まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「五寒」 生じて国家無し その五

2017-09-26 08:58:27 | Weblog

 

ある新聞のコラムに、女子大生の週末の会話が載っていた。
“アッシー”“メッシー”がはやり言葉だが“アッシー”は車をもっているお人よしの足代わり。“メッシー”は食事を付き合って御馳走になる。言い換えれば人の「したごころ」を弄ぶ駆け引きの遊戯でもある。

 「あのサー、今晩飲みに行かない 」挨拶である。
「 なんとなく飲みたいから、どー付き合ってよ それと○(金)もないし…  誰かスポンサーを探して…」
「彼と会う日なのよ、でもそっちのが面白そうだから早く彼帰すわ」,
「じゃサー・・近ごろ気に入った店があるのよ10時頃ならいいの?」
「親がうるさいとかいって上手くやるわ」
どうでもいいような会話だが近ごろの主婦にも当てはまりそうな…なかなかやるもんだ。

すぐ後の電話では…
「健ちゃん、今晩空いてる、零が久しぶりだから、ちょっと飲みたいんだってさ」
「……」
「そばに奥さんいるの」
「ハイ・・」
「それじゃさー、男と話しているつもりで返事して」
「豊が大事な相談があるとかいってさー ねえ だめ」
「はい分かりました」
「じゃあいつものところで」
健の彼女は同級生で、まじめな人柄で何時も健に寄り添っている。しかし“男と話しているつもりで”とは恐れ入った。

 奥さんは田舎出でまじめなせいか騙すのは簡単だと思っているのか、女子大生の狡猾な知恵は健の優柔不断さを誘いだしている。 現代男気質なのか。

 こんどは健をダシに別の友達を誘っている。
「明美、健がくるからさ、来ない○要らないよ、スポンサーよ」
「残念だけど彼がくるのよ  またにしてね」 
「めぐみ たまにはどう  みんなあつまるんだってさー」
いつの間にか自分は隠れてしまっている
「どこ」
「“しゅうぽん”っていってさー居酒屋よ  10時頃行っているから」
「 行けると思うけど… もし行けなかったらごめんね そういえば電話何番だったっけ 近くに行くからよれたら寄るね」
「たまにはめぐみと飲もうと思っていたのよ 前から考えていたの…」 
卒業まじかの会話なのだろうが、世渡り上手か、はたまたはそのまま商売に入りそうな雰囲気である。

 友達同士の会話にも世相がある。明治、大正、昭和、平成 舞台は違うが相変わらず演出は一緒である。
吉原の遊女顔負けの旦那掛け持ちも同様とみたが……


 
    

           東京裁判のパル判事の「日本の女性にむけて」


女性の話ばかりにはなるが、ところで男性はというと、そこにもさまざまな問題がある。
善し悪しは別として両性のそれぞれ持つ特性(優性)が劣化しているようです。
それは情報過多による生活の平均化、そのなかでの個性の発揮というべきか差別化への熾烈な競争意識が両性の劣性部分で浮き出ているようである。

 時運に順応しなければならないことと、時世を創造しなければならないことが錯覚意識のなかでの社会行動として現れている。
人間が社会の流れをつくり、人間がその流れに従うが、それが、たとえ一部の流れだとしても、商業マスコミにのれば全体の世相として受け入れてしまうような、己を持たない大衆の意識でもある。
政治しかり、家庭しかり、教育しかり、まるで起点のない経過の遊びでもある。

これは人の生き方の評論ではない。  
歴史の興亡の中で、ほんの一粒にしかすぎない一刻一身を、単に時運任せにしか生きられないというか気が付く心さえ持たない群盲のようでもあるからです。

 表層ではあるが「人」を評価する方法であり、錯覚であっても自己を充足させる手段として地位、名誉、財力、学歴、があります。
無いよりかは有った方がいいくらいな評価だが、特に自分の存在が判らない場合、往々にして手っ取り早い選別基準でもあるようです。
しかしながら本来評価される基準として有るものと、手段、方法でしかない附属性評価は一生人間として生きる為に必要な特性との間に虚偽、葛藤を生じさせる場合があります。

錯覚した自己でも充足しているならまだしも、独り顧みる余裕と生きる役割を認識したとき、時運に柔順な附属性価値に生活の糧ではあっても殺伐とした無常感を覚えざるを得ないだろう。


             

            日本の青年に向けて



 自らの存在の証しに他人に対して虚偽を表すことがあります。
虚偽の種類を問わず、他を騙したりすることは自分そのものを欺き、喪失することにほかならなりません。
虚偽の活用と、善悪の置くところは別として、その精神、行為そのものが自身を虚偽に慣れさせ、自分そのものが無意識のうちに空洞と化してしまいます。

自分を構成している前提を振り返る余裕(内観)無くして、何で存在しているのかすら、判らなくなってしまいます。
生物としての死生観、無常観は他を意識しないところ、つまり自意識の秘奥に存在するが、他の存在無くしては考えられないものでもあります。
(自他の厳存の認知)

生活の虚偽はその生存の喜びさえ半減させてしまいます。
嘘がとおる快感は、本当の歓喜を覆い尽くし、独感からしか得ることのできない素行自得の能力を衰化させ、しまいには自分そのものの意志さえ判別がつかない疾病状態になり、その集合体である社会の構造そのものの疲弊を誘発し、解決しようにも本性の能力に気づかないため、自助、自浄の一端さえ認知できないような閉塞状態を作り出してしまいます。


                 
             パール判事



「嘘」は、息を吐くと言う意味があります。

生物には呼吸があります。動物、植物はむろんのこと,地球そのものも呼吸しているといってもよいでしょう。
吸って吐く。無意識のうちに、それぞれの間隔をもって循環作用を行っている。
 ここで言う「嘘」は自然の作用であり、悪とは限定できない自身を保護する自然の行為と考えたほうがよい。

 よく、邪まなウソをつくのは人間に限るといいます。 “嘘つきは泥棒の始まり”などと幼いころから耳にタコができるほど言い聞かされてきました。
 難しい理屈はともかく他人に嘘をついてはならないなどと、イソップ物語のオオカミの話を聞かされたものです。

しかし長じて“嘘も方便”などと教えられたり、体験したりすると嘘のいいかげんさに慣れてしまい本当のことが隠れてしまう場合があります。 自分自身が嘘舞台の演者として、あたかも実態との錯覚をおこすからでしょう。
「女の嘘はいつのまにか本当になってしまう」といいますが、近ごろでは女々しい男も荒々しい女を前にして自らの生き方に嘘をついて関心を引く状態です。 そのほうが“平和”を保てるのでしょうか。

嘘は方便とはよく言ったもので、嘘もつきようによっては役立つということです。前提となる嘘はいけないものという事から出発しても、嘘はさまざまのようです。
もちろん人間界にしか通用しない問題でもあり、必要としない人々も厳然として存在することも見逃しては語ることはできません。

 嘘はつく人間と騙される人間との問題です。“必要としない人々”とは、平然と嘘を嘘と知りあえて騙される人、あるいは孤高の精神で、淡然として全ての事象を含有して“境 ”に存在する人々がそれにあたります。

 政治家の嘘をたとえてみると、自らの汚職を隠すための嘘は司法の場面でも平然と行われます。

 逆に価値観の狂った怠惰な大衆を覚醒するためにつく嘘はおのずと違います。

未完 休章

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