まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

阿諛迎合と四角四面、そして好奇心

2023-02-27 04:04:12 | Weblog



標題ですが、中国人は日本人のことを、そのように観ていた。

逆に日本人がどのような印象をもっているかは、マスコミなどに表れる金銭欲や犯罪、狡猾な外交などネガティブなものが多いが、それらはあくまで現象である。エネルギッシュな上昇志向、色、食、財への飽くなき欲求と、同化欲求への誘いもある。

近頃は中華街でも華人同士が一定のエリアに店舗、事業所を営むが、広い国土ゆえ言葉もわからず気風も違うので隣同士でも話をしないこともある。

狭い範囲の純なる人情を理解するが、国家への帰属意識は実利のみ。ある意味、独立独歩、
他を安易に信じない、いまの日本でも当然と理解される民風でもある。

標記の阿諛迎合だが、戦後GHQの様々な施策を受け入れる擬似柔軟性を順応と取り違え、生活規律のみならず国家の基礎的条件まで唯々諾々と受け入れている。
これを暫く経って「弱体化政策」だとか大声で言いつのるが、当時の高官は自身の肉体的衝撃、つまり追放もしくは食い扶持の喪失を恐れたものもいたのだろうか。それとも今は頭を下げて様子を見て・・・と思ったのか。
いや、何をされるかわからないと考えたのだろうか・・・

一方、ドイツは様々な提示に受け入れを拒否している。
負けたくせに・・・、と当初は思ったが、なかなかシッカリしていると思うようになった。
日本はことのほか従順だと思ったが、しまいに軟弱だと思うようになった。


いや、軍や軍官吏の強権に息を潜そめていた知識人、教員、政治家などは積極的に、その光り輝く文明と称するものに迎合した。ついさっきまで数百年にわたってアジアを蹂躙し、未開、野蛮として愚民化を進めた彼等の文化と称するものに寄り添った。

米英鬼畜といっていた庶民も生きるためかギブミーチョコレートを叫び、ジープから撒かれるガムや洋モクに大の男が群れた。政策なのかお目こぼしを受けた娼婦はGIの肩にもたれかけ、日本男子など鼻にもかけない。

生きるために肩を諂い作り笑いをする華人の商売人を上から目線で見る風は、当時の日本人も同様だった。とくに負けた現実は社会においては国内の権力構造の変化、教員や村の長(おさ)の無気力など、満州崩壊の折の華人の大らかさや旺盛な生活への行動と比べると、まさに、゛青菜に塩 ゛状態である。

それは特に我国では高位高官、とくに政治家や官吏にその姿が表れる。
簡単なこと、銃を担いで寒さに凍え、荒野に宿を設けたり、ツルハシを大地に振り下ろすような肉体的衝撃を土壇場でも忌諱する人たちのようだ。
知は大偽を生ず」ではないが、知は重ねれば重ねるほど「本」が無ければ、言い訳、保身のために用するのが、彼等の「学」なのだろう。
深くは判らないが、そんな人たちと国民は感じている。

国内に対しては強い、外国に対しては弱い。バブルの頃のブランド狂いもそれに倣ったのか、本性なのか。





                



好奇心は内なる民族に向かうと、より複雑化し混沌となる。
多くの考え方を認たり、価値の多様化と称することが、いつの間にか、゛人は人゛となり、「異なる厳存」である自身を、゛オレは俺゛と、哀れむように、゛やりたいこと゛に没頭し、゛するべきこと゛が分らなくなっている。

それを国家や民族の衰徴なり、人の劣化や群れの分散とアカデミックに論じることは易いことだが、童心に映して「何故なんだろう」と眺めると、当時は一部を除いて「人のよい」人たちがこの国を占めていた。

祭り、盆踊り、人の集まるところが好きだった。背広とバッチの政治家の言うことを黙って聴いた。言っていることもよく解らなかった。となり組、町会、弁護士が多くない頃、四角四面の長(おさ)が難儀しながらその姿勢を崩さず人の相談を差配した。それも納得する至誠が長(おさ)にあった。長は立小便もしないし、飲み会があれば小遣いを置いて先に座を外した。見世物小屋の蛇女やオートバイの曲乗りに目を凝らし、小さなテレビの前に大勢が陣取って白人をやっつける力道山に喝采した。

たしかにそんな時代だったが、大多数は「分」を納得して受け入れていた。
「そういうもんだ」と・・・

いまは文句タラタラ、貰えるものは何でも貰う。

あの華人でさえ、そんな迎合の仕方はしない。「何かあるぞ・・」と。
四角四面は既得権を護る人間達の言い分だと。
そして、好奇心は、゛どこまでできるか゛己に向かっている。

だから文句はあまり言わない。
彼等も「そういうもんだ」と思っている。
だから、拘らず、囚われず、留まらない。

厄介な税喰いの群れはどこにでもいるようだ。


                    

掲載写真は関連サイトより転載

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いずれ、其の男のような人物の登場が必然となる   9 7/13再

2023-02-23 00:54:38 | 郷学

 ≪宣誓式は総統府の大ホールで行われ、蔡氏は国父・孫文の肖像画を前に、右手を挙げて「憲法を順守し、職務に忠誠を尽くし、国家を守る」と宣誓した。≫ 毎日新聞

https://www.youtube.com/watch?v=RoBIRF5aLQ0    Youtube

孫文は大陸の中華人民共和国と中華民国台湾の双方が国父と讃えている人物である。

中国は共産党の毛沢東が天安門に掲げられているが、台湾は国民党の蒋介石が辛亥革命の領袖として国父記念館を創建し、対立する民主進歩党の蔡英文氏も総統就任の宣誓では孫文の掲額に向かって宣誓している。孫文は対立していた国民党の創設者ではあるが、民主進歩党に政権が変わっても従来通りの形式を維持している。ここで一つの中国論はおいて台湾が孫文の存在を維持継続する由縁について、一つの切り口をもって記してみたい。

                                                           

 

台湾人の文筆家 黄文雄氏は日本において孫文の印象を「ペテン師」として批判した。自由な国、日本において様々に国の人たちが自国の権威もしくは権力者をあしざまに糾弾し、嘲る行動をすることがある。

日本人は「遠くにおいて思うもの・」と郷里を懐かしみ、過ぎ去った恩讐を自らの反省と共に心中に留めることを倣いとしている

あえて言うなら「ペテン師」その通りである。加えれば「女好き」「浪費家」「策略家」「妄想家」も付け加えたい。

ならば「中傷家」「曲解家」「細事批評家」もしくは曲学阿世のモノ書きもいるだろう。それらは往々にして肉体的衝撃を回避する自由と民主の防護壁の内にある。

孫文がそんないい加減なペテン師なら、それに協力した頭山満・犬養・宮崎滔天・萱野・梅屋・後藤新平・秋山真之ら、国内外で讃えられる人物は、みな人を観る目もない愚か者だったのか。国内において、たとえそのペテン師の言に騙され、塗炭の苦しみを味わう人々に沿って、肉体的衝撃をものともせず侠気を発揮して自己完結ですら適わない走狗には、更新の魁の意志すらないだろう。国が乱れるのは知識人の堕落からはじまる。それは売文の輩と言論貴族の食い扶持に走る姿だ。

たとえ異なることに挑戦し罵詈雑言を受けても、異民族が連帯し、アジアの不特定多数の利福のための行為は歴史の一章に刻まれている。

今どきの浮俗とは趣の変わった明治日本人有志の共鳴と命がけの貢献によって成し遂げた隣国の近代化の魁は、西欧植民地主義の頚木からの開放だった。

歴史は自らの行為に悲哀と反省を与えてくれる。我国もそれが頚木となって現在も続いている。しかし、それは商業出版のセンセーショナルな標題や陳腐な内容に一喜一憂する人々を覆っている頚木を抜くことにはならない。却って鎮まりの中での思索や観照を妨げ、意志のない一群を増殖させてしまうだろう。

将来のアジアの連帯と世界の調和を逆賭するとき、物書きの走狗に入るような一過性の戯言は、香りのない無味乾燥とした情緒を作り出してしまう危惧がある





 

山田の生地弘前に孫文選書 山田純三郎の顕彰碑
 




ブログ「請孫文再来」より (寳田時雄著)

◆天恵の潤い  

孫文は呼称、革命家である以前に『天恵の潤い』でもあったのである。終始、孫文の側近として同行した山田がその人柄を述べている。
 1924年 12月25日の深夜だった。神戸のオリエントホテルに頭山満さんたちと泊まった夜だった。夜中に廊下をウロウロしている不審な人物がいたので、だれかと思ったら孫さんだった。
「如何したのですか」と聞いてみたら 

頭山さんはベットに不慣れだろう。もしもベットから落ちて怪我でもしないだろうか。心配だ」と、人が寝静まった廊下を行ったり来りしていた。
 しかも食事といえば、日本食が苦手な孫さんだが頭山さんに合わせて和食を共にしていた。あの孫文さんがだ。だから皆、孫さんには参ったのだ。

 山田はお金にきれいな孫文についてもこう言っている。
日本に亡命して頭山さんの隣のカイヅマ邸に居を置いていたころだった。日本の警察が日常行動を監視していた。
 孫さんの荷物は大きな柳行李がひとつあった。
 あるとき開けて見ると本がぎっしり入っていた。中には金銭の出し入れをきちっと記録したノートもあった。しかも孫さんはお金には絶対触れることがなかった。地位が昇れば金(賄賂)を懐に入れる人間ばかりだが孫さんは決してそんなことをしなかった。革命資金は公(おおやけ)の為の資金ということが孫さんの考えだ。だから民族を越え世界中から革命資金が寄せられたのだ。
 
加えて笑い話のようにこう付け加えた。
 孫文先生の亡くなった日のことだ。遺言を残さなくてはならないだろう、ということになり孫文先生の病室の隣で話し合うことになった
 そのとき二通の遺言がつくられた。一つは「余は国民党を遺す…」といったもの。もう一つは家族に宛てたものだ。その中で「自宅を遺す…」と読み上げられた途端、皆から笑いがもれた。なかには涙顔で笑っているものもいた。皆はその上海の家がいくつもの抵当に入っていることを知っているので、そんなものを遺されてもしょうがない、というので孫さんらしい話だというのである。

 そもそも遺言そのものは書ける状態ではなかった。残された記録では慶齢夫人が抱き起こして云々とはあるが、そんな状態ではない。
 事実、そばにいた自分が知っている。 サイン(自署)はどうするか、ということになり長男の孫科が代筆することになった。孫科は「親父の字は癖があるからなぁ」と、幾度となく練習して“孫文”と署名している。
 
ところが翌日、新聞に発表された遺言は三通になっていた。その一通が『ソビエト革命同志諸君…』とあるものだ。
 当時、コミンテルンの代表として国民党の顧問として第一次国共合作に重要な役割を果たしたミハイルMボロジンと深い交流があり影響下にあった汪精衛が出したものだ。
 しかし、遺言は重要なものだし、だれがどんな意図で書かれたかは後の問題だ。その後の国共内戦を考えれば孫文の余命を計って練られたことは容易に推察できることだし事実だ。たとえ歴史がどのように評価し、あるいはそれが事実だとして定着しようが真実はひとつだ。裏の歴史ではない。真実の歴史だ。

 支那の数千年の歴史の中で刮目すべきは、孫文先生は潔癖だったということだ。名利に恬淡だということだ。西洋列強を追い払い、アジアの再興を願った孫文先生は施政の方法論ではなく指導者のもつ理念を発したのだ。我田引水な忖度ではあるが、そのことについていえば国共両者の遺言の活用方法には意味はある。

 大事なことはこの理念を忘れたことが今までのアジアの衰亡の原因でもあり、この精神を備えるものだけが再興を担える資格があるといっているんだ。
 孫文思想といわれるものは、そう難しいものではない。 公、私の分別と、正しいことへの当たり前な勇気、そしてアジアの安定と世界の平和。そのために日中提携して行こう、ということだ。遺言のことは蒋介石も知っている
 
佐藤は伯父から聞いた話として、台湾の国民党重臣に遺言にかかわる真実を伝えている。山田は一人歩きをした遺言についてこう語っている。

「孫文の精神が民衆のために活かされているなら、だれが作ろうが問題ではない」
また、

「孫文の正統を掲げられなければ民衆をまとめられないのなら大いに活用すればいいし、死して尚、その存在を民衆が認めている証左であり、諸外国がみとめる中国の理想的指導者像である」とも語っている。
 孫文の写真好きについても述べている。



上海に向かうデンバー号にて



「香港へ向かう船上でのことだった。“山田君、長い間日本を離れているとご両親は心配していることだろうから一緒に写真を撮って送ってさしあげよう”と、甲板に上がったら他に乗船している同志が集まって撮ったことがある。たしかデンバー号だった。みんないい顔をしている。」


 
そして…

「最後の船旅で揮毫をお願いした時のことだった。 『革命ならすぐにやれと言われればできるが字を書くのは苦手だなぁ』と、いいながら書いたものが、先生の絶筆になった『亜細亜復興会』だ。
そのとき孫さんは右手で『ストマックが痛い』と腹を押さえた。自分は “孫さんストマックは逆ですよ ”と言ったら『そうか…』といって黙っていた。孫さんは医者だが体を治す医者じゃない。天下を治す名医なんだ」

 佐藤に語るときの山田は記憶をたどりながら孫文との思い出に浸っている。とき折、瞳は潤いを増し虚空をさまよっている。
 それは猛々しい革命家の姿ではない。兄、良政と共に挺身した孫文への回顧とともに、師父に抱かれ育まれた志操の遠大さに、我が身をどのように兄と同様に無条件に靖献できるかを巡らしている弟、純三郎の姿である。



 靖献(せいけん)
   心安らかに身を捧げる



________________________________________
【ミニ解説】 孫文の遺言
 余、力を国民革命に致することおよそ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあった。40年の経験の結果、わかったことは、この目的を達するにはまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、共同して奮闘せねばならないということである。
 現在、革命はなお未だ成功していない。わが同志は、余の著した『建国方略』「建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続いて努力し、その目的の貫徹に努めねばならぬ。最近われわれが主張している国民会議を開き、また不平等条約を廃除することは、できるだけ早い時期にその実現を期さねばならないことである。(要訳)

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貪りから亡国へ導く「法」という代物

2023-02-17 02:02:27 | Weblog

法は、いつでも、幾つでもつくれる。だが社会の煩いは増大する。
しかし家族、教育、政治、職域にある狭い範囲の掟や習慣が壊れたら再生には百年かかるという。易きに流れる利便への誘惑は人間そのものを融解させ、社会の調和や連帯を失くしてしまう。食べ方、行儀、悪くなるのは一代だが、再生(矯正)には三代、つまり半世紀以上掛かるという。

ちなみに、ある程度の人が問題意識を持っている社会風俗もそうだし、あの受験戦争も同じだ。
そんな時間をかけられないと、維新や革命が風向きを変える
その場合の体制法規はご破算になる。
レーニンも毛沢東も総て白紙にした。そして都合よく色つけた。

ところが、みんなで決めた法はどこかユルミがある。それを是とする生身の人間の智慧ではあろうが、切り口が多様で解釈が煩雑なら、弁護士をはじめとする法によって禄を食むものにとって都合の良い市場になる。ちかごろは準法と化したコンプライアンスという自縛を駆使してコンサルタントがそれを煽っている。

法は人間生活のいたるところに浸透して解決もそれに委ねている。成文法という書き物に蹂躙され、肉体化された経験則は無意味なものとして除外される。それは親子の伝承や教師と生徒、国民と政府にも乾いた関係を作り出し、人情の交歓や他との信頼などは無くなり、人は個別化しつつ分別管理されるようになった。

またまた、小難しい理屈のようだが、法一つとっても、いつの間にか慣らされてきたようだ。昔は「法のそばをウロウロする奴はろくな人間ではない」と年寄りから懇々と諭された。「法のお世話になってはいけない」ともいわれた。ついでに金を弄る(いじくる)人間も別物といわれてきた文化もあった。

浮俗では総じて色と財の争いごとが法界の土俵に上がるが、生産性のないこの種の支出は、一方で所得生産や手数料、罰金などの分野として莫大な資金流通を生み出している。
「禁ずるところ利を生ず」とは隣国の法官吏の収益増大の狡知だが、どこも一緒だ。
「法」を作れば「利」が公明正大?に徴収される。それさえも御上を欺けば賄賂となる。

いまはウッカリすると直ぐ罰金だ。知らなければ悪で愚か者だといわれる。
彼らにとっては、お陰さまで・・・と、その徴収量を陰で数えている。







ラダ・ビノード・バル判事



どうも法で金稼ぎするようになってから、この国はおかしくなった。
たしかに「法のそばをウロウロする奴はろくでもない・・」昔の年寄りは分かっていた。

その年寄りの話題は、年金、介護、蓄財、カラオケになった。
ひどいものは、懐も乏しい政府にオネダリをするようになった。

どうもスローガンは金になるようだ。
人権、平等、民主、平和、そして待遇改善、弱者救済、みな金になる。

「上下交々、利を獲れば国、危うし」

「小人、利に集い、利薄ければ散ず」

「小人の学、利にすすむ」

「利は智を昏からしむ」



それらの愚か者が法匪にそそのかされ小利を獲得し、膨大な手数料とカスリを持っていかれる。患いの種となった法も棄てればいいものを、いつまでも滞貨するものだから、政治家の立法も整合性を盾に法官吏に翻弄される。いわんや、それを遂行する智慧も勇気もない。

護られていると思えば、どっこい自縛である。たしかに檻につながれている犬はよく吠える。野山の犬は、イヌらしい顔をしている。座敷イヌは良くなつく、餌があるからだ。しかもパブロフのイヌのように習慣性もあり、おとなしい。だだ、世間に向かっては騒がしい。そのせいか、政治家も法官吏に良くなつく。

法は厳存するが、智慧がなければ僕(しもべ)となり、超えられないトラウマとなる。そこには人間の尊厳を毀損するであろう危惧は見えてこない。

国家は複雑な要因を以って構成されているが、異なる人間の連帯と調和(構成)は「法」の専用だけでは生まれない。いわんや「法」は、たかだか人間の智恵から定められるが、「法」から智恵は生まれない。法がなくても自律、自制は自ずからある。多くは自省自得からだ。それ無くしては法の有効性すら整わないこともある。国家でさえ人生同様、栄枯盛衰の反復もあり、その都度、政治はさまざまな立法する。だが煩雑になりすぎて執行が縛られ、立法効果が生まれない運用自縛に陥っている政策もある。整理するにはまた法律を作らなくてはならない。

愚か者の増産と法匪の増殖は、狡知を育んでも賢者の生ずる土俵はない。「国敗れて山河あり」とはいうが、いまは「山河在りて、人心は微かなり」の様相である。

それは、護られているようで、縛られている「法」意識のように、法執行者である国との取引勘定しか描かない人間の増殖でもある。


これだけ法で喰っている人間が多いなか、守られているのは喰っている人間たちで、食われているのは、「法の傍をウロウロするのはロクデモない奴等」と教えられた善男善女なのだろうか・・

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床の間の石と神の磐座(いわくら) 15 11/4 再

2023-02-16 13:10:03 | Weblog

青森県 北方の鎮護 岩木山神社にて

 

 全国津々浦々(各所)には数多の神をまつる社がある。

多くは観光名所や、流行りのパワースポットとして今風の信仰の対象になっている。

 主となる御祭神がどこにあるかも解らないが、この場合は神社側の説明責任などは問うたところで始まらない。

 神はあうい(葵)のあるところに降臨するとは京都上賀茂の上賀茂神社の別雷(ワケイカズチ)の神だが、それが神殿に鎮座しているとして木製構造物に首を垂れて祈る。

 

 

 あるいは産土神として郷のいたる所に祀られた神もある。大木や大石(岩石)、海の龍神、山の大神もある。昔は各々の郷におびただしい数の産土神があった。またその周りは掃き清められ、樹木で囲んだ。

 スギやクスノキなどは侵さざる神域ゆえ、空を突く大木になった。明治の合祀によって多くの官幣大社が建立され産土神への参道や囲い樹木が伐採された。雇われ神官や業者、狡猾な官吏が結託して巨木を切り倒してクスノキは樟脳にして輸出、杉は住宅材として転売された。

 したがって人々は大社に参拝するようになり、敬神講などに括られて神札(かみふだ)を買わされ、各戸の神棚に並べられた。

 それまでは近在の郷に行くまでに、しめ縄をはった大木、路傍の道祖神,切通の奇岩、遠目でみる山々に、その都度、頭を垂れ黙礼した。そこには家内安全、交通安全、商売繁盛、合格祈願、などの願目はなく、だだ、心を譲る礼、つまり自然界と一緒に暮らす調和と生かされているとする謝意があった。

 ここでは頼ることでなく、任せて生き、生命を活かす、己の汚れなき良心の確認でもあった

 

 

 軍神 児玉源太郎を祀る江の島児玉神社 建立費の70%は台湾より献納された

 

翻って、人間界にも人造神がある。

 宿命的な出自、運の作用で経た経歴、それを利の用とした地位や、財産の多寡、その手段としての官製学校の在籍履歴など、現世利益価値に包まれた成功価値をまとった憧れた人間像がある。

 またスポーツ選手や芸能人もその類になり、その種にあこがれを抱く人びとにとっては、神のような存在である。神社の下げ札はないが、チケットや写真、CDなどが稀な品として神の物語を作り上げている。

 学問の世界では、外来の賞状、とくに神の由来と同じく古い格式や伝統ある組織のお墨付きが幅を効かせている。

 そのお墨付きは、箔つけにもなり金にもなる。ノーベル、ユネスコなどが代表的だが、学問や観光の功名神を造成している。

 

 縁談(出会い)は出雲、縁きり榎の神もある。武運長久は鹿島立ち、受験は湯島大社、国運は伊勢神宮、なかには口や耳などの器官の治癒を願目にしている神もあるが、隣国の道教並だ。なかでも流行っているのが金儲けの守護神だ。財布の護符、ストラップ、ブレスレットなどがあるが、総じて原料は石と神と木材だ。そこに神が宿っているらしい。

 

 西洋も似たり寄ったりだが、和芸も人間国宝がある。車でいえば形式認定のようなものだが、舞踊、茶道、剣道、柔道などの、道を掲げる世界にも神業(カミワザ)を駆使する巧者がいる。その道を内心や外部にどのように活かすかは人の問題だが、技巧だけでは神のような重き人物には成れない

 よく、知った、覚えた類の知力と有名人との交際で名声を博す人間がいる。人が集まり、金も集まるような営みをする売文の輩や言論貴族もいる。あるいは古典の無断拝借で口耳四寸の学を披歴する知識心もいるが、総じて床の間の石のごとく、座りのよい(安定性のよい)姿を装い、反知半解の学徒を下座に並べているものもいる。

 原典主唱者である先哲からすれば忘恩の徒のような、古典解釈学徒でしかない。

 それらが床の間の石でいられるのは、下座は下座なりの序列と、床の間に近い席順にあるようだ。

 謦咳に接した、弟子、だと冠をつけた虚飾学だが、土壇場ではものにならないものが大多数だ。

 

 

小会 郷学研修会にて

佐藤慎一郎先生

 

よく、このブログで紹介するが・・・

「我、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

「物知りのバカは、無学の莫迦より始末が悪い」

これは日本人が異民族の地で試行した満州崩壊時の官製速成エリートの実像だ

 

そして現在も続く

「利は智を昏くする」

(名利を学に求めると、本来の智が衰える)

「小人の学、利にすすむ」

(小者の勉強は、すべて人格を代表しない附属性価値である地位や財に向かう)

「小人、利に集い、利薄ければ散ず」

(小者は、利のあるところに集まり、利が無くなると離れる)

 

 郷の人々が産土神に祷った、邪心におかされない汚れなき良心(徳心)の守護などは見る影もない

 しかも、自らの立つ処、それは磐座であり、他所に探し、願うものではないとは考えない。

 「随所廟堂」外部においては随所(あらゆるところ)に学ぶべき事柄があると先哲は云う。

 神は、示すと申すと書く。示すは行動、申すは言葉、「モース」粋人は聖人モーゼがいると面白がる。モーゼは本来モーシェと言うらしい。

 つまり、神は心の心宮にあり、己の立つ処は磐座であるとの意志を持てと諭された。

 そして、現世に崇める床の間の石を、他山の石として善悪を照らしなさいと説く。

 

 付け加えて先哲は「聖人にも欲情はある」と和らげる

 清俗は共々に内在するゆえ心が忙しいことのようだ。それは喜怒哀楽との同衾だ

 そういえば安岡正篤氏の手紙にも「清俗両忙に打ちすぎ・・・」とあった。

 まだまだ、想い出で話にするには惜しい。

 あの死せる諸葛(孔明)が生きる仲達を走らせた逸話もある。

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強制学習は必要との観点に立った小学論   11 10/7 再

2023-02-14 00:58:20 | Weblog

   


2000年12月11日(月) 萬晩報掲載


義務は義の勤めだが義が判別できなければ必要性もない。ここでは人間の成長

過程にとって強制学習は必要との観点に立って小学を論じてみたい。


小学、大学』は知識人の基本的な素養であった四書五経のひとつにでは有る

が,現在では官制学歴のなかでの一部分を指しているだけで、説かれている意

味を内包した理解ではないようです。成長年齢にしたがって小から大になるの

ではなく、大にあっても小を観るといったことも小学,大学にはあります。


簡単に言えば小学も大学も人生の連続性のなかにおいて、つねに存在している

ということです。たとえば世界の国々はおおむね6歳になると、それぞれの国

が定めた制度のなかでの教育がはじまります。ここでは施行しているかどうか

の論点ではなく、成長過程のなかでの6歳という時期をどのように考えるかと

いうことの共通した考えがあるということです。


小学に戻りますが、人間は生まれたと同時に自他の存在が発生します。まずは

母と父です。その後、見るもの、触れるものから多くの他を知る事になります

が、まずは自分は人間だということを認知します。


そして人間なら父母や、関係のなかから長幼、学びのなかから子弟、あるいは

友の存在から自己の位置や特徴の分別を行い、全体のなかの一部分である『

』を知るようななります。いわゆる他の存在をを認めるところから自分は何

であるかといった問題意識も発生し、特徴に合わせた目標やそれに必要な知識

技術の習得欲求が生まれます。


このように父母、長幼、子弟、朋友、あるいは自然界の観察といった習慣学習

は、他と違う自身の特徴を知る上でも重要な事ですが、そこから生ずる相手を

思いやる気持ちや、不合理に対する疑問、あるいは全体の一部分として参加し

ている社会の存在を知り、そのなかで自らを表現したりするために活かして生

きるといつた『生活』が始まります。


生活には知識や技術も必要ですが、それを習得する大前提となる『自分』を知

る習慣学習が小学です
。ですから知識技術を振り回し高位高官になっても再度、

小学に立ち戻らなければならない人もいるのです。また小学の具体適な例でも

ありますが、6歳で小学校に入学しますが、それぞれは異なった環境から学校

という集団に参加します。


家庭環境も違えば身体能力や集団に否定的(不向き)子供も集合します。その

なかで調和、協調が必要となりますが、もし自他を認知する習慣学習が欠落し

ていたらどうなるでしょうか。あるいは教師が当然、小学校に入る以前の父母、

長幼、自他、朋友の分別如何を前提としていたら現在の状況には至らないはず

です。もしも世間で耳障りよく謳われている人権、平等、ゆとり、といつた観

点のままで子供を見ていたら状況は変わりません。


中学になっても,あるいは成人式に携帯電話が飛び交ったり、私語で会議が成

り立たないような慎みがなく、思慮や問題意識が錯綜している落ち着きのない

国情の原点は,教育基本法でもなければ,誰でも陥る遊惰な民情だけではなく、

学問の大前提は「人間は先ず禽獣ではない」と士規七則を表した松蔭の言を借

りるまでもなく、小学校と言う小社会に参加した時点で強制をもって『矯正』

しなければ道は拓けません







官製学の欠陥を指摘して「郷学」を提唱した安岡正篤氏







もちろん教師の全人格と熱情による感動と感激しか効果がないことはもちろん

の事、ましてや組織やシステムを解説したり習慣化しようとしても無理な事な

のです。


意志の如何はともかく人間は強制してでも学ばなければならないことがありま

す。社会人になって地位、名誉、財力、学歴といった附属性の価値に汲々とし

たり、ものめずらしい一過性の流行ごとに群行群止する衆愚の生産はここでい

う『小学』といった習慣学習の認知如何といっても過言ではありません



その後の思春期の問題意識の発生や『大学』の自らを明らかにするといつた過

程は、積み重ねなくては生まれるものではありません。平凡社の創始者下中弥

三郎は文部大臣の委嘱の要請に「国立大学全廃、小学校の教師、校長は人生の

酸いも甘いも経験した人物で学歴、年齢を問わず。一番の高給を支払う」との

条件を出したと言う(子息 邦彦氏談)。いかに小学の意味を理解していたか

がわかる。


また,明治は尋常小学校と名づけ「つねに平常心を養い,うろたえず,騒がず、

を小学の根本教育」においていた。それは時代劇にある「尋常に勝負せよ」と

いった生死のやり取りにおいても感情に流されず平常心をもてということだろ

う。

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似て非なる民族の「利」なれと゛ 08  6/13 再

2023-02-10 01:16:02 | Weblog


      中華人民共和国成立 天安門楼上



大学教養という錯覚学

新聞の正しい論というコラムに、大学教授が昨今の東アジアの新しい潮流、「イデオロギーから実利主義へ」と題して健筆を振るっていた。

その章に、「政治から経済への転換・・」、そして、「イデオロギーないし原理主義から現実主義ないし実利主義への転換・・」と、章をつないでいる。

よく政治家を観察評していたとき、「あの政治家は人品骨柄が卑しい」と評論家が語っていたことがある。まずは政治家が主役で手を挙げて選ばれる政治家への評としてはその通りだろうが、政治の目的とする側からみれば、「近頃は人品骨柄が卑しいものしか政治家になろうとはしない」と返したことがある。

大学教養とは、自らの特徴を発揮して自己を明らかにすることだ。特徴を発見して目的を明確にして方向を定めるのは、それ以前の問題であり官学制度からすれば中学か高校生の作業だ。
また、己を活かす存在を認知する、つまり「自分」の「分」である全体の中で役割を知るのは、感応する意識が敏感な思春期に行われるべきことで、動物界とは似て非なるバーバリズムを、「知の囲い」が緩い少年期の素朴、純真の残像がのこる少年期におこなうことでもある。

妙な言い回しだが、「知の囲い」は、情報という言葉に代えられ、その伝達方法が時の速さとなり、拙速かつ浅薄に「知」の充足感となっているようでもある。

冒頭に戻るが、イデオロギーから実利ではなく、実利のためにイデオロギーを「用」とすると観るのが彼の民族を考えるには適切と考えるのは如何だろうか。
それなら「実利」とは如何様なものだろうか。
学術的(アカデミック)なグランドでは忌み嫌われそうな文言だが、その根底は、「色」「食」「財」を以って人を随わせるという、至極明快な「利」がそこにはある。

それは、「利」についての諺、あるいは多様な意味を含んだ文献や俗諺が多く存在していることでも分かる。我国に当てはめてみると、言いようのない気分にさせられる。はたして他国を語れるか、と。

【言論界、マスコミは、政治家は】
利は智を昏からしむ」      《利のみ考えると智が偏狭になる。走狗に入る知識人》


【ビジネスはどうか】
小人、利に集い、利薄ければ散ず」   《小者は利に集まり、薄くなれば離れていく》

【金融家は】
小人は身を以って利に殉ず」(荘子)   《利の為なら道理も無く死んでもよい》

【これを推し進めている親はどうか】
小人の学は利にすすむ」(文中子 天地)   《小者は地位名誉、食い扶持のために学ぶ》

【選挙スローガンは】
君子は義に喩り、小人は利に喩る」(論語)   《指導者は道理を重んじ、小者は損得に走る》

【警察はどうか】
禁ずる処、利あり」   《禁止する法律を作れば罰金、賄賂、天下り、権限が増える》

【公務員はどうか】
およそ私するところ、みな利なり」   《公益なく総て私欲な状態》
利は貪なり」(広雅)    《利の心は貪るようになる》

【社会の真の富とは】
利をみて義をおもう」(論語)

【国益とは】
国は利を以って利となさず、義を以って利となす
《目先の利が本当の利ではなく、国家の良識に随った利が本当の利である》

【国家社会の有り様】
尭桀の分、利義に在るのみ」(漢書)
《治世の善悪の分かれ目は、目標を「利」に置くか、「義」に置くかで決まる》

【国民の欲望の自制が無いと】
上下、こもごも利を征(と)れば、国危うし」   《政治家、知識人が利をとれば民も追従する》

【本来ある「利」の在り方とは】
利は裁制」   
 《利は行き過ぎを押さえ、足りない点を補い、ほどよく切り盛りをしながら育て、活かす作用がある》

【そして当然ながら「利」の姿として】
利は義の和なり」(易経)     《正しいことの総和が本来の利である》

これが、「色」「食」「財」の欲求に関した「実利」の多様な姿であり、実態である。
スローガンだが、彼の国は「ハナシ」と視る。
それは孔孟でもその具となる。漢籍好きの御仁には酷な例えだが、漢字影響圏においては孔孟も実利の具となる。なぜなら彼らの身近には「道教」という実利が存在している。
砂のようにまとまりの無い民族といわれ、その集約には「利」と、狭い範囲の「情」が必須なものとして存在し、かつ為政者の専制強権が必要となる。

在中国二十年の師が香港で毛主席の先生と称する人物と会ったとき、
毛サンはマルクスレーニン主義を掲げる共産主義をあまり知らないようだ。ただ砂のように纏まりの無い民を率いるには中国的解釈の共産党独裁でなければ治まらない。スローガンは何でもいい、専制、つまり力の有るものが善という考えだ。また北方の熊の衣を着ていれば暫くは熊も来ない。中国の敵はいつも北からだ。毛さんはよく中国人を知っている。」

専制で国内にいる内はいいが、西洋の自由だ民主だとなったら為政者の制御も無くバラバラになってしまう。国家なんて無い、住む場所は天と地の間ならどこでもある。世界中が住処になる。みんなで国を食い荒らし、自由と勢いがあれば世界中に飛び出していく。その意味では欲望に従順で、しかも際限が無い。ただ分かり合える人情は世界一だ。それは人の観察に長けているからだ。

力からいえば個人は虎だが、集団になったら猫のように弱い。日本はその逆だ。また、その際限の無い欲望は外来のものを同化させる力がある。元、清も今は無い。日本は早く帰ってよかった。俺たちにとっても日本は大切な国だ、残しておきたい。」

イデオロギーは「ハナシ」と見ている民族は、ト小平の四つの近代化「四化」を同音で「四つの話」と呼んで、「あれはハナシ」とみている。「化」と「話」は同じオンである。また「小平」と「小瓶」が同じオンなので、小瓶を壁にぶつけて割ったりして憂さを晴らしていた。まず警察と国家は悪いことをして苦しめるという潜在的な怨嗟がある。

日本からすれば賄賂、汚職と騒がれるが、賄賂は「人情を贈る」と文化になっている。西洋もチップで生活する人もいるが、人情の潤いとまではいかないようだ。

ともあれ似て非なる民族の性癖の上に成り立った実利主義である。またスローガンを飲み込む柔軟さと許容が歴史にはある。ただ欲望に自然に向かうか、控えめに向かうか、どうも近頃の日本は同化しつつあるようだ

中国に進出した日本人の欲望の同化を憂慮して「日本は大切な国だ、残しておきたい」と言った古老の言葉を待つまでも無く、「真の日本人がいなくなった」と側近の山田純三郎に述懐した孫文の意を、どう隣国との交誼に活かすか、まさに、「真の実利」を再考しなければならない時機だ。

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あの時の企て 8 11/17 再

2023-02-08 15:12:44 | Weblog

             

               佐藤慎一郎氏


これを以て他国の生存を懸けた謀を悪意と言い立てるものではない。歴史は国家の創生とともに複雑多岐に要因と、情緒的には陋であるが民族夫々に涵養された精霊の存在なくしては語れない。

しかも座標の定まらない放埓した言論は、切り口の異なる奇論や高邁にも人格とは何ら関わりの無い附属製価値を金屏風にして判例の如く、一過性と思われる定説?を作り出している。

近頃はオーラルヒストリーが流行りだが、それとて曖昧な言辞としてその手の言論界に布かれた掟を覆すことなく、発言者の肉体的体験証言を虚偽、錯覚の範疇に追いやっている。


           
        辛亥革命の先輩山田純三郎と若き蒋介石


あの孫文の側近であり唯一宋夫人と臨終に立ち会った山田純三郎の言辞さえ、定説に添わないというだけで、歴史の章から外されている。
「孫先生があの時決断した理由は・・・」
山田の回顧は臨場感がある。

じつはこの資料は山田の甥である佐藤慎一郎氏から寄託されたものである。
「人々が落ち着きを取り戻し、真の日中善隣厚誼が図れるときこの資料は、『互いに難しい時期を一生懸命生きた』と、互いの反省と敬意を踏まえて語れるようになって欲しい。それが叔父や孫先生のアジア安寧に懸けた願いなんだ」


戦後の検証本は必ずといってよいほど、「コミュンテルンノ謀略で戦争に誘引された」と識者は云うが、その曖昧な表現は専門研究者ですら奥歯に物がはさまった章を重ね、因の根底にある問題を明確に表してはいない。

実はこの関係資料を古老元共産党員である兵本達吉氏に問うたが、解読不明。かつ氏は数多の研究本を紐解き検索したが、その記述は見当たらなかったという。

この兵本氏は代々木の旧共産党本部の建設時に委員をしていた。どう考えても資金は無いので不思議に思っていたら、袴田氏が三億円持ってきた。「どうしたんですか・・」と尋ねたら、「○○国の共産党から援助された」
そんな古い逸話を知っている除名共産党員である。


戦後検証と称して紙面に連載している新聞社、公共放送、あるいは新聞社から依嘱して貰った大学教授すら解読できなかった。

なぜなら人の吐息が感じられる臨場感があるため、資料として取り纏めされてないものについては西洋的整理、分類、検証には馴染まないため、異民族の性癖、習慣、などを加味しなければ読み取れない「謀の展開」が読み解けないのである。

なかには、吾が身の危険を感じて、安全定説に隠れる当世知識人の倣いもある。

ともあれ、このような資料は眺めることから、登場人物の臨場感を引き寄せることが必要となってくるが、始めから覗き、反論の具と考える向きは歴史活学、ひいては異民族との交流史にみる人間の行を、単なる文章化して、゛知の位゛を得るだけに堕してしまうだろう。

何よりも記録のために歴史は作動してはいないからだ。




・・・・・・一部抜粋

第二組 情報整理


そこで、わたしは王に提言する。
主任弁公室をつくり人事、経理、庶務をやることに提言する。
陳 適生(王のいとこ。学歴は無いが、口が堅く、頭がよい)
陳はわたしの言うことを聞く。その下に王の親戚を入れる。
第一組の洪はそのまま残したが、実権はなくなる。
そのため、わたしは一切の情報を見ることができた。

あとで日本は真珠湾攻撃をする。わたしらは 三 週 間 前から知っていた。 ☆


                


  この情報は、上海満鉄調査所の 中西、犬養 → W(中国人)→□ 恩承(汪精衛の上海駐在のとき汪の立法委員をしていた)→顔高地(無電暗号で重慶によこした) Wは□とも王とも呼ばれているが、現在も不明。

 わたしは戦闘の上から下までを知っていた。総司令、寺内など知っていた。
いつやるかは判らなかった。
いつやるのかと上海に聞いてやった。
10日ぐらい前に、12月8日やると返事。
日本軍の決定より先に知っていたのは今もって不思議である。

それで夜半わたしはこの情報を蒋介石委員長に届ける。
翌日、王は米駐在武官が、常徳会戦の戦跡を見たいといったとき、
王は、「芝居がすんだ舞台を見るより、面白い芝居上演がされるから暫くまて、と、今後の舞台は、もう中国ではない。君らのほうだ、と」
武官はこの話を真面目に取らなかった。
「王は日本の参謀総長でもないのに、日本軍の配備まで知っている」と、笑った。ところが、的中した。 それで王は世界的日本情報の権威者となってしまった。

日米開戦となり、国際的情報機関(米、英、中、合作の機関)をつくりたいからと計画される。
王は中国を代表して入ろうとしたとき、英はこの案を蹴飛ばしてしまう。
米と一緒にやっては、情報がバレてしまう。秘密が守れぬ国だと。
中米機関(成立したかどうか解らぬ)
中英機関(王とFindle andrews駐英大使館一等書記官)
中ソ機関(漢口時代から有った)1 フィトロフと楊 宣誠
2 〃 と張 冲 (死亡)


中英機関の正式名は、『 軍 事 委 員 会、 国 際 問 題 研 究 所 顧 問 室』
顧問室の下に、
第一処長 羅
第二処長 馬 天劉(現在、ワシントンの大使館にいるはず)
第一処内部機関
第一課長 平澤 蔭(不明、共にあらず)総務、秘書、人事、経理
外部に派遣および工作
第二課長 伊 華公(元 佛印領事)整理
第三課長 鐘 奇 (不明)研究

外 部 機 関
第一区 東北、華北
◎主任 顔 高地(どこに居るか判らない、中共にいるとおもわれる)
☆→ ここのみは、もともと王が直接、建設した組織である。ここの内部のことは 一切聞かないように命ぜられていた。

第二区 華東
◎主任 □ 侃曽(終戦後、唐山市長をやり国民党に殺される)  
☆→ 始め第二区は徐 明誠の推薦で張 子羽(張 叔平のこと)終戦後 今井? と□ 江で会議した人。現在 香港にいる。父は清末の吏部尚書の張 伯煕 湖南人

第三区 華南
◎主任 徐 明誠がやり、国際…から、わたしが出てから徐と、張 子羽と一緒に第 一区をやる。

第四区 西南
◎主任 張 紹楚 共産党、現在不明

第五区 東南アジア
◎主任 陳 海平 華僑、現在不明


第二処 翻訳(英文に直す)処員 15名
顧問室事務長 越(蒙古の老人) 顧問室内の会計 庶務
副 〃 陳 鉄錚(元 代表団三組副組長 現 商人 東京)


           

第一区はもともと ゾ ル ゲ機関、ところがゾルゲが検挙されて、まもなく顔の上海電台も日本憲兵から手入れを受ける。 検挙しておいて、皆、放免する。
条件は『日本軍のつくった情報をそのまま重慶(国府軍)に打電せよ』
一例 “日本は何月何日、対ソ戦争を始める”世界にこの情報を流せ。

わたしは第一処を別に作る。(王に隠してやったが解った)
羅の上海主任 徐 明誠(兄)共 現在、香港の文□報の主筆(徐□成)は弟 わたしは周佛海の周辺から情報をとる

日本の河南作戦直前、ソ連のスターリングラード作戦中に、王はわたしを日本のスパイだと言い出した。
わたしは研究所におられなくなる。ところが英は承諾しない。
結局、英はわたしに個人的に組織し、経済的に援助するといってきた。
軍令部に伺いを立てたら、やってもいいというので、国際知識社という個人機関を作り、「国際知識」という雑誌を出した。
一方は軍令部(顧問)、もう一方は英と契約する。
経費は英より金条で、月百本 一本は100匁
軍令部から権威をもらい、英から経費をもらってやる。その組織は、第一処そのままである。

日本では和平工作のことを、中国では誘降工作(ユウコウ、友好と同音)といっていた。
蒋介石はすべて平和を口にするものは漢奸といっていた。
それで、日本の和平工作のことを重慶にいった人は誰も口には出せなかった。
中国共産党は、和平工作をできるだけ、反対、破壊をした。
中共のやりかたは自分の手でつかんで、破壊する工作。いわゆる、自分ですすんで和平工作をやって、結局、いよいよという時に、破壊するやり方をとった。

孔翔キ、張群、重慶の大公報 張李鸞の周辺はいつも共産党に取り巻かれていた。
なかでも張李鸞は直接、香港で交渉したので、日本も乗り気になっていた。
例えば
徐明誠は張李鸞工作に直接参加して、情報をわたしに持ってきた。

日本側は、近衛は天皇の意志を奉じて、各重臣の賛成を得て実川を奔走させている、と。

当時、青山和夫の意見は、天皇、廃止論
青山は、国際問題研究所に勤務していた。軍事委員会の正式な顧問団の一員として招聘されていた。 王が連れてきたもの。
集めた情報の判断を青山がしていた。頭は鋭い。鹿地よりずっと上席。
鹿地は騒ぐだけ、山師的。
青山は重慶の米軍と関係を持っていた。

国民党中央宣伝部に対敵工作委員会があり、天皇に対する最高政策はここで決めていた。この委員長は、宣伝部部長が兼ねてやった。部長は薫顕□、呉国権らがやっていた。


             
           苗剣秋夫人 1988,12 台北 剣秋氏療養中


 委員は、軍司令部第二庁々長 鄭介民、外交部亜東司令長 楊 雲竹
政治部第三庁々長 郭 沫 若 研究所 王 梵生(王を代表して出席していたのは謝 南光 軍令部顧問として羅 以上のようなメンバーである。

天皇廃止論は青山の意見に一致しかけた。

 わたしは
「中国は、日本を滅ぼすつもりならそれでよい、でなかったら日本をまとめる力が 要る。天皇だ。天皇のために戦う日本兵である。天皇からやめろと言われればやめる。」

  青山の主張は、
「日本の天皇は大きい専制力を持っていて、ロボットではない。総理大臣は元老の言によるが、天皇の意志に反して推薦はしない。
それに、天皇は三井、三菱より大財産を持っている。三井、三菱の中にも天皇の財産が入っている。天皇の特務機関は頭山である。 頭山は破壊をやっている。 司法当局も頭山の身辺には及ばない。身辺が危なくなると宅内者から逮捕してくる。うやむやに済ましてしまう。
天皇はロボットではない。将来、日本を民主国家にするのなら天皇を倒さねばならぬ。

 
結局、わたし(羅)の意見でまとまる。
それで、和平工作は天皇のやっていることは承諾される。?

 今一つの困難は、蒋介石の平和を言うものは漢奸とする問題である。
蒋介石の意志は、日本にだまされては困るというのが本意である。もう一つの問題はそのことによって、英米との援助関係が壊れては困ることである。
わたしは英と相談した
その当時、日本からヒデキをやっつけろという情報をしきりにあり。
わたしは、東条英機をやっつけろと解釈した。

結局、英米は日本和平工作に賛成をした。 わたしは徐に返事をした。
第一 天 皇 親 政
第二 満 州 事 変 以 来 お こ し た 、 責 任 者 を 日 本 の 手 で 逮 捕 す る
第三 天 皇 は 正 式 に 英 米 華 に た い し て 、 平 和 を 求 め る
この条件を日本が飲むかどうか、それによって次の返事をする、と。
日本は同意したが蒋介石の正式な返事を要求する。
日本が誠意を示すために、東条をやめさせるつもりであるが、後任として中国が希望するなら、推薦してくれ、といってくる。
東久邇内閣にすれば、蒋介石の正式書面を出すといってやる
軍令部の鄭介民らの主張であった。


・・・・

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陛下は横田に忠恕の心を語った 2010 あの頃

2023-02-08 00:05:46 | Weblog




ブラジル入植者とその子供達の謁見だった

横田は言う
「それまでガヤガヤしていた子供たちだったが、陛下が入室すると皆引き締まって整列した。普段はそのような訓練など受けてはいない子供たちだったが、みな真剣な眼差しだった。」

横田は代表してこう述べた
「私達はブラジルに移住した日本人を代表して参りました」

陛下も皇太子のときに訪伯してカイザル大統領と面会している。そのとき大統領は皇太子に感謝の意を伝えている。
「不毛の大地といわれたセラードを豊饒の大地に転換させたのは日系ブラジル人のたゆまぬ努力によるものです。勤勉で忍耐強く、しかもその土地の人々に馴れ親しんで立派な成果を挙げブラジル農業に大きな貢献をしていただいた。その姿は畏敬の民として私達も誇りを持っています」

地球の裏側において異民族の信頼を集めたことへの大統領の感謝は、皇太子にヒトの大切さと、自然に習慣化された勤労と大地への真摯な取り組みを、異民族さへも普遍の精神として認め、自らの辿るスメラギの道にある忠恕心の同感具現とみたことだろう。

「私達はセラードから参りました」

陛下は意を得たように
忠恕の心を念じています

「忠恕」は自らの良心に問いかけて他(不特定多数)に思いを寄せる、つまり心遣いある優しさである。陛下は自らを律してそれを実践し不特定多数の公に奉じている。しかも誰も垣間見ることのない一隅において独り実践している。

横田はブラジル成功者として億万長者になった。一時は怠惰に暮らした。しかし、自らが見たセラードではみすぼらしい小屋に食料も乏しい人々が棲んでいた。
「何とかしなくては・・」
セラードは酸性の強く、まさに不毛の大地だった

横田は仲間とセラードにキャンプをつくり、土を手にしてモミ砕き、臭いを嗅ぎ、口に含み、そのようにして土の性質を感じ取り、゛これならできる゛と確信した。
誰も入らない熱帯サバンナの地である。





          

  初期ブラジル入殖者

                 


ブラジルへ渡るときのことを想いだした。
≪母は仏間に呼び寄せた。先祖に報告かと思ったら、母は仏壇の後ろから取り出した懐刀を横田に渡してこう伝えた。
これは護身用ではない。もし日本人として恥ずかしい行いがあったら自らこの懐刀で己の胸を突きなさい。もし日本に帰りたくなったら海は広い。船から身を投げなさい」

セラードで数年苦労したことで緑に変わる大地が眩しかった。
訪問した田中総理の英断で大きな援助もあった。

セラードは日本の数倍、莫大な食料をまかなえた。
しかし、あるとき彼等はあの時と違い武器でなく札束を抱いて襲来した。米国の金融資本と結託した穀物企業だ。

取引銀行は恐れおののき運営費用も遮断された。
〈 大地から取り出した富は投機家を通じて我々の金庫に収まる・・〉
まさにその通りだった。


彼等は札束の力でブラジルの法律を捻じ曲げ、外国人にも広大な農地取得の権利を得た。
政府は農薬で塩化した農地に莫大な融資をしてセラードを買いあさった。

横田は日本の助力もなく指をくわえてみるしかなかった。
しかも彼等の農法にある遺伝子組み換えは、将来に禍根を残すことを横田は知っていた。
それは横田の見ている前でその葉を食べた昆虫が大地に落ちる姿だった。
あのベトナムの枯葉剤を大量に製造した会社の製品であることも知っていた。

横田は言う
「私達は単なる技術や知識でこれを解決したのではない。先に渡った多くの日本人の努力があってこそ成功したものだ。何を遺したのか。勤勉、忍耐、正直、清潔、そして現地の人々との心からの融和だ。国の政策で予算が出て大型機械が備わっていても、働く人々との連帯や調和がなければ成り立たない。

「清潔」さは川の側にキャンプを構え沐浴したが、マラリアで全滅したエリアもある。
「勤勉」は作物と語ることができても商売が下手だった。「正直」は異端視されもした。
だが、そもそも在るべき人間の姿を忍耐強く勤労に励んだことが異国の大地が応えてくれた成果だと思う。そしてブラジルの人たちが驚きをもって日本人という民族を倣いの対象にしてくれた。日本の生きる道は日本人が真の日本人に倣うとき、その向上は始まる。私はいま祖国日本に感謝している。そして恥ずかしいことをしたら自らを突け、と懐刀を持たされたあの母の本当の忠恕がよく解るようになった。





        
                  
左2人目横田          右 麻生太郎議員(日本・ブラジル議員連盟会長)

「在任中(総理)、ブラジル大統領に同じ提案をしました」(モザンビークの農業計画)



 陛下の仰る忠恕は、受けての甘えであってはならない。厳しく律した意志ある人々によってこそ理解されるものだ」

いま横田は同じ経度にあるアフリカのモザンビークの熱帯サバンナをブラジルのように豊饒の大地にしようと準備に取り組んでいる。その担い手は横田の子供たちブラジル農民の二世だ。

「国の背景や資金も重要だが、もっと大切なことはモザンビークに真の豊かさを作り上げることだ。人々が仲良く、健康で、意義ある仕事に取り組んでもらいたい。時おり権力は人々の営みを制約し収奪することがある。また他国の悪意ある侵食もあるだろう。我々は目の前の人々に収穫の方法を伝え、共に天を見上げ大地に頬ずりする。そして多くの友を作ることだ。戦火を味わったモザンビークの人たちならわかってくれる。

幸いブラジル同様、旧宗主国はポルトガルである。言語も共通している。日本の農民の矜持とブラジルの試行経験を余すところなく伝えたい。それには人間だ。研究者、科学者はできるだけ少なくてもいい。現地の彼らと寝食をともにできるヒトが成功の鍵を握っている。
いずれ成功すれば投資や投機の群れが札束を持って跋扈するだろう。
大地の恵みはそのような成功価値を一時は受け入れても、必ず罰をあたえる。
大豆も馬鈴薯も青菜も面白いことに「ヒト」をみる。

そんなときは、許しを請うてお願いするしかない。
世の中もそんなときが来ないとは限らない」

世界中で農地の買い漁りが進行中だ。ウクライナ、沿海州、ブラジル、みな投機だ。
農地が開発され対価をもらって働かなくなり享楽にふける人々も東京郊外に散見した。国の力加減で資産を置いたまま投げ出された満州もあった。作物値段の高低で効率化を描くために減反補償によって民情が功利的に変化したところもある。

豊穣の地には群れが集う。しかし荒涼としたサバンナの一粒の種と忠恕ある人間の営みに、彼等は虎視眈々と、しかも指をくわえていなければならない。

なぜなら彼等はサバンナに住み分けられた人々の吐息と幸せ感を無意味にしか感じていないからだ。

横田は言う。
そこに 陛下が語った忠 恕の意味があるということを大地は教えてくれる」と。

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萬晩報 2023-01-16 水道法改正から4年、宮城県が落ちた

2023-02-02 02:46:18 | Weblog

 伴武澄 

約4年前、水道の民営化を促す水道法が改正された。この政策が進められると日本の水 道は外国資本に支配される。

そんな危機感から、高知市議選に立候補する決意を固めた。 すぐに耳に入ったのは浜松市の情勢だった。すでに下水道がフランスのヴェオリアの傘 下に入り、まもなく上水道も民営化されるというスケジュールになっていた。反対派の 住民運動は4月の統一地方選の立候補予定者に水道民営化の是非を問うた。自民党を含 めてほとんどの候補者は反対を表明した。

驚いた鈴木市長は記者会見を開き、民営化を 凍結すると発表した。住民運動のアイデアが功を奏したのだった。ヴェオリアは同じフ ランスのスエズとともに世界の水事業を二分し、水バロンと呼ばれる巨大企業だった。 次に分かったことは、高知市上下水道局にそのヴェオリアの子会社が入り、料金徴収業 務を行っているという事実だった。

県内に事業所がなければ、民営化の入札に参加でき ない。浜松市の場合はそうだった。そうか、高知の水道も狙われているのだ。でなけれ ば、高知市に世界的水道会社が進出するはずはない。

調べてみると、そのフランス企業 は全国180を超える自治体で料金徴収業務を始めていることが分かった。危機感は高まっ た。 数日後、高知市の西にある須崎市で下水道の民営化を進めていることが分かった。灯台 下暗しとはこのことだ。幸い、須崎市にはフランス企業は来なかった。国内企業のコン グロマリットが落札した。

トランスナショナル研究所が翻訳した「最後の一滴まで─ヨーロッパの隠された水戦争」 というドキュメンタリー映画のDVDを入手して、ヨーロッパでの反民営化のうねりの大き さを学んだ。実は世界の水道事業などほとんど知識がなかった。かつて世界規模で水道 が民営化され、今、その反省から公営に戻す運動が各地で展開されていた。パリ、ベル リンともに水道は市民の手に戻っていた。

イギリス労働党は選挙公約に水道の公営化を 掲げている。地方行政の大きな課題の一つが企業から水道の利権を取り戻すことだった。 翻訳の監修者、岸本聡子氏はその後、「水道、再び公営化」という本を書き、杉並区長 に当選した。

4月の高知市議選では、落選した。投票から3カ月前の立候補決断は遅すぎたかもしれな い。だが、水問題を市議選で訴えたのは間違いなかったという確信を得た。高知市議会 でも話題になり、上下水道責任者が「高知市の水道は民営化しない」と答弁した。

選挙後まもなく、仙台市の弁護士からメールが来た。宮城県で水道の民営化に反対する 運動を進めようとしていた。市民はおろか県会議員の多くは民営化の危険をまったく知 っていない。

それどころでない。村井知事は「水道民営化という時代の最先端」を走っ ているような口調で得意満面だった。世界的に見て日本の水道民営化が周回遅れである という意識さえ持っていなかった。シンポジウムを開くのでぜひ、高知市議選での経験 を話してほしいというのである。

ネット世界はすごい。仙台から高知市議選での僕の行 動や言説を見ていたのだった。 宮城県の市民による反民営化運動はうまく展開できなかった。選挙の争点にできなかっ たからだ。宮城県議会は、知事の進める民営化路線を承認し、くだんのフランス企業を 中心としたコングロマリットが公募で交渉の優先権を獲得し、一昨年9月、県議会でそ の企業連合による買収が決定した。昨年4月から宮城県は日本初めての民営事業となっ ている。今後、20年間という長い間、県民はこの会社から水を買うことになる。

万が一、 公営に戻したいと思えば、巨額の賠償金を支払わなくてはならない。買収契約に明記さ れている。一方で、宮城県水道事業を借金の担保にいれることや他企業に売却する権利 がある。 水道管の老朽化は、大きな財政資金を要することから、全国的課題となっている。しか し宮城県のコンセッション契約では、水道管の更新は宮城県の義務となる。民間企業は おいしい部分だけで経営できるのだ。

ある意味、令和の不平等条約といっていい。ちな みに、ヴェオリアが提案し、政府が導入したコンセッション方式のコンセッションの本 来の意味は「租界」である。水道租借地がこれ以上広がらないことを切に希望する。

問題は、浜松問題も宮城県問題も、マスコミで水道問題はあくまで地方ネタとしてしか 報道されず、全国的ニュースとして取り扱われないことだ。水道民営化が国民的議論と ならない背景である。

日本の水道民営化策は、ほとんどコンサルタントとしてのヴェオリアによって立案され、 実施に移されている形跡がある。何十年もの間、世界の水道事業に君臨してきた企業で ある。霞が関官僚などは赤子をひねるようなものである。

ヴェオリアは、どの自治体に 次の照準を合わせているのか。公共サービスの民営化はある程度仕方がないかもしれな い。だが、命の源である水道だけはノーだ。

大阪維新の会はもともと、大阪府と大阪市による水道の二重行政問題を提起して市民の 支持を得た経緯がある。維新の会は、選挙公約として民営化を掲げたこともある。ヴェ オリアの次の標的は大阪かもしれない。

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