まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

小人のみる秤の目盛 手垢、目垢、耳垢 14 2/5 再

2021-08-31 04:51:36 | Weblog

桂林 悠遊


人は腹を見せるといっても五分か多くて六分、また瞬時の秤取りは集中力と緊張感の成せるものだが、大人は見切った相手には腹をみせて返りのアクションを読み取る戯れのような余裕がある。

小人はそれでも慣れてくると逆に秤(器量、度量)を計ってくる。それでも明確な意思表示もせず、逆に許容を表すとコソコソと(※)口耳四寸の口舌を駆使するようになる。
(※)口と耳の間隔は4寸(約12cm) 考えもなしに聞いた話を口に出すこと

一旦は旅に出るように距離を置くようになるが、もともと知ったかぶりが板についていないせいか困惑する問題が生ずると恥も外聞もなく助力を請うてくる。
このような小人の群れが多くなった。全てが半知半解なのである。恰好をつけて鼻をふくらませてもコソ泥のような影の行動は余計に計算高い人間をつくってしまう。

なにか成果を上げたいと思っても、五、六分の腹見せをすべてと思い込み、押さえるところさえ曖昧なため意図しない結果がでる。己の未熟を棚において、知っただけで、解ったと早とちりするノ―天気さはオッチョコチョイさえ超えた状態になる。

達人は弟子に罠モドキを掛けることがある。武者修行もそうだが戻った時が肝心だ。のぼせ上がるか、落ち着くか、それとも己の足りなさを知るか、それを以て器量や度量の涵養を観るのである。

研究者でも、実験経過を熟知したとしても似たような実験で同じ結果が出るとは限らない。陶芸など匠と称されるものや、農漁業でもそうだろう。よく絵描きが高名になりバラや景色を描いた場合、手が震えてまるで幼児が書きなぐったような画を描き何千万もの値をつけることがある。

これは精神、体力の循環のようなもので、幼児、少青壮と経て老境に入るなり、立身出世なり名利の欲求も枯れて、しかも単に浮俗で高名ゆえに到達点として勝手解釈されるようだ。手の震えや目の衰えさえ卓越した老境と褒められる。まるで双方とも児戯だ。

実際に本人に聞くと、若さへの嫉妬、若き女性への恋慕はより深くなり、金も自由もあると余計に残酷な境に入るという。コレクターをあざけ笑うように勝手気ままに色彩をつければ適当に意味をしつらえて、作品数が少なくなれば値も上がる。

弟子も真似して、へんてこな絵をキャンバスになぞれば、それも一派は構成するが歴史には残らない。いちばん難しいのは無垢な幼児の心で描くことだ。だが、それを描けたとしても到達だの境地などと騒ぎ立てられる。いずれも商業芸術の世界だが・・・
書も絵画も文も壇と呼ばれ括られるが、それぞれ弟子だの系統だの言いたてる。それが食い扶持ならそれも意味があるが、このいい加減な、さして信用度や技能度がなくてその世界のみの秘密の思惑は崩れることなく続いている。

それでも弟子は近づき、半知半解で世間に出て位(くらい)取りをする。内容は縁の利用と模倣しかない。弟子も軽薄な世間に持て囃されると師を離れ独立を装うが、一過性の利食いである風呂敷画商や出版社の餌食となって多作を繰り返し、目垢がついて飽きられてしまう。

猫ナデ声で師のもとに舞い戻るが、器量も度量も矮小になり目盛も動かない状態になっている。このように学の世界、商の世界、芸術の世界にも「その他一同」が存在し、 寄らば大樹とばかり「壇」や「界」の寄生虫となって些細な名利食いをしている。

この世界では物故作家といって亡くなってから名声が上がることが多い。文では宮沢賢治、絵画はゴッホが代表的だが、生存中は当時の人称で乞食か偏屈者と蔑まされる作家も多かった。












前に書いた「目垢」だが、触れば手垢、多くの人の目に触れると目垢になる。

ピカソも隠しておけば3億、困って人に見せ回れば5000万の世界だ。「俺も見た、誰も見た」の果てだ。
コレクターにも色々あって人に見せたいものもいる。よく応接間に褒章や感状を並べ立てる人たちだか、一方は蔵や書斎に飾って人目につかないようにしたり、なかには購入したまま箱もあけずお蔵入りもある。作家も多くの人に知ってもらいたいと思う人もいれば、無名でもこれはと思える人物に保持してもらいたいと考える作家もいる。
まるで私生活を晒さない映画女優のようだが、これも価値を高めることだ。古都の画商は数百年ものあいだ蔵に秘匿して商いするが、目垢どころか初公開で商売する

文壇は懸賞募集から有名作家となり、多くのスタッフを抱えて名前だけでヒットを飛ばすことに汲々としているものもいるが、不況の折か総じて不慣れな口舌を駆使して講演で稼ぐようだ。一昔前は文壇バーやサロンで変態じみた姿態を愉しみ、男色に勤しむ者もいたが読者大衆の面前には顔を出さなかった。矜持なのかイメージの崩壊を危惧したのか、そこのところは妙な理屈が飛んでくる世界ゆえ憚るが、総じて容像体が崩れている。
ゆえか、彼らが大衆の面前に現われるようになったころから世間は混沌として、かつオボロゲニなったとも云えなくもない。

どこから来たんだ、腹減ってないか、お茶でもどうぞ、昔は旅人に軒や空き部屋を貸して泊めることは普通だった。なにも旅籠だけではない。
そのうち、危ないからやめとけ、どこの来たれもんだ、あるいは旅人も、そんな旨い話はない、何かいわくがありそうだ、と変わって来た。
そんな裏読みとそそのかしをするのは、都会の利功モンと相場は決まっていた。

相続税と分与で締め付ければ人の世話など焼いてはいられないと思ったのか、郷の長も善意なお節介も、無くなった。あのころは介護も福祉もそう話題にはならなかった。
潜在する情緒を壊せば社会の足腰は弱くなり、国家もいらぬことをするようになり、税も過大になる。バカげた循環だが、戦後レジームはこの部分だということに目がいかない。

そろそろ為政者の言も目垢ならず、耳垢が付いたようだ。
耳の穴をかっぼじって、よく聞け、と親父に叱られたが、膝枕に耳掃除、これもままならない。

やはり、何ごとも無垢がいいとおもうのだが・・・

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真実を演ずるものは寡黙で筆も拙い    11 1/10再

2021-08-28 01:41:50 | Weblog

 

往々にして記録というものは当事者である演者が記すと感情的とか記憶の間違いだとか批評の対象になることがある。

 

逆に 、見てきた如く著す第三者もいるが、商業出版の徒である売文の輩になると曖昧なところは小説風に仕立て、辛苦や戦闘での肉体的衝撃を格好のよい納まりで書き綴っている。

 

以前、湾岸戦争が茶の間のテレビでコーヒーを飲みながら観戦した。不謹慎極まりないが、トマホークの発射と着弾の様子がリアルタイムで映し出されると手元のカップを思わず強く握っていたことを思い出す。現場は阿鼻叫喚の殺戮である。これはどちらに共感するかの問題ではない。

 

まだテレビが普及していなかった頃には大勢の人が街頭に設置したテレビが放映するプロレスに熱中した。そのときも力道山が外人レスラーを、゛やっつける゛度に身体を揺すり、握りこぶしをつくって熱中していた。

 

慣らされると戦争もプロレスも番組が始まる前からテレビの前に陣取り、駄菓子や飲み物を用意して待ち受けるようになった。ワイングラスを傾けながら状勢の薀蓄を語るのも流行ごとのようになった。

 

プロレスにはリングサイドには記者がいて、海戦には観戦武官がいた。ベトナム戦争のときは花形報道カメラマンが殺戮現場や子供の泣き叫ぶ様子をおさめた写真によって賞を競うようになった。

 

あの豊田商事事件ではマンションの窓を壊して侵入する殺人犯と惨殺された社長を写し取っている。はたして大勢の記者は止められなかったのだろうか。その公開処刑のような様子も金になり賞として褒め称えられる。

 

観戦武官は弾が当たればもろ共だが、名利と引き換えの、゛命懸け゛という取材仕事も、運悪く亡くなったり、障害を負うと賞賛されるその世界の独特な掟も存在する。

ただ、あくまで銃の打ち合いと殺戮現場を伝える第三者の話だが、これには知る権利と称して洪水のように切り口を変えて垂れ流され、視聴者である受け手の多少によって商利が左右される。

 

しかも思索観照なのか娯楽なのか、はたまた流行の情報カルチャーなのか判らない不特定多数に向けたものであろう。

 

 

 

視聴者は勝敗の結果訪れる経済的獲得や勢力版図の書き換えとともに、勝者への忠恕の促しと、敗者への哀悼によって民族の資質を考察した。昔は我国でも死体から首を切断した首獲りや、耳獲り、あるいは婦女子の強姦などごく普通に行なわれていたが、キリスト教に帰依して贖罪を請うアメリカ軍も南方での首獲りは多く行なわれた。

 

首、つまり頭部骸骨を土産として持ち帰るために砂浜においてカニに肉を喰わせ、乾燥させて白や赤、黄色のペンキを塗ってジープにぶら下げたり、故郷の土産となり電球やロウソクを入れた照明にした。腕や足の骨はペーパーカッターとして細工を行いルーズベルト大統領も日本人兵士の遺骨で作ったペーパーカッターを愛用した。

 

これが南方戦線の勝者であり敗者の姿だった。武人の戦いは肉体の散華ともいわれるが、そうされない為にも徹底的に戦うのが当然だ。事後はともかく、死後肉体が温かいうちはズボンを脱がせ陰茎を切り取り口の中にねじ込んだり、金歯を銃床で叩き割りポケットに収集することも行なわれた。

 

これは当時の観戦武官の報告である。

この姿は茶の間のリアルタイムでドリンク片手に観戦できない。

現場の臨場とはそのようなものである。

 

近ごろ子供たちに家畜のトサツを見せようとする試みがある。あの鯨の捕鯨でモリを打ちこんで船上で部位に切り、刻むあの姿を、豚や牛、鶏といった食用動物の人為的絶命と部位に別ける臨場を体験する試みだ。ただ、これも教育的見地から刺激が多い、残酷だ、との声が壁となっている。

 

崇高だかビロウにも映る性交や出産をあからさまにすることはないが、バーチャルな映像や増幅された情報が氾濫している中において、商業出版の限界すら知識情報の充足点として見ざるを得ない現状や、思索や観照の本(モト)となる考察の軸の不確定さがより人々を盲流の群れのようになる昨今、怖いもの見たさの刺激こそ人の情感を研ぎ澄ます試みになるのではないかと考える。

 

「吾が身をツネって人の痛さを知る」

 

あの頃は酔っ払いの喧嘩があった。痴話げんかの大声も聴こえた。

いまや陰湿な噂や、子供をせっつく母の声がこだましている。

江戸の町は整理、整頓、清潔であった、と外国人が記している。

いまは部屋中物で溢れ、整理もつかなく、掃除もできない婦女子が多く、こちらは江戸と同様にでき合いの買い食いが多い。ちなみに江戸では多くの男子が独身で長屋には炊事場もスーパーもなかった。

 

コンプライアンスという掛け声の自縛が働く者のを虚ろにさせている。しかも煩雑で人を信用することなど無意味であり、数字と時間しか判別の方法が無いくらい締められている。街頭でも緑虫と揶揄される一群の取締りが徘徊している。高給取りの税官吏も「差し押さえ」が脅しの常套句になった。

国民は、言い逃れと、貰えるものは何でも手を出すと思っているのか、妙なお手盛りが投網を掛けたように蔓延している。

 

どうもこの社会は青瓢箪といわれた臨場体験のない暗記知学の群れによって民の元気すら収奪されているようだ。

 

聖徳太子は人間の自由を担保するために、人々とは互いの尊厳を護らなくてはならないと説いた。まさに人間の尊厳を毀損する権力は、政治、官吏、教育者、宗教家、いまでは金融資本家であろうが、十七条ではその者達の規範を定めている。ちなみに昨今の現象をそれぞれの職域役位に当てはめてみればよく判る。

 

下座観、臨場感、肉体的勤労実態体験、戦場における肉体的衝撃、あるいは官学マニュアルにはない歴史の栄枯盛衰と人間の所業など、すべてに欠ける青瓢箪の責任回避のための詐学や識(道理)の欠けた知学は、真実を屏風に隠して民の情緒性すら衰えさせている。

 

売文の輩、言論貴族の食い扶持に供しないためにも、衰亡の本質を思索観照する心の在り様を、鎮まりを以って考える、今こそその臨機ではないだろうか。

 

                              イメージはブラジルより転送

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 日台に不可欠な世代のバトンタッチ あの頃

2021-08-20 06:33:56 | Weblog

 

                                     中央     蔡亜東関係協会秘書長

 

最終日、われわれ一行を昼食に招いてくれたのは台湾の亜東関係協会秘書長の蔡明耀氏。一市井の訪台団としては異例の厚遇を戴いた。三年前、青森県平川市で開催したシンポジウムに当時、東京の台北駐日経済文化代表處の政務部長だった周氏が参加してくれたことがわれわれと台湾政府との関係を一層深めるきっかけとなった。

 

蔡明耀秘書長 歓迎挨拶 

 ようこそ台湾にお越しくださいました。ご存知のように台湾では一月一六日に国会と総統選挙があり、野党の民進党が勝利した。五月二〇日に政権交代となる。日台関係には何の影響もないと思う。逆にこれからの日台関係はもっと緊密になっていくと確信している。亜東関係協会の仕事は日本との交流促進、また日本との親善のためつくられた組織。これから世代のバトンタッチが必要だ。ご存知の通り台湾では、日台交流を支えてきた日本語世代も八〇歳、九〇歳になり、退場が間近い。だからこれからの台湾では次の世代として日本語を理解する世代、日本への親近感を持っている世代をつくらなければならない。こういう世代を育てていくために引き続きお力を給わりたい。一方、日本でも台湾をもっと理解する人々を増やしてもらえたらありがたい。

                

【数値で測れぬ情緒】

 寶田訪問団々長謝辞

 まず蔡秘書長、周アジア局審議官。林秘書組長に、お忙しい中、私たちのために昼食会を開催いただき感謝します。訪台は今回で五回目になる。私たちは経済や政治交流ではなく、あくまで一民間人として、非生産的世代、つまりお年寄りや子ども、小学校や教護施設、高齢者施設など、通常の日本人の行かないところを訪問してきた。一つは高齢者を見ることでこの国がどのような歴史に向かっているかが分かり、子どもを見ることで将来どのような国をつくっていくのかが分かります

 経済や軍事力は単に努力すれば数値が上がる世界だが、深層の国力はやはり深いところにある情緒性にあると思う。一昨年、周さん、奥様もわざわざ津軽まで来ていただいた。われわれのような無名の志に対して篤いお気持ちを抱いてお越しいただいた。台湾政府の大勢の方々がこれほどまでに私たちのためにスケジュールの御手配、調整をしていただいたことに 感謝しています。これからも大勢の日本の若者たちあるいは市井の人たちが台湾を訪れると思う。こういった国や地域を越えた人情でかかわりを深くすることで、経済など数値で表せるものがいくらか厚みをもって理解されるのかという気がします。本日は本当にありがとうございます。

               

                      

                      周 学佑 審議官

周学佑 亜細亜局審議官

 本日、乾杯の音頭を取れということであります。台湾と日本は最も大切にすべき間柄です。共通の財産はお互いの温かい国民感情であると思う。今後とも日台の交流をさらに向上させるよう最大限努力する所存です みなさんのご健勝そして台湾と日本のさらなる倍返しの友好親善を祈念して乾杯。(拍手)

              

               

               法務部台北観護署 (日本の少年鑑別所にあたる)

 

 

 【荘淑旂先生の弔問がもう一つの目的】

               

                  荘博士との交流

               

              中山老人住宅での松崎さん

 

 松崎敏彌 (週刊女性自身 皇室記者)   2016 5/20号女性自身に交流秘話を掲載

 私がこの訪問団の一行として参加したのは、以前に知り合った荘淑旂先生が去年二月に亡くなり弔問したいと思ったから。昨日は先生の三女、莊壽美さんらと荘先生が亡くなった時の話をうかがった。荘先生は中医といって西洋医学と東洋医学を学び、慶応大学医学部で学び、特に皇后陛下の美智子様がご体調を悪くされた昭和三八年から約二〇年皇后様の健康指導をしていた。荘先生がお元気だったころに、毎朝、神宮外苑を散歩して体操とか呼吸法とかを指導していた。

 美智子様は当時、皇太子妃でそういう会に参加できなかったので、定期的に東宮御所にうかがって食事指導とか体操とか、日常生活でどうやったら健康になるかご指導した。ある人からその話を聞いて、荘先生に話を聞いて記事を書こうと思った。原稿の締め切りの日に宮内庁の東宮侍従長から電話があり、宮内庁としては正式に発表したものでないので事前に原稿をみせてくれと要請があった。編集長に相談すると「そんな必要はない。宮内庁とけんかしても押し切る」と言った。荘先生に話したら「宮内庁とトラブルになったら困るだろう」ということで、先生は直接、記事の話を美智子妃殿下の耳に入れた。

妃殿下は「全然かまいません、私が先生にこんなにお世話になって健康になっているのだから、できるだけ多くの人に先生の存在を知らせるようにしてください。侍従長には私のほうから話しておきます」といわれた。美智子妃殿下から直接オーケーが出たものだから荘先生は感激した。私は荘先生のことを書くことで日本と台湾がさらに近づけるような仕事になるという思いがあった。今回、ご家族の方々にいろいろお世話になりましたという気持ちを伝えたかった。

 

 【台湾の緋さくらを津軽に】

              

              

                 皇居東御苑の琉球緋さくら

 松崎 皇居の御所に台湾ヒザクラがある。もともとは白金台にある台北経済文化代表處にあったものを北白川殿下がいただいて、皇居に植えたものだ。

 寶田 弘前は日本でも有数の桜の名所。せっかく台湾と深い関係になったのだから、台湾ヒカンザクラを植えたら青森県民も喜ぶ。皇居の枝を伐るというのは畏れおおい。なんとか台湾から持ってこれないものか。青森県知事には平田さんを通じて話してあるし、弘前市にも話してある。希望は行政だけがやるというのではなく、一般の人が台湾からサクラを迎える会をつくってくれればと伝えてあります。

  この一〇年、台湾で日本のサクラを広げる努力が進んでいる。おかげで台湾のあちこちで日本のサクラが楽しめるようになっている。

  緑青園が一働きをしてはどうか。津軽で台湾ヒザクラが見られるようになったらすばらしい。

 蔡 この件は、林組長にやってもらいましょう

 

                

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岡潔と安岡正篤の符合する、教育の根幹と意志

2021-08-17 13:38:04 | Weblog

今どきは・・・と批評があるだろう。

学び舎の数値選別に血道をあげた学徒の群れには、学びは過去のことなのだろうか。

いや、入れる箱もなくなり、量で表す「器」「度」も人物を測る目安ではなくなった。

以下は、見たり読むだけではなく、世俗では異論ではあるが「感読」「観読」を試みていただきたい。

 

                                         

           朝日新聞  文化・文芸より

 

前ブログ「教員免許?」の関連稿です。

       

数日前に友人の賢者に偶成だが、奇怪な考えを呈上した。

また、学縁をいただいた安岡氏の自宅書斎での諭しを想起して、人物造化の教育論に同じような薫りを利いた。

岡氏は世界的な数学者、安岡氏は碩学と謳われ多くの事績を遺している。

        

 

   岡 潔 氏

 

 

以下メール文・・・・                          

≪ 賢人の各位 殿

 無学の拙意ですが・・・、我が身を脚下照顧してご感想をいただければ幸いです

 以前、アジアは未開で野蛮といわれ植民地になった。

しかし支配は変わっても滅びることはない。このロングヒストリーを構成し、支える要因に人間がいる。自然界への諦観は支配者にも通用した。そしていつの間にかいなくなった。
 

この一連の経過にある柔らかさとしぶとさを論理的に表せないか、と友人に問うたら、複雑系数学で解けるという。面白かっのだが、理解の淵には届かなかった

 最近、居酒屋の隅っこでめったに読まない朝日新聞を片手に一人酒を呑んでいたら、数学の本質は「論理ではなく情緒」と書いた記事に凝視した。

「多変数複素関数論」
 複雑な要因を以て多面的に変化するものの数値的関係、とでもいおうか、まるで国家や社会なるものの構成要素だ

 当ブロクでも再三「複雑な要因を以て構成されている国家なるもの」と、師の言を仮借している。
 たしかに理屈より、それを関係なさしめているのは情緒なのだろう
 ゆえに神とか教えとか、こねたものより、精霊を情緒の元とすれば複雑感は解消し、多変は収斂して結び合うだろう
 

 無学の妙だが、これなら疲れたら空を眺め、せっせと土と草木の関係を熟知した農民の方が実利として浸透している
 まして宇宙空間の微粒として地球が浮遊しているとして、考えを人間に当てはめれば、まさに構成の要は情緒交換の潤いの恵みであろう。

 宇宙域の限界は未定だが、枠を仮に想定して、当たって戻る波動の強弱が存在するとしたら、枠の弾力性も想定域に入る。

ゆえに人間の許容量、思索の柔軟性、観照力、そして他に対する多面的な対応力、突破力、まさに愚成で筆者拙考した「人間考学」というべきものだ。

 岡氏は靖国神社出版の「靖献遺稿録」に安岡氏と巻頭を記している。
 ここで、改めてその献言を拝見し、情感の豊かさに敬服するのである。
 こんな数学教師がいたら、少しは面白かったろうと慚愧する。
 

 なにしろ、あのころは計算が立つ男は人から心配された頃だ。

 しかも数値で人を選別することなど、と、数字の学には触れなかった。
 まして身を崩すのもこの手の金勘定の装い学だ。高学歴・高収入の滅びは、情感の薄い金勘定とケチらしい。
 岡氏の学を巧く活かせば、この手の学問なら少しは人に役立つだろう
 まさに括目する紹介記事だ。≫

                   

 

     

      安岡正篤 氏

 

無学で体系もない前のめりの拙意メールだったのか、周囲の賢人からは応答もない。

安岡氏や鬼界に入った昭和の賢人なら腹を抱えて笑い、そして「じっくり考えてみる」「何かの既説にはまらないか」と、珍奇な思考に面白がるだろう。

こちらは苦、迷、狂の入り混じった官制学の在籍経過学舎になじまない情と感の浸透学ゆえ、納まるものもないことは承知している。しかし、彼らの風儀の薫りや老齢ゆえの優しさは体感している。

そして辿りついた境地から発する、人のため、自然との調和のため、の在るべき教育の姿と現実との対比、また彼らの説く人物造化への問題意識は、浮俗に生きる徒に痛切な啓示として覆いかぶさるのだ。

ここで、岡氏の教育論と安岡氏の論を掲載し、拙者の備忘として、部分考察や片々考察ではなく、多面的、根本的、将来的な推考として賢読して戴ければありがたい。

 

     

倫理御進講草案を著した天皇侍講 杉浦重剛

 

≪岡 潔氏の教育論≫

 

学校を建てるのならば、日当たりよりも、景色のよいことを重視するといった配慮がいる。しかし、何よりも大切なことは教える人の心(情)であろう。

国家が強権を発動して、子どもたちに「被教育の義務」とやらを課するのならば「作用があれば同じ強さの反作用がある」との力学の法則によって、同時に自動的に、父母、兄姉、祖父母など保護者の方には教える人のこころを監視する自治権が発生すべきではないか。

少なくとも主権在民と声高くいわれている以上は、法律はこれを明文化すべきではなかろうか。 

 

       

  台湾の父母後援会は校長の罷免権がある

 

いまの教育では個人の幸福が目標になっている。

人生の目的がこれだから、さあそれをやれといえば、道義という肝心なものを教えないで手を抜いているのだから、まことに簡単にできる。いまの教育はまさにそれをやっている。

それ以外には、犬を仕込むように、主人にきらわれないための行儀と、食べていくための芸を仕込んでいるというだけである。

 

しかし、個人の幸福は、つまるところは動物性の満足にほかならない。

生まれて六十日目ぐらいの赤ん坊ですでに「見る目」と「見える目」の二つの目が備わるが、この「見る目」の主人公は本能である。そうして人は、えてしてこの本能を自分だと思い違いするのである。

 

そこでこの邦では、昔から多くの人たちが口々にこのことを戒めているのである。私はこのくにに新しく来た人たちに聞きたい。

 「あなた方は、このくにの国民一人一人が取り去りかねて困っているこの本能に、基本的人権とやらを与えようというのですか」と。私にはいまの教育が心配でならないのである。

 岡潔関連サイトより転載

                  

                  

 

たとえ皇太子でも相撲で投げ飛ばしたという御教育掛 山岡鉄舟

 

 

 

≪安岡氏の趣意書撰文≫

          今と変わりがない・・・、昭和6年

 

 

「日本農士学校創設の趣意」 
          現所在 (財) 郷学研修所
               安岡正篤記念館    

 人間にとって教育ほど大切なものはない。

国家の運命も人間の教育に掛かっていると古の賢人はいう。真に人を救い正しい道を歩むためには、結局、教育に委ねなければならない。そしてその大切な教育は現在、どのように成っているのだろうか。

 現代の青年は社会的に悪影響を受け感化されるばかりでその上、殆どといってよいくらい家庭教育は廃(スタ)れ、教育は学校に限られている。

しかも一般父兄は社会的風潮である物質主義、功利主義に知らずしらず感染して、ひたすら子供の物質的成功や卑屈な給料取りにすることを目的として学校に通わしている。

 その群れとなった生徒たちを迎える学校は粗悪な工場となり、教師は支配人や技術者、はなはだしく一介の労働者のようになり、生徒は粗製濫造された商品となって、意義ある師弟の関係や学問の求める道などは亡び、学科も支離滅裂となり学校全体になんの精神も規律も見当たらなくなっている。

 そのため生徒たちは何の理想もなく、卑屈に陥り、かつ狡猾になり、また贅沢や遊び心にある流行ごとに生活価値を求め、人を援けたり、邪なものに立ち向かう心を失い、ついには学問に対する真剣な心を亡くしている。
 
 男子にいたっては社会や国家の発展に欠かせない気力に欠け、女子は純朴な心に宿る智慧や情緒が欠けてしまった。
このようなことで私たちの社会や国の行く末はどうなってしまうのであろうか。

 さらに一層深く考えると、文化が爛熟(ランジュク)して、人間に燃えるような理想と、それを目標とした懸命な努力が亡くなり、低俗な楽しみと、現実から逃避するような卑怯な安全を貪り、軽薄な理屈によって正当化するようになってくると、このような人々は救済不可能になってくる。

 平安時代の公家も江戸時代の旗本御家人もこのようにして滅んでいる。

徳川吉宗も松平定信も焦ったのだか、権力や法では手の下しようも無いほど民情は退廃している。たとえ百万の法規でも道義の崩壊は食い止められない。

このような時、社会の新しい生命を盛り立てたものは、退廃文化の中毒を受けず純潔な生活と、しっかりした信念をもった純朴で強い信念を持った田舎武士であった。そのことは今もって深い道理には変化はない。

 この都会に群がる学生に対して、今の様な教育を施していて何になろう。

国家の明日、人々の末永い平和を繁栄を考える人々は、ぜひとも目的の視点と学問を地方農村に向け、全国津々浦々の片隅に存在する信仰、哲学、詩情、に鎮まりを以って浸り、もしくは鋤(すき)鍬(くわ)を手にしながら毅然として中央を注視して、慌てず、騒がず、自身をよく知り、家をととのえ、余力があれば、まず郷、町村を独立した小社会、小国家にして自らを治める自治精神を養うような郷士や、人々に尊敬される農村指導者を造って行かなければならない。
 それは新しい自治主義(面白くいえば新封建)主義というべき真に日本を振興することにもなる。

 

 

       

 農士学校  現 郷学研修所 埼玉県武蔵嵐山  

 

 農士学校は、さまざまな軽薄な社会運動や職業的な教育運動とはまったく異なり、河井蒼竜窟のいう地中深く埋まって、なお国家のために大事なことを行おうという鎮まりを護り、人々の尊厳と幸福を天地自然に祈るように順化し、人間としてあるべき姿を古今東西の聖賢の教えを鏡として、まず率先して行うべき行動である。

 金鶏学院の開設から四年が経とうとしている。我々は自身の意思と身体をこの場所に潜め、大地に伏し、地方農村に生活を営みながら、国を正しい姿に改新した先覚者、あるいは社会に重きをおく賢人とはどのような人格なのか、また学問や教養の積み重ねを、いかに勤労をとおして励んだらよいかを研究しつつ、さらにその間、私たちのささやかな意思は、日本の中心に置かれている各方面の国を考える多くの国士とも交流を図ってもきた。

今の様相はもはや一刻の停滞を許さない。
 我々は自らの安易な生活をむさぼり、空理空論といういたずらに無意味な議論に安住してはならない。


 此処に至っては前記に掲げられた覚悟を行動に現すべく、屯田式教学(勤労しながら学ぶ「産学一体」)の地を武蔵相模の山々に囲まれた武蔵嵐山の菅谷の地に求め、鎌倉武士の華と謳われた畠山重忠の館址(やかたあと)を選んで、ここに山間田畑二十町歩の荘園を設立することができた。さすがに古の英雄が選択したところだけあって、地形、土質、環境に得がたいものがある。

 私はここに今まで寝食をともにして学問の道に励んだ有志とともに、日本農士学校を設立して平素考え求めていたことを共に実現したいと思う。

    昭和 六年四月
    安 岡 正 篤 先生撰
            

現代訳文責 郷学徒  寶 田 時 雄

 

     

 

≪卒業に際しての送別撰文≫

 

 

「送別の辞」


 諸君、期満ちて今まさにこの学園を去らんとする。
 
 古城の春色は又新たにし、秩父の山・槻川の流れ低回(俗世間の煩わしい物事を避け)を去るのも能わざるものあらむ。

 世の学校に学ぶ者は多し。然(しか)れども諸君は彼らとは学ぶ目的を異にする

 彼らの多くは立身出此の為に学校を選びて入る。だから彼らは知識を弘め技術を修めるといえども、これをもって人を排し(排斥、じゃまな人を押しのける)己を遂げる(自分を成功させる)。

 たくましい者は功を立てて名を誇るが、其の劣れる者は終身犬馬を相去る幾何(数量・一生涯犬や馬のような地位から抜け出る人の数)もなし。

 諸君が学びに求めるものは、初めより所謂(言うところの)立身出世の為に非(あたら)ず

 倫身・斎家自分を修め・一家をととめえおさめる〕に出て、窃(ひそか)に冶郷・、護国を期す。

 これをもって遂ぐべき(成し遂げる)己なく、排すべき人はなし。

 学問は安心立命(天命を悟り、心を安らかにしてなやまない)の為に開物成務世の中の人知を開発し、それによって世の中の事業を成し遂げる) の為にする。  ※「開成」「開務」(易經)


 造化むぞうさに、物質をよせあわせ万物をつくりだす・また自然を支配する道理)に参じ、道妙道理の不思議な機縁)を楽しむ。

 実に先哲の達意なり.器の大小・才の利鈍は敢えて憂いるに非ず

 ただ身の修らず、世の安んぜざるを是れを愁(憂う)う。この心を尽くば、大地一不朽(非常にすぐれて永遠に亡ぴない)なり。願わくば、これより世間の有名・無名の人に伍(ご・仲間になって)して、復た(再び)惑うことなかれ。

 古今東西の学者学説を羅列られつ・網の目のようにつらなり並ぺ)批判して愚夫愚婦を導く事は難しい事である。             
 欧州米国の文明・文化を嘲笑罵倒(あざけ笑い、ののしる)して、北狄〔中国北方地方にすむ民族〕南蛮(南力の野蛮人・タ・イ、ジヤワ、ルソン等)を支服(支配し従属)するような事は、諸君の倫理学・政治学にあたらず。
 

 諸君の孝行は一学の愚夫愚婦をも化し(かし・人格や教育によって接する人の心や生括ぶりをかえる「感化」「徳化」)し、蛮狼(野蛮で冷酷で欲深いもの)にも行わせるにある。

 人爵人から与えられた位・名誉)を求めず天爵天から授かった爵位・白然に備わった人徳のこと有天爵者、有人爵者(孟子・告上)天爵遊有、人爵(社会的地位や名誉)を楽しむところにある。
 

 これは、諸君は、底(すで)に知る所である。

 

          安 岡 正 篤 先生撰

        (   )内は筆者挿入

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日本人との応答 08 再 あの頃も

2021-08-11 00:55:08 | Weblog

                 
                  春は枝頭から・・




一、勝負は勝とうと思うな。負けまいと心に定めよ。

一、我欲を抑え、波風を立てず、人を先に立てよ

一、差し出た振る舞い、物知り顔をするは、愚かなり

一、人間交際の要は、親しき仲にも隔てあり


出典は徒然草だそうです。


             



2008年03月14日 13:03 応答

なかなかですね ・・・

漢学(唐学)や洋学のごとき外来に影響されたとしても、成文無き(不文)情緒や、民族的直感から導かれるセキュリティー、つまり五感にある潜在した能力を、自然界に謙虚に表現する邦学(国学とも)を見直す期が来ている。

似て非なる民族の、それも彼の国では「ハナシ」の類を無条件に戴くことを鎮考しなければなりません。



             


異文化の導入として漢字を・・
ビジネスの導入として英語を・・・
古人は様々な技法を活用して文化を取り入れ、また意思を交換するために共通文字を使用しましたが、宦官、纏足、科挙は拒絶しました。

同化を拒絶することで融解するものを知っていたのです。 
それは深層の国力を表わす情緒性です。

本居もそれを知っていたようです。


                



今どきはそのセキュリティーの在処も知らず、同化しつつあるようです。

とくに財貨への欲望です。

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「天皇たちの和歌」への投稿 再

2021-08-11 00:46:03 | Weblog


時々の気の置くところを豊かな感性で詠む素晴らしさが拝観される。時節観は過去と将来の間としての現在観を、大自然には感謝と祷りを本として沿い随うべき心を、それは大自然の一粒としての自覚と下座観による万象への透徹した観察にある。

それが習慣化された人格の投影として詠み歌がある。それらはアカデミックな分類や科学的考証などのすべが怒涛ように押し寄せた時代に対して、詠み歌によって座標の蘇りを映す意志がある。

あの、帝大巡視のおり、元田侍従に諭した「聖諭記」にみる専門部分の学究に分化した教育の仕組みに、「相」となる人物の養成を妨げる欠陥を指摘した慧眼にみることができる。

それは何を座標として自然や人物を観るべきなのか、また座標の狂いが数値評価やそれを具とした立身出世主義という、人格とは何ら関係のない附属性価値の装飾に堕すような不良な習慣性の行く末を烈しく諭していることでも、特別な位置での、特別な観点と重い責任を感じさせる。

未だその習慣性と塵ともおもえる風潮が国家の暗雲として漂っているが、国家、国民と呼称が始まった明治創成期の起点を改めて想起させてくれる陛下の忠恕である。

はたして、人の織り成す社会は、政治は、人の成功価値観は、そして日本人の性癖は、あれからどのように転化したのだろうか。

貴書から読み取れるのは、事績を学ぶより、人物から倣うことを教えてくれる。

つねに帯同すべき良書である。



筆者投稿レビューより

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実現したい高齢者の日台交流  回想

2021-08-05 15:49:28 | Weblog

     https://jisin.jp/domestic/1623599/  女性自身

  「美智子さまと母との手紙のやりとりは数百通にもおよびます。母が亡くなった後は、私が代わってお答えしたこともありましたね。今それらを読み返しているのですが、美智子さまのお言葉からは、日本国民のために健康であり続けなければならないという、とても強い“使命感”が伝わってきます」

 第六次訪台では国母がお世話になった荘シュクキ先生御弔問を台湾窓口亜東関係協会の協力で執り行った。

 

 

    

  子守歌協会 西舘好子さん 台南

緑青園は一般財団法人国際平和協会と連携のもと、台湾政府・弘前市・平川市の後援で⒉年連続の訪台研修を実現した。そこで⒉回の訪台振り返る座談会が2014年11月、青森県平川市の緑青園さくら館大会議室で行われた。その座談会の模様を報告したい。
(参加者は財団主任研究員・寶田時雄、成田キミヱ理事長、成田和博園長、須藤次長、古川所長、成田所長、葛西恵美子、工藤恵子)

http://ryokufu.or.jp/    青森県 特別養護老人施設 緑青園

 

≪問題の提起と期待≫

寶田  今回の視察研修を経て何かできること、してみたいこと学んでみたいなど問題意識が生まれたのではないか? 夢みたいな話でもよいので施設見学を見ての感じた意見を聞いてみたい。今まで皆さんが施設の職員として働いた中でも法的な枠の中で実態に合わない事や自分なりにしたい事が必ずあると思う。

台湾の施設を見て皆さんで意見を出し合うことが施設運営について潤いのあるものができると思う。経営者側と一緒に変化させて、若い職員にも影響を与えることが出来るように意見交換したい。昨年と今年同じ体験や施設見学をして、共通して私ならこんなことをしてさしあげたい、こんなことが皆さんとなら出来そうだなと思う事を聞きたい。

成田キミヱ 台湾の高齢者は日本語が話せる方が多かったのに驚いた。「自分は日本の教育を受けた」ことを誇りに思っている。日本を懐かしく思って、祖国のように思っている。出来るのであれば台湾の高齢者施設に住んでいる老人と日本の老人が対面して話ができる場面を作って差し上げたい。そうすればお互いに頑張れるのではないかと思う。
 
寶田  対面交流の機会を自分でつくってさしあげたいとゆう事ですかね。誰かにやってもらうのではなく、何か自分の気持ちも提供したい。そうゆう方向性で話すと自主性がでてくるね。
 
工藤  訪問した先々で歓迎を受け、おもてなしの心が伝わった。職員や利用者と交流、情報交換の場をつくりたい。
 

 台北少年観護所(日本の鑑別所)

 

葛西  高齢者施設の設備が整っていた。シアタールームや趣味活動、レクリエーション等の部屋数も多かったので専門の教室があればよいと思った。生きることに一生懸命で、高齢でも奉仕の心を忘れずにボランティアを行っており、自分も将来実践したいとおもった。少人数の認知症の方を何カ所かで介護できる環境も参考にしたいと思った。
 
成田  昨年と今年同じ場所に視察に行けたので話題にしやすいのがメリットである。高齢者住宅は思ったより現代的で、日本語を話す方が多いことを知りびっくりした。日本と台湾の過去の歴史を含み、言葉だけでなく漢字も理解している様なので、施設入所者の方たちやデイサービスの利用者の文通等で交流を図ることができると思う。
これから施設を担う職員が参加交流することで、感動を得て心が豊かになり、日本にはない雑踏の音にも生きる力を感じることができると思う。これからも益々交流を深める機会があればよい。
 
古川  日本人は良き日本の心を忘れていることを台湾で学び気が付き、改めて日本の心を思い起こす機会となった。交流を図るために訪問することで、ケアの内容は違うと思うが、若いスタッフが多くなり、介護の技術だけでなく職員同士心のふれ合いとか基本的な考え方、高齢者に対する尊厳に気が付くではないか。若者も異国に行く事で、考えた方や捉え方、高齢者に対する尊厳等に気が付くのではないかと思う。プライバシーに配慮が必要と感じた

須藤  老人ホームに入った時、南国ということもあり、おばあさんが割と原色のものを着てマニュキュアもしていた。南国の気風で北国の我々とは違うなと感じた。建物は古びていたが、その国々の状況で住む人が良ければよいと思う。小学校で隣に来た子供が、二カ月前に父親の転勤できた子であったが、中国語も日本語も話しており子供の柔軟性には驚いた。老後は一カ月くらいでも台湾で過ごすことも悪くはない。

 

 台北看守所(刑務所)

 

寶田  2年続けて訪問することで変化が見えてきた。園長がびっくりしていたが、経営者の立場で感じることは、日本とは違い管理が厳しくないこと。それが自発性を生んでいること。老人施設では自由度の為かボランティアの参加とそれぞれ自己制御しており、職員がいなくても一緒にレクリエーションしている。もちろん手段としては昔を懐かしむものや、自分の家で過ごしている雰囲気を持たせたりと、さまざまである。

管理の考え方が、日本と違い法的にあまり縛られておらず、自由度が自発性を生んでいる。入所者や子供たちも何処かで遠くから眺める管理の仕方が、自発性を生む。自発性を生まないと高齢者ケアも教育も上手くいかない。「もう駄目なんだ」からもう一つランクアップする、「回復する気持ち」になることが大事である。
日本では行政も「あれこれ」と制限があり、経営者も職員も大変です。37名の職員に、40数名のボランティアが自己制御し、管理しているのであり、職員がボランテイァを管理していない。自主性を持つ社会や国であることは面白い。 言いたいことを言って、やりたいこともやる自己制御を見ながら、調和をはかっている。     

子供たちも幅広い教育ができるし、年寄りたちも「ちょっとあいつはおかしい」と言いながらも一緒に遊んでいる。あの姿は社会のどんな場面においても社会の一番良い姿であると思う。連続で訪問し、行って帰って来てからそれが分かった。最初は驚きと感動、二度行って園長の話を聞き「そんな見方もあったのか」と感じていた。

 

 台北

≪何ができるのか・・・・≫

寶田 「個人的に私に時間があって施設に行ったら・・・」、皆さん「あの施設でボランティアしたら何がしたい?何ができると思いますか?」

古川  日本式のケア(入浴等)の実践。台湾では風呂はなく、シャワーとトイレだけで殺風景。
 
寶田   風呂につかる習慣がないようだ……。学校でもあんないい子たちばかりなら、あの小学校の校長になりたい。

成田  管理もそうだが、利用者から当時の日本教育のこと、歴史を本で読むのではなく、生で直接聞きたい。
 

寶田   年配者は本当に聞いてくれる人がいたら、口の乾くのも忘れて話してくれる。身内でさえ自分の人生を聞いてくれる人はいないから。一時期あそこの施設で落語を話そうかとか、唱歌を歌おうかと思ったことがある。異国だから難しいことがあるのかもしれないが、「できる、できない」ともかく、そんなことは考えた。 
 

 

毎時限ごと手洗いの習慣  台北中山小学校

 

須藤   台湾の親子関係はどうなっているか? たとえば、親を敬うとかについてはどうなんだろうか?
 

寶田   僕の以前の体験だけど台湾が日本的だとすれば我々の考えているところに近いが、子供が悪いことをしたときに、「私でなくこの子がやった」と母親がはっきり言うが、日本は「すみませんい、うちの子が」と言う。いじめられたら日本はどうしたの、誰にいじめられた? いじめは何処にでもある、だとしたら台湾は言う人が悪いのではなく、「君は負けないよう強い子になりなさい」と育てる。我々でさえ、何か強く言われたらいじめられたと思うことがある。いじめられたら、些細な事でもお母さんが先生に言うのは日本くらいであり、そこが違うところです。学校でもお母さんがボランティアとして誰か毎日来ている。安心班も教えるのは勉強だけではない。

※「安親班」民間の下校後の学童と塾を兼ねた施設で、送り迎えまで行い、食事も提供している
たとえば犬は散歩で、リードを伸ばし、野原を走り回ると好きなように走る。犬らしい貌になる。そういう世界観が我々と違うところがある。台湾の子供達は、勉強が出来るのは親のおかげであり、社会のおかげ国のおかげと思っている。日本人はわからないのか、忘れたのか? 今回は子供から教えられたんですよね。アメリカや中華人民共和国と同じ考え方で、人のことをかまっていられないというところもあり、人情もべたべたしていない。

https://plaza.rakuten.co.jp/chargarden/diary/201311270000/    安心班 関連ブログより転載

その中で、高齢者施設は明治・大正の教育を受けており、厳しかったが、言葉の使い方、しぐさ、態度が違う。明治のころはみな貧しかが、自由であったが、共感する関係があった。生活感、親子、兄弟、友達等の関係がしっかりしており自立していた。だから今回も、ただ長生きしているのではなく、管理を緩めても自主的に動いており、楽しそうな姿を見せてもらった
日本は法律や制度のもとの運用だから管理が厳しいが、せっかく台湾に行ってきたのだから、この施設で何か出来ることはないか?
 

外交部次官表敬


≪職場をかえりみて・・・≫

成田  現在の営業会議は、報告、伝える管理体制の中での会議となっている。もっと自由な発想で意見を言える会議が必要。会議の在り方をもう少し変えたい。

寶田  今までなぜ気がつかなかったか?
 

成田  自分の意思を伝えることが使命、言ったことを実践することが義務だと思っていた。管理体制は良いことだが、成長しない、何か新しい事業の際に発想が出てこないし、それだけでは法律の中だけでしか動けない。出来ないことは市役所に訴えることしかできず、進歩がない。社会福祉法人として何かやらなければならない。
 

寶田 

その考えは大事にしなければならない。役所の予算は乗数効果を考えるが、後藤新平は人を観て、育ててその人が資材や人材を有効的に活用することで数字に現れない大きな効果が生まれる超数的効果。基本的には人間が大事、こういう考え方が緑青園の職員にも必要だと思う。満州鉄道が発展し、東京の市長もやって、歴史的に言うと弘前市の初代市長のお弟子さんである。人間が特徴を自分で発揮して、人々にサービスをする、それをやっていかないと何事も活きていかない。せっかくのものが、有効的に使えないと言っている。

園長が、今回何故そういうことをわかって、今まで分からなかったかを吐露した。人間は地位があると恥ずかしいことは言えない。それが言える事は自分に自信がついたことだ。
素直に自分が問題意識を持って昔はこうだったが、今はこうだとの流れを共有することで、自分が同じ立場であれば直さなければと思う。創成期は独裁で良いが、継続になるとそういう考えがなければ皆がやる気を失くしてしまう。しかし、皆が責任を共有し、集団を使える事は何処でも教育してくれない。ひとつ声をかけることにも、人情が入ってくると厚みが出てくる。自分たちも変わらなければと思ってくれる。いかに信頼関係を作ることが難しいかと、逆にこんな簡単な事ができなかったのかと思うことがある。変化はなぜ起きたか?
 

成田  朝礼で介護の基本ということで人生の先輩を敬いなさいと話している。しかし、認知症の利用者で何も分からなくなっている人を尊敬できないと思った。「歴史を知らない、過去を知らないと未来はない。」と先生に言われたことが有る。ただ尊敬しなさいと言うだけでなく、その方の人生を知ることで尊敬の気持ちが違ってくると思う。
 

 生徒主催の朝礼

 

寶田  今回皆が共有していることは、外国を訪問したことで、見る、聞くことには耳がダンボ(興味を以て聞く耳をもつ)になって、一生懸命になったことで興味や緊張感が全然違ってくる。機会の体験と言い、異国という全然違った機会と場面を与えることで、違った興味も湧いている。
 

成田  ホテルや買い物でも、こちらからも丁寧に伝えて、きちんと聞いて説明を受ける。

寶田  日本に慣れてしまっている。我々は日本の良さが分かっていない。若い人たちにも良い勉強になる。

 

 皇室記者 松崎俊彌氏

 

≪土台と幹と枝に分けて整理した発言のまとめ≫

工藤 これまでの議論を一度まとめたい。

一、八〇歳以上の方が日本語を話す。日本の国を祖国のように思っている。日本語教育を受けた人たちだから、日本の国に親しみを持ち、誇りに思っていると同時になつかしみを持っている。
台湾と日本の利用者が対面して会話できる機会を持ちたい。対面交流の機会を作りたい。

二、何処に行っても、歓迎して頂いた。建物的にも思った以上に施設の設備が整いシアタールームや少人数での作業所がある。 少人数での介護できる場があればよい。奉仕の心が伝わってきた。認知症の方が多かったが、それぞれ思いやりを持って生活していた。

三、思ったより、想像していたより良かった。日本とは違う音があった。
片言の日本語を話していたが、漢字でも意思疎通できるのではないか?
日本人が、日本の心を忘れていることに気づかされ、改めて日本を見直す機会が持てた。若い人たちが日本で生活しているが、明治・大正時代の日本の心を実際に視察に参加し、利用者の方の尊厳に気づく事が出来ると思う。建物はふるびており、住む人が良ければよいがプライバシーの配慮がなかった。若い人たちにも、継続した交流の機会を与える。


四、管理が厳しくないため、自発性が出ている。
ボランティアの参加が多く自己管理ができて、老人、子供たちが自発的な行動がある。遠くから眺める管理も必要。
原色のものを自由に着ている。老後は南国で暮らしてもよいか。

五、 明治のころは貧乏であったが自由があり、その時代の教育で育った方たちは自立できている。それぞれ自分のことが自己管理ができている。 色々なボランティアも自由に参加できており、高齢者の方の自発的な案内や、パンフレット作りに驚きと感激した。。

  台北

 

 

須藤 施設で生活している方は余裕がある方達ではないか?

寶田  それだけでなく、いろんな人が混在して二〇〇名が暮らしている。
寝たきりの方が住む施設等三カ所を経営している。
昨年視察の子供たちの施設は貧困が起こしている犯罪によるもので、食事もひどかった。

須藤   あまり良い食事は提供できない、それをあてにする子があるためか。

寶田   弘前、津軽近隣で貧困と非行について調べている。子供の非行は地域にも古い町なので貧困の地域がある。或る年の所得を調べると、年間150万円以下の収入が80%、次に80万円以下、50万円以下の方もいる。貧困と人格は別であり、生活保護の需給できる方が社会の世話にならずにいる人が相当いる。終戦直後の貧困と同じであり、高齢者の身寄りのない方が増えている。

 その問題は政治しか解決できないが、行政や議員さんたちがキャッチ出来ていない。政治も行政も問題意識も薄い。組織体の問題ではなく個々の感性と問題意識が市民のニーズも多岐にわたっているためか、散漫になっている。犯罪を起こした人が悪いとの判断。台湾も同じで、網に引っかからない人たちがある。共通して取り組まなければならない問題である。

 施設を利用できている人たちはまだよい。又、自殺・事故死や、不審死が多くなっている。都内の区部では年間200人くらいいる。きっと青森でも関わりを持てない、生活保護で高齢者等そんな人たちがいる。法律から捨てられた棄民と呼ばれる人たちも出てくることもあるでしょう。世の中が連帯を失くしている。見えない、見てはいけない、見させないような世界がまだある。そこに照らし見て、自覚しないと仕事は成り立たない。

 



今回はお年寄りや子供と、経済的に非生産的な人たちの施設を訪問した。
子供を見ればその国の将来がわかる。年寄を見れば過去の歴史がわかる。子供と年寄りを見れば社会のバロメーターがわかる。どれくらいこの社会はケアできる社会なのか?それが本当の国力であり情緒の大切な所だ。
経済や軍事力だけの数値を見ても国は見えない。

台湾の高齢者に興味を持ったきっかけは、革命家の奥さんが20年位前に施設は時間の自由もない軍隊のようであると家政婦さんと暮らしていた。現在はお年寄りのニーズや希望に行政が合わせている。予算がないため、徐々に行政は手離れしてくる。規制を払うのでどうにか自分でやってくれということになっている。

園長  社会福祉法人はすでに求められている。

寶田  今まで気付かなかったことに気付き、変わることが必要ですね。
      以上、ありがとうございました。

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(財)国際平和協会   賀川豊彦を知っていますか

2021-08-03 14:12:11 | Weblog

 

一般財団法人 国際平和協会 伴 武澄 寄稿 

 

 賀川豊彦との出会いは2001年12月だった。東京・元赤坂にある財団法人国際平和協会の事務所を訪れ、戸棚にあった機関誌「世界国家」を読み始めたことがきっかけだった。
 https://www.kagawakan.com/%E8%B3%80%E5%B7%9D%E8%B1%8A%E5%BD%A6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/     (賀川豊彦)

 

終戦の8月、賀川豊彦は東久邇稔彦首相に官邸に呼ばれて、参与になることを求められた。戦争で傷ついた日本を再生するためにグランドデザインを描いて欲しいと要請されたのだった。賀川は直ちにそれまで協力を仰いでいた有力者たちに声をかけ財団法人国際平和協会を立ち上げた。そのメンバーのなんと華麗なことにびっくりした。
 

国際平和協会は「戦後の日本が国際復帰を図り、世界の恒久平和樹立への貢献する」ことを目的に東久邇殿下が5万円の基本金を出資して生まれ、1946年4月13日に財団法人として正式に認可された。

 創立時のメンバーは賀川豊彦理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄、河上丈太郎が連なっていた。日本の労働組合の創設者、久留米藩、尾張徳川家の当主、著名な法学者、元宮内庁長官、外務省事務次官、三井家当主、元社会党委員長の衆院議員――そうそうたる顔ぶれだ。
 

もともと「世界国家」は国際平和協会の機関誌として発行されていたが、1948年8月6日、広島原爆3周年記念日を期して「世界連邦建設同盟」が結成されてから、世界連邦運動を強力に引っ張る牽引車に生まれ変わった。
 

賀川の運動の片腕の一人、村島歸之によれば、「従来の啓蒙宣伝本位のものから、実践運動の報告を主体としたものに変貌し、稲垣氏らの内外の世界連邦運動ニュースが精彩を放った。世界連邦運動は燎原の火のように日本各地に広がっていった」ということになる。

 第二次大戦後に世界連邦運動が世界的規模で強力に推進されていたことを知ったことは大きな驚きだった。世界連邦を単なる夢物語だと思っていた僕の目を驚きの次元へ次から次へと開かせてくれたのが機関誌「世界国家」だった。

 世界の有力者たちの多くが本気で世界連邦を考えていたのだ。世界本部がロンドンにあり、後にノーベル平和賞を受賞するロイド・ボアが会長を務め、シカゴ大学総長のハッチンスが世界連邦憲法草案を書き上げ、アメリカを含め世界各地に世界連邦宣言都市が相次いで誕生していた。その有力者の一人に日本の賀川豊彦という存在があったことも僕のインスピレーションを大いにかき立てた。
 

「世界国家」の誌面には知らない終戦直後の歴史が次々と書かれてあった。フランス、イタリア、デンマークの新憲法は世界連邦への主権委譲を書き込んでいた。シューマン・プランなるものが欧州石炭鉄鋼共同体につながったという話は特に新鮮だった。戦勝国の外務大臣が欧州の戦争の大きな原因だったアルザスの鉄と石炭を国際管理しようと言い出すのだから腰が抜けるほどの驚きである。
 

賀川はこの機関誌に毎号、精力的に執筆した。特に1949年以降は筆が踊り始めていた。戦前にアメリカで出版した「Brotherhood Economics」は協同組合的経営で世界経済を再構築すれば、貧困が撲滅され、世界平和をもたらすことが出来るということを書いていた。賀川の政治経済社会論の集大成だが、まさにそのような世界を実現できる機運が生まれていたのだから当然である。
 

 

   伴 氏

 

賀川は生物学から原子物理学に到るまで知る限りの知識を駆使して、世界はダーウィンの『進化論』が描く弱肉強食の世界ではないことを繰り返し書いた。弱いものは弱いながらも力を合わせて生きてきた。タコが甲羅を脱ぎ捨てることで逆に億年を生きてきた「進化」の過程を書いた。賀川は「なぜ人類だけがそれをできないのだろうか」という思いだったに違いない。

 賀川は愛に生きたイエス・キリストはもちろん、アッシジのフランシスカン、戦争を拒否して流浪したメノナイトの人々、第一次大戦で敵をも愛した看護婦カベル、北氷洋の聖雄グレンフェルなど愛に生きた過去の人々の物語も多く紹介した。僕にとっては初めて知る物語だった。多分、多くの読者にとっても同様だろうと想像する。
 

この「世界国家」はもともと機関誌に1947年から57年までに掲載された賀川の論文、エッセー、詩の中から武藤富男が『賀川豊彦全集』のために編集したものである。今回のデジタル版では全集に掲載されなかった連載「世界連邦の話」などを加えた。
 

賀川の世界連邦運動のピークは1952年、広島で開催した世界連邦アジア大会前後であろうと想像している。しかしこのアジア大会開催の様子は世界連邦建設同盟の新聞「世界連邦新聞」に記載されていて、機関誌の「世界国家」にほとんど記述がないのが残念である

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