まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

あの満月の夜に新聞は始まった

2012-05-25 16:52:03 | Weblog


それは、東京の小さなレストランでのことでした。

「バングラデッシュには悲しい歴史と誇る歴史があります。また世界の人たちが国の貧しさを知って多くの援助が贈られてきました。植民地の二百年も辛いものでしたが、学ぶことも有りました。でも、貧しくても誇りは人一倍あります。そのために援助で豊かになる人がいても、多くの貧しい人たちは何の変化もなく、多く若者は国外に働きに出ました」

「なかには貧しいがために強がりを言ったり、人に心を開かない態度をすることもありますが、ほんとうは正義感もあり、人のことを心配したりする優しさがありますが、いまの現状は日本に住むバングラデッシュの人たちでさえ互いに本当の心を閉ざして、いさかいも起きることがあります」

「この解決の一つに、子供の素直な心から見た大人社会への疑問を、子供の力で社会に発信できるように識字率を上げることが必要なのです。それには子供たちが不思議におもったことを子供たちの考えで解決方法を発表したり、質問したりできる新聞が必要なのです」

「子供が取材して、書き、編集して、発行する。読めなければ大人が読み聞かせ、友達で助け合う、この関係をつくれるのは新聞しかない。そして歴史的にも関係の深い日本の方々の考え方、あるいは、便利さが工夫を衰えさせたり、豊かになったことでの教育や生活の問題点、また同じ子供たちの心をバングラデッシュの子供たちに伝えたいのです」

そして、「このことに命を懸けたい」と・・・

アジアの繁栄の先には山もあり谷もある。繁栄につられて欲張りな人も訪れる。
でも、コマーシャルもなく、子供が考え、書き、発表する新聞の精神は、いずれバングラデッシュの大きなセキュリティーにもなる。

バングラデッシュの賢人、プロビュ―ル・シャカ―と語ったのは、たしか満月の夜のことだった。



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小沢さんと石原さんは何を観るのか

2012-05-10 18:40:30 | Weblog



一方はオリンピック招致の助力を皇太子殿下のIOC(国際オリンピック委員会)出席を請い、それに対して宮内庁は皇太子の職務に馴染まないとして丁重な断りを表明したところ、
「宮内庁の役人ごときが・・」と乱暴に言い放った。

もう一方は、中国の次期指導者候補であった習近平氏の来日に際して天皇陛下への謁見を内規(面会予定の事前申し入れ期間)に照らして困惑したコメントを発表した宮内庁職員を石原氏同様に「役人ごとき・・」と言い放っていた。
たしかに皇太子妃の縁戚が外務省のドンなのか、宮内庁人事も外務と警察にうまく棲み分けられ、かつ硬直した官吏の四角四面の対応とみるが、翼賛マスコミは逡巡したかのような記事を書いている。

逡巡とはどちらも非難することもなく、否、できなく、しかも双方ともに記事タネとしてことのほか衆目の集める対象のためか強い論調は書けないようだ。
まして一面ネタにしてもおかしくないくらいな問題でもあるが、反論不可と斟酌される大内山の奥ではなく、表作業である宮内庁職員である官吏に向けられた雑言であるところが両氏の忖度だとしたら、なかなかの役者だ。

一方はオリンピックというスポーツイベントへの前のめりに近い行動であり、候補国も大統領や王族もその開催地決定に言葉と行動で協力しているので、我が国も皇太子を殿下を担ぎ出そうと考えたのではあろうが、どうも落ち着きがない拙速な動きである。

しかも、その言葉や行動の部分ではなく、立場の姿として諫言する側近は見当たらなかった。それも捻じれのようなもので、民族の誇りや維(歴史的意志)を謳う石原氏と、皇族の活用における皇室の御用掛である宮内庁の慎重なる決定に雑言を述べる不敬とも思える態度に、護持を唱える人々は、何ら反応はしなかった。

その石原氏が最近の産経のコラムで陛下の震災地巡行に深い敬意を表している。

全国津々浦々に棲み分けられた国民は総理大臣の被災地視察に際しての現地の刺々しい反応と、それに比した陛下の醇なる応答に、立場はともかく同じ人間でもこうも違うのか、あるいは騒乱に似た選挙によって有権者から選ばれた総理は、教育的にも行為の在りようにおいても、その「人成り」を考えさせられた機会であった。

それは、国民がその権利を負託するために選んだ議員と、生まれながら推戴されることを宿命となっている陛下の「人成り」への教育と習慣の違いへの不思議観でもあった

両人は似たような反発をしているが、ことのほか睦みあうことはない。とくに中国との対応だ。小沢氏は妙に迎合する。旧来の日本人の応答にはないくらいの姿だが、彼の国にはそれが形式的にも合う応接態度だが、どこまで深い座標があるかが問題になってくるだろう。

そのことが明確になれば有権者の安心感も加味されるだろう。安心感といえば戦後共産党が伸張したことがあった。多くの国民は共産主義も知らず、いつの間にか労働者として解放という美しい言葉にいっときは賛同したが、あの「天皇制打倒」という激しいスローガンを聴いた途端、潮が引くように熱気は冷めた。

大阪市長の橋下氏が首相を国民投票にすると提言すると、小沢氏は天皇制(元首)との関係に疑問を呈した。それは前に述べた疑問や習近平氏応接時の雑言とは異なる、事と次第の分別が読みとれる。

その意味では都庁に陣取って阿諛迎合の官吏に囲まれた石原氏と、小沢氏の深慮は別物のようにも見える。ただ言葉と行動に「つよさ」をみる両氏に共通していることは毀誉褒貶が激しいことだろう。多弁の石原、寡黙な小沢と評されるが、多弁は相手を明け透けに罵倒し、寡黙は筋と正論を発する。どちらも通にうける人気者だが浮俗にありがちな゛何か裏がある゛とも思われている。

三面だが、小沢氏は建設利権に疑いがあると。石原氏は後援者から森伊蔵の箱(丁度一千万入る)を息子と二つ貰つたという記事が躍ったが、騒がれ方には雲泥の差があり調べたものもいない。元々なかったものでも警視庁を管轄する都行政ではマスコミの扱いが格段に違う。また、副知事には警視庁OBが納まっているが、昔は経世会派閥から法務大臣、国家公安委員会が定石だった。ともあれ転ばぬ先の杖だが、李下に冠を正さずとはよく言ったものだ。

ともあれ「そうゆうもんだ」の世界のようで、善悪の秤を権謀術策を繰る当事者に当てはめるのは、棲み分けられた職分に異なる切り口で言い募る野暮なヤジ馬のようで苦い気分がする。












ただ、被災地の陛下のお姿に改めて意を甦えさせられた多くの人々は、その関係する部類の話題にことのほか敏感になっている。それは仮にも選挙によって権利を付与した形になっている議員、都知事であっても、「維」を曲げさせないという人々の潜在する意志だ。


たしかに大内山の周辺皇族にもいろいろ難儀な問題がある。加えて「維」を継続するための種々の争論も起きているが、人々と陛下のつながりは、それらを超越した連帯があるようだ。

戊辰の戦いは錦旗によって趨勢は決まった。いくら武力をもっても越えられない事を彼らは知っていた。利用したのではなく、活用したのだろう。

民主という主義は構成システムとしては普遍的にも聞こえるが、いかに危ういものかも人々は知っている。あの天安門の若者も唱えたのは民主ではなく、「官倒」だ。
権力をほしいままにして社会を支配し蓄財に励む高官を倒すというスローガンだった。
臨場の雰囲気もそうだった。彼ら若者は「民」のまとまりの無さ、目的の欠如、を歴史の栄枯盛衰からその民癖を読み取っている。

ヨーロッパ、アメリカ、あるいは民主主義と自由主義を移植した国々は押し並べて選挙はイーブンに近く、政権成立しても足の引っ張り合いが多い。
まとまるすべは、対外戦争への危機喚起か税の分配だ。

果たして、我が国はどうだろうか。
まとまりのない政治、食い扶持に堕した教育、借金財政での扶養従属、それらは部分を検証し追及するものでもなく、すべからく人間の問題、つまり人格、人物と称される「信」を基にした人情の慎みが大前提の問題として浮上している。また、供与を受ける側にも節度と貪りを抑える意識の涵養が必要だろう。

これは四角い白い紙に答えを入れれば数値が判定してくれる官制の教育にはない。
政治家や親子でも覚醒は難しい

だからこそ、民族は劣る癖を隠すようにその倣いの対象とする存在が人々には必要なのだ
あの民情をもつ中国にも孔孟を始めとする古典があり、ときおりお出まし願う活かし方もある。どんな時でも「オー・マイ・ゴット」と叫んだり、呟いたりする人々もいる。












地球の表皮に棲み分けられ、複雑な要因を以て国家を形成するなかで、人々は動物種の群れのように「長(おさ)」を推戴している。それは連帯と調和の象徴として立場を構成している。また、長は群れを毀損されないように先見察知を全能の象徴として行動を体現している。

そのなかで一番大切なことは豊かさや防衛だけではなく、群れの「種」を護り、そのためには人間であれば人心(じんしん)の衰えを察知し、その尊厳を毀損する自制なき欲望に深慮することを主なる心を寄せている。
長(おさ)の側近となるものは群れの食い扶持とそれを妨げる外敵の排除を具体化するが、それを登覧する長は、食い扶持が贅沢になり、そのために競い、争い、欺く、また、勤労の意欲を衰えさせる外来の過度の便利性、譲ることを失くした礼の衰えや、公意を亡失した政治家や官吏など、人心に潜在する善なる情の微かなりを根本的観察として厳しく存在している。


標題に登場した小沢氏、石原氏だが、分別された役割のなかで精励され、かつ特筆した言辞と存在によって功ある人物とみるが、浮俗の駄論に巻き込まれ、長の忠恕が歪められないようにお願いしたい。

「・・・ごとき」、国民も煩いとしてやまやまだが、存在の有意義を幾らかでも認知しているゆえか、長に倣って声を発することはない。
人々の尊厳を毀損する存在、それは聖徳太子がわざわざ十七条を起草してまで憂慮した偽装権力の一群だ。そのなかには政治家と教育者、宗教家も入っている。

これらの「ごとき」を正してこそ両人の価値と存在がある。

倣うべきは、「世の厄災は、祷りが及ばなかった」と頭を深くした陛下のお姿だ。

分別ある役割を任じて、長を補佐してほしい。要諦は「人心」の衰えをどう観るかだ。
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