まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

下村君の貌に見る憂鬱

2015-02-26 09:33:27 | Weblog


よく「お願い選挙」といわれる。
投票をお願いします、お返しに貴方の云うことを聴きます。これは聴くだけだ。
ともあれ金持ちになりたい、戦争は嫌いだ、子供と年寄りの面倒を看てほしい。それならアナタに投票する。
候補者はそれを承知で役者のような演技をするが、議会に入ればたんなる頭数。
官吏はそんな愚かな恒例イベントのありさまを、ほくそえみつつ、嘲笑する。
この国に棲む者にとってはことのほか嫌な関係だが、何も変わらない。誰がやっても政治は変わらないというが、この関係がまともにならなくては政治も変わらない。やはり人の問題であり、こと政治にかかわる問題は名利衣冠という、地位と名前と食い扶持の問題だ。

前記が青二才の書生論とは思うが、たとえ互いに人を信じない、政治家は腐敗していると云われる隣国でも綺麗な人情を見たいと願っている。また日本のように四角四面な官吏の理屈も好まないが、この国は専制でなければまとまらない国だと思っている。だが、汚れているからこそ清らかなものが見えるし、しかも清水にも混じることができる泥水の器量がある。

たしかに民主主義という厄介な主義は、往々にして褒めること少なく,貶(けな)すこと多しだ。それは嫉妬と怨嗟、その心底は財貨を用いた幸せへの欲望だ。それが成功と幸せの価値のようだ。その価値観に慣らされた人々の選挙は当然如く欲望の交差点の混雑のように落ち着くことのない騒がしさをみせている。k

選挙は選択制だが、善いが力がない、悪いが権力がある、そんな選択ならまだしも、イケメン、美人、アナウンサー、外国大学出身、弁護士、世襲、なかには芸人や運動家もいる。
安倍君が脚光を浴びると世に浮上する膏薬知識人、いやそう思われている公益学者(国公立校の利他に貢献すべき者)が自著を商業新聞に宣伝していた。人の顔をあげつらう失敬をおけば、年を追うごとにおかしくなっている。悪いとか醜いとかは人間に当てはめるべきものではないが、ここでは妙に、゛おかしい゛変容と記す。









教育畑に有りがちなことだが、親玉の文部科学大臣も人相が、゛おかしい゛部類だ。昔は小生の学処に度々参加していた頃は,清々しさと初々しさがあった。落選も経験した。再挑戦するときに独りで訪ねてきた。真剣だった。落涙もした。

地方議会に当選し宗教法人認可の手助けをした。当時の選挙はその宗教の信者が大勢来ていた、もちろん立場を隠してだ。そして秘書の多くはその信者が占めていた。しばらくすると、歯の抜けるように秘書が辞めた。そして小生のところに来てその顛末を語った。要は「後援会費を集めたらそれがあなた方の賃金だ、集められなければ賃金もない」とのことだった。懐事情の乏しい議員ならそれもあるだろう。だだ、人情に乏しい若者だった。

流行り政党から老舗の政党に移るために色々と工作した、そして機関誌に入党にあたって所信を書いた。友人とスポンサーが来て「これでは言い訳がましくて信念が見えない、どうかひな形を作ってください」との依頼だ。本人は知らなかったが、己が政治家になったつまりで所信案を著した。スポンサーはこれを見て本人に一字一句直すことなく掲載するように手渡した。小生なりのメッセージだった。企業家のスポンサーは何も言わず毎年一千万を渡していたという。期待をしていたに違いないが、ポツリと「もう一度落選しなくてはこの文章の意味が分からない」と呟いた。

それ以来その人間とは関係を断った。前記の宗教から徐々に離れた政治家は権力にとりついた巨大宗教組織に近づいた。旧来の党では当選がおぼつかないためだ。実行部隊の婦人部に頭を下げ、今までの批判を詫びるセレモニーがあった。それを助言したのは隣区の宗教政党の委員長だった。そして当選した。

お友達内閣の頃、その組閣では党首が頻繁に相談の電話があったと吹聴した。そした大臣任命準備として一戸建ての家を考慮したとの噂も聞いた。もちろん警備や体裁も企図したことだ。当選回数の都合もあったのか内閣の近習として寄り添ったが、党首と一緒のテレビアングルに入ることに勤しんだ。
その後、教育機関の設置認可の担当になった。当初の宗教法人が認可を申請した。
世間離れなのか、馴染まないのか、自身の票田である巨大宗教政党に遠慮したのか不許可の判断をした。すると不許可に怒り心頭の教団はネガティブキャンペーンを繰り広げた。
学校設置許認可と補助金のバーターのような政治資金、オリンピック利権、女性との隠れた話、それを解決したという御仁も出てきた。
彼の政治家としての成功価値と幸せ感は、あの清々しさから変質した。そして人相も変容した。










だだ、彼の掲げる政策には観るべきものがある。
それは、外国の教育事情を範としたり、学制の補完である商業塾の企図する教育の将来像を厳格に峻別する意志を前提とするものだが、官制学校システムや携わる要員への問題意識は茫洋としている適齢学徒を抱えている国民の憂慮であり、国内外に躍動する邦人への期待を込めた遠大な政策は、国民にとっての官民の行う試みにかかわらず、学びの要諦をつかんでいるようにみえる。

「適齢学徒」と記したが、受験期や大学を卒業したら問題意識は無くなるのが近親の環境だ。声高に叫び、要求を突きつけた人々は、後に続く世代のことは関心が薄くなる。つまり政策に継続性はあるが、要求は分断し流動的だ。

氏は、学習塾の利用者の父母を当初の応援者とした。これも選挙カルチャーだった。
いまは全国横断的に塾、専門学校がその応援者だ。分断し流動的な応援者を選挙においては当てにならない。だから宗教政党と与党なのだろうが、政策達成と曖昧な選挙事情に一番深慮しているのは本人だろう。だからと云って本質を疎かにしては土壇場の信は成り立たない。

あの独りで訪ねてきて落涙までした真剣さは残っている。
当時、ときおり街中を歩いて同伴した。議員になった頃だ。まだ落選議員の恨みが充満している地元地域だ。こちらも白い目で見られたが、もとより学処の同人だ。講頭の安岡正篤氏の嫡男も期待していた頃だ。しかし、街の衆もしたたかだ。当人が所信を書き与党に入った途端、掌を返して迎合した。その頃から変容した。いや元々その雰囲気はあったのだろう。
当初の弱者救済で交通遺児をキッチフレーズにしていた唱えは消えうせ、浮俗の与党選挙好きの神輿になることで立身出世の階段を昇りはじめた。

交通遺児や犯罪被害者のなかには扶養の必要な立場に置かれることがある。なかには酔って交通事故を起したり、ささいな口論で暴力をふるい反抗されて死亡することもある。
事情はともかく残された遺児はときに困窮を極めることもあるだろう。
遺児は自損事故なら父の飲酒運転を悔やみ、恨みも残ることがある。だからと云って、゛かわいそう゛なのは他人の声だ。遺児はそれに頼ることなく立身を描き、終生、飲酒運転をした父のようなことが起きないよう自制もするだろう。あるいは酔って喧嘩抗論もしないだろう。

昔は新聞少年や集団就職もあった。選挙ならそれが唱える種になった。以前、コラムで紹介したが小泉進次郎氏も小学校から新聞配達をしていた。だが、かれは売り文句にはしなかった。在学時の野球部もそうだが、それが政治家の必須条件だとは思っていない。

いわんや東大法学部、松下政経塾出身、早稲田弁論部なども人格とは何ら関係のない附属の名称だ。

それが彼の目指した政策のためと虚構を甘んじて包み込んでいるかならまだしも、我欲と道連れになるにつれ人相は変容し、口角や音声にもその見識は浮かばなくなってしまった。

中野の宝泉寺に戸叶 武の墓はある。そこの石柱には「意志ある処 途あり」と刻まれている。子息は選挙事務所にも出入りしていたが、落ち着いた物腰は柔らかく誰から見ても信頼感があった。「期待している、心配もしている」複雑な境地を筆者に吐露した。下村君の色紙にはその刻字が記され、同僚議員もそれに倣ったものが多い。いっとき流行ったのは「一隅を照らす」だが、国民の掲げる多くの灯で国を照らす(万灯照国)の気風には届かない。









世俗の成功価値と幸せ感は彼を「大したもの」という。
所属派閥の伝統的利権は文教畑だ。そして手垢のついていない畑はオリンピックだ。
それを双方任せられているのは総理との別の意味での信頼感だろう。
手柄を誇る目障りなカエルくんを排して、これまた目障りな元老を床の間に座らせ、これからという時だが、その若者達に似合わない未熟で陰湿な謀は国民を黙らせても、彼らの在ることを知らない天意は叱責を与えるはずだ。

全国津々浦々、そんなことで熱狂と偏見でいがみ合う選挙とは何なのだろう。
これは数字ではない。眺めるべき世界だ。

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06 一次安倍政権のころ  「バウチャー制度よりもチャーター校を」

2015-02-07 14:54:32 | Weblog
教会を会場にした寳田時雄氏の「郷土の寺子屋」  津軽平川市にて




萬晩報主宰 伴 武澄 006年09月22日(金)



 ■わくわく感が乏しい安倍総裁誕生

 自民党総裁選で9月20日、安倍晋三総裁が誕生した。メディアは大騒ぎしたが、既定路線で新味がない。それどころか小泉純一郎政権が誕生した時のような国民的高まりに欠ける一日だった。

 若さを強調しての出馬だったが、演説は空虚で訴えるものがない。どうしてこの政治家がそんなに人気があるのか不思議で仕方ない。政治家は国民を鼓舞する 言葉が不可欠だと思ってきたが、わくわくさせるような期待感が今後、この政治家から生まれるとは思えない。拉致問題で北朝鮮に対して強硬姿勢を"貫いた" ことになっているが、負けるはずのない相手に強硬姿勢を示したところで偉くも何ともない。僕はそう思っている。

 せっかく総裁に当選したばかりなのに、みそくそにいってはかわいそうなので、安倍新総裁の政策で一つだけ注目している点を上げたい。

 教育改革の中で述べているバウチャー制度である。これはひょっとしたらおもしろい結果を生むかもしれないのである。津々浦々に特徴ある寺子屋が復活するかもしれないのだ。



 ■ミネソタ生まれのチャーター校

 そもそもこの制度は1990年代のアメリカで生まれたチャーター・スクールという概念の一部なのである。ミネソタ州の市民団体が提唱し、1992年、同 州のセントポールで初めてのチャーター校が生まれ、2005年時点で全米40州3600校にチャーター校が運営されているという。これらのチャーター校に 通う児童生徒は全米の3・3%の及ぶというから侮れない。

 チャーター校は、画一的な公教育の弊害から脱却することを目的に、いわば教育の民営化を図ろうとするものだった。地域の先生やPTAらが自分たちがつく りたい学校を考え、教育委員会などの公的機関に認められるとその学校に生徒数に応じた公的資金が投入される制度。地域の人々と公的機関との契約で成り立っ ていて、契約期間内に目的を達しないチャーター校は「廃止」される。

 目的はいろいろあって、理科系教育に徹する学校、芸術中心の学校、不登校児を集めた学校など千差万別である。江戸時代の寺子屋を復活してもいい。ようは 教育の理念の多様化を住民に委ねるということだが、白人だけの学校が生まれたり、地域の教育格差が生まれるなど批判もあるし、廃校になるなど多くの失敗例 もある。


 地域の教育を民間に委ねるというこの制度は、もちろん地域住民による手作りの学校もあるし、まるごと教育企業に丸投げされる場合もある。アメリカ最大手 のエジソン・スクールは100校以上を運営し、7万人の生徒を抱えるという。日本の公文もアメリカでチャーター校の一部を請負っているらしい。
 
 民営化は学校全体の運営だけではない。バウチャー制度は一人当たりの教育費を計算し、私学に通う児童生徒に対して、それ相応の公的負担を行うというものである。

 チャーター校もバウチャー制度も公立校からみると、その分、予算が減額になる。教育水準を上げたり、教育環境を改善する努力を怠るとさらに生徒が減少す るという危機に迫られる。そもそもが競争原理を導入することで公立校のレベルアップを図るのが狙いだった。目的は教育全体のレベルアップだから、公だとか 民にこだわらない。最近の議論はほとんど調べていないが、ここらがアメリカ的である。



 ■教育は本当に義務なのか

 古い話だが、2000年12月5日に「私学より授業料が高い公立小中学校」というコラムを書いたことがある。
 http://www.yorozubp.com/0012/001205.htm

 日本の小中学校の公的負担が一人当たり80万円以上になっている実情を紹介したのだが、国と地方がつぎ込んでいる教育費が巨額なわりに、そのお金がどのように効率的に使われているかはほとんどブラックボックスの中なのである。

 もし公立校が民営化されたら、今以上に結果責任を問われることになり、お金の使い方もより透明化されるのではないかと思う。

 1998年3月1日には「豊かな北海道に義務教育は似合わない」というコラムも書いた。これは「北海道独立論」シリーズの一部として読んでほしかった。
 http://www.yorozubp.com/9803/980301.htm

 子弟教育はもともと私学から始まっていたが、列強の時代に富国強兵という国家要請の下に義務教育などという制度が生まれた。平和で豊かな時代に何も強制 しなくともみんな勉強するだろうという発想である。公教育を否定したのではなく、「義務」という概念に引っかかりを感じたのである。

 さて日本にチャーター校やバウチャー制度などが導入されるとどうなるか。ひょっとしたら津々浦々の塾が公教育を壊滅に追い込んでしまうかもしれない。そ んな不安もあるが、公教育のレベル向上が求められている時代にアメリカですでに定着しているチャーター・スクールについて功罪を含めて考える必要もあるの ではないかと思っている。
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