まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

東条英機と積善の宿   08 4/11再

2017-02-14 12:51:27 | Weblog



上毛の湯宿は伊香保、草津など全国的に名高いものが多い。その中でも湯治で名高い上野ノ国 四万温泉には古くからの旅館が軒を並べ、今でも都心からの湯治客を多く招いている。
病気の回復治療や、近在の軽井沢より以前に拓けた避暑地として、政経人、文士などが、清流や川面を渡る風によせて一刻の思索と風雅を愉しんでいた。
病は気からというが、地中の陰気を含留する温泉と地上の陽気が、山間に寄り添う大小の木々の間をわたる爽やかな風に調和して浮俗の邪気をとき放してくれる

奥まったところに積善館という宿がある。宿の名前からして、さぞ創建者の教養は素晴らしいものであった事だろうと想像する。
善を積むことは、不特定な利他への貢献に加え、子孫に大きな恩恵を遺すことは我国の道徳的行動規範の徳行として、戦前の教養には欠くことのできないものであった。
゛善とは何なのか゛などと、文字の前提理解で留まってしまうような、いまどきの教養とは異なり、諮りごとなど微塵もない自然界の小宿だからこそできる積善の作業だったに違いないと察するのである。

本館上手の山荘には贅を凝らした部屋が並んでいる。贅といっても華美ではない。
積雪が豊富なせいか屋根は亜鉛葺きで軒も長めに突き出ている。
部屋は書院と床の間が大きくとられ、角部屋の回りには畳廊下を隔てて雪見障子が二方を囲んでいる。欄間は銘木の透かし彫りの唐模様、玄関の上がり間と居室には直径三尺ほどの円窓に竹が組み込んである。

 古くからの友人の常宿ということで御相伴に与ったが、友人ご夫妻は階下で小生がその由緒ある部屋に通されたが、事情があって相方は無くこの部屋の独り客人となった。
 聞くところによると開戦時の総理大臣東条英機氏や後藤新平の常部屋だったという。

 先晩、お孫さんの由布子さんと英機氏を話題にしたばかりなので妙縁を感じざるを得ない。どうも寝られそうもない。あの戦争の開始と終結を拙文に記したばかりであることと、某新聞社の依頼で出版の勧めが現在あるのも手伝っているからだ。
帰郷後は専門家との対談も予定に入っている。

 なんという巡り合わせなのか、しかも独りで静寂のなか清流の音だけが耳に伝わる。正目天井の枚数を数えるが、なかなか寝付かれない。
 台湾民政長官の後藤新平と孫文、山田良政、東條英機と満州、あるいは大戦秘話など、聴き、読み、記述した残像が甦ってくる。
 彼らはこの天井を眺め、流れの音を聴きながら何を考え、決断し、糜爛した世間に戻ったのだろう。

 あの当時の彼らに倣って、いまの日本を取り巻く暗雲と、その行く末を考えてみたいと考えたのは、自然の問いかけと彼ら同宿の縁による促しでもあろう。

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伊藤博文を中国の宰相に・・・    8 5/17 再

2017-02-04 14:56:02 | Weblog



もちろん清朝を支配していた満州族の言葉ではない。いくら列強が北京に集結し陣取り合戦をしていたとしても西太后には無い仰天の発想である。

 孫文は「満州族を万里の長城以北に追い払い漢民族の回復を図る」その民族的意志の行動が辛亥革命であった。
 また「満州は日本の手でパラダイスを築いて欲しい。でもシャッポは中国人。そしてロシアの南下を防いで欲しい」と東京駅の喫煙室で桂太郎に伝えている。

 袁世凱に出した「対支二十一カ条要求」は孫文と側近山田純三郎、陳基美、外務省の小池張造が起案し、秋山真之が筆を執っている。しかもその捺印の日、先ず山田を呼び、次に陳、捺印が終わると陳が先に退室して山田がしばらくして退室(警察の行動記録)

 孫文の臨終に立ち会ったのは宋慶齢夫人と山田、死に水を取ったのも山田、遺言に了解したのも山田である。
 もともと地球の天地に生きる人々はその「信」に在りどころを国籍、人種に問わないのである。

 よく中国人は中国人に騙される。一番嫌いなのは中国人、騙されるのも中国人とそれぞれが偽り、ここでは戯れのような人間関係に生きている砂のように纏まりの無い民族と中国人自身が語っているように、国家でなく天下自然に生きる民族にとって「信」と「義」については独特の観人則がある。

 学問でも「論語」の言う道徳律もあれば、「厚黒学」〈腹黒くツラの皮が厚く生きる処世学〉や、道教の「房中術」〈部屋の中で行なう性に関するもの〉など、陰陽、表裏、縦横、プラスマイナス、が混交駆使され、しかも色、食、財の欲望に素直に随う柔らかい生き方を知っている。

 日本人と中国人のどこが違うのか? と問われてもアカデミックに理屈を述べたところで「ハナシ」の世界である。エスノペタゴジー〈土着的〉に人間を考えるとその似て非なる民族の隙間はあまり明確ではない。ことさら人権、友好、平和を謳わずとも彼らとの時と存在は微々たる経過にしかないだろう。


 オリンピック、餃子、チベット、ガス田、と隣国との問題がクローズアップされるが,此処へきて四川省の地震被害が発生し多くの問題で耳目を集めている。それは内政上の難題として、あるいは外交上、ここでは日本との歴史的懸案として潜在している歴史上の惨禍、そして禍福を共通の時とグランドで混交した民族のやりきれなさが見て取れる。

 ことさらマスコミ、文壇で取り上げる問題、あるいはその位置において営みをもつ者の解説はさておき、隣国との行き着くところを逆賭して考えてみたいことがある。
 それは、双方がぶつけ合う罵詈雑言にある種々の題材についての根拠をぶつけ合う証を論じたり、あるいは文明社会という代物に沿う社会の構成云々を、自身の歴史を思索、観照し、かつ肝に留めて相手を観ることでもある。

 たしかに冒頭に記した昨今の問題は、彼の国の政治機構やヒトのありようを見るには、一般論としても口舌を投げかるには容易な問題だが、行き着くところ、あるいは落ち着く場面を考えると、こちら側、つまり表層世界の衆を恃み共通の価値として大仰に訴えるには少々戸惑いがあることも事実だ。

 よく、ロシア文学に傾倒しソ連わが祖国と謳った教育者、労働者と自認する方々もいたが、漢詩読み、あるいは隣国の歴史ロマンに傾倒する中国大好き人間も多く存在する。










 大手新聞のコラムのことだが、普段は中国の対日政策などに苦言を記しているが、取材や余暇を通じて訪中すると、「悠久の歴史」「三国志のロマン」あるいは「孔孟の世界」と、活き活きと記述しているのを見かける。それは其れの分別だろうが、どうも斬っても切れない鈍重な思いが存在するようだ。

 その孔孟だが、人間として他を意識して調和する、いやそれ以上に大義を抱えての処世の術(すべ)として生きるのだが、その道は老荘にいう天下自然に遊戯する人間の融通無碍の姿と表裏を映す彼の国に棲む人々特有の性癖と表現になっている。
とくに、それは漢民族といわれる民種にある姿である。

 それは、ひと括りで中国とはいうが、消滅した、いや同化したように混交した、秦、元、満の各種族などを、その同化せしめた吸引力、抱合力を考えるに避けて通れない色、食、財の本性欲求にある無形、無作為の力のようにもみえる。
 そのこと自体、誘引される側の問題もあろうが、人間種として居心地のよいグランドでもあるだろう。彼らには我国のいう放埓の「埓(柵)」は、郷村、国家ではなく天下に在るというのだろう。

 統治論でいえば歴代の執政者が専制を選択せざるを得ない「人」の在り様だが、だからこそ専制の持つ強圧感、無常観からくる諦観、現世利益のみへの惑いは、多くの賢者、文人、思想家、武人の悲哀と順応を表裏に持ち、かつ桃源を希求する純心を抱合した文化が創られたとみる。
 歴代の封建と呼ばれる皇帝政治や、元、清にみる統治、そして孫文、毛沢東も近代に勃興した思想背景を用いてはいるが、実態は専制を描いている。それは政体は変っても権力者と民衆の関係にある宿命的性癖を熟知した上の選択だったのだろう。

 我国でも「浜の真砂・・」といわれるぐらい途方もないものへの挑戦は為政者に同様な煩いと、専制への思惑に誘われるようだ。
 法治国家なら法の厳罰化、大衆管理などだが、人の増殖と欲望の際限が「自由」「民主」なら尚更のこと、為政責任者は専制的な手段に誘引されるだろう。

 ただ彼の国の含有されているものの中に、「循環」と「諦観」という民族歴史のセキュリティがあることを忘れてはならない。
 それは一口に科学的に解明されないからと情緒性のみを観照すると大きな錯誤が生まれてしまうだろう。

 なぜなら悠久と形容される途方もない人間の歴史を構成するに欠くことのできない、民族に包含された人間科学だからなのである。それは古今東西を問わず成文化、もしくは口伝にある栄枯盛衰のなかで、滅びない民族に共通した資質でもあるからだ。

 また囲い込まれたように、かつバーバリズムにある良質な素朴、純粋な思索、観照を文明人になるという取引において亡くしてしまった人々からすれば、彼らを外部から見る上では思考経路の組み換えをも要求し、定説となった方程式さえも複雑怪奇な様相として判別不可能な状態に置かれるだろう。

 このところの平準的市場(グローバル)の構成が謳われ、かつ欲望のスタンダードとしてグランドの提供が中国の金銭哲学との共通項を探し出し、彼の大陸を市場資材として認知されるようになったが、本質論からいえば一過性の連衡であり、錯誤であるといわざるを得ない。

 それは我国の歴史にあった賢者、あるいはアジアの先覚者といわれた明治の諸氏が同様に観た、直感で感ずる異なりと本質の理解が歴史の事象として残像に記憶させ、鎮まりの思考として危惧させることでもある。
賢者はいうだろう「あの時もそうだった」と。

 もちろん歴史の正史に載るものではないが、日清戦争における清の敗北は漢民族にとって歓迎するものであった。また日本に対しても複雑な思いを超越して、何か鬱積したものを払ってくれる存在に映ったに違いない。






孫文の側近も日本人だった




そんな時、伊藤博文を宰相にしたら・・
その考えが彼の国の融通無碍な思いであり、切実な願望であった。

 元のフビライも北京で発見した色目人〈異国人〉耶律楚材を登用し、彼は見事に応え、宰相、哲人、として元の勇猛なる将兵を率いている。

 この様相はアメリカ合衆国の姿にみる人種混交、あるいはそれによって生ずる柔軟かつ能動的エネルギーとして観る事が出来る。

 漢民族は様々な外圧を誘引するかのように受け入れ、ことごとく同化せしめている。
 満州国、新京の魔窟「大観園」のボスは、「このままこの地に居ては日本そのものが無くなってしまう。早く負けて日本に戻ったほうが良い」と言っている。また「我々は泥水に生きている。清水に生きる民族は無理だ。我々は清水でも生きていけるが、日本人は無理だ」とも言っている。

しかし清濁には共通な人情がある。
また「人情は国の法より重い」ことを互いに知っている。

 それゆえ、あながち伊藤博文を宰相にという願望がハナシだけだと思うには歴史を短絡視出来ない期待をも含んでいる。

 普段、気にも留めない神棚の有効性は、埃にまみれた御神体の存在にある。
 ときおり拝む手の先に必然として、ある人物が甦る。

 あくまで漢民族としてことだが、孫文のような姿かもしれない。
 それは反西洋に収斂される中国の潜在意識のなかで日本と台湾が阿吽で認知できる存在だからだ。

 たとえ毀誉褒貶が多かろうと歴史の遺物は人間の残像に求めるものだからである。








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