史の良とした価値まで融解するようになってきた。

一過性ではあるが,先の大戦後の政治経済における世界の「長(おさ)」であった米国の衰弱は、俗に言う、゛けつ(尻)持ち‘の実態を見極められたからである。要は力のあるうちに拙速に結論を求めるべきだろう。持久戦で疲労するのは前線の衛星国である。

なぜなら「平和」を謳って市場を確保していた資本市場は新たな「力」の登場に、またしても平和を唱えてそれを収めようとしている。彼の国の平和は、戦争と戦争の間を言うのであって、真の平和は「太平」と「安寧」なのだ。それもハナシとして理解している民族だ。

孔孟もハナシとしては理解できるし発生の必然もある。ただ、色変わりする国論のようなものはあるが、それは逢場作戯(その場、その時の対応に戯れる)と、「臨機臨度に涵養を観る」ように、人や国力を測りつつ柔軟に応ずる人治の論のようなものだ。







            

山内たつお




【応ずる国家の実態】


それに応ずる我国の高官の「本(モト)」とするものは、文部省の官制学校のカリキュラムを唯一の糧とした既得保全の群れの稚拙な応答でしかない。これでは国家も人(日本人)も見切られてしまう。しかも緩急に国論の統一性のもとである調和連帯の意識も無く、四角四面で遅拙な結論しか生み出せない。


満州崩壊で多くの高級官吏、高級軍人は電話線まで切って遁走した。

日本人は開拓民を置き去りにして逃げた歴史を彼等は知っている。

そして潜み、言い訳をする。

日本人の学問の果ては肉体的衝撃を回避する。そう観ている。

それは国家の大経綸と覚悟とのない貪官の群れでもある。


もちろん「五寒」に説く、「内外、政外、謀弛、敬重、女厲(レイ)」の到来と、その前提にある政治家、官吏の災いである「四患」に説く、「偽、私、放、奢」の由縁すら理解の淵にさえ届くことは無い。

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人間考学  人の世はこれに尽きる  2014 11再

2024-09-11 05:13:50 | Weblog

人心は微かになっている。

人物になじまない知識は、教養が乏しければ、一過性の、゛物知り゛でしかない。

浮俗では食い扶持(収入)や優越性(地位)のための知学てはあるが、運や縁を渇望する不思議さもある。


以下は我欲を抑制して、ためらわず、惜しまず、補い合う、まさに「小学」(小学校ではない)の良き習慣性でもあり、忠恕心の涵養の勧めである。

力ある者は疾(と)く以て人を助け、 (すばやく)

財ある者は勉めて以て人に分かち、 (譲る)

道(教養)ある者は勧めて以て人に教う    (伝える・教える)



数多の宗教家や政治家がこれに類似したものを説くが、私心がある。
官吏はこれを黙殺することで職に安住する、それが昨今のようだ。

なぜ、このような言辞が掲げられるのか、それは人心が微かになったからである
力や財や道には人を経過することで排他性を生ずることがある。
政治家は政策を、宗教家はこの教えがと、これが唯一だと宣伝するが、人間を介在するとおかしくなる。かといって書かれたもの(教義や成文法)や、石に刻まれたものはナルホドと認知されても、こと習慣化された浸透性には程遠いことだ。

 北京の友人作

 

ここで掲げられている綱目に見るものは、墨子の説く、行動を促す考えを「疾(と)く」「勉め」「勧め」が項目を実利として働かせる重要な部分を示している。
つまり、考えていても行動に出せない様々な要因を打ち払う内心の様相を示しているからだ。
「疾く」「勉め」「勧め」は、「考えthink」から「有働action」に移行するために障害となる問題を自身の内面に求めている。
筆者は剛毅な先人から「成らざるは 為さざるなり」の揮毫をいただいた。
「できないのは、やらないからだ」至極当然なことだ。

考えたことができないと、金がない、人脈がない、車がない、彼女もいない、学歴もない、と無いことを理由にする。無いのは当然だがそれは嫉妬の類でもあり、恨みにもなり、成すこともできなくなる。成す資格も能力もないと云わざるを得ない。
次は「人に云われはしないか」「失敗したら」「所詮、無理だ」が続くが、すべては我欲だ。

そんな人に限って、愛やボランティアなど衆を恃み群れに埋没する。それは好きなことをするが、するべきことをしない。つまり自分を知らず目的も流行り事に興味を持つ。

「自分」とは、
自は「鼻」、下部は音記号で自は己自身のことだ。それが「分」のある全体の一部分で己の位置や能力を探すことだ。そして己を知り、他と異なることを確認するのだ。そのようにして世界の人口六十数億人の一の自分を知るのだ。
もちろん同じ人間はいない。だから松陰は「他と異なることを恐れない」学問の根本を教え、先見性と突破力と養ったのだ。





    金沢八景 称名寺



秦の統一以前の春秋戦国時代 墨家が勃興した。その思想は多くの人々に歓迎された。人心つかみ取った墨家の思想と行動力は、儒家を圧倒、混沌とした社会をまとめ実利(生活に有効性のある利)ある展開として広がった。

人の「やる気」など数値に表わせないし説明もできない。合理的な考えではない。
ならば屁理屈を敢えて云えば、無理は理(ことわり)がないことだが、無は無限大、無尽蔵と東洋の観点でみたらどうだろう。

つまり人は無駄に産まれ、生きているのではないとの賢人の言に沿って、人を「情」を掘り下げて存在を、有なのか、もしくは無なのか、あるいは、世俗の有無が逆転し、老子の云うような「無用の用」を感知するのかを試みる必要があるだろう。
それは有無が混在する「他」があればこそイノベーションが起こり、掴みどころのないものから、偶然発見する、あるいは新たな生命体が動き出すことも起きることだ。

多くの科学は仮説を立てて、研究して合理的な説明を立てて証明する。

そして多くの偶然性を求めるように多岐にわたる方法や様々な切り口を駆使するが、それでも物理学などは真理には届かないという。現象は眼前に表れているが説明がつかないのだ。

人もそうだ。物や生物集合体に置き換えれば、刺激を与えれば思惑通りに動く。近ごろはその傾向が強くなった。副作用は刺激に慣れるとより多くの刺激を求めるようになる。まるで農薬や抗菌剤のように・・・。人の場合、往々にしてその疫は「欲」であり、いくつもの新種が発生する。
「欲」は解っているが、枝葉末節な対応ではエネルギーばかり取られて「益」より「疫」の方が勝ってくる。こうなると政策という抗菌剤では効き目が無くなってくる。
つまり、政治のピントがずれてくる。次は諦めと自堕落だ。

それも薄々わかっているが、手をこまねくばかりで決定打はない。それは動物でさえ理解している衰亡への直感が単に、合理的には「説明つかず」の状態に陥っているからに他ならない。動物はどうするか、自然推戴された長(おさ)が率先垂範して犠牲になることだ。命まで取られることもない昨今、群れを教化できる行動を示すことだ。




 箱根



議会制民主主義の定義や本質を知るものは少ないが、先ずもって金の議論が多い。
世の患いごとや犯罪も、多くは金がらみだ。
だから人の金を充てにして、その金主代理人である財務の役人の顔色を見るようになるのだ。彼らとて、国にいくら資産があり、借金がいくらあるかも細かくはわからない。

本会計100兆、国会議論や会計検査員の検査も入らない特別会計は本会計の3倍、約300兆の隠し金庫や外部独法の懐銭など、亭主の名目収支より女房や子供、親戚が隠し持つ資金は箪笥金として膨大な額になる。
民は上に倣う」というが、だれが責任者なのか分からない組織や国になっている。

そろそろ官吏や民の欲望に鼻面を引かれることを止めて、至極単純明快に標記の三項に政治の座標をおくべきだろう。命懸けというものの姿を魅せるのも宰相受任の要件だ。
皇居で拝受した輔弼たる印綬の意は邦の数値的成功より、深層の国力というべき情緒の護持が大命題となるべきだ。

外交、防衛、経済、などは、それを護持するためにある。
いちど青年の雄叫びの如く三項目を唱えたらどうだろうか。

それが「一」一線に留まり、あるいは堕した一線を打破する「一に止まる(正)」、正しい治め「政治」ではないだろうか。

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総理候補は、陛下の大御心を忖度できるのか  2019 2 改再

2024-09-07 14:58:10 | Weblog

 

 

ここでは民主主義社会のなかで、四角四面に天皇の存在意義や権能を、あれこれと論ずるものではない。また、哀願に似た依頼を抱くものではない。

ただ、人々が垣間見た行動や、その表現となり発するお言葉や、その元となるものをたどって推察する「大御心(オオミココロ)」と、それを忖度して具現するであろう、宰相としての姿をトレースしたとき、実感として感ずる乖離観の疑問でもある。

また、保守とか保守系と自らを称する候補者の言辞に、同民族に推戴され長い年月を経て畏敬の存在に高められた民族の長(おさ)の存在が、自ら行うであろう施政にどのような位置づけにあるのか明確な意思はないようだ。

赤尾敏氏に筆者は尋ねた。「いつも演説の最後に、天皇陛下万歳を唱えますが・・」

『本当は日本国万歳だ。だが今の政治家の体たらくでは日本国万歳はなじまない。天皇陛下万歳は天皇の長寿や個人的願望ではない。民族統合のシンボルとして唱えている』

三木総理は党内抗争の三木下ろしの最中でも「あの御方なら解っていただける」と強固な意志で持ち堪えた。就任当初は周辺の影響もあり参内することは少なかった。妻の睦子が陛下にお会いした時「三木は変わりないか」と御下問。

参内した三木に懇ろな自然体対応に感応した三木は足繁く参内するようになった。

佐藤総理も来客の多くは、陳情、党内煩悶、なかには猟官もあり週末には渋面がこわばるほどだった。そのような時、参内した。もちろん御都合もあるが、ご面会して応答されているうちに佐藤の面妖は、元の覇気ある団十郎に戻ってくる。

三木、佐藤と決定的に違うことは、偉くなりたい、人から褒められたい、物を所有する欲望がない、ということだ。つまり地位、名誉、財に恬淡でありそれを可能とする特殊な学びと習慣を、頭の学びでなく肉体に浸透された姿なのだ。 

筆者とて時の流れにまみえ、ときに省みて遊惰かとおもえる生活をしているが、それでも経国を委ね、強大な権能を委託した為政者にむけて、ときに天に唾することと知りつつ戸惑い、憂うことがあるのだ。半知半解な右派、左派と称する群れもある。多くは空気に流されているかの如く生存の証として不明確となった目標に向かっている

 

  

    子守っ子  昔は子守として奉公(手伝い)に行った。

 

今年は政府の文書改竄と忖度で明け暮れたが、第一次で官僚の狡猾さとマスコミの攻勢に懲りたのか、第二次で内閣人事局を作ってからは上しか見えないヒラメ官僚の忖度が横行しているという。要は口には出さないゆえに忖度を請い、商業マスコミや言論貴族や売文の輩には追従を、これまた口には出さない暗黙の了知として利用している。

文は経国の大儀にして不朽の盛事なり」を解せず、学校歴も豚に真珠のようだ。

 

昔からこれを強いるような小人は、問題が起きると言い訳するか逃げるのが常だのようだ

証券界はあの山一だが、不祥事の責任者はイギリスへ逃避、ほとぼりが冷めてから舞い戻り、不良債権の飛ばしであの破綻劇になった。政界を揺るがしたグラマン・ロッキード事件の時は岸総理の側近の川部美智雄氏は委員会喚問を避けてブリュッセルの「日本館」に逃げている。この時は安倍晋太郎氏は「みっちゃん、しばらく日本館に行っていたらいい」と助言した。縁は甦るのか、あるいは倣ったのか、森友騒動では総理夫人のお付き役の谷女史を海外の大使館に逃がしている。言い訳はあるだろうが、真摯な問題解決意識は無きに等しい。

 

あの世界では当たり前なことだが、世間に晒されると疑獄事件など数えきれないほどある。

分かりにくいのは海外利権だが、明治のシーメンス事件から始まって、戦後のインドネシア・韓国などの賠償、満州国の日本国内財産の詐欺的強奪、など、何のために、お願いしますと声を嗄らし土下座までして代議士になりたいか、その魂胆がよく見える醜態が繰り広げられ。

シーメンスは物の売り買いのバックマージン、東洋では賄賂、隣国では「人情を贈る」という。川崎重工の潜水艦マージンもそうだが、近ごろでは潜水訓練の深度や時間をごまかすさもしい悪事が常態化しているとのこと。岡に上がったセコイ狡猾公務員に倣って、カラ出張ならぬ空潜り も考案したらしく、うちなる賊の増大は各分野に蔓延っている

よく隣国に強く言えないとの風潮があるが、前世代が侵略した贖罪意識だけではない。

手練手管の外交は金と異性が勝負になる。スカルノ大統領には好いた女性を斡旋したが、逆なこともある。ハニートラップという色仕掛けである。だがこれは可愛いもので、せいぜい噂話や家庭騒動になる程度だ。

 

金になると要求する者は可愛いいもので、渡すのではなく預ける、ここでは人に投資するように渡すことがある。あるいは貿易物流の利権などだが、大豆1トンにつき幾らのコミッション。石油もメジャーブローカーと組んで利益をむさぼっている。この海外利権の迂回濾過装置が商社であり海外施設なのだ。「日本館」もそれに利用されていたのだろう。

なぜ、ベルギーに財界などから資金を集め日本食料理屋を作ったのか。前記の岸総理の側近だった川部氏を匿ったのか、よほど国会で騒がれていた航空機リベートのことで川部氏証人喚問が危険だったのか、よくわかる情況だ。

 

その連中は狡知がことのほかよく働く。そのための高学校歴なのだが、判明すれば捕まるのは国の税金補てんで学んだ国立大学出身だが、検挙する側も同様な学校で、国民からすれば税金で何を戯れているのかと、諦観(あきらめ感)にもなっている。

 

今回の改竄も東大から財務省だが、これに倣って各省の貪官もそれに続く。

議会も相変わらず官僚の書いた答弁書の腹話術だが、このところ大臣など誰がなっても良いくらい、適材ならぬ、粗製乱造の様相だ。

 

筆者は国会・行政府の騒動を、なるべく眺めるように心がけてはいるが、その群れが何を座標に言を立てているのか、また、行き着く先の「取り付くシマ」をどのように考えているのか、最近、とみに不安になってきた。

 

日本は政教分離が騒がしいが、米国では議会宣誓に際しては、聖書に手を置く。コーランの国も同様だ。台湾は民進党になっても総統宣誓は、国父孫文の遺影だ

翻って我が国は言葉や行動の範なり誓いを何に求めているのだろうか。国会ではテレビカメラ、委員会では任命者(使用人)の宰相なり政権幹部。つまりご都合で「言」が変わる曖昧さだ。

 

隣国の商店に「言、弐値なし」と看板がかかっていた。表示は定価で、二つの値段はない、つまり正直だということだが、人によっては、弐値はないが、参値、四値、五値もあるということだ。外交も人が変われば約束は反故だ。これは商いなら面白く躍動感があるが、近ごろではスマホをかざせば済むキャッシュレスだ。路地裏の買い物も面白くない。人民公社と同様、彼らの気質には馴染まないと察するが、いずれ狡知を働かせるはずだ。

 

その、弐値はないが、聞かれれば、二も四も五もあるとなると、親切さと正直さがなくなってくる。津々浦々とこでも首長(官吏)と議員の論争は似た状況となっている。自身の任期満了の失業対策選挙も騒がしくなるが、その因は「人のため」「生命と財産を護る」「平和な国」と謳い誓う座標は何か、言うこともなければ、聴く者もいない。

 

   

    二月の皇居東御苑

 

 

政策は踊り、対策も忙しい、それは落ち着きのなくなった人間の問題だ。

目標は財貨獲得の繁栄に偏重して、エントロピーの法則を喩えれば、山が高ければ谷は深くなる。本来は谷の深さが政治の問題なのだが、振り返ることもなく、大衆の欲の亢進に勤しみ、谷はより、その深さを増している。

 

その谷の由縁を考察して為政の欠陥を癒しているのが現在の国民の天皇観だ

喩えは奇だが、敗戦後、一部の高官は割腹自裁して責任を遂げたが、逃げた者、隠れて戦後要職に就いたものも数多いた。

しかし、いくら高官でも戦勝国の司令官に会いケジメをつける者はいなかった。いや任に適い耐えうる存在ではなかった。まさに、取り付くシマとして天皇の威徳にすがったのだ。

今は、当選した選良と名利位官を得て食い扶持を得ていても、土壇場で役に立たない群れは、歴史の証左に数多くあらわれている

 

せめて、身を引き締め、部下郎党の綱紀粛正に目を転じてもらいたいと思うのだ。

巷の下世話かと考えるが、せめて平成の御世の結びの備忘録として、次代の縁(よすが)としたい。       

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宰相として為すべき学問の特殊性 其の三   2009 7・22R

2024-09-07 01:20:33 | Weblog



美しい国》とはあるが、通常、至るところで「清く」、「正しく」、「美しく」が三拍子のように日本人の生き方として唱和されていた。
美しいものには前提がある。ちなみに可愛い童子が「ハイ」と応える様子が隣国の「美」の意味と聞く。

素直で、清く、正しく、が美しい姿なのだろう。
つまり清く、正しくを人の姿として、国民に人倫の道を表わすことが政治家に課せられた最低限の勤めだということである。

それが説明、解釈もなき美しい姿ではないだろうか



               






以下本文

【人としての日本民族】


学問といえば家庭の躾、朋友との練磨、伝統歴史の自習といった郷学、藩校での学習,海外での見分など゛成長に沿った多面的な学問習得から,真に頭の良いといわれる「直観力」「先見性」「勇気」を涵養,自得している。 

歴史の機会や時に委ねても、同じ国土に、単に時を違えて輩出された人物を思うにつけ,忘れてしまったものに対する愛顧は募るばかりである。アジアの大衆から光明と謳われた時は財も知も借り物だった。いまは自前だが、この落差はより人物としての『相』の存在を想起させる。

『相』の存在と育成に心慮する聖喩の言葉は、現代にも通用する疑問や,諸事おきる忌まわしい官の腐敗や,教育の荒廃など、我々に国家,国民という呼称ができあがった頃の明治人の苦しみと憂慮が、そのままの状態で継続されている。

果たして日本人としての性癖なのか、あるいは集団になると涌き出る国癖なのか、歴史を煩わす諸事の根本的憂いでもある。

未完

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宰相として為すべき学問の特殊性 其の二   09 7/22再

2024-09-06 01:26:18 | Weblog

               
               八景 称名寺


《国家百年の大計は人を樹る事にあり》
 国家、国民という呼称が出来上がった創成期に国家リーダーであった天皇の憂慮は、大正昭和の立身出世、学閥、或いは軍閥など、エリートの堕落によって現実のものになった。

 それは競争なり発展を否定するものではなく、その収穫を利他(国内外)に効あるものにするために、地位、名誉.権勢といった欲望に恬淡とした人物の養成、つまり国家のリーダーには人類普遍的な精神の涵養が教育の根本に据えなければならないという天皇の意志でもあり、西洋合理主義との関係において調和すべきもの、あるいは、堅持すべきものの峻別を促したものでもあった。

ここに教育面において『相』の養成に心を砕き、当時(明治初頭の大学教育とその学制)の教育に憂慮を抱いた天皇のエピソードがある。




            


           深層の憂慮に添う


「聖喩記」 

明治天皇の侍従 元田永フが天皇の言葉として記したものである。
「喩(ュ、さとす)」は、諭す、分からせる、ではあるが、「君子、義において喩る」の、ここでは「教育に敏感で疑問を取り出してさとす」と考えたほうが、この場合は理解しやすい。

明治19年11月5日 元田永フ謹記とある。
小生の拙訳だが

11月5日 午前10時 いつものように参台いたしますと、陛下は直接、伝えたい事があるとのこと。私は謹んで陛下の御前に進み出る。 陛下は親しく諭すようにお述べになった。

「過日(10月29日)帝国大学(現東京大学)の各学科を巡視したが、理科,化学,植物,医学,法科はますますその成果は上がっているが、人間を育てる基本となる修身の学科は見当たらなかった。
和漢の学科は修身(人格、識見を自身に養う)を専門として古典講習にあるというが,どこにその学科の存在があるのか。
そもそも大学は我が国の教育でも高度な人材を養成する所である。
しかし、いまの設置している学科のみで、人の上に立って政治の要に役立つ人物を教育できるような姿であろうか。
設置されている理科医学等を学んで卒業したとしても『相』となるべき人材ではない。
現在は維新の功労者が内閣に入り政治を執り行ってはいるが,永久に継続する事はできない。 

いまは『相』となるべき人材の育成が重要だ。

しかし、現在大学において和漢修身の学科が無いようだが、国学漢儒はかたくなで、狭いと思われているが、それは、それを学ぶ人間の過ちであって、真理を求めた学問を狭い範囲に置くのではなく、普偏な学問として広げなければならないと考える。
わたくしは徳大寺侍従長に命じて渡辺学長に問うてみる。
渡辺学学長は人物の養成についてどのように考えているのか。
森(有礼)文部大臣は、師範(教師育成)学校の改正の後、3年経過の後、地方の学校教育を改良して面目を作るといっているが、中学は改まっても現在の大学の状況では,この中から真性(ほんもの)の人物を育成するには決してできない。君はどのように考えるか。」


《小学》
,躾(躾「身を美しく」)で表す習慣学習は親子,兄弟,朋友の位置と役割の分別から発する調和のための礼儀や作法。あるいは身や立脚する場を清潔にする清掃など自己と他人の別や、知識,技術を活用する為の前提となる人格,徳性を習得する学問

《大学》
小学を習得した後、思春期の問題意識から自己の探求、そして必要な知識,技術を練磨した後に己の存在を明らかにする学問




                

             
            天を敬し 人の尊厳を守る




ここでは明治天皇の掲げる国家の形態や構成する人材の育成など、特に問題意識となるリーダーの養成方法についての不備を説いている。

また学長や大臣に対する考えは近代国家,富国強兵に突き進んだ明治初頭の国家経営の拙速さも読み取れる。

兵学でも陸軍はドイツ,海軍はイギリスといわれているが、陸軍などは拙速の余り戦術論が主となり国軍としてのあり方などは、その後の盛衰や錯誤の端となってしまった。

 明治天皇が諭すとおり日露の戦役における両軍兵士の勇敢かつ潔さ、あるいは敗者に対する礼と哀れみなど,戦術論で言う如何に欺き,如何に大量に破壊するかを知識として学んだだけでは日本民族軍としての矜持を添えた姿にはなりえまい。

戦う集団の武士道と民兵の違いはあれ、たしかに大量補充の問題もあろうが、規律,統率を力とする軍のリーダー如何で軋轢,禍根の芽は摘まれたであろうことは実証としてある。

 もちろん、今の各方面のリーダー像と比較しても大差ない問題を噴出させていることでも事実だ。
司馬療太郎氏の小説,坂之上の雲に著わされる乃木,東郷,児玉,秋山兄弟の表す矜持は今でも政経組織のリーダーとして通用する器量を備えている。

以下次号

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宰相として為すべき学問の特殊性 其の一   2009 7/19再 

2024-09-04 08:05:54 | Weblog

    「名山の元に名士在り」と謳われた岩木山 (陸(クガ)かつ南)作



【再度の総理だが、当時に戻って考えてみたい】



平成19年8月27日 
安倍総理は参議院選挙惨敗後、早々と続投宣言をおこない、明日新しい内閣の布陣を発表するという。

独り鎮考するというが、以前と同様つねに被写体フレームに顔を出す家族ぐるみで飲み仲間の官房副長官の進言があると思われる。なぜなら官房副長官の選挙区では当初の組閣で安倍さんから唯一相談があったと吹聴しているからである。

あの時も総理は河口湖の別荘で独り組閣人事を練ったことになっていたが・・

若者二人は宰相の意義を真摯に熟慮したのだろうか。

老婆心ながら彼らの別世界にある、いや官制学校歴マニュアルには無い人間学から「相」の存在を考察してみたい。



     

               宰相 臣茂



【以下本文】

『相』について

『相』は木ヘンに目だが、木の上に目を置き遠くを見通せるといった意味で、政府機間でいう何々相は,歴史の必然性と方向を見通せる立場を表している。
つまり先見の明で表わされる「逆賭」の問題である。
アカデミックに合理を追求したり、歴史の必然と言っても、因果律といったように原因と結果について突き詰めた理屈を拾ったところで皆目,答えが出てくるとは思えない。

ところが碩学、南方熊楠いまどきの脳髄では曖昧な部分に棲み分けされている因を縁と関わりを持たせ「因縁」、所謂、「縁」の必然として随所にその探求を試みている。
熊楠は仏教にある曼荼羅の深遠な真理から確信に辿りついたというが、縁の遭遇といった意味ではこんな言葉もある。

「経師、遭い易く 人師、遇い難し」
経とは五経のように教本の解釈や知識,技術の類を講ずる先生はどこにでもいるが、感動や感激を添えて人間の師となる先生にはなかなかめぐり合わない。
それと同様に国家においても「相」を備えた人物の出現を待って久しい。

ならば現代の官制学の勉強という記誦方式において「相」となるべき人物の養成は図れるだろうかとなると難しくなってくる。
文頭における先見性といった一部分の解決には、集積データーや科学的根拠という説明材料を高尚な書物に著したり,前段で自己の領分に事例や仮設を貼り付けたところでどうにか様にはなるが、肉体的衝撃を伴う場面では、からきしだらしない姿を露呈してしまう。

とくに「相」は決断の責任や歴史の継承者としての任があるため、単なる知識,技術では納まらないものがある。
ならば『相』とはどのような人材なのか。
近代といわれる歴史の岐路であった明治初頭の人物養成について、貴重なエピソードがある。




               




筆者が貴重というのは、平成現代が抱える政治,経済,教育を論じる時,最も重要な構成要素である人間の所作にかかわる問題だからである。

官民を問わず、組織やシステムはその操作,構成の課程には全て人間の存在がある。
たとえば国家の構成は民族,領土、伝統の3要素といわれるが、おのずと(自然に)存在する領土,伝統とはべつに、民族は意志という己の探求如何でどのようにも変化できるものだ。
歴史は探求,欲求が及ぼす不調和を補う為に掟や法といった意志決定の客観性をつくりだし、また,尊敬や忠恕といったような全体の調和に欠かせない「礼」の自得としての習慣学習を促し,人物,人格といった自他の現存の上に立った『自尊』という誇りや矜持を教育といった場面で涵養を図っている。

明治初頭の学制においては。小学では冠に「尋常」をつけ、怖れず,騒がず、といった平常心の自得を習慣とし、将来の思春期の問題意識へて大学の自己を明らかにする(明徳)大前提の必須として,時には強制的に行っている。 
《ここでいう小学,大学は「校」だけではなく、古典にある「大学」の意を含んでのことである。》

そこには幼子であっても身を護り、身を委ねる対象としての尊敬される教師の姿があったことは言うまでもない。

また,その人物像は人生の折々に想起され、縁に触れ蘇えるものですが、同様に国民が『相』の理想像を描き,相親しむ人物像は知識,技術の習得だけではその範になり得ない。人間の人格,徳性を兼ね備えた『相』の出現は現代のカリキュラムには無い「人間学」的要素をもった学問が必要になってくる。  

 尚更のこと『相』の人材育成過程ともなれば、知識,技術,さらには一過性の暗記,点取り術では『相』の存在さえ、あの科学的、合理的とおもわれる説で覆い、その認知さえおぼろげになってしまうのが現状である。




               




立憲君主,議会制民主主義といっても、熟練した政治手腕を持つ人物如何によって、その興隆,衰亡の姿が刻まれることは歴史の証明するところである。
我が国の律令制度が定まり、各期の政治体制は公家,武士という身分社会のそれぞれ『相』によって政治が行われ,戦国の世でも頼朝,秀吉,家康らの武士の頭領も征夷大将軍に任ずるという勅令によって、いわばお墨付きによって拝任している。
近代国家のさきがけといわれる明治においても、万機公論が謳われるなか天皇の輔弼(ホヒツ)として宰相の存在があつた。

戦後、吉田総理は書の末尾に,「臣茂」と署名している。
勅令を発する天皇の側としては、どのような期待を『相』に抱くのか.あるいは『相』の習得すべき学問の内容とはどのようなものなのか、近代の歴史で天皇の発言が際立った明治期の例に考えてみたい。

以下次号

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選挙ポスターはいつから笑う(嗤う)ようになったのか  10 7/28 再

2024-09-02 00:07:45 | Weblog

あの頃と同じく変わらない 後藤新平



古臭い考えかと思うが・・・

街中のいたるところに掲示されている選挙ポスターだが、今どきはデザインも印刷もナカナカのものである。

そして多くが歯を晒して笑っている


書きモノの中身は公約が姿を消し、マニフェストやらアジェンダと゛盗って?゛つけたような異文化の文字が約束事として羅列されている。
この横文字で有権者の大部分は半知半解のマジックにはまってしまう。

昔は「国つくり」「まちつくり」が脚色され、゛お年寄が安全に暮らせる゛゛夢と希望の描ける゛など、曖昧だがどこか納得させるものがあった。

近頃では具体性と説明責任が加味され医療や年金、雇用が細かく謳われるが、これもあてにはならないことを国民は承知している。  今は「安心・安全」だが、これも易しいが、優しくない

ちなみに防衛や外交は票にはならないと語らない、いや語れない候補者が増えた。
当選に必要条件は駅立ちと握手、そして有名人の応援演説だ。
また、何よりも歯を出した笑顔が大事な用件だという。

「熱き叫び・・」とは田中角栄氏のはじめてのポスターだが、今どきは野暮で古臭いらしい。どうせ陣笠で官吏の不作為の言い訳に使われると判っていても、いずれ実力者として郷に役立つだろうと,タニマチのように時間を掛けて育てる地域ボスがいたが、結果と利のリターンが早くなったせいか口が達者で映りの良い候補者が選ばれた。

 

今回の参議院でも多くの職域団体からの推薦があった。ある省ではオンナに問題があったキュリア官吏を補助金団体に委ね立候補させている。官吏はつねに生涯賃金に頭を絞っている。たかだか代議士は落ちれば徒の人,生涯給料は政策責任もない安定職官吏には敵わない。しかも国会の言い訳は代議士がやってくれる

あの地方分権が叫ばれている自治体とて市会議員と課長は同じような給料だ。

ただ、税金経費は議員の方が使う。
あるとき〇〇砲と云われている週刊誌記者が駆け込んできた。

その元建設官僚も欲張りなのか関係業界からの口利き献金の収集に忙しい。

日本人だが外国人風に髪を染めたオンナを係りにして外車、別荘をねだり、補助金団体の役員技官の便宜を図っていた。

本妻が苦情をいえばオンナは、゛その生活を維持したければ・・゛と脅す始末。それが辞める時に「参議院の本義にももとる」と、野暮な言いぐさで離党までしている。

この議員もポスターは笑っている。
標記だがいつごろから歯を出して笑っているのだろうか。
また、その頃からだろう西洋の外交儀礼だと称して女房と手をつなぎタラップを降りてくるようになった。選挙でも女房は髪を振り乱し土下座までするようになった。
候補者もイケ面だからと亭主にけしかけ物書きや芸人が数百万票獲得するようになった。
思慮分別の無くなった国民から頭数を掠め取る選挙が蔓延ったのもこの頃からだ。




中央とパイプがあるとか役所に顔が効くことも役人天下を如実に示すことだが、この時節に金の差配権限を戻した途端、数兆円の裁量予算、いや欲望を喚起しいらぬ競争心を煽り民意を混乱させる狡知が再び頭を持ち上げてきた。



  

  国会の開会
              

                        
喩えは悪いが、女房(官僚)が自由を担保にして恣意的に配っていた家計(予算)に釘を刺し、財布の管理と使い道を限定した途端、うわべは何ら変わることなく巧妙なサボタージュを子供(部下)を巻き込んで始まった。

亭主を気取ったところでスーツを買い、バッチをもらったが、渡された財布はカラッッポ。これでは体裁が取れない。鼻を膨らせたところで威厳も無い空威張り。もちろん房中の秘事も拒むことは無いが無感動。

だだ、こんな亭主にいつまでも威張られては堪らないと、あの祖父の様に唐突に大風呂敷を広げさせ他人にもボケたように見せることで、巧妙に外からも内からも攻め立て、堪らなくなった軟弱亭主は財布の管理と使い方を再び女房に任せるように仕向ける。

すると、どうみても収入に見合わない臨時小遣いが渡され、またスーツに似合った空威張りが始まった。

どうも家計の目的を旦那の自由にさせてはならない。子飼いに迎合され歓心をもたれなければ女房のプライドが許せないらしい。

また、さもしくも卑しい子飼いが増殖し教育にも悪い。

多数の危機・・、消費税の広言・・・、惨敗・・・、戦略局形骸化・・・、二兆円
どこか女房の狡知と類似している。同じ餌でも税のような苦い餌はだれも喰い付かない。
言わされる亭主も高級な竿を渡されて意気込んだようだ。
しかも錯覚した潮目と海流のデーターも女房が優しく小耳に呟いている。




       

          北一輝   陳基美



同じ大風呂敷でも後藤新平や孫文は笑ってはいない。
どうも雄の子が歯を出して笑うのは、こと精神的、肉体的にも衝撃を受ける有事指揮の立場におかれると思うと薄気味悪い。

想像してみて欲しい。

この時世に嗤う男が、「お願いします」と哀願する。

国民のために命を懸けるという者が笑っている。

そんな男の覚悟は如何に・・・・

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教員の庇いと足の引っ張り 2013 あの頃

2024-09-01 02:59:53 | Weblog


「正」は、一に止まると書く、美は羊が大きいと書く。だから親は正美と名づけをする。
名前をみれば親の見識が判るというが、見識の「識」は道理の如何だ。バラバラにすれば一止羊大だ。じつはこの章を書きはじめたら産経で一止氏の「教頭が・・・」というコラムが載った。偶然か、この一行を書きはじめたら朝刊が目に入った次第。


このようなペンネームも珍しいが、意味解きも簡易な名前も面白い。ただ、正美だと考えれば、よく唱える三連がある。「正しく、美しい」の先頭に「清く」がなくては正しくも、美しくもない。清一止(清正)の方が呼び方はともかく、教員くらいにはなじむ。

その「教頭が・・」だが、職場の愚痴は子供には関係ない。まして民間校長を入れると折角期待していた校長の椅子が狭き門になると、本人は真剣だが国民にとっては失礼千万のことだ。

こどもは偉い先生より、善い先生を望んでいる。まさに言ってはいけないこと、してはいけないこと、「一」にいう矜持、自制のポーターラインに「止」まる「正」ではないか。
教員は世間知らずとの評が多くの国民にあるが、まさに大手新聞のコラムに陳列した編集者に賛意を呈したい



 

桂林の小学生




以下は、氏とは大きく異なる切り口であり、戦後の教育畑で理想を掲げ、食を食んだ方とは立つ位置の違う考察を記したい。
それは、教育畑の臭いのする論ではなく、数多の「公」に位置にある人たちの人間考察としてみたものだ。

安倍さんの「美しい国」も、清く、正しく、美しいと繋がらなければ締まらない。だから弛緩したり、忌まわしい問題が噴出するのだ。
とくに発展や復興を謳うと金にまつわる話が多くなり、国民もそれに倣ってさもしくなる。せめて陛下に倣って忠恕心を政策に投影してほしいが、もともと清く、正しい人間は政治に馴染まないという世界ゆえ、せめて巧い、利口だといわれるより、立派な政治をして欲しいと大多数は考えている。

教員とて数値評価の競争知学もさることながら、立派な子に育ってほしいと願うものだが、その立派の評価が学校歴や官職、就職先では子供も大変だ。せめて、他に対する優しさと独立心だけでも世間は期待しているが・・・
つまり、清く・正しくも、立派も文字やスローガンにはあるが、意味することすら考えていないような現状だ。しかも、そんなことを掲げたら上げ足をとられる恐れがあると心配する不埒な輩もいる。

よく職業に染まるといわれる。とくに昔は尊敬の対象だった医師、警察官、教員はそれららしく振舞うせいかその傾向がある。警察官が博打好き、教員が女好きの痴漢や覗き医師が助平変態では格好がつかない。近ごろでは俺たちも平等な人間だと、せっせとその趣味に勤しむものも多くなってきた。

昔は尊敬され結婚式にも招かれの常連だったが、いまは怨嗟の対象になり下がっている輩もいる。

それも現職時だが、辞めると堰を切ったように弛緩する。居酒屋でも隠さなくてもいい前職を隠しつつも、大声で場の仕切りをする警察官もいるが、まだ医師のほうがスマートなのか渡辺さんのように色数寄を広言して物書きになったりもする。
滑稽な体験だが、ある店でぼそぼそ呟きながら酒を飲んでいた男がいた。小生より年かさにみえたが、職場の話になった。




台北の小学生




「いや・・、区立の○○小学校の教頭をしているんです。でも定年をのこして辞めるんです。校長になると面倒なことも多くなり、教頭も大変だし、辞めてやりたいことをするんです」

「子供相手で愉しいし、志望してなったのでしょ」

「いや、親が教員で生活に心配ないからと勧められて・・、結構、教員夫婦とか親子が教員だとか多いようですが、みんな子供が好きで高邁な目的など持っている人は少ないですよ。ましてや若い教員からせっつかれ、校長からは対応を任され、大変ですよ。」

「ところで辞めて好きなことをすると言いますが、なにか趣味でも?・。人生の平均年齢まで二十年、そっちの方が大変ですよ」

「いや、女房は現役教員ですし、留守番してネコの面倒でも見ようと思ってね。」

「それが、辞めてやりたいこと?。好きなことなんか半年で飽きますよ。せめて人生でやるべきことを今まで考えていなかったのですか。」

「ネコと旅行と・・・」

「本など読む?」

「・・・・・・」

「近所の学校なので教え子が遊びに来るでしょう」

「いまどきそんな教員はいないし、関係も築いてはいないですよ・・」

「職場が大変だということは・・・」

「上からの決まり切った指示と、若い教師の理屈混じりの反抗的態度。親の中にはモンスタ―といわれる人もいるし、退職前の校長はみんな私(教頭)まかせ、しかも子供は馴染まない、こちらも登校拒否をしたくなりますよ」

「でも待遇はそれなりに」

「いや、教員は公務員の中では特に待遇が良くなっているが、慣れれば当たり前と思い、今度は職場環境や授業時間の短縮などで不満が出てくる。いくらでも理屈が立てられる小利口さもあるものだし、みんな楽できるものだから反対もしない。上っ面では子供もなつかないよ。自分でいうのも変だが、昔は役職に権威と責任もあった。その権威が良くないということで議論が出てきた。言い合ったらヘ理屈に根気すらなくなるよ。

対外的な規制や制度で大変なのではなく、内部の人間関係と職掌の規律が緩んできて、その恩恵をどこかで受けていると思う気持ちで、だれも意見を言わなくなった。教育委員会も形式化して同じようになった。なかには生涯賃金と待遇ばかり考えるものもいる」




   「黙して考える 」   新京の家族



「教員の採用時の意識に問題があるようですね」

「親がどこかの役人か教員も多い。なにしろ一度入ったら余程のことがない限り解職はない。勤務だってあの頃の闘争で現場はうやむやが多い。それも校長もやっと成れたもんだから御身大切、みな教頭に回ってくる」

「モンスターの気持ちも幾らか分かる?」

「いや、あれは別格だが、本論をいってくる親御さんもいる。だだ、受ける方が逃げ腰で不作為、糠に釘状態で可哀そうな時もある。以前、生徒が先生の肩を押して『先生』と言ったら、さして強く押したわけでもないのはまわりの生徒が知っていた。

ところがその教育実習の先生は整形外科に行き診断書を持ってきた。後で聞くとスキーで怪我して治療中だった。治療費は36万円。この場合は街なかの交通事故と同じで加害者負担、その生徒は加害者として賠償責任が生じた。母子家庭のお母さんは払った。

この場合は校長判断で公務災害にすることもできるが、自分の都合で生徒と先生の交渉に任せてしまった。生徒は可哀そうだと生徒や先生からも声が上がったがなにもしなかった、そして無事退職。その被害者といわれた先生もすぐ実習が終わって海外旅行へ行った。このことで町の世話人も動いてが、議員は選挙が忙しく空返事、区の職員は不作為、いまでもこの子はお母さんに月々治療費を返している。高校にも行けず塗装の仕事をしている。

上ばっかり見ているヒラメ校長だと教頭も動けず、かといって教員も非人情が多く、一体となるのは飲むときとか要求を持ってくるときだけ、町中の宴会などは警察官と教員が一番行儀の悪い客だといわれ、なかでも女性の若い教員のだらしなさはどこでも語り草になっている。途中で抜け出すのは校長と私(教頭)だけだ」

アベノミクスは経済、いまは銭の話とさもしくなった日本人の姿の今更ながらの露見だ。
下座観があると思えば、また金配り。

あれほど麻生氏も言っていた、さもしい日本人の増殖だ。あのときは「私は手を出してもらわない」と矜持を述べていたが、国民は「格好つけるな」「あんたが貰わなければ政策が進まない」と騒いだが、まともな日本人は「私はいいから困っている方に差し上げてくれ」というのが普通だった。それこそ普通の国だ。
近ごろでは、貰えるものなら何でも貰う、しまいには健康保険詐欺まではたらくものもいる。


それらは分科されたカリキュラムの数値評価に人の選別を委ねる官制の教育制度では直らない。みなそのことは知っているが、あえて問題視することはない。

教員の採点や差配による生徒の数値選別では、親からすれば人質紛いにもなる。たとえ不祥事が起きても声は小さく、なかには迎合する親もいる。

とくに「公」に位置するものの観知力の欠如、無関心、不作為ははなはだしい。たとえ手を出さずとも汚職には変わりはない。そして腐敗、堕落して社会の衰亡だ。その姿は思慮分別をなくして騒がしくなった国情そのものだ。








アベノミクスは、そもそも基点がない。
豊かにする理由、豊かになった後の人の在り様、あるいは知識を得る目的や遠大な使命の共有など様々だが、基となる倣いや教え、そして伝える場面での官制機関の体たらくは、制度やマニュアルを変更し、かつ予算を増やしても変わらない。

あのころ下村博文氏は学習塾を営みながら問題解決に取り組んでいた。また小会に参加して古典にも親しんでいた。その時の講師の言に「一利を興すは一害を除くにしかず」があった。
元の宰相、耶律楚材の名言だが、法律を積み重ね、予算を積み重ねるより、国家の弊害となっているものを抽出して断つ、そのことによって積み重ねることから生ずる弛緩した公組織、ここでは教育畑の覚醒になると考える

つまり、頭の衝いたような文部省による国家の教育から社会や郷の人間教育に戻さなくてはならない。津々浦々の郷に在った土産神は遺棄され豪華な神殿を建造して御利益を謳いお札を売った。熊楠は国民の情緒の破壊とみた。
教育も御維新の無頼者が西洋にかぶれて妙な啓蒙を叫んだ。

以前は藩校のほかに領内には多くの塾や郷学があったが、官制学校の整備で郷に存在していた独特な教養や矜持までがなくなり、人間を数値選別によってその後の豊かさまで担保するようになった。そして、あの西郷や勝海舟、龍馬、晋作のような突破力と土壇場の所作が可能な精神を涵養する人間学が忌諱された。

彼らが学び肉体に浸透させたのは、今どきの古典マニュアルや安チョコ雑誌では補うことすらできない実践的教養だ。懐古でもなければ復古ではないが、すべては人物から発する問題だからだ。

だから勉強は大学まで出ればと考える愚かものが出てくるのだ。大学は終わりではなく出発なのだ。しかも大学は知識を得るところではなく、自分は何者かを知る、明らかにする学び舎だということを忘れている。これでは憧れの龍馬やジョブスにも成れまい。
しかもそれらの偉人賢人は素晴らしいという。ただ、金儲け、ビジネスを偶像視する。

自分を知り、その特徴を伸ばす、そして利他の厳存を知り、許容量を高める、学はそれに尽きるが、知ることはできても、倣う対象がいなくなった。

まさに、学び舎での倣う対象が標題のようになっては子供が浮浪するのは当然だろう。

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「人間考学」 聞くか、聞かんかは、我が知るところなし 2022再

2024-08-31 07:57:15 | Weblog

 

要は、口は軽くても、重くても問題ではない、信と実の忠恕の気概がなくては詭弁でしかない。

写真は関連サイトより転載
2011  再掲載

筆者は御懇嘱をいただく諸分野での講話で、「やりたい事より、やるべきこと」と伝えます。

それは70数億人の地球人が存在する中で、2人として同じ特徴(特質)はないが、多くは他人と異なることを恐れ、情報なるものに翻弄され己の特徴を埋没させている。

成長は特徴を自身で発見して伸ばす、もしグランドが狭ければ、たとえ孤独でも広い世界に進出して天与の特徴を伸ばす、それが、為すべきこと、やるべきことだと一考拙意を伝える。

ときに「狂」の境地と他は嘲るが、内心を探れば似たものと勝手に察している。

それゆえ小楠のように、ハナシではなく語る。(吾を言う)

また先師に倣って駄賃は遠慮する。懐中ねじ込まれれば依頼人の呑みシロか学生ならコンパなるもので消える。

いくら小楠や海舟が来るから駄賃持って聞きに来いと言われても、いくら少しは利口になるといっても、バナナ売りの口上の方が気分は舞う。

金など差し出そうものなら腕は切られても文句は言えまい。つまり了見違いだが、それが「狂」なる小楠の矜持でもあろう。

☆ 「狂」は陽明学のある行き着く境地。アップルのジョブス氏もその気概を述べている。

 

智将 秋山真之氏も戦後、戦勝に浮かれた将軍達からは、おかしくなったと言われた。兄は故郷松山の小学校の校長、真之は孫文の辛亥革命を俠助  地位名誉に囚われない。

世間はこの生き方を変わり者という。言い募った群れは昭和20年の結果を招いた。

 

 

標記は、勝海舟が怖い人物の一人としてあげた横井小南の言葉を、天皇の側近であった元田永孚が聞き書きしたものである。海舟のいう恐ろしい人物のもう一人は西郷である。

「私は誠意を尽くし、道理を明らかにして言うべきことを言うだけである。相手が聞かないだろう(分からないだろう)とおもっていては、その人(人物、機会)を失ってしまう。だが、聞きたくないというのを無理に強いると、言うことが無駄になってしまう。相手が聴こうと聞くまいと、我は言うべきことを言うまでである」

「将来を考えるにあたっては、成功するかしないかは、ただ言動を正直にして、世の中に阿(おもね)ないことだ。道理さえ立てていれば将来の子孫にも志操は遺る(のこる)ものだ。そのほかに言うことは無い」    ・・・阿る(迎合)

安岡正篤氏はその小楠の姿勢を至誠への「道」として度々論じている。
ここで大切なのは、「誠意」とか「道理」とか「正直」、「志操」、「将来」、という文字をどう考えるかということだ。加えてその関係性や実効性と養い方の問題である。

教えを請う総理たちにも論語をひいてこう訓導している。
温、良、恭、倹、譲、これを以って施政をおこなうことが肝要

※ 各文字は漢辞典の参照を請う

あの福田総理には「任怨分謗」(怨みは吾身で受け、謗り(そしり、非難)は他に転嫁しない)を伝え、宰相のあるべき姿を説いている。

これらは、いくら試験勉強をしたり、暗記術に長けていても、もともと官制学カリキュラムにもなく、遭遇といってよいほどの機会がなければ知ることも、その必要もない教養である。

ましてや漢字を知っていても読めたとしても、習慣化、肉体化するためには別の修練と、覚悟の目標を立てる機会が必要となってくる。あるいは、それ以前に宿命感に堕してしまうと理解の淵にも届かない。

だが、その機会の遭遇はいたるところにある。浮俗の生活や、仲間、師の縁からも吸収できるものだが、往々にして部分検証のみを論の根拠としたり、観察座標の定まらない己との観照(本質を見る)は、歴史の俯瞰、将来の先見、己の身の置き所さえ難しくさせている。

小楠は己の潜在する能力を探り、確証と覚悟を言論の座標として名利褒賞を敢えて忌避した。その人格の矜持は言論の背景として人々を驚嘆させ、あの海舟をもって畏怖の念を抱かせた。それは、西郷隆盛、吉田松陰らの共感と、それに連なる志士達にも伝播して行動を喚起している。



                  
                言うべきことは、云う  後藤田正晴


 
人を得ないのか、機会を逃しているのか、あるいは感応しないのか、それは頭と手足が連動していないのかと不思議なおもいに駆られる。

聞くか、聞かんかは、我知ることなし


あの当時は意見出版もなければ、著作に権利もなかった。良ければみなで活かして欲しいと願っていた。商売人が挨拶代わりに使うこともなかった。何よりも小楠の意志を理解する人々の教養が今より高かった。

当世では「解らん、意味ない!」と言われるような言辞だが、無学で古臭い筆者にとっては、多くの示唆を与えてくれる一章でもある。

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「教員の待遇を良くして給料を上げよ」と、北野たけしさんは言うが・・ 15 8/8 再

2024-08-29 02:45:46 | Weblog

北野 武さん

 

2024   8/28  東京新聞

 

 


≪3/10  また教員が頭を下げている。≫


筆者がガキの頃、毎月爺さんと浅草に行った。本堂の足場が架かっていた頃だが、普段は教えもしなかった爺さんは「あの瓦の裏には名前が書いてある」とぼそぼそ語っていた。どこに行くのも、いつも、゛なっぱ服゛を着ていたせいか、本堂から六区に行く途中の路地の呑み屋で一杯入れていくが、店の婆さんが『税金の都合でお銚子一本になっているんで・・』と、浅草でも着なりをみるのかと不思議になった。爺さんは孫の前で恥かしそうだったが、余分にスズメという串刺しの小魚をたのんでくれた。

六区では石井きん、大江美智子、浅香光代、大宮デンスケの人気者が看板を掛けていたが、総なめした。そのうち明治座で曾我廼家五郎八まで連れて行ってくれた。ロック座があったようだが、爺さんは早足で劇場側を歩いて見せないようにしていた。大人になってから寄席に行って三平を聴いた。新国劇も島田正吾や辰巳柳太郎が渋く格好良かった。妙な縁て鎌倉の別邸の改築に一カ月泊って朝の地引網を愉しんだ。

当時は東上線もイモ電車といわれ、埼玉の年寄りが油を塗ってある床に新聞紙を敷いて酒盛りしていた。熱海か伊東、成田山が相場だ。上板も進駐軍の引っ込み線があり秩父のセメント貨車や薪や墨俵も運んでいた頃だ。池袋からはトロリーバスで雷門まで一時間ほどかかった。まだ武さんも足立で頑張っていた頃だ。

筆者も見上げる大人が視界を遮っていた頃だが、境内のバナナの叩き売り口上やガマの油売りが見えないので、爺さんは肩車をしてくれた。「裏も表もバナナだよ」と、いま思えば滑稽だが、新聞紙にくるむとオッチョコチョイは財布を出す。ガマは武士の衣装で何故か猿が付き添って?いる。刀で腕を切り付け油を塗ると傷がない。肩車から大人の姿をみていると、首を出したりひっこめたり、頷いたり、手を叩いたり、この興奮は寅さんに引き継がれた。

当時の役者や露店の縁者は、真剣だった。相方もそうだが、客も真剣だった。想いだせばバカバカしいが記憶が鮮明だ。相対の面白さがなくなったというが、これはテレビやネットのせいでもない、人間の厚みと許容が乏しくなったのだろう。とくにデン助や均さんの面白さは、懐かしさだけではなく、江戸の悪所と云われたエンコ(浅草)に集まる当時の善人が醸し出す風があったようだ。ヤクザも芸人も吉原のやり手婆さんや女郎まで、当時はまともだった。そのまともが悪をやり、笑いをやり、春を売っていた。そして゛まとも゛には物わかりよく付き合い扱った。たが、゛まとも゛でないものにはきつかった。

             

    物わかりのいい親父 勝海舟

 

週刊ポストの北野たけしさんのコラムで書いている、いや、゛云っている゛
彼の商業出版の多くはしゃべりの文章化のようにみえるが、ノッているときは前後のまとまりがあるが、ときおり俗っぽい風があるときがある。
金に困った、女がばれそうだ、朝まで飲んだ、人並みな男はそれに影響される。

たけしファンに合わせて易しく(人を憂う、優しくではなく)書こうとすれば、ひら仮名を駆使して行間を空け、短い句読点でまとめると、これまたよく売れる。難点はもっと易くしようとすると読者の層は増えるが、一過性の記憶として流されるような羊のような群れを作り、作者としてはより世俗に迎合した突飛な解釈と表現が求められるようになる。

ときおり難解な表現や能力を見せれば、賞味期限のラベル張替え可能だが、仮借した下座観は、古典落語の重鎮が真っ赤なキャデラックに乗って金鎖をしているようなもので、お昇りの江戸っ子風な、野暮風袋を被るようになる。







林家三平 さん





三遊亭園朝  

落語も口が良く回ることが、頭が良いと思わせる。先代の三平さんとてカタギが呑み席でもしない愚かを芸として騒ぎ魅せることに、カタギはさも有りなんと溜飲を下げるが、所詮は下卑たこととして嗤っているのだ。あの世界では大御所だが、この手の嗤いは、笑ではない。通人ぶった客は三平さんを、あそこまで出来るのは余程の人格者だと想像する。どちらに転んでも木戸銭は入ってくる。
あの人情家の三平さんが人情噺に取り組んだら、園朝なみだと筆者は思う

近ごろでは子供のやんちゃがイジメになる時世だが、大人が人前でやると観客は面白がる。熱湯ならぬ温水を熱湯らしく演技して飛び込ませたり、若き女性に時間内の着替えをさせたり、滑ったり転んだりするのを見て笑う。まだ六区のドタバタ喜劇の方が、品がある。
わざと池に落とした帽子を裸になって取りに行かせたり、向こう岸まで泳げと囃したてた中学生の事件も多いが、それと何ら変わることはない。

いくら遊惰な浮俗でも人前で演技として見る番組が増えたが、この傾向を金もうけの手段とする一方もあれば、他方、惰性ながらテレビをつければ否応なしに飛び組む風潮に嫌気がさしてきているという。近ごろのテレビは・・・・、の類だ。
かといって、視なければいいのだが生活慣性となっているためか、音と絵の変化が傍にあるだけで安心する現代人の姿もある。

どこか、子供をとりまく状況と逃避すらできない世俗の感性は、問題意識の喚起として良く似ている状況だ。安物の番組は企業の景気にもあるというが、雛壇で騒ぐ番組にそうそう宣伝費を出すことも憚るだろう。だからと言って低俗に合わせた低能の番組を生産しても、決して積み重ねることのできる情緒の涵養にはならない。

あのたけしさんのお母さんの逸話や生まれ育った足立区の憧憬は、別物への脱出を描かせた。貧乏や子沢山、親父の機嫌、母の剛毅、今では語るみのとなっているが当時はまだいい方だ。これを苦労とは言わない。
だだ、食い物も着成りも行儀良くては暮らせない。あるのは野暮か粋だが金を持たせればすぐに判る。いくら稼いでも実直な苦労人の親がボロを着ていればロールスロイスは乗らない。親は子供に魅せたのだ。いわんやそんな世界では見栄をはってもたかが知れている。せいぜい座りのよい床の間の蛙石だ






ゲームセンターの開店を待つ生徒  弘前



だからと言って待遇を良くすればその気分(遊惰慣性)が整うとは限らない。もともとそれを売り物にして成功価値を企図して、あえて照れがあるのか成金を装っているが、その浮俗の影響力は、真面目から不真面目に転化させることもできる力がある。とくに今はそうだ。
それらに勲章や教授資格や食い扶持担保や生涯賃金を保障したら、演技は変わるのだろうか。粋と野暮と書いたが、野暮が頑張って粋がるから野暮になるのだ。
粋はとこかでかた(形・型)をとることがある。辛抱ややせ我慢だが、エエカッコシイとは違う。

標題だが、子供の苛めなどの教育問題は教師の給料を良くして待遇を上げれば良くなると、たけしさんは言う。

田中角栄総理も教科書を無償配布にしたら教科書を大切にしなくなったと嘆く。

教育は大切だからと教師の給与を特別優遇したら、尊敬され慕われた教師が、教員、労働者と自称する様になった。ついでにゆとり教育で銀行、公務員と一緒に週休二日にして、なお且つ研究日と称して、終いには、たけしさんの頃に習った教師の勤務時間から比べれば半分近くになった

むかし話だが、結婚式の主賓は担任教師、医師、駐在のお巡りさんなどだった。

今は余程のことがなければ招待されない方たちだ。

故事に「経師 遭い易く、人師 偶い難し」とある。

経師は教科書の説明、人師は人間の師となる人物だ。昔でもなかなか偶い難い人物だった。

登校拒否 数十万人。親が悪い、学校が悪い、だが卒業したら人ごとのように忘れる。

授業担当時間を少なくして、給料を上げれば解決すると思うのだろうか。

果たして数値選別で学校歴があれば人格者が増え社会も整い国が豊かになるのだろうか。

教員の待遇は、あくまで公務員に就労環境と手取り賃金の問題だが、その成果に利する予測展望もなく、待遇のみを問題視する屋上論議に、眼前の問題解決もなく、さほど変わることのないであろう将来を想像するのである。



芸能人と似ているのは二世が多いことだ。目のうるさいところは遠慮しているが、教員の子は教員、公務員の子は公務員。しかも試験もせず臨時採用から本採用も地方では多い。
もちろん政治家、警察官などはその範となる。いま騒いでいる安保法案ではないが、国内では安定賃金、身分保障、生涯賃金の保障、国費を過負担した年金など、その連中には国民とは別枠の生活安全保障が整っている




広州の子供たち




台湾台北 生徒が運営(自治会)する朝礼の国歌斉唱と国旗掲揚式



そこで、たけしさんは定員不足と労働条件の改善に教員の賃金を上げることを解決の一助としている。要求に一理はある。金を出せば優秀な選手が集まるプロの興行だが、高校野球やサッカーがどれだけ毒されたか・・・。

映画キャストでもギャラを多く出せば善い演技が出来るとは限らない。まして監督が有名なら一族郎党を安いギャラで集めてもチケットは売れる。
虚構を売り物にして食い扶持を得る世界は、別世界なのだ。とくにバーチャルリアリティー(虚構現実)を視聴覚に打ち込む世界によってどのように世俗が変化したかを分らないはずはない。


金、地位、名誉、学校歴、それらは人格とは何ら関係のない附属性価値だ。
その虚飾された価値観や成功価値を嘲け笑い、喝采を得て食い扶持を得ることに現世芸を認めるなら、あえて附属価値を金銭の多寡によって変化が起きるだろうと思うことは、そもそも「人として成る」ことを諦めているかのようで寂しい限りだ

小人、利に集い、利、薄ければ散ず

小人の学、利にすすむ」

そんな世界にいると、ときおり麻痺することもあるようだ。
人の気(人気)とは儚いものだ。


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秘録 邦おもえば、国賊   08 再

2024-08-28 00:34:56 | Weblog

            秩父の瑞穂

 


長文恐縮ですが


明治以降の武装集団である軍及び軍官吏の姿に、国の綱維が融解してしまう危惧を推考し、立場ゆえ言葉も少なく、かつ憂慮する人々がいた

あの大西郷をして「こんな国にするつもりは無かった」と言わしめた維新の姿は、その後の国家経営にある教育や外交、あるいは武家社会の人格陶冶にみる武士道とは異なる戦闘集団の武断的志向の残滓を抱えた武装集団の専横が際立ってきた。

文武両道といわれるが、その文にいう文官も名目的学校歴にみる立身出世型官吏の増殖と相まって、議会の権能すら有名無実な状態に堕し、そこに棲む伴食議員の群れがその風潮を進捗させ、国家を方向を誤らせている。


これを憂慮する人々がいた。

しかし、彼等は肉体的衝撃を厭わぬ勇に乏しかった。

力のある者に抗するのは謀と、対抗者たる他国の力を借用するしかない、またそのように考えるための道筋が彼等の交流範囲にあった。


             


上海の東亜同文書院は近衛、尾崎に多くの異邦の人脈があった。また彼等は欧米の支配階級ともその縁は深いものがあった。

内外に夫々の事情ある。また様々な検証があろうが、不学無術、無名の拙者が体感し推考した観方ではあるが、読者賢者に供するものである。

あの時は軍官吏の専横があった。また愚直な官吏の事なかれも有った。
曲がりなりにも議会を敬するものがなくなると、軍、警、官吏のコントロールは欠如し、名利、食い扶持に囚われた、かつ守られた一群が国家社会を蝕むようになるのは阿諛迎合を性癖とした観のある邦人の倣いになっている。

いまも変りのない循環のようなものに観えるのは筆者だけだろうか。



             
           整理整頓、質素、倹約の民是





参考拙稿  筆者備忘録 「あくまで推測だが・・・」


近衛文麿、細川護貞、西園寺公一、安岡正篤、吉田茂、尾崎秀実、昭和史を彩る事柄に著名人として名を残している人物や、それを取り巻く夫々の立場にあった人間が、はからずも、いや偶然にも意を一つにして振り払おうとしたもののなかに、国家を覆った暗雲があった。

それは武士の生死をともなう緊張感が太平の繁栄とともに訪れる怠惰で形骸化、あるいは既得権としてしか意味の為さなくなったように、明治以降の王政復古とともに再生した公家文化と陋習が、創生された国家、国民という合理的統治との齟齬をきたしていたからでもある。
 
それは牛の丸呑みの反芻のように、口元が妙に落ち着かない面容に噛み切れないものをわけも解らず喰ってしまった困惑のようでもあり、口舌や成文の表現力では到底説明しきれない奇形な様相でもあった。またその後の時世の成立や経過においても説明不可能なために、より外来の優性を比較借用してよりその指向を高めてしまったようにも見て取れる。

公家、教育者、外交官、ジャーナリスト、あるいは色分けしなければ済まないものからすれば、陸軍、海軍、皇道派、統制派の人間模様も含め、しかも出自、経歴までも論証の具になっているが、到底理解の淵に届くことのないようなところにある彼らの国家融解の危機でもあった。

国家の統合と継承は、綱維という歴史を貫く大綱に絡む事象でもある。たかだか人間の所作ではあるが、なんらかの連結の鎖を精神の安堵とするならば、それさえも循環する歴史の中では選択不可能な部分の訪れの期でもあった。
つまり、歴史と現状を観察したとき、彼らの遺伝子的ともいえる観点は、世俗の学制のみの薄知に基づく観察眼しかない庶世の国民とは異なり、歴史の「維」を俯瞰した切り口による考察から導き出された意識がある。


軍は竜眼の袖に隠れ、にあるようなモノノフ(武士)とは異なる意識を持った明治以降の下級武士と民兵のように、公家と称せられる人間特有の手法に拠った御上隠しと、まるで神託のごとく天皇の意思を壟断(ろうだん)した側近と、弄ばれたような統制軍官僚の愚鈍さは武士の極みには似て非なる粗略さがあった。











あの西郷に「こんな国にするつもりはなかった・・」と言わしめたような拙速創製の国家と、表裏に矛盾を発生させた日本人の変質を危惧した鬱積だった。

それは、遠くは聖徳太子が憲法と冠位を制定したころの、蘇我、物部ら世襲豪族による権力の専横によって、今では伝統という言葉に括られているような、遡ればカミゴトに由来する太綱というべき歴史の継続が侵害される危機感に似ている。

これは、あまりにも大きな権力を持つ人間の行き着く先にある亡国を、異なった座標で押しとどめ、あるいは敗戦後の国家の在りようを鎮考したものであった。
それは、明治維新以降の教育制度のボタンの掛け違いというべき、指導階級エリートの速成によって積み残したカリキュラムにあった人間学の再復を求めたものでした。

明治天皇は帝国大学の教科内容によって訪れるだろう将来の結果を、まるで予言するかのように痛烈に諭している。天皇だからこそ先見可能な直感でもあった。(聖諭記)

既得権力と化した組織勢力は、富国強兵というスローガンをもってかき消すように邁進し、しかも、天皇の直感は活かされることはなく、平成の現代まで続いている。つまり集い、群れになると権力を構成し、人間の尊厳を毀損する危惧だ。
聖徳太子の憲法も同様な危惧だ。それは軍だけではなく、官吏、知識人、宗教家、経済人もその類になるだろう。


一方の切り口は外部勢力の意図、あるいはアジアの西洋植民地からの解放という意図もあろうが、内の要因を外部リンクによって解消しようとして既存勢力との軋轢があった、との見方もあるが、ここでは、まず内なる憂慮への内省として考えるべきであり、ことさら自虐的観察と切り捨てることは内外の自他の現存を前提とする国家の自立、あるいは地球表皮における民族の棲み分けすら意味のないものにしてしまうだろう。

>「直にして礼なくば、すなわち絞なり」
いくら理由が整っていたも礼(他との調和)がなれけば、自らの行動の自由を失くす、ということだ。


その暗雲は、目的のために作られた組織が、目的創出の根底にあった公意から離れ、まるで竜眼の袖に隠れるようにして増殖したためにおきた忌まわしい風のようなものであった。
軍は竜眼の袖に隠れ・・・云々といわれたような、軍を取り巻く権益構造と止め処もない国家伸張意識、あるいは誇張された大義に抗することのできない官僚の意識構造と既得権益にしがみつき肉体的衝撃を回避するための錯覚した知識人や高位にあるものたちの学問思考にもその因があった。
もちろん政策決定機関である議会機能の崩壊及び議員の現状追認、傍観的看過もその類であろう。 つまり、異民族孫文にも言わしめた真の日本人の喪失であった。

その深層の企ては歴史の真実としては無かったことのように、数人かの登場人物による別の事件にスポットを当てることによって、その秘めた意思は覆い隠された、いや余りにも多い犠牲とエネルギーの浪費によって巻き起こされた戦争遂行への大義名分は、より「別の事件」の秘匿性を深めざるを得なかったといって過言ではない。


          


その別の事件とは国際謀略団による事件とも言われているゾルゲ事件との関連性を深めた尾崎、西園寺の動きと、近衛、尾崎等によるロシアの仲介による停戦交渉をコミンテルンによるアジア構想と意図的連動させた一方の流れである。
しかし、冷戦構造にあった考証は総てコミンテルンの仕業であり、しかもどれ一つとっても確証はなく、腰の引けた既存の文献内考証であり、新事実を発見、もしくは外来から伝われば、現地考証を成文にのみ委ねた枝葉修正学に陥っているのが現状である。

冒頭にある彼らの意図は、利用するつもりで逆に利用された構図であり、ロシアによる仲介が米英との戦いに有効であり、かつ日本を覆う自浄力が衰えた忌まわしい軍部からの主導権の奪取という、それらの立場にありがちな純情でありつつも狡猾な構図を描いたのである。

実験国家ソビエトは崩壊するべくして終焉した。19世紀から20世紀にかけて多くの王政は民主の名の下に倒され、ある国は共和制、共産主義に衣替えはするが、中国の孫文とて民衆の混乱を抑えるために三民主義を掲げつつも領袖による専制を描かざるを得なかった。

夫々は思想の大義はともかく、大謀に隠された意図はあった。王政を倒すといえことはどのような意図があったのか、民主と自由のみなのか。付け加えればアジアの混乱と近隣との軋轢に意図されたものは何か。意思の共有という連帯連鎖を地域分割や自由解放という宣伝によって解く理由は何なのか。

軋轢は不信と反目を継続させ、善隣友好や平和外交などうら寂しい裏面構造を滞留させている。
コミンテルンの指示や援助として定着しているゾルゲ関連や中国における不可思議な誘引事件は、その構図の大きさと深さによって、よりその深層の企てを覆い隠している。
現状追認しかできなくなった国内指導部の脆弱さと、偽装事実を積み重ねる謀略は資金を添えて謀略中枢をコントロールした。
あのイラクとクエートを分断したイギリスの諜報機関M16のローレンスのようにアジアを舞台に黒子の様に跳梁している。しかも友邦アメリカまで手玉にとって誘引している。

その企ては自らの置かれていた地位や、巷間使われるようになったノーブレスオブリュージュといった高位に存在することの責務が根底にあった。
明治以降、いやそれ以前から男子の気概の表現としてあつた立身出世とは異なる流れに属する学問、もしくは生まれながらの氏姓が涵養し保持していた国家存立の本綱(モトツナ)に必須、かつ秘奥に存在する学問によって国家像を描いたものであり、それは、ごく少数の人間から導き出された意思であり、良くも悪くも明治から蓄積された負の部分の排除による国家の再生を考えていた。
また、鎮まりをもって歴史を俯瞰し、日本及び日本人を内観できる人々の考察であったに違いない

あの西郷ですら、このような国を描いたのではない、と言わしめた執政受任者の人間性と、曲がりなりにも士農工商で培ってきた日本人の特性や情緒を捻じ曲げた理解に置くような成功価値や、擬似支配勢力の狭隘な既得権意識は、軍、官僚にも蔓延した止め処もない暗雲となっていった。
もちろん封建といわれた武士社会も江戸の末尾には、武士(モノノフ)の気概が薄れて、姿形だけの怠惰な既得権者に成り下がり、外的変化に対応できなくなったことは、後の維新を呼び起こしていることに見ることができる。

だか、人間の分限を弁えた習慣や掟に内在していた自己制御と相応する生活守護に慣れ親しんだ庶民にとっては、維新のありよう云々より、穏やかなときの流れに懐古するには、そう時を要することがなかったことは、国家、国民の創生した明治の集権に馴染めないものがあった。
それは亡くしてしまったことへの哀れであり、そのために招くであろう国家の衰亡を予感する人間の憂慮でもあった。

国家なり社会に盛衰の姿があるとすれば、まさに幕末と太平洋戦争の敗戦は人間力の衰退と、歴史の残像にある資産の食い潰しのようにも考えることができる。
譬えそのことが産業革命以降に勃興した資源問題、あるいはそれ以前の植民地の支配を既得権として継続させようとする巧妙な戦略的謀略に飲み込まれたとしても、また西欧を知り、富国強兵政策の選択が当時のごく普通の近代国家の在りようだとしても、明治初頭の人的資質の変容は、さまに知識、見識、胆識にある人的資源の枯渇であり、歴史が培った資産の存在を認知しない行動であった。

しかも、混乱の後、結果として訪れた戦後の国家形態は「負」を排除するとともに、「正」もひと括りにして融解してしまう誤算があった。






石原莞爾氏直筆 弘前養生会蔵




この企ては専軍権力者からすれば反逆者であり、当時の国情からすれば国賊であろう。
それは大謀によって大綱の方向を直す作業であるが、一方、国際謀略との必然的接触による錯誤を誘い、歴史そのものから抹殺しなければならない企てとして忘却されようとしている問題でもある。

この暗雲の停滞を憂うる人たちは、往々にして現実問題の解決を謳い権力を行使する議会人及び調整役に成り下がった宰相とは異なり、また国家の護るべきものの見方が異なる思考の人間である。

筆者は縁ある市井の哲人から一幅の書を見せられたことがある。そこには
『春宵、夢を破って空襲を報ず 
殺到敵機 鬼ヨウの如し 
劫火洞然 君、嘆ずる勿れ 
塵餘却って 祲氛(シンプン)の絶するをみる』と撰書されていた。
《カタカナ、ひらかなは条幅が所在不明のため記憶をたどる》
 

注目は結行ある塵餘だが国家の塵(チリ)を去るということである。前行の劫火洞然はすべてを焼き尽くすことであるが、それによって国家に巣食う塵をはらって祲氛(忌まわしい気)が絶えてしまう、だから君、嘆くではない。という意味である。

 市井の哲人岡本義雄は述べる
 20年の春、文京区白山町の町会長も務めたこともある安岡正篤氏を早朝訪ね、こう嘆願した。「聖戦ということだが、町では大勢の人が空襲で死んでゆく、先生は偉い人と聞いているがどうにかならないものか。このままでは国が亡くなってしまう」
 当時、安岡氏は大東亜省の顧問であり、政財界でも氏を慕う人多く、それゆえ戦争遂行の任にある軍、官僚に少なからず影響力を持っていた。

岡本の述懐は続く
「止むに止まれぬ訪問だった。だから突然だった。先生は無名な私の言葉を聞き入れ、大東亜省から差し向けられた車を40分近く、来客中!といって待たせた。数日して書生から届けられたのがこの漢詩と巻紙に記された手紙だった。それから先生を師として終生続いている。今でも人助けがあると名刺に「憂国の士、差し向ける」と書いて、どこそこへ行きなさいと導いてくれる。先生が旅行で留守にするときは、前もって電話で直接連絡を戴く。どこへ行って何日に帰ってくると。いつも日本人としての学問と精神の継続を語ってくれた」

 民主を掲げている現在、国家権力が守るべきものは、『国民の生命と財産』といわれているが、現実問題に対処する政策の分かりやすい大義名分としては有効だが、こと靖国問題、憲法問題、あるいは外交問題における首脳同士の応答辞令になると、はなはだ軽薄な話題に終始してしまうことも、この大義の奥に踏み込めない、あるいは存在すら認知できない部分に多くの要因があるようだ。

『国民の生命と財産』は何のためにあるのか。
なぜ、生命と財産を守ることが為政者の命題なのか。
豊かな各種財があり、それを以って生きる糧とする理屈は、人間の織り成す文明の栄枯盛衰を鏡としない戦後教育の姿ではあるが、あまりにも軽薄な国家像のように観える。
民主は、守るものも守られるものも同一である。
守られることの権利と守る義務も同一である。

ならば生命と財産は何のために要するのか、生命は長命を願い、財産はプロパガンダに翻弄された豊かといわれる生活のための消費の用に置かれるのか。
政治家の言葉足らずもあるが、それで用が足りると考える国民の政治意識は、民主政治の劣性である、゛とりひき゛゛欲望の充足゛を交換条件として定着させている。

国家としての政治形態は客観的には社会主義、共産主義、独裁主義、民主主義があるが、民主主義以外は近代政治形態の実験期間であった二十世紀を経ての衰亡、あるいは機能不全のレッテルを貼られ、それらを選択、もしくは他から定義付けられた国家は武力強圧によって敗退している。良くも悪くも民主主義という統治方法によって駆逐されている。

それは、あの人民解放軍を率いて地主階級から農民に農地を移管するという、主たる耕作利用人に解放という名目で民衆の支持を得ている。それはあくまで土地の私有ではなく、管理者である党権力の統治形態のスローガンであったことは人民公社の政策経過によって見ることができる。あくまでスローガンの選択肢は支配者の都合の範疇にあるようだ。

第一次大戦後のヨーロッパの農業国家も同様であった。国家、商業に貸し出すことから、そのユーザーを土地耕作者である農民におき、今でいう消費者金融のごとく金利事業に邁進した金貸しの一団はドイツ国家をも席巻する勢いであった。
まさにヒットラーの登場する土壌はあった。総統になった彼は何の債権か、僅か3週間で借金を棒引きにしたという。高金利にあえぐ国民は喝采を挙げ独裁政権を支持したという。(金沢明造氏談)
それはある意味でヨーロッパを席巻していた国際金融資本との戦いでもあった。

すべて、そもそも国が存立する意義は何なのか、為政者の役割とはどんなものなのだろうか。そのスローガンにある生命財産を守るのが宰相をリーダーとする政治権力者なら、殺伐とした無機質な権力に対し、国民が組成した多面的有機的な人間の情緒との調和の触媒として存在するものが必要になってくる。










それは無形への祷りではないだろうか。精神も心もそうだろう。(対象は精霊・神等)
為政者の政策を有効ならしめるものは、信なくば立たず、信への依頼であろう。
そこには根源的というべきリーダー論や統治者としての政策論が発生すると同時に、一方は紙に書いた規範とは異なる口伝、習慣伝、陋規(一定の範囲の掟)があり、それらが複合して国家として成らしめている。

内外問わず栄枯盛衰に表れた戦争の後、そして鎮まりをもった時、その根源的リーダー論の蘇りや歴史に循環回帰に導かれた、そもそも国家としての在りようを覚えた意思が再復することがある。

憂国、再興の選択肢は、一方の退去を謀によって促し、復古に描かれている深層の国力である万古の知恵の登場を企てたのであろう。それは日本という国家を、国家としてなさしめる存在の崩壊を危惧したものである。

足利将軍から養子に迎えられた初代幽斎から12代目の当主、元細川元首相を息子に持つ細川護貞氏は岳父に近衛文麿、仲人に終戦時の内大臣木戸幸一という縁もあったが、戦時下の観察として日本を軍と官僚の行き着くところと、苦渋を込めて述べている。細川や冒頭に挙げた人たちが企てのため連携を持ったものではないが、もの言わず分かり合える人たちであったこと、また底流として意思が存在したことは明らかである。

あるいは深窓のエリートのごとく、泥水を啜り、極寒、極暑にも淡々と感謝さえ添えて勤労に励む深層の哲人とは異なり、体裁と形式に同衾した共通価値ともおもえるが、それも不可欠な立場だからこそ導かれた考察の危機意識として、歴史や現世の人心をも危惧した俯瞰性のある率直な行動でもあった。

また、それらの人たちはスメラギの道に近い位置に存在していた。、
それは肉体的衝撃の届かない位置での企てであったがために、大が小を倒すには他力による謀略しかないと認めた末のことではあった。また、大謀であるからこそ、見えないものであり、まさに大謀は図らずでもあった。











しかし、彼らもそれを上回る大謀に利用され翻弄された。それは近衛の死によって覆い隠された。いや、床の間の石のように操った側近の大謀隠蔽であっても近衛は石の役割として受容しただろう。
近衛の意図を具現しようと奔走したのは尾崎秀実である。近衛の父によってつくられた上海の東亜同文書院の関係者や、松本、樺山との連携は、尾崎をして理想国家建設の夢を米英ではなく、大同思想に似た共産思想の本家ソビエトへの期待と通牒はしごく容易なことであった。

尾崎は本願を懐にして満鉄調査部に席をおき、蒋介石国民党軍事委員会国際問題研究所との接触、北進を南進に転換させ英米と衝突させて早期和平に結ぶ意図が、逆にゾルゲの意図にあった日本軍ソ満国境から南転、ソ連精鋭部隊は陥落直前であったモスクワ戦線に転進、謀略によって描いた歴史の事実はそのとおりになった。

国際問題研究所の資金は王立国際問題研究所 英国諜報機関M16のパイル中佐を通じて拠出されている。もちろん北進から南進に転ずることも、あるいは真珠湾攻撃の3週間前から配置、司令官名まで筒抜けだった。
尾崎のあまりに純粋な精神は、意図する結果にはなったが総て利用される結果となった。
尾崎の意図は安岡の漢詩にある国内の「塵」の排除にあった。近衛もそうだったろう。

ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するにある。トップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。

盧溝橋、通州、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のための蒋介石打倒の国内闘争に利用されたのである。国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は、形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。

そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そしてルーズベルトには伝わっている。


満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。











尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉綿綿亭に投宿して懇談している。(陪席は新潟県令)
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか、大きな謀略構図は悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を一足飛びに異なる方向に着地させた。

尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。

渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。

登場人物、関わりのあった人々は愛国者であった。それが結果として稚拙な謀だとしても恥ずべきことはない。被害者はアジアの民であった。総てその渦のなかにある。ただ考えられることは、戦後安岡が心血を注いだ国維に基づく真のエリートの育成は、結果として辿り着いた安岡の運動だった。俗世の浮情を憂い、地位、名誉、財力を忌諱して郷学作興に賭けた熱情は歴史の栄枯盛衰を教訓とした実学でもある。

しかも、無名でなければ有力に成りえず、と導く考えは、地球史、世界史を俯瞰する多面的、根源的歴史観であり、かつ、そのことを理解するには人間の尊厳と営みに対して自らを下座に置く沈潜の勇気が何よりも重要な学問だと促している。
空襲下、あの市井に潜む無名な岡本に応対する安岡の真摯な姿勢を歓迎したい。

あの企ては間違っていなかった。謀と言うには余りにも実直な行為だった。まさに、「邦おもえば国賊」の境地であった。そして彼らは鳴らした警鐘は未だ途切れることなく聴こえてくるようだ。

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「Hong Kong」 より 満洲人脈との邂逅

2024-08-25 02:05:43 | Weblog



「Hong Kong」より抜粋


新橋駅の土橋側、整形美容で有名な十仁病院の並びに国際善隣ビルがある。8階建ての古びた建物だが、大家である国際善隣協会が上層階、階下は事務所テナントである。協会は満蒙援護と中国との善隣友好を掲げ、その資産は満州国の在外資産、つまり内地日本にあったものを戦後のドサクサで取得したとか、しないとか。


これには秘話がある。戦後の満州は国民党の勢力圏にあった。領袖である蒋介石は辛亥革命の先輩である山田純三郎に対外財産、つまり内地資産の処理を山田に委ねていた。その一つがあの堀端にある幸徳会館た。それがどのような経過をたどったのか三井の所有になっている。

         

酔譚に佐藤慎一郎氏が語るに
「満州国の財産は日本国内にもあった、土や建物も債券や物資もあった。みなどさくさで掠め取られたが、これにはワケがあって、満州国の日本公使が書類を偽造して三井に売りとばした。弱みがあったのだろうが、それが露見した時,公使は叔父の家の玄関で、『許してください』と土下座していた。余程の弱みを握られていたのだろう。

蒋介石も総て満州国の財産の処理は革命の大先輩の叔父に任せていたので、叔父の心中を察して平然としていた」たしかに相当の財産が国内にあったのだろう。もちろん満州にも日本の財産は莫大にあった。
      

この件では元満鉄調査部、自治指導の要として精神的支柱であった笠木良明と吉林興亜塾の五十嵐八郎が当時の三井の番頭江戸英雄を訪ねている。そのときの用心棒が谷中にある全生庵の大森曹玄であったと五十嵐は回顧している。

余談だが三井、血盟団の四元義隆、大森、中曽根と繋がる人脈は総理在任中の全生庵での四元との座禅、イランの三井プロジェクトであったバンダルホメイニ油田の人質救出への中曽根特使とさまざまな場面にその姿を見せている。

国際善隣会館は日産コンツェルンの鮎川義介の協賛だというが、戦後の満州人脈といわれた岸信介を筆頭とした統制官僚、満州国官吏、満鉄調査部、自治指導部、関東軍、あるいは満州ゴロと呼ばれた、いわゆる満州帰りが呉越同船して交流の場としていた。今は8階に移ったが、当時7階にあったサロンは満州の中枢が移動していたかのような壮観さであった。
岸のほかに、根本龍太郎、三原朝男、星野直樹、古海忠之等の官僚、関東軍参謀片倉衷、あるいは児玉誉士夫、岩田幸夫、中村武彦等、戦前戦後の一時期を構成した各界の傑物が顔を出している。

また様々な懐古なのか、あるいは経済実利も含んで満州当時の職域、官域、思想活動の会が頻繁に開催され、そのなかの一つに満州建国精神的支柱であった笠木良明を偲ぶ命日に合わせて笠木会が開催される。参加者の顔ぶれは官、軍、満鉄、学域(建国大学、大同学院)、あるいは国士と称される民族派、右翼とさまざまである。

後になって稲葉修、砂田重民氏らと環太平洋協会(ASEAN協会)を作った時、インドネシア革命に挺身した中島新三郎(新橋インドネシアラヤ)、金子某(歩け歩け協会)とも親交をもった。

新潟村上選挙区の三面川の川主だった稲葉氏に案内されて瀬波温泉にも行った。





上海



義父の代理で出席したのが始まりだったが、当然の如く戦後生まれは私ひとりである。毎回全国から30人ほど参集するが、時の流れで年々その数は少なくなってくる。可愛がってくれた、気概を繋ごうということなのか、各界の長老から様々な会を案内され、はじめの顔つなぎだと同伴してくれた。

書家であり大立者であった宮島大八の鎮海観音会、終戦時の内務大臣安倍源基や法務総裁木村篤太郎の新日本協議会、毛呂清輝の新勢力、安岡正篤の師友会、愛国党の赤尾敏氏など多くの諸団体の指導者や神道関係者との縁を拓いた、というよりか彼らの威力に強引に誘われた、というのが奇縁の実情だった。

彼らからすれば孫である。24、5の若憎がポツンと老海に置かれるのである。慣れてくると必ずといったよいほど彼ら特有の戯れがある。若憎に意見を求めるのである。すると参会者の老人が、
「この若者のために我々は何ができるか、それは、年寄りは、早く死ぬことだ」と、いまどきの年寄りにはない気骨である。

そうこうしているうちに顔馴染みができると、新たな縁でまた別の会に強引に誘われる。また秘話が語られる。それは歴史の一級資料であり、戦前の教養と明治の気骨が溢れるものであった。

なにしろ、どこに行っても老境の知人が多くなり、その醸し出す独特の雰囲気は他の参会者に威圧さえ与えるのか、遠巻きに輪ができる。そのなかで、若僧が ゛いじられる゛のである。会場を歩けば道が開き、車には先に勧められ、ときに万座で挨拶さえさせられる。
不思議なことに、これも世俗の倣いかと面白がる余裕もできた。

加えて、人生の大先輩であり、昭和史の生き証人である彼らとは特別な黙契ができた。発表された書き物や著名な研究者を嘲笑うように、当事者としての彼らの言の葉に関する秘匿だ。
ある大物が語れば、一方は後刻に「ああは言っているが、実際はこうだ。現にこの目で見ているし、触れてもいる。あの報告は嘘だ」と、この調子で突然、唇歯の間から漏れる。

それは、決して口外してはならない、いやどちらが先に亡くなっても秘匿しなくてはならない内容だ。その類が数多ある。つまり秘史という部類だ。
いずれ、こちらも老境に入ったら唇歯の間から漏れるだろうが、ときおり便利なブログで備忘録として記すが、この世情の騒がしさでは落ち着いて繋ぐ世代も微かだ。幸いにも説明責任とやらに晒される立場を忌避する無名を任じているためか、目垢の付かない真相として預からせてもらっている。
     
        




佐藤慎一郎  五十嵐八郎

佐藤は孫文の側近、山田純三郎の甥


笠木会は幹事の木下と五十嵐八郎の、゛仕切り゛によって毎年行われるが、五十嵐は笠木良明の終生を看取った側近である。
国民会議の創設に尽力した中村武彦(神兵隊事件に連座した戦後正統右翼論客の第一人者)を、「武さん」と呼び、吉林の興亜塾々長、戦後は北海道の赤平で炭鉱を経営し、児玉誉士夫氏は、゛イーさん゛と呼ぶ仲である。神田に事務所もち、ときの右翼、民族派の多くは食客として世話になっている。

聴くところによると、相撲あがりの大谷米次郎は岸のいうことならなんでも信用した。いっときドラム缶数本に金を持っていたが、岸に使い道を相談。皇籍にあった御仁の赤坂の土地を買ってホテルを建てた。それがホテルニューオータニだ。

その岸と品川のパシフィックホテルで呑んだとき、岸は焼酎のトマトジュース割を、これは身体によいと勧められたが、当時は洋酒、ビール、酒、割ってもソーダか水だ。まして焼酎にトマトなどは思いもつかない。さすがに岸らしいと妙に感心したものだ。

五十嵐本人も、これからはエネルギーだと北海道の赤平に炭鉱を買った。
ところが素人なもので、ひょうたん炭層を買ってしまった。なか細りの炭層だ。
いろいろ苦労したが、児玉の関係で北炭の萩原氏に協力を得てどうにか軌道に乗せたという。

面白い逸話がある。児玉と二人連れで湯布院に旅行に行ったときの事、二人が何者か知らない旅館の主人が、あまりぞんざいに扱うものだから、帰京して糞を木箱に入れて、糞食らえと送ったところ、宿の主人は、゛結構なものを頂戴して・・・゛と丁寧な返事が来た。

 あるいは、児玉夫妻と旅行に行った折、宿に着くと直ぐに児玉は外出してしばらくして戻ってきた。女房は怪訝な顔をして
「どこに行って来たの」
「いや、腹こなしの散歩だ」
夕食後、イーさんに散歩に行こうと言う。財布は奥さんに預けているが、付いていくと女が二人。財布はもう一つある。散歩は女の目星をつけてきたのだ。総てそんな具合だった。

また二人で歩いていると前から金を無心しそうな人間が来ると、これ見よがしに、゛ィーさん金貸して゛という。持っているはずなのに人から借りて相手に渡している。聞くと、゛児玉は人から金を借りた゛と思わせれば、もう無心はしない゛と。
五十嵐氏は言う、゛児玉はペテンが利いた゛と。ロッキードのときも東京医大に見舞いに行くと、゛イーさん、俺がゴム印(ピーナッツ領収書)を押すと思うか゛と。
あれは、゛使われた゛と五十嵐は回顧する





こんなこともあった。笠木がなくなったとき、いの一番に来たのが安岡だったという。思想的に派を分けたが安岡の人情には感心した。たしか中華月餅を持参した。十河信二らと遺芳録を作ったが、その時は笹川良一が当時の金で百万円を出した。いろいろあるが、みな大した人物だ。笠木先生の大きさだろう。
あの大川周明の会合に呼ばれたとき、みな迎合していたが、「俺はポチではない」と捨て台詞で席をけった。意味も分からず黙って聞いている弟子どもに愛想をつかしたんだ。

また、滝に打たれて修行した自慢しているものが来た。
「滝に打たれて得心するなら滝つぼの鯉にはかなわない」と、笑い飛ばした。
そんな笠木だから、みな丸腰で満州の荒野に散らばって農業や行政の教化に邁進したんだ。関東軍と相容れなかった自治指導部には青雲の志を持った青年が参集した。その中には満人,漢人、朝鮮人もいたが、みな目的をもって学び、戦後でも旧交を保持している。精神的支柱だった笠木良明と慕う仲間たち、そんな満州が有ったということを遺したいと、五十嵐は言う。

その五十嵐から相撲の誘いで国技館の砂かぶりに座った。イーさんは何かというと誘ってくれた。豪徳寺の鎮海観音会、これは宮島大八氏の主催だった。戦前はベタ金の陸海軍が大勢来ていた。朝鮮の鎮海湾の観音様の法要だ。
盗んだのではない,李朝朝鮮では仏教がことのほか迫害した。李退渓の朱子学とは相入れなかったからだ。多くは対馬や日本本土に持ってきた。大事に安置してある。

国技館の砂かぶりの隣には言葉の少ない身の丈のある女性がいる
「誰・・」
五十嵐は
「戴麗華さん、トッパンムーアの宮沢に世話になっている。善隣協会の会員だ」
それが麗華との縁の始まりだった。もちろん中国人だ。
宮沢とは満州の俊英が集まった大同学院出身でトッパンムーアという電算機関係の伝票やカードなど資材を作っている会社の社長だ。
その後、麗華とはあの世界史を揺るがした天安門事件の臨場体験を共にした縁がある。

つづく

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聖徳太子の心配事は当たったか  09 3/06 再

2024-08-21 01:18:15 | Weblog

 「

     「紐帯の結びの重し」 皇居内お休み処

20年前の稿だが、あの当時と変わらない政情である。

当時は、こと勿れ、ヒラメのような政官の徒だったが、今回は首取り、椅子取りの下剋上の様相である。

2024年岸田首相の再選の道を閉ざされると、今までにない多くの議員が手を挙げた。だが、ことここに至っても立候補の声明までは無い。若者はビジョン、政策が大事と広言するが、一国の総理が無念のうちに退任する原因は支援の数ではなく、政策、ビジョンの前提にある「信」が国民から得られない事による挫折とみるべきだ。

候補者は、ヤリタイことでなく、信を取り戻すヤルベキことを思い起こしてほしい。

見た目、口達者、愛嬌、は大衆には好まれるが、歴史上、数多の国に現れる衰亡期の姿だ。

 

 

以下旧稿

このところ中央地方を問わず金と異性と失言などの問題で毎日のように紙面を騒がしている。そこへきて重要議案に口角泡を飛ばして争論に励んでいるようだが、定数や待遇については口を封じて与野党同衾している。国民は野暮な旅芝居を見ているようだが、ときおり女形ならぬ行儀の悪い男のような女性議員の登場で回り舞台は観客は惑わされる。

安岡正篤氏は書斎の雑談でつぶやいた。「今どきの政治家は人物二流でしかなれないようだ」あれから四半世紀、二流から三流、そして埒外が増殖している。金をごまかし、平気でうそをつき、不倫もする。選んだあんたが悪い・・!と嘲られるが、もともと党の旧字は中が黒だった。つまり黒をかんむり(賞)すると古人は揶揄する。白黒といえば黒は悪人だ。善党はないが悪党はある。その悪党が多く集えばどうなるかは自明である

 

           




旧稿ですが・・・

政治家の献金と検察キャリアの調査活動費。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169233.htm


法も道義も後付け理屈にしたところで、露わになればドッチが悪いといえば、どっちもどっちだ。

一方は税金を使った公共事業の儲けのカスリを献金したものだが、片方は検察の活動経費?をキャリアの遊興費にあてがったもので、双方国民の税金かはたまた罰金の類であろうが、共に暖かい寝袋に潜り込んでいるようなものだ。

しかも、生まれ育ちも、卑しさ、サモシサも何のその、両親の叱咤激励のなか、脇目も振らず暗記に勤しみ、晴れて公務員、議員で言えば特別公務員になったお陰で潜り込めるコソ泥の世界である。

双方、機を見て敏なのは習性だが、これに嫉妬と小判の匂いが纏わりつくと終生不治の病気になり、官吏や陣笠予備軍に遺伝するのである。


以前、「国家に四患あり、四患生じて国家なし」と後漢の宰相旬悦の言を記したことがある。

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/d/20071120

「偽り」「私ごと」「放埓」「贅沢」これが官僚と政治家に蔓延したら国家は立ち行かなくなる。つまり、どんな政策予算でも国民に行き渡らなくなる、よって此の事を解決することを宰相を請けることの第一義としたい、と旬悦は皇帝に諫言している。

安倍、福田、麻生の各総理も根本はそれで足元をすくわれたのである。
偽り情報、恣意的な不作為、組織に溶け込む無責任、そして倹約なき贅沢である。

仮の議会制民主主義の頭領が其の類でコロコロ変ってはいるが、社会はともかく国家は重しのお陰でどうにか落ち着いている。
だだ、余りにも敬する対象が国民から嘲笑され、はたまた罵倒されると、近頃では゛重し゛までもが国民の興味のなかで秤の均衡を毀損され始めている。

゛重し゛敷島に棲むものの紐帯として連帯と調和を司り、地位も要らず、名も宣伝することなく、財も欲せず寡黙に耐えている。


            


安岡氏は「徴収と治安を司るものの姿で国民は変化する。それゆえ国民は重々観察し、公平さと正義を貫くべき司を誠の秤を備えて考えるべきだろう」と語る。

取りも直さず徴収は税や保険であるが,国税を始めとする官吏や社会保険庁の有り様、あるいは治安を司る警察、検察の裏金、執拗なる罰金システム、刑の軽重など、国民に信頼を持たれるものでなければ政治も機能しない。

国民も自身の咎に都合のよい「法」を持ち出し、三百代言にも化することもある弁護士のもと、これまた法の運用官たる官吏のサジ加減が恣意的になり、隣国の古諺にある「禁ずる処、利有り(生ず)」の姿を「組織地位と知識」が保全している。

四角四面が日本人の性癖だと満州の古老が述べていたが、曖昧、ホド、も「四患」にある、偽、私、放、奢にまみえる彼等の狡知は、社会悪をこえて国賊の烙印を押すべきことでもあろう。



              




紐帯にある゛重し゛は何を祷るのだろうか。
律令の頃、聖徳太子は憲法に祷りを込めた。

十七条は天皇を輔弼し、人間(民)の尊厳を毀損する官吏の在り様を解り易く「憲」と「法」で記している。

十七か条のうち其の大部分を官吏の道義的応答と、律し方を「憲法」として顕している。つまり、人間の尊厳を毀損するのは権力であり、その運用官吏の姿を以て民情は変化し、国の盛運も決まるとのメッセージである。


権力を構成するであろう部類は、政治家、官吏、宗教家、教育者、現代は金融家であろう。これらの欲望のコントロールこそ、国家のすべき治世の要であり、其の為にはと各条に人々の調和と連帯のための自制と教育的規が勧められている。

政治が教育を利用したり、宗教組織が検察司法の権力を壟断したり、官吏が政を軽んじたり、金融家が政策を混乱させたり、すべて国民生活の混乱、ひいては人間の尊厳を毀損する謀の権力悪である。

「紐帯の重し」は単純明快な政(まつりごと)の則を座標として国情の秤を守護している。

標題に掲げた、゛人の有り様゛は騒擾を助長する各種権力の言に拠らず、また第四権力になった営利マスコミに惑わされず、自身の生存継続を遡って、太子の則にある簡単明快な、いまでは諫言にも聴こえるかも知れないが、まずは則に倣うべきことだろう。



             

           鎮まりを守る    鎮守の杜


以下、権力、組織と脆弱な自制心を観るには最適な銘記でもある。


第一条

和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

第二条

あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条

王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。


第四条

政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。


第五条

官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。


第六条

悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。


第七条

人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。


第八条

真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。


第十条

心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。


第十一条

官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。


第十二条

国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。


第十三条

いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。


第十四条

官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。


第十五条

私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。


第十六条

人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。


第十七条

ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

[出典]金治勇『聖徳太子のこころ』、大蔵出版、1986年

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