まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

湯浅が辰巳を、門脇が根本を、ともに日本人を探す

2010-04-29 12:20:31 | Weblog




湯浅博氏は産経のオピニオンで参謀辰巳栄一を紹介している。
辰巳について章を省くが、要略は英国情報機関の緻密さである。しかも迅速な集約であり世界の俯瞰された勢力図のシュミレーションに長けた内容に、俊英を誇る陸軍武官が驚愕する姿を記している。
植民地経営に長じた英国の情報機関、王立国際問題研究所海外担当M16の勢力圏に張り巡らした投網のような情報網は意図的謀略に欠くことのできないものでもある。

以前、三田村某氏が謀略について著した本があった。戦後その当時の高官が読んで「こんなことが行なわれていたのか・・」と驚いたと呑気なエピソードがあった。
近衛総理でさえ「何か引き込まれるような・・」と不思議がっていたが、側近に謀略機関の枝(満鉄調査部)にいた尾崎ホツミを用し、ゾルゲに筒抜けだった。




                 






ドイツの電撃侵攻に窮したソ連はソ満国境の精鋭部隊をヨーロッパ戦線に回す為、日本の国是のようになっていた北進論を南進に転化させる必要があった。
そのための仕込みとして蒋介石直下にあった情報機関藍衣社を排し、新しい情報機関を置いた。何よりもよく的中する。蒋介石は信用した。もちろんマッチポンプである。
軍事委員会国際問題研究所(当ブログで紹介)の所長は王梵生、この資金は英国情報機関パイル中佐を通じて拠出。もちろん情報もチャーチルに渡っていると考えるのが妥当だ。
驚くことに所長の王もスタッフも共産党員である。蒋介石の手の内も筒抜けである。





                



北進を南進に転化させ英米と衝突させる、そのための現地追認に成り下がった日本指導者の稚拙な思惑を転換させる為に多くの意図的衝突を起こし,中国内地への誘引を計った。

よくコミンテルンの謀略と定説のようになっているが、湯浅氏の切り口にはコミンテルンさえ巧に操作した英国の企ても垣間見える。つまり新たな展開を切り開く端緒のようにも観えるのである。






                 






王は常徳会戦の戦跡を米軍将校と視察した折
「今度はあんたがたですよ」
将校は信用しなかった。
しかし、王は真珠湾の日時、司令官の名まで知っていた。
その後、一躍その世界では有名になった。
田中上奏文も王の手によるものだと・・・

辰巳氏が驚いたのは当然である。







              






一方、門脇(門田)氏は「台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡」を副題して縁者の想起をもとに【この命、義に捧ぐ】をこのたび著した。
筆者が来年の辛亥革命百年にあたり、その革命に挺身した日本人先覚者を含めた「アジアの意思」をムーブメントとして考え、当時の明治の日本人とアジアの植民地からの復興を民族協働の歴史として華人圏とともに再考する試みとして台湾を訪問した同時期に、最終取材で門田氏も編集者と来台していた。

台湾通信の早田健文氏との食事の折、「一寸連絡してみます」
電話に出たのは門脇氏だった。
「やぁ・・これからどうですか」
早田氏もこれから同行するという。
「こちらは安いホテルしか泊まれないので・・」
疲れていたので丁重に断ったが・・・
早田氏が
「いゃ、集英社のスタッフと一緒なので大丈夫ですよ」
゛売文の徒になってはいけない゛という筆者の耳障りな酔い話を覚えているのか、ヒットを飛ばす作家にしては悲哀を悟らせるような彼らしいシャイな応えだった。

彼の辿り着く先は「張学良」である。一時は、゛学さん゛と呼んで懸命に取材していた。
一隅を照らし下座観を大切にした取材ではあるが、日中史の隠れた邦人の姿に志向した今回のテーマは、より俯瞰した考察が必要だったろう。

その意味では、知り、学ぶではなく読者に倣うべき人間の対象として、かつ無意味と思われるものに、辿り着くべき道と意味があることを提示、また老いては自然に訓導されるような薫譲された作品が待たれる期待がある。






               






辰巳が、根本がその期に何を行い、どのようなエピーソードがあったかは彼等書き手にとっては手段である。
目的は日本人への愛顧である。

孫文は側近の山田純三郎に
「真の日本人がいなくなった」と歎く
孫文の言う真の日本人とは後藤新平の胆力を観照するものであり、その真の日本人に倣い亜細亜に行動するものがあれば亜細亜の国々は日本に付き従い共に亜細亜復興を成し遂げるだろうと山田に述べている。

「日本と戦えば日本も中国もだめになってしまう」
それは張学良率いる東北軍が共産党との戦いに逡巡していることに自ら西安に赴く激烈な行動に表れている。
苗剣秋は「お前の親爺(張作霖)は誰に殺された。いまお前は誰(共産党)と戦おうとしているのか・・」(周恩来との企て)

苗氏の妻は、「張さんはお坊ちゃんですよ。あのとき苗先生は天津にいて事件とは関係ありませんでした・・」

あえて問うまでもなく突然発せられた言葉だった。そしてこう続けた。
「苗先生は自分を探す為に一生忙しく働いていました」







             




山田の甥、佐藤慎一郎氏は
「あの頃は謀略といっても西洋が植民地を作り、経営する為に行なった謀略とは異質のものだ。騙す、欺くは知力、精神力、そして何よりも自己の潜在能力の発見の試みといってよい。月日を経てその結果を読み解こうと思って新しい事柄を並べ立て、また事象がオボロゲに解っても当事者の伸吟にはたどり着くことはない。あくまで想像だ。

あの頃は皆一生懸命だった。善悪は問うまい。双方己を試しながら国家や民族、あるいは思想勢力に功あると思っていた。ただ、彼の民族が国家や民族や思想に命を懸けることはない。狭い範囲の人情と自身がどう生きるか、そして上手に活かせるか、それに懸けたのだ。

だから情報は生きているというのだ。とくに問われて応えるものは作り話が多い。人の人情の在り様によって自ら吐露するものが真の情報だ。人情は国法より重し、まさにそれは情報であり、諜報であり、謀略となるものだ。」

その意味では湯浅、門脇両氏は事象を描くことのみならず、人物を描いている。
それも血湧き肉躍る痛快活劇やヒーローではなく、一隅に埋もれそうな日本人の矜持を浮上させる忠恕な視点がある。

ことさら両氏を括っているものではないが、共感を超えて切磋琢磨を願いたい。その点この度は日中近代史のなかで現代人が倣いとすべき人物を取り上げ、同様なステージに立てたことを欣快な心地で眺めるのである。

願わくば己に切り込み、ややもすると商業出版に重きを成し、自ずと纏わり憑くであろう名利への誘惑を童心の意識で内観していただきたい。
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地球の裏側のブラジルに在る日本人の矜持

2010-04-14 16:23:39 | Weblog




                     資料写真はブラジル大使館HP



知人の縁で横田尚武氏がよく来訪する。
長野県飯田市出身。戦後、18才でブラジルに渡り農場主として成功をおさめ、現在は川越在住。過日も桜花の舞う新河岸川の土手で「ふるさと」を熱唱していた。

地平線まで見渡せる不毛の地で、日本では見ることのできない大きな夕日を浴びて、いつも歌っていた「ふるさと」だった。

大声で歌いながらいつも土手を散歩するので、おかしいオジサンといわれたこともあった。でも「ウサギ追いし かの山、コブナ釣りし かの川・・」日本人は便利さの中でこの気持ちを忘れている。

前回、懐刀のエピソードを記したが、その厳しい母にも理由があった。
それは、有名な易者が子供の私を観て、「この子は人を助ける大物か、大悪人になるかどちらかだ・・・、万人にも稀な人間になる」と言ったことが母の特別な教育にもあった。

腕白な横田はある試験で友人に代書を頼み先生に見つかったことがあった。
母も呼び出され、家に戻ると対面で正座した。
母の前には嫁入りの懐刀、横田の前には出刃包丁。

「男の子として恥ずかしいことをした。お前はコレで自らを突きなさい。それを見届けてから私も突きます」
横田はうろたえたが、母の真剣さに出刃包丁を手にしたとき、襖越しに聞いていた伯母が飛び込んできた。

ブラジルに渡るときも
「日本人として恥ずかしいことをしたら突きなさい、帰りたくなったら海は広い、太平洋に飛び込みなさい」と横田に言い含め懐刀を手渡している。

英雄か大悪党か・・・

兄弟の末っ子だった横田には継母かと思われるくらい厳しかった。

最近、横田はオートバイに撥ねられて重傷を負った。
70にしては頑強な横田は入院も数日。それも隣のイビキがうるさいとの理由だ。
頭部を数針、肋骨は数本折った。

保険代理人の示談の誘いに健気にも「もう、元気です」と応えた。
後遺症で肺部に水がたまり、痛みが残る状態であった。
病院の治療費と数回のバス代のみ。
なかには法外な慰謝料や示談金をせしめる世俗の風体に保険会社も馴染んだのか、歩行中に撥ねられ重傷を受けた独り住まいに、過失責任まで問うている。

「彼は実直で正直な日本人ですょ。」という筆者の助言にも感応が無い。

横田氏は目標が大きい、それゆえ身にかかる世俗の私事には頓着ない。

そんな極みと分別のある横田氏が農業体験として文を寄せてきた。





                 





セラード開発の沿革   《・・・》挿入は筆者

1)そもそもセラード開発のことの起こりは、後に連邦政府の農務大臣を務めたアリソン バウリネリ氏が、1970年の初期にミナスジュライス州の農務長官に就任した際に、サンパウロ州立ピラシカーバ農業大学(ミナスジュライス州にあるビソーザ連邦農大とともに伯国農大の双璧とされる有名大学)時代の同級生イジドロ山中氏に「我が州の大部分を占める、この不毛の地セラードをお前たち日系人の力でなんとか、農産物ができる豊穣の地に造り変えてもらえないだろうか?緑の魔術師と謳われる日系人ならきっと俺たちの願いを適えてくれると信じている」と懇請したことから始まったものです。

2)その願いを受けたイジドロ山中氏は、当時すでに中南米最大の農協組織となっていたコチヤ産業組合の理事長ゼルバジィオ井上氏にこの件を持ちかけると

「我ら日系人の名誉と誇りにかけてもセラード開発に挑戦してやろうじゃないか」
と決断したことからこの世紀の事業が実現に向って動き始めたのでした。


《不毛の大地セラードへの挑戦》

3-1)当時、サンパウロ州のサン ミゲール アルカンヂョという小都市に5つの農場を持ち、そこで馬鈴薯と生食用の高級ぶどうを生産していた私は1万数千人の組合員の中でも、生産高、出荷量においても、上位クラスにあったことから、セラード視察団のメンバーに選ばれて、20名ほどのメンバーと共に初めて、セラード地帯に足を踏み入れたのは1972年のことでした。


《人々と共に》

3-2)その時、私たちがかの地に行って、この目で見た時のショックと驚きは現在も尚、生々しく脳裏に刻み込まれております。これはおそらく一生消え去ることはないでしょう。







              






《セラードの実態と入植の意志》

3-3)セラードの奥地に住む人々の生活は極度に貧しく、生れてくる赤ちゃんの半分は一歳の誕生日を迎えることなく死亡。たとえ生きながらえとしても、栄養失調で体格も知能も最低の状態でした。住んでいる家も、これが人間の住む処かと思ったほどのひどいものでした。私たち一同は呆然として言葉もなく息を飲むばかりでした。


《吾が身を以って検分する》

3-4)しかし、私たちは土に生きる百姓のプロフェッショナルとして、見るべきところは、ちゃんと見ておりました。持参していたクワやスコップを取り出して穴を掘り、その中から取り出した土を口に入れて味見したり、鼻をつけて、匂いを嗅いだり、両手でもんでその感触を確かめたりした結果「この土地は強酸性でこのままじゃなんぼ肥料を入れてやっても作物の根は養分を吸いきらん。石灰を入れて矯正してやり、不足している微量要素を補給して、土を造ってやれば立派な畑になるぞ!」


《将来性》

3-5)この確信を持って帰省した私たちは「土地改良には数年かかるけれども、土地そのものは、無尽蔵といってもよい程の広大な面積があり、その上全く平坦地であり、将来的には、サンパウロやパラナ地方をはるかに凌駕する穀物の大生産地帯になる可能性は大なり!」という報告書を提出したのでした。


《入植》

4)この報告書にすっかり自信を持ったコチヤ産業組合中央会(以後コチヤ産組とする)は、翌年の1972年3月、州政府の斡旋によって同州のサンゴタルトという地方に2万5千ヘクタール(山手線の内側の面積の約4.5倍)の土地を確保し、ここに開発団地を造成したことからいよいよセラード開発が実行に移されたのです。この団地に私の同期生である徳武睦雄(長野県人)他5人のコチヤ青年が他の組合員と共に入植したのです。


《田中総理の豪胆で、かつそれは歴史的決断だった》

5)1974年9月、徳武より「田中角栄首相が俺たちの団地を視察に来るそうだが、横田お前もこないか?」という知らせを受けて飛んで行ったのです。その時だったのです。田中首相が「このセラード開発こそ将来日本の最大の食料基地になると確信した。私はカイゼル大統領閣下にこのセラード開発を日伯両国のナショナルプロジェクトとして開発することを提案する。」と感動でいっぱいという表情で明言したのは。


6)1975年8月16日に開催されたコチヤ青年移住20周年記念大会の席上、コチヤ産組理事長井上氏より、サンゴタルドの実情を詳しく説明された上で「コチヤ青年よ!!セラード開発に挑戦せよ。君たちが日本を出る時抱いて来たファゼンデイロ(大農場主)になれる絶好のチャンスがやって来たのだ!!」と強烈な発破を仕掛けられたのでした。

7)1976年9月 カイゼル大統領訪日、日伯合弁事業として、セラード農業開発プロジェクトが正式に調印された。


《九人の勇士》

8)1977年6月 コチヤ青年有志によるセラード開発への参加決定「コチヤ青年パラカツ農牧会社」設立。ミナス州パラカツ郡内に、イジドロ山中氏の斡旋によって5,600ヘクタール(山手線の内側の面積にほぼ等しい)の土地収得、ここにコチヤ青年主導によるセラード開発が始まった。
この会社の創立者の氏名は、山口節夫、瀬尾正弘、山田充伸、友安山治、佐伯圭彦、高橋凡児、高木博之、日比野勝彦、横田尚武、以上の9名で当時の邦字紙サンパウロ新聞は〝9人のサムライ、セラードに挑む!〟として大きく報道された。この9名のうち3名は死亡、5名は引退。現在も尚、現役としてセラード開発に挑み続けているのは横田のみとなっている。







                 





《天皇陛下との謁見》

9)1988年1月22日、横田は第5回コチヤ青年2世研修訪日団の団長として65名の仲間の子女を引率して東宮御所に参内した際、陛下(当時は皇太子殿下)より「団長さんは向うでどのようなお仕事なさっているのですか?」とのご質問がありましたので「セラード開発に取り組んでおります。」と申し上げますと「ああ、セラード開発ですか!よく存じております。

かつて私が貴国を訪問させて頂いた時、現場を見せて頂いたのですよ。その時のことはカイゼル大統領閣下から頂いた言葉と共に強い印象となって今も心に残っております。

あの時閣下は「このセラード開発の成功は農業知識に優れて、しかも勤勉で忍耐強い日系人だからこそ為し得た偉大なる成果だと高く評価しております。このような〝緑の魔術師〟ともいえる人々を多数送り出して下さった貴国に感謝と敬意を表します。」とおっしゃられたのですよ。どうかこれからも農耕民族としての誇りと心意気を発揮していってくれます様、期待しております。」と力強いお言葉と共に握手を賜ったのでした。


《大切にしたい忠恕の心》

9-2)そして陛下はその時こうもおっしゃられました。「私は常に〝忠恕〟の心でありたいと願っているのですよ!」浅学非才の私はこの意味が理解できずその時はキョトンとしておりました。後から大正生まれの副団長さんから「自分の良心に忠実に、かつ相手の立場になって思いやる心ということですよ!」と教えられ、非常な感動と感銘を受け、それ以来座右の銘として胸に刻み込んで、事を成そうとする時は常にこの言葉を反芻してから行動に出るようにしております。


《セラードの可能性》

10)日伯共同セラード開発事業(プロデセール)によって日本から派遣され、ブラジリア郊外にある〝セラード開発研究所〟に在職された鳥取大学農学部教授の伊藤正一教授は、このセラード地帯(約2億ヘクタール)の内12,500万ヘクタールが開発可能地であり、ここが耕地化されることによって10億人分の食糧生産が可能であると発表される。
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後藤に見る人物と器量 〈観人則〉

2010-04-10 11:46:10 | Weblog

 



◆ユング教師の伝えたアメリカとリンゴ  

津軽を懐かしむ佐藤の言葉は"人間至る所、青山あり"といった地球上のどこにわが身を置いても時流に迎合せず自らを見失わず、しかも衆を頼まぬ「孤高の憂国」といったものを感じさせるものだ。
「ユングという教師がいた。ユングが語学授業の合間に語る米国の思想や民情は、生徒の感動を呼び起こし、ときに忠孝の話になると、一同、感涙し戦慄といった状態がしばしばあった。
 


☆りんごの原木

来日のときに大切にもってきた米国リンゴの苗木は、その後の津軽の殖産事業として立派に役立っている。その原木はわが家の前にある。余談だがそのリンゴの育成方法を教えてくれと長野から来たが、なかには小心者がいて『せっかく儲けられるものを教えられない]』と追い返してしまった。
 それを聞いた弘前の樹木というところに住んでいた外崎政義が烈火のごとく怒り、時には偏狭な津軽根性を戒めたのだ。リンゴで興き、リンゴで滅ぶ津軽魂だよ」
 
 郷里 津軽を慈しみ、ときとして津軽人を憂うる佐藤は、つねに弘前は日本の一部分、日本はアジアの一部分、アジアの安定は世界の平和だと語った。4人兄弟のうち2人は米国へ、良政と純三郎は孫文の革命に挺身している環境の中で、自分という"自らの社会の中の分(ぶん)"を自身の行動で探し、次の世へ遺す啓言でもある。

「そのユング先生が来日するので江戸(東京)へ迎えに行くことになった。当時、海路もあったが、奥さんが船酔いに弱いというので東北道を使うことになった。江戸まで25日余り。弘前を発って今の岩手県の水沢を過ぎたころ、一人の少年が九郎伯父さんに添って歩くようになった。事情を聞いてみると、学問のために須賀川まで行くという。道すがら学問の話、世界情勢、日本の進むべき道、そのためにどんな学問をしてどんな人間になるか、といった話だったが、歳は違えど"切れのよい呼応"での問答があった。その少年が後藤新平だ」
 

◆後藤新平に採用された純三郎


 その後藤には純三郎も縁がある。大陸へ行って満鉄に入りたいと考えた折り、伯父九郎にその事情をはなして後藤に縁をつないでもらおうと思い面会にいったことについて後藤という人間についてこう言っている。


「後藤という人物は誰々の紹介などというとなおさら採用などしない。それより目的と意志

と完遂する勇気を見せることだ」
 
純三郎が面接に行くと九郎伯父さんが言った通りの人物だった。寡黙な良政とは異なり、応答辞令の長けた純三郎が面接採用後に伯父との関係を伝えると、後藤は生涯、師と仰いだ菊地九郎との回顧を懐かしみ、その甥純三郎との縁の感激に浸っていた。

 良政の後をうけ革命に挺身する純三郎は、自身の身分である満州鉄道株式会社の社員として業務履行の妨げになると上司に上申したところ


「満鉄の社員は何人いる。その中に満鉄のために働く者も大勢いる。国のために働く者もい

るだろう。しかし、日支善隣友好のため、ひいてはアジアの安定のため行動しているのは何

人いる。満鉄のことなど気にすることなく一生懸命やりなさい」

 純三郎はそのあと、給料が増額されたのに驚いた。後藤の器量が委ねた大きな希望の意味に背筋が凍りつくような感動を覚えたことは言うまでもない。孫文が日本人を語るとき、つねにその後藤を懐かしみ、後藤に真の日本人の姿を認めた心情が山田の口から語られる。
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再読   政治の座標を観る 《昇官発財》 其の二

2010-04-01 14:47:47 | Weblog
                 北一輝 陳基美 (村岡氏提供)




再々掲載にあたって】


官民ともども、その位置の役分として矜持がある。いや、あったはずだ。

便法はあっても守ることのみのコンプライアンス。そこには護持する気概もなし。

海外事情や国内経済事情も因とされる人の姿の変わりようは、より隣国の官民の姿に似て、

より功利性の具と化した官制学校歴をはじめとする人間の人格とは何ら関係のない附属性価

値を伴った我欲の表れとして国家社会を侵食し、ついには情緒の融解を起こしている。

また、どうしたら、こうしたら、の多論の中で、情報洪水や怠惰弛緩した思索や観照では解

決はおろか、問題意識すら導き出せない。

「明日、死ぬと思っても、今日を以って始める」これが師の教えだった。

以下は難解である。浮世を背に眺めていただきたい。

そして記憶の心学として戴きたい。

平成22年4月 再々掲載にあたって





昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
                           (文中より)


【学問の目的】


1.沈徳元(西太后の籠担ぎをしたことのある宦官)は、何のために勉強させられたか

 彼は、撞州(直隷省天津府の州の一つ)県城の人。県城の自分の家の本家沈萬春の塾で、7才から11才まで、五年間勉強している。
 読まされた本は
《三字経》(童農書、一巻、南宋の王応麟撰)、
例えば「養いて教えざるは父の過ちなり。教えて厳ならざるは、師の惰りなり」など。
《百家姓》

《大学》
(古聖賢が述作した儒教の書、四書、つまり大学、論語、孟子、中庸の一つ。

《礼記》
(“礼に関する理論と実際を記録した書”の一篇で、学問の根本義を示す)
 
《中庸》
(経書、四書の一、礼記から中庸篇を独立させたもの、孔子の孫子思の撰とも伝えられている。天人合一の真理、中庸を説く前半と、その具体的運用である誠を説く後半とに分れている)

《詩経》
(中国最古の詩集、経書の一、撰者不詳)

《論語》

?「塾の先生は、“学問の目的”をどのように教えたか」
『“書中、自(おのず)から黄金あリ”と教えた』

?「学問をするのは、徳を磨くためでは、なかったのか」
「いや、徳を磨くためだ。“徳”は 得”なり。何か自分に得るものが無くては、それは本当の徳ではない、“書中自ら黄金あり”とは、本当であった。
でも、それほどではなかった。ただ、真心などというものは、実に幼稚なもので、利口な知慧には、かなわんという事が分った」

?「でも、うまい知慧とか、・言葉巧みに人をだましたりするより、へたくそでも誠を守り通した方が、よかったんじやないか」
「じょうだんじやない。利巧にたちまわらなかったら、死んでしまっただろう」

?「では、折角読んだ本は、投にたたなかったんだね」
「いや、本を読んだからこそ、その時々の巧い知慧も言葉もわいてきたのだ」と答えている。
 
彼の学問の目的は金銭にあり、一切の行動の目的は、金銭を目標にしたことから離れ
ていないことだけは、はっきりしている。

中国では、もともと
「徳は本なり、財は末なり」(大学)
で、学ぶ者にとって、他の修得は根本の問題であり、お金は末節のことであるというのが、儒教思想であったはず。ところが、この沈徳元のばあいは、それとは全く反対のようである。
そんなことでは
「鳥は食のために亡び、入は財のために死す」(中国の俗諺)
という俗諺と、それほど違いは、ないようである。


2.  学問の目的-食、色、財を得るため(真宗皇帝の勧学文)

中国では、学問の目的に就いては、古来いろいろな教えがあったようである。まず儒教の教えに聞いてみることにしよう。

儒教とは、修身斎家治国平天下を招来するための学問であろう。
孔子(前552~前479年)は
 「汝は君子の儒となれ、小人の儒となることなかれ」(論劃、雍也)
 と教えている。
 “小人の儒となることなかれ”とは、大局を忘れて、自分一個人のことしか考えないような学者には、なるなと云うことであろう。

君子とは、他の高い、天下を以て己れが任とする指導者のことであり、“君子の儒となれ“とは、そのような天下に忠をもった社会の指導者になるような学者になれ、ということであろう。要するに儒教における学問の目的は
 「修己安人一一己れを修め人を安んずる」(論語、憲間)
 ということであろう。朱子(1 1 3 0~1200年)は
 「修己治入一己れを修め人を治める」(大学章句序)
 と言っている
 
とくに前漢の第七代武帝(前14 1~前87年)が、儒教を国教としてからは、儒教の重みは一段と増し、その影響力は大きくなっている。
 日本人は、現在の中国人を理解するばあい、どうしても、このような儒教思想を通して、理解しようとしているようである。

私自身の理解によれば、現在の絶対大多数の中国人の心の底を黙々として、しかも強烈に流れているものは、儒教思想ではなくして、むしろ極めて現実的な道教思想のようである。
 道教とは、中国古有の神仙思想を根本とし、黄帝、老子を祖とし、陰陽五行説を取り入れたりして、不老不死を求め、錬金術(仙薬としての金を錬る)ト笙(占い)、祈祷などまでも取り容れている多神教である。
 このように道教は、中国古有の民族思想に基きながらも、専ら功利的な現世的御利益を目標とした宗教であり、しかも今日の中国民族にも、はっきりと濃厚に生き続けている極めて現実的な宗教である

とくに、唐の第一代高祖(6.L8~626年)は、自分の姓は李”であり、道教の始祖老子の姓もまだ李”であることから、道教を格別信仰している。
 そのため、道教は道教の範囲を越えて、儒教の聖人や、仏教の菩薩までも、その管轄下において、国家宗教的な色彩を濃厚にもつようになっている。

以下 次号  
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 再読 政治の座標を観る 《昇官発財》其の一

2010-04-01 14:03:46 | Weblog

【再々掲載にあたって】


官民ともども、その位置の役分として矜持がある。いや、あったはずだ。

便法はあっても守ることのみのコンプライアンス。そこには護持する気概もなし。

海外事情や国内経済事情も因とされる人の姿の変わりようは、より隣国の官民の姿に似て、

より功利性の具と化した官制学校歴をはじめとする人間の人格とは何ら関係のない附属性価

値を伴った我欲の表れとして国家社会を侵食し、ついには情緒の融解を起こしている。

また、どうしたら、こうしたら、の多論の中で、情報洪水や怠惰弛緩した思索や観照では解

決はおろか、問題意識すら導き出せない。

「明日、死ぬと思っても、今日を以って始める」これが師の教えだった。

以下は難解である。浮世を背に眺めていただきたい。

そして記憶の心学として戴きたい。

平成22年4月 再々掲載にあたって




               

            佐藤慎一郎 氏



【以前連載したものですが、今回の防衛省を覆う政官業の腐敗について表層の情報のみに群行群止する騒動を、人間の陥る問題とし考え、客観視に適う内容として再掲載します。】


昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ


己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
                           (文中より)


解説
《昇官発財》とは
学問の目的は「財」に在り。学問するところ地位が在り。地位ある処、権力と財を発す。

これほど明け透けに、しかも人の本能的にもみえる欲望を記したものはない。なぜなら知識の集積が勉強だと錯誤しているものにとっては可否を論ずるまでもなく、事実が臨場感を添え、かつ至極当然のごとく白日に語られる実態があるからだ。

権力には自ずと財が生じ、色(女)、食(奢)財(金)は思いのままになる。即ち、色、食、財という欲望のためなら男根(生殖器)までを切断して 官に昇る若者と、それを促す家族と容認する社会がある。

手段、方法は異なるが、学問の目的に曖昧な意志をもつ我が国にとって、似たような現象が起きている。
知識、技術(学問?)を得て、有名校にて学歴をつけ、その目的は地位であり名誉であり財である。

少欲の競争によって生産があり発展もある。 そこには“食”もあり、程よい“財”も有る。 両性扶助の調和による生活もある。 また、それぞれの国に与えられた環境と、誇るべき伝統がある。 
“似て非なる”国の文化的恩恵に感謝しつつも、宦官、科挙、纏足を否定した 我が国が学問の目的とするものに“曖昧な意志”をもち続ける限り、“似て非なる”国との「同化」は避けられない。

 この貴稿は佐藤慎一郎先生との清談の後刻、それをもとに作成され、恵贈されたものである。それは四半世紀に亘って異民族との交流に導かれた証として、国内の机上学ではその理解の淵にさえ届くことのない人間の欲望を透徹した内容で満たされていた。
 人間の尊厳を侵す権力執行者への普遍なる問題意識は、我国を覆う暗雲の行く末を逆賭するようである。
 指摘される因とその歴史は、禽獣と異なる人間の為すべき行為を教えてくれる。
 果たして吾は何を成すべきだろうか・・と。

以下 次号
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