まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

硫黄島の遺骨はいずこに

2013-04-30 13:00:43 | Weblog


遺骨収集のために滑走路を新設するという。高官は「十年で300億、年間では10億で済む」という。予算はともかくその遺骨は現在の滑走路の下に相当数存在すると推定している。だから新滑走路なのだという。

また現地での戦死者2万2千人、今までの収集は1万柱、残りのうち2~3千は滑走路の敷地に残置されていると書かれている。

もしかしたら・・・、滑走路の下にはないかもしれない・・・・

以前、久坂総三氏著作の(当ブログ リンドバーグ・・)に硫黄島の遺骨について記している内容を引用する。

≪日本軍の戦死者の首を切断し、浜においておけば蟹が食べて頭骸骨だけが残る。それにペンキを塗ってジープにぶら下げたり、ランプ代りに加工したりして帰国の際に土産にした。≫

≪銃床で歯を叩き割り金歯を採取したり、陰茎を切って口に押しこんだりした。骨を加工してペーパーナイフをつくりルーズベルト大統領にプレゼントした。大統領はそれを愛用していた。≫


土壇場の戦闘は過酷な状況がある。日露の旅順攻略戦ではロシア兵の指が日本兵の目に刺され、日本兵はロシア兵の首に噛みつき双方絶命している。あるいは中国では孔子の弟子子路は戦闘のあと敵軍に喰われている。彼の国ではごく普通に行われた人食である。

骨も人肉も戦利品である。もちろん男は奴隷、女は凌辱が当たり前な戦果だった。
ただ、昔のことだがその凄惨な旅順攻略が終わり司令官の乃木将軍は敵軍司令官ステッセルの帯剣を認め旅順会戦の終結を話し合っている。呼応したのか、今まで戦っていた両軍兵士たちはお互いの健闘を讃え合い、なかには肩を組んで旅順の町にくりだした者もいた。

硫黄島の遺骨の数は幾つかは戦利品として米国の土産物として書斎やリビングにランプとして飾られている。ルーズベルト愛用のペーパーナイフはどうしたのだろうか。
遺骨収集なら返却を促したらいい。それを故国に戻してこそ戦争云々ではなく、人の行為の実態として考えるよすがとなるだろう。

西洋文明の使者は大航海と称して、未開で野蛮と考えたアジアやアフリカ植民地を求め、そして愚民化政策のもと収奪を数100年繰り返した。
オランダの国家予算の多くはインドネシアからの搾取だった。学校やダムや道路も作らなかった。帰るときには悔し紛れにチモールを割った。フランスはベトナムを南北に分け、イギリスはインドを分割したりイラクの南に線をひきクエ―トを割った。それぞれが今もって宗教や民族で争って和することがない。つまり分割統治で影響力を残した。

戦国時代の日本人は首をはね、耳や鼻を削ぎ、磔にした。女は凌辱もした。しかし彼らに倣った西洋文明は彼らの言う未開と野蛮な印象を変えた。またフランスに倣って自由と人権と平等、そして民主のたっぷり入った啓蒙教育制度を取り入れ、法律はドイツに倣った。完全に噛み砕かれ、こなれてはいないが装いだけは整えた。生まれながらの敵ではない若者同士が複雑な事情で戦闘をおこない、土壇場の勇敢な姿を表す兵士は、使命に従順な民である。 土壇場での食糧枯渇は臨場を味わったものでしか解らない。友の肉を食べ,大腿骨は小動物を叩く道具になり、頭がい骨は器になる知恵も生まれるだろう。

しかし、味付けされ饗宴の添えものにしたり、骨を玩具や趣味の生活資材にすることはしない。まして遺骨を毀損するなどは狂気の沙汰ではないか。それこそ野蛮で未開の証だ。宣教師は「造物主がつくった最高なものは人間だ」と説く。
邦人は応えて問う「可愛い馬や牛も同じではないのですか」と。

感謝祭は七面鳥を喰う。社稷際は総ての動植物に人間が首を垂れる日本との違いだ。

たとえペンキに彩られた頭蓋骨でも、骨の加工物でもいい。
ことさら記念館をつくってあげつらうことはしない。
滑走路の増設に詭弁は要らない。
返してくださいといえばいい。
文句は言うまい。アリガトウというだけだ。

西洋文明ではない、それが日本文明なのだ
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産経の崩落

2013-04-26 15:17:14 | Weblog


江戸時代は大衆に周知させる街かどの触れ書きにある人相描きや、本当かどうか検証もできない号外くばりが瓦版屋となったようだが、御上の指図を報せるようになってから任侠の十手持ちのように、妙なことに形を付けて胸をいからせてきた。

それでも明治の陸羯南の活躍したころ、その言論は伊藤博文さえたじろぐ筆力があった。
もちろん彼の新聞社で採用された正岡子規や長谷川如是閑など文芸にも異彩を放ち、あの消えそうだった俳句にも灯を照らしている。陸の交友は勝海舟やいつも屯していた山岡鉄舟の家には園長、原敬、落合、そして後の禅僧愚庵、当時の浜田五郎や次郎長まで明治の偏屈変わり者、傑物が始終戯れていた。

小説などは今でいう漫画モノだった。それがいつの間にか流行り人気と商売っ気に押され、勲章まで貰うようになった。あの当時の言論は命懸けだった。
今どきのように元老院やサロンをつくって政治家や商売人と要らぬ算段や杯を傾けることなどは言論の自殺行為だった。むろん政治家も役人もだらしなくなってきた。
言論も政治家、商人、そして官吏にいえることは、できるはずのない公私の分別ではなく、公私の間にどんな矜持があるのかを自己の内面取材をしてもらいたい。
所詮名位や食い扶持をあさる連中を相手なら、なおさらのことだ。

最近、その状況の中で経国の理念である憲法という矩の案作成を試みている。
サロンには数人の識のない知人が集っているようだが、ここでも妙な民主というへんてこな主義がはびこっている。一つの素案をつくるにも切ったりはめたりして義文とはいえない説明調が、整合性も、そして薫りもなく羅列されている。
とくに前文という、産経でいえば一面の産経抄の部分が、憲法終章までを貫く座標の縦軸であると同様に、その産経抄の変容とともに雑然、騒然とした文になっている。それはあたかも世情の姿のように、取り付く島を探し、単なる字句に委ねるような司法法匪、役人の姑息な覆いのように感じる。

ことは、時間をかけて、大勢で、気を遣って作るとこの様な文章になる。
要は、庶民に知って、覚えてもらう必要のない、いや知っていることに越したことのないものだが、国民にとっては政治家、役人、宗教家を代表とする権力を構成するであろう「権」を有する者どもの必須の矩と考えればいい。その意味では近ごろの教育者も「権」だろう。

そして、これを統覧する象徴についても記されているが、前文はその象徴たる存在が代表して発声し、復唱しても合うようなオンと調和、そしてお立場の薫が滲むようなものでなければ心耳には浸透しない。

前に「識」のない「知」と記した。識は道理である。道理のない、知った、覚えた類の通称知識人の合議は数があればある程、複雑になる。独りひとりは物知りだが、物知りが大勢いても、船頭多くして・・・の類いである。しかも、慇懃かつ強欲に自説を入れ込み、それぞれが譲り合って組み立てたとしても血の通った歴史に耐える文章にはならない。

その駄作を一面に載せる愚かしさはサロン住民とて解っているはずだ。
いずれ陛下の認証を以て発布されるであろう権力へ対する矩だが、せめて陛下の発声に耐えうる経国の大義にと願うものだ。

「文は経国の大業にして不朽の盛事なり」
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三国連太郎  父としての残像

2013-04-21 17:49:22 | Weblog



とこかで探したものがみえたのだろう、いや昔ながらの言葉でいえば悟ったような容象だった。同様に息子も醸し出す相がみてとれる。相は役者には最も大事な雰囲気ともいう。

親は探し求めて辿り着いたようだが、息子は親の背中を眩しく見つめながらも、間をとりながら少しづつ解り掛けてきた。

よく、聖人にも欲情ありという。民からみれば「俺と同じじゃないか」と覗き気分で受け取られては威厳も飛んでしまうゆえに、秘義とか房中のこととして見えない所に置くようだが、教師も政治家もその点は論外として隠している。
 このところ自由だとか人権とかがはびこると子供までが大人の世界に浸り込んで欲情を謳歌している。法律の世界では未成年として枠を囲っているが、歳を超えれば罪にもならない。不純異性交遊、喫煙、深夜徘徊、公営ギャンブル、大人になるとこのくらいできなければ一人前とはいえない。

 その子供の疑問をとおりこした欲求不満だが、昔は小理屈を並べたりせず「そうゆうもんだ」と時の経過を待たせた。それゆえ二十歳になれば酒と女とタバコとギャンブルで身を崩す若者が多かった。いまは利口になったのか、セコくなったのか車も乗らないし酒も飲まない。若いころは女のほうが知恵がすぐれているのか、男が幼稚で母代りの年増を好む者もいるようだ。早熟は愚かさもあれば鋭い感受もあるようだ。

三国さんの息子はそんな気分もなく、振り返らない父を凝視していた。オヤジは「分」を知りたくて色んなことをした。女遍歴、我欲にまみれた曲者のような自身を、これまた虚構の世界の演技にぶつけた。これも流れだが、好転すると個性派俳優、流転すると偏屈な役者と色々世間は勝手なことをいうが、それでも「自らの分」である自分を発見した。
その「分」は、全体の一部分ということが解るのは還暦の頃だ。それでも三国は知りたいと願っているのでマシな方で、普通はダラダラと息をするだけの人生が大部分だ。

息子は前向きに求める男が好きになる。それは何番目の女房の子供だというような下世
なことではない。縁があって知り合った男の姿だ。
 男(漢)は土壇場になると女が欲しくなる。つまり女陰の奥にある胎内回帰だ。土壇場の緊張、突撃前の恐怖は安逸の世界を想起する。羊水に泳ぐ胎児の安逸だ。女もそんな男に寄ってくる。不思議な情けが引き合うと目の前の人間と同化したくなるのが、これも情だ。
 どこかにいる好い女ではなく、目の前にいる女と情を混じり合わせたいのが隠すことのない姿だろう。浮気や不倫は後で付いてくる戯言だ。
昔から演技は嘘の世界を形式美で人に魅せてきた。それは画像のようなもので繰り返し想起できるものだ。
隣国では「逢場作戯」といって、商売でも政治でも日本でいう本音と建前どころではなく、人によっては建前が本音で、本音が建前のような戯れをする。騙されても怨むことなく、騙し返しをする。かつ、それを楽しむ鷹揚さがある。
三国はたとえ嘘でも、もう一つ嘘を加えた。それは、一時は世間の矛盾に向き合う理屈でもあったが、それは人に嘘をつくまえに己に嘘をついていることが堪らなく厭だった。いくら役者でも三国は許せなかった。
 息子は、同じように止め処もない情感を平然とやり過ごす自分が気に入らなかった。
一時は、あのオヤジが・・と哀しみを惜しむ息子がいた。それがオヤジと同じように「分」を知る経過だと解ったのは時が必要だった。

下世話な人間の不思議観だが、江戸は大名家、皇室も子供が生まれれば乳母が育てた。教育は他人に任せた。山岡鉄舟は後の天皇を相撲で投げ飛ばした。教育は乃木や杉浦に任せた。皇太子は浜尾侍従に厳しく叱責された。母が手作りで弁当をつくり、送り迎えは母が行い、運動会にはビデオを撮り、背中に我が子を背負う、その後を警護がゾロゾロとは今上天皇まではなかった。

男子の育て方は女子とは違う。私事だが唯一の皇子は学習院ではなかった。その学校の入れ口には校務受付がある、その職員に行き帰りご挨拶をするという。ちなみに少子は世が世では平民ゆえ、その受付け棟の後ろに中学校棟があるが、その間にリヤカーを曳いて落ち葉を収集している用務員さんがいる。毎日同じ作業をしている。筆者は我が愚息にそのオジサンに挨拶するようにと促した。そして仕事を観察しなさいと伝え、担任には「皆に役立っていますか」と問うた。それが「小学」の習慣学習であり、人から倣う学びだからだ。

三国さんに戻るが、親子、とくに男同士は妙な親近感ある。その親近感の間を広く取るのが教育となる。富士山でも近くより遠くの喩がある通り、一番うそがないが、ざっくばらんと無礼が紙一重の間ではいつまでたっても成長しない。終いには宿命などと言いながら、しかたがないと怠惰になってしまうのが常だ。同じ女を取り合うぐらいな緊迫感があっても面白い。つまり晋作が放った「女房を敵とおもえ」というぐらいな緊張感と集中力がなければ、人の嘘を負かす大ウソがつけないと三国はいうのだろう。

俳優といっても、縁があってのこと。しかも大船までの電車賃と弁当が取り持つ縁だ。
もしかしたら釣りバカのように、大企業のス―さんになっていたかもしれない人生だ。
ただ、その縁に流されたと思っていた諦めが、あるとき無形の命を立てたことに気がついたのだろう。つまり、「立命」だ。こうなれば安心だ。笑いながら下界から這い上ってくる連中を嗤うだけだ。

三国はその這いあがってくる群れの中に息子を発見した。そして今までとは似合わぬ姿で
手を差し伸べた。そしてつい滑ってしまった。
二日前に見た夢だった。船には乗り遅れなかったようだ。

合掌
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病院は親切でなくてはならないと賀川はいう

2013-04-12 16:02:08 | Weblog

高知に引っ込んだと思ったら時折東京が懐かしく顔を出す伴武澄さん。
本人は『色々とやることがある』というが、思春期に恋愛ごっこで失敗したこともなく、ことのほか表層真面目だったせいか、老境に差し掛かってその人生のスキップを埋め合わせているかのようだ。
ゆえに当時は記事にも書けなかった人間愛や平和を書き連ねている。その内に心の底まで書いてくれることを期待している。
今回はその一章を賀川豊彦の著書抜粋として紹介している。
なるほど、視点が鮮やかだ。










賀川豊彦の『十字架に於ける瞑想』を読んで面白い部分があった。病院は英語でHospital。本来は「親切院」でなければならない。そして病院は医者がつくったのではなく、看護師がつくったのだというのだ。以下、その部分を転載します。
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 日本の看護婦が給料の値上げをやかましくいふやうになつたことを私は悲しむ。イギリスには看護婦にストライキは絶対にない。『ホスピタル』といふのは親切院といふのがほんとで、日本のやうに病院といふのが間違つてゐる。最初、ローマの元老院議員のガリカナスといふ人が、みづから進んで看護者になり。奴隷といへども助けて行かうといふ考で、病院を創めたのである。西洋では親切院の看護婦は医者より偉い。

 月給を貰はずに看護する、それが赤十字である。西洋では看護婦を尊敬する。英国のチヤーリング・クロスには一看護婦であつたエデヰス・カベル女史の銅像が建つてゐるが、その下に『愛国心だけでは足りない』と書かれてある。

 あの独逸人がイギリス人を憎んだ最中に、エデヰス・カベルはその敵兵をも愛して看護した。が、この愛の権化のカベルを独逸兵は射殺した。英国はこの看護婦を尊敬して銅像を建てたのである。だから英国には看護婦が給料をあげてくれといふ運動はない。

 英国では看護婦が、各国の全権大使の次に席を占める特権を与へられてゐる。英国では、医者や看護婦や小学校教員にストライキはない。どんな時にも医者は、来てくれといふ時に断る権利がない。月給をとりたいといふ看護婦になら、ならない方がいゝ。英国ではセント・トマスの看護婦の服装をして街を歩いてゐると自動車が止るといふことである。かういふ看護婦を尊敬する気持が、やはりアメリカにもある。それがあつてこそ国が進歩する。

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