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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

中学狂歌其の二 「学校で はかれぬ能力 俺にあり」 15 2/16 再

2019-07-28 15:51:17 | Weblog



以前、寄宿舎をつくり登校拒否生徒を集めた私塾での講話を依頼された。
まさに、狂歌に出てくるような生徒を全国から募集した専門校だった。
冒頭に自己紹介を省き、「お母さん、子供さんのこと好きですか」と問うた。

誰からも声が上がらなかった。唐突な発言だったせいもあったが、事実、応えに戸惑っていた。全員30代後半から40代後半の全員女性だったが、集まった理由は「子供が登校拒否で困っている」理由だった。

拒否なのか、学校や教員または親に不満があって、学校に遊びに行くのは楽しいが、勉強にはついていけず、システムから除外、いや無視同然になった生徒の母もいた。着物姿、カラフルな洋装、化粧も今流、30人ほどだった。

『お母さんとて人生がある。自分は子供の犠牲と感じている人もいるだろう。自分が描いている自由と、家庭以外の人に認められたいと思っていることもあるだろう。

思春期とはいうが、春を思う年齢はいつでもある。人との比較でオシャレしたり、友達とカルチャーも楽しみたい、なかにはパチンコ、カラオケ、仲の良い男友達との出会いもある。
それと子供だ。

子供が登校拒否なので私が困る」と云うなら、自分で考えなさい。子供のことを第三者の観察で知りたいというならお話もしますが、お母さんが困っていることには答えがない。
その答えは、子供が一番よく知っている。お母さんも社会に出て失敗したり,隠し事をしたり、そのために家庭がゴタゴタしたり、つまらなくなったり、帰りたくなくなったり、そのようになれば答えは自然に出てくる。

その逆に、一生懸命に家族のことを考えても、どこかに我欲があれば、結果は同じ事になる。
また、子供の教育期間が終わって社会に出れば、このようなことは一過性の想い出として忘れてしまう。そのくらいの心配事だ。

転べば痛い。疎外されればさみしい。歳にかかわらず人を想う心もある。それを家庭や親子の枠に入れば二つの心だ。それを心の中でやりくりして生活している。それをウソと言うのは簡単だが、昔の良妻賢母が成り立たない浮情の社会に、どこかオカシイと思う気持ちを持っていれば、登校拒否も違った見方ができるはずだ。
「困る」気持ちは子供も同様にもってもがいている。』

マニュアルもなければ処方もないような辛辣な講話だったが、思春期のうつろいや悩みは、我が身に置き換えても片腹痛い内容であったと記憶している





青森県黒石市 「よされ流し踊り」  毎年8月15日






以下、矢野壽男著「このままじゃ僕の将来知れたもの」より抜粋


≪母の印象≫

消えたいよ 母キンキラと 参観日  2男

見せるので なく観に来いよ 参観日  3男

美しい ママを自慢の 参観日   1女

友達に 母バカにされ 参観日   2男

もう少し センス磨けよ わが母は  2男

店先で 大声あげて みにくいな 母はペラペラ 得意だけれど  2女

歯ぐきまで 見せて母は 大笑い とても不潔だ セールスマンと  2女

わけ聞かず いきなりカッカ 醜いな  2女

母子でも 顔の不出来は 言わないで  2女

お前さえ 生まなきゃと母 殺したい  2男

女でも 堪らなくなり セロテープ 欲しくなります 母の愚痴には  2女

母だけど 女のズルサ 許せない 父を悪者 自分はいい子に  2男

元気よく 「ただいま」 言えど 家のなか 誰もこたえず いつか言わずに  2男


≪金 かね ≫

金有れば 高校大学 スイスイと  2男

世の中 金ほど強い ものはなし  2男

役員の 月給もらえ お母さん  PTAに 勤めているんだ 2男

人間の 生活すべて お金だと 反省もなく 言い切る母  3女

働くは 金のためかね それではね  3女



≪共働き≫


学校を 追い帰えされても 子供には パチンコ屋もないし バーもない  2男

よしいいぞ グレてやろうか 子の俺が それで共稼ぎ やめてくれるか  2男

今はもう 慰め合いも 我が家には いたわり合いも 昔のことだよ  3女

服装も 話の仕方 その中身 働きに出て 母だらしなく  2男

母ひとり イキガッテいく パートだが つまり我が家を 放り出したんだ  2男

働きに 母でてから はじめだけ みんなニコニコ 今はゴタゴタ  2男

何となく どことなく 母だらく  2女

捨てられた ように父と子 母を待つ  2男

母親の 勉強しろが 消えちゃった  2女

返事だけ いいけど母は うわの空 パートに出ての 変わり方  1男



≪思春期の性≫


また見えた これじゃ成績 上がらない 若い美人の ミニの先生  1男

駆け出せは スカートひらり かがむ目に 今日のパンティー ピンクと判り  2男

恋人が できて学校 天国だ  2男

僕つくる その体位をば 考えた  2男

相談も できずに一人 本を読み ひたすら性の 道きわめん  3女

やつのママ セクシーだな スキあらば いつも狙って 遊びいくなり  2男

わざと聴き 先生困らす 性のこと  2女

夜の声 友達が教えた 通りなり  2男

のぞきたい 心は女も 持っている 俺は見つけた 女子の覗きを  2男

もう十年 若かったらいい 母はだか  2男

見たよパパ ママにヒップを なでてった  1男

いやらしい 目つきの父を にらみつけ  2女

父の客 酔って大声 エロ話  3男

押入れの 隅から出たよ エロ雑誌  2男

中年の いやらしさなら 母もまた  2女

メシベ オシベ 先生まじめに わざとらしい  2男

アノことに 関してだけは 親まじめ  2男

 


よくよく考えると、いくつになっても考えることは成長がない。老齢な社長も居酒屋のサラリーマンも、心と身体が健康なら心は青い

安岡正篤氏も、その鋭い観察に「おそるべし」と紹介している


恐るべし、いやその直観には畏るべき思春期でもある


一部イメージは他サイトより転載

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「萬晩報」 高知と国憲 2015年2月6日夜学会

2019-07-01 14:14:34 | Weblog

                                          2018年5月3日(金)

                                 萬晩報主宰 伴武澄

 今日は憲法記念日。日本国憲法が1947年5月3日に施行されたことを記念して翌年から祝日となった。建国記念日はどこの国にもあるが、憲法施行の日を祝日としている日があるのか考えた。祝日となった経緯は「戦争放棄」を世界で初めてうたった憲法を制定したことを国民として喜ぼうという思いがあったはずである。

憲法が改正されて、国軍として自衛隊が認められれば、普通の国となるので、世界に胸を張る憲法ではなくなる。そうなれば、たぶん憲法記念日も廃止する必要があるのではないか。そんな問題意識である。

 小生は2015年1月からほぼ毎週、はりまや橋夜学会を開催し、民主主義を根底から考え直そうと訴えている。3年前の2月6日、「高知と国憲」というテーマで講演した。以下その内容を掲載したい。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

      

   横浜市 港の見える丘公園

 


  龍谷大学の先生をしている友人に高知で夜学会を開いていると話したら、僕もそんな学会を開きたいと言っていた。「違う、夜学の会だ」と言って大笑いになった。多くの人は勘違いしやすいが、あくまでも素人が学び合う会なのだ。

 僕は外大を出て、新聞記者で経済を専門にしていたから、法律はど素人に近い。学生時代、法律ほど面白くないものはないと思っていたが、記者になるとまず最初に刑事訴訟法を知らなければ仕事にならないことを知った。まず警察が容疑者を「逮捕」するとな何か、そして警察が検察に「送致」する。

さらに検察が裁判所に「起訴」する。そんな基礎的用語から学ばなければならない。身近なところから教えてくれれば、もう少し勉強したのにと残念に思う。

 不思議なもので3カ月もすると警察官の話していることがすんなりと入ってくる。実務が大切だということだ。記者が軽率というか軽薄なのは、学者の世界からすれば生半可な知識で分かったような顔をして、記事を書くということだ。そんなことを30何年もやってきた。

 この15年ぐらい、憲法とは何なのか考え、自ら勉強するようになった。もともとは改憲論者だったが、学んでいるうちに出会ったのが『法窓夜話』という本だった。東大の初代の法学部長になった穂積陳重が書いていた。
メソポタミアのハムラビ法典から始まって、ギリシヤの法律、中世の日本の武家諸法度 まで網羅してあってやさしく法律の意味を学ぶことが出来る。

 この中に憲法という項目があって、明治初期に「憲法」という表現はなかったと言っている。17条の憲法はあったじゃないかというかもしれないが、近世以降の概念としての憲法はなかった。福沢諭吉は英語で言うConstitutionのことを律令と書いていた。国法、国制、国体、朝網など人によって違う訳語をあてていた。一番多く使われていたのが「国憲」という訳語だった。だから植木枝盛の憲法草案は「大日本国国憲按」と題した。条文の仮名では憲法という表現を使っているが、タイトルはあくまで「国憲」だった。

 これは非常に重要なことで、僕たちがなにげなく使っている憲法という訳語は、明治初期には人口に膾炙されていなかった。

 憲法が正式に決まったのは、伊藤博文がプロシア、オーストリアへ憲法を学びに行った時に「憲法取調」という役職をつけてからのことだった。大日本国憲法制定の5年前のこと。そうなるとそれまではいろいろな訳語を使っていたのではないかと想像するが、そうでもなかった。大学の授業はすべて英語だったから、Constitutionで通っていたはずなのだ。

 

       

      青森県黒石市 

 

 穂積氏の本によれば、東大法学部で授業が日本語になったのは明治20年のこと。それまでは政治も経済も、自然科学も英語で教えていた。

 当時の学校ではたぶん以下のようなやりとりがあったのではないかと想像している。

 

先生「France is now a republic. Not like our country, they dont have
    a king as a Sovereignty」
学生「先生、そのrepublicというのはなんですか」
先生「日本では歴史始まって以来、天皇がまつりごとの中心におられたが、
   フランスにはそのような存在はもはやない。つまりpeopleが
   sovereignというこっちゃ」
学生「ますますわからん。そのSovereigntyとかsovereignとか日本語で説明
   してください」
先生「それが先生もわからんのじゃ。まつりごとをつかさどるという意味だ
   が、日本にはそういう意味の単語がないのだ。天皇が京都に在位して
   いて、将軍が江戸でまつりごとをつかさどっていた。その将軍が大政
   奉還して明治の世となった。天皇が復権したいま、ヨーロッパに学ん
   で天皇を中心にどのようなまつりごとの仕組みをつくろうかみなが考
   えている最中なのだ」

「政治」も「共和」「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。だから授業はほとんどが英語だった。

 明治日本は数多くの訳語をつくった。共和とか自由とか、もちろん政治や経済もそうだ。2000近い和製漢語が生まれた時代だった。多くは中国の古典から探し出した表現に近世的な意味を与えた。

 数日前、西岡さんのところで夜学会をやって江戸時代の高知のことを学んだが、古い地図に鏡川のことを潮江川と書いてある。そういえば四万十川となるのは 1990年代のことだ。それまでは渡川といっていたそうだ。NHKの放映によって、昔から四万十川と呼ばれていたようになっている。長宗我部家のことを書いた『土佐物語』には四万十と書いてあるそうなので、川の名前にも変遷があるということなのだ。

 安芸市の民俗資料館で発見したが、もともと安芸は「安喜」だった。長宗我部元親が安芸国虎を破った時に「安らけく喜ぶ」としたのが、明治時代になって元に戻した。地図を見るまで誰も知らないというのはよろしくない。

 重箱の隅をつつくようなことに思われるかもしれないが、我々が常識と思っている多くの事象は実はあやとない事実の上に構築されているかもしれないということである。

     

青森県田舎館  稲のアート

 

    

 

 さて憲法である。近世に初めて憲法が生まれたのはアメリカ合衆国だった。イギリスの植民地だった13州がイギリス国王に反旗を翻した。13州それぞれ総督がいて統治していたが、インド人を統治したのがインド総督だったのに対して、アメリカでは総督はイギリス人を統治していた。例えば薩長連合軍が徳川に反旗を翻して西日本国を樹立するようなものだ。だから、アメリカの独立はインドの独立やベトナムの独立と決定的に意味が違う。

 結果的に13州が勝利するが、その背景に13州を応援したヨーロッパの国々があったからだ。アメリカ独立戦争時のフランスの統治者はルイ王朝だったから、応援したのはフランス市民ではなく、王様だったことを覚えておいて欲しい。自由を求めた13州を支援したのだからおかしな話に聞こえるが、アメリカ独立戦争は実は英仏戦争 だったのである。

 面白いことに13州の兵隊は民兵で正式な軍隊ではなかった。その民兵たちの頭領がジョージ・ワシントンだった。独立宣言は1776年。その後、合衆国憲法が生まれるのが1789年。13年にわたり13州の人々はこのをどうするか議論を続けた。

 イギリスとの戦いに勝利したワシントンは側近たちに「閣下、一刻も早く即位を」と王様になることを求めた。当然であろう。当時、地球上に民主主義などはなかった。だが、ワシントンは拒絶した。13州の人々は王様を戴かない国家をつくることにした。合衆国憲法はそんな13州の約束事を文章にまとめたものだっ た。Consitituteは構成するといった意味合いである。

主権者はもちろん人民(peaple)であるが、最高権力者をPresidentと命名した。プレジデントは聖職者や企業の代表にもつける呼称だったが、政治権力者に命名したのは13州の人々で、いわば大統領が彼らが発明者たちだった。

Constitutionやpresidentをどう日本語で表現するか悩んだのが100年後の明治の人たちなのである。

 

       

       観音崎  千葉遠景

 そして明治22年に大日本国憲法が誕生するのだが、僕が一番注目したのは99条「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と書いてあることである。矛盾していると思わないか。憲法を尊重するなら国会議員が憲法改正を口にできなくなる。

 僕が習った憲法は基本的人権、主権在民、戦争放棄の三つの柱で構成されていた。基本的人権や主権在民は合衆国憲法やフランス憲法には載っているが、明治憲法にはない。明治憲法は欽定憲法といって天皇が決めたものだった。だから臣民はこれを守らなければならないという代物だった。

 いま安倍首相が「国民には権利と義務があるが、憲法には権利ばかりが書いてあって義務が書いていない」と改正憲法に国民の義務を多く盛り込む姿勢を示しているが、憲法の第99条にあるように、公務員が暴走しないように箍を嵌めるのが憲法なのだ。

安倍首相は憲法制定の主旨をまったく理解していないとしかいえない。

法律は国民に箍を嵌めるものだが、憲法はベクトルが逆なのだ。

法律は上から目線であるのに対して、憲法の建前はしたから目線なのだ。冒頭にConstitutionの日本語訳について長々と説明した意味は全くここにある。


 憲法改正に国民の意思が表明される国民投票が必要なわけもここにある。合衆国憲法の改正は国民投票でなく、州議会の議決が必要となっている点、日本と大いに違う。

 だから、各国の憲法には必ず修正条項があり、日本の場合、国会議員の3分の2の議決を受けた上で国民投票で過半数を必要としている。フランス憲法で面白いのは絶対に修正できない条項がある。人民主権という条項で絶対に王政に戻せない仕組みになっている。

 戦後の日本国憲法にはいくつか決定的矛盾がある。まず第一条に天皇は国の象徴であるとあるが、主権在民の憲法の第一条が天皇というところに大きな矛盾がある。国家の構成を規定するのが憲法だとすると順番が違う。

ついで、前文に「国民はこの憲法を確定する」とあるが、われわれは国民投票を経験したことがない。ともに明治憲法の改正条項を基に日本国憲法がつくられたため、大きな矛盾を残すこととなっている。

明治憲法73条は「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」とある。そして第2項に、3分の2以上の出席を得て、3分の2以上の多数を得なければ改正できないと書かれてある。国民投票の条項がないから、新しくできた民主憲法といっても一度も国民の信託を得ていないのである。問題はここらが議論されたことが一度もないことである。


 改正の手続きに瑕疵はないが、どうもしっくりいかない。だから僕の憲法論は「廃止」なのだ。フランスなどは何回も新しくつくっている。

 

     

横浜市金沢区 称名寺      

 

 ところで、日本では総選挙後、特別国会を召集して、次期首班を指名することが憲法で定められている。国民が選んだ衆院議員の仲から首相を選出するのである。しかし、同じ議院内閣制を取るイギリスでは首班指名はない。

総選挙後に形勢が判明した時点でバッキンガム宮殿から選挙に勝利した政党の党首に対して組閣が命じられる。衆院議員の中から首相が選ばれるのではなく、あくまで組閣を命じるのは国王なのだ。憲法がない国だからなんとも言えないが、そういうしきたりとなっている。

イギリスの場合、すべてが慣例に従うことになっている。戦前の日本でも組閣を命じるのは天皇の役割だった。

 同じ民主主義国家といえどもそれぞれにやり方が違うことを知っておく必要があろう。アメリカには国王はいないが、大統領選挙後、相手が「負けました」と敗北宣言をしたで、大統領就任が決まる。2000年の大統領選で民主党のゴアと共和党のブッシュが戦い、最後のフロリダ州の開票まで勝敗が決まらなかった。フロリダ州では票数の数え直しまで行われたが、それでも年明けまで勝敗が分からず、結局、ゴアが敗北宣言をしてブッシュの勝利となった。日本のように選挙管理委員会の最終票決を待つことはない。ここらが世界の民主主義のやり方の面白いところだ。

 アメリカが合衆国憲法をつくってから、多くの国がアメリカに倣って憲法を制定した。ドイツはプロシアを中心とした連邦国をつくった。日本だって考えてみれば、江戸時代は徳川を中心とした連邦国家だった。ただ徳川が強すぎたから、諸国は徳川に従わざるを得なかった。

幕府が倒れて、薩長土肥が連邦を形成していれば違う形の国家が生まれていたかもしれないが、薩長は天皇を中心とした国家をつくろうとして、そうなった。植木枝盛が国憲按で連邦制を唱えたのは、そのころまだその可能性が残されていたと考えられなくもない。

 アメリカは13州で建国したが、建国した団体をコングレスといった。今も上院のことをコングレスという。今も昔もコングレスは州一人を選出する。2年ごとに選ぶから、50州で100人の上院議員がいるが、一票の格差は日本の比ではない。ここにアメリカの民主主義の原点があるのだ。もし日本も連邦制的な発想を持てば、例えば参議院は各県一人することだって可能になる。連邦的は発想を持たないと、票は全部東京に持って行かれることになる。

はたしてそれで日本という国家の均衡が保たれるのか疑問となる。このまま人口が稀薄になれば四国で一人とかになりかねない。それは冗談ではない。その時はもう遅いかもしれな い。

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