まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

いま、陛下は何処(いずこ)に    15 7/27 改稿

2024-07-24 16:25:03 | Weblog



2016年掲載 旧題 あの頃に倣う 移風は、陛下の「威」と「忠恕」しか解決はない   

「移風」・・・忌まわしい雰囲気を祓い、新しい気風を起こす


 

天明・天保、あの頃も天変地異は多発して人心は乱れた

だだ、民の窮状を直視し、禁中並諸法度を越えた英知で人心を整えた賢帝や国母がいた。

それは民の依頼心や皇位の謀でもない醇なる忠恕心だった。

真の学を作興し、ややもすると慣性に緩む宮中を整え、世に公徳心を喚起した。

その威の力は、経年劣化に堕した幕府(政府)の軟弱さを露呈させ、民の離反を招いた

国風に新たな清涼感を抱かせるには、物や便法ではなく、縦軸である維を新たにする忠恕の心であった。

それが大御心に応ずる民(大御宝)の強固な国なるものの紐帯なのだろう。








以前、日本の道徳的移風は王政(道)復古でなくては、との考えを記したことがある。
文字解釈での多論はあるだろうが、「移風」は現状の民情なり、その方向性や価値観から導く政治なり経済、そして教育の雰囲気や流れを好転させることだ。

以前の章では道徳的移風については王政復古と書いたが、時代錯誤と非難かつ嘲笑された。王政の何処が、と切り取り反論をされても納得するものもなく、かといって天皇に政治権力を委ねるものでもなく、だだ、現状の政治形態にある権力者に慎みがなくなったとき王政の由縁となる「王道」に取り付く島をみるのだ。

己の薄弱さと人生すら完結できそうもない庶世の民として、天皇の姿に何を描くかはそれぞれだが、不特定多数の人々に対する人間の姿として垣間見る行動は、世俗にまみえる処士として、どう見ても近づくことのできない異次元の姿として映るのだ。

たとえ、土佐の賢候山内容堂が無頼の衆と切り捨てた薩長が大義を取り繕うために内裏から世俗にお出まし願い、歴史にもない軍服を着せたこともあるが、また古今の歴史に利用されかつ権力の形式的装飾に用いられたとしても、平成の御世における天皇の大御心を体現する姿は、まさに王道の心をみる観がある。それは忠恕心だともいう。

それを伝統だというのは容易いが、人間はそれができると思うだけでも意味がある。
また、教育においても単に数値選別されて望みの職掌を得た位上人でさえ、及びもしない観念や、庶民から見ても驚愕とも思える所作にも、処世で当然考えるであろう、小欲とは異次元の大業に向かう超克した心情が読み取れる。






昭和天皇


ときに、昨今の選良の態度や輔弼としての宰相と官吏の姿を見ると、どうしても大御心を忖度した行動が読み取れない。処世の人々からすれば一種の軽さを感ずるのだ。
いくら民主や法治と謳われても、そこには収まらない安堵と鎮まりがある。

以前、少し不敬な依頼心を抱いたことがある。
皇室の奥の語り部として重用された卜部亮吾氏(侍従、皇太后御用係)が良子皇太后のお付きで葉山の御用邸に赴くとの連絡があった。筆者とは洒脱な関係だったので「サッポロのビールを差し入れします」とお伝えしたところ、「ビールは輸送でゆすられると、しばらく間をおかなければなりませんね」と氏らしい洒脱な応えがあった。氏は銀座七丁目のライオンビヤホールでの泡友仲間ゆえのビール薀蓄だった。

ところで皇太后様はお元気ですか」と問うたら「お変わりありませんかの方がいいですね」と返された。

浜辺を散歩なされますか」と聴くと「補助を必要としますが」とのこと。

「ならば、皇后陛下がお手を添えれば今どきの婦女子は見習い、それが周知されれば政府の扶養費支出も抑えられます。なによりも国民のムーブメント(運動)となれば、国柄も変わりますね」これが少々不敬な願望だった。

妃殿下ご自身で養育すれば、ベビーカーはどこの製品、衣類はどこの店,帽子はどこのブランド、と世の婦女子は騒がしかった。そこで世俗では嫁が義母の車椅子を押している微笑ましい姿を見倣ったら保護費も抑えられ、家族のきずなも強くなるとトンチまがいに考えた拙意だった。

陛下を活用することを過度にタブー視する向きもあります。もちろん政治にコミットすることも問題となります。

でも、御姿、しぐさ、お気持ち、といった人間が学ぶ対象として活かすことは陛下の意にも沿うものだと思います。

よしんば弛緩した政治家や官吏に対して

「政治は目立たない処を慎重に探り、つねに不特定多数の安寧を心掛けるよう」

と、お言葉を発したら、処世の人々は縁に依って来る苦難や煩悶にたいしても、自己における時と縁の巡り合わせだとして為政者に反目しなくなるはずです。

国民が真摯に政治に応ずれば、権力を運用する政治家や官吏も覚醒するはずです。それは国情の雰囲気を変えることにもなります」






卜部皇太后御用掛  小会にて 

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1


それは縁あって日本に棲む人々の心の中に描いている長(おさ)としての立場を認知している世代が存在する間にしか効力がないことです。

次世の御代が変われば威も徳も薄れるだけでなく、認知すら軽薄な関心しか持てなくなるかもしれません。

欧米のような私生活のスキャンダルやファミリーへの愛着はあっても、畏敬の存在ではなくなることもあります」

動物でも群れの長(おさ)を失うと羊飼いに連れられ、犬に追い立てられる羊のようになります。

郷や国の防衛とて、武器道具を揃え、財を駆使しても人々が連帯を失くしたら、防衛力は弱くなります。

なかには「小人は財に殉ず」のごとく、危機を察知したら責任回避するものも出てきます。

また、間諜も現れます。その内なる反省は70年前に体験しました。」

筆者がせめてもの皇室の「奥」に職掌を持つ卜部氏に対して答えを必要としない呟きごとであった。毎年のごとく節期の激励文をいただき、小会(郷学研修会)の道学に添い、天聴(天皇の知るところ)に達しているかのように至誠ほとばしる督励清言は、あえて意を表すことに逡巡すらなかった。また不遜にも卜部氏を通じて、゛あの御方ならわかっていただける゛、そんな下座からの気持ちだった。

そんな想いも世俗に晒せば、「自由と民主の時代に・・・・」との誹りもある。
その自由と民主の仮借がさまざまな分野に善くない影響を与えているから問題なのだ。

どうも表現が今風でなく稚拙らしい。仮にも定説なるものとアカデミックな論拠を書き連ねれば、いくらか数値選別エリートの反駁にも贖えるのだろうが、そこまでの知能力も耐力もない。いや、関わりになると問題がより複雑になってしまう危惧もある。







  義士 大塩平八郎


江戸、天保の頃、飢饉が襲った。江戸の役職や御家人は強引にも地方から米の上納を図った。江戸御府内という体面もあったが、物が動けば利を生ずるように、お決まりの御用商人と担当、責任官吏の賂も問題だった。私塾洗心洞を主宰し、かつ奉行所与力職にあった大塩平八郎は道学の士を募って豪商の打ち壊しを義行した。

以下ウィキペディア転載

≪前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。

そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。

一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。≫

 


中央 安岡正明講頭  右 卜部皇太后御用係  於 郷学研修会

 

それ以前の天明の飢饉には一つの出来事があった。
庶民は、幕府は頼りにならないと京の天皇に直訴した。天皇の忠恕心に委ねたのだ。

光格天皇は窮状を知り即座に備蓄米を供出を幕府に問うた。率先して動いたのは後桜町上皇だった。いっときは一日に三万人の庶民が御所に集まり、周囲約一千メーター余りを周る「御所千回周り」を行なった。

御所の周囲を流れる溝を掃除して清水を流し、上皇は数万個の果実を配った。他の宮家はお茶などをふるまった。

そのお姿は、その後代の孝明、明治とつづく天皇の現示的イメージとして、大政奉還、討幕維新と流れる時世を暗示する天皇の仁を添えた賢明な行動だった。






後桜町上皇



元々は民生の政治は幕府専権である。天皇が備蓄米の供出を関白をとおして京都所司代に命令を伝えることは禁中並公家諸法度に触れることであり、大問題になることだった。

その後、大塩の決起があった。天保は仁孝天皇だった。天皇は天明の件を一例として関白は京都所司代に対して救済策をご下問している。ここでも江戸の幹部用人の無策が露呈している。

江戸幕府ができてから朝廷が幕府に物申したのも初めてだが、しかも天皇をはじめとする上皇や公家の積極的救済は、たとえ「禁中並公家諸法度」という制約があったとしても、民を救済することに何ら幕府に遠慮することなく、怯むことのない皇道(すめらぎの仁道)を顕示する叡智と剛毅がある。



 

平成天皇が鑑とした光格天皇




そもそも存在する立場の役割として、民もその姿を認知し、かつ深層の情緒に溶け込んだ姿は普段の民生には隠れた存在だ。施政は幕府専権であり責任ある為政者だ。勤労の果実は年貢として徴税する。

しかし、一旦事が起こっても何ら問題意識もなく、埒外な政策しか執れないようでは、民は天皇の威と忠恕心にすがるしかないと、当時の民は考えた。そこに意が向くことは当然であり、今でもそれは威能は有し、行動は可能だ。なぜなら民の存在を大御宝(オオミタカラ)と称し、その民の良心の発露である「人情」無くして国法は機能しないからだ。制度はともあれ深層の国力である人間の情緒性は、政治機能とは別の意味で、直接的黙契の関係が厳然としてあるようだ。

幕府用人とて慣習とはいえ綱紀の緩みに対する問題意識すらなく腐敗堕落して、迫りくる欧米列強の植民地を企図する勢力との対応にすら窮するようになった。

現状追認、後回し、事なかれ、責任逃避、そして下剋上。

それは平成の御世に再来した現状とあまりにも類似した集団官吏の姿ではないだろうか。

しかも、その甦りなのか縁の再復なのか、天皇の姿が明らかに変わってきた。いや、変わったのは市井の人々の覚醒と蘇りへの愛顧なのかもしれない。








震災地への巡行、戦災慰霊の旅、津々浦々の市井の人々との交流、そして再び惨禍の兆候を察知したような言辞と国民への配慮は、あの大塩の抱いた正義と忠恕による人心の安定を共に願い祈る、皇祖仁孝天皇の宗旨(皇宗)に沿う、意識の伝承のようにも映る御姿でもある。

世俗は家族を基とした内外の社会生活に煩いを多くみるようになった。生産や消費、そして成功価値の変化や人生到達への茫洋さなどが混在して将来すら計れなくなっている。それらは苦情やモンスターと称される表現でしか表れる姿ではなくなっている。

当時の大塩とてそのような世情の姿に決起したのではないが、掴みどころのない浮俗ともおもえる時節に、問題意識を描く諸士は少なくはない。さりとて、゛どうしたら゛と暗中を模索するのみだ。





上賀茂


そこで筆者は今上陛下の発する大御心に沿うことを提案する。それは真似る、倣うことでもある。

応答辞令、仕草、言辞、様々だが、先ずは慎重に意志を読み取るべく鎮まりのある行動をすべきだろう。だからと言って崇拝主義やファン気質になることもない。姿を見せて膝を折り語りかけるだけで我が身の変化を感じられることの不思議さを我が身に問いかければよいことだ。宰相が百万言を弄しても届くことのない我が身の是非の感覚を探ることだ。

それが、「普段は感じられることでなくてもよいが、何かあった時に想い起していただきたい存在でありたい」との応えに対する市井人のほどよい立場だろう。そして即位の宣誓に「憲法を遵守して・・」と、厳明した言葉を公務に嘱する人々に最も理解してほしい。

民主主義を仮借した政治なるものが、運用者たる為政者によって暫し混迷している時世に、国民は、゛あの御方ならわかってくれる゛それを護ることに何の衒いもない国民は多いと思う。

だからこそ形式的認証であっても、その受任者たる輔弼(政官)を教化して欲しいと、またもや依頼の心が興るのは自然の姿ではないだろうか。今ならまだ間に合うと思うのだが・・


一部、参考資料は関係サイトより転載。イメージも一部同様に転載しています

浮世はなれした切り口ですが、ご感想はコメント欄にいただければ幸いです。

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安岡正明の説く 税務署長の心得

2024-07-18 02:43:35 | Weblog

            

            郷学研修会 安岡正明 講頭 

ある日の講話

「税(公平)と警察(正義)が国民に表す姿によって、民情はいかようにも変化する。

 

 以下はご尊父安岡正篤氏の督励ではじめた小会(郷学研修会)の講頭を務めていただいたご長男の正明先生の国税勤務当時にご縁のあった五十目寿男氏のブログ「芋沢日記」よりご紹介させていただきます。

 

地方行政官(税務署長)の心得

 

 昭和天皇の終戦の詔勅を刪修(さんしゅう=手を入れて調える)したことで知られる思想家安岡正篤の長男安岡正明氏(1927~2003年)は、大蔵省入省後、国税の世界にも長く身を置かれた。税務署長は仙台国税局管内の水沢税務署(岩手県)で1年経験されている。
 
 筆者が初めて税務署長になった際に、何か署長の心の持ち方として参考になるようなものがないか探して行き着いたのが、この「地方行政官の心得」である。これを常に手元に置いて考えるよすがにした。

 不思議なことに国税組織には幹部向けにこうしたものはないと思う。元国税庁長官の講演録みたいなものは時々散見されるが、これはあまりあてにはならな い。

 なぜかというと、皮肉のように思われるかもしれないが、言行がまるっきり一致しない元長官を筆者は複数知っているからである。

 さて、安岡正明氏の心得はどのようなものか、概略を引用する。ただし、氏はこれを熟読したからといって、地方行政官として何ほどかの利益があることは保証できないと断っている。その上で、幾分か爽やかに世に棲むことだけは可能になると信じている、と結んでいる。

 

        

 民を救い,矯正もする 台湾民生長 官後藤新平

 

1 地方行政官とは、行政の第一線にあって国法を遂行する位にある者である。この地方行政官の誠実と勤勉が、国を支えていることは疑いを容れない。

2 地方行政官の職は聖なるものである、と心に固く信じていなければならない。それは地方行政官にとって密かな戒律と誇りの源泉である。運命共同体の僕(しもべ)であり、正義と公平を具現すべき国家倫理機能の一勢力であって、株主のために営々と働いて妻子を養う職ではない。

3 国民が、納税者が、行政官に要求するものは、潔癖と公平とやさしさである。行政官の処分に誤りがあったことは稀で、異議のほとんどが、やさしさの欠除に対する感情的なものだった。例えどれほどの才入を確保しようが、納税者に国家に対する怨恨を生じさせてしまっては無意味である。

4 行政官の、自分の立場に対する理解とは、【2】で述べたことのほかに、自分の行政官としての権限と、自己の人間としての力に対する、謙虚で正確な分別である。正義を背負ったものの驕りと尊大さは、不正を隠すための虚勢より、遙かに非人間的である。

5 地域単位の機関の長の立場は、主観的にはともかく、客観的にはまことに微妙なものである。一年くらいしかその職に居ない場合、一回の春秋は、定められたスケジュールに乗って、またたく間に過ぎ去ってしまう。そこから事が始るべきなのに、そこで事が終わってしまう。なまじな知識で総合調整を行使しようと欲しても、なかなか思うように行かないのではないか。時には、混乱の痕跡だけが残ることもある。鏡のように無私の心で対する外ないだろう。

6 人には、その心中の花の早く咲く型と遅く咲く型がある。行政官には早咲きが向いている。しかし、そのために早く枯れて、心豊かな晩年が送れぬ場合が多いように見受ける。

7 時折り、真面目な能吏と言われる人に、部下と全く等質な事務を熱心に行っている人を見ることがある。これでは、決裁の技術的ミスの発見に止まって、方向や理念の誤りを修正することはできない。管理者は指示し、質問し、決裁文書を読むこと以外にも大事な仕事がある。思うことである。

8 人の上に立つ者は、おおむね性急な性格がある。彼等は、限られた時間で、前後の脈絡なしに飛び込んでくる仕事を判断し指示しなければならない。判断に必要で十分なデータは、少なければ少ないほど良い。税務職員には、往々にして、これを勘違いして、データは多い程良いと思っている人がいる。

      

     郷学研修会 右2人目 安岡氏

       

9 法律の文章は、解釈が多岐に分かれないように、内容が限定された言葉を用いざるを得ない。勢い語数が多くなる。短い、解り易い文章で、エッセンスを表現し、全体の姿を浮き彫りにする、要約と表現の能力は、身につけておいて損はない。

10 上司から、あれは便利な男だ、と思われる人は、中間管理職に早くなれる。それ以上の地位に進む人は、あれは便利な男だが、どこか底知れない所がある、と思われる人である。人間的な力である。

11   若い時は、群れの中の個として見られている。群れの中から個が選ばれるのは、専ら、知識と性格の比較による。中年になると、個々の中から個が選ばれる。それは個性と人格の差によってである。

12   個性の差は、税務大学校が、ついにそのカリキュラムに組み入れることのできない無用の学の差から生じる。それは本から学び、人から学ぶ外ない。がんじ搦めの身分である行政官にとっては、友人を選ぶためには、厳しい選別能力が要る。自分独自の人相学を学ぶべきである。

13   他人が自分に下す評価と、自分が自分に下す評価には当然誤差がある。それは全くの誤認もないわけではなかろうが、評価の基準の差である場合が最も多い。人事は、その人のためではなく、組織のために能力を判定する。評価の基準の差の最も著しい点である。不遇を嘆く人の大部分が、この差に気づかない。

 また、いかに正しい能力判定が行われようとも、人間には運がつきものである。めぐり合わせ、というものから逃れられる筈はない。自ら不遇なりと思う人は、組織の要求する所と、自分を評価する人の能力と、自分自身の能力を冷眼をもって比較計量し、万止むを得ずと思ったら、肩をすくめて天を仰げばよい。雲の行末は誰も知らない。

引用:安岡正明「随想 苦笑い」1979年財務出版刊P59~69

 

 中央 安岡氏 右 卜部皇太后御用掛  

 

筆者随聴 オモシロ夜話

 水沢税務署の頃、小料理屋の座敷でひとり酒していた時、つい立越しに,つい聴き耳を立てたことがあった。それは人目を忍ぶ関係なのか、押し殺す声で連れの女性に手当のことだ頼んでいる状況だった。「じつは税務署の調査があって、手持ちが自由にならないんだ・・」と。仕事とはいえ聴きながら吞んでいるほうも切なくなった。

税務大学校長のころ、泥棒と売春婦の徴収について生徒に課題を出した。課題を出されれば何の疑問もなく答えを出そうとする、数値選別の学び舎習慣だったが、売り上げから経費を引いて課税の道筋を懸命に考えている。泥棒の経費は、売春婦の経費は、それぞれ交通費、衣装、布団に避妊具、いろいろだった。

泥棒売春婦は認めてない行為である。よって不法行為は治安当局の罰金か弁償金など処罰対象になる」

 日ごろ徴収額の多寡を考えるあまり、新税の在りどころを探索することに汲々とする吏員の慣性に、あらためて勤労成果物に対する税法運用職員としての心構えを説いたのでした。課題の考案がまさに安岡流であり心得の最確認ともいえる教え方でした。

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孫文を唸らせた後藤新平の胆力と、゛らしさ゛ 

2024-07-15 15:49:09 | Weblog

  後藤新平  東京都知事(当時 府知事)

 

寳田時雄著「天下為公」より Kindle版

 山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。

「武器とお金を用立てて欲しい」

 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。

「借款というのは信用ある国と国が何なにを抵当としたうえで幾ら借りて、利子は幾らで何年で返すということだろう。きみたち青年の志すところは正しく、意気壮とするといっても誰も知りはしない。また清朝を倒すといったっていつ倒れることやらわからない」

「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」

「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」

「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」

 靴で床をトントンと踏んでいる。銀行の地下室に銀貨はある、という意味である。
 物わかりがいいと言おうか、繊細さと図太さを合わせ持ったような後藤の姿は、官吏を逸脱するというか、常軌を超越した人物である。また、人間の付属価値である地位や名誉、あるいは革命成功の不可にかかわらず、しかも正邪を表裏にもつ人間の欲望を恬淡な意識で読み取れる人物でもある。
 
 虚実を織り混ぜ、大河の濁流に現存する民族が希求しつつも、だからこそ、かすかではあるが読み取れる真の「人情」を孫文はみたのである。植民地として抑圧されたアジアの民衆が光明として仰いだ我が国の明治維新は、技術、知識を得る大前提としての「人間」の育成であったことを孫文は認めている。

 それは異なる民族の文化伝統に普遍な精神で受容できる人間の養成こそ再びアジアを興す礎となると考え、そのような人格による国の経営こそ孫文の唱えた“西洋の覇道”に優越する“東洋の王道”であった。
 晩年、孫文は純三郎にむかって

「後藤さんのような真の日本人がいなくなった」と、幾度となく話している。

 それは錯覚した知識や、語るだけの見識を越え、万物の「用」を活かす胆力の発揮を、真の人間力の効用として、またそれを日本人に認めていた孫文の愛顧でもあった。

※「請孫文再来」ブログにも併せて掲載されています


《それにしても民政長官として施政下にあった台湾銀行の金を奪ったら・・・との促しと、その場所は地価の金庫だと・・・いまどきの気風ではないものだ。やはり政治家は粗暴に映ることではなく、陰徳豪胆が日本人らしい》

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アイラブユーに御注意

2024-07-12 00:40:00 | Weblog

おびただしい外来語の氾濫は棲み分けられた地域の情緒まで転換を余儀なくされている。

 

2007年 ブログ掲載のはじめての章です

※この文章は小生が2003年9月号【月刊「タイル」】に掲載していたものです。


アイ・ラブ・ユーは「ようこそデニーズへ」のように訳せば
「私は愛しています、貴方を」となる。
この言葉は、外来語応答マニュアルによる代表的な愛情表現のようだ。

一度は口にしてみたい言葉だが、外来語のせいか、それとも日本人特有のシャイな性癖のためか、はたまた打算的な恋愛を楽しみながらも(口に出したら負け)と、風変わりな恋愛を楽しんでいるのか、そんな雰囲気にはなれない。
こんな心地よいフィーリングと音声は滅多に無いと思いつつである。

ところで、当たり前のように理解していると思われるアイ・ラブ・ユーの意味も、
改めて考えてみると、とんでもない錯覚の壁にぶつかる。

『バカの壁』という本がミリオンセラーになろうとしているが、どうも外来語や共通単語の理解に関する「錯覚の壁」は、ベルリンの壁のように、よほど大きなアクションがなければ抜けられない、自分を取り囲むガイドラインのようだ。

あえて屁理屈をこねているわけではない。

「アイ・ラブ・ユーはアイ・ラブ・ユーよ」との答えはその通りであり、
理屈よりフィーリング、言葉より行動、昨日のアイ・ラブ・ユーは、今日のアイ・ラブ・ユーとは違うこともよく分かる。

恋をしたりウキウキした気持ちは楽しいこともあるが、もし双方向のラブの意味が違うとしたらどうだろう。
行き違いの果て、「愛してると言っただろう」とは言っても、「あの時は愛していた」と心変わりするのはよくあることだ。

だが「あなたのアイ・ラブ・ユーを取り違えていたわ」では、
愛し合って結婚した、と理解したその取り違えは、
「錯覚の壁」の存在を知ったところで後の祭りである。

レンアイから新鮮味のないナレアイへの変化は、
怠惰な関係をさそい、非難中傷の理由ダネを作り出して、ついには別離のスケジュールに乗ることとなってしまうのが常である。

ある有名大学数校の法学部学生を集めた研修会で、
自己紹介を行った時のことである。
一流会社の重役や官公庁の責任者なども同席する、
プライベートな研修会であっても、お決まりの肩書きや趣味の身柄説明などが通例のようで、この日も出身地と現在の立場が披瀝された。
「自己の明らかにする紹介」はなく、おしなべて経歴説明のたぐいであったことは、
云うまでもない。

※そもそも「大学」は小学生からの経過でなく「小学」「大学」と別物。大学は自身の特徴を知って後、自らの(徳)特徴を明らかにする学びである。ゆえに「大学に道は明徳」と示している。


そこで筆者は
「よく個性の発揮とか国際的に通用する人材の育成といわれるが、名刺の肩書きや人生の経過説明では、どんな人なのかは説明つかないだろう。
外国に行ってどこかの役員だとか、学歴経歴がどれほど不偏な人格価値を表現できるか。
個性とかいう解らない表現ではなく、誰でも理解できる自分の優劣の特徴を明らかにして
『あなたは何者ですか』を分かりやすく紹介してください」と促したところ、おしなべて応がない。

「それならアイ・ラブ・ユーを訳してください」と続けたところ、
全員が「私は貴方を愛します」と、英和辞典の記述の解説に終始した。

「難しいことを訊いているのではないですよ。
一人の女性を対象に全員が同じ意味で愛しているのですか?
女性も、自分の愛と全員の愛は同じと考えますか?」

英語のアイ・ラブ・ユーは、中国語のウー・アイ・ニーと同意と言われるが、
あくまで双方が、意思を納得しているという前提がある。
「たとえば、暴れん坊将軍の吉宗や水戸黄門が『愛してる』と告白しますか?
ちょん髷に草履では、どうも格好がつかない台詞(セリフ)ですね。
せいぜい『そなたに参った』かと思いますよ」

外来語が洪水のように入ってきた明治期に、二葉亭四迷はアイ・ラブ・ユーをこのように訳しています。
『僕は貴方のために死ねます』
これなら、そうそう誰彼にも言える決意ではない。

キリストの愛は無条件な献身(犠牲)というが、こんな分かり易く、女性にとってもこんなに真面目で錯覚することのない告白を受けたことがない、と女性出席者の吐息でもあった。

フランスの画家ゴーギャンはタヒチの自然に漂いながら、
「我々はどこから来て、何者なのか、どこへ行こうとしているのか」
と訊ねています。

アイ(己)も知らず、ラブ(愛)も分からず、ユー(対象)をどうするのだろうか。

くれぐれも双方は思いつきや条件つきのアイ・ラブ・ユーにご注意を!

 

※まず自分は何者なのか、特徴は、他人のモノマネや無頼な個性なるものでは、己を探すことはできない。ヤリタイことより、特徴に沿ったヤルベキことが70数億人に1人、いや独立した「独り」を発揮する生き方であり「活かし方」でしょう。


 

後日談

人は3日で刮目するというが、彼らは瞬時に好転したようだ。

彼らは裁判官、検事、弁護士が世間並みの志望だった、親も同様な期待があった。

きっかけは彼らからの問いだった。

「どの様にしたら自分がわかりますか?」

日本人しか使わない「自分」だが、自は鼻、自の下は音記号、「自」はオノズカラ(自然に)と、ミズカラ(自発性)がある。いくら抵抗しても自然に歳をとる、それは困るからと外面を飾り、肉体は健康を維持しようとする。つまり相剋です。

ならば「分」は全体の一部分、家族、社会、民族、世界の一部分として成り立っているのが自分だ。その意味では他を意識した全体の中で特徴を発見して、伸ばすことが学びでもある。学術、財力獲得でも良し、全体の一部分を考えて進むべきだ。

簡単なことだが、附属性価値を省いて自身を試してみることだ。

慶應?中央の法科?今は単なる学生だ。試しに一万円を握り5000円で行けるところまで行き、海なり山間地に縁あってそこに棲む方々と邂逅を楽しみ、己がお役に立てることは何かを体感してみることも良いでしょう。残りの5000円は帰路交通費。腹が減っても食えるか食えないかは自分次第だと伝えた。

数日して紹介者から連絡があった。何か話したのですかと親から苦情めいた電話だったという。

一人の女性は多摩地域の選挙でトップ当選

A男子は大手通信機器メーカーに入社  B男子は東京近郊の自治体図書館の司書

自分の特徴が分かりかけたことで、活かすべき位置が分かり目標もできた。学んだ法なるものの活かせる職域だとおもう。

全体の一部分を自得した彼らのアイラブユーは、社会に心地よい風を漂わせてくれるに違いない。

 

 

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仮題    「愚 庵」  抜粋

2024-07-11 14:10:39 | Weblog

 

           

 

仮題    「愚庵

「あらすじ」

 

 名は天田五郎。生地は磐城平。もちろん今どきの学歴もなければ、金もない。戊辰の混乱で、生き分かれになった親兄弟をさがす途、縁にあって小池祥敬、山岡鉄舟ノ知遇をうけ終生の師となる。 

やがて陸羯南、落合直文、勝海舟、原敬、三遊亭園朝等、明治を彩る傑物との親密な交流や、庶世の仕事師や童との生活に時折起こる煩いごと、それに反応する主人公の智略と義侠は、当時のごく普通にあった情義の世界だった。

 鉄舟の促しで清水次郎長の養子となり富士開墾などに功あり、当時の稼業の世界を書き記した漢文調の次郎長伝は、講談師神田伯山の手によって高座にあげられ、後に広沢虎造の浪曲づくりによって一世を風靡した。

 知己の相次ぐ死で京の禅寺、天竜寺の名僧滴水の門徒となり鉄眼と称す。

糜爛した世間、ときに弛緩堕落する僧徒の世界を忌避し、草庵を設け愚庵と称す。

 行動は直観と義侠を以て、動けば修羅雷電のごとく、色街で放蕩もすれど、赤貧もいとわず、つねに至るところ青山のごとく、まさに義と侠に命をそそぐ無垢な童心を併せ持ち、かつ真の教養人として余すところのない人生を疾走した。終章は路傍の童との無常の別れであったのも、まさに愚庵の生きざまであろう。     

 外に漏れるものを止めることは難しいが、内なる器を大きくすることで自然にして内に留まる。しかも万象に潜在する良質なものを俯瞰し咀嚼すれば、言は無くして、痛快な境地となる。これ内観の妙。仏道は僧堂に在らず、禅道は路傍の義侠にあり、まさに己の行くととろは随所に廟堂あり、そんな読了感だ。

                             編者 寳田時雄 拙記

 

 

                 

                 天田五郎       出家して愚庵

第一章 明治五年 

 

五月

 麹町中六番町。閑静な、広々とした、広すぎるくらいの邸と庭である。

 元は、武家旗本も相当大身の居住地であったろう。庭ぐるみ千五百坪はあろうか。

 そこから見おろせる邸内のずっと離れた、主人居間の方には、遠すぎてか、聴こえないようである。

 座敷には、当邸主人の小池祥敬と、まだ二十歳にもならない若者が向かいあって座っていた。

 ヤケに顔がまっ黒でひと目で田舎者と分る。小柄、眼光射るがごとく、みるからに不逞精悍の風がみなぎっている。

 触れたら鳴りを発するような強情さがあふれている。

 小池は四十をこしたばかりで、色白く、ふくよか、婦人のような柔和温厚さで容姿、優雅で、気品あり、ことに眼が美しく澄み切り、底に微妙な光ある。

 さもあろうか、この人はもと京上賀茂神社の社家出身で、若くして勤王に身を挺し、家を棄て、幕吏に追われ入獄するなど、今の立身もそのためで、明治新政府は、この頃、太政官の正院大主記、当時は太政官制度で、正院(太政大臣、左右大臣、参議構成)と左右両院の構成により、左は後に元老院、右は各省長官配置、大主記はその正院十四階級中十二位に当る、まず官吏としては最高位に属する立場である。

 長々とした紹介状を丁寧に読み下し、スルスルと手に巻返しながら、涼しい眸をあげて、心焦せらせ紅潮している天田五郎をながめ、

 「趣のほど、よく承知いたしました。ご事情のほど、お察しいたします」

 二十歳も年下に対しても、丁寧である。

 若者は、勝手がちがって、ちょっと畏まった。

 (承諾、されたのかな……?)

 「で……」巻きおわった書簡をひざの上に、手を重ねて、端然ときく。

 「あなたには、仕官の望みが有るのですか」

 「ハ? 仕官……」

 「つまり、官員、又は学者としてです。政府に仕え、立身する希望が有るかということです」

 「イイエ……」断然として云った。

 「有りませぬ」

 突然の大声に、発したものも、聴いたものも、つい、微笑と苦笑を交わし合ってしまった。

 「私の念願は、ただ一つ、自由独立の身として天下を廻り、戦乱の中に生別しました肉親を尋ね出だすこと、その再会だけが望みであります。ただこれだけであります」と力みこんでいう。

 小池は、さそわれて、また微笑した。

 「分りました。そうですね。私の所は書生などはいらないのだが」

 「……」顔に陰がさした。

 「マア、よろしければ、大したお世話もできないが、おいでなさい」

 

 余りのあっけなさに、気が抜けた。気づくと、ハッとたちまち平伏した。

 「ハイッ……ハッ、ありがとうございますッ」

 その東北の田舎ものの生地丸出しの、率直素朴の態度に好ましさをおぼえ、小池は、いった。

 「さぞ、心痛なことでしょうなア……」

その時、ジジ、ジジッ……と、鋭く鳴いて、大きな一匹の蝉が、飛んできて、松の樹の幹に止まって三匹になった。

 「あの、山岡様がおみえでございます」

 「ホウ……」

 縁に、客来を告げる内儀の声に、顔ふりむけた小池がうなずき、

 「かまいませぬよ、ここへ、どうぞ……」

 「はい……」

 若者は、身を固くした。

 (さがろうか、退くまいか……)迷っていると、その人が、ズシリとした足音と共に、影をみせていた。

 ふりむくと、大柄で壮漢であった。主人と比べて、何という違いだろう。

 みると七尺有余は有ろう。目方も二十貫以上はあるまいか、鴨居にもつかえている。

 五尺五寸余の痩せっぽちの若者には、圧倒的であった。

 「やア……」

 笑いながら、声かけ、無雑作に通りぬけて、向うに席をとる。五郎の会釈にも、一瞬目を向けたが、それっ切り。

 「暫く……」

 「あの時以来、お久しぶりですね」

 主人もよほど親しいのか、かしこまった挨拶もない。

 「うむ、ハハ、西郷さんから余計な仕事をたのまれて、勤めはするものの、なかなか楽じゃない」

 「ハァ、ハハハ」小池も声を上げて笑った。

 「ちょうど良い、お引合せしましょう」

 二人を比べみて、

 「承知だとはおもうが、このお方は、元、徳川家直参の山岡鉄太郎先生です。今、畏くも今上の御身近く、侍従としてお仕えしている方です」

 若者は、吃驚した。天皇の間近に近侍するときいただけで、身体ぜんたいが痺れてしまうほどの愕きであった。

 「今日から、石丸八郎氏の紹介で、私の家に寄宿することになった、奥州磐城平の人で、天田五郎という青年です。どうぞお見知りおいて、よろしく今後ともみちびいてやって下さい」

 「天田五郎と申します。なにとぞよろしくお願いいたします」

 ジロリと、その挨拶に凄い目をくれる。五郎は身がピリピリとした。

 山のようにドッシリと、それだけでこっちの身体が威圧される感じだ。

 「この天田君は篤志の青年でしてね、戊辰の戦には、十五歳で、磐城平で、官軍と戦ったそうですよ」

 「ほぅ……」鉄舟もあらためて見つめ直す。

 「その戦乱のさなかに、ご両親と妹に生き別れとなり、以来、いま以て行方しれず、その捜索再会が、一生の宿願だそうです。なかなか以て感心ではありませぬか」

 鉄舟が、今度は鋭い目で見た。

五郎は、面はゆい気持ちになった。

 「今もはっきりと聴いたのですが、仕官立身の望みはないという。いまどき珍しいですね」

 五郎は、いよいよ照れくさく、尻がムズガユクなった。が、多少誇らしくも思った矢先、水をかけるように、浴びせられた。

 「なるほど……変った面構えですな、ちょうど奥州の山でとれた手ごろの頑固猿といったところですな、ハハハハハ」

 適評ではある。それだけに五郎はムッとふくれっ面でながめるが、屈託もない。

 

 鉄舟こと山岡鉄太郎、この時いまだ三十六歳。

 戊辰の役後、徳川慶喜公に随って静岡に在ったが、やがて静岡県権参事に命じられ、慶喜の東帰の後、再び戻る。今は、肝胆相照らした西郷隆盛の依頼で、若き新帝をめぐる皇宮内の改革のため、女官退治に、皇宮侍従を余儀なく引き受けさせられていた。宮中女官は、将軍家大奥に似たりよったりの弊害をかもしていたからである。

 この出会いは運命的だった。

 

 「天田、大分、腕が上ったナ、」

 「そうですかァ、打たれているばかりで、ちっともそうとは思えませんが」

 五郎は呼吸をはずませている。

 吉井幸太郎が笑っていう。

 「それが上っている証拠さ、勝負が見えてきたのさ、下手なうちはムヤミに打ちたがる。相手かまわずにな、ところが少し進むと、相手の強弱巧拙がしだいに見えてくるから、今度はウカツに手が出にくくなる。今、貴公がそんなところさ、もう少しゆくと、相手に応じて、あしらうようになってくる。ここまで行けてまず半人前さ、僕なんぞもう三年も通っているが、やっとそこらだ」

 五郎は、うなずいている。

 「何しろ先生が先生だけあって、ここには荒っぽい奴ばかり集まっているからナァ。お前なぞ、まだ半年にもならぬのだ、大した上達ぶりだよ」

 「そうですかァ」笑った。

 「山岡鉄舟と云ったら、荒い上にも厳しいので天下に有名だからナ。先生は若い頃には鬼鉄と云われて、得意の突きを食らったら、五日位は腫れ上ったまま飯も喉を通らんそうだった。心形刀流の伊庭八郎先生と試合した時は、道場の床板を踏み破ったというからのう」

 「突きでは、しかし、斉藤の鬼歓の方が上だろう」こっちから、島村というのが口をはさんだ。

 「武者修行で、西国九州を廻り一人として勝つ者がいなかった。余り若いのでバカにした長州の連中が、桂小五郎、今の木戸さん以下一人のこらず突きでやられ、それから一同ビックリしてみな斉藤道場に入門したというじゃぁないか」

 「馬鹿を云え」それを聴いていた一人が打ち消した。

 「たしかに鬼歓は突きの達人だが、素行が放縦でなっとらん。不節制で、もう二十四、五で死んでしまっているではないか。そこへゆくと、先生は、道場荒しもしたけれど、品行正しく、情義に厚くてかりにも喧嘩争論をしない。第一に、元々直参六百石の小野家次男に生まれながら、五十石という小禄の山岡静山師に、臨終の際に、鉄太郎が欲しいなぁ、と呟やかれたのをきいて、私で宜しければと、喜んで貧乏道場に婿入りした。それが今の先生だ。人生この意気、武士はこの精神だ。正に人間の本懐、侍の心根、これではないか。

あの動乱の幕末維新の中、生死の境を奔走して、人一人斬ったこともなく怪我一つしてもいない。こりゃァ大変なことだぞ、いくら強くったって、人格や徳が伴わねばダメだ。斉藤だって、千葉、桃井、みなご維新になってからは、すたれてゆくばかりではないか」

 「その通りだ」吉見も大きく頷く。

 「先生も先生だが、奥様も偉い。あのとおり穏やかな、おやさしい人柄だが、男も怖れをなした江戸明け渡しの混乱期に、先生は官軍総大将の西郷と周旋する考えがあり、そのため頑冥な佐幕派から裏切り者とみなされ、命をつけ狙われた。毎日のように侍が表をウロウロし殺そうとやってくる。ある日、そのお留守を帰るまで待つとムリヤリ上りこんだ数人があった。奥様はそんな奴らにも、お茶をすすめた。すると頭は皿の羊羹を抜いた白刃にさし、毒見をしろ、と目の前につきつけた……」

 皆、身体を乗り出して話にひき入れられた

 「奥様はどうなさったと思う……」

 みまわした。

 「顔色も変えず、『では、お毒見いたします』、口をもっていってアングリ平気で食べてしまった。これには度肝を抜かれて、『改めて参る』と、さっさと退散したそうだよ。いいか、その一人が、但馬の八木竜蔵、今を時めく新政府役人、加えて今は先生の弟子でもあり、当時威勢の北垣国道さんだよ」

 吐息が期せずして座にこもる。いつのまにか、門人が集まって

 「然り、然り!」

 やにわに大きい声が上った。ノッポの大川だ。

 「明治の東京に在って、都下第一の剣の達人はわが山岡鉄舟先生である。つまりは、先生をほめること、即ちその門弟である我々の自慢である、と、ハハ、そうだろう」

 これでみんなドッと笑ってしまった。すると「しぃー・・」と、だれかが制した。

 振り返った途端、羽織姿の鉄舟が、フラリと風のように入ってきて、縁の方からこっちをながめていた。

 誰命ずることなく、自然に、粛然として一礼していた。

 後に、春風館を称した鉄舟が、その場に現れただけで、門弟の気は昂揚し、ひきしまる。鉄舟は自然の英気が身体に漂い、周囲を圧倒した。

 黙って手をふりそのままやれという風に去る。

 その気風は庭道場ではあるが、稽古は凛として壮気みなぎり、烈しかった。

 (幕末以来、鉄舟は道場をもたず、弟子も取らない。それでも勝手に人々が寄り集まってきた)

 

 「天田……」

 「ハ……」

 「先生がお呼びだ。居間の方に行け」

 「ハイ」

 五郎は、この旧中野長者邸跡という淀橋中野の山岡邸に、麹町中六番町の小池邸から通っていた。

 「オイ、運の好い奴だな、奥に行けるなんて、あとで何の用だったか教えろよ」

 傍にいた吉見が云った。羨しそうである。五郎は、ちょっと好い心持ちになった。

 「天田です。お呼びでございますか」

 「おぅ、入れ」

 入って障子をしめると、一礼した。

 一人ではなかった。客がいる。

 鉄舟の部屋は殺風景だった。が、どこやらに侵し難い風情が、その八方破れの室内に、厳として漂っている。いつものことだが、近寄って接すると、不動の山容、磐石の重量感がひしひしと押し追ってくる。その山は今日は一つではない、それが二つだった。

 ちぢまっていると、

 「もっと近くへ来い」

 五郎は会釈を客にして、膝を進めた。

 「此の男です。天田五郎と云うのは」

 「ほう……」客は目をくれ、頷いている。

 「天田……」

 「ハッ」

 「このお方はナ、小池さんも親しい国学者の落合直亮先生である。私からもよくお頼みしておいたが、よろしく今後のご指導を君からもお願い申し上げぃ、学問の面倒をみて下さろうと深切に云われる。」

 「ハイ」五郎は向き直り、ピタッと手をつき、

 「天田五郎と申します。ふつつか者でございますが、今後、御教導のほど、よろしくお願い申し上げます」

 「イヤ……こちらこそ宜しく」

 魁異な相貌であった。長身である。眼はいくぶん尖り気味に、眼の奥ひっこんだ感じで、深く光っている。尋常の人物でないとは、五郎にも分る。

 「御免くださいまし」

 やさしい声、鉄舟の妻女であろう。茶菓を運んできた。

 「五郎……」

 「ハ……」

 「きさま、なかなか道場では評判がいいそうだナ」

 「ハ……」ちょっとうれしくなった。

 「うれしがるな。剣の筋が好いというんじゃないぞ、きさま、強情で利かん気だが、先輩には尽くすらしいで、根が暴れん坊の単純な奴ばかりだから、気に入られたらしいというのだ」

 その時、退りかけていた英女が、クスリと笑う。

 「なんだ」

 「ごめんなさいまし、別に……」

 「何がごめんなさいだ。何で笑った。云え」

 英女は身を向き直し、微笑んだまま、

 「今のあなたのことばで、ふと思いだしたことがあったものですから、つい……」

 「何を……?・」

 「天田さんのことでございます」

 「五郎がどうかしたか」

 「申し上げてもよろしいかしら」

五郎の方を流しみた。

 「早く云え、何を焦らすのだ」

 「ハイ、では申します。天田さんが、道場へ来始めのころ、どういうわけか、いつも稽古になりますと、稽古着が裏返しなので、古参の方たちは、ヘンな奴だと、注意されたのですが、天田さんはフンといった切り、どこ吹く風といった顔なのに、気にさわったかして、一度こらしめてやれと、皆さん寄り合って、天田さんにご馳走してやるからつき合えと、河童庵につれこんだそうです」

 「フン……」

 「……」五郎はアッという表情をした。                          

 「そこで皆さん、天田さんに食べろと名物の蕎麦をすすめ、食べるそばから次々と運ばせ、あやまらせようとしたのですが、なかなか参ったと云わない。なにしろ音を上げた方が勘定総持ちのつもりで双方、口を利かぬまま、一方は暇なしに運び、一方は食べつづける。結局二十六杯ツルツルと呑みこんでしまったので、食べさせた方は青くなり、それ以来、天田さんの強情我慢は、古参の間でも天下御免だそうでございます」

 「そばを二十六杯……」落合が剛毅な容貌を解いて思わず呟いている。

 鉄舟も、呆れる感じだ。

 「きさま、本当に二十六杯も食ったのか」

 「……ハイ」仕方がない。

 「呆れた野郎だなア、それで何ともなかったか」

 「ハイ……」

 「それはウソ……」英女が横から云う。

 「天田さんは、そのあと腹を下し、三日ほど何も食べずに青くなっていました。それでも明くる日には道場にきて、古参の方々に、昨日のお礼をいたしたい、うけとって下さるかというので、みんな何だろうと見ていますと、天田さんは……」

 「奥さま、もう勘弁して下さい」たまりかねて、五郎は手をふった。

 「云ってみろ、あとを」

 笑いながら英女はつづけた。

 「庭に飛び出て、クルリとお尻をまくったかと思うと……ホホホホ」

 あとは手を口にあてて云わぬ。

 落合もこわい顔を失笑させた。

 苦笑した。

 「はぁ、ばかな奴だなぁ、きさまも」

 五郎は、真っ赤になって、顔を伏せている。

 「まだそのあとがございます。アトでこれをきいた河童庵の主人は、五杯十杯ならまだしも、我が身に苦心し工夫した手作り自慢の名物を、これでは丹精も味もあったものではないと、かんしゃくを起して、当時、山岡道場の者といえば、お断りを食うことになりました」

 「それは、俺も知らなかったぞ。五郎、これが本当のくそ度胸と云うやつだな」

 大笑い。五郎は身のおき処もない。

 「奥さま、ひどいですなぁ」頭をかく。

 「だが、そんなムチャは止せ。愚の骨頂ではないか。それを本当のバカというのだ」

 それを聴いて妻はニヤニヤとした。

 「なんだ?」

 「あなたもそう大きなことはいえませんでしょう。ずい分昔は鯨飲馬食でございましたから」

 「う……」妙な按配になった。

 「ハハハハ、これは見事に参りましたぁ」

 鉄舟も苦笑。

 「これで困る。山岡の処は、主人より女房の方が人間が一枚上だと、専らの評判で、つけ上ってそれでチョイチョイやりこめられます」

 これでまた大笑となった。五郎もつい笑った。

  はじけたように笑いが上る……

 五郎は、じつに愉快である。

 愉快で、愉快でたまらない……

 

 五郎は、路先で、立ち止った。

 「うん、実に好い、俺は幸運だ。好い先生、好い友人先輩に恵まれている。実に好いぞ」

頭をふり、両手を天に伸ばす。思わず飛び上がった。

「アハハハハ」

通りがかりの人が、おどろいてながめているのにも、ふりむかない。

サッサと歩き出すのに、

 「変わりもんだね」通行人は呟いていた。

 

 「あっ、五郎さんだ」

 「お兄さんだ」

 広い庭先で、戯れている姉弟が、五郎の姿をみつけて、さわいで走りよってくる。小池の子女である。姉は幽里、弟は豊。

 「おぅ、只今」

 五郎も子供を一人ずつ抱きかかえ、空高くふり廻すと子供は声を上げて喜ぶ。

 「お兄さん、遊ぼう。あそんで、肩車」

 豊の方は、まといついて放れぬ。

 幽里の方は流石に大人びている。

 「ウン、あとでね、あとで」

 「キットだよ。ゲンマンだよ」

 「いいとも、そうら」

 五郎は、二人と指をからませる。

 「お父さまはお帰りですか」

 「ええ、おへやに」

「奥さま、只今戻りました」

 「お帰りなさい」

 一礼して、ゆきかけると、ご内儀が声をかけた。

 「天田さん今日は縁起のいい日なのですか、うれしそうですね。顔が光ってみえますよ」

 「ハ、そうですか。実は大変にうれしいのです。うれしくてたまらんのです。奥さま」

 「あら、どんなことがあったのでしょう」

 「ハハ、ハハ」

五郎は、ニコニコして、去ってゆく。内儀も思わず明るくなっている

 「先生、只今戻りました」

 障子をあけると、着替えた小池が机に向って、書をひもといていた。

 「お帰り、まぁお入り」

 「ハイ、先生」入るなり、即座に口切る。

 「先生は、落合直亮先生をご存知でいらっしゃいますナ」

 「うむ、盟友だ」

 「今日、山岡先生の処でお目にかかりました。先生のお引合せで、落合先生にも、国学文学のご教授にあずかることになりました」

 「そうか、それはよかった。あの人なら君にも良いだろう。お元気でしたか」

 「ハイ、先生にもよろしくと申されておいででした。甚だ失礼なのですが、ちょっと気むずかしいところもお見うけ致しますが……」

 「うむ、そうだろうな……’一

 「ハ……]

 「しばらく行ちがって、あの人とも逢わないが、あのお人はな、この維新変革には大変功労のあった御方だよ」

 「ハ……」

 「家を捨て、私財をなげうち、一身を挺して多くの同志と共に、討幕のために死生の間をさまよった勇偉の人だ。本来なら私などとても足許にも及ばぬし、現在政府に羽をひろげている大臣級にも肩を並ぶべき偉い方だよ」

 「はア……」

 「世の中というものは、実に理想と現実とは食違うものだ。あの方はそれ程の学問と業績がありながら、岩倉卿に憎まれ、薩摩の軍人にも嫌われて、あのような低い地位に軽んじられている。ままならぬものだよ」

 「……」

 「何れゆっくりそのことは話して上げよう」

 小池はそばの手文庫にのばした手に、包をとり

 「落合さんのご教示を仰ぐとしても、無料と云うわけにも行くまい。当座として此を納めなさい。一部は自由に君が使うとよろしい」

 「いつもどうも・・・」うけとったが、意外の額に、ちょっと目をみはった。

 「ずい分のものですが……」

 小池は、眼を和ませて、うなずいている。五郎は、恐縮して、頂戴した。

 すると、廊下のあたりに、チョコチョコ影が映り、小さな足音がする。ふりむくと、姉弟である。待ちかねて、好い遊び相手にさそいにきているのだ。

 「まぁだ、五郎さん。早くいらっしゃいよ」

 「今、行きますよう」

 五郎は小池と顔を合わすと、笑った……

 

 

           

山岡邸ノ庭

 今日も裂帛の気合が交錯して、汗の匂いがムンムンしている。

 その中に立交って今竹刀を振う一人、イヤに強い。敏捷機敏で鋭い太刀さばきだ。

 吉見、天田らは隅に今控えて、一息入れて見守っているが、思わず囁く。

 「アイツ、新入りのようだが、なかなかやるな」大川である。

 「全然打たせませんな。素地があるな。何流だろう」と吉見も。

 烈しい立合なので、次々と疲れたものが下り、新しく入れ代るのに、その男は疲れも知らず続けている。

 五郎は、とうとうその男に向って、つき進んで行った。

 「お願い申す」

 「おう」

 双方黙礼、すぐさま竹刀を合せ、気合をこめて、

「ヤッ、ヤァッ……オゥーリャ」

 吉見らは、息を止めて、ながめていたが、五郎は一方的にやられつづける。全く隙をみせず、奔放自在な動きで、チョイチョイという感じに、小手を打ち、面をおそい、鋭鋒敏活そのものだ……

 「情ないな。やられっ放しじゃないか」

 歯がゆくなって、吉見は立った。面具をつけて代ろうとしたが、あいにくに、竹刀を退いて、五郎と一緒に、戻ってくる。吉見は別のものと立会った。

 面具をとり、流れる汗を拭う男は、まだ二十歳をこしたばかり。五郎より一、二歳しか上でない童顔のひきしまった好男児である。五郎も汗を拭いつつ、

 「君は強いなア……相当前に何流かを修めているんじゃないかな」

 「ああ……何流だと思われる?」大風である。逆にきいてきた。

 五郎は分らない、だまっている……。

 「真心影流。豊前小倉の松崎浪四郎先生に就いて幼いころから学んだ」

 「真心影……」

 「そうだ、心影の正統は、今、九州に綿々として厳在し、松崎先生に伝わっておる、近世不世出の名人だ」

 五郎は、チトおだやかでない。

 「山岡氏の盛名をきいて、僕も今度上京した折から、教を乞うてみたが噂ほどでもないネ」

ますます、こわばり返ってきた。それにもこやつは平然としている。

 「竹刀剣法で、斉藤、千葉、桃井、どこもここも廻ってみたが、みな実践の用には立たん小手先芸ばかりだ」

 五郎は、もうにらみつけている。それで初めて気づいたように、この男は云った。

 「申しおくれた。僕は豊前中津の産、河村狂一郎だ。よろしく、貴公は・・」

 五郎は、こたえずに、その冷徹とした面、表情をじっとみつめるばかり。

 名のった河村もようやく不審げになった刹那、五郎は、いきなり、その面を拳骨でポカリとなぐりつけた。

 ふいを食って河村は横に倒れかゝったが、やっと踏み止まった。

 真っ赤になって凄い面相になる。

 「何をすっか、きさま」

 「隙がある」

 「…………」

 「それでは実地の役には立たん’・」

 あたりは、何事かと、静まり、わけも分からず、注視。

 五郎も、相手の河村も、今にも取っ組み合わん勢と構えだが、ふと気分を解いて、河村は、手をふった。

 「こりゃ、一本、やられたのう」

 二人は、どっちからともなく笑いだし。みんな緊張の気配をゆるめた。

 「じゃ、又、会おう」

 「おう」

 「俺も、貴公のような面白い奴と知合えて、愉快じゃ。あとにも先にもこの俺の頸に手をふれたのは、貴様だけだ。しかし、用心しろ、今度はそうはゆかんぞ、うんと油をしぼってやるからのう」

 「ハハハハ、いつまでその広言を吐かしておくもんか、貴様こそ用心せい」

 二人は、河村の奢りで共に入った縄のれんをでた。

 「俺のところにも、良かったら遊びにきてくれんか。当時大蔵省の陸奥宗光さんの処に、居る」

 「陸奥さん……」五郎もちょっとビックリした。

 「おお、維新の元勲、陸奥卿の食客じゃ、貴公も紹介してやるぞ、陸奥さんも、まだ、二十八、九の若さじゃ、元勲とは云え、俺たちとも、同じじゃから話はよく合うぞ、では・・」

 さっさと云うだけ云うと、河村はホロ酔い機嫌で、もう背をみせて歩きだしている。五郎は河村の背を目で追いながら呟いた。

 「変わった奴だナ」

 

 たちまち秋となり、冬となり、その年も暮れて、明治六年春。

 田舎者の山猿天田五郎も、ようやく都慣れして、ニ+歳の青春を小池、落合、鉄舟と、秀れた人物を師とし、文武にはげみ、寧日もなかったが、生別した父母妹のことは念頭より放れたことはない。

 去年九月に、初めて品川横浜間に鉄道が敷かれ、人々はオカ蒸気といって、手弁当で見物に出かけた。この六年一月には太陰暦は廃され、太陽暦となり、その十日には国民皆兵の徴兵令が公布され、仇討禁止令も出た(二月)。

 

 明治四年に欧米視察に岩倉具視一行重臣連がそろって出かけ、留守中の政治は、度重なる朝鮮国、それを後押しする清国の、日本無視と嘲蔑に、漸く征韓の論高まり、又北方では虎視耽耽として千島、北海道侵掠に隙をうかがう帝政ロシヤに、志ある者は、覚醒の叫びを放ち、にわかに高潮し、そして緊張している。

 天田五郎も血気さかん、元気旺盛、多くの有志や若者にとりかこまれている。自ら国事憂患に血肉をたぎらすのも、また当然であった。

 

 四月―淀橋、成趣園の鉄舟邸は、表て向は豪勢だが、裏へ廻ると、旧幕以来の貧乏は相変らずで、火の車そのものである。この邸も宮家から好い売物の邸がある、買えとすすめられたが、お断りしたら、金は此方で払ってやると、下賜同然に鉄舟の物になったのだ。もとは某富豪の別荘だったと云う。鉄舟も仕方なくお受けし、しかし金五千円也の借金証書をお渡しした。それも一文も払ってない 先生の不在にも拘わらず、烈しい稽古は絶えず、今日も気合が響いてくる。その鉄舟は、今日はまだ帰らない。

 天田五郎は、一人のこり、夕やみの一室で待つ。

 とうとうため息をつくと、立ち上った。

 「奥さま……」

 「はーい」

 五郎は、障子をあけて顔をのぞかせた。

 「先生は、今日は遅うございますな」

 「ええ……なにか、大切な御用?」

 「はい……実は、私、このたび落合先生が奥州仙台に志波彦神社の神官として赴かれますのに、従って行くことになりましたので……」

 「まあ、仙台へ、お国の方ですね」

 「はい、当分はお目にもかかれなくなりますので、ご挨拶いたしたくお待ちしたのですが……」

 「そう、それは、いつ?」

 「明後日です。色々と有りますので、今日どうしてもお別れ申し上げたいと存じたのですが」

 [鉄舟も風来坊ですからね」英女は微笑った。

 「この頃ではそうでもなくなりましたが、昔は出たら最後、鉄砲玉の使いと同じで、何日も帰ってこないのも当たり前でしたからね……」

 「はぁ……」

 「じゃ、お待ちなさい。居間の方へどうぞ……」

 「しかし……」

 「ご遠慮なく、さぁ……」

 五郎は、英女の誘いに、そのまま、鉄舟の居室にみちびかれた。

 夜は更けた。五郎は端然として、春とはいえまだうそ寒い夜気が沈む室内に座った。

 気配に姿勢を正す。膳を運んできた。

 「お待ちになりましたでしょう」

 「いぇ……」

 「おそくなってすみませんでしたね。御膳を召上れ、お腹がお空きでしょう」

 「いゃー、これはどうも」

 「粗飯ですが、たんと召上れ」いうと英女は退いた。

 頭をかいたが、五郎は箸をとり、パクパクやりだした。美味い。

 にぎやかな声に、少し退屈していた五郎は、崩れた姿勢を正した。

 足音は近づいて障子があいた。

 「やぁ、待ったそうだな」

 「……」手をつき、迎えた。

 「お留守のところを、どうも・・・」

 「挨拶はぬけ」鉄舟が手をふった。

 「話は、英からきいた。仙台へ行くそうだな」

 「はい……」

 「落合さんも、気の毒だが、東京では、身の立つ処もあるまい。仕方もないことだ」

 「……」

 「ま、お前も、故郷にちかいことだ。何かと便宜もあろう。せいぜいお力になってあげろ」

 「はい」

 「英……」ふさ、と呼ぶと奥さまは、顔を出した。

 「はい」

 「五郎に、少し餞別でも包んでやりたいが……」

 その言葉のおわらぬうちに、と一そっと一封。

 「うっ」、と、鉄舟、あとがつかえて苦笑。

 「奥さま、ありがとうございます」

 五郎が、さっと手を出す。その速いこと。

 「こいつ」目をむいた。夫婦でおもわず笑いだした。

 「図々しい奴だ」

 「イヤ、これは……」

 「いい、いい、どうせもう山岡の世帯の裏もお見透おし、キサマの出自もわかってる、だが、もっと良い餞別をお前にくれてやる。庭へ来い」

 「ハ……」一寸おどろいていると、もう鉄舟は庭におりている。

 「一本、稽古をつけてやろう」

 五郎の顔が輝いた。本当か?

 鉄舟自らの手にとって教わったことなどまだ一度もない。そんな門弟もまた無い。維新後の鉄舟は殆んど稽古などしたことさえないのである。五郎は、はね上って、走り追った……。深更である。冷えていた。

 

 めずらしく防具を身につけた鉄舟が、竹刀をえらんで、中央に立った。

 五郎も手早く支度をととのえ、鉄舟のまえに進む。

 「天田」

 「はい」

 「俺の稽古は荒いぞ。男谷(精一郎)先生のような、手心はせん。俺をこの宇宙で、最も許せぬ 不具戴天の仇敵、この天下に最も憎むべき人倫非道の悪鬼羅刹と思って、かかってこい。生半かな人道主義や、小理屈、観念の正義などで、人間世界の鬼にも悪にも立向えないということを教えてやる。この世では善や純粋、まことの一念も打ち負かされる魔の如き力が存在する。それに打ち勝つには、どうするか。さァ、こい」終りは大喝だ。構えた。

 一礼して、竹刀を上げたが、五郎は、それだけで、身がすくんだ。

 鉄舟の構え正眼である。いつもそうだった。得意は突きで、面、小手もとったが、横面や、横胴などは決してとらなかった。あくまで一刀流の正攻法を崩さなかった。若い時は、鬼鉄、ボロ鉄と云われ、それで道場狭しと大暴れした。その強さ、大きさ、厚み重みがのしかゝってきて、五郎は身動き一つできない。

 竹刀の先端が大きな火の王のように燃えた感じである。

 「うりゃぁー」凄い気合に、五郎はとび上った。

 「どうしたどうした、サァこい、サァこい」

 今まで動かなかった鉄舟の身体が動いた、身軽で小刻みにゆれ動く巨体は、敏捷である。

 「アアリャリャリャァ」

 軽く、隙をみせた。五郎は、吸いこまれるように、突っこんで行ったが外されて、そのまゝ向うの雑木の方へすっとんでいく。

 「どうしたどうした、なんだ、なんだ、敵はこっちだ、アリャアリャアリャァー」

 竹刀を振って励ます。

 翻った五郎は、気をひきしめて、ふみこみ、今度は打ちこんだ。

 五郎の竹刀は一瞬に払われた。吹っ飛び、手は痺れて、そのまま突っ立った切り唖然としていた。

 「こらぁ、どうしたどうした、それがきさまの腕か、拾ってこい、拾ってこい!」

 五郎は、走って、拾う。そのまま破れかぶれに突っかゝる。バシッ、と打たれた。五郎は呆然とした。 竹刀は打たれた所から二つに折れて、砕けている。

 「ソウラ、面ッ 」

 ビュッという、唸りに、はっと首をすくめ身を縮める。

 「卑怯者、それでこの山岡の弟子とはきいて呆れるぞ」

 奮然として、五郎は、もう一本竹刀をとって走り、全力をこめて飛びこむ、打ちかゝる。バシッ、これも真二つに砕かれた。

 三たび、竹刀をとって立ち向う。

 一、二、三、小刻みに面を打たれ、フラフラになったところを、鉄舟得意の突きが来た。真っ向に食い、二間ばかり吹っ飛ぶと、そのままくずれて気を失ってしまって、動かない。

 「まだまだまだまだ、立て、立て、そら立たんか」

 竹刀で突つかれ、どうした拍子加減か、また息を吹き返す。

 五郎の意識はもうかすんでいる。

 「こい、さァ」竹刀を捨てて、大手をひろげている鉄舟に、無我夢中で、フラフラと五郎はすがりついてゆく。

 鮮やかなハネ腰に、モンドリ返って五郎は倒れ落ち、もう動かない。

 鉄舟は、竹刀をひろい、あとを振り返らずに退場してしまった。

 

 朝・・・・

 ふんどし一丁になった五郎は、全身にベタベタとこうやくを貼りつけられていた。貼るのは英女・・・ 息子の高太郎も面白がって手をのばし、貼りつけている。

 歯を食いしばって呻きをこらえている五郎だ。

大丈夫ですか。天田さん、一人で帰れますか」

「ハッ、カ、カエレマス」

 声はかすれ、やっと喉を吹き出る。鉄舟も、手加減はしたらしい。本当なら、腫れ上ったきり声は出もしない。

 「ずい分またひどくやられましたねぇ」

 「は、はッ、この痛さは、一生、忘れません」

 鉄舟は、大いびきで、奥座敷で熟睡。

 

以上、抜粋

 

鉄舟の勧めで山本長五郎:(清水の次郎長)の養子となる

 

新編 

作者との交流端緒

ブログ内題「稀人 久坂総三」ペンネーム          


無名かつ有力な人物である。
出会いは雨の喫茶店の片隅で、机一杯資料を散らしていた物書き風の老人にお節介な筆者が尋ねたことが交流端緒だった。

数年前に火事を出して無一文、いまは国庫扶養の独居老人だ。それ以前は4000万近くを騙されたというが、飄々とした人柄に切迫感はない。一応?物書きだが、今どき売れるものはない。されどその博識は尋ねるものを驚愕させるに充分な内容がある。

よく日本及び日本人を語る。とくに外国人から観た日本についての新しい切り口を紹介する。また近代日本の潮流に翻弄されず一隅に生きた日本人を取り上げている。たとえ有名偉人でも、表層の功績ではなく生活や心情から見た誰にでもありそうなエピソードを調べて記すことに其の筆風がある。

面白いことに恋愛などの色物はなく、どちらかといえばカタモノが主流である。
なぜか・・・女性経験が無いのである。
「青春時代は大変だった。女性を知らずに戦禍に散った友人がたくさんいた。いやそんなものには遺す思いすらない体験だった。
 女にチャラチャラする男が世の中を悪くする。戦争に行った友人のことを考えると、そんなことを考える暇などないょ」

久坂は吉田松陰門下の久坂玄瑞、総三は同じく幕末の志士相良総三からとったペンネームである。実は氏の著書に「明治遊侠伝」がある。これが絶品で商業出版としてはこの一冊であるが登場人物に驚かされる。

戊辰会津戦争で両親と生き別れた少年に心を砕く周囲の大人(タイジン)たちの物語だが、その大人として、発見した山岡鉄舟、養子にした清水次郎長、他に勝海舟、原敬、陸羯南、三遊亭園朝など明治を飾るピックネームが、陰に日向に関係を持っている。

少年は最後に「愚庵」と称して禅僧になるのだが、次郎長の養子時代は侠客として名を馳せ、あの一世を風靡した浪曲師、広沢虎造の十八番「清水港は・・」の原題「東海遊侠伝」の記している。しかも漢文体である。

周囲の大人はたとえ幼少でも人物の行く末を見抜き、育てる能力に長けていたのだろう。しかもその道の一流と呼ばれていた歴史上の人物である。

何よりも「私する」ことがなかった。
《私することを忍び、以って大業を行なう」とは鉄舟の好んだ揮毫である。
羯南がいなければ変わり者の正岡子規など採用しない。となれば現代俳句も今ほどではない。海舟あっての西郷であり、江戸は火の海と会津のように破壊や殺戮強姦もあったろう。

そんな大人たちが金銭や地位をかなぐり捨てた明治があり、人物を透徹した目で見抜く度量があった。野タレ死していたか知れない少年は育ててみれば頭脳名跡、至ってクールで、しかもイイ男、例えれば白洲次郎のような男だった。最後には鉄舟に促されたといえ京都の禅坊主、しかも名は愚庵とは泣かせる。
それが日本人だと久坂総三氏は言う。

今日も火事のトラウマか、肩には大きなバック、バランスをとるように反対の手には重い小旅行が出来そうなバックに書類を押し込んで外出する。趣味は映画とカラオケ。それも街角名画館の二本立て。とくに戦前の映画か洋画のロマンものをよく観る。

なにせ風体が・・
毛糸のベレー帽に剃り残しの髭、洗濯?の上着にベルトは梱包用の紐、靴は年中同じもの、それがドトールやシャノアールで荷を散らして執筆する。

いゃ・・明治の大人たちが居たら、きっと大作家に仕上げるだろう。
そう願って、飄々と、かつ凛としてストレートコーヒーを一緒に飲んでいる。

 

 

一部イメージは関係サイトより転載しています。

 

 

 

 

 

 

 

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死亡推定時刻もなく骸になったモノ書き

2024-07-10 00:39:24 | Weblog

天田五郎 長じて愚庵

 

数回に分けて抜粋連載した「アメリカよあれが文明の灯だ」は大西洋単独横断で有名なチャールズリンドバーグの逸話を記したものですが、

筆者は「明治遊侠伝」を書き残しています。

あるとき持参して、出版元も連絡取れない、どうにか再編して写真も入れたいと云ってきた。こちらも記載されている出版元に連絡をしたが、やはり不通。それならばと、金持ちになりたい、有名になりたいためかと問い、「いや、このような人物を世に知らせて、せっかくの人生に古い人間だが主人公の生き方と、それを面白がって育てた明治の傑物たちの心意気を知ってもらいたい」と。

それならばと、ジスイ(綴じ目をばらしてデータ化」して、登場人物の写真を入れ、難解な文字を変換したりして、どうにか形は整った。

題名は登場人物がたどりついた禅の僧名「愚庵」とした。

以下は、その筆者との備忘録である。






世は独居老人の孤独死流行りだが、お節介の身近でも度々起きる。
蒸し暑さがつづき人の喧騒も何のその、アパートの玄関先の紫陽花もやけに嫌味に、しかも誇らしげに咲いている。
生活保護だが昔の男は毎月の家賃も欠かさず月初めに持参する律義さがある。

だだ、男やもめに蛆がわくというがモノ書きの部屋は、ネズミの糞、食べ散らかした空き缶、洗濯もしないフンドシ、貰い物の洋服、おびただしい資料と書き散らかした原稿、そして大家の知らせで駆け付けた部屋は、ドアを開けるとハエの大群、まさにモノ書きを餌にした蛆が部屋中うごめいていた。ゴミと骸の臭いで息もできない。

手慣れた警察官はビニールの死体袋に入れてジッパーを締める。いつも道路の隅で隠れるようにして反則切符を切る彼らだが、ことのほか頼もしい。頭が下がる。
遺されたごみは六畳一間と便所と小さな台所で、ごみ袋60個。死して名を遺すとはあるが、ごみを残されてはたまらない。

それでも心ある男どもが助っ人に来た。心根の優しい大家の息子さんも汗かいて働いた。

ところが稀な本が多いために本好きの男どもの手は遅くなる。明治のころ小説などは今の漫画と同じで、モノ書きは嗤われたものだ。いまは教育者だとか文化人だが呼ばれ,曖昧で確証のないものは小説に書き、有りもしないものをさも在るように書く、つまり嘘書きなのだと、嘲っていた本人も、いっときは有名になりたいと思っていたようだ。ほかのモノ書きと、違うところは、85歳の童貞作家だということだ。本当かと銭湯に誘ったが、何となくそれらしかった。




山岡鉄舟



正岡子規


当世の不思議と興味を以て聴いてみた。
「いゃ、私たちの頃は友人がみな徴兵で戦地に行って死んでいる。女も抱いたこともなく、まして手も握ったこともなかった。戦が終わって何もすることないし、世の中が変わって死んだ友人のことなど忘れるようになった。そんな日本が悔しかった。それで彼らの思いを書こうと思っていつの間にか今になった。

好きな女にも恋心を持ったこともあるが、友のことを考えるとそれ以上は抑えなくてはならない気分だった。知らなければ、知った人間と違った感覚がある。あの戦地で死んだ友のことを考えると、それでよかったと思っている。」

きっかけは声かけだ。肩に大きなカバンを掛け、両手に資料の詰まったバックを持ち、なりは破れたセーターとジャンバー、薄汚れたズボンにはベルト代わりに梱包用のビニール紐が束ねて結わっている。靴は頑丈な昔ものだ。そんな形(なり)で喫茶店に陣取り資料を広げて何やら下手な字で書いている。口元は始終煙草をくわえ,灰の落ちるのも構わず4人掛けを一人で陣取っている。

「何書いているんですか」
覗き見るとスバス・チャンドラボーズやリンドバーグが判読できる。
スバスはインド革命軍を率いてイギリスと戦ったインドの英雄、リンドバーグは単独世界一周を成し遂げたアメリカの英雄だ。

話し始めると客の視線が厳しい。あんな汚いホームレスのような人と話をしているこちらも同様な類と見られたらしい。癪に障るのでスーツを着込んで行ったこともある。
そのうち一軒目は出入り禁止、二件目は隣の駅だが居づらくなり、最後はコーヒー二人前とカレーライスを並べて偉そうに陣取っていた。




原 敬



陸 羯南

そんな人だから小生の友人は皆、その博学さに惹かれ、また著作に引き込まれて喫茶店に訪れるようになった。とくに彼の描く日本及び日本人が巷の売文にはない純朴さがあった。また外国人から見た日本の情感を集めて知らせてくれた。

生活保護の金が入ると五千円だけ飲み代に使った。安酒だったがカラオケも歌った。酔うと口の乾くのも忘れて善き日本人を語った。鉄舟、羯南、園長、海舟、落合直文、原などの交流や次郎長まで登場した。それら鉄舟を囲む明治の傑物に可愛がられた天田五郎という無学の若者の人生もあった。それが彼の唯一の商業出版物だったが今は絶版だと惜しんでいた。

数奇者が訪ねてきても留守、電話もないため喫茶店を探し回る始末。高級官僚や大手通信社の記者、夢多き中年フリーター、銀座の若い衆も来たが、何処にいるのかわからない。
夜半に訪ねると神田の本屋に行っていたとか、好きな名画座で趣味の映画を観ていたと澄ましている。みな小生の縁だが、「ところで、あの先生どうしてる」「ワケ、分からん」が合言葉だった。

近所に住んでいたが、役所から紹介された昔の木賃宿のような木造のアパートだった。
「余計なことだが、ここに居て火事にでもなったら大変だから、もう少ししっかりしたところに移りますか」
間もなくして近所の鉄筋コンクリートの古いアパートに転居した。どこからかキャスターを借りてきて段ボールを運んでいた。その時はそれほどの量はなかった。
不動産屋が保証人を付けるように云ってきた。もちろん言いだしっぺの小生がその役だ。
もちろん本名も来歴もその時の契約書を見て初めて知った。

落ち着いたところで夜半訪ねてみた。さんまのかば焼きの空き缶をドアに挟んで開けっ放しで寝ていた。電気は煌々とつけ、フンドシもつけず素っ裸で寝ていた。汚れなき寝っぱなしの一物だけは涼し気だったが、クーラーの操作も知らないので屋上の照り返しで立っているだけで汗が噴き出してくる。

なにしろ浮世の口車に乗って保証人で家は抵当、失火で全焼、恥ずかしながら生活保護と独り者の流転は世間知らずと切り捨てられない。




次郎長



海舟

数奇者は観るに見かねて目ぼしい著作をほじくり、装いを改めてキンコーズに製本を依頼して自費本を作った。
「偉くなろう、金持ちになりたい、有名になりたい、そんなことなら手伝いはしないが、分かる人に見てもらいたいなら手伝う」と長幼もわきまえず厳言した。

出来上がったものは、浮俗では野暮で古臭い、まして商業出版屋は一目見て首を傾げ目尻に皴を刻む。出版を食い扶持にしている者の魂胆はよく分からないが、とくに登場人物の路傍の任侠が今どきの浮俗には合わないらしい。

しかも無名無学の徒が鉄舟同友に可愛がられ次郎長の養子となり、しまいには広沢虎造の十八番になった東海游侠伝を漢文まじりで書き、京に上って禅僧になったことなどの人生の成功話では、現代人も見向きはしない。

あるとき誰かの手から任侠ヤクザの親分の目に留まった。
無学でも人の縁で学び、はぐれた親探しの途で自分そのものを発見したこの人物のことを若い者にも知らせたい。普段はエロ本やヤクザ本を読んでいる者も刑務所に入ればマトモな本を読むようになる。いってみれば刑務所大学だ。この本を差し入れしたいという。

この親分は、喰いはぐれて堅気になり、生活保護を貰うといった組員を辞めさせない。
さんざん世間に迷惑かけて,とどのつまり政府と堅気の世話になるなど許せない、親の孝行をしたいというなら赤飯を炊いて送り出してやると云っている御仁である。









書き物は、明治にはこんな日本人がいたということだ。

またそれが活躍できる世間の柔軟性と、人を観る目があったということを知らせたい、お節介の手伝いはそんな気分だ。
編集、挿入は人に任せず、パソコンを打ち、自身で印刷して、馴染みの製本屋に依頼した。まさに、登場人物の天田五郎に倣った自己完結本だ。

何よりも冥途の土産になる。
それにしても、残されたものは大量のゴミ。
遺したものは人の縁と命の始末だ。
そして著名「愚庵」に刻まれた日本人の姿だ。

 


イメージは関係サイトより転載しています

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人間考学 偽満州の官僚 と現代官僚気質 11 9/27 再

2024-07-09 01:49:29 | Weblog

        佐藤慎一郎・もと御夫妻 新京にて  



「いゃ 偽満州は良かった。日本人も一緒に働いた。だが真面目な役人には困った。
なにしろ、賄賂が下まで流れてこない。四角四面な日本人は生活が窮屈だ。」

古老の語りである。

「日本は早く負けて日本に帰ったほうがいい。そうでなければ日本そのものが無くなってしまう。吾々は泥水でも生きていけるが、日本人は澄んだ水に生きてきた。吾々は日本でも生きていけるが、日本人は泥水に染まってしまう。泥水は色、食、財、という欲望に素直に生きる姿だ。一人ひとりがバラバラになってまとまらなくなる。アジアで日本が無くなってしまうのは忍びない。だから、早く日本に帰らないと日本人そのものが無くなってしまう」

新京、魔屈と云われた大観園の親分の忠告である。

その満州で最後の重臣会議があった。
終戦の翌日、城内では青天白日旗が翻った。丈夫な生地で作ってあった。
それまでの満州国旗より生地が良かった。
彼らは五つの旗印を持っていた。満州国旗、日の丸、解放軍、青天白日旗、ソ連国旗である。どの勢力が進駐してきても喝采をあげて旗を振った。

その時は張学良率いる国民党東北軍の旗である。
胸にはピカピカのバッチが輝いていた。
前日は満州国旗とそのバッチだ。
「前に張学良がいたとき、すこしは長続きするとおもって良いものを作った」
その状況の重臣会議である。あの満映の甘粕氏もいた。
この期に及んで「どうしたら・・・、こうしたら・・・」
すると「佐藤さんに聞いてみよう」という事になった。

会議に臨んで佐藤慎一郎氏は、いとも平然と・・・
「満州の人々に任せなさい」
至極当然だが、土壇場の重臣は四角四面に考え、また敗戦に際して己の身を運命に迎合した。
鐘や太鼓を打ち鳴らして開拓民を満蒙に送り込んだ高級軍人、官僚は土壇場で戸惑い、ためらった。そして我が身の安全を考えるもの、悲観するもの、逃避するもの、自決する日本人、あるいは国民党軍に協力するもの、さまざまに日本人の姿があった。それは異民族の地における土壇場の日本人、とくに点数至上の官制学校歴で立身出世した者たちの醜態だった。

それでも、゛掃きだめの鶴゛のたとえのように、生きざまを魅せた日本人がいた。
家族で満州に殉じた岸谷隆一郎、皇帝溥儀の信任厚かった秘書長工藤忠(鉄三郎)。
逆に、どさくさに日本人婦女子数百人を騙し集め、慰めとして進駐軍に贈った日本人会会長の某、電話線三本を切って夜陰にまぎれて遁走した高級軍人、高級官僚の家族、それは土壇場の日本人の明け透けな姿を現地住民にその印象を焼き付けた。


佐藤氏はその以前に関東軍作戦命令第一号から旧知の幕僚に聞いていた。今まで聞いているものは大きく異なっていた。多くは虚偽だった。愕然とした。あの王道楽土は何だったのだろう。死んでお詫びしなければならない。

日本刀を借りて二の腕に強く押したが、切れない。遺言血書のためだ。
すると近くにいたものが教えてくれた。「そっと置いてスーと挽くんですよ」
すると、ドバーと大量の血が出た、遺言どころではない。

晩年、笑い話のように語る佐藤氏だが、
『満州で死ぬ、それは自身の問題だった。死んでお詫びしなければということだ。それで女房子供を日本に帰したが、女房は途中の鉄嶺から引き返してきた。だれ一人日本人のいない列車で子供と戻ってきた。それから家を開放して日本人を援けた、やったこともない商いもした。戦犯収容所に入れられた。でも全て中国人が助けてくれた。山をいくつも越えて卵を持ってきたり、いつの間にかリック一杯の金も集まった。

洗面具だけで満州に来た。だから全て置いてきた。国民党は公文書を付けるから持って帰ってください、と云ったが僕にとっては意味の無い金だった。ただ人情だけは持ち切れないほど頂いた。そんな満州へ日本人が行った。行きがかりと云う者もいるが、やはりまちがっていた。軍に負けたのではない。あの人情には敵わなかったのだ』



彼らの姿で頭に浮かんだという。


「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」


「物知りのバカは、無学のバカより始末が悪い」




あの偽満州の官吏の倣いは現代においても脈をつないでいる

国民を群れと模し、餌をまき、宴の出口には網がしつらえてある。

人間そのものを知らない連中のやることは、いつも一緒だ

そして策があばかても恥じることなく、土壇場で逃げ出す姿も変わらない

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人間考学  真の侠客への勧め 2012 12/10 再

2024-07-07 17:11:12 | Weblog



陽明学者、漢学者と呼称のある昭和の碩学安岡正篤氏の長男正明氏は筆者に、父から直接学んだことは無いと語る。言われることといえば或る試験に及ばなかったとき、「試験とは落ちるものかね・・」と皮肉を言われたことがあったが、今どきは自棄になって不良になるか、怠惰な生活に堕ちないとも限らない、一種の冷酷さがあった。

別に厭なオヤジだとは思わなかったが、世上の煩いごとに奔走するごとに感ずる細事,小事に拘泥する人間の姿を憂慮して、愛する豚児に厳しくあたったのかともおもえたという。
人の心を思いやり、行く末を見越して今を考える俯瞰力は、冷酷とも思えた父の、゛教えない教育゛だったと回想していた。
それは為政者の訓導者として、かつ日本の将来を憂慮して説く「人間学」は、親子の背中学的交感であったようだ。

その正明氏だが、父が筆者に勧奨した「郷学」の作興のために集った小会の講頭として多くの話題を提供した。そのなかで男子の美学について歴史上の逸話をひいて語ったことがある。
それは、どこか父正篤氏に似て、含みを込めた洒脱な雰囲気があり、どこか男子特有の苦みの混じった悲哀を感じさせ、声をひそめて「戦後婦女子の教育は間違っていた・・」と語ると共に「男児の美しかった頃は・・」と続け、戦国時代、幕末期、終戦直前を例に語った。


流行作家の司馬遼太郎氏も「戦国における美について」こう述べている。
思想や道徳で日本人をとらえるより、やはり美意識でとらえた方がわかりやすい・・・
その美意識の鮮烈さは・・・
日本の体制がいちばん崩れて、生の人間が躍り出た戦国時代・・・
山本常長が語りつづけた「葉隠」の「狂」は、我々はなかなか狂たりえませんが、しかし、なにか、日本人というものが、わかるような気がします・・・
戦国時代は人間が猛獣だったとおもうのです・・・・
その、猛獣性を矯めるものが朱子学であったし、そのほかの道学だった・・・・
ところが、常長は「それはいかん、猛獣は猛獣の美があって猛獣の美を研ぎ澄ませ・・」と言うのです。
猛獣は猛獣のように生き,死することは、これはちょっとすごいですね・・・


「狂」とは病的狂人ではない。陽明が説いた陽明学でも「狂」の極致についてのこしているが、幕末期の維新回天のもととして、あの山県有朋も「狂介」と号している。
つまり、平常心をもった「狂」であり、松陰の教育前提として説く「人と異なることを恐れない自己ノ確立」のために到達すべき境地だった。


戦国時代は夜盗盗賊であれ、農民、商人までが群雄割拠して津々浦々で戦っていた。それが収斂される過程では落武者とて農民に襲われ褒章目当てに首を断たれ、首が重くなると耳を削いで縄にくくって持ち歩いた。運よく勝ち組になると、こんどは寝首をかかれたり裏切りをおそれて刀狩りをして武具を取り上げ、朱子学によって、今更ながらの人の道を説いた。

また、猛獣の美学の代りに芸や道の美学を武士の習いとして推奨し、褒美であった領地分配の代りに、ルソンの痰壺のような拙い陶器を堺の商人利休に値踏みさせ、猛獣を芸道に手なづけた。つまり品のある生き方の勧めだ。ただ、あくまで茶室という小部屋の世界のことだが、為政者からすれば無知を弄ぶ下品な統治方法でもあった。



 

ちなみに、外地まで出向きブランドをあさる婦女子や成り金紳士もその類いだが、中国製でも刻印や印刷をすれば競って購入する。彼の地の貴族はあえて刻印をはずし、自家の紋章をつけて使用するが、だいたいは紋章や横文字ブランド名を見せびらかすのが愛好家のならいでもある。

標題に戻るが、幕末、終戦直前の男子の事績や表現する文章詩句は歴史を超えて人の心を動かす力がある。鉄舟をはじめとする維新先覚者の書軸は今もって当時の男子の香りを漂わせる。それは僧職、政治家、経済に関わらず当時の気風である意気と悲哀を表しているが、時代を経て特攻隊の若い兵士の遺書も言葉を絶する力がある。

その時代に生まれた男子の運と縁の関係と現代人は理解するだろうが、このような時代の姿は、その渦中にある男子にとっては肉体的衝撃を伴う勝利もしくは死を単なる運や縁とは思っていなかったはずだ。ましてその鮮烈な臨場感は安逸にふける浮情の論評など及ばぬところだ。ならば何故に行動したのか。
なかには郷や国家に靖んじて己を献ずることもあれば、恐怖に戸惑って背を押されたもの、はたまた流れに抗すことなく諦めの気持ちなど、様々な事情が想像できる。

よく武士は「己を知るもののために死す」とあるが、そこに臨む人たちは武士だけではない。雑兵とよばれたものでも領袖の力だけではない威厳に畏敬をもち、その意志に嬉々として随ったものもいる。今の政治スローガンではないが、国のため、家族のため、我欲充足のためと種々の約束事を不特定多数に吠えるのと違い、当時は口先ではなく「仁」に表される男子の優しさ、「義狭」にいう無条件な利他への貢献を人物の姿,統領の器量として自身を同化できる安心感があった。

ましてそうでなければ命を懸けることなどできない。それは仁とか義にいう精神を具体的に行動して教え指し示す統領の、一方のあり方であり、あのような人物になってみたいという目標でもあった。

戦国、幕末、終戦直前は多く男子に「先人に倣おう」という意識が溢れ、死などはその希求心からすれば霞のようなものだったとおもえる男子のすがたである。
剛もの、義あるものに付き従う気概は土壇場を想像し、゛裏切らない゛゛忘れない゛行動意志の存在として「人物の姿」を第一義においていた男子が括目して、勇気ある侠となったようだ。それは隣国の春秋戦国時代の侠客にそのもとをみることができる。

昨今は、中国に侠客・・?と想像も難しいが、日本とて侠客とたたえられた博徒なり口入れ業も、やくざ、暴力団と括られる時代だが、その「侠客」なるものは市井の普通の善行にもあり、被災地のボランティアにもその精神はある。彼の国の侠客も徒党を組み悪事を働くもののように印象付けられてはいるが、為政者、体制側からすればことのほか面倒な連中であり、直なる性質のあまり、ときに謀りごとに利用されることもあった。






山田良政の義侠心は辛亥革命に向かった




ここに平井吉夫氏の「任侠史伝」という著書がある。
まさに目からうろこの感慨を味わった内容だが、同じ出典の「史記」でも視点と切り口が異なると、こうも理解を広くさせてくれるものなのかと、今更ながら驚いている。   それは、佐藤慎一郎氏のごとく、二十年もの長きにわたって彼の国の庶世を体験して、人々の古典に対する見方や活かし方、それを補い実利とする諺(ことわざ)や俗話を学びの補完としたときに似た感慨がある。

bそこにはアカデミックな古典教育や意味の薄い習学を学び、しかも数値評価によって学域ステータスと食い扶持を按配する学徒にはない異文化、異民族の性癖をこえた普遍性がある。
余談だが、日中友好なのか「誘降」なのか、美句に惑わされ、却って軋轢を増している関係も、単なる空中友誼のようにもおもえる人間観察の共通した価値感のようだ。

冒頭はこのようの始まる  《抜粋、簡易記載》

 ≪「史記」遊侠列伝とその序文は、のちの中国思想の正統派には気に入らないものである≫

まさに古典期養育においても、体制治安においても「任侠」や「侠客」を正面にとらえることもなく、ましてや義人や仁者にはならない。鼠小僧や清水次郎長も庶民から喝采は受けても悪党、科人であろう。

≪「漢書」も遊侠伝を書いているが、「下賤の身分でありながら、僭越にも生殺与奪の権利をふりまわす・」罪人と断じている≫

そして魯の国の朱家という人物をひいて
≪魯は儒教の本場であるが,朱家は任侠によって有名になった。朱家にかくまわれて救われた人は何百人もいるが、そのほかの普通の人々にいたっては数えきれなかった。

しかも、自分の能力や人にほどこした恩を誇示するようなことはしない。
かって恩をほどこした人と顔を合わせることもしなかった。

困窮している人を助けるときは、まずは貧賤なものから始めた。

家に余分な財産はなく、粗末な服を着て、食事は一汁一菜、乗り物は小牛にひかせ、馬車に乗るような奢ったことはしなかった。  

人が危急に陥ったと聞けばすぐさまに駆けつけ、自分のことはかえりみない。

天下の尋ねものだった季布将軍を、一族皆殺しの厳罰を承知でひそかにかくまい、赦免されるように高官に働きかけたこともある。季布が尊貴に身分になると、死ぬまで合わなかった。函谷関より東の人たちは朱家と交際を願わないものはいなかった。≫

まさに宮沢賢治の詩はここから引用したのではないかと想像もする内容だ。

郭解(あざなは翁伯 前180-157)も意味深い。
≪若いころは酒も飲まず陰険悪辣でかっとすると人を殺し、友の仇打ちを助けたり,逃亡犯をかくまったり、強盗、贋金、墓の盗掘までした。運の強い男で捕まっても恩赦で罪を逃れた。

ところが年をとってからが面白い

荒い気性を抑え、徳を以て恨みに報い、厚く恩をほどこしても返報を望むことはなかった。しかも、任侠をおこなうことはますます盛んで、人の命を助けても誇ることもなく、ときどき昔のぞっとする目をすることがあったが、若者たちはその行いを慕い、郭解も彼らのために仇討をしても、知らせることはなかった。

あるとき郭解の甥が彼の威を借りて酒席で一気飲みを強要した。相手は怒って剣を抜き姉の子を刺して逃げた。
姉は怒って「ひとかどの親分のくせに甥の仇もとれないのか・・」といい、その亡きがらを道に放置して葬らず郭解に恥をかかせようとした。

犯人は観念して郭解をおとずれ、事情を包み隠さず話すと,郭解は「あなたが甥を殺したのは当然です。あの子の方が間違っている」と立ち去らせ、甥の罪を認めてから死体をひきとり埋葬した。人々はそれを聞いて郭解の義狭を讃え、ますます心を寄せた≫






山岡鉄舟


たとえ身内でも善悪を明らかにして賞罰を公平に行う、昨今の政治家や官吏にはなくなった行為だか、翻って若者の頃は極悪非道の科人だが、人はいつでも転化できることを教えてくれる。しかも深い考えを行いにして、何よりも財物に惑わされず、行為を誇らず、貪らない姿は、「任侠史伝」の末尾まで貫く、任侠、義狭、侠客の在り様を、惜しく、せつない時節として問いかけている。

いまは、やくざ、暴力団と括られた博徒も侠各と謳われたころ、義人は全国津々浦々に存在して、郷の安定を思案し、その言辞や行動によって魅せていた。それが政治家になったり、村長になった者もいた。
江戸時代にあった御上御用の十手を振りまわして小遣いをせしめる博徒も少なからずいた。駕籠かきは客をたぶらかし、博打はいかさま、役人には袖に賄賂を滑り込ませ、庶民からは蔑まれたものもいる。

ただ、隣国の春秋戦国の混乱期に朱家や郭解のような人物が遊侠列伝として「史記」や「漢書」にも記載され、科人と記されても、現在の日本社会において愛顧される人物と覚えるのも、繰り返す歴史に彼らの生きた時代と同期に似たような感がする。

それは各界に携わる人物に枯渇したような「侠」の涵養された彼らに、羨望と出現を望んでいるようにもみえる。政治経済の混沌は人物観の混沌である。安岡正篤氏は佐藤総理の施政方針演説の冒頭に「社会におきるあらゆる問題の根本に人間の問題がある・・」と挿入した。その意は隣国の清朝末の哲人梁巨川の言辞が透かして見える。

「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか」
そして筆者にはこう説く
「貪らざるを以て、寶となす」と。

その倣いは現在の日本中の津々浦々の無名の人々にある。ただ、それを視る普通の心が放たれてしまっているだけだ。くわえ、栄枯盛衰の歴史に埋没することなく潜在する情緒に遺された「侠」ある人物を愛顧する異民族との同感は、昨今両国に漂う患いの治癒にも良薬となるはずだ。

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津軽は人がいる 「人間がおるじゃないか」  あの頃 2008再

2024-07-07 07:33:50 | Weblog

2008   あの頃の青森県津軽の実相である

 

「人間がおるじゃないか」それは津軽人が陥りやすいことへの戒語でもあった

農産物では100%以上の自給率を誇る津軽だが、モノが無い。

だが、不思議と寺院は改築を競っているし、役所の職員の風貌は、゛ゆとり゛を映し、駅前の遊戯店?、博打場と化したパチンコ店は女性客で繁盛している。とくに駅前の一等地は数多のサラ金に占有されている。

とくに自殺が多い。もっとも警察がパチンコを仕切ってから、それが顕著に増加している。゛あのパチンコ屋では昨年だけで女性がトイレで何人自殺した゛東京でもよく聴く話だ。ところが取り扱いはパチンコ警営している地元警察である。
ちなみに警察白書作成データーを尋ねると「死んだ場所まで・・」
地元の人曰く、「津軽は死に場所が多い、八甲田、白神、岩木、みな解らない、だだそれは男だ、女はパチンコ屋の便所があるガ、男はそんな所では死ねない・よ」

一昔前は小遣いを使うぐらいだったが、いまは何十万が出たり入ったりしている。これが法律上の遊戯店?、しかも必ずサラ金が寄り添っている。昔は出玉が無くなると、多く出している男性客を誘いトイレへ・・、たしか相場は5000円だという。東京でもパチンコ屋の近所の飲み屋ではその話題が多かった。

その傾向は津軽だけではない。全国、とくに天子様から離れるほどその傾向が甚だしく、それらから影響を受ける人々は中央との所得格差なんのその?、問題を抱えながらも、その堪え性が板についたかのように沈黙している。

分配から自立、格好はいいが貰い扶持に慣れ親しんだ官吏は、知事をせっつきつつ物産の行商か、はたまた観光誘致の為のイベントスローガンを叫ばしている。
その為には道路や空港もと、変わり映えがしない狡知が大手を振っている。

一口に津軽でも、弘前と青森は趣が異なる。
共通することは、若者が東京の大学に行くと帰ってこない。
近隣の黒石市も若者が少ない。

また、嘲りつつも役人の東京志向は街を近代化のお題目で変容させ、シャッター街に陥らしている。つまり古いものに懐かしみや思いが少ない街なのだ。
逍遥してみるとキリスト教の影響か、古い洋館や生活具がいたる所にある。また明治創成期に活躍した人物の史跡が多く点在しているが、今に「用」とする連結した構図が無い。


岩木山神社

雪は単独の思考を生むが、独立心、忍耐力は是としても、真の連帯意識から生まれる共助が乏しくなるようだ。それは他郷から訪問する旅人にとって魅力でもあるし、逆に高い塀のようなものでもある。

前コラムで「そっとしておきたい」と記したが、性癖とも見えるナチョラルな人間ならではの心の動きにある、嫉妬、怨嗟、が、自然環境に封印される事で剛毅な鎮まりを観るからだ。
それは、海外飛躍、進取な英語教育、未来への突破力を歴史に表した津軽の人物製造能力にもなっている。

ならば、今の衰退と人々の覚醒に何を用として歴史に尋ねるのか。
熊本から移り住んだ「菊池系」を系譜にもつ菊池九郎がいる。
明治五年に東奥義塾をつくり外人教師を招聘して英語教育を行ない多くの逸材を輩出している。(IT検索を請う)
また弘前市長として礎を築き、東奥日報社をつくり多くの業績を残している。

あの明治の言論人、陸羯南、辛亥革命の功労者山田良政、純三郎兄弟、佐藤慎一郎、天皇の主席随員珍田捨巳、彼らは菊池の薫陶を余すところ無く受けている。

いま津軽は菊池九郎のような人物の再来を求めている。





以下ブログ「請孫文再来」より抜粋

Kindle 版 「天下為公」 寳田時雄 著

◆菊池九郎の人間教育
 
佐藤は幼少のころ一緒の蚊帳で寝起きした九郎の慈愛の心情を思い浮かべるように語りをすすめる。
「維新の混乱は、山背の風といわれる追木山(岩木山)の寒風にさらされた津軽平野をおそった凶作とともに、人心の疲弊まで巻き起こし、ややもすれば閉鎖的といわれた民情を、より暗いものにしていた。

いつの時代でもそうだが、天を恨み、政治を批判する、まるで生きる目的さえ無くしたかのような状況の中で、伯父さんは「人間がおるじゃないか」と独り決然として人間教育の行動を起こしたのだ。

 手始めに明治5年、東奥義塾を創設して外人教師の招請を行った。伊東梅軒の儒学、北前船による北陸、京都の影響、そこから生ずる剛直さと、しなやかさの調和、そして米国人教師から得る最新の知識と情報、そして見逃してはならないキリスト教の影響だ。弘前には洋風建築物とともに、いたる所で当時としては珍しい西欧の最新文化があったんだ。

 当時、日本各地にみられたさまざまな拙速な影響ではない。津軽人が育んだ伝統文化と人間教育のための根本資質の涵養があった。
 津軽武士の残像が相まっての気骨が明治人の気概や器量として培われただけではない。南端の薩摩、四国の土佐、日本海側の萩、小浜、越後長岡と変革期の逸材の輩出とともに、津軽人の北端からの南下、あるいは海外飛躍への行動力として発揮されたのだ。外国人教師の招聘は語学力の目覚ましい向上を果たし、また教師の見識から学ぶ、海外においての人格価値の共有という自信が、よりその行動を促したといえる」


 ◆ユング教師の伝えたアメリカとリンゴ  

津軽を懐かしむ佐藤の言葉は"人間至る所、青山あり"といった地球上のどこにわが身を置いても時流に迎合せず自らを見失わず、しかも衆を恃まぬ「孤高の憂国」といったものを感じさせるものだ。
「ユングという教師がいた。ユングが語学授業の合間に語る米国の思想や民情は、生徒の感動を呼び起こし、ときに忠孝の話になると、一同、感涙し戦慄といった状態がしばしばあった。
 
りんごの原木

来日のときに大切にもってきた米国リンゴの苗木は、その後の津軽の殖産事業として立派に役立っている。その原木はわが家の前にある。余談だがそのリンゴの育成方法を教えてくれと長野から来たが、なかには小心者がいて『せっかく儲けられるものを教えられない]』と追い返してしまった。
 それを聞いた弘前の樹木というところに住んでいた外崎政義が烈火のごとく怒り、時には偏狭な津軽根性を戒めたのだ。リンゴで興き、リンゴで滅ぶ津軽魂だよ」
 
 郷里 津軽を慈しみ、ときとして津軽人を憂うる佐藤は、つねに弘前は日本の一部分、日本はアジアの一部分、アジアの安定は世界の平和だと語った。4人兄弟のうち2人は米国へ、良政と純三郎は孫文の革命に挺身している環境の中で、自分という"自らの社会の中の分(ぶん)"を自身の行動で探し、次の世へ遺す啓言でもある。

「そのユング先生が来日するので江戸(東京)へ迎えに行くことになった。当時、海路もあったが、奥さんが船酔いに弱いというので東北道を使うことになった。江戸まで25日余り。弘前を発って今の岩手県の水沢を過ぎたころ、一人の少年が九郎伯父さんに添って歩くようになった。

事情を聞いてみると、学問のために須賀川まで行くという。道すがら学問の話、世界情勢、日本の進むべき道、そのためにどんな学問をしてどんな人間になるか、といった話だったが、歳は違えど"切れのよい呼応"での問答があった。その少年が後藤新平だ」
 

 

弘前市 藤田邸蔵 後藤新平筆

 

以下、 別稿

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「五寒」 生じて国家無し   08  あの頃

2024-07-05 16:14:49 | Weblog

[亡国とは]
 
“亡国は、亡国になってはじめて亡国を知る”と言います。 
国家の三要素である「領土」「民族」「伝統」を司るものは「人間」です。

清朝末期の読書人(知識人)、梁巨川の殉世遺言録の校録者であり、朝野の知識人の隠れた導師であった景嘉は
「人にして人でなくば、国は何で国と成りえようか」と述べ、

 序文において
「世界で発生するあらゆる問題、及び一国一家に生ずる一切の問題は、実は人の問題とは切り離せない」と、いうことである。

そして人の問題では、
「とくに東洋の伝統が主張する人格の問題がとりわけ重要である。 人格、人心、信義の重要さを知り、特に精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負と己を偽り相手に従うことの不可、強いて相手を従わせることの不可を、心の深奥な所で反省することである」と、亡国に立ち至る人間の脆弱さを指摘している。





             




 また、インドの司法家で極東軍事裁判の判事を務め、彼独自の東洋的諦観から判決書を作成したラダ.ビノード.パルは敗戦に打ちひしがれた日本の女性に向けて

「 新しい環境に順応するには、社会は新しい生命力を必要としています。
そのために社会が最も期待をかけるのは、若い人たちの中でも、つまりあなたがたです。 現在のあなたがたは、知的にも道徳的にも最も感受性に富み、もっとも受容力の大きい時期にあります。

 学校教育から、本物と偽物を見分ける能力、お国の将来を形成していく力についての知識を得てください。
特に宣伝に惑わされない判断力を得てください。


            



 わざわざこう言うのは、宣伝(政治 経済 教育)が大衆を支配するため案出された実に警戒すべき手段だからです。
ほとんどの大国が宣伝省をもち、有能な人を宣伝大臣に任命していることでも、その強力さがわかります。 宣伝の恐ろしさは、絶えず感情に働きかけ、知らず知らずのうちに、自分の本性とは矛盾する事を信じ込まされることにあります。

皆さん一人のこらず、どんなことに出会っても、勇気と優しさと美しい魂とで、処理してください。
皆さん一人のこらず 世界を歩む美女は何万といるが、どんなに飾り見せびらかしても、彼女  の完全な美しさとは比べようもないと、尊敬をもって言われるように行動されることを願っています」
 
 このように敗戦によって西洋の文化が一挙に流れ込む状況と、有史以来、はじめて敗戦という状況に追い込まれた男子の呆然自失した姿と、男女それぞれの特性を調和させて来た伝統と文化の衰退を見越したパルの、日本女性に対するささやかな提言と、たおやかな特性にたいする依頼でもありました。

  また、昭和41年来日した折り時世を的確に観察して、こうも述べている。
「…現在、世界中で西洋化が進行しています。この西洋化は進歩に付随する現象でしょうか。それとも、古代文明が示すように崩壊の兆候に過ぎないものでしょうか。
ギリシヤ、インド、バビロン、中国などの文明の歴史を大観してみると、文明の発達を図る基準は、領土の拡大に見られる環境の征服や、技術の進歩に見られる自然の征服ではないことが証明されている。

 我々の聖者マハトマ.ガンジーは、この西洋文明の宿命を予見していました。 そして、インドが自らを救おうとすれば、現代の西洋の技術と西洋の精神を排斥しなければならない、という結論に達したのでした。
この精神のシンボルが糸つむぎ車(カダール)です。
彼はインドのすべての男女に自国産の綿を手で紡ぎ、その糸を手織りにした綿布を身につけるように説きました。
インド国民の熱意とエネルギーを物質的行動から精神的行動面へと切り替える必要性の象徴だったのです」

大英科学振興協会々長 サー.アルフレット.ユーイングの言葉を引用して、
「科学は確かに人類に物質的な幸福をもたらした。だが、倫理の進歩は機会的進歩に伴わず、あまりにも豊富な物質的恵みを処理できずに人類は戸惑い、自信を失い、不安になっている。引き返すことはできない。 どう進むべきであろうか」
 
最後に、現在を推察したかのように 
「産業化と民主主義という新しい推進力は、全人類の利益のために、新興力が自由に活動できるような、全世界を打って一丸とした社会を建設するのに用いられるでしょうか。
それとも、われわれはこれから、歴史上に比を見ない強力な新しい力を、大昔から存在している戦争、部族主義、奴隷制度などに悪用して、全人類、自滅の方向に向かっていくのでしょうか」 と結んでいる。



              



 辛亥革命を成功させた孫文は神戸女子校における大アジア主義の演説のなかで
「日本は西洋覇道の犬となるか、それともアジアの王道の干城となるか、あなた方は日本人が真剣に考えてください」と日本人に問い、日本の進むべき方向を明示しています。
 そして東洋の言うところの「王道」の優越性を唱えています。
 
 なぜ、社会の衰亡や堕落の行き着くところ、亡国の徴のなかに「女」があるのでしょうか。
それは、景嘉やラダ.ビノード.パル、そして孫文が唱えた歴史の真理、真実からの語りかけに、女性にかかわる大きな意味が内包されているからです。





              岩木山神社



 歴史の表現の中では、戦争、革命、あるいは政治、経済、教育といった分野の大部分は男性の表記が圧倒的に多いようです。
とりわけ、名利位官が男性に集中したわけではないのですが、今流に言う男女均等からすれば不満が吹き出したはずですが、近代になるまでそれほど目立った表記はありません。

“雌鳥が刻を告げるようになると、国は乱れる”などといわれ、ひどい俗表現では
“女が頭に立つとロクなことがない”とか、近ごろでは“オバタリアン”と揶揄されるような表現も出て来ました。

以下次号

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いま、津軽は旬の時期

2024-07-01 20:26:24 | Weblog


ことは人間の問題である
あの佐藤栄作首相は施政方針演説で間違いのないように目を凝らして読む箇所があった。
「そもそも政治は人間の問題から発して・・」
それは吉田学校の優等生が、その校長である吉田茂氏から言い含められたであろう、
「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」という魏の文帝の言葉の教訓である。

楠田秘書官によれば施政方針演説の草稿が出来上がると、佐藤は「安岡先生に御覧に入れるように」と促がされるのが通例だった。
そして安岡正篤氏は決まって人間云々を挿入した。つまり、いくら官制学歴を得ても愚か者はいる、金があっても遣い方を知らないものもいる。その問題をリーダーの人格に求めたのである。それを外せば幾ら高邁な理屈やコンサルタントに委ねた政策でも実にならない、継続性、関連性、つまり統合性がない掛け声になってしまう危惧だ。

清朝末の哲人、梁巨川の「一読書人の節操」に景嘉はこう記している。
「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか」
景嘉は在日にして易経の大家である。もちろん安岡正篤、佐藤慎一郎両氏も親交がある。加えれば、易経については両氏も教えを請う立場である。
中国生活二十余年、漢籍古典がすらすらと北京語で湧き出る佐藤も「いや、易経は難解だ」と難渋していた。スマシ気味の安岡氏とて了知には至ってはいない。

易経といっても占いではない。
「易」はトカゲの象形文字、季節によっては色も変化する。その意味ではつかみどころが無いが、西洋学の整理、合理からすれば亡羊の感がある東洋にも定理がある、といえば幾らか分かるだろう。到達点がハルマゲドンと永久循環とも考える。

あるいは量子力学の大家、ハイゼンベルグは部分の集合が全体を表さない、それを融合させるものがなくてはならない、と東洋の哲理に目を向けている。アインシュタインもそうだった。既存の西洋の学会は彼らを異端視さえした。

どうも、「人間」の探求は彼らの言う合理には馴染まないことを分かっていたようだ。

安岡氏は古今東西の学派に造詣が深いが「西洋学に没頭するとノイローゼなりそうだ。東洋に戻ると味わいがあり心が落ち着く」と回顧していた。



                              

  「ネ」「申」は神   示すは行動、申すは語り、「神」は己の心に在り 
  「玄宮」奥深い潜在する心     





佐藤氏は「人情」の問題だと、いとも容易に説く。
津軽で生まれ、寝小便が直らなかった幼少期に家出してベコ(牛)と戯れ自然に抱かれ、長じて旅順小学校の教師として子供と戯れ、妙なことから死刑判決を受けて自らの墓穴をスコップで掘りながらでも悠々としていた氏のたどりついたのは、その「人情」だった。

「人情は国法より重し」氏の銘でもある。
人が自然に語りだす、思わぬところで助けられる、それは功利を超えたところにある人情の在り処を自得していることに他ならない。その集合と離散、調和と連帯、それはまるで部分の検証、整理統合の学派、加え複雑な要因を以って構成されている社会や国家の考察においても有用な「人情」から読み解く科学的な人間考学でもあろう。

民情、民風、その動きや吹き回しが政治や社会構成の考察や将来観に、重要な位置を占めていると解るのも指導者の素養だとは古来から言われてきた。
いまは恣意的な数値アンケートや情報が主流だが、これもハイゼンベルグが煩悶した数値では解けない問題でもある。

しかし、先に書いた人間考学的な考察がなくなって久しい。「人間考学」は筆者の造語だが、機械工学は別として、量子力学でもあるとおり、「解けないものを眺める」「熟成を待つ」、あるいは「そうゆうものだ」と考えるのも一妙である。解けない恐怖から逃避する自己愛とも見えるが、人間の関係性、それを拡大した社会や国家、異民族との関係などは、まずはその心地を理解できる部分の協調が始めとなるようだ。


         


                    
訪れる人もなく、まさか忘れてはいないと思うが




以前「潜在するものを観る」と題して講義したことがある。
要は、洋楽と唐学(漢学)の間におかれた我国の情緒が、良質のバーバリズム(自然性、野蛮性)を失くして恣意的といわれる勝手気ままな解釈で文明論を語り、倣い慣れると、その内に吾が身の存在や社会の求めるべき方向まで分からなくなった。

また、その文明が土産として持ってきたものがある。これまた己の勝手な解釈の中には有っても、己と相手との関係になると競争と軋轢さえ生むスローガンである。あえて自由、平等、民主、人権が塗されると、どうしていいか皆目分からなくなり、諸事の解決の糸口もつかなくなってくる。つまり「人情」が薄くなり、人心が微かになるようだ。

これでは不自由、不公平、エゴ、差別感を助長させるごとく、毒も使う人間によって良薬になるが、劇薬にもなる。政治政策も執行役のサジ加減で繁栄もあり、腐敗堕落も起きる。

それを混沌(カオス)といい、ビックバンとも西洋では言う。

それを更生するために東洋の指導者は民情においては道徳喚起、行政では綱紀粛正、つまり「制」を自制と権力による他制に分別して、自らも清廉によって「信」を得たのである。

それは゛「人間」をつねに問い続け、その尊厳を毀損しないよう慎重な政の姿である。

じつは、津軽弘前も維新の混乱と凶作が襲ったとき「人間がおるじゃないか」と喝破した菊池九郎という人物がいる。

佐藤慎一郎氏は懐古する。
いつも蚊帳で一緒だった。寝小便たれても怒ることはなかった。維新の混乱のなか東奥義塾を創って英語教育をした。青年の頃、西郷に憧れ鹿児島に留学した。伯父の山田兄弟も親戚だった伯父に学んだ。陸羯南や後藤新平も伯父には心酔した。




                  
                菊池九郎






彼らは人を見抜く目があった。山田は孫文に随い兄は戦闘で亡くなり、弟は終生側近だった。あの秋山真之将軍も伯父さんの影響で孫文に協力している。羯南は正岡子規を育てた。それがなかったら俳句などない。後藤さんは孫文の理解者だった。台湾にも貢献し、満鉄も立派な経営をした。東京の基礎も造っている。菊池九郎は東北の西郷といわれるくらい人材が育った。

みな人間を知っていた。何を基準にみて、どこを活かすかだ。
満州崩壊で帝大出の官吏や軍人は開拓民を棄てて逃げた。点取り学の典型だ。羯南も秋山さんも南方熊楠もバカバカしくなってみな辞めた。残ったのが食い扶持官吏と軍人だ。あの安岡さんだって授業がつまらなくて、いつも図書館にいた。

つまり「人間」を育てるところではなかった。それが政治家や裁判官や官吏になったら滅ぶのは明らかだった。維新の功労者はみな塾や藩校だ。
人間そのものを育てる学問が欲しい
いまは知識でも「識」という道理がない。知だけだ。
みな、どんな弱く小さくても無駄には生きていない、そんな人間の大切さを知っていた。





                            

        孫文と山田兄弟  木村ヨシ作



今、その津軽も人を得たようだ。ひしひしと熱気が伝わる。それも歴史の薫りを添えて漂ってくる。きっと各々が刮目したのかもしれない。そして歴史の人物に倣い躍動するに違いない。先人は思想、宗教、民族を超えて「人間」を信じて付き随った。国境を越えて日本人の矜持を津軽魂で突破した。いまも異民族からも多くの感謝が添えられている。

遠くを見て耳を飛ばし、そして率先する。
それが人間の善なる能力と威厳だと古人は教える。

津軽の一声は隆々としてアジアに広がる気配がする。なぜなら、一党一派を超然としてその資格と責務があることを分かりかけてきたのだ。
それは独立した津軽立国の気概に満ち溢れている。

また中央に追従することではなく、魁となる勇気を郷土の歴史と教育を再び掘り起こした。それができるのも、人間として生きることを勇気を持って行える喜び、それが名山の元に棲むものの幸せだと再確認したからに他ならない。

 

2011/6

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伴氏が憂う日本の役人  あの頃も

2024-06-28 07:55:20 | Weblog

 

今は高知の山奥に引っ込んで炭焼きをしたり、ときおり街なかで「夜学会」と称して寺子屋風の勉強会を開いたいる、元共同通信の伴武澄氏のコラムである。人は彼を反骨とか左翼かかっているという。

共同通信の待遇はあの朝日新聞をしのぐ高給だといわれているが、そんな位置から世俗を眺めるブンヤとは異なり、ことのほか浮俗の下座観が豊かな人物である。その第四の権力といわれるマスコミの経済部門に位置して、相手からすればイヤらしい視点で書き綴るコラムは、゛政府は嘘をつき隠す゛ことを赤裸々に表している。

人々は、すねる・嫉妬する・あきらめる。それらは為政者ですら手のひらで戯れさせる狡猾さだが、数多の国民は承知している問題だ。

まずは新年に際して寒気がする初笑いを楽しんでいただきたいと転載します。

 

       

        筆者台湾外交部にて 手前左 伴氏    

 

未成年飲酒防止を名目に酒の安売り阻止を図ろうとした国税庁

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1998年03月06日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


 業界紙だからうちは書けないんです

 流通クラブ担当だった1994年10月初め、食品業界紙の知り合いの女性記者から電話がかかった。相談したいことがあるというので、翌日、同僚記者と近くの喫茶店に出かけた。

 「ひどいんです。国税庁は未成年飲酒防止を名目に、お酒に価格破壊に水を掛けようとしているのですよ。この報告書をみて下さい」

 差し出された分厚い報告書には中央酒類審議会・新産業行政部会の名が記され、「アルコール飲料の販売の在り方」と題されていた。当時、酒のディスカウン トショップが日本全国に広がって「酒を定価で買う」長年の習慣が崩れつつあり、業界は既得権益の崩壊に危機感を高めていた。

 「週明けに発表になるんですけど、批判的な立場から書いてもらえませんか。うちは業界紙だからあまり批判めいた記事は書けないんです」。彼女の目は真剣 だった。ぱらぱらめくると確かに「未成年の飲酒防止策」がたくさん並んでいた。「対面販売」「自販機の撤廃」「前払いカード自販機の開発」「容器への注意 喚起表示の義務化」など酒を自由に買えないよう策がめぐらされていた。

 圧巻は「安く大量に手軽に販売すればよいとする在り方は問題が多い」とし、価格破壊を進めていたディスカウントショップやスーパー店頭での「分別陳列」と「レジの分別」を求めた点だった。明らかに新興勢力への嫌がらせである。

 彼女が経済部記者であるわれわれにこの報告書を持ってきたのにはもうひとつの理由があった。国税庁記者クラブは社会部記者が中心になっている記者クラブ で、ふだんは企業の脱税事犯を追う立場にある。社会部記者は常々社会正義を追う使命に立たされているため、「未成年飲酒防止」などの枕詞がつけば、どうし ても「正しい規制」ではないかと考えがちだなのだ。彼女としては「規制緩和に逆行」といった見出しが欲しかったのだ。

 当時、多くの経済部記者は、規制でがんじがらめの日本経済に危機感を抱いていた。再生には価格破壊を含めあらゆる規制を撤廃する必要があるとの認識で一 致していた。われわれも社会的規制で価格破壊の流れを逆行させてはいけないと判断した。この記事は筆者らの独自ダネとして翌朝、多くの地方紙の一面を飾っ た。

 背後に業界団体と族議員、国税庁のトライアングル

 「アルコール飲料の販売の在り方」という名の報告書をまとめた背後には、酒類販売店の業界組織やそこを支持基盤とする自民党族議員の影があった。幸い、 審議会報告はまとまったものの、酒の自販機が街からなくなる事態にはなっていないが、業界組織と族議員そして安定的な酒税収入を確保したい国税庁との「癒 着の三角構造」が仕掛けた策だった。

 「未成年への酒類販売防止」という誰もが反対できない社会的規制を持ち出して、酒類販売店の既得権を守ろうとする姿勢はあまりにも卑劣だと考えた。彼女 の考えもそうだった。「レジを分別せよ」という項目は明らかにスーパーにコストアップを要求したに等しく、「容器への注意喚起表示の義務づけ」は輸入ビー ルに対する嫌がらせだった。

 この社会的規制がうやむやになった理由は、担当が変わったせいもあり追及していない。大蔵省が管轄している業界は金融、証券、保険のほか、酒類とたば こ、塩がある。酒類もたばこも税収は大きい。製品値上げと税率アップを交互に繰り返し、製品に占める税率を一定に保ってきた。両方とも従量制だから安売り しても税収は減らない構造になっているが、製品価格のアップがあって始めて税率をアップできる。ディスカウントショップのおかげで当分の間、酒税は上げら れないということだ。 

1998年02月28日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 2月16日付レポート 「『ご説明』-議員やマスコミを籠絡する官僚の手口」を読んだ感想やご批判を多くいただいた。多くの読者に共通した意見もあると思われるので、匿名で掲載させていただいた。

 

           

         台湾国立中央研究院    右 伴氏              

 

貧困な日本の住宅をつくった「以下の論理」

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1998年02月18日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 以下と以上の議論を知っているか

 これは、最近まで大蔵省の事務次官を務めていた小川是氏が課長だったころの会話である。

 「君は以下と以上の議論を知っているかね」
 夜回り先での会話である。住宅問題を議論していた。
 「知りません。何ですか。それ」
 「つまり、戦後の日本の住宅が貧困な理由なんだが、私がまだ駆け出しの事務官だったころ主計局であった論議だ。住宅金融公庫をつくって国民の住宅取得に安い金利の資金を提供しようということになった。そのとき、融資対象を45平方メートル以下にするか、以上にするかで議論があった。私は以下にしたら貧相な家ばかりになると以上に賛成したんですが、金持ち優遇になるとかで以下になった経緯があるんです。現実も発想も貧しかったんですね」

 45平方メートルは当時の一般的な公団住宅の2DKの広さである。日本はいったん規格や基準が決まると基本路線をなかなか変られない。住宅金融公庫のこ の融資基準も30年来、ほとんどいじくられていない。融資対象物件の上限価格だけは天井知らずに上がった。日本は有数の金持ち国である。国土が狭いから多 少は地価が高くても仕方ない。しかし、狭すぎる。いま首都圏で販売される新築マンションの平均的居住空間は60-70平方メートルである。子供が一人の家 庭ならまだしらず、二人、三人ともなれば窮屈だ。恥ずかしくて人も呼べない。

 そんな空間に35年間ものローンを組むのである。昭和40年代に東京都内で建設されたマンションはそんなに狭くない。少なくとも一回りは広い。役人の発 想が貧困だから国民に対する住宅政策まで貧困になる。実は多くの公務員住宅も狭かった。ほとんどが公団規格だからである。狭い公務員住宅に住んでいた公務 員が「われわれでさえ、こんなところに甘んじているのだから」と以下の発想になったに違いない。またちなみに小川氏は世田谷に、外国人を呼んでも恥ずかしくない一戸建てに住んでいた。「以上の発想」が出てきたのはそういうことである

 足軽長屋に見た公団2DKのプロトタイプ

 新潟県新発田市へ行くと新発田城址に近くに「足軽長屋」が残っていて観光地の一つになっている。つい最近までどこの城下町にもあった長屋だそうだが、老 朽化してみんななくなった。新発田市だけは頑丈だったのか現在に残ったから観光地になった。歴史的遺物ではなく、ここでもつい15年ほど前まで庶民が住ん でいたそうだ。案内を頼んだタクシー運転手が「僕が生まれて住んでいたところ」とガイドしてくれた。少なくとも明治になって100年以上たっているから相 当に古い。

 中をのぞくと、6畳の土間があって、奥に6畳の囲炉裏の間、居間は6畳と4.5畳。一間半の押し入れがついている。つまり6畳間を四つくっつけただけの造りである。「これはまさに究極の2DKだ」とひらめいた。囲炉裏の間はダイニングキッチンそのものだ。煮炊きしながら食べる場でもある。個別に風呂とトイ レを付けた分だけ少々面積が広い。平屋で木造の足軽長屋を鉄筋コンクリート建ての5階にして現代に再現すると公団住宅となる。公団の2DKを設計した人はこんな長屋に住んでいたに違いないと直感した。

 それがどうしたといわれるかもしれない。おっとどっこい。江戸時代の足軽だった人には申し訳ないが、お金持ち国の住宅の基準がいつまでも足軽長屋でいいはずがない。

           

               毎年伴氏と訪れる津軽弘前

 

                 

                 筆者 津軽講話

 

「ご説明」-議員やマスコミを籠絡する官僚の手口

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1998年02月16日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 官僚からかかる突然の電話

 突然、郵政省の某課長補佐から電話がかかってきた。郵政省など担当をしたことはない。面識があろうはずがない。「日本の携帯電話市場についてご説明した い」というのだ。ある雑誌に「世界の携帯電話市場は欧州規格のGSMが席巻している。GSMは欧州、アジアとアフリカのほとんどの国でローミングできるの に、日本のNTT方式は国外に出たとたん使えない」と書いたことがお気に召さなかったようだ。署名入りだったから電話番号を調べてきたようだ。

 来ていただいても自説は曲げないことを何回も電話口で説明したが、相手は「とにかく一回伺いたい」と言う。あまりのしつこさに「じゃあ。1時間だけ話を 聞きましょう」と会う日時を決めた。「近くだから出向きます」といっても相手は固辞して、どうしても自分が出向くという。翌日、汚い共同通信の一室でその 課長補佐と会った。

 正直言って、東大出身の官僚からわざわざ電話をもらうのは悪い気はしない。相手を持ち上げて、いつのまにか自分の土俵に相手を取り込む。これこそが官僚 の人心掌握術なのだ。彼は自分で筆者の名前を見つけたのではない。上司が雑誌で見つけて、彼に「説明」に行くように命じた。ご説明は2時間にわたっても終 わらなかったが、取材予定が入っていたので切り上げてもらった。課長補佐は「近々また来ます」と言って帰ったが、筆者が大阪に転勤してしまった。そして、 課長補佐が置いていった膨大な資料はのどから手が出るほどおいしいものだった。

 確実にインプットされる大蔵の論理

 かなり昔の話だが、消費税導入前夜、参院議員だった野末陳平氏を議員会館に訪ねた。先客がいたため待っていると、大蔵省の薄井税制二課長が出てきた。顔 見知りの記者と場違いのところで出会ったことに一瞬うろたえた様子をみせたが「やあ、どうも」といって去った。野末さんに「お知り合いなんですか」と聞く と「あの人のご説明には閉口している。ようく来るんだ」とまんざらでもなさそうだった。野末陳平氏は二院クラブに属していて税金に関してはかなりの専門家 だった。

 当時、駆け出しの大蔵担当だった筆者は「なるほど。こういう仕組みになっているのか」とひらめいた。大蔵省だけではない。官僚が新しい政策を導入しよう とするときは、局を挙げて課長補佐クラス以上が毎日「ご説明」に奔走する。自民党の幹部はもちろんだ。野党からはてはマスコミまで説明する範囲は想像を超 える。知らない相手であろうが躊躇しない。新聞記者の夜討ち朝駆けと同じである。

 自民党の最高幹部は別として、大蔵官僚がわざわざ自分のところに出向いて「ご説明させていただきたい」と電話がかかってきたら、それこそ悪い気がしない し、断れるものではない。警察や検察の事情聴取は強圧的に相手を呼びつけるから拒否できないが、官僚は自ら出向くという手法を取り、相手のプライドをくす ぐる。こういうときの官僚は実に腰が低い。

 初対面でも心を開いているよう相手に感じさせる術も心得ている。もちろん与党議員と野党議員とでは打ち明ける内容に濃淡がある。しかし、「官僚の論理」 はこうした「ご説明」を経て、相手の脳裏に確実にインプットされる。日本の行政は法律を読んだだけでは分からない。政省令や各種通達に精通した人たちだけ のものとなっている。官僚の「ご説明」を聞くと「なるほどそういうことになっているのか」とその分野の玄人になった気分にもさせられる。一度「ご説明」を 受けた人は政府統計など貴重な資料を定期的に手にすることができるし、気軽に電話での質問も可能になる。政策に通じていない国会議員やマスコミには絶大な るメリットをもたらす。コンピューター用語でいえば、彼らは官僚フォーマットが終わったことになる。

 

             

                     秩父 名栗湖の冬

      

 

京セラよ、おまえもか 中島元主計局次長入社事件

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1998年1月19日(月)
共同通信社経済部 伴武澄

 昨年12月のある深夜のことである。朝日新聞が社会面で「中島義雄氏が京セラ入社」を報じていることが分かり、共同通信社もそのニュースを追いかけた。中島氏といえば、元大蔵相の主計局次長。金融機関からの過剰接待が問題となって辞任した人物である。いつも正論居士として発言してきた稲盛和夫氏の京セラが 「どうして」「なぜだ」。デスクとしての義憤があった。「京セラよおまえもか」という思いが頭をよぎった。

 一般の新聞読者には分からないことだろうが、大手マスコミは翌日の「早版」朝刊を深夜の街角で交換する習慣がある。東京都内や大阪市内には「最終版」と いう紙面が配達される。各紙が特ダネで勝負するのはこの「最終版」であり、早い時間にニュースの掲載を打ち切り印刷された「早版」交換で各社は落とした ニュースがないかチェックするのだ。

 「中島義雄氏が京セラ入社」のニュースはいわば、朝日新聞の独自ダネであった。翌々日、京セラの伊藤社長は要望のあったメディアに対して、釈明インター ビューを受け入れた。取材した記者は夕方興奮した声で「中島が同席したんですよ」と伝えてきた。なんら動じることなく、過去を恥じるようでもなかった。実 に堂々とした様子に記者の方が圧倒されたという。

 伊藤社長は「一般の途中入社の募集に中島氏が応じてきた。過去の経歴や個人の力量を考えて採用した。過ちを悔いるものを受け入れて悪いはずがない」というような内容の発言をした。

 町のチンピラが、長い刑期を終えて過去を悔いたのとは訳が違う。捜査当局の判断次第では刑事被告人になっていたかもしれない人物である。大蔵省の大幹部 だったからこそ、刑事訴追を免れたのは明白である。中島氏が「過去を悔いた」といっても「刑に服した」わけではない。「償い」は終わっていない。

 筆者も1987-88年の間、大蔵省の記者クラブである「財政研究会」に属したこともある。当時、中島氏は主計局の厚生・労働担当主計官だった。向かい の部屋に運輸担当の主計官として田谷氏がいた。この二人はつっけんどんで愛想のない大蔵官僚のなかで新聞記者の人気者だった。いつでも気さくにわれわれの 取材に応じてくれた。田谷氏は自民党が整備新幹線の建設再開を決めたことに対して「昭和の三バカ大査定」と評してマスコミの寵児となった。

 金融機関から過剰接待を受けていたのはこの二人だけではない。ほとんどの官僚の日常生活に接待飲食とゴルフが溶け込んでいた。たまたま名前が浮かんだの は、度が過ぎていたのかもしれなし、運が悪かったのかもしてない。だからといって、京セラが中島氏を中途採用する理由にはならない。

 リクルートの未公開株の譲渡で労働省の事務次官らが逮捕された事件が起きたとき、ある大蔵官僚が「あいつらは脇が甘いんだ。接待慣れしていないんでない か」と言っていたのを思い出す。通産省では「課長にもなって夜の予定が入っていないようでは将来はないな」と豪語する課長もいた。月曜日の午前中、建設省で取材していた時に大手ゼネコン風の人が入ってきて「きのうはどうも」と大声を上げていた光景に出くわしたこともある。

 高度成長時、民間企業に接待費があふれ返っていた。安月給だった官僚がそのおこぼれに預かってなにが悪いという時代もあった。しかし時代は変わったのである。

 われわれ新聞記者の特性は「忘れやすい」ということである。国民も同様だ。昨夜、神戸に出かけて大震災3周年の記念行事に出席して「4年前に国民の目が この阪神・淡路地区に釘付けにされた」ことを思い出した。ゲストの加山雄三氏が「実はいてもたってもいられなくなって家族全員を引き連れて東京駅の街頭に 立って募金活動をした。みんなそうだったでしょう」と打ち明けた。

 官僚の犯罪も風化させてはならない。18日、東京地検特捜部は野村証券にからむ外債発行をめぐる汚職事件で大蔵省OBの日本道路公団理事を逮捕した。

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:憲法と元号 安岡正篤の鎮考する撰文  あの頃

2024-06-26 15:04:11 | Weblog

 

         

 

熱狂偏見が時を経て鎮まりをもった時、女神は秤の均衡を保ち賞罰の置くところを変えるだろう」意訳 

東京裁判のインド選出判事  ラダ・ビノード・バル博士 

※ 世の中の熱狂と偏見が静まり、人々に落ち着いた思考がよみがえり、改めて過去の熱狂と偏見に満ちた群動を想い出し、心の平静を取り戻したとき、当時の正邪、善悪の判断すら変更しなければならない状況になるだろう。

 

以下 旧稿ですが・・・ 

 また、撰文で騒いでいる

いつも浮俗の俎上にのせて様子見眺めをするが,まとまったためしがない。

 

ことは憲法前文のことである

理由は敗戦時に忸怩たる思いで受け入れたという憲法の改正についてである。

近ごろでは張本人の米国識者も、日本の憲法は時節の変わった今、これでは米国の良き協力者にはならない。憲法を変えなくてはならない。

 

もちろんその通りだが、どうも胡散臭い。

何年か前に色々な前文案が出た。中曽根試案というものもあったが、「我々は・・」と団塊の学生運動の臭いがする新聞記者が書いた説明調もあったが、市民革命の熱気がくすぶるような文だった。

 

また憲法九条が争論となっているが、もともと軍閥や硬直した官吏が暗雲として時代を支配していたことが、頸木を除く意味で多くの人々が納得した条文である。当時はその構造転換を憲法に望んでいた。

自衛権だの交戦などはさらさら念頭にはなく、これさえ認めれば鬼(GHQ)の歓心を受けるという阿諛迎合の徒もいたが、この種の人間は往々にして弱きものには四角四面の薄情な態度で応ずる官吏や知識人が多いが、その系列を踏むものが時代や大国に再び迎合している。

 

それらには憲法前文などは、端からつくれない。撰文する情緒もないはずだ。だだ、いたずらに時と知労を稼ぐだけだろう。

 

安岡正篤氏は時節の岐路に多くの撰文や監修を遺している。

古人は「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と遺した。

もちろん天皇の御詠みになるご意思を含む和歌もそうだろう。

 

よく偽装弟子と称するものの屏風に安岡氏のエピソードが飾られる。

今どきは不朽となるべき公文書の改竄が頻繁に行われている、それも政権の恣意的都合によってだ。

条約にも密約がある。一部の者しか知らない、問題物は廃棄する。政治家や役人は凡そ二年ごとに変われば、知っているのは相手国だけ。

これでは言いなりだ。いくら知恵を絞った文章でも、裏があり、廃棄もあるのでは、意味をなさない。

 

安岡氏のことだが、

終戦の詔勅に朱(添削)を入れた

元号「平成」の起草者

中華民国(台湾)断交に際して蒋介石に親書撰文した

色々あるが、その理由の一つに依頼する側の訳がある。それは「安岡先生なら・・・」という安心と保全だ。

しかし,ご長男は「増幅された印象が独り歩きしていますが、父は教育者です。附属の印象価値をあげつらうのは学問の堕落と考えていました。」

 

   

  吉田茂の岳父 牧野内大臣

 

大久保利通の縁戚で内務大臣だった牧野伸顕にあてた多くの建策がある。そのなかで「天子論、官吏論」が賢読され多くの重臣に紹介された。その縁で宮中派であった近衛首相、そして海軍、大東亜省との関係を築き、終戦工作にもかかわり、牧野の縁戚吉田茂から「老師」と敬重され、その吉田の系列である保守本流の代議士から、゛頼り゛にされ多くの撰文や添削監修を依頼されている。

 

ここに頼めば安全で保全にもなるという安岡ブランドに対する、ある種 安直な考えもあったようだ。

 

だだ、安岡氏は筆者に「代議士は人物二流でしか成れない」「いまは、デモクラシ―変じて、デモ・クレージーだ」と言い聞かせるように呟いたことがあった。

 

あるとき靖国神社出版の「世紀の自決」を案内されたことがあった。

その巻頭は本人が撰文したものだが、戦前戦後の経過を知る当人が数日を要して鎮考した文は何度読んでも新たな感慨が甦る。

恩讐を超えて複(ふたた)縁が甦るとき・・

まさに、終戦の詔勅に「万世のために太平をひらかんと欲す・・」と挿入した継続した意志が読み取れる撰文である。

 

薄学を顧みず縁者の頌徳文をお見せしたことがある。

そのときは安岡氏のことを良く知らなかった。だだ、近所の古老に連れられてきただけだった。「その頌徳文をもってきなさい」と言われただけだった。

 

三回読みなおしていた。十分くらい静寂だった。

なおして宜しいですか

声も出さず頷くだけだったが、傍らの赤鉛筆を手に添削していた。またそれを二回ほど読みなおして頷いた。そして面前の小生を凝視して発した。

 

文書は巧い下手ではない。君の至誠が何十年経て、人物によって目にしたとき、その至誠が伝わり、それによって意志が継続され世の中も覚醒する。文とはそのようなもので時節の知識に迎合したりするものは文でもなければ遺すことはできない

 

虎やの羊羹をつまみながらの応答を取りまとめた内容だが、あの読み直す緊張感と集中力は、些細な対象でも真摯に向き合う厳しさと、初対面に係わらずいとも容易に応ずる優しさは、後日検索した巷間騒がれる氏の印象ではなかった。

傍らの煙草は両切りのピース、「禁煙もよいが、欣煙,謹縁、ホドを知って歓び、謹んでたしなむことで毒にならん」と、洒脱さにも驚いた。

 

    

     郷学研修会     中央 安岡講頭  右 卜部皇太后御用掛

 

そして「郷学を興しなさい」、それには「無名でいなさい」、それは「何よりも有力への途です

嫡男の安岡正明氏が講頭となり「郷学研修会」を発足した。

父が描いたものはこの様なたおやかな集いです。目的をつくり、使命感を養い、そこから嶮しい真剣な学問が自発的に始まるのです」

 

「父は単なる教育者であり、自身は求道者です、ですから教場の掲額には「我何人(われ、なにびとぞ)」と、自身を探究することを目的としたもので、ステータスや名利を獲得する道具にしてはいけません」

 

いわんや、父の説や訓を寸借したり、我利に応用したりする方もおりますが、それこそ学問の堕落だと云うでしょう。父は時局を観照して古典の栄枯盛衰を鑑としましたが、政局は語ることはありませんでした。あくまで人物の姿を見たのです」

 

「時流に迎合するな」「歴史を俯瞰して内省し、将来を逆賭する」

※  「逆賭」将来を想定し、今打つべき策を施す

 

憲法前文はそのようなものだろう。なによりも陛下が声を発せられて御読みになってもおかしくない撰文であってほしい。心を共にするとはそのような深慮が人々にとっても必要なのだ。

 

 

参考《或るときの小会の研修要旨

元号平成は、『内(うち)平らかにして外(そと)成る』、あるいは、『地平らかにして天、成る』という中国古典よりの撰名ですが、この草案作成は小会、郷学研修会の提唱者であり、善き訓導を戴いた安岡正篤先生によるものです。

 大平内閣当時の元号制定法案の成立後、竹下内閣当時、あの小渕官房長官が元号発表会見で掲げた平成を覚えている方は多いと思います。

 当時、昭和天皇在位中の撰文では不敬あろうとの理由と、故人の撰文では不都合と云ことで伏せられてはいましたが、後年、竹下氏総理退任後、安岡先生を偲ぶ日本工業倶楽部での「弧堂忌」で懐古されていたのを筆者は記憶しております。

 

 数人の有識者の案が提出され、しかも誰が考案したかも判らず、キーポイントとなったのは、M明治、T大正、S昭和のアルファベットの頭文字と同じでは関係文書の年号記載の齟齬があるという事でした。

例えば「修文」のSは除外され、そこで「平成」の頭文字はH。そこに会議を仕切るのは竹下の腹心、小渕恵三官房長官。会議の雰囲気が一挙に傾き、選考の流れとなった。もともと、「平成」の草案は起草された後、官房長官室の金庫に保存していたものだ。

 その竹下氏は、地元選挙区の挨拶でも同様なことを述べている。

 

 ここでは、ことさら誰がとか、どんな理由で、とかを云々することではない。

 だた、前記(※)にある小生との応答で厳言した意に沿えば、「記されたものは天皇の権威とその由縁ある人々(邦人)の平和に暮らしを願い、時代の更新を表すものでなくてはならず、かつ世俗の雰囲気に惑わされず、後世に継承するものでなくてはならない」と、撰文考案の真意を察することができなければ、単なる元号騒動や古臭い記号表記としてしか思えない風潮になってしまいます。

元号制定法案は、その消滅を恐れて成文化したものですが、今の機会は、撰文の考案と、その真意や願望を想起する縁(よすが)として考えることが必要なことだと思います。

 

       

 

この平成の意にあります『内、平らかに(治まって)、外、成る』ですが、翻って地域の再開発に関する不祥事に際して賢人にその旨をお話したところ、井上靖著「孔子」の1頁に付箋を付け、一章に赤鉛筆の傍線を記した著書を頂戴した。それは孔子が「まちづくり」の要諦を弟子に問い聞かせている場面の言葉でした。

『近きもの説(よろ)こび、遠きもの来たる』

ならば、できないのはなぜか、と小生の拙問に

『トップリーダーのノンポリシー、とくに名利に卑しい人物では尚更だ』

いつもの問答ですが、根本を観た直言は「人物を得る」ことの大切さを説かれました。

 

今回、講師の説かれる備中板倉藩の改革者、山田方谷の誓詞にも同様なことが記されています。

『・・・あの人は真面目な人で、他人を騙さないから信用ができると、世間から信用されれば財はいくらでも流通する。だから、理財の道はまず信用からであります・・』
 これは単なる議論ではなく、貧乏で風紀も乱れていた板倉藩は山田方谷の改革によって、旅人がひとたび藩内を訪れるとすぐ分るというくらいの事績を上げています。

 当時、口を開けば金、金と言っているばかりか、各種税金は獲れるだけ取り、また各種の節約も数十年になったが相変わらず借金は増大していました。

 果たして理財の運用のミスか、人間の知能の問題かというと、そうではありません。

【国家社会の大事を処理する者は、事件の問題の外に立つて、大事の内側にちぢこまらぬことが大切】、と説く。

これは方谷が説く「理財論」を通じて言わんとする根本的見識なのです。

 

社会は理財の流通がよく、安全で人が集まる、それは改革の当事者トップリーダーの胆識(腹の据わった行動見識)があってこそ可能なことであり、郷土(ふるさと)作興のための指導者像であるといっています。

それは改革に対する勇気と信望が集う清廉、そして鎮まりをもった姿勢なのでしょう。

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天が墜ちるような    

2024-06-24 19:36:42 | ふぞろいの写真館

埼玉県名栗村の夕刻

 


ウイークデーは訪れる人もなく、この日は風もなく鏡のような湖面は上空の雲を鮮やかに映している。
画面を逆さにしても判別がつかないくらい幽玄の趣がある。

1時間ばかり亡羊とした気分に浸ったが、時折フラッシュバックしたかのように世俗の雑踏が蘇ることがある。

なんとも表現しずらい画像だが、その時は無音の中で、足元から脳天に抜ける何かがあったようだ。

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「人間考学」 更生保護行政酔譚 14 11/23 再

2024-06-17 11:55:03 | Weblog

「保護司が処遇対象者によって殺害される」

同僚保護司として深く哀悼の意を捧げます

4,6000人余の保護司、ご家族は思いもよらぬ結果に戸惑いと緊張を強いられている。

 

以下は備忘録として改めて想起し、調べなおして難儀な考察を改めて再編しました。少々感情の入り混じった文体となっておりますが、世上の様子として「眺め読み」をしていただければと再掲載します。

 

 

長々とした備忘録ですが、犯罪者の更生を援けるという目的を掲げた官と民の協働の体験考です。
文中にあるPTAやBBSといった外来の仕組みや運動が如何に変容していったのか、その類似点は国家の形式看板である我が国の民主の実態を如実に顕わしている。それは先のブログに記した「官製の地方創生策」が如何に政策遂行の遡上に馴染まないのかを表し、その隠された民意のブラックホールに吸い込まれ、より弊害を深めるかを推考するのである。
従順にして、かつ、したたかに官と間をおく民意は、為政者の善なる政策すら届きにくくなっている。
つまり、「戦後レジーム」はこの民風だと気が付かなくてはならない。



【本文】

保護司法では人数の上限は全国で52000名とされている。つまり保護観察官の補助員として社会ない処遇を補う保護司は、対象者の増減に関わらず定員を定められている。それは警察庁の統計でも減少している犯罪数と比して適当とする定員なのかどうかの検証さえなされていない。よく他機関でみる既得予算消化のためのお座なり研修や恒例視察経費の員数集めとは違うとは考えるが、全国観察所の積み重ね員数なのか、犯罪件数にスライドする様子もない。

昨今、保護司の増員が図られている。それは減少に伴う定数ラインへの補充の感がある。

そこで保護司の職務に関する研究および発表を保護司法で促されている当職として現況の一考を呈したい。
まず前記した定員と定められている上限と適当人数との問題である。また、あくまで保護観察官の補いとしての保護司だか、保護観察官の定員と担当件数の推移の関連性である。 以前は直担事件もあり少年の場合はBBSのグループワークなどに委ねたりして多くの成果を得ていたが、いまは平均年齢60歳以上の保護司に委ねている現状である。

≪「直担事件」(観察官による直接担当事件)
本来は保護司に委託するが、対象者の状況によって観察官がBBS(兄と姉の年代による更生援助活動団体)に委嘱することがある≫

以前は、守秘義務に関連して保護司の受任すら地域で隠れた存在であった。それは来訪する対象者の人権を考慮するものとして永い間の倣いとなっていた。それが、犯罪防止活動が加味され、活動の社会的認知の一環として「社会を明るくする運動」が法務省主唱で行われるようになると、地域の各種団体との交流や、なかには一人で多くの地域役職を兼任し、ややもするとステータスとも考えられていた保護司の活動周知が「社会参加活動」と称して、多くの関連および重複行事と活動リンクするようになってきた。

現在、青少年健全育成を冠とした施策は、法務省、警視庁、地方紙自治体、教育機関など、数多類似した活動がある。非行防止からアウトドア体験、スポーツなどが官製行事として恒例化され、くわえてボランティアによる特徴ある活動が行われている






朝礼の国旗掲揚 台北



比するも妙だが、以前のBBSもワンマン・ワンボーイといわれたケース活動(対象者を保護司、観察官より受任する)が、善行をしている集団との高揚感なのか、組織拡大、会員拡充を意図して、学域、職域へその掲げる理念の周知活動を始めるようになり、学域では学用に供する少年犯罪および対象者の研究と化し、職域においてはグループ化されたBBSが政治的言行を表すものも出てきた。

たとえば、宗教集団も、゛良い教え゛を己の内観する咎め(内省)に向けず、現世利益を謀り社会の脆弱な部分にリンクして外部を変える、あるいは転覆することを考えるようになる。またそれを使命として信者は掟を作り協働するようにもなる。とくに非行少年を社会の弱者、あるいは格差のゆがみと捉えると体制への疑問、問題意識の芽生えから、「善いことをしている代弁者」の意識に高揚し、組織を運動の衆として考える一部の会員も出てきた。

つまり「善い考え」「好い行い」は得てして外部に影響力を発揮しようとすると軋轢が起きる。そのために多勢の衆を恃んだり、無理な権威づけをして行動を絞め付け、疎外感すら覚えるようになる。悪い風評はまたたく間に伝播するが、善い行いは隠匿された善行としてより人格を照らすのはわが国の情緒にある義狭心ではあったが、それも、近ごろでは、考えを解ってほしいとキャンペーンを張ったりするようになった。

また、成文法(清規)に記されている文言に随って任命されている保護司だが、狭い範囲の地域の掟や習慣(陋規)によって支えられている各々の「地域」に、御上御用の保護司として表面だって地位を確立しようとする動きが組織的行動として表れるようになった。
それが、慇懃な推薦として人々からもったいぶった姿として、「臭う」のである。

一昔前だが、善行を旨と称するBBS会長には法務省OBが就き、出張にはファーストクラス、各地の会合には法務省高官、現地観察所長、自治体首長、現地保護司会会長が参席して、BBSは数十人という珍奇な形式会合が行われる。善し悪しを問うことではなく、それが人の生活する郷の「そうゆうもの」にいう世界の連帯と調和の姿なのだろう。

関東地方5000人の運営を委ねられ、各県各地域に点在するBBS会の集いには、たとえ山海僻地でも訪問した。それは、毎週二回九段の東京保護観察所内にあった関東地方更生保護委員会事務局に机を持ち関東管内の更生保護協力団体の連絡調整を行っていたころだった。
形式だが、書式の問題があった

今ならパソコンで毎月報告書のフォーマットをつくり、ワードなりエクセルで打ち込みネット送信すれば管理も運用も簡便になると思われるが、筆者とて普及とセキュリティーを考えると提案すらはばかる環境がある。とくに、昨今の個人情報厳守の流れは、保護司法の成文に記されているとしても、公務秘密については普遍なコントロールは難しいようだ。








当時、関係省庁との交換文章も法務省は裁判所書式だった。あの手書きの警察調書を想い出してほしい。何段下げて、何行を空けるあの縦書き書式だ。BBSとてそれに随い和文タイプで打ち込んでいた。これでは若者は到底ついてはいけない。だが今まではその様に決められていた。今では警察も検察も調書はパソコン印字だが、昨今は偽造といわないまでも削除や加筆が時系列に関係なく行われるようになった。

当時は記録もできない和文タイプである。その煩雑さと民間篤志の活動普遍性を担保するために、A4横書きに改めたが、何のオトガメもなく受け入れられた。そしてあの巨大なロールでチリチリと刻む電送機のお世話にもなった。あるいは懐の乏しいBBS会員が地方研修に行くときに旅費が支給されたが後清算の手続きが慣れないために未支給が生じることがあり、是正方法が検討され順次、行政と民間ボランティアの風通しを整理もした。

一方、九段の庁舎には東京保護観察所もある。各区担当官も今と違って狭い部屋にかたまっていた。本庁の霞が関と離れているせいか、アットホームな雰囲気だった。みなBBSにとって好い人だったのでそう見えたのだ。

いつ頃からか廊下に組合のスローガンを大書したポスターが増えた。出獄、退院者がまず訪れる観察所の廊下である。外部の気易さか「見えない所に貼ったらどうか・・」と提案した。所長は筆者を呼び、声を押さえて語った。
職場環境と職員の待遇はあくまで職掌にある対象者との関係にある。突然の電話、急遽の出張も大変なことで理解はできる。当初はそうだったが、いまは組合という集団の存在に関わる問題になって来た・・・。
BBSや民間ボランティアに理解があった観察官が、組合未加入職員の電話には出ない、連絡応答もないと聞くようになった。ここでも対象者の顔が見えない世界があった。

関東BBS事務局の責任者としての印象に戻るが、地方はもともと異端者、とくに犯罪者を蔑視もしくは疎外する固陋なセキュリティーがあるせいか対象者も少なく、会員も、゛選ばれたもの゛との認識があり、記念行事には近在の有力者が祝い袋にいくばくかの祝い金を持参して、都会とは異質なコミュニティーを作っていた。
ある意味では深層の国力というべき情緒の共感と連帯であり、科(とが)人を出さない良き環境でもあった。ただ、外来を拒む意識は良き変化の浸透を許さない固陋にもみえたが、煩雑な法規をあてにしない穏やかな環境自治があった。

もちろん保護司も一人多役が多く、僧侶、議会関係者、官吏OB、教員OB、医師等、昔の釈放者保護団体、司法保護委員の古き良き部分の篤志と、御上御用の選民意識が混在し独特な地位を構成している。

BBSの場合は学生、勤労者、地域居住者と様々だが、ワンマン・ワンボーイという一対一のケースワークも基本とされてきたが、スポーツや趣味を通じたグループワーク、あるいは施設訪問などか行われていた。保護司の平均年齢60歳超が示す通り、中学生のように若年との面接は環境報告、面接報告ならまだしも、更生への実質的活動については隔年の理解ということで無理を生じることがあり、その点、一緒に汗を流し、抱き合い歓喜するようなスポーツでの理解と順応にくらべ、更生効果を問うものが少なからずあった。

横文字のBBSは法務省の外郭団体として、保護局所管の保護観察行政の篤志ボランティアとして非行少年の保護更生分野の係わりを深めた。それは独自の大義名目はあっても、存在意味は保護分野への依頼と活動遵守によって多面的な活動を狭めることでもあった。
否めないことは、依頼される対象少年を独自に発見することではなく、また社会内の種々の組織間交流が微かになり、それは会員の社会内の人的交流の希薄さゆえも理由ではあるが、法の監督下にある少年たちを、明確な身分もないBBSには行政としても間(ま)を置かざるを得ない事情があった。つまり、指導や援助の限界があるのだ。

その意味では、怠性化した関係と共に、ステータス意識、狭い範囲の帰属意識を生み、逆に独立性、自立性、柔軟性を失わせ、個の尊重ゆえに連帯意識を失わせ、社会への善行啓蒙運動の基であるはずの組織間の調和も乏しくなり、運動は衰退していった。

なかには、使命感や責任感を問うことではなく、自らの疎外感、孤独感が組織帰属によるささやかな充足感、もしくは学びの対象(学用対象)として交流の場にもなって来た。
なかには婚活紛いやスポーツ同好会のようなものもあった。

つまり、同じ社会内で生活する境遇のことなる子供たちへの柔軟であるべき問題意識が、ややもすると、異なる環境の対象として自己の存在と認識の客観性のみが優先され、一体となり共にする情感が薄れることもあるようだ。集団化した行動によくある個々の目的や責任の在り様が希薄となり問題ともなった。

ここでは、なぜ一対一のワンマン・ワンボーイ活動がなくなったのか。それを社会現象の推移としてみれば、BBSの衰退のみならず、迎合にもみえる外来からの環境順化の問題意識もなく経過、看過してきた社会の情感の変化に注意深く観察しなくてはならないだろう。











以下は林壮一著「アメリカの下層教育現場」関係抜粋を参照

≪生きるうえでのビジョン≫

林壮一著 「アメリカ下層教育現場」より

アメリカには引きこもる部屋もベットも、そして満足な食い物もない貧困層がいる

BBSについて
1902年、ニューヨークの法廷事務員の男性が仕事の合間に戦争孤児、低所得者の子供、親が獄中にいて誰にも相手にされない児童が対象だった。
同時期、ニューヨークでは女子児童のみを対象にサポートするグループもあった。
「ともだち活動」を目標に掲げた。また1904年ペンシルバニア州フィラディルフィアでは、屑籠を漁って食料を得るホームレスの子供たちへの支援団体が誕生した。

目的を同じくする三団体が手を結び、組織化して「ビック・ブラザー&ビック・シスター」とネーミングされた。他地域にもユース・メタリング活動を促し、100年後には全米50州、35か国でユース・メタリング活動が広がった。
※ Youth Mentoring 若者への助言指導

親でもない、教師でもない第三者の大人が、週に一回、一対一(ワンマン・ワンボーイ)で時間を共有した。注目すべきは、一対一という点だ。

活動の条件は、どんな人間かを知る身内以外の3人の人を紹介するのが規則だった。

人種問題と貧困
「小学校では、白人の教師と生徒、マイノリティーはマイノリティーでうまくいくが、そうでなければ絶対にうまくいかない」と説明を受ける。

面接者は「さまざまなデーターを照らし合わせて、あなたと合いそうな子供がいたら連絡します」といった。

≪筆者註 センターの職員はボランティアと子供(対象者)をつなぎ、責任をもって調整する介在人であり、ある意味では管理人、インストラクターともいえる。≫

運営は税金を免除され、寄付金でまかなう。
大事なことは「子供の友人として接する」、愛情を注ぐことはやまやまだが、決して親のようには振る舞わない。

10項目のポイント

⒈ 友人になる
⒉ 明確な目標とプランを立てる
⒊ 互いに充分楽しむ
⒋ 考えて言葉を選び、助言する
⒌ いつも前向きな姿勢を忘れない
⒍ 会話の意味を理解して、意見を押し付けない
⒎ 子供の発言に注意深く耳を澄ます
⒏ メータリングを行う場所を敬う
⒐ 子供との関係を忘れず、親とならない
⒑ 使命と責任を忘れない


それぞれの社会環境でサービスが異なる

アメリカ社会の抱える問題
低所得者のコミュニティーは常識外れの大人が独自の方法で子供と接している。なかには10歳にも満たない子がアルコール・ドラック・喫煙・凶器などの携帯を覚える。
善悪の判断ができないと犯罪に結びつく。貧困エリアではそれらが結びつき、ドラックの売人やギャングになる子供が多くなる。


林壮一氏は教壇に立った経験を活かしてテキサス州ヒューストンのジョウジ・フォアマン・ユースセンターでボランティアをした。
筆者註 ジョウジフォアマン 元ヘビー級プロボクサー ザイールでの行われたモハメド・アリとの試合を最後に引退して、牧師となりボランティア活動を行う≫

問題児や登校拒否児童を集め、人生をやり直せるように支えるセンターである

方法は、リクレーションを通じて整列・挨拶、約束を守ること、などの規律を学ばせた。
ユース・メンターリング(若者への助言や指導) 6歳から19歳までの子供に寄り添う活動
も行った。






台北 六士先生顕彰碑


【再本文】

だだ、保護の三位(み)といわれる保護司、更生保護婦人会(当時の名称)、BBS,の分別した役割とは別の、地位的感覚や視点が上下関係として集約され、一人の処遇対象者をめぐって考察が異なる問題が、老若の軋轢にもなったことも少なからずあった。

多くの保護司は対象者を包み込んだ協働を多としたBBSの考察を報告書に添付して多く成果をあげることができた。逆に若者特有の反発なのか、かつBBSのなかにも長幼の順に馴染まないのか、一人対象を忌避してグループワークや多地域組織、上部組織との関係にある組織運動に向かうものも出てきた。

たしかにBBSは保護司の補助機能もなければ、法的擁護もない。また、法に関わる対象者への係わりに明確なガイドラインもなく、ときどきの個人的理解に委ねる脆弱さもある。だが、老若に関わらず目的の裏付けとなる公機関の依頼が、逆に社会への活動周知において、普段、犯罪者の更生などには関心も持たない世界には「公機関の依頼」が、異質な雰囲気を持たれるのは当然なことである。

その意味では保護司もBBSも個々の指向は対象者にとって有効な立場ではあるが、なかには、いかに組織における立場の維持や社会認知に励むような同質な「臭い」がすることでもある。
あくまで、保護観察官のへの助力であり、犯罪者更生という特殊な目的を持つ組織であることの理解の齟齬が読みとれる姿でもある。

つまり、そのことを理解しつつも上位の促しによる社会啓蒙活動は曖昧な目的と手段によって、どうにか形作られているといってもいい状態がある。それは更生保護従事者による社会参加が敢えてその特徴を発揮できない形式行事になっていると思われる現況である。

一部の若者もそれに倣ったのか、経年すれば役所から授与される感謝状や表彰状を案じたり、組織の置かれている位置関係にある、役位を求める若者らしくない姿も表れてきた。
セレモニーには皇室関係者や政府高官も列席するので応接も法務省の保護局を超えておこなわれ、よりその邦人らしい帰属意識と活動意義を高めたが、役職位置の本義である観察官への補いである対象者への取り組みは変化し、地域への事業周知と自己周知が相俟って「更生と保護」が単なる「報告委託」になってきたと、さる法務官僚の述懐がある。

以前、法務研究所で「権威」について語り合ったことがある。機関紙でも紹介されたことだが、保護司を先生と呼称することについての問題だった。尊称なのか、従前の倣いなのか互いに「先生」と呼び合い、若い観察官も「先生」と互いに呼び合っている。

ことさら切り取らなければ大した問題ではないが、当時は教師が教員や職員となり、それでも生徒が「さんづけ」ではなく先生と言い、庶民から選ばれた議員が先生となり、落選すれば「さんづけ」あるいは、形式的に「先生」と呼ばれるなど、゛そうゆうもの゛と思うものでも議論の題材になったことがある。しかも当局のなかにも疑問視する声も上がった。

なぜなら社会内処遇で民間保護司の助力を得る個々の処遇と、その処遇を容易にする、あるいは社会を浄化するという官製運動が各省、自治体関係機関を通じて勧奨されつつあるなかで、それぞれが協調し時に一体感を以ておこなうムーブメント(運動)に保護司の領域が異質に感じられないよう、その権威の表層にある狭い範囲の呼称である「先生」が、議論になったのだ。

担当を決められ対象者が来訪しても、もともとは互いに市井の人々ゆえ犯罪種別に嫌悪感を覚えたり、ときには憎しみさえ抱くこともないとは限らない。だだ「不幸にして犯罪をおこし・・」とおもいやる保護司受任の前提があるために、保護司とて俗世の感覚とは異なる自制が働かなくては受任の意味をもたないのは当然なことである。

一方、アカデミックでもなく法に含有されない義狭心というものがある。保護局の依頼で多くのテレビ、ラジオの媒体に出演したが、NHKの一時間放送のスタジオで「そうゆう子供の姿を視ると、面倒見たいと思う気持ちが湧きます・・・」と応えたことがある。
つまり、自発性と積極性、そして縁の連帯意識が基となるべきだとの表現だったが、視聴者には更生保護に携わる多くの人々の意志がストレートに解りやすく伝わったとの意見が寄せられた。また、資格などなくても誰でももちうる情感を喚起するという気持ちと、切り口の違う社会資源の活用が、その「特別ではない容易さ」として伝わったようだ。
それ以後の保護局への問い合わせとBBSへの志願は多くなり、BBSのモデル地区設置としてつながった











更生保護に携わる方々への印象は、一種の「匂いと臭い」があるとの感触があった。人を困らせた人をお世話する、疎外された人との交流、まるで村八分のような感情のなかで善行の匂い(薫り)は観えても、ステータス意識、御上御用の臭いも同時に漂うように感じられた。

当時の更生保護婦人会の島津久子氏は当時のBBSに『臭いを消すことが篤志家の善行であり陰徳を有効に重ねることになる』と、善行の本意を伝え、東京保護観察所長の堀川義一氏もBBSの若者と好んで応接していた

当時は各区の保護司会の運営もさることながら、保護司法をもとに個々の保護司を任命して直結した関係が強かったが、昨今は紹介が推薦となり、推薦権が各保護区に与えられるようになり、なかには恣意的な推薦まで行われるようになってきた。

保護司法で無給と定められているが、其の代りなのか他省庁に連なる諸団体と比べ、年次を重ねるごとに賞状が高級になり、官吏の地位に順じた感状、表彰状、大臣の感状、最後は陛下からの褒章や勲位と、役職、組織貢献度、あるいは地区責任者の推薦裁量で要綱を記載された長方形の紙を推し抱いていく。

つまり、その視える作業を通して選ばれた人々の善行と組織が陰徳から周知になり、世間の理解と善意の喚起をふくめて「権威」が徐々に醸成されてきた。しかし、それはあくまで対象者にとっては「虚」だった。その彼らは一生目にすることも、手にすることもできない代物だが、彼らの「不幸にして・・」とある存在由縁であることを忘れてはなるまい。

ある保護司は「君らが真面目になったお陰でこんなものを貰った。祝賀会とやら騒いでいるが君らが一緒に参加すると眉をひそめる人もいるし、普段着では君らもひもじいだろう、祝いの騒ぎはやめて、君たちの仲間を呼んでやろう」と、祝賀会の催しを断っている。
何枚もある四角い感状や褒賞も棚晒しだった。

冒頭の定員数の問題はさておき、定年の増加とともに定員未充足の問題が起きてきた。
永くは定年保護司の紹介だったが、近年はその方法も効果がなく、地域の関係団体の紹介を請うことが選択肢にあがった。手っ取り早いのは地域を構成する町会にお願いしようとする試みである。










この種の受任は事業内容の問題も含んで受ける側の条件も細部にわたる。
なかには「臭い」を維持するものもいる。
実際にあつたある応答を紹介する

保護司が候補者を訪ね
゛保護司をお願いしたいのだが゛
「報酬は幾らくらいもらえるのか」
゛無報酬だが、あなたの若さなら藍綬褒章まで届くはず ゛



もちろん、嬉々として受託する者もいれば、頑として断った人もいる。
ここで注目したいのは、対象者は一生、藍綬褒章など縁のない人たちだ。報酬については社会の認知もあるが、褒章をあてに、あるいはそれを餌に受任を求める心底は一種の社会劣化を助長するような姿である。
なかには五百万を寄付して紺綬褒章をもらい背広を新調して自身で祝賀会案内状をもって参加懇請していた可愛い猛者もいた。もちろん賓客は自治体の長か議員である。人生訓や慈愛を説き、信頼を立て更生を促し、縁の効用を人間関係とした対象者は招かれることはない。もちろん、そう考えるのは天の邪鬼で変人と思う世界なのだ。

面接では、生活の簡素、節約、人に対する思いやりを説くが、腕には金時計と金の鎖、未だゴルフ遊戯も知らない幼い対象者にゴルフを勧める人間もいる。逆に天涯孤児の境遇にいて非行(喧嘩)をした対象者をおもい図ってゴルフを封印した保護司もいる。もちろん生涯の友になったことは言うまでもない。

保護司同士の推薦会議での会話だが、地域は保守系が多い地域だ。
「紹介したい方がいるが元某党の議員で心を砕ける方です」
゛某党、それはまずい゛
「もう退職している方ですよ」
゛それは推薦できない゛
それは共産党や社会党もそうだろう。つまり地域の主だった者、ボス的な者の威圧であり、そりこそ「臭い」の素の感覚なのだろう。


別に個別政党の云々ではない。たとえ応援政党があっても、対象者は元犯罪者であっても宗教、思想を保障された国民だ。ましてや自らの経歴実務や篤志を活かそうと志願する人に対する応答ではない。しかも意図するものは裏に隠れ、善悪も分からない従順な後輩保護司が代りに口を開いている

なかには断られたので次をあたり、断った候補者が「こちらで断ったためにあの人に回った」と、二番手候補者と揶揄されたりもする。

どうも御上御用は妙な意識が働く様だ。あるいは既得権意識なのか、推薦の端緒は根回し、裏話、が多く、しかも妙なところで守秘義務を持ち出し、一部情報で会議を構成する田舎芝居のような雰囲気が滞留している地域もある。よく下話、裏話で決着をつけ、正式会議は形式的な集まりになっている低俗な会もある。これでは有能な候補者や、正論すら閉ざされ、単なるサロンの遊戯にしかならない。

その町会からの照会だが、いつの間にか「町会長の推薦」と錯誤して、町会長を兼任する保護司は既得権、既成事実、専権として考えている保護司も散見する。
あくまで、照会であり紹介でも推薦でもない。いつから町会長が保護司法にのっとり保護司適任者を選択できるようになったのか、あるいは町会長が議員兼職の場合にあった選挙協力者や後援者をPTA役員、民生委員、自治体の各種委員に推薦するような愚を保護法に基づいた保護司が行うことは、将来の禍根をのこす試みにも見える。筆者も将来を危惧するものだが、官も員数合わせに符丁のあった理屈を唱え、地域保護司も何の問題意識もなく員数確保に奔走しているのが現実でもある。










一例として、戦後、GHQの招聘で米国教育使節団が来日してPTAを勧奨した。翌年事後調査に来ると、とんでもない組織になっていた。その構成は学区のボスの集まりだった。つまりGHQ推奨の御用組織だと勘違いし、大仰にも子供のため、教育のためと席を占め、敗戦転化で軟弱になった教員をしり目に、いまのモンスターペアレント顔負けの醜態だった。

また、その珍奇なPTAを選挙人数として与野党そろって影響力の浸透に努めた。多くの篤志家が創立した保育園が左翼政党に乗っ取られたのもその反動だった。ましてや町会長もその類を免れない。それは教育機関以上といってもいい固陋な姿が都市部でも残っている。
もとより、町内会は思想、宗教、国籍、支持政党はさまざまだ。また町内会といっても任意の私的団体であり全世帯数からすれば、お近ごろは未加入、お付き合い参加も増え、決して町民を代表する「町内会」ではなくなってきている。



ある行政区でも保護司の推薦は自治体の長を以てする、という案が出たが、よく調べると首長公選への迎合と保護司会長の女房と首長の郷県が一緒で、たまたま世辞を言ったことを取り巻き保護司が早合点したと笑えない話があった。このときはさすがの保護局も苦言を呈している。
また、それぐらいな位置と利用できる保護司という地域効用を意図するものがいれば、独特な法権威を得ると考えるシロ蟻には恰好な餌にもなるものだと実感したものだ。

また、好奇な目と関心がいたずらに拡大すると、多岐で多様な切り口、ここでは怨嗟と人格否定が多くなるのは必然である。昔は医師、議員、警察官、教員が地域の尊敬対象であり、住民にとっても頼もしい存在だった。だが昨今の情報氾濫で多くの隠された不祥事や優遇が露呈され、それらは却って怨嗟の対象になっている。本来の業務や責任まで疑われ、風評や井戸端談義のタネになって有効かつ永続性を求められる保護司の対象者との関係信頼性も毀損されるようになる。つまり大幹と枝の峻別が半知半解な多勢によってできなくなる危険性がある。

保護司補充も下げ降ろしの政策だが、意図の事情や真意まで探る問題意識は無く、御上御用に慣れた人々によって、部分解消、全体衰退に陥る先見の推考がなされるべきだろう。

なかには、俺の言うことを聴いて、会議にも出席していれば感状、表彰状の推薦をしてやると広言し、それを餌に取り巻きを役員につけて担当官吏に事業を誇示する保護司会の責任者もいる。浜の真砂は尽きぬとも・・・ではないが、それが保護司といえ元犯罪者を観る目であり、姿とは思いたくないが、あくまで「観察官の補い」という官への篤志的援助を忘却してはならないはずだ。

また社会のなかでの更生保護を考えると感ずることだが、あのBBS運動に没頭し生活の一部になっていた活動が、一旦離れて見ると社会生活のなかでどこの位置を占めているのか、どのような関心があるのかが、まるで忘却消滅したように無くなったことがある。

別に嫌気がさして辞めたわけでもなく、おおむね30歳と記載されていたことに随っただけだったが、やり残したこともなく、ただ18歳からの浸透した更生保護の活動を回顧するのみだった。また、20代の後半から警視庁の少年補導員を受任し、保護観察以前の非行の端緒を扱うようになって、保護と同じような「臭い」が充満していたことに「御上御用」と「善い行為」に集う大人世代の疑問に妙な普遍的ともいえる慣性をみるとともに、この国の民癖なのかと諦観を感じたりもした。それは、あくまで下座観からどう考えるかという前提からだ。

その意味では20代の若年ボランティアの社会的効用を認め観察官の直接担当対象者を依頼されたり、更生保護の社会的周知のための端緒であった「社会を明るくする運動」の在り方を提案し企業協賛、運動の骨格作りにまで参画することができた当時の保護局の許容量と柔軟さがあつた。









笑えない話だが、法務官吏とて社会に慣れた職場ではない。

あるとき飲料大手の会長に協賛金のお願いの話があった。其の会長は中央官庁の中堅が来るので大きな額を想定していた。そのとき官吏は恐る恐る50万を提示した。目を丸くした会長だったが額の低さだった。「それなら球団の交際費で・・」と拍子抜けだった。

鈴鹿の交通研修の協賛も本田技研の後の社長が応対だったが、同様な応接だった

その際、提案させていただいたのが鈴鹿サーキットでの交通安全教室でした。ホンダの鈴鹿というだけで少年たちは興味を示してくれた。社名運動は法務省主唱だが、願いは国民運動であり継続性が伴わなければ、単なる官製イベントの人集めしかない。本来は対象とする世代に問題意識を持ってもらい行政や保護司が下支えするものでなくてはならない。予算取りが成果となり、効果もなく恒例化する行事なるものに風穴を作るアイディアは、対象となる世代に委ねることであろう。

貧すれば鈍す(貪す)では恐縮な見方だが、世間と関わりの少ない省で、とくに世間慣れしていない保護行政が社会に参加?しはじめた頃はそんな調子だった。だからマスコミ対応、特に映像は溌剌としたBBSの若者で、当初の広報キャラバンの企画やビラ作り、配布も若い女性BBSだった

しかし、現在にいたっては机上の企画の下げ降ろし、かつ御用意識ゆえに半知半解のようにも思える明確なガイドライもないままに各地域に提示するようになったことで、それぞれの異なる理解が却って混乱を起こしている。地区会でのパソコン導入でも喧々囂々の争論が起こり、就労援助も厚生行政との協調理解不足の混乱、社会参加活動の他機関との類似と参加人数と実質効果など、あの当時と類似した戸惑いがあるようだ。

若い行政官吏と高齢世代の理解齟齬も多分にあるが、変化を厭う職域ゆえ世代間に妙な怨嗟さえ起きる状況がある.

もちろん保護行政としての運用効果や成果を目的としたものだが、およその混乱は対象者処遇ではなく、社会との関係促進と新たな施策(周知)と、多岐にわたる社会サービスなど多様化に起因している。またそこには多くの戸惑いの因が隠されているが、なにぶん処遇効果と善なる周知という大義のもと、為さざるを得ない選択としての現状があるようだ。

一利を興すは、一害を除くにしかず  (元宰相 耶律楚材)

(真の効果は、積層された法や仕組みを整理するだけで、敢えて新しきこと、あるいは職域を拡大させなくても自ずと効果は表れる)

それは情報の流れの姿として、保護司そのものも対象者のための適切な処遇をどのように工夫するのか、あるいは将来をどのように推考するのかという自発的思考や、ときには異なることを恐れず提言するという、官と民の相互提言が乏しくなることでもあった。

それは保護司候補の選任基準にもうかがえる。
本来は法を基にすれば観察官のお手伝いであり、活動を通じた対象者の側に立った提言を行える人材の提供、また曖昧ではあるがそれらしき信頼に値する人物とあるが、以前は地域の主だった者、有力者、どんな形でも肩書を有する者との倣いがあった。またそのような人物は許容量があり、多少の財と時を有し、対象者にも鷹揚な理解と涵養があると考えられていた。

しかし前記した権威と御上御用意識が妙な選別されたステータス意識として候補者を特殊な選良として挙げることによって、組織運営に忙殺され、本筋の目的である対象者処遇に、より窮屈な世界をつくり出してしまう危惧があった。










あくまで保護観察官の補い
当初は対象者の人権を考慮した陰徳した行為が、官側の社会参加の促しによって多方面にリンクする、その混沌とした理解と、あたかも整合性ある社会内処遇の姿として個々が多様な理解をしても、あくまで観察官の処遇のお手伝いとしての保護司の前提となる「本」が易き方向に流れ、民をして、より権威が屏風となるような社会表現や妙な社会的認知が出来上がるのではないか逆賭し、かつ憂慮する。

とくに一般の保護司より、保護区の役職といわれる立場の保護司に見られる傾向のようだが、人事抗争まがいの怪文書や応援者確保の陣取りが行われるようだ。別段一般保護司には関知することではないが、保護区長(会長)が高位官吏の感状推薦権があるとの考えが一部のステータス意識(御上御用)に敏感さをより刺激しているようだ。その弊害は昨今是正されたと聞くが周知はされていない。

いわんや、行政が外郭取り巻き集団として用することは数多あるが、多くの官域で行っている育成や未然防止という茫洋とした運動に混在させることは、その処遇効果を高めることにはならないと顧みて実感するのだ。
自治体や民間団体はもとより、あれもこれもと他省庁との連携や活用を謳うが、国情、世情を俯瞰するとあまり効果の無いようにもみえる。

畢竟、もともと犯罪者の更生は世間では理解の薄いものであり、これを濃くしようとすることは人的にも膨大なエネルギーを要し、国柄や情緒さえ転化しなければならないものだ。いくら人権や平等を唱えようと世間は別世界のものとして、あくまで官域の専権として、それらからの守護を求める側にある。たとえ官制スローガンや巧みな企画を弄しても、俗に言うハナシと行事倒れに終始する。またその印象はとみに峻別に厳しさが加わっている。

筆者の拙い保護分野の40年の体験であり、経年の成長と劣化という勝手な俯瞰視だか、将来の国情と民癖を推考するに、ここは観察官のお手伝いとしての対象者処遇に保護司の活動の重点を置くべきと考える。一時は一万人以上の若者が参加していたBBSも京都の学生の自発的行動だった。それが組織維持と拡大を目標に社会にリンクし、欧米型のケースワークやアカデミックな処遇技術を学び、それを学用として会員の自己学習の充足や自己認知という本末転倒な運動に進むにしたがって組織が停滞衰亡していった経過がある。

かつ若手官僚の現場対応能力や固陋なる習慣を持つ様々な地域観の再考証がなければ、若手保護司の補充など望むべくもないだろう。認知や周知の願望が社会を明るくする運動のなどの社会的認知の高揚感から発したものなら、それは本末転倒な施策であり、保護局内の目新しいと思われる政策立案の方向性への再考が必要だろう。

社明運動のスローガンにある、対象者を同じ世代の若者の「不幸にして」、あるいは「不慮の結果」という、誰にでも起きるであろうという共感をなくしてはならないだろう

余談だが、日本の更生保護のはしりであった鬼平こと長谷川平蔵がおこなった石川島での殖産事業、そして毎度のように訪れて言葉をかける「権力のささやき」を懐かしみ講演したこともある。保護司の集会には別世界の大手通信社の解説員を紹介し多面性と視野拡大を意図した保護局の助力も行ったことがある。


そのころ、世間で流行り、カブレたのは、個性化と国際化、そして自由と平等ではあるが、教育は数値評価と、人格涵養とは何ら関係もない地位、名誉、財、学校歴という附属性価値の競争だった。非行とか犯罪はあくまで外の忌避する世界なのだ。また大人たちはそれを煽り、その附属の価値を権威づけすることに励み、表層に謳われる善なる行為の勧めを我が身の虚飾とするものも増えた。また、「ポランティァ」という言葉も大手を振って喧伝されるようになったが、却って人々は連帯をなくし調和すら衰えた。

それは「人物」を視る目が表層の附属的価値と、曖昧かつ虚偽を含む一過性の風評に人をみるという稚拙で狡猾にもみえる世情となり、思索と観照をなくした情緒は無名でかつ有力という人物観が意味をなくし、有名をもとめ、さらに干渉し、批評するという軽薄な人の見方しかできなくなったことでもある。














保護司は保護司法に随い、かつ護られた一個の人格の為せる作業である。(その意味ではヤクザは稼業の親分の方が効果はある)
そして、複雑多岐な事情をもった行政の補完として助力、提言を行い、その相互連絡の必要性を「会」に求めるものであり、近年に謳われてきた社会参加への易き誘惑の前提に、対象者の更生と保護、それは長谷川平蔵の殖産事業や金原明善の善行を範とした歴史の賢人の意志を顧みて己に問いかけるべきと時代は要請している。

政治の人間関係においても疎外と排他が流行りとなり、人々の離合集散がめまぐるしい時世である。また、それは土壇場の民癖であり、四角四面と阿諛迎合が官と民の関係を支えている陋規(狭い範囲の掟、習慣)だが、あくまで最後は人物の義狭心と和魂は語られる。
いくら清規(成文法)が整っていても煩雑で用をなさない法では社会は整わない。
また、「易き」は進捗するごとに軟弱となり、弛緩し、堕落崩壊する。


複雑な要因を以て構成されている世事としては保護行政も細事だ。だが日本のみならず地球のあらゆる文明に棲み分けられた民族や仕組みを俯瞰すれば、たとえ国家が行う細事な保護行政も価値の優劣を競い、優を有効、劣を無効として切り捨てられる溝の拡大は、「劣が烈と転化」し、「優が遊惰を生ず」という古事の倣いをひくまでもなく政治の要諦として見直されるべきだろう。

大仰だがあるインタビューにこう応えたことがある。
「非行犯罪が増えることは国家が脆弱になる。ただそこに追い込む善良な大衆もいる。求めるものの裏側には自身の鏡となった彼らがいることを忘れてはならない」


2024 12 7  激震ノ夕刻 加筆再記す

説明なきイメージは津軽弘前

コメント (2)
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