まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人々は分断され、一極で管理される世界 2013 06 再

2018-09-22 10:41:43 | Weblog

 

それは、見惚れ、憧れ、競争している間に起きていることだ。


年齢を重ねて気がつくことがある。それは人々の関係が希薄になり、その都度離合集散を繰り返す、つまり融通無碍な関係になっていることだ。

近頃は物を所有するということが一昔前からの価値観とは変化して、リース、ローン、リサイクル、など見方によっては便利性が備わった消費経済との考え方があるが、払い終わるまでは所有権は使用者ではなく、あるいは飽きれば残債ごと利用者は移転し、債務が終わればリサイクルに転用し幾許かの小遣いが残る。

ともあれ消費は増え、生産は伸び、金利は稼げる。オリンピックはレガシイー(遺産)だと騒いでいるが、アレも同じパターンだが、地球のどさ回り興行が終われば、あとは片ずけが遺るだけだ。

ここでは、゛思いのこもった゛゛愛着のある゛固有の品物の継続性というものが無くなっている。欧州では厳しい規範のあるペット飼育も日本では、゛持ち物゛として飽きれば廃棄(ペットは物という認識)などはその典型的なもので、昨今は人の関係も、゛易しさ゛と利便性にその選択が行なわれるようになってきた。

考えてみると「腐れ縁」も考えようのあるモノで、たとえ「腐れ」でも縁の継続があるだけマシのようにみえてくる。

そこには様々な種類の「利」が含まれているが,古諺を例にすれば「小人、利に集い、利薄ければ散ず」つまり、人々はその評価を「利」によって行い、それによって離合集散する、ということである。小人がそうなら大人(タイジン)はどうかといえば、浮俗の「利」には拘らない人たちだろう。

たとえば、徒な褒章をねだらない、食い扶持目当ての学校歴に陥らない、やたら衆を恃んで群れをつくらない、流行ごとを追わない、つまり鎮まりのある落着きを醸し出すのを大人というのだろう。

小人の常は離合集散である。そして学ぶことも全て「利」にすすむ。「小人の学、利にすすむ」。そして「情(こころ)」を忘れ人を信用しなくなる。次に来るのは心地よい易しさ(優しさでは無い)に向かい、財貨のみの「利」に安住する。

それらは人の世の変遷の姿であり循環だった、そこまでは自浄も効くだろうし推考できる。またアカデミックにも整理のつく問題でもあり、数多の経典、文献古典によって理解できることでもあろう。特に欲によって陥る人の問題として・・



              



縷々記した、゛易しさ゛゛縁゛゛利゛などは、その作用によって人が変化、あるいは転化することは考えられる範囲の、あるいは眼に見える範囲の観察で解るものだが、「いつの間にか」となると余程のこと心耳を澄まして見なければ解りにくいものだ。安岡正篤氏は「国家は複雑な要因よって構成されている。その中でも精霊の存在もある・・・」と説いた。

「いつの間にか」という不思議感の混じった問には、゛心耳を澄ます゛つまりアカデミックな理解で可能な、゛易しさ゛とは異なる、感応する心、ここでは直感性が必要になってくる。

こう記すと「難しい」「無意味」との問が生ずる昨今ではあるが、それでは標題に書いた【人々は分断され、一極で管理される世界】については無感覚に過ごしてしまうだろう。

たとえば、銀行の横暴、役人の不作為、政治家の自堕落、温暖化、世情騒がれている問題に、争い、貧困、などの原因があると、ついつい、゛易しく゛考えて半知半解ならず半納得として自らに言い聞かせているようだが、直感の世界からすればそれらの考察は表層の吹き出物のようなもので、むしろ体質変化からくる生活習慣病的観点、つまり社会の本質部分の免疫不全状態に確実に向かっていることが解る。





                      



その本質とは数多の生存環境に有る固有の情緒をもった人々の調和と連帯である。
それが溶けて解体しているのである。

テクノロージーの発展はPCを介して多様な意志を収集し整理管理化に向かっている。そのシステムは一極に収斂され、互いに分からなくなった人々の集団化(群れ化)をよそに、かつ同時に謳われた「個性の発揮」「個人情報の保護」「コンプライアンスの遵守」を秘匿管理のプロパガンダの手法として耳障りよく「易い」人々を誘導管理している。

自由、民主、平和のために戦争は起き、その民主と自由を用いて放埓した民族に転化し、自由の裏面にある孤独感を解消する為に架空擬似的交遊の世界を描き、情緒を無意味とした人々は財貨に志向する。また終には管理システム統合と称して通貨は共通通貨もしくは防犯セキュリティーの利便さを謳って共通電子マネーに移行する。

ETCカードが無ければサービスも受けられず、PCが無ければ時の速度を共有できない、ここでは行動の管理と時とスピードの共通化であり管理であろう。
現金支払い、回覧板、手書きの書簡、野暮や古臭いといわれるだろうが、それも何れ歴史の彼方に追いやられるだろう。

金融危機からセキュリティーや利便性を添えて新たなシステムが生まれる。物知りはパラダイムシフトと唱える。そこには小さな極面での利が添え物のように付与されるだろうが、従前固有の国家は疲弊し、これも統合管理の憂き目に向かうだろう。


                 




米国大統領は就任式に「アメリカ国民」てはなく「市民」と謳った。そして人々は酔い喝采した。
その一瞬ではあるが、世界に向けた誓詞に含まれた意図は、歴史のステージを転化する本質的危機の表れの一端と直感したのだが如何だろうか。

まさに、分断と管理の、いつの間にか・・・  にある一種の心地よい誘引フレーズでもあろう。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤慎一郎氏と語る 「荻窪酔譚」 抜粋

2018-09-19 03:06:55 | Weblog







T 先生、向こうの小学生に対して、或る程度のレベルの人に対して、漢字を教えていたのですか?

S 僕、小学生しか教えなかったけど。算数も全く解らんで、自己流に執ったの。青森のズーズー弁で教えた。「お前ら、解ったか?」と訊くと、日本語で皆「はい、解りました」と。
 学期末の試験直前になって誰に何を聞いても一つも解ってないの。 理由訊いたら、
「はい、解りましたと答えれば、先生が喜ぶと思ったから」と。
もう、如何にもならないよ。それで、中国の事、中国人に聞かないと解らないと思ったの。

T 小学生の場合、担任の先生に好かれたい、と云う気持ちが強いのでしょうね。

S 僕遊んであげるけど、中国では先生って偉いから子供と遊ばない。汚いから風呂入れると、入った事無いので直ぐ風邪を引くし、父母から文句言われる。

T 小学生の男の子なのに女房を貰っている、と。

S 小五の生徒53名の内、未婚は僕を入れて七名だけ。労働力が欲しいから早く結婚(嫁がとしうえ)させるが夜、オチンチン弄られたと言って「え~ん!」と泣いて職員室に来たり、高等科の嫁が門まで送って来たり、とにかく全く事情が違う…。 旅順で、晩になると支那語を習いに出掛けるけど、途中の墓場で女の人が毎晩泣いている。 すると、女の子がご飯持って来るの。 そして帰った途端再た泣くの。 僕、本当に泣いていると思ったけど、之、儀式なの。

T 其れ如何いう、所謂「泣き屋」ですか?

S 川島芳子のお父さんが旅順で死に、棺桶の傍に子供らニ十何人と座り、莫迦咄だ。 
ところが、弔問客が来ると、突然「ウワ~ン」と泣く。

T 然う言えば、台湾でね、葬式の通夜の晩に二万円でストリッパー呼んでストリップやる。 仏さんが淋しがら無い為に。




佐藤氏の叔父 孫文側近山田純三郎  孫文





S それで川島芳子、笑って泣かないから皆に叱られたの。

T 男装の麗人と言われているけど、男と関係持てなかった、と。

S 青森出身の成田と云う医者が旅順に居て、結婚初夜に抜け無くなった時、彼が後始末した。

T 奥さんは、あっちで支那語は?

S これは、それ程…。 僕は一番安い部屋で一番安い飯喰って、五人の個人教授(大学の先生)に全部金を掛けて雇い、支那語勉強した。 満州に来た時は一番ビリだったけど、勉強したので一番出来る様になったよ(北京語の全満の試験委員に就任)。 郷里に帰った時、僕が余りにも痩せていたので皆吃驚していたよ。

T 時代が良かったのかも知れないが、気狂いですよ、其れ程の勉強は!

S 女で失敗、ごまかしで勉強したの。勉強している時、苦しみ忘れる事出来るから。 あの頃の鉛筆、質が悪くて、これが脇でしょっちゅう削ってくれた。それで、一対一で支那語習ったの。

T あの正篤先生、ご尊父が正明さんに「青年時代は学問を志したら、青くて痩せていた方が好い。 若い内から太っている者にろくな奴はいない」と。そうしたら、お孫さん太っていて。……。

S 中国の事、本で説明を読んでも駄目と実感したの。 何でも体験して学ぶ事にした。死姦とロシアの女兵士以外逃げなかった……。 女の兵隊は三、四人でピストル持って男を攫って行くの。その代わり、御土産くれる。

T 梅毒貰ったら、御土産出ても釣り合いが取れませんね……。 
ところで、満州国の教育の中で、国語はあったのでしょうか?

S 北京語だ。僕、全満語学検定試験の委員だったの。満州人の国語は無くなって終しまった訳です。今、中国では全部北京語になっている。






新京大同学園教授




T 北京語で「あなたは中国の国語の先生ですか?」は何と言うのですか?

S アレッ、「国語」って何て言うのかな?

T じゃ、「国語」と云うのは、ある訳じゃないと。……。でも、考えてみれば上海で喋っている人、北京では通じ無い。と云う事は、読み方(発音)が違うとすると、大事なのは文字が記号として意味が統一されている、と。

S 発音は違う。文字の意味は非常に拘わっているので、思想が発展しなかった。

T 其処から応用(活用)が出来なかった、と。

S 王陽明になって初めて其処から抜け出したの。

T 娘を今度台湾へ一日か二日体験入学させようと思っています。所謂「文字に対する捉え方」が日本と中国では違いますね。 だから、一種のカルチャー・ショックを与えて、中国への理解を深めて欲しい。 
これから、中国の政治・経済が大きく変わり、(アジアの)主流になると思いますが、そうした中で日中両国が共通に用いている漢字の意味使いの違いを深く理解しないと困りますからね。

S 中共に成ってから、如何教えているのかな?

T 文字が簡略化されて、本を買いに行っても全く解りません。

S あの簡略字、伝統を否定しているから、学者の間で批判が強い。










T 日本の小学校の書道の先生に
「文字の意味使いを教えているのですか?」
と訊いたら、
「此の期間に是だけの文字を教えるので、其の様な余裕は無い」と。
之では文字の成り立ち、解りませんよ。

S 僕も、(寶田さんの言ってる)此方が本当だと思うな。

T 小学校へ行って吃驚します。本来、人間が教えるのに、機械的、心太(ところてん)式に執っている訳です。

S 恐らく受験勉強の所為じゃないかな。

T 其れは教える人の人生観とか考え方が表れるのでしょうね。

S 僕、「佐藤慎一郎って何だ?」と訊かれて、訳が分からないよ。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「女厲」は社会を劣化させる 16 4/8. 再

2018-09-09 14:19:53 | Weblog

               秩父

 

 「女厲」は五寒に記す、政外、内外、敬重、謀弛と同時に表れる相互作用だが、女性が荒々しく烈しくなる現象だ

この兆候が表れると社会は崩壊し、国家はなすすべもなく崩壊する。それは生産や軍事力という数値評価の多寡で競うものではなく、真の国力と云うべき人間の深層に存する情緒が五寒に記すそれぞれの問題の顕在化によって毀損され、数値の繁栄が砂上の楼閣のようになる危険性があることである。

なぜなら、数値の多寡を競い、成功価値や幸福感を追求するなかで、個々の成功や幸せが行き着くところにある「全体の毀損」が、まるでエントロピーの法則のようにその高低差を激しくなればなるほど、閉塞感や戸惑い、不安などの精神的社会基盤が歪み、回復力を失くすことになってしまう憂慮だ。

昨今は、格差社会といわれ、一過性でもある、情報、収入、などが、その一過性の人生価値によって、より激しさを増している。そこに付随するように「五寒」も顕著に表れている。

安易な生活感によって、考えることは難しく、観照することは関心もなく、問題意識すらない人々は、その境遇すら人任せにする傾向が多くなった。まるで羊飼いに飼われた犬に追い立てられるように、群れは流行り事や、政府の刺激に群行群止している

 

 

  台北市老人住宅 松崎敏彌氏と

第五次になる中華民国台湾の施設訪問が3/15から行われた。

施設は台北や高雄の高齢者住宅と小学校の朝礼、少年観護署(矯正施設)などだが、それぞれ数次にわたる継続訪問である。

 

この章に関係することだが、台北の高齢化施設での女性には、いつものこと応答や仕草など、便利性や情報に囲まれ、文化的と云われる世俗に生きる我が身に照らすと、ことのほか至らぬことに気が付くことがある。

 

ものごし、笑顔、言葉の選択、応答、すべてに日本の生活域では見かけられない情景がある。なかには台湾高等女学校や、あの映画KAMOで有名になった嘉義農林野球部出身者もいたが、みな応答辞令に優れている。懐古趣味に留まるものではないが、改めて日本語の教養的な使い方、心の沈潜した部分の表現、さらに異国ならではの一期一会の遠望するような眼差しなど、不謹慎にも抱きしめたくなるような老境の潤いがある。

 

 高雄市老人住宅 カラオケ室

それと云うのも、訪台直前にネットや国会を騒がせた日本女性の意見表現に、どこか裏悲しさを感じたこともあり、早くあの方々に会って、゛そもそも゛を取り戻したい気持ちがあった。なにも大戦を前後しての価値評価を云々する野暮なことではなく、心地よい人々の「和」や「間(ま)」が、たとえ異郷においても、瞬時に連帯や調和による親和心を作ることのできる応答と観照の妙を浸透させる、人間の真の力を感受するために、己の敏感性を研ぎ澄ます体験への期待だった。それは、邦家では乏しくなった日々新たな発見でもあった。

 

その我が国の情勢だが、多くの女性の賛同を得て政府さえガブリつく文句があった。

 

何なんだよ、日本。
一億総活躍社会じゃねーのかよ。
昨日見事に保育園落ちたわ。
どうすんだよ、私、活躍出来ねーじゃねーか。

保育園増やせないなら児童手当20万にしろよ。

 

世上、いくら欲張りでも都合のよいことばかりで思い通りにはいかないことは子供でも知っている。現状を認知して内容を熟慮しても、ヤクザや不良弁護士や利権代議士、はたまた扇動家が「いい話」や大義を言ってきても、世間は眉唾で聞き流すものだ。いわんや方策としてもこの手の言葉を用いる人間が、浮俗の風でまかり間違って政権を取り、認証官(大臣)にでもなったら、陛下は平然として信任状をお渡しになるだろうか

しかも、男女平等を謳う世で、義務はともかく人の権利を唱える、ここでは女性に、嘲り、罵声を浴びせられて、ごもっともと語るオノコも情けない。

゛いつのまにか゛それが複合的に社会の隅々に表れるのが五寒にある「女厲(じょれい)」なのだ。

 

制度や待遇を考慮しても、わがナデシコの言は烈しくなった

これではまとまるものも、まとまらない。だが選挙目当てもあるが政府は瞬時に五兆円もの対策費を計上予定とのこと。これも選挙次第でウヤムヤニなってしまうのだが、どこか情けない気分だ。いわんや課題(批判)に対する応え(対策)だとするなら、対策のみで政策すら出せなくなった為政者との出来レースの芝居かと思えるほどの、タイミングの良い、゛さもしくも卑しい゛役者がそろっている。

 

                 秩父

 

当ブログで記す、陋規の習慣と掟を倣い、自省や模範とすることがなくなっては、いくら法を積層しても意味がないと考えるが、この陋規(狭い範囲の掟や習慣)には、前記した台湾の高齢者の「ものごし、笑顔、言葉の選択、応答」あるいは、「整理、整頓、清潔」などトヨタでも5Sと称されることの習慣化、あるいは食事態度、姿勢、礼儀などが大きな部分を占めるが、件の女性は、野暮で古臭い、人権、平等を掲げて反論、いや争論でもするような威圧姿勢がある。

 

 

思春期を過ぎて大学生になり社会人になってからでは間に合わなくなることがある。

それは付け焼刃のような人間の矯正と、役に立たない知学である

 

人間を粗製乱造する教育産業の変容を進歩的成長とする風潮と相まって、その評価とする数値的選別が、なんら社会生活なり国家組織の形成に効あるものではなく、かえって屋上屋のような法の積層や内規(コンプライアンス等)を作らなければ、人間がその世界(組織なり)用と成さない現状がある。

 

近ごろは、職掌責任ある上司でさえ言葉を控え、いたずらに逡巡する傾向があるようだ。

なかには真性の病いでもなく、単なる我慢が利かないストレスという流行り語や、それを病気項目に当てはめた「うつ病」が多いようだが、言葉を失くし、動きを失くすと、それらに括られ、しかも数値に追いまくられ人情薄弱になった環境から逃避するように病を盾にすることもあるようだ。まともな病をもって苦しんでいる人はその偽病に嘆いている。

 

体裁のよい憑りつき病のようだが、これに「さもしさ」も「むさぼり」が感染したら、生活習慣病となるのは必至。点ける薬はないが、体質改善と精神の覚醒は肉体的衝撃がことのほか効く。人の弛緩や堕落は、それによって構成される社会なるもの、国家なるものも同様に弛緩し堕落する。

 

まさに、「何だよ、日本」、敢えて云われなくても国民は察している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吾 平民なり

2018-09-05 14:13:53 | Weblog

 

吾 平民なり

 

大日本帝国憲法では天皇を内閣が輔弼(助言、沿う行為)すると明記されている。

戦後の憲法では天皇は国政に関する権限や統治権もなくなり、象徴としての位置にある。

その象徴もオブジェのようなものではなく、国事行為である認証(裁可ではなく)は、内閣、条約、法制について多くの認証御璽を自らの御名によって行っている。

つまり天皇は権力を所持しない、国政に関与しないという制約下での象徴としてのご公務を執っている。その意味では英国女王も象徴ではあるが、形式的には元首・君主としての言葉や行為を国民に現示しているのと同様だ。

 

国民からすれば日英の立憲君主は似て非なるものと考える向きもあるが、建国から歴史的経過をたどると「依って立つもの」の異なりと、多文化との干渉なり、あるいは融和によって運用の姿は異なるっているのは当然だ。

だだ、絶対君主や共和制(大統領制など)などの統治形態からすれば日英は立憲君主制という見方として分別されるだろう。

 

また権限や統治権を有するなら他からの剥奪もあるが、゛所持しない゛象徴であるために民意やそれらで構成される司法裁判などに影響されることない安定的かつ継続的立場を維持できることでもある。それは多くの要因を以て構成されている国なるものに棲む人間を、利害を超えて収斂する、言葉を変えれば群れに自然推戴された長(おさ)の役割をもった必須の機能でもあるとの見方もある。

 

      

          東御苑

譬えで理解するとすれば、水面は風に揺れ、木々はそよぐなか、航路の指示と安全のために設置しているブイの水面下の安定重量として定位を保つ錘(重し)のような感覚だ。

近代は人権や平等、はたまた性の同権が謳われ、その意識の上で、゛重し゛の是非を論ずることもあるが、性別固有の異なる存在を認め、かつ有効的調和によって超数的効果をみとめた古人の厳存理解の認識(なじみ)とはかけ離れた論が、これまた切り口を変えて競い合っている世俗の状況があるようだ。

 

こと、人間の行為は万古から変わらない。とくに食・色・財の欲望においては、人権・平等・平和の言辞を以ても、相対、いや絶えず対する絶対のごとく、今時の論拠としての質や量に置き換えても質は劣化が進捗し量は増大している。とくに分別や弁(わきまえ)などにおいて、より分離かつ立場の混在意識が甚だしくなっている。

 

前章を考えて、果たして現在の政治家、つまり数多の意志の収斂手段をとるにしても、国民から委任、負託の関係にある立法府の政治家、行政府の為政者と官吏が立憲君主の象徴として存在する天皇の長(おさ)としての存在認識は如何なる考をもっているのか、どうも嘆かわしい希薄感が筆者の眼に映るのだ。

 

     

    悠仁親王殿下の御世は・・・

 

 

古人は「上下こもごも利をとれば、国 危うし」と云った。

その「上」は現在では為政者なり官吏、あるいは上長者である親や先輩の考えや習慣的行動などだが、それらが人を観る価値観が人格とは何ら関係ない附属性価値である、地位、学校歴、財の有無など、すべてが財利の多寡を成功価値なり、幸福感と狭視することがますます昂進し、それを抑える教育なり文化的技芸なども財利に昂進する姿に、「下」も嫉妬と怨嗟が混在した哀れにも映る追従がすすむことを古人は社会の危機と捉えていた。

 

いつぞやは偉い人と云えば政治家、医者、教師と思っていた。尊敬もした。

゛偉い゛は立派とも言った。上手い演説とはいうが、立派な演説は無くなった。

知識人は、゛あてにならない大衆゛と括り、権力に迎合して素餐をむさぼっている。

売文の輩、言論貴族に落ちぶれ、そのあてにならない大衆を、これまた商業マスコミの走狗となって大衆を先導している。羊飼いの犬に似ている。エサはともに錯覚した成功感の糧となる金(食い扶持)の多寡を競う意味のない価値だ。

 

この時節は、長(おさ)の周辺も騒がしくなった。深窓の令嬢に興味があるのは人の常だが、「俺と一緒ではないか」では、炭酸ビンの蓋がはじけるのも遠くない将来だ。

そんなことを考えて、別章を記してみた。

 

以下 次号

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする