まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

師の死に臨んで、護るべきもの     10 2/18 再々

2016-04-21 20:11:23 | Weblog

「そう固いことは言わず」と、いわれても教えを曲げられない師への志でもある

“そっとしておきたい、天の配財”


[著述業]
 
 世の中に、著述業という職域があります。
税務申告や数々の証明書、申し込み等の書類の記載欄に「著述業」と記載されます。 其の生業は、主に文章作家と称せられる方々が、その類に属すようですが、「営み」の糧とするものの本業と言うべきものでしょう。

 しかし、職業選択および兼業の自由があることによって、政治家、芸能人、教師という本業表現を主体としながらも、他分野の評論や自身のテリトリーの中での維持、あるいは顕示を図って出版を企画するものが近ごろ多く見かける風潮でもあります。

 “全て個々の自由表現である”と済ましてしまえば簡単なことだが、なかなか難しい問題でもあります。

そこには曖昧な責任意識と、自己の存在位置の仮定意識が混乱した評価を醸し出していることは否めません。
 そのためか何々賞といった職域グループの、まるでタライの中をかき回している姿もあれば、出版記念パーティ、受賞記念パーティと、本来の著述の内容と目的にかけ離れ、浮ついたセレモニーが催される傾向があります。

 政治家の出版記念パーティなどは、本業?の状況を弁えずに派手な宴席を仕立て上げたり、あるいは、浮情な世を憂い、義を唱え喚起する内容を著したものでも例外ではないようです。

 大所高所から世に問いかける意図とはかけ離れ、一部のルンペン・エリートの衆に祭り上げられる姿は、著書から感動、感激をうけ、著者を読者の増幅された価値によって位置づけ、その著されている体験を疑似同体験者として共鳴、あるいは志に銘ずるものにとって正に背信行為であることに気が付かない堕落であり、実直なる社会衰退の徴でもあります。

 自らの地位や名誉を、錯覚した価値のもとに押し上げ、そこに寄り添うごときが姿を借用価値として世情を表現する証しの如く惑わし、いつの間にか“内なる独立”のない民情を誤って方向に導いてしまいます。
 俗世の“利”には有効ですが、歴史から観れば英知創造とは言えない社会悪の状態を、自覚しないままに時流としてしまっていることが問題です。


[価値ある“分”]

息秘そむ賢人、処世の哲人はそれぞれの考えで、その“分”に任じているのです。
 水中花は水中にあって価値があり、水上から眺める者との観点の違いは、それぞれの越してはならない生存の価値であり、黙して認める己の価値でもあります。

“無名有力”だからこそ援けを求め、“志”を吐露する者が近寄るのです
 人前に出て観察され嬉々とするのは人間だけです
 動物園の獣も人に見られるといった理由だけでオリに入れられています。
そこには自然がない。 地球上に最後に生まれて来た人間が“知る”“見る”という知識、技術(知恵)の属性価値のために、他の生物を愛護という言葉を借りて囲いの中にいれてよいはずはない。

賢人、哲人にすれば有を売る、人前に晒す、とはそれぐらいの事でしかない。
 それぞれが感謝することであり、厳然とした棲み分けの聖地を守るべきことが受益者のささやかではあるが陰ながらの答礼であり、義務ではないだろうか。

 宮沢賢治の著述に“人間が他に及ぼしているさまざまな事柄を、人間が同様に及ぼされたとしても甘受しなければならない”といったような事がある。

同様に“息秘そむ賢人”処世の哲人”を他に知らしむ、といった目的で俗世の覗き趣味的哀愁価値に埋没させては、何のための学問なのか判からなくなってしまいます。
 推察される弊害と、覚醒し得る世情を考えるに、その不安は消し去ることができない。

              

             師の故郷 弘前  リンゴの花

 

[本 意]
 台湾在住の、世界史に記憶されている事変の、真の首謀者の苗剣氏秋未亡人に伺った話である。 話というよりか、絞り出すように語ってくれた言葉である。
苗先生は(自身の夫)は、いつも忙しい人でした。きっと自分自身を探していたんです

 亡夫は生前
「 男は世界史に残るようなことをしなければならない。それには自分自身の生まれて来た目的と、公(おおやけ)に対する志を持たなくてはなりません。」

 また、未亡人は問わず語りながら
 「私は独りぼっちでさびしい、政府の言う老人施設は、冬暖かく夏涼しい、なにもかも揃っている、しかし、朝起きて体操、食事、昼は何時に食事、夜は何時に寝る、 これでは監獄と一緒ですよ。 年寄りは自由に生きたいです。とても悩んでいます。」

 

                    

                 苗夫人      

 自己を探し求め国事に奔走する夫、理解し、寄り添いながらも自身の責任ある自由を守る妻、それぞれが内なる独立を保った両性扶助のすがすがしさは、革命という秘事体験、しかも表明記述することのない夫の唯一の表現が“夫婦”そのものである思いがする。

人間そのものは自由である。それは自然界の“分”を弁えた上のことである。

“分”はなにも“長幼”や“地位”あるいは“財利”の別のみではない。
 勝者は敗者に“おもい”をいたすことから真の勝者になる資格が備わるように、“長幼”においても幼子こそ生まれながら持っている“道心”ではあるが、長じて名利位官の欲求のための、゛邪道゛の有り様では世代の先達とは言えない。

 まさに“人心乱れ、道心これ微かなり”ではあるが幼心から学ぶという度量と見識が試されるのも“長”としての“分”の些細な努めでもある。

名利位官を求めることを人間の発展に欠かせない少欲と認めたとしても、おおむね人生一度だけと、あわてふためいている人々に観られる理屈である。
たかだか人間の考えることでは、ゴマメの歯軋りぐらいのことでしかない。
ゴマメがどんな時代に生存し、どんな地位にあったか、どんな利を受けたか、なにを目的として生きていたのか、そんなことは水に映った月のようなものである。

無名でありたい、無学でも莫過でありたい、と願った哲人の境地が、うらやましくも達することは叶わない。
 省みるに、一巡りしてまた同じ処にいつの間にか居るのが学問のようだ。

そういえば、我が師から
 「吾、汝らほど書を読まず、然るが故に吾汝らほど愚かならず
物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」と訊いたことがある。
 また、アレキサンダー大王が、アテネ郊外の酒樽の中で暮らしているディオゲネスという乞食哲学者を尋ねて
 「何かほしいものはないか」と聞いた
乞食哲学者は答えて曰く
「 何もほしいものはないが、おまえがそこに立っていると日陰になる。どいてもらいたい」と答えたという。

 哲学者、無学の莫過、人より書を読まぬもの、それぞれに意味と理(ことわり)がある。樽の中での生き方と“分”の責任が在る。

文字に著してはいけない、あるいは著しては価値のないものもある。
その深遠な価値を考えずに、あえて“物知りの馬鹿”や“本読みの衆愚”の眼前に引き出す愚は、乞食哲学者の大王にたいして教えている“分”の礼を、辞譲の心で感じ取らなくてはならない。

世のため、人のため、後世のためといった大義の名分が、如何に民情を惑わしたことか。大義を語って利を貪る輩の“利”は“義”の意から生ずる“志”を枯渇させ“潤い”となるべき“利”の本意を狂わしている。
自利の欲望も大義の欲望も、人間そのものの行為によって善にも悪にもなるものです。

 

              

              鶴の舞橋

[尿 意]

師の教えに「座して尿せよ」という言葉があります。
ある戦国武将が大事な合議の場で、尿意を我慢できず中座しようとした家来にむかって、「生きるか死ぬか存亡の機にある大事なとき、たかが小便ごときで中座するとは何事か、゛座して尿せよ゛」(座って小便垂れろ)と叱責している。
哲人、賢人に寄り添い小便を我慢するが如くウロウロと、しかも志のあいまいな大義を唱えるなら、いっそのこと老廃物排泄行為をしてからのほうが、より良い方法で哲人、賢人の“おもい”である利他の活用が可能になるのではないだろうか。

 文化勲章受章者で作家の司馬遼太郎さんが、陛下のご進講に際し、尿意をもよおして中座したことが自著に書かれている。
真剣な御進講中に「座して尿せよ」と申したところで、失礼と恥ずかしさが妙な場面を醸し出してしまうであろうが、司馬先生は“尿意が近いので”と告白を前おいているのでどうにか納まる話でもある。

ただ、次代の天皇である皇太子に厠の場所を尋ねているのは情けない。明治は書くが、明治人、いや彼らが求めた真の日本人には成り得ない物書きの所作だ。

俗に、“顔を洗って出直して来い”“一晩寝て考え直せ”とはあるが“小便をしてからスッキリと出直せ”とは新話になりそうなことである。
ことは物書きの三題噺だが紐帯を意識させるところが気にかかるところだ。


 昔から、生き恥をさらす、志を曲げる、といった言葉がよく使われる。
 自身にとっては人生そのものであり、固有の哲学でもあり、聞き手にとっては惻隠の情けという“道心”の発露の場面でもあります。
 


[宰相、辞して弟子を観る]

 人を褒めたたえることでも場所を間違えると取り返しのつかないことがある。
 戦後の名宰相といわれた吉田首相の銅像を建立する話が、門下の政治家から持ち上がった時のことであった。

 頌徳の本意が、なすべき姿ではなく、意義不明な保守本流意識の勢力に片寄った姿だからこそ起きた出来事だろう。 だからといって今すぐ影響が現れるものではないにしても、その勢力が掲げている戦後政治の根本的命題に関することであり、ひいては我が国の秘奥に潜む問題でもあるからです。

それよりも吉田首相は“卓越した政治家だ”“指導者として忠恕の精神があった”といった国民の普遍なる価値と、信頼される国家の具現者としての理想とすべき姿でなくてはならない。

本人の与り知らない銅像として現示し、後世に遺そうとするなら、尚更である。

宰相はクリスチャンではあるが、その外交体験から我が国の皇室にも畏敬の念を示し、上奏文には「臣 茂」と記している。
その「臣 茂」の銅像が皇居の敷地内に建立された。
故人は、はたして皇居内に臣下の頌徳像が建てられることを望んでいたのだろうか。 あの洒脱なイメージのある方が、例のかん高い声と愛嬌のある笑顔で、とは考えにくいのが庶民の切なる気持ちである。

頌徳文を撰した碩学の道師(安岡正篤)は、建立される場所を聞き損じ「慚愧に耐えない」と同人(岡本義雄)につぶやいたという。
どうせ造るのなら、高山彦九郎のように、あるいは、自らも桂浜の龍馬の如くと願いつつも、師の本意を錯誤した政治家たちのその後の道程は、昨今の政情の姿をみるにつけ“本立って道生ず”といった師の言葉を思い出さずにはいられない。

  
幕末の儒学者、横井小楠は
私は言うべきことを言うのである。 相手が聞かないだろうと思っていると、その人を失ってしまう。ところが、聞きたくないというのを無理に強いると、私の言うことが駄目になってしまうから、相手が聞こうが聞くまいが、私のことを言うまでである」

また、こうも述べている
「後世に対しては、成るも成らざるも、唯々正直を立て、世の中の時流には乗ってはいけない。道さえ立てば、後世子孫に継がれるものだ。 その他に言うことはない」

 

 

                     

息秘む賢人、哲人は俗世から観れば、風変わり、頑固、とおもわれる場合もあるが、見えざるものを観て、歴史の真実、真理を洞察し、世の中を支えているものです。
あえて表舞台に置いて愚人の評を得たとしても、一過性の満足しかないでしょう

賢人、哲人の立脚する原点は何かを探り、“おもい至る”ことこそ足下を認ずるものの礼ではないだろうか。

さも高邁に浮世の理屈で嬲(なぶ)ることは、師の語る歴史の真実、あるいは“省みる事柄”を軽視し、唯一 知識、情報としての歴史観しか得ることのない“売文の輩”“言論貴族”と同一視するものである。

そんな情感を黙考させてくれる師を想うに、 そっとしておきたい天の配財を、地に伏し、生き様を俯瞰し、秘奥なる気持ちで御護りできたらと念ずるものです。




イメージは関係サイトより転載

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外からみた田母神氏のインテリジェンスと吾が身を抓ること 9,2/4 再

2016-04-16 11:39:02 | Weblog

                ラダ・ビノード・パル判事席




外とは外国のエージェントである。

東北アジアの国々には様々な形態をもった情報機関がある。なかには情報収集だけではなく謀略機関として対象国の政策まで翻弄するものまである。
夫々の歴史には、忍び、班など政治機構に組み込まれない陰として動くものもあれば、組織として他国に侵入して企てを謀るものもいる。陸軍中野学校のように外務省の職員として海外各地に派遣されたり、残置諜報としてフィリッピンに残った小野田さんなど記憶に新しいものもある。

あの映画アラビアのローレンスや〇〇7も英国情報機関M16(エムワンシックス)の活躍?であり、アメリカのCIA、旧ソ連のKGB、イスラエルのモサド、中国の統一戦線工作部、韓国のKCIA、我国といえば内閣調査室、公安調査庁、などがあるが収集と謀略の企てによって殺人、戦争、転覆など、組織維持なのか国家の安全保障なのか判別できないくらい複雑に入り組み、事の隠蔽性から裏切り,二重スパイ、あるいは政権中枢に潜り込み側近として政策や資金を任されるものもいる。



               
           近現代ギャラリーより  ラストボロフ事件



一例として、昭和二十九年の八月十四日、外務省と公安調査庁が共同発表した在日元ソ連代表部ラストボロフ二等記官の日本におけるスパイ活動と、同人のアメリカ亡命の問題について同年十月十二日19回国会 法務委員会(第74号)の議事録を抜粋したい。

柏村氏(警察庁長官)は米国においてラストボロフ氏の聴取を行っている。しかし日本人協力者の名前の多くは伏せられてる。


○柏村説明員 ラストボロフの話によりますると、彼は主たる目的は、やはりアメリカ人を工作の対象とするということが主任務であったようでありまするが、これについては、なかなか思うように行かなかったということを申しております。

日本人につきましては、彼が接触したもののほとんど全部と言つていいのでありますが、敗戦の際に、ソ連領内におったものでありまして、向うで抑留中にソ連の諜報活動に協力する旨の誓約をざせられて来ておったものに近つきまして、そうしてたとえば米軍に雇われているものから米軍の諜報をとる。

これはむしろ刑事問題として、検察庁なり警察なりの問題になる。刑事特別法に触れるか触れないかの問題は、ざらに検討を要する問題でありまするが、そういう危険のある事柄についても、諜報の手を差延べておったということは事実であります。

またその他の日本の官吏あるいは民間人につきましても、同じように抑留中に誓約をさせられて来たものに対して、額はまちまちでございますが、相当額の報酬を、大体月ぎめにして与えて、そうして情報を提供させるというやり方をしておった次第であります。


○林(信)委員 日本人でソ連に抑留中にスパイ行為を約束させられて帰って来た、そんな連中はどのくらいやってたんでしようか。あるいは日本の官吏で、今日では公務員、国家公務員等に対して、どれくらいの謝礼がやられておったようでありますか。具体的のものでなくても、大体……。


○柏村説明員 誓約というのは、向うで抑留中に、自分の方に協力しないかということで誘われて、もしこれを断れば帰されないのではないかという心理的圧迫から、そのときに誓約書を書いて帰って来ている人が、相当に多いんではないか。

しかし帰って来まして、もう帰ってみれば、向うで考えておったような母国でもないということで、ソ連側に協力することを拒否した人もあるわけでありまして、むしろ数としては、誓約したものの大部分と申しますか、相当多くの人は、この協力関係を断っておる。

自発的に断っておるのもあるし、向うから近づいて来なかったものも相当にあるんではないか。そのうちの一部が、誓約通りに向うに協力するということになったものと思うのであります。

報酬は、私も記憶にちよつとはっきりいたしませんか、少いもので月五千円くらいから、月ぎめとしては四万円くらいの人もあったようです。そのほかに特殊なもので、数十万というものを受けておる人もあったように承知しております。月ぎめとしては大体二、三万から三、四万くらいが普通であります。
《以上参考抜粋》


              

ウィキペディアより    自衛艦


一例だが、海上自衛隊の隊員が女色によって情報を流すハニートラップがあるが、高位高官でもタラップからレッドカーペットを歩かせられ、異国の歓迎パーティーでゼネラル(将軍)対応されれば気が緩む御仁もいる。とくに歴史の罪科を背負わされたような無理解な国内事情と比べその答礼は気分を高揚させるだろう。

ついでのこと敵の敵は味方とばかり独裁国をけしかけ、平和遊惰な国民に危機を抱かせて数兆円の武器を買わせ、これで装備が揃ったと軍人特有の充足感を満たす人たちがいる。国内の縦割り省益ですら諜報、廊下トンビの類は多いが、これとて無駄な二重発注、二重設備によって外国に利益を提供している。

昔はこれらを売国奴といったが、いまは其の言葉すらない。

一方、先の大戦も国内事情に其の因を観ることがある。それは国の行く末の描き方の違いによってその暗闘は繰り広げられた。ことさら左翼や右翼の言の何れか組するものではないが、嘲る、罵るほど国内が鎮まりが無かった、いや国内でも謀や企てが交差していた異様な社会だった。何を人事(ひとごと)のように呑気な論だと批判に晒されそうだが、゛誰のせい゛゛そんな意思は無かった゛では済まされない相手の存在する問題だからだ。

柏村氏と照らし合わせた人物についてだが、シベリアの収容所で誓約に躊躇した人物は仲間のZ氏に悩みを打ち明けた。Z氏は「早く帰ったほうがよい。誓約もやむおえない・・」と促し、帰国後、総理になった親友の誘いで派閥の資金、政策の責任者になっている。宏池会・池田首相の親友で事務局長田村としお(佐々淳行氏著書明記)



              
              戦勝国 蒋介石総統


あるいは在野の実力者であり政策の中枢に位置した人物だが脇が甘かった。戦犯指名を受けたが其の交流のあった外国高官の尽力で戦犯回避されている。

もちろん戦勝国指導者の承認を得られなければ不可能な話だが、其のときの事情は「この人物を戦犯にしたら一級の情報が入らなくなる・・・」
ことさら漏らすつもりは無かったが専門学の国の人格識見を観たのであろう、しかしこの高官は戦争指導者さえ欺き、その情報機関を国内の対立勢力に通じさせ、日本を北進から南進に転化させた張本人である。

しかも数週間前から真珠湾攻撃の日時、司令官まで収集し、其の組織の資金は コミュンテルンではなく、それを歴史的大謀として操ったM16の提供だった。

共産主義は自然発生したものでもなければ、あるいは駆逐されたのではない。
コミュンテルンはソ連であり中国であるという考えは、そう遠からず変るだろう。
独裁と、共産、民主の戦いだったという枠も消えるだろう
ただ、共通化した人々の欲望に点火するシステムはより巧妙に浸透し、未だかって各種の「主義」を添えて軋轢を誘引している。

ゆえに内なるものを見つめ、外を観照する国家、いや民族の賢さが無ければ融解することは必然である

軍閥、軍官吏、財閥、政治家、夫々の意図で現状看過しつつ誰も止められなかった歴史がある。翻って政治が機能しなくなると軍が跋扈したあの頃と、平成の厚生官吏、治安官吏の行動と行く末を先見できない政治の衰退はあの頃の繰り返しとみえる。

もしこれ等が群れとなって海外に進出したとき、どんなことが起きるのだろうか。

其の歴史は満州崩壊に観ることができる。
満蒙開拓を謳い多くの日本人が入植したが、ソ連が国境に近づいたとの報で居留民を棄てて逃げ出した高級官僚、高級軍人、勅任官、、つまり責任逃避は立身出世のために高学歴を得たものの得意技なのである。肉体的衝撃を回避する為に偽学歴を得たのである。其の醜態は現地異民族にも焼きついている。

北朝鮮、中国の伸張が取り上げられるが、同盟国の行動すら諫言できない迎合を性癖とするようなことは、トラウマとなっている敗戦と在日米軍の監視の下、未だ国民の独立心と自尊さえオボロゲにしている。

宿命論は怠惰の心を隠すことだ。


             
          児玉源太郎           

                     
           救国の海将 秋山真之


ゼネラルは日本人の深層にある情緒と秘奥に存する情(こころ)の端を示して欲しい。国家のために青年の命を預かることはそのようなことだろう。

田母神さんも空将、ゼネラルでもある。

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筑前の豪傑 吉永親子の願い   2011/04/20 再

2016-04-07 12:07:13 | Weblog

ペルーに学校を寄贈 その式典  大統領の右 吉永正義氏


http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=1dbb0d7d2fd54955f50de6c862bd0ca3

参照「ブラジル番長 魂の叫び」 より


以前、「ブラジル番長魂の叫び」と題してサンパウロ通信福岡支局長の吉永拓哉君を書いた。
暴走族から少年院、手も付けられない悪戯者が突然覚醒した。それは父親の一言だった。導かれた場所は南米ブラジル、そしてペルーだった。そこには多くの日本人が威厳をもって生活していた。彼はその勤勉で寡黙で礼儀正しい日本人をみて打ち震えるほど感激した。彼には感激する心の根があった

それは父の直感を行動に転化する俊英さと叡智と、義侠に感応する人情だった。
それは筑前玄洋社という結社を主宰した頭山満氏のように、人格と何ら関係のない附属性価値である地位、名誉、財力、学校歴の評価で人間査定をする欺瞞や、アカデミックな論証のみで、「知って教えず、学んで行なわず」のような浮俗の人間の倣いを忌避し、義侠や善行に独歩する気概が養われ、肉体に浸透した風義でもあった

これは日本人の古き姿を懐かしむものではない。日本を祖にもつ人々が海外に飛躍し困窮の中で培った信頼が次代に繋がれ現地の各界で活躍している。それは南米のみでなく台湾でも良縁を育んだ日本人がいた。その人々の人情の発露は震災義援として日本人に感動を与えてくれた。筑前の無名かつ有力な士として地球の一隅を照らす気概は、ときに困難な環境におかれている人々の光明として輝き、語り伝えられている。

改めて吉永正義氏をご紹介する





       ブラジルの入植者         


                    PORNET 2000/8 合縁奇縁より

 三年前のペルー日本大使公邸占拠事件で、日本人全員無事救出のためにフジモリ大統領が尽力したことは記憶に新しい。その際、ペルー人兵士二人が命を落とした。「犠牲者の家族に対し日本政府は勲章と『カネ』を与えただけ。ぞれを受けた家族は『カネの問題ではない、犠牲者が愛した日本にI度行ってみたかった』と話していましたよ」と語るは、吉永正義さん。吉永さんは武力突入時前後から現地に赴き、その成り行きを一部始終見守っていた。その後、犠牲者の家族の心情を察して、日本人として現地のリマで追悼集会を開いたのも吉永さんだった。

 日本人移住者が初めて南米の地に降り立って昨年で百年。「緑の地獄」と呼ばれたアマゾン流域の密林と格闘を続けた開拓の歴史は、いまや日本人にとって遠い過去になっている。日本人移住者の苦労を知った吉永さんは、いつしか彼らと日本とのパイプ役になろうと決意、それが人生のテーマとなフていた。以来、日本と南米ブラジルやペルーとの交流を務めて40年が経つ。その問、16回にも及ぶ南米訪問を通じて数多くのボラーンティア活動に従事、ペールーの政府高官とも親一交が深く、五年前の大統領選ではフジモリ大統領の応援にもかけつけたほどだ。





                 

                 有力な大統領候補となっているフジモリ・ケイコさん
                       撮影 吉永拓哉



 南米への熱い思いは、小倉高校在学中にさかのぼる。地元出身の田原春次代議士(当時の講演を聞き、アマゾンの大地に挑む日本人青年の話に圧倒されたのがきっかけだった。その後、拓殖大学に進学、三年生の時にはブラジル、アマゾンに渡り、八ヵ月間の実習調査で日本人移住者と共に汗を流した経験も持つ。

 卒業後、田原代議士の秘書をしながら再びアマソンに渡る準備をしていた矢先、二十四歳の時に、低迷していた家業の�ワールドコーヒー商会(北九州市小倉北区)を再建するため会社引き継ぐ。コーヒー製造、販売のほか、FCのワールドコーヒー専門店グループを五十一店舗展開するまで拡大させた。五十三歳の時、南米との親善交流活動に全力投入する目的で社長を退き、相談役に就任。以後、福岡南米倶楽部を設立し、本格的な活動を始める。

ペルーでの小学校建設、アマゾンの森林保護の運動、現地での日本人歌手コンサート開催など、その実績は数えきれない。これらの活動の根底にあるのは「心の交流」だ。「私には資金がなかった分、熱意と正義感でやってきた」と吉永さんは力強く語る。今年、長男の拓哉さんがエクアドルヘの留学から帰国したのをきっかけに、�吉永商事南米交流事業部を四月に設立、民間人として南米の貿易、観光、物産販売、文化交流を手がけている。






ブラジル、日本、モザンビーク農業支援について麻生太郎議員に面会
 左から筆者 横田氏 吉永正義氏 拓哉氏





 一方、日本政府や企業の南米への資金供与、技術協力は他国と比べて格段に少ない。
ペルーでは経済立て直し策として、国営企業九十七社を民営化したが、これに協力した日本企業は一社だけだったという事実もある。その後、民営化に協力したスペインを中心としたヨーロッパ諸国の企業が現地で好調な業績を上げた途端「日本企業が何とか参加できないかとペルー駐日大使にかけ込んだことも聞きました。おいしい所だけ持っていこうなんて」と吉永さんは嘆く。「九州・西中国の九県で、海外に拠点を待つ企業は六百八十九社あるが、そのうち中南米へ進出しているのはたったの五社だけ。環境、鉱物資源ともに豊かな国で、しかも日本人が苦労して開拓してきた土地なのだから、がっちりつながれば、将来大きな成果が期待できるのに」と吉永さんは訴える。

 このような現状から、吉永さんは長男の拓哉さんと共にブラジル、アマゾン、ペルー、エクアドルなど南米各地への現地視察ツアーも計画中だ。「まずは現地に行くことから」と、とにかく一度日本人の活動状況に肌で触れてもらう機会を提供したいという。現地企業で働いた経験のある拓哉さんも「バナナ園から港までの40Kmの道路を一生かけても舗装することが夢」と、今後も親子二代にわたる南米への熱い交流に終わりはない。



吉永正義
北九州市出身、1940年2月3日生まれの71歳、拓殖大学卒。

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