標題ですが、中国人は日本人のことを、そのように観ていた。
逆に日本人がどのような印象をもっているかは、マスコミなどに表れる金銭欲や犯罪、狡猾な外交などネガティブなものが多いが、それらはあくまで現象である。エネルギッシュな上昇志向、色、食、財への飽くなき欲求と、同化欲求への誘いもある。
近頃は中華街でも華人同士が一定のエリアに店舗、事業所を営むが、広い国土ゆえ言葉もわからず気風も違うので隣同士でも話をしないこともある。
狭い範囲の純なる人情を理解するが、国家への帰属意識は実利のみ。ある意味、独立独歩、
他を安易に信じない、いまの日本でも当然と理解される民風でもある。
標記の阿諛迎合だが、戦後GHQの様々な施策を受け入れる擬似柔軟性を順応と取り違え、生活規律のみならず国家の基礎的条件まで唯々諾々と受け入れている。
これを暫く経って「弱体化政策」だとか大声で言いつのるが、当時の高官は自身の肉体的衝撃、つまり追放もしくは食い扶持の喪失を恐れたものもいたのだろうか。それとも今は頭を下げて様子を見て・・・と思ったのか。
いや、何をされるかわからないと考えたのだろうか・・・
一方、ドイツは様々な提示に受け入れを拒否している。
負けたくせに・・・、と当初は思ったが、なかなかシッカリしていると思うようになった。
日本はことのほか従順だと思ったが、しまいに軟弱だと思うようになった。
いや、軍や軍官吏の強権に息を潜そめていた知識人、教員、政治家などは積極的に、その光り輝く文明と称するものに迎合した。ついさっきまで数百年にわたってアジアを蹂躙し、未開、野蛮として愚民化を進めた彼等の文化と称するものに寄り添った。
米英鬼畜といっていた庶民も生きるためかギブミーチョコレートを叫び、ジープから撒かれるガムや洋モクに大の男が群れた。政策なのかお目こぼしを受けた娼婦はGIの肩にもたれかけ、日本男子など鼻にもかけない。
生きるために肩を諂い作り笑いをする華人の商売人を上から目線で見る風は、当時の日本人も同様だった。とくに負けた現実は社会においては国内の権力構造の変化、教員や村の長(おさ)の無気力など、満州崩壊の折の華人の大らかさや旺盛な生活への行動と比べると、まさに、゛青菜に塩 ゛状態である。
それは特に我国では高位高官、とくに政治家や官吏にその姿が表れる。
簡単なこと、銃を担いで寒さに凍え、荒野に宿を設けたり、ツルハシを大地に振り下ろすような肉体的衝撃を土壇場でも忌諱する人たちのようだ。
「知は大偽を生ず」ではないが、知は重ねれば重ねるほど「本」が無ければ、言い訳、保身のために用するのが、彼等の「学」なのだろう。
深くは判らないが、そんな人たちと国民は感じている。
国内に対しては強い、外国に対しては弱い。バブルの頃のブランド狂いもそれに倣ったのか、本性なのか。
好奇心は内なる民族に向かうと、より複雑化し混沌となる。
多くの考え方を認たり、価値の多様化と称することが、いつの間にか、゛人は人゛となり、「異なる厳存」である自身を、゛オレは俺゛と、哀れむように、゛やりたいこと゛に没頭し、゛するべきこと゛が分らなくなっている。
それを国家や民族の衰徴なり、人の劣化や群れの分散とアカデミックに論じることは易いことだが、童心に映して「何故なんだろう」と眺めると、当時は一部を除いて「人のよい」人たちがこの国を占めていた。
祭り、盆踊り、人の集まるところが好きだった。背広とバッチの政治家の言うことを黙って聴いた。言っていることもよく解らなかった。となり組、町会、弁護士が多くない頃、四角四面の長(おさ)が難儀しながらその姿勢を崩さず人の相談を差配した。それも納得する至誠が長(おさ)にあった。長は立小便もしないし、飲み会があれば小遣いを置いて先に座を外した。見世物小屋の蛇女やオートバイの曲乗りに目を凝らし、小さなテレビの前に大勢が陣取って白人をやっつける力道山に喝采した。
たしかにそんな時代だったが、大多数は「分」を納得して受け入れていた。
「そういうもんだ」と・・・
いまは文句タラタラ、貰えるものは何でも貰う。
あの華人でさえ、そんな迎合の仕方はしない。「何かあるぞ・・」と。
四角四面は既得権を護る人間達の言い分だと。
そして、好奇心は、゛どこまでできるか゛己に向かっている。
だから文句はあまり言わない。
彼等も「そういうもんだ」と思っている。
だから、拘らず、囚われず、留まらない。
厄介な税喰いの群れはどこにでもいるようだ。
掲載写真は関連サイトより転載