10月28日津軽弘前は抜けるような青空だった。
今どきは見る事が少なくなった戦没者を祀る忠霊塔だが、この弘前では、゛マサカ゛とおもえる威容で建立されている。
戦後のGHQ(駐留連合軍司令部)の指令で各地の忠魂碑、忠霊塔、あるいは軍国主義の国威発揚のために建立された施設、建物の多くは取り壊されたが、ここ弘前では無傷のまま遺されている。
あの八甲田雪中行軍で有名な弘前師団は日露戦争の陸戦のターニングポイントであった黒溝台の激戦を勝利した師団としても有名である。
そのせいか当地では自衛隊との交流も多く、東京ではついぞ見なくなった自衛隊の市内行進が秋に市民の盛大な歓迎のもと大々的に行われる稀で貴重な地でもある。
今でも現地採用赴任が多く退職してもその連携は強いものがあり、OBもその歴史を誇りにして、妙な話だが歓楽街でもその辺の公務員とは違い、兵隊さんは歓迎される存在でもある。
津軽郷学 筆者
忠霊塔に戻るが、高さは6階建てのビルと同じ高さの威容を誇り、敷地が広くないと見上げるのにクビを痛めてしまうほどだ。一階の基室は展示室となっているが、そこまでは地上からの階段が下に続いている。
今回はその部分に忠霊塔の意義を新たな石版に刻んだことによる記念除幕式典への参列だった。
実はこの威容を誇る忠霊塔がなぜ残ったかの解明も弘前行きの理由だったが、着いた途端その謎はとけた。
主催は「宗教法人仏舎利塔」、何のことは無い忠霊塔を釈迦の採骨(仏舎利)が安置してあると理由をつけて、゛これは仏舎利塔である゛と解体を回避したのである。
占領政策は成功したというが、どっこい当地弘前ではそれに逆らわず変化球を返したのである。さすが弘前出身の明治の言論人陸羯南が喝破した「名山のもとに名士在り」は伊達ではない。頑固で忍耐力があり、しかも進取の気概がある津軽人だが、いざというときの頓智には恐れ入るものがある。
明治天皇の東奥巡視のおり東奥義塾では生徒が英語の歌でお迎えしたという、まさに辺地の郷学は驚愕の俊英を生み出す土壌でもあった。
そういえば中国近代化の魁となった辛亥革命において日本人最初の戦闘犠牲者であった山田良政、孫文の側近として唯一臨終に立ち会った弟純三郎の兄弟も弘前出身である。
津軽弘前には時代を見通す何かがある
それは忠霊塔が問いかけるように、津軽疲弊の折、偉人菊池九郎が喝破した「人間がおるじゃないか」に集約された歴史から人間への問いかけでもあるようだ。