武蔵野の一角、野火止用水の流れるところ老師の庵が在った。
東京裁判の被告を収監する巣鴨プリズンで教誨師を務めた花山信勝の居である。
思い出すように中空を見回し「書けないことだが・・」と
あの日、東條さんと話す機会があった。
官制学の優等生らしく理路整然と組み立てられた考察を述べられた。
自分は尋問官ではないので宗教観をもとに境地を同化させた。
理屈や検証された論理ではないが、東條さんは次第に寡黙になった。
そして「そのことが早く解っていたら・・」
それは米国の軍事力や国際的諜報や、名利に翻弄され肉体的衝撃を恐れ軍に阿ねた議員や知識人の語られることの無かった意志ではないことは老師も理解している。
老師の言は既成の人種国籍を問わず、人間の尊厳を人間が弄する世の諦観から解脱する術(スベ)のようなものだった。
「直にして礼無くば、すなわち絞なり」
正しいとおもわれる大義を謳っても、礼(譲る心の表れ、調和)が無くては、終いに自らの自由を締め付けて仕舞う、という意味ですが、そのことが人間の尊厳を毀損してしまうことを慎重に留意しなければならないことは、責任ある立場のたゆまぬ修練にあり、残念ながら官制学校歴では到底理解の淵に届かないものだ。
軍官僚の実行効率はその理論構成、説得要因において、前項に含有されている情緒を捨てることから始まるのが常ときく。
軍でなくても権力を構成する政治家、官吏、宗教家、教育者、知識人は己の意を従わせる不可を認知せず、知らぬ間に人間の尊厳とそのグランドである国家の深層の国力を毀損していることに気がつかなければならない。
つまり明治以降の国家、国民の名称が創生されてからの辿り着く結末を、歴史の俯瞰と民衆の下座観において先見(逆賭)する指導者選任の座標が狂ったのである。
護るべきものは何か? 国体か?
国体が存するそもそもの意志は、人間の尊厳を護持するものではないか。
尊厳は政治家が軽々に説く,生命、財産という欲望の糧ではない。
生命財産を以って人の仲良きこと(連帯)、それを永く続けること(伝統の継承)、そして超然として祈護専任する(天皇制)ことを妨げないための(清規[法律]陋規[掟、習慣]と、他から守る(武)をおこなうのである。
そのための情緒の涵養や人格の形成のための学問であり、宗教なのだ。
参議院出馬に際して以下のようなことを関係者にお伝えした。
『東條さんは東條家の一員として自らの身を切り込まなければなりません。なぜなら独りの人物の愛顧や誠心とは別に、明治以降の立身出世の風潮と、いまと同様の人の選別方法は、゛早く、間違いの無い゛情緒の無い事務管理型人間を排出しますが、国難における人物登用の有り様はその基準では収まりません。つまりそのような人間の大量輩出は軍の武力を背景とした硬直な集団を作り出し、器量、度量の乏しい人間しか生まれません。
明治以降、日本の自浄できない暗雲とはそのような人々の群れなのです。また議会の能力も無く、財界、軍官僚に阿る議員が多数輩出しました。日本は自壊したのです。制度やシステムではないし、いわんや外敵のせいだけではないのです。
現代でも続く此の状況を払うには、東條家として自らの身を削る覚悟を持ち、社会を清新なものに指し示さなければ意味はありません。
処刑直前に花山氏に自省をこめて述べた、「そのことが早く解っていたなら・・」という言葉を追い求めるのが由布子さんの勤めであり、東條家だから伝えられるメッセージなのです』
東京裁判の被告を収監する巣鴨プリズンで教誨師を務めた花山信勝の居である。
思い出すように中空を見回し「書けないことだが・・」と
あの日、東條さんと話す機会があった。
官制学の優等生らしく理路整然と組み立てられた考察を述べられた。
自分は尋問官ではないので宗教観をもとに境地を同化させた。
理屈や検証された論理ではないが、東條さんは次第に寡黙になった。
そして「そのことが早く解っていたら・・」
それは米国の軍事力や国際的諜報や、名利に翻弄され肉体的衝撃を恐れ軍に阿ねた議員や知識人の語られることの無かった意志ではないことは老師も理解している。
老師の言は既成の人種国籍を問わず、人間の尊厳を人間が弄する世の諦観から解脱する術(スベ)のようなものだった。
「直にして礼無くば、すなわち絞なり」
正しいとおもわれる大義を謳っても、礼(譲る心の表れ、調和)が無くては、終いに自らの自由を締め付けて仕舞う、という意味ですが、そのことが人間の尊厳を毀損してしまうことを慎重に留意しなければならないことは、責任ある立場のたゆまぬ修練にあり、残念ながら官制学校歴では到底理解の淵に届かないものだ。
軍官僚の実行効率はその理論構成、説得要因において、前項に含有されている情緒を捨てることから始まるのが常ときく。
軍でなくても権力を構成する政治家、官吏、宗教家、教育者、知識人は己の意を従わせる不可を認知せず、知らぬ間に人間の尊厳とそのグランドである国家の深層の国力を毀損していることに気がつかなければならない。
つまり明治以降の国家、国民の名称が創生されてからの辿り着く結末を、歴史の俯瞰と民衆の下座観において先見(逆賭)する指導者選任の座標が狂ったのである。
護るべきものは何か? 国体か?
国体が存するそもそもの意志は、人間の尊厳を護持するものではないか。
尊厳は政治家が軽々に説く,生命、財産という欲望の糧ではない。
生命財産を以って人の仲良きこと(連帯)、それを永く続けること(伝統の継承)、そして超然として祈護専任する(天皇制)ことを妨げないための(清規[法律]陋規[掟、習慣]と、他から守る(武)をおこなうのである。
そのための情緒の涵養や人格の形成のための学問であり、宗教なのだ。
参議院出馬に際して以下のようなことを関係者にお伝えした。
『東條さんは東條家の一員として自らの身を切り込まなければなりません。なぜなら独りの人物の愛顧や誠心とは別に、明治以降の立身出世の風潮と、いまと同様の人の選別方法は、゛早く、間違いの無い゛情緒の無い事務管理型人間を排出しますが、国難における人物登用の有り様はその基準では収まりません。つまりそのような人間の大量輩出は軍の武力を背景とした硬直な集団を作り出し、器量、度量の乏しい人間しか生まれません。
明治以降、日本の自浄できない暗雲とはそのような人々の群れなのです。また議会の能力も無く、財界、軍官僚に阿る議員が多数輩出しました。日本は自壊したのです。制度やシステムではないし、いわんや外敵のせいだけではないのです。
現代でも続く此の状況を払うには、東條家として自らの身を削る覚悟を持ち、社会を清新なものに指し示さなければ意味はありません。
処刑直前に花山氏に自省をこめて述べた、「そのことが早く解っていたなら・・」という言葉を追い求めるのが由布子さんの勤めであり、東條家だから伝えられるメッセージなのです』